最終更新日 2025-09-26

佐和山城改修(1596)

文禄五年、石田三成は佐和山城を大改修。豊臣政権の危機に対応し、兵站拠点と秀吉の避難所として機能。その壮麗さは「三成に過ぎたる城」と評されたが、関ヶ原後に落城。彦根城の資材となり、記憶は抹消。
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佐和山城改修(1596年)—豊臣政権末期における国家戦略と石田三成の理想—

序章:黄昏の太閤、激動の時代—佐和山城改修が意味するもの

文禄五年(1596年)、豊臣秀吉の治世は栄華の頂点に達していた。しかし、その輝かしい治世の内実には、すでに軋みと翳りが見え始めていた。小田原北条氏を滅ぼし天下統一を成し遂げたのが1590年 1 、その後、太閤検地や刀狩令といった革新的な政策によって国内の支配体制は磐石になりつつあった 2 。だがその一方で、政権の威信を賭けた朝鮮出兵(文禄の役)は多大な犠牲を払いながらも頓挫し、それに続く明との困難な和平交渉が、豊臣政権に重くのしかかっていた 5 。栄光と不安が交錯するこの黄昏の時代に、政権の中枢を担う石田三成が、己が本拠・佐和山に築き上げようとしていた城は、単なる一大名の居城という範疇を遥かに超える、重層的な意味を内包していた。

この城の威容を伝えるものとして、当時の世評を反映した一つの俗謡がある。「治部少(じぶしょう)に過たるものか二つあり 島の左近と佐和山の城」 7 。治部少輔、すなわち石田三成には分不相応なほど立派なものが二つある、それは家臣の島左近と居城の佐和山城だ、というのである。この言葉は、単に家臣と城が優れていたという賛辞に留まらない。それは、三成の吏僚としての卓越した功績と、それに伴う絶大な権勢に対する、福島正則に代表される武断派大名たちの羨望、嫉妬、そして隠微な警戒心の裏返しでもあった 9 。本報告書は、この「過ぎたる城」と評された佐和山城が、なぜ、どのようにして築かれ、そしていかなる運命を辿ったのかを、激動の年であった1596年を時間軸の中心に据え、戦国時代という大きな視座から徹底的に解明するものである。

第一章:佐和山城主・石田三成の誕生—改修前夜の情勢

第一節:豊臣政権の頭脳—吏僚派筆頭としての石田三成

石田三成は、永禄三年(1560年)、近江国坂田郡石田村(現在の滋賀県長浜市)に生まれた 12 。彼の名を天下に知らしめたのは、戦場での武勇ではなく、その類稀なる行政手腕であった。羽柴秀吉に小姓として見出された後、三成は驚異的な速度で頭角を現す 12 。彼の真価が発揮されたのは、豊臣政権の基盤を固めるための国家的プロジェクトにおいてであった。全国の石高を統一基準で算出し、近世的な租税システムの基礎を築いた太閤検地 4 、兵農分離を徹底し社会構造を根底から変革した刀狩 4 、そして堺や博多といった商業都市の再整備 4 など、政権の根幹をなす重要政策のほとんどを、彼は実務責任者として取り仕切った。三成は、旧来の武将とは一線を画す、国家を設計し、効率的に運営する能力に長けた「テクノクラート」だったのである 9

秀吉の治世が晩期に差しかかると、その統治機構は五大老と五奉行という二つの合議体によって支えられることになる 14 。徳川家康を筆頭とする五大老が重要政務を合議する最高意思決定機関であったのに対し、三成が筆頭格を務めた五奉行は、政権の実務、すなわち行政・司法・財政を執行する最高責任者の集団であった 14 。この立場にあって、三成は秀吉の意向を絶対的なものとして、公正無私かつ厳格に政策を執行した。しかし、その合理性を追求する uncompromising な仕事ぶりは、しばしば情実や旧来の慣習を重んじる武断派の猛将たちとの間に深刻な軋轢を生む一因ともなった 9

