佐土原城下整備(1600)
慶長5年、関ヶ原で島津豊久が戦死。佐土原は島津以久が領主となり藩を創設。以久は戦国の武将から新時代の統治者へ転身し、城郭改修と城下町整備を推進。佐土原藩の礎となり、現代都市の原点となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
関ヶ原の転換点と佐土原藩の創生:島津以久による城下町整備の総合的考察
序章:激動の時代と佐土原の黎明
慶長五年(1600年)という年は、日本の歴史において画期的な転換点として認識されている。関ヶ原の戦いは、豊臣政権の終焉と徳川による新たな治世の幕開けを決定づけた。この国家規模の動乱は、遠く日向国の一地方都市、佐土原の運命をも劇的に変えることになる。本報告書で詳述する「佐土原城下整備」は、この歴史的転換点を直接的な契機として開始された、単なる都市開発に留まらない、新たな藩政国家の創造事業であった。その全貌を理解するためには、まず、関ヶ原以前の佐土原がどのような地であったかを把握する必要がある。
日向国の戦略的要衝
中世から戦国時代にかけて、日向国佐土原は、常に南九州の覇権を巡る争いの最前線に位置していた。当初、この地は日向国に勢力を張った伊東氏一族の田島氏によって築城され、15世紀には伊東本家の支配下に入り、その拠点として栄えた 1 。しかし、16世紀後半になると、薩摩から勢力を拡大する島津氏との間で、百年にわたるとも言われる熾烈な抗争が繰り広げられる。天正五年(1577年)、伊東義祐は島津氏との戦いに敗れ、佐土原城を失陥 3 。以後、佐土原は島津氏の九州統一事業における重要な前線基地へとその性格を変えた。
中世山城としての佐土原城
島津氏の支配下に入る以前から、佐土原城は典型的な中世の山城であった。宮崎平野を流れる一ツ瀬川の南岸に位置する標高約100メートルの鶴松山(かくしょうざん)に築かれ、その構造は平時の統治や経済活動よりも、有事における防御を最優先に設計されていた 2 。城は山全体に曲輪を配し、土塁や空堀を多用することで、堅固な防御網を構築していた 2 。このような構造は、佐土原が恒久的な支配の拠点というよりは、むしろ軍事的な緊張状態が常態であったことを物語っている。
島津家久・豊久父子の時代
関ヶ原の戦いの直前、佐土原城主を務めていたのは、島津義久の末弟で猛将として知られた島津家久、そしてその子・豊久であった 2 。彼らの時代、佐土原は純粋に軍事拠点としての性格を一層強めていた。城は島津氏の勢力圏の東端を守る要であり、その統治は常に臨戦態勢を前提としていたと考えられる。
この歴史的背景を鑑みると、慶長八年(1603年)に島津以久が新たな領主としてこの地に入る以前、佐土原には近世的な意味での安定した「城下町」は、実質的に存在しなかったと結論付けられる。土地の性格はあくまで「軍事的な係争地」であり、恒久的な統治や経済発展を前提とした都市計画はなされていなかった。したがって、以久に課せられた使命は、既存の町の「改修」や「拡張」ではなく、ほぼ白紙の状態から、土地の根本的な性格を「軍事」から「行政・経済」へと転換させる、壮大な「創造」の事業であった。この認識こそが、佐土原城下整備の歴史的意義を解き明かす鍵となるのである。
第一章:慶長五年(1600年)-運命の転換点
ユーザーが提示した「1600年」という年は、佐土原城下整備の開始年ではない。むしろ、その整備を不可避なものとした、全ての前提を覆す「運命の転換点」であった。この年、関ヶ原で起こった一つの戦いが、佐土原の歴史の歯車を大きく、そして劇的に動かしたのである。ここでは、その激動の数ヶ月を時系列で追い、佐土原が新たな時代へと否応なく突き進む過程を詳述する。
関ヶ原の凶報と島津豊久の死
慶長五年九月十五日(西暦1600年10月21日)、美濃国関ヶ原において、天下分け目の合戦が勃発した。佐土原城主・島津豊久は、伯父である島津義弘らと共に西軍に与して参陣していた。しかし、戦況は西軍の不利に傾き、やがて総崩れとなる。絶体絶命の状況下、島津軍は敵中突破による決死の退却戦、後に「島津の退き口」として語り継がれる壮絶な撤退を開始する。この時、豊久は義弘を無事に薩摩へ帰還させるべく、殿(しんがり)という最も危険な役目を引き受け、追撃する徳川軍の精鋭、井伊直政や本多忠勝の部隊を相手に奮戦。しかし、衆寡敵せず、その生涯を関ヶ原の地で終えた 2 。
