最終更新日 2025-10-08

佐倉城築城(1610)

慶長15年、家康の命で土井利勝が築いた佐倉城。江戸東方を守る要衝で、石垣のない土づくりの城は後に「老中の城」と呼ばれ幕政の拠点となった。
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慶長十五年、佐倉城築城 ― 徳川「天下普請」の東方拠点構築、その全貌

序章:天下泰平への黎明 ― 慶長十五年(1610年)の日本

慶長十五年(1610年)、徳川家康の命により、下総国佐倉における新たな城の普請が開始された。この「佐倉城築城」という事変は、単なる一地方における城郭建設に留まるものではない。それは、関ヶ原の戦いから十年を経て、徳川による天下支配が盤石となりつつあった一方で、なお大坂城に豊臣秀頼という巨大な存在を抱え、完全な泰平には至っていなかった時代の、政治的・軍事的緊張を映し出す鏡であった。この「束の間の平穏」と、来るべき「最後の戦い」への備えが交錯する時代背景こそ、佐倉城という一大事業の本質を理解するための鍵となる。

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て江戸に幕府を開いた徳川家康は、全国支配体制の構築を着実に進めていた 1 。しかし、その権力基盤は未だ絶対的なものとは言えなかった。西国には豊臣恩顧の大名が依然として勢力を保ち、その中心には、摂津・河内・和泉の三国を領する豊臣秀頼が大坂城に健在であった。徳川幕府にとって、豊臣家の存在は体制を揺るがしかねない最大の懸案事項であり、天下は未だ「二人の主君」を戴く不安定な状態にあった。

このような状況下で、幕府の首都たる江戸の防衛体制を盤石にすることは、政権の最重要課題であった。佐倉城の築城は、まさしくこの国家的要請に応えるものであり、単なる地方の拠点整備ではなく、首都江戸の恒久的な安全保障体制を確立するための、壮大な構想の一部であった 2 。この事業の開始は、徳川家康による「武」の時代の終焉と「治」の時代の到来を象徴する天下普請であると同時に、来るべき豊臣家との最終決戦、すなわち大坂の陣を見据えた、極めて高度な軍事戦略の一環でもあった。それは、平和を構築し維持するための武力(Pax Tokugawa)という、徳川政権が内包する二面性を見事に体現するものであった。関ヶ原(1600年)と大坂の陣(1614-15年)のちょうど中間に位置するこの時期、将軍職を秀忠に譲り駿府に隠居した大御所・家康は、実質的な最高権力者として、平時には「治世の象徴」として機能し、有事には江戸を防衛し豊臣家を孤立させるための「戦略的布石」として、佐倉の地に天下の名城を築くことを決断したのである。

第一章:なぜ此処でなければならなかったのか ― 戦略拠点「佐倉」の選択

徳川家康が佐倉の地に新たな城を築かせた決断は、偶然の産物ではない。そこには、過去の歴史的遺産への評価と、新たな時代が求める拠点像との乖離、そして江戸を中心とする壮大な地政戦略、さらにはその地が持つ天与の地形的優位性に対する深い洞察があった。

第一節:過去の遺産と限界 ― 中世城郭「本佐倉城」からの転換

徳川の時代が到来する以前、この地域の政治的・軍事的中心は、下総千葉氏が代々の本拠地とした「本佐倉城」であった 5 。文明年間(1469-86年)に千葉輔胤によって築かれたこの城は、戦国乱世を通じて幾度かの改修を受け、半島状の台地に複数の郭が連なる、典型的な中世の山城として発展した 6 。その縄張りは、敵の侵攻をいかに食い止めるかという防御機能に特化しており、戦乱の時代の要塞としては優れたものであった 9

天正十八年(1590年)の小田原征伐により、主筋であった後北条氏と共に千葉氏が没落すると、関東に入部した徳川家康の家臣団がこの地を支配し、一時的に本佐倉城がその拠点として使用された 11 。しかし、本佐倉城はあくまで旧時代の遺物であった。徳川幕府が目指す安定した領国支配のためには、単なる戦闘拠点としての城では不十分であった。藩主の政庁であり館でもある広壮な御殿、数千に及ぶ家臣団を集住させる武家屋敷、そして彼らの生活を支え領国の経済を潤す商工業者のための広大な城下町を一体的に整備する必要があった。これこそが、新たな時代に求められる「近世城郭」の姿であった。本佐倉城の複雑で起伏の多い地形は、このような大規模な都市開発には全く不向きであり、その限界は明らかであった 12