第二節:天下の要衝・近江国

三成が本拠地として与えられた近江国は、日本の歴史において常に地政学的な最重要拠点の一つであった。東国と西国を結ぶ大動脈である東山道と中山道、そして北陸へ抜ける北国街道がこの地で交差し、まさに「日本の十字路」とも言うべき交通の要衝を形成していた 16 。織田信長が天下布武の拠点として安土に壮大な城を築き、豊臣秀吉もまた長浜をその飛躍の足がかりとしたように、天下を制する者にとって近江の安定的な支配は、政権の存亡を左右する絶対条件だったのである 16

さらに、近江は軍事的な価値に留まらず、比類なき経済的価値をも有していた。日本最大の湖である琵琶湖は、北陸からの物資を京・大坂へ運ぶための大動脈であり、その水運を掌握する者は莫大な富を得ることができた 16 。この地の利を生かして全国的に活動した近江商人の存在は、この地域の経済的な豊かさを象徴している 17 。したがって、近江国を領するということは、単に軍事的な要衝を抑えるだけでなく、豊臣政権の財政を支える巨大な経済力を手中に収めることをも意味していた。

第三節:三成入城以前の佐和山城

三成の居城となる佐和山城は、決して彼によって初めて築かれた城ではない。その歴史は古く、鎌倉時代初期に近江源氏の佐々木時綱が麓に館を構えたことに起源を持つと伝えられる 20 。室町時代から戦国時代にかけては、佐々木氏から分かれた六角氏と京極氏の対立の最前線となり、後には浅井氏の支配下に入るなど、近江の覇権を巡る攻防の舞台として、常に歴史の表舞台にあり続けた 22

本能寺の変の後、豊臣政権下では堀秀政、次いで堀尾吉晴といった秀吉配下の武将が城主を務めた 24 。しかし、織田信長の死によって、わずか10km南西に位置する壮麗な安土城が事実上廃城となると 25 、佐和山城の戦略的重要性は相対的に低下したと見られる。度重なる争奪戦と、それに続く時代の変化の中で、三成が入城した時点の佐和山城は、往時の堅固さを失い、ある程度荒廃した状態にあった可能性が高い 20 。それは、新たな時代の統治拠点として、大規模な改修を必要とする「素材」であった。

第四節:十九万石の国主へ

天正十八年(1590年)、小田原征伐が終わり、徳川家康が関東へ移封されると、それに伴う玉突き人事によって佐和山城主であった堀尾吉晴は遠江浜松城へ転封となった 7 。空城となった佐和山に、三成はまず天正十九年(1591年)4月、豊臣家の直轄領(蔵入地)を管理する代官として入った 24 。これは、彼に行政官としての手腕を振るわせるための第一歩であった。そして文禄四年(1595年)8月、三成は正式に近江国北部の四郡、実に十九万四千石の所領を与えられ、名実ともに佐和山城主となったのである 24 。代官から大名へというこの昇進は、秀吉が三成に寄せる絶大な信頼の証左に他ならなかった。

これらの背景を統合すると、佐和山城が石田三成の本拠地として選ばれたのは、単なる恩賞以上の、高度な政治的・戦略的意図に基づいていたことが明らかになる。三成は、戦働きではなく、卓越した行政・財政能力で豊臣政権を支える「頭脳」であった。そして近江国は、交通・経済の両面で国家の動脈ともいえる最重要地域であった。秀吉は、この心臓部ともいえる場所の統治を、最も信頼する腹心である三成に委ねたのである。つまり、佐和山城主という地位は、豊臣政権の最高執行責任者である三成に、国家の動脈を直接管理させるという秀吉の国家戦略の一環であった。三成にとって佐和山は、自身の能力を最大限に発揮し、理想の統治を実現するための、まさに理想的な舞台であったと言える。