主を失った佐土原の混乱
城主戦死という凶報は、やがて日向国佐土原にもたらされた。絶対的な支配者を失った領内は、深刻な混乱と権力の空白状態に陥ったと推察される。豊久の所領であった佐土原は、関ヶ原の戦後処理の一環として、西軍参加の咎により徳川家康によって没収された 8 。城は徳川方の管理下に置かれ、一時的に幕府の直轄領(天領)となる 1 。これにより、島津家久・豊久父子によって築かれた佐土原の支配体制は、完全に崩壊した。領民や家臣団は、先の見えない不安の中で、新たな支配者の到来を待つほかなかった。
薩摩本藩の存亡をかけた交渉
一方、薩摩では、当主・島津義久、そして関ヶ原から生還した義弘、次代を担う忠恒(後の家久)らが、島津家の存亡をかけた困難な課題に直面していた。西軍の主力大名であったにもかかわらず改易を免れるため、彼らは徳川家康との粘り強い外交交渉を展開した 10 。この交渉は困難を極めたが、島津氏はその巧みな交渉術と、容易に屈しないという武門の名家としての意地を見せつけ、最終的に本領である薩摩・大隅、そして日向の一部諸県郡の安堵を勝ち取るという、驚くべき成果を挙げた 10 。
この一連の高度な政治交渉の中で、没収された旧豊久領、すなわち佐土原の帰属問題も重要な議題の一つとなった。島津本家にとって、日向国における戦略的要衝である佐土原を、完全に縁のない他家の大名に渡すことは、将来的な安全保障上の大きな脅威となりかねない。したがって、佐土原の運命は、もはや現地の動向とは全く無関係に、大坂や伏見、江戸といった中央の政治の舞台で、徳川家康と島津本家の間の政治的駆け引きによって決定されていったのである。佐土原城下整備の真の起点は、城内や町中ではなく、この外交交渉の場にあったと言っても過言ではない。この交渉の末、佐土原は再び島津氏の手に戻ることになるが、それはかつての形とは全く異なる、新たな秩序の下での再出発を意味していた。
第二章:新領主・島津以久の入封と佐土原藩の成立(1603年)
関ヶ原の戦いから三年後の慶長八年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開府した。時を同じくして、主を失い幕府の管理下に置かれていた佐土原に、新たな領主が送り込まれた。その人物こそ、島津一門の宿老、島津以久(しまづ もちひさ)である 3 。彼の入封によって、ここに佐土原藩三万石が成立し、新たな城下町建設の幕が切って落とされた。
新藩主・島津以久の人物像
島津以久は天文十九年(1550年)、島津氏中興の祖・島津貴久の弟である忠将の子として生まれた 7 。島津義久・義弘兄弟とは従兄弟の関係にあたる 13 。父・忠将が永禄四年(1561年)に戦死した後は、伯父の貴久らに養育され、長じて父の旧領であった大隅国の要衝・清水城主となった 7 。
以久は父譲りの猛将として知られ、島津氏の九州統一事業において数々の武功を挙げた。特に天正六年(1578年)の耳川の戦いでは、自ら敵陣に切り込み、島津軍勝利の突破口を開く第一の軍功者として賞賛された 7 。その後、豊臣秀吉による九州征伐を経て島津氏の領地が再編されると、以久は種子島へ移封されるなど、時代の荒波に揉まれながらも、戦国武将としての豊富な経験を積み重ねていった 7 。彼の名は、初め幸久(ゆきひさ)、次いで征久と改め、最終的に以久となった。なお、以久を「ゆきひさ」と読むのは、旧名に由来する誤読である 14 。
以久が選ばれた政治的背景
では、なぜ徳川家康は、この島津以久を新たな佐土原の領主に選んだのか。その背景には、家康の巧みな対島津政策があったと考えられる。家康にとって、強大な軍事力を持つ島津本家は、天下統一後も油断のならない存在であった。一方で、その武威と家格を尊重し、正面からの対立を避ける必要もあった。
この状況下で、島津以久という人物は、まさに絶妙な選択であった。彼は島津一門の重鎮であり、薩摩本家から見れば信頼の置ける身内である。これにより、島津氏の面子を保つことができる。しかし同時に、彼は義久や義弘の直系ではなく、家康によって新たに取り立てられた三万石の独立大名である。幕府から見れば、以久は直接的な恩義を感じるべき存在であり、本家とは一線を画す、ある種の「楔(くさび)」としての役割を期待できる。つまり、以久の佐土原藩主就任は、島津本家を牽制しつつもその反発を抑えるという、高度な政治的判断の産物であった。