本佐倉城から新・佐倉城への移行は、城郭の役割が「戦闘拠点」から「政治・経済・軍事の複合拠点」へと質的に変化したことを示す、象徴的な出来事である。それは、戦国時代の「点の支配」から、江戸時代の「面の支配」へと統治のパラダイムが転換したことを、物理的な構造物として体現するものであった。旧時代の城を捨て、新たな理念に基づきゼロから都市を設計するという家康の決断は、旧領主である千葉氏の権威を払拭し、徳川による新たな支配体制をこの地に明確に刻み込むという、強力な政治的メッセージでもあったのである。

第二節:江戸の東門を固める ― 幕府の地政戦略

新たな城、すなわち近世佐倉城に与えられた最大の使命は、「江戸東方の抑え」という、極めて重要な戦略的役割であった 2 。当時の政治・軍事地図を俯瞰すれば、佐倉という地点が、江戸を中心とする同心円的な防衛構想の中で、いかに枢要な位置を占めていたかが理解できる。

佐倉は、江戸から房総半島を経て、さらに利根川水系を通じて東北方面へと至る街道の結節点に位置していた 4 。幕府にとって潜在的な脅威は、西の豊臣家だけではなかった。奥州には、「独眼竜」の異名を持つ伊達政宗をはじめ、関ヶ原では東軍に与したものの、その動向から目が離せない有力な外様大名が割拠していた 1 。万が一、豊臣家がこれらの東北諸大名と連携するような事態となれば、江戸は西と北東から挟撃される危険性があった。佐倉城は、この最悪のシナリオを防ぐため、東北諸大名に対する強力な牽制・監視拠点として構想されたのである 4 。利根川水系の南岸、水陸交通の要衝を扼するこの地に巨大な城を築くことで、東北方面からの陸路と水路を同時に監視し、有事にはこれを遮断することが可能となる。

さらに、佐倉城には、万が一江戸城が攻撃された際の、将軍の避難場所としての機能も想定されていた 4 。その堅固さと江戸からの距離が、この役割に最適であると判断されたのである。この極めて高い戦略的重要性から、佐倉藩主には常に徳川家譜代の有力大名が配置されることとなった。そして、その歴代藩主の中から、幕政の中枢を担う老中が全国の藩で最多となる9名も輩出された事実は、この城がいかに幕府にとって特別な存在であったかを物語っている 13 。後に「老中の城」と称される佐倉城の威光は、築城の時点ですでに運命づけられていたと言えよう。それは、徳川幕府の「対豊臣戦略」と「対外様大名戦略」が交差する地政学的な結節点であり、江戸という心臓を守るための、東方の強力な「盾」であったのだ。

第三節:鹿島台地の天与 ― 自然の要害と「土づくり」の選択

戦略的な位置づけと共に、築城地として選ばれた「鹿島台地」そのものが持つ地形的優位性は、家康をして「天下の名城ができる」と称賛せしめるほどのものであった 12 。鹿島台は、標高約30メートルの舌状台地であり、その西端に佐倉城は築かれた 16 。この台地は、北に広大な印旛沼、西に鹿島川、南に高崎川が流れ、三方が比高20メートル以上の険しい崖と、沼沢地に続く低湿地帯に囲まれた、まさに天然の要害であった 12

この地形により、敵が大規模な軍勢で攻め寄せることができるのは、実質的に東側に続く尾根筋のみに限られた 2 。防御をこの一点に集中させることが可能であり、築城において極めて効率的な縄張りを実現できた。そして、この強固な自然地形こそが、佐倉城のもう一つの大きな特徴である、石垣を一切用いない「土づくりの城」という選択を可能にした。