第二章:激動の文禄五年(1596年)—内外の危機と大改修の胎動

石田三成が佐和山城の大規模な改修に着手した文禄五年(1596年)は、豊臣政権にとって内憂外患が一度に噴出した、まさに激動の一年であった。この年に起きた二つの重大事件—外交交渉の破綻と未曾有の大地震—は、佐和山城改修の性格を決定づける上で極めて重要な意味を持つ。

第一節:破綻する和平交渉—朝鮮再出兵の暗雲

1592年から始まった文禄の役(第一次朝鮮出兵)は、日本軍の初期の快進撃にもかかわらず、明軍の参戦と朝鮮の義兵の抵抗によって戦線が膠着し、多大な消耗を強いた末に休戦状態に入っていた 6 。その後、日本側の小西行長と明側の沈惟敬らを中心に和平交渉が進められていたが、その実態は、秀吉の掲げる過大な要求と、明の皇帝が想定する冊封体制の維持という、決して相容れない両者の思惑の狭間で、現場担当者が辻褄合わせのために双方を欺くという、極めて危ういものであった 1

その欺瞞が露呈したのが、1596年であった。この年、正式な講和使節として来日した明の使者がもたらした国書には、秀吉を「日本国王」として明の皇帝が任命(冊封)するという内容が記されていた 5 。これは、明を宗主国とする国際秩序に日本を組み込むことを意味し、明を征服しその皇帝となることを目指していた秀吉にとっては、到底受け入れがたい屈辱的な提案であった。この内容を知った秀吉は激怒し、和平交渉は完全に決裂。即座に朝鮮への再出兵(慶長の役)を決意するに至った 5

三成は、文禄の役において増田長盛、大谷吉継と共に総奉行として朝鮮半島に渡り、兵站の管理や現地での軍議を主導した経験を持つ 9 。彼は、和平交渉の困難な現実と、秀吉の強硬な意志との間で板挟みとなり、政権中枢で誰よりもこの緊迫した情勢を肌で感じていた人物であった。再度の全面戦争が不可避となった今、国家の総力を挙げた兵站体制の再構築が急務であることは、彼にとって火を見るより明らかであった。

第二節:天変地異—慶長伏見地震の衝撃

外交的危機が頂点に達したまさにその時、豊臣政権を内側から揺るがす未曾有の天災が発生する。文禄五年閏七月十三日(西暦1596年9月5日)の深夜、畿内一円をマグニチュード7.5クラスと推定される巨大な直下型地震が襲ったのである 29 。世に言う「慶長伏見地震」である。

この地震による被害は甚大であったが、特に壊滅的な打撃を受けたのが、秀吉の居城であり、政権の司令塔でもあった京都の伏見城であった。豪華絢爛を誇った天守は無残に倒壊し、城内だけで600人以上の死者が出るという惨事に見舞われた 29 。秀吉自身も、身の回りの女房衆の機転によってかろうじて命からがら城外へ脱出するという有様であったと伝えられる 30 。その他、京都では方広寺の大仏が損壊し 32 、堺の町でも多くの家屋が倒壊するなど、被害は広範囲に及んだ。政権の中枢である伏見城の物理的な崩壊と機能停止は、一時的な政治的空白を生み、諸大名や民衆に大きな動揺を与えた。秀吉は直ちに伏見城の再建に着手するが、その復旧には多大な労力と時間、そして財貨が必要であった 34

第三節:危機下における決断—大改修の戦略的意図

この対外的危機と国内的危機が同時に発生した1596年という年に、石田三成が佐和山城の大改修に着手し、同時に領内に善政の証である掟書を発布したことが、複数の史料で確認されている 24 。このタイミングは決して偶然ではない。近年の彦根市における発掘調査では、城下町の北端で外堀の一部と考えられる大規模な溝が確認され、そこから16世紀末から17世紀初頭にかけての遺物が出土している。この発見は、文献史料に見える文禄五年の「佐和山惣構御普請」の存在を考古学的に裏付けるものであり、この年に大規模な城郭・城下町整備が開始されたことを示している 35