ゼロからの藩政基盤構築
慶長八年(1603年)、以久は五十三歳にして、佐土原三万石の初代藩主として入封した 3 。彼が目にしたのは、三年間の支配者不在によって疲弊し、統治機構が崩壊した領地であっただろう。彼の任務は、単なる統治の引き継ぎではない。家臣団の編成、領内の検地、法度の制定、そして何よりも藩の恒久的な拠点となる城と城下町の建設という、ゼロからの藩政基盤構築であった。
この藩主就任は、以久自身のキャリアにおいても、決定的な役割転換を意味した。生涯の大半を戦場で過ごしてきた「武将」が、人生の晩年に差し掛かり、新たな時代の「経営者・統治者」としての手腕を問われることになったのである。彼にとって、これから始まる佐土原城下整備は、単なるインフラ整備事業ではなかった。それは、戦国の世を生き抜いた一人の武将が、泰平の世の統治者として自らの価値を証明し、一族の未来を盤石にするための、強い意志が込められた一大プロジェクトだったのである。
表1:佐土原城下整備関連年表(慶長5年~寛永2年 / 1600年~1625年)
西暦(和暦) |
主要な出来事(全国) |
佐土原における動向 |
典拠 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い |
城主・島津豊久が戦死。領地は一時的に徳川方の管理下に置かれる。 |
2 |
1603年(慶長8年) |
徳川家康、征夷大将軍に就任 |
島津以久が3万石で入封。佐土原藩が成立する。 |
3 |
1610年(慶長15年) |
|
初代藩主・島津以久、京都にて死去。二代・忠興が跡を継ぐ。 |
7 |
1611-12年(慶長16-17年) |
|
二代・忠興により、山麓の二の丸御殿の整備が進められる。 |
5 |
1615年(元和元年) |
武家諸法度・一国一城令が発布される。 |
一国一城令により、佐土原城の天守(三階櫓)が破却される。 |
6 |
1625年(寛永2年) |
|
藩の政庁が、山上の本丸から山麓の二の丸御殿へ正式に移転。 |
2 |
第三章:藩政基盤の確立へ-佐土原城下整備のグランドデザイン
島津以久による佐土原藩の創設は、新たな統治の器を形作ることから始まった。その中核をなすのが、藩の政庁であり、権威の象徴でもある佐土原城とその周辺の整備である。この事業は、初代藩主・以久から二代・忠興の時代にかけて継続的に行われた長期的なプロジェクトであり、その過程は、戦国の城が近世の行政拠点へと変貌していく時代の大きな流れを映し出している 4 。
近世城郭への改修と天守の建立
以久が入封した当時の佐土原城は、前述の通り、防御を主眼とした中世山城の姿を色濃く残していた。新時代の藩庁として、また三万石の大名の居城として、その権威を示すためには、城郭の近代化、すなわち「近世城郭」へのアップデートが不可欠であった。
以久と忠興は、山城の曲輪を改修し、石垣を備えたより堅固で壮麗な城へと改築を進めた 2 。この改修のハイライトが、「天守」の建立であった。平成九年(1997年)の発掘調査では、本丸の天守台跡から金箔を施した瓦、特に金箔鯱瓦が出土している 15 。これは、佐土原城に、南九州の城郭では極めて珍しい本格的な天守、あるいはそれに準ずる三階櫓が存在したことを示す強力な物証である 6 。
財政的に決して豊かではなかったであろう新興の藩が、なぜこのような壮麗な建物を築いたのか。それは、内外に対する強いメッセージであったと考えられる。領民に対しては新たな支配者の権威を示し、周辺の諸藩や、複雑な関係にある薩摩本家に対しては、佐土原藩が幕府から公認された独立した大名であることを視覚的に強くアピールする必要があった。金箔瓦の輝きは、まさに新しい佐土原藩の誕生を告げる象徴だったのである。
「山から麓へ」-政庁機能の移転
一方で、城郭の改修と並行して、より大きな構想が進行していた。それは、藩の政治・行政機能の中心を、不便な山上から利便性の高い山麓へと移すという計画である。