西国の大名が権威の象徴として競って築いた高石垣とは対照的に、佐倉城は関東ローム層の粘土質の土を固めて築いた雄大な土塁と、深く鋭く掘り込まれた空堀によって、その防御を固めている 16 。これは、石材に乏しい関東平野の地質的条件に適応した結果であるが、決して資材不足による妥協の産物ではない。むしろ、地域の特性を最大限に活かした、合理的かつ高度な技術的判断の結晶であった。深く掘られたV字型の空堀は敵兵の行動を著しく阻害し、高くそびえる土塁の上からの攻撃を容易にする。この「土づくり」の技術は、関東武士団が中世から培ってきた伝統的な築城術の集大成であり、それに「角馬出し」のような近世的な防御思想を融合させた、当時の最先端技術の表れであった。佐倉城の設計者は、石垣という「加える」防御ではなく、台地を削り、堀を穿つという「引く」防御を主体とすることで、資源の制約を創造性で乗り越えたのである。

第二章:選ばれし男、土井利勝 ― 築城という大任

この国家的とも言える一大事業の総責任者として白羽の矢が立ったのは、徳川家康・秀忠・家光の三代にわたって幕政の中枢で重きをなした譜代の臣、土井利勝であった 21 。彼がこの大任に抜擢された背景には、その出自と経歴、そして徳川将軍家との間に築かれた比類なき信頼関係があった。

土井利勝は天正元年(1573年)、三河国の武士の子として生まれた 22 。徳川家の親戚筋にあたる土井利昌の養子となった彼は、家康の三男・秀忠が誕生すると、わずか7歳でその傅役(もりやく)に取り立てられた 21 。幼少期より秀忠の側近くに仕え、その成長を支えた利勝は、秀忠にとって単なる家臣以上の、兄弟にも等しい存在であったと推察される。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは秀忠に従軍し、信濃上田城攻めで本戦に遅参するという苦杯も共に嘗めている 21

秀忠が二代将軍に就任すると、利勝はその最側近として急速に頭角を現す。そして慶長十五年(1610年)、下総小見川から佐倉へ3万2千石で加増移封されると同時に、家康の命により秀忠付きの年寄(後の老中)に正式に任命された 21 。この人事は、大御所として隠居した家康と、江戸で政務を執る将軍秀忠との間の意思疎通を円滑にするパイプ役として、利勝が両者から絶大な信頼を得ていたことの証左である。

土井利勝への佐倉城築城の命令は、単なる一譜代大名への築城許可とは全く意味合いが異なっていた。それは、次代の幕政を担うべき中心人物として利勝を公に指名し、彼に幕府の最重要戦略拠点の建設と経営を委ねることで、その政治的手腕を試すとともに、彼の権威を内外に示そうとする家康・秀忠の高度な人事戦略であった。当時38歳、まさに脂が乗り切っていた利勝にとって、この大事業を成功させることは、自身の政治的地位を不動のものとする絶好の機会であった。佐倉への入封と築城命令は、彼のキャリアにおける決定的な飛躍の舞台であり、その後の老中としての地位上昇と佐倉城の完成は、表裏一体の出来事であったと言える。壮麗な佐倉城は、いわば「老中・土井利勝」の誕生を天下に告げる、壮大なモニュメントでもあったのだ。

第三章:築城のリアルタイム・クロニクル(慶長十六年~元和三年)

慶長十六年(1611年)の鍬入れから元和三年(1617年)の完成まで、約七年の歳月を要した佐倉城の築城は、平坦な道のりではなかった。その過程は、大坂の陣という日本史上最後の大規模な内乱を挟んでおり、当時の緊迫した国内情勢と密接に連動しながら進められた。

慶長十五年(1610年):序章 ― 入封と内命

この年、土井利勝は下総佐倉3万2千石の領主として封じられた 23。当初は旧来の拠点であった本佐倉城に入ったとされるが 11、ほどなくして徳川家康より、鹿島台地に新たな城を築くべしとの内命を受ける 24。利勝は老中に任じられ、江戸と佐倉を往来しながら、壮大なプロジェクトの準備に着手した。