外交・軍事の動向(朝鮮半島・明)

国内の動向(天変地異・政情)

佐和山城改修への推察的影響

正月~5月

明との和平交渉、最終段階へ。明の使節団が大坂に到着。

豊臣秀頼、元服。政権の次代への継承が意識される。

(改修計画の具体化段階)来るべき事態に備え、設計が詰められていた可能性。

7月

秀吉、大坂城で明の使節と会見。国書の内容に激怒し、交渉は完全に決裂。

閏7月13日、慶長伏見地震発生。伏見城天守倒壊、政権中枢が物理的に壊滅。

【決定的契機】 再出兵が不可避となり、兵站拠点としての機能強化が急務に。同時に、伏見城の壊滅により、代替拠点・避難所としての価値が急上昇。

8月

秀吉、諸大名に朝鮮再出兵の準備を厳命(慶長の役へ)。

秀吉、指月から木幡山へ場所を移し、伏見城の再建を開始。

**「佐和山惣構御普請」本格着工。**国家的危機に対応するための緊急プロジェクトとして、大規模な人員と資源が投入されたと推測される。

9月以降

再出兵に向けた兵員・物資の動員が西国大名を中心に本格化。

伏見城再建と並行し、政権機能の回復が図られる。

城郭本体だけでなく、兵站・輸送路となる城下町や街道、琵琶湖の港へ繋がる百間橋などの整備が急ピッチで進められる。

この時系列が示すように、佐和山城の大改修は、単なる一国一城の主としての領国経営という次元を遥かに超えた、国家レベルの戦略的事業であった。その目的は、二つあったと考えられる。第一に、目前に迫った第二次朝鮮出兵(慶長の役)における、西国大名への睨みを利かせ、膨大な兵員と物資を管理・輸送するための後方兵站基地としての機能強化である。近江は西国への経由地であり、佐和山はその中核拠点として理想的な位置にあった。

第二に、慶長伏見地震によって露呈した首都圏の脆弱性を補うための、副次的政治・軍事拠点、すなわち戦略的バックアップ機能の構築である。政権中枢である伏見城が天災一つで麻痺する現実を目の当たりにした三成は、万一の際に主君である秀吉や、まだ幼い世継ぎの秀頼を迎え入れるための、堅固な避難所の必要性を痛感したはずである。この二正面の危機に同時に対応するため、三成は自身の本拠地を徹底的に強化するという、極めて合理的かつ戦略的な決断を下した。それは、彼の個人的な野心というよりも、豊臣政権の危機管理の最高責任者としての職責から発した行動であったと解釈するのが最も妥当であろう。

第三章:「三成に過ぎたる城」の実像—城郭と城下町のグランドデザイン

1596年から始まった大改修によって、佐和山城は中世の山城から、近世城郭へと劇的な変貌を遂げた。その設計思想には、石田三成の合理主義と統治者としての理想が色濃く反映されている。

第一節:縄張りに見る思想—防御と統治の融合

改修後の佐和山城は、山上の城郭部分と山麓の城下町部分が一体となった、近世的な「総構え」の構造を特徴としていた 21

標高233メートルの佐和山山頂には本丸が置かれ、そこから伸びる複数の尾根上には、西ノ丸、二ノ丸、三ノ丸、そして南の太鼓丸、法華丸といった曲輪(くるわ)が連なる、連郭式の縄張りが採用された 21 。これらの曲輪は、土塁や切岸(きりぎし)、竪堀(たてぼり)といった防御施設によって巧みに連結・分断されており、敵の侵攻を段階的に阻む、山城としての堅固な防御思想が見て取れる 24