戦乱の世が終わり、大規模な籠城戦の可能性が低くなると、山城は平時の政務を行うには非効率な場所となっていた 5 。そこで、二代藩主・島津忠興の時代、慶長十六年から十七年(1611-1612年)頃にかけて、山麓の二の丸に新たな御殿の建設が進められた 5 。そして寛永二年(1625年)、藩の政庁は山上の本丸から、この二の丸御殿へと正式に移転された 2 。これは、佐土原藩の統治体制が、有事を前提とした軍事的なものから、平時を前提とした行政的なものへと完全に移行したことを示す、画期的な出来事であった。
幕府の政策と佐土原藩の生存戦略
この一連の城郭整備の過程は、巧みに時代の変化に対応し、藩の存続を図ろうとした初期佐土原藩のしたたかな生存戦略を浮き彫りにする。
まず、藩成立直後に天守を「建設」することで、自らの権威を最大限に誇示した。しかし、慶長二十年(元和元年、1615年)に幕府から一国一城令が発布されると、この天守は速やかに「破却」された 6 。これは、幕府の強大な権威に逆らわないという恭順の意を示すことで、藩の安泰を図る現実的な政治判断であった。そして最終的に、政庁を山麓に「移転」することで、もはや不要となった軍事要塞としての機能を整理し、行政効率という実利を追求する平時の統治体制を確立した。
この「建設」から「破却」、そして「移転」へと至るダイナミックな流れは、佐土原という一つの藩が、徳川の天下という新しい政治秩序の中で、いかにして自らの立ち位置を模索し、適応していったかを示す貴重な歴史の証言なのである。
第四章:城下町の創造-町割と水路網のリアルタイム解説
佐土原城の改修と政庁機能の移転は、藩政の中枢を確立する事業であった。しかし、藩が恒久的に存続するためには、それを支える経済的・社会的な基盤、すなわち「城下町」の建設が不可欠であった。島津以久と忠興が描いたグランドデザインは、城郭の麓に広がる平野部に、新たな都市をゼロから創造するという壮大なものであった。ここでは、その建設プロセスを段階的に追い、都市が誕生していく様をリアルタイムで解説する。
第一段階:中枢区画の形成-堀と武家地
城下町建設の第一歩は、都市の骨格と防御線を決定づける堀の掘削から始まった。佐土原小学校の周囲にその痕跡を残す内堀、現在の「追手川」がこれにあたる 17 。この堀は、城郭の中枢部と城下町を明確に区分する境界線であり、物理的な防御施設であると同時に、身分秩序を空間的に示す象徴でもあった。
この堀の内側、すなわち城に最も近い一等地は、藩の最高幹部である家老をはじめとする上級武士の屋敷地として割り当てられた 5 。彼らの屋敷は、平時には藩政を動かす中枢の一部であり、有事の際には城郭を守る最後の防衛ラインを形成する。このように、都市計画の初期段階において、身分秩序と防衛体制を一体化した中枢区画が形成されたのである。
第二段階:身分制社会の空間的具現化-町割
中枢区画が定まると、次に行われたのは、江戸時代の厳格な身分制度を都市空間に反映させる「町割(まちわり)」であった。
堀の外側には、藩士の大部分を占める中級・下級武士の居住区が計画的に配置された。佐土原藩では、中小姓、歩行(かち)、小頭、足軽といった階級に応じて、屋敷の広さや場所が厳密に定められていたと考えられる 18 。これらの武家屋敷が並ぶ街路は、防衛上の観点から意図的に見通しを悪くした鍵型(クランク状)の道などが採用され、町全体が一種の要塞として機能するように設計されたと推察される。
一方、藩の経済活動を担う町人の居住区は、商業の中心地として、主要街道である日向街道沿いに形成された 19 。現在の佐土原に残る商家資料館「旧阪本家」は、この時代に形成された商人町の繁栄を今に伝える貴重な遺構である 21 。
さらに、城下の要衝や街道の出入り口には、寺社が戦略的に配置された 17 。これらは領民の信仰の中心であると同時に、有事の際には兵の駐屯地や防御拠点として機能する、軍事的な意味合いも持っていた。このようにして、佐土原城下は、藩主を頂点とする身分制社会が、整然とした都市空間として具現化されたのである。
表2:佐土原城下・身分階層別居住区画対照表(江戸初期構想)
区画 |
主な場所 |
特徴・役割 |
関連資料 |
城郭中枢 |
本丸、二の丸、三の丸 |
藩主の居館であり、藩政の中枢。軍事司令部。 |
2 |
上級武家地 |
堀(追手川)の内側 |