慶長十六年(1611年)~ 慶長十八年(1613年):第一フェーズ ― 防御の根幹を築く

慶長十六年(1611年)の正月、鹿島台地において本格的な普請(土木工事)が開始された 22。この初期段階で最も重要視されたのは、城の防御力の根幹をなす部分の構築であった。まず、城全体の設計思想である「縄張り」が確定され、それに従って大規模な土木工事が進められた。台地の造成、本丸・二の丸・三の丸といった主要な曲輪を区画する、深く鋭い空堀の掘削、そして掘り出された土を突き固めて築く巨大な土塁の造成が、工事の中心であったと推測される 16。この時期、国内では豊臣家との緊張が徐々に高まりつつあり、有事に即応できる防御基盤を早急に確立することが最優先されたのである。利勝自身も慶長十七年(1612年)には4万5千石に加増されており、幕府の期待の大きさが窺える 21。

慶長十九年(1614年)~ 元和元年(1615年):転換点 ― 大坂の陣と元和偃武

慶長十九年(1614年)に大坂冬の陣が勃発し、翌元和元年(1615年)の夏の陣で豊臣家は滅亡した。この戦乱は、全国の大名を動員するものであり、佐倉城の築城工事も一時的な停滞や計画変更を余儀なくされた可能性は高い。しかし、豊臣家の滅亡は、日本の内乱状態に完全な終止符を打つ画期的な出来事であった。世に言う「元和偃武」、すなわち武力による統治の時代の終わりと、法と秩序による泰平の時代の始まりである 1。この歴史的な転換点が、皮肉にも佐倉城の完成を加速させることになる。

元和元年(1615年)~ 元和三年(1617年):第二フェーズ ― 泰平の象徴を仕上げる

大坂の陣終結直後、幕府は「一国一城令」を発布した 1。これにより、全国各地の大名の支城が破却され、軍事力が幕府に集中される体制が確立された。この政策の副産物として、城の建設や修繕に携わっていた多くの熟練した職人(大工、左官、鳶など)や労働力が、新たな仕事の場を求めることになった。幕府と土井利勝は、彼らの高い技術力と労働力を、佐倉城という公的な大事業に振り向けることが可能となったのである。

この時期、佐倉城の工事は、土木中心の「普請」から、建築中心の「作事」へと本格的に移行した。天守の役割を果たしたとされる「御三階櫓」、銅瓦で葺かれたと伝わる「銅櫓」、各所に設けられた「角櫓」、そして大手門をはじめとする堅固な城門群、さらには藩主の居館であり政庁ともなる壮麗な御殿などが、急ピッチで建設されていった 17。特に御三階櫓は、江戸城西の丸にあったものを移築したとの伝承もあり、幕府の威光を示す象徴的な建物であった 17。

そして元和三年(1617年)頃、約七年の歳月を経て、近世城郭としての佐倉城はついに完成した 22 。藩庁も本佐倉城から正式に移され、佐倉の地は新たな時代を迎えたのである。その築城過程は、まさに戦国の終焉と江戸泰平の到来という、時代の大きなうねりと共にあった。

年次(和暦/西暦)

佐倉城築城の主な動向

国内の主要な政治・軍事情勢

慶長十五年 (1610)

土井利勝、佐倉3万2千石に入封。家康より築城の内命を受ける。

利勝、秀忠付きの年寄(老中)に就任。

慶長十六年 (1611)

正月より鹿島台地にて普請(土木工事)を開始。縄張り、堀・土塁の造成が中心。

徳川家康と豊臣秀頼が二条城で会見(二条城会見)。

慶長十七年 (1612)

主要曲輪の土木工事が継続。利勝、4万5千石に加増。

幕府、キリシタン禁教令を全国に発布。

慶長十八年 (1613)

防御施設の基礎工事が進む。

大久保長安事件。幕府による譜代大名への統制強化が進む。

慶長十九年 (1614)

大坂冬の陣が勃発。工事に影響があった可能性。

方広寺鐘銘事件をきっかけに、徳川家が豊臣家に宣戦布告。

元和元年 (1615)

大坂夏の陣で豊臣家滅亡。「元和偃武」の時代へ。

幕府、「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」を制定。「一国一城令」発布。

元和二年 (1616)

作事(建築工事)が本格化。御三階櫓、御殿等の建設が進む。

徳川家康、駿府で死去。

元和三年 (1617)