一方で、この城の真骨頂は山麓部分の設計にあった。主要街道である東山道(後の中山道)に面して大手門を構え、その内側には侍屋敷や城下町が計画的に配置された 25 。そして、これらの居住区画全体が、内堀と外堀という二重の堀によって防御されていたのである 21 。これは、城主と家臣団、そして町人が一体となった城郭都市を形成する「総構え」と呼ばれる先進的な設計であり、軍事拠点であると同時に、領国統治の中心地としての機能を重視した、三成の都市計画思想の表れであった。さらに、城の西側、琵琶湖に面した搦手(からめて)口には、湖上の港(松原湊)へと繋がる「百間橋」が架けられ、水陸交通のネットワークを城に取り込む壮大な構想も実現されていた 21

近年の発掘調査は、こうした古絵図や伝承の正しさを次々と証明している。侍屋敷跡と目される区域の発掘 40 や、最も驚くべきことに、安土城に匹敵する幅約22メートルにも及ぶ大規模な内堀跡が確認されたことは、佐和山城が文献記録以上に堅牢な構えを持っていたことを示している 24 。また、城下町跡からは、溶けた金属を運ぶための「トリベ」や、送風装置である鞴(ふいご)の羽口といった遺物が出土しており、三成が自身の城下に金属加工などの工房を計画的に誘致し、産業振興を図っていた可能性を強く示唆している 24

第二節:天守と櫓—権威の象徴

佐和山城の威容を最も象徴していたのが、山頂の本丸に聳え立っていたとされる五層(一説には三層)の壮大な天守であった 20 。これが事実であれば、当時の日本においても最大級の城郭建築であり、五奉行筆頭という三成の政治的地位と、豊臣政権そのものの威光を天下に示す、まさに権威の象徴であった。

この幻の天守の姿を巡っては、一つの有力な説が存在する。関ヶ原の合戦後、佐和山城の部材の多くは、新たに築城された彦根城に転用されたと広く信じられているが 21 、特に国宝である彦根城天守は、佐和山城の天守そのものを移築したのではないか、という説である 42 。この説を補強する興味深い物証として、両城の天守に使われている部材の一部に、「チキリ」と呼ばれる共通の印(焼印や刻印)が見られることが指摘されている 43 。これは、解体した部材を再利用する際に付けられた符牒である可能性があり、佐和山から彦根へという壮大な部材の転用、ひいては天守移築の可能性を物語るものとして、今後の研究が待たれる。

第三節:城下の繁栄—三成の領国経営

三成は、城郭というハードウェアの建設に留まらず、領国経営というソフトウェアの面でも卓越した手腕を発揮した。その象徴が、城の大改修と時を同じくして、文禄五年(1596年)に領内に発布した「掟書(おきてがき)」である 24 。この掟書の内容は、当時の常識からすれば極めて画期的なものであった。例えば、「農民を夫役(戦時の兵員や築城の人足として徴用)として動員する際には、必ず対価を支払う」「農地の所有権は太閤検地の検地帳に記された農民のものであり、他者が奪うことを禁じる」「年貢率は、稲刈りの前に役人が田畑の実際の作柄を見てから決定する」といった条項が含まれていた 44 。これは、農民の権利を法的に保障し、安定した生活基盤を与えることで、領国全体の生産力を向上させようとする、極めて合理的で先進的な民政思想の表れであった。

こうした政策は、秀吉が進めた太閤検地や刀狩を背景とした「兵農分離」—武士と農民の身分と居住地を明確に分ける政策—を、自身の領国において徹底するものでもあった 3 。これにより、戦闘階級である武士は農村から切り離されて城下町に集住し、統治の中核を担うと同時に、城下町の経済を活性化させる有力な消費者層となった。三成の佐和山は、堅固な城郭と、善政によって支えられた繁栄する城下町が一体となった、理想的な近世都市として設計されていたのである。

第四節:壮麗さと質実剛健の同居

この壮麗な城には、しかし、一見すると矛盾した側面があったことが伝えられている。江戸時代後期の平戸藩主・松浦静山が著した随筆『甲子夜話』には、関ヶ原の合戦後に佐和山城を検分した人物の証言として、次のような記述が残されている。「城の外観は壮麗を極めているが、いざ城内に入ってみると、城主の居間などもほとんどが板張りで、壁は土を塗り付けたままの荒壁であった。庭の植木もありきたりで、手水鉢も粗末な石であり、その質素な様子にひどく意外な感じがした」というのである 25