家老など藩の重臣が居住。有事の際は城郭の最終防衛ラインを形成。 |
5 |
中・下級武家地 |
堀の外側、城郭周辺 |
藩士の大部分が居住。家格に応じて屋敷の広さや場所が定められた。 |
18 |
町人地 |
日向街道沿い(新町など) |
商業・手工業の中心地。藩の経済活動を担う。旧阪本家などが代表例。 |
19 |
寺社地 |
城下の要衝、街道の出入り口 |
領民の精神的支柱であると同時に、有事の際の防衛拠点としての役割も持つ。 |
17 |
第三段階:生活と経済を支えるインフラ整備-水路と街道
物理的な区画整理が完了すると、都市に生命を吹き込むためのインフラ整備が本格化した。佐土原の都市計画において特に注目すべきは、「水」を巧みに利用した総合的なシステムである。
佐土原城の北方を流れる一ツ瀬川は、流域の平野部に豊かな恵みをもたらす一方、ひとたび氾濫すれば甚大な被害をもたらす暴れ川でもあった 2 。藩の経済基盤である農業生産を守るため、治水事業は藩政の最重要課題の一つであった。佐土原藩の職制の中に、治水を専門に司る「井手方(いでかた)」という役職が存在した記録は、藩がこの問題にいかに真摯に取り組んでいたかを物語っている 23 。
この治水事業と並行して、城下の生活用水や周辺の田畑を潤すための用水路網が整備された。これは、藩の食糧生産を安定させ、経済基盤を強化するための積極的な投資であった。
この一連の水利システムは、単に経済的な目的だけでなく、城下の防御システムとも連動していたと考えられる。例えば、一ツ瀬川から取水された用水路の一部が城下の堀(追手川)へと流れ込み、都市の防御と生活機能を支えた後、再び川へと戻るような、地域全体の水循環システムとして設計されていた可能性が高い。このように、佐土原の城下町整備は、「城の防衛」という軍事的目的と、「藩の経営」という経済的目的を、「水」という要素を媒介にして両立させた、極めて高度な総合エンジニアリングであったと言える。
さらに、交通網の整備も進められた。佐土原は、薩摩街道、肥後街道、米良街道などが結節する交通の要衝として整備され、人、物資、情報が集まる拠点としての機能が強化された 4 。これにより、佐土原は日向国における政治・経済の中心地として、その地位を確固たるものにしていったのである。
第五章:佐土原城下整備がもたらしたもの
島津以久と忠興による二世代にわたる一連の城下整備事業は、単に一つの都市を建設したに留まらず、その後の佐土原の歴史を決定づけ、現代に至るまで多大な影響を残している。ここでは、この事業がもたらした長期的な成果と、現代に受け継がれる歴史的遺産について総括する。
近世佐土原藩270年の礎
最大の成果は、この初期整備によって、佐土原藩が薩摩藩の支藩として安定した統治基盤を確立し、慶長八年(1603年)の成立から明治維新に至るまでの約270年間にわたり存続し得たことである 3 。堅固な城と計画的な城下町は、藩の政治的安定と経済的発展の礎となった。もしこの初期段階での基盤構築がなければ、佐土原藩が激動の江戸時代を乗り越え、一つの藩として歴史を刻むことは困難であっただろう。
発掘調査が語る真実
長い間、江戸時代初期の佐土原城や城下の具体的な姿は、古文書や絵図が乏しいため、多くが謎に包まれていた。しかし、平成元年(1989年)から始まった佐土原城跡の発掘調査は、その姿を劇的に明らかにした 22 。
調査によって、二の丸御殿の正確な位置や規模、柱の跡や礎石、さらには石組や木組で作られた暗渠(地下水路)といった、当時の高度な土木技術を示す遺構が次々と発見された 4 。これらの科学的な調査成果は、これまで不明瞭であった藩政初期の都市計画の実態を具体的に解明し、歴史の空白を埋める上で極めて重要な役割を果たした。
現代に続く歴史的遺産
島津以久らが築いた城下町は、形を変えながらも、その骨格と精神を現代に伝えている。
復元された御殿「鶴松館」
発掘調査の最大の成果の一つが、二の丸御殿跡に復元された宮崎市佐土原歴史資料館「鶴松館」である 25 。この建物は、調査で判明した遺構に基づき、書院や大広間など御殿の一部を木造で忠実に再現したものであり、訪れる人々に江戸時代の藩主の暮らしや政務の空間を体感させてくれる 24 。館内には佐土原島津家ゆかりの品々や、郷土の伝統工芸品である佐土原人形などが展示され、地域の歴史文化を発信する拠点となっている 27 。