近世城郭として佐倉城がほぼ完成。藩庁が本佐倉城から移転。

二代将軍・徳川秀忠による治世が本格化。

第四章:城は町を創り、町は城を支える ― 城下町の誕生

近世城郭は、城単体で完結する要塞ではない。それは、領国支配の中核をなす政治・経済・軍事の複合拠点であり、その機能は城下町と一体となって初めて十全に発揮される。佐倉城の築城と並行して進められた城下町の形成は、徳川時代の合理的かつ戦略的な都市計画思想を見事に体現するものであった。

土井利勝は、城郭の東側に馬の背状に続く広大な舌状台地を、新たな都市空間として計画的にデザインした 12 。その配置は、身分制度と防御思想に基づき、極めて機能的に構成されていた。城に最も近い一等地には、藩の重臣など上級武士の広大な屋敷が配置された。これらの武家屋敷群は、単なる居住区ではなく、土塁や生け垣、あるいは空堀によって防御が固められ、町全体が幾重にも連なる要塞としての機能を持っていた 2

武家屋敷地の外側には、町人地が形成された。この町人地の中心を貫くように、江戸と成田を結ぶ重要な幹線道路であった成田街道が引き込まれた 4 。これは、領内の物流と人の流れを城下に集中させ、商業を活性化させることで藩の財政基盤を強化しようとする、明確な経済政策であった。しかし、この街道は直線ではなく、意図的に鉤の手(クランク状)に屈曲させられていた。これは、平時には経済の動脈として機能させつつ、有事の際には敵軍の突進を防ぎ、沿道の建物から迎撃しやすくするための、軍事的な配慮であった。

さらに、城下町の外縁部や街道の要所には、多くの寺社が戦略的に配置された 29 。これらの寺社は、広大な敷地や堅牢な塀を持ち、有事の際には兵の駐屯地や防御拠点として転用することが想定されていた。

このようにして、佐倉の城下町は、軍事的な防御思想と経済的な発展思想が高度に融合した、計画都市として誕生した。防御(軍事)、統治(政治)、繁栄(経済)という三つの目的を、巧みな空間設計によって同時に達成しようとするこの都市モデルは、戦国の記憶を色濃く残しつつも、平和な時代の到来を前提とした、移行期ならではの傑作と言える。この新たな城と町の完成により、この地域の中心は旧来の本佐倉から完全に移り、名実ともに「佐倉藩」の首都が誕生したのである 12

五章:「老中の城」の威光 ― 江戸時代における役割と遺産

元和三年にその偉容を現した佐倉城は、以後、二百数十年にわたる江戸時代を通じて、幕府の東方を守る要衝として、また幕政を担う重鎮が治める藩の拠点として、極めて重要な役割を果たし続けた。その歴史は、この城が単なる一大名の居城ではなく、徳川幕府という巨大な統治機構における枢要な「ポスト」であったことを物語っている。

土井利勝が寛永十年(1633年)に古河へ転封となった後も、佐倉藩主の座には、堀田氏、石川氏、松平氏、大久保氏など、幕府の要職に就く有力な譜代大名が次々と就いた 12 。特に江戸時代前期においては、城主の交代が頻繁に行われたが、その多くは老中への就任や退任と連動していた。これは、佐倉という土地そのものが、幕府の最高幹部が江戸近郊に持つべき戦略的拠点として、極めて高度な政治的人事によって運用されていたことを示唆している。歴代城主のうち、老中に就任した者は実に9名にのぼり、これは全国の藩の中で最多の記録である 13 。この比類なき事実こそが、佐倉城をして「老中の城」と呼ばしめる所以である。佐倉藩主の地位は、個人の世襲領地という側面以上に、幕府の最高幹部に与えられる「役職」としての性格が強かったのである。

時代が下り、幕末の動乱期には、佐倉藩主・堀田正睦が老中首座として日米修好通商条約の締結交渉にあたるなど、佐倉は日本の歴史が大きく動く舞台ともなった 4 。しかし、徳川幕府の終焉と共に、佐倉城もその役割を終える。明治維新後、廃城令により存城処分とされたものの、城内の壮麗な建物群は順次取り壊され、その跡地には首都東京の東方を防衛するという新たな使命を帯びた帝国陸軍の歩兵連隊が置かれた 18 。奇しくも、江戸時代を通じて担ってきた「東方の守り」という役割は、形を変えて引き継がれたのである。