この「壮麗な外観」と「質素な内装」という対比は、何を意味するのだろうか。これは、石田三成という人物の価値観と、彼がこの城に与えた役割を理解する上で、極めて重要な示唆を与えてくれる。三成自身は、私財を蓄えることには全く無頓着で、清廉潔白な人物であったと伝えられている 7 。彼の関心は、あくまで豊臣家の安泰と、そのための効率的な統治にあった。この公私を明確に分ける価値観が、城の造りにも反映されたと考えられる。

すなわち、天守や石垣、堀といった城の外観は、領民や他大名に対する豊臣政権の「権威の象徴」であり、敵対勢力に対する「公的な軍事施設」としての機能を持つ。これらは「公」の領域であり、政権の威光を示すために、当代最高の技術と最大の投資が惜しみなく注がれた。一方で、城主の居住空間である居間などは、三成にとって「私」の領域に過ぎなかった。彼は自身の生活の快適さには関心がなく、実用本位で十分と考えていた。むしろ、華美な内装に金をかけることは、豊臣家の財産を私的に流用することだと考え、その潔癖な倫理観が許さなかった可能性すらある。この一見した矛盾は、三成の徹底した合理主義と、滅私奉公の精神を体現していると言えよう。佐和山城は、彼の私的な城ではなく、あくまで豊臣政権のための「公器」として設計・建築されたのである。

第四章:佐和山城の完成、そして落日へ—栄華が遺したもの

第一節:新たな権力の拠点

大改修によって近世城郭として生まれ変わった佐和山城は、石田三成の権力基盤を揺るぎないものにした。慶長三年(1598年)に豊臣秀吉がこの世を去ると、政権内部では五大老筆頭の徳川家康が急速にその影響力を拡大させ始める。これに対し、豊臣家の将来を憂う三成は、反家康派の旗頭として、家康との対決姿勢を鮮明にしていく 50 。この政治的対立の中で、堅固な佐和山城は三成にとって強力な軍事基盤であると同時に、宇喜多秀家や毛利輝元といった西軍に与する諸将が結集する上での、精神的な支柱となった。

この城の価値をさらに高めていたのが、猛将・島左近の存在であった。「三成に過ぎたるもの」と城と並び称された左近は、三成が自身の知行の半分近くを与えるという破格の待遇で召し抱えた、当代随一の戦術家であった 7 。左近の卓越した軍事的才能と、佐和山城の物理的な堅固さが一体となって、三成の権力基盤を内外に示威していたのである。

第二節:落日の佐和山城

慶長五年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いで、三成率いる西軍は小早川秀秋らの裏切りによって無惨な敗北を喫した。三成は戦場から辛うじて離脱し、再起を図るべく伊吹山方面へと逃れた 27

主を失った佐和山城の運命は、あまりにも早かった。関ヶ原での勝利を確実にした徳川家康は、その日のうちに軍勢を佐和山城へと差し向けた 52 。城を守るのは、三成の父・石田正継と兄・正澄が率いる、わずか2800余の兵。これに対し、東軍の攻撃軍は、関ヶ原で寝返った小早川秀秋、脇坂安治らの部隊を中心に、1万5000を超える大軍であった 27 。彼らは、家康への忠誠心を示すため、先を競って佐和山城へと殺到した。

9月17日、城を完全に包囲した東軍は総攻撃を開始した。城兵は奮戦したものの、衆寡敵せず、翌18日には降伏勧告が受け入れられる。城兵の助命を条件に開城することが決まった矢先、悲劇が起こる。連絡の不徹底から、東軍の一部隊である田中吉政の軍勢が城内に乱入したことで、和睦交渉は決裂したと誤解された 27 。これを「謀られた」と判断した父・正継、兄・正澄は自害。三成の妻・皎月院をはじめ、城内にいた一族の多くもまた、彼らに殉じた。かくして、壮麗を誇った「三成に過ぎたる城」は、わずか二日間の攻防の末に、炎上落城したのである 27

第三節:破城と継承

関ヶ原の戦後処理において、佐和山城とその所領は、徳川四天王の一人である井伊直政に与えられた 21 。通常であれば、落城した城は修復され、新たな領主の居城として再利用されるのが常である。しかし、直政は佐和山城を居城とすることを選ばなかった。彼は、領民の間に深く根付いている石田一族への思慕の念を断ち切るためには、その象徴である佐和山城を完全に破壊し、全く新しい場所に城を築く必要があると考えた 23 。そして、新たな築城の地として選ばれたのが、佐和山からわずか2kmほど西に位置する彦根山であった 42

これ以降、佐和山城に対しては徹底的な「破城(はじょう)」、すなわち意図的な破壊が行われた。天守や櫓といった建物はもちろんのこと、城の骨格をなす石垣の一つ一つに至るまでが解体され、彦根城を築くための資材として転用されたのである 21 。これは、単なる資材の再利用という経済的な合理性を遥かに超えた、極めて強い政治的意図に基づいた行為であった。旧体制の象徴を物理的に、そして跡形もなく消し去り、その残骸の上に新時代の支配者の城を築く。これにより、この地の支配者が豊臣(石田)から徳川(井伊)へと完全に交代したことを、領民に対して視覚的に、そして暴力的に示すという、強烈な政治的メッセージが発せられたのである。

この佐和山城の「完全な破壊」は、徳川政権による豊臣政権の記憶の意図的な消去、すなわち「記憶の抹殺」という政治的行為であったと見ることができる。戦で城を落とすことは、物理的な勝利に過ぎない。しかし、その城が領民にとって「石田三成の善政」や「豊臣政権の栄華」を象徴するモニュメントとして機能している場合、その存在自体が新体制の安定を脅かす危険な「記憶の装置」となりうる。井伊直政が恐れたのは、まさにこの点であった。そのため、物理的に城を破壊するだけでなく、その記憶ごと領民の心から抹消し、新たな支配体制を盤石にする必要があった。佐和山城の破城は、関ヶ原の戦いに続く、体制の正統性を巡るもう一つの戦いであったと言えるだろう。

結論:石田三成の夢の跡—佐和山城改修が歴史に刻んだもの

文禄五年(1596年)に始まった佐和山城の大改修は、石田三成という稀代の行政官が、豊臣政権の存続という国家的課題に対し、自身の持つ能力と理想のすべてを注ぎ込んだ一大プロジェクトであった。それは、目前に迫る対外戦争の危機と、未曾有の天災によって露呈した国内体制の脆弱性という、二正面の国難に対応するための、極めて高度な戦略的判断に基づいていた。その設計には、彼の徹底した合理主義、民を思う統治思想、そして主君・秀吉への揺るぎない忠誠心が結実していた。

完成した佐和山城は、戦国末期から近世初頭への過渡期における、城郭と城下町が一体となった先進的な都市計画の傑作であった。しかし、その壮麗さは政敵の嫉妬と警戒を買い、「三成に過ぎたるもの」と揶揄された。そして主君の死後は、反徳川勢力の拠点と見なされ、ついにはその存在自体が新時代の支配者によって意図的に抹消されるという、悲劇的な運命を辿ることになる。

今日、かつて壮麗な天守が聳えていた佐和山の山頂に残るものは、わずかな曲輪の跡と、往時を偲ばせる説明板のみである 23 。しかし、その失われた城の物語は、石田三成という一人の武将の栄光と悲劇、そして戦国から近世へと移行する時代の大きな転換点を、今なお私たちに雄弁に語りかけている。佐和山城は、まさに三成が見た「夢の跡」であり、彼の理想と挫折のすべてを象徴する存在として、日本の歴史の中に深く記憶されているのである。

引用文献

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