現在、往時の建造物は一つも残っていない。しかし、城跡は「佐倉城址公園」として広大な緑の中に静かに佇み、かつての威容を今に伝えている 12 。深く鋭い空堀、雄大な土塁、そして全国屈指の規模を誇る角馬出しの遺構は、良好な状態で保存されており、石垣がなくとも「天下の名城」と称されたその縄張りの巧みさを体感することができる 2 。そして、かつて椎木曲輪であった場所には国立歴史民俗博物館が建てられ、日本の歴史と文化を研究・展示する一大拠点となっている 18

結語:土に刻まれた徳川の意志

慶長十五年(1610年)に始まった佐倉城築城という一大事業は、単に一つの城を築き、一つの町を創ったに留まらない。それは、関ヶ原の戦いを経てもなお燻り続けていた戦国の残り火を完全に鎮め、二百六十年にわたる徳川泰平の礎を築く上で、決定的に重要な役割を果たした国家的プロジェクトであった。

江戸の東門を固めるという明確な戦略目的、鹿島台地という天与の地形を読み解く深い洞察力、そして土井利勝という次代を担う逸材の抜擢。その全てに、天下人・徳川家康の、そして彼が創り上げた江戸幕府の、未来を見据えた壮大な構想が貫かれている。大坂の陣という最後の内乱を乗り越え、泰平の世の到来と共に完成したこの城は、まさに新時代の幕開けを告げる象徴であった。

今日、佐倉城址公園を歩くとき、我々はそこに華麗な天守や櫓の姿を見ることはない。しかし、大地に深く刻まれた空堀の鋭さ、幾重にも連なる土塁の雄大さの中にこそ、この城の本質はある。それは、石垣という目に見える威容に頼らずとも、緻密な設計と卓越した土木技術によって、鉄壁の守りを実現し得た関東武士の誇りである。そして何よりも、徳川による恒久平和の実現への、揺るぎない意志そのものが、この大地には刻み込まれているのである。佐倉城は、まさに「土に刻まれた徳川の意志」として、今なお我々に静かに語りかけている。

引用文献

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  25. 土井利勝が築いた名城 佐倉城 | きままな旅人 https://blog.eotona.com/%E5%9C%9F%E4%BA%95%E5%88%A9%E5%8B%9D%E3%81%8C%E7%AF%89%E3%81%84%E3%81%9F%E5%90%8D%E5%9F%8E%E3%80%80%E4%BD%90%E5%80%89%E5%9F%8E/
  26. 佐倉城 - 千葉県 - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/famous-castles100/chiba/sakura-jo/
  27. 千葉県の城下町・佐倉/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/castle-town/sakura/
  28. 佐倉市の歴史ブログ - 佐倉市歴史探訪『歴史噺』シリーズの公式サイトです。 - 佐倉歴史同好会の皆さま、ありがとうございました。 https://sakura-rekishi.jimdofree.com/%E4%BD%90%E5%80%89%E5%B8%82%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0/
  29. 佐 倉 下総台地の丘陵地に展開する総州一の城下町 佐倉のまちあるき http://www2.koutaro.name/machi/sakura.htm
  30. 新町地区景観まちづくり計画 - 佐倉市 https://www.city.sakura.lg.jp/material/files/group/43/92205068.pdf
  31. 佐倉城 http://www.shibuyam.com/Oshiro/Zenkoku/sakura.html
  32. 城下町のなりたち/千葉県佐倉市公式ウェブサイト https://www.city.sakura.lg.jp/soshiki/sakuranomiryoku/7/3461.html
  33. 佐倉城跡の発見 - NPO法人まちづくり支援ネットワーク佐倉の公式サイト https://net-sakura.jimdofree.com/%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%A5%E3%81%8F%E3%82%8A/%E4%BD%90%E5%80%89%E5%9F%8E%E5%9D%80%E5%85%AC%E5%9C%92%E3%81%AE%E5%86%8D%E7%99%BA%E8%A6%8B/
  34. 佐倉城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E5%80%89%E5%9F%8E
  35. 国立歴史民俗博物館 | 公益社団法人 佐倉市観光協会 観光施設・イベント情報をご案内 https://www.sakurashi-kankou.or.jp/facility/rekihaku/