江戸期の町割の痕跡
現在の佐土原の市街地を歩くと、そこに江戸時代初期の都市計画の痕跡を色濃く見出すことができる。城跡を中心に広がる街路の基本的な配置、防衛上の工夫が見られる鍵型の道、そして戦略的に配置された寺社の位置などは、400年前の町割の記憶を留めている 22 。これらの歴史的景観は、佐土原が単なる現代の地方都市ではなく、由緒ある城下町であることを静かに物語っている。
商家町の面影「旧阪本家」
城下町の経済の中心であった商人町の繁栄を今に伝えるのが、商家資料館「旧阪本家」である 30 。江戸時代から続いた味噌・醤油の醸造販売を営んでいたこの商家は、明治期に建てられた重厚な主屋が残り、宮崎市の有形文化財に指定されている 21 。その佇まいは、藩の経済を支えた町人たちの息吹を感じさせ、城下町のもう一つの顔を我々に示してくれる。
これらの現代に残る文化遺産は、そのほとんどが島津以久による慶長年間の「城下整備」という一つの歴史事象に源流を持つ。彼の事業は、単に物理的な都市を建設しただけでなく、400年後の我々が参照し、体験できる「歴史的文脈」そのものを創造したと言える。我々が今日「佐土原の歴史」として認識しているものの核は、まさしく彼のグランドデザインによって意図的に創出されたものなのである。
結論:創造された城下町-島津以久の歴史的功績の再評価
本報告書は、「佐土原城下整備(1600)」という事象について、その歴史的背景、実行過程、そして後世への影響を多角的に分析してきた。その結果、この事象は単一の年に完結する出来事ではなく、より広範でダイナミックな歴史のプロセスであったことが明らかになった。
結論として、「佐土原城下整備」とは、「慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いとその戦後処理に端を発し、慶長八年(1603年)に新領主として入封した島津以久によって主導された、戦国の軍事拠点から近世の藩政国家へと転換するための、総合的な創造事業」であったと定義できる。
関ヶ原の戦いは、佐土原の既存の支配体制を完全に破壊し、この地を一度更地にした。しかし、それは同時に、全く新しい秩序をゼロから構築する機会をもたらした。この歴史の岐路において、初代藩主となった島津以久は、生涯を武将として生きてきた経験の全てを注ぎ込み、新たな時代の統治者としての役割を見事に果たした。
彼の計画は、単なる区画整理ではなかった。それは、幕府との政治的関係性を計算に入れた城郭の改修であり、厳格な身分制度を反映した都市空間の設計であり、そして「水」を巧みに制御し、防御と経済を両立させた高度な国土計画であった。彼が描いたグランドデザインの上に、武士が住まい、町人が商い、農民が田畑を耕すという、近世佐土原藩の社会経済システムが構築されたのである。
したがって、島津以久の歴史的功績は、単なる有能な「都市計画者」として評価されるべきではない。彼は、国家規模の動乱という危機を乗り越え、新たな政治秩序の中で自藩の活路を見出し、荒廃した土地に新たな国家(藩)の礎を築いた「創業者(ファウンダー)」として再評価されるべきである。現代の佐土原に残る歴史的景観や文化遺産の数々は、400年以上前に一人の武将が抱いた、未来への確固たる意志の結晶なのである。
引用文献
- 佐土原城について知りたい(FAQ) - 宮崎市コールセンター https://faq.miyazaki-city-callcenter.jp/faq/detail.aspx?id=1314
- 佐土原城(宮崎県宮崎市)の登城の前に知っておきたい歴史・地理・文化ガイド - note https://note.com/digitaljokers/n/ncc7f8e362492
- 佐土原城~宮崎県宮崎市佐土原町~ - 裏辺研究所 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro153.html
- 繋 跡 噂 城 癖 原 ど 土 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/4/4375/3206_1_%E4%BD%90%E5%9C%9F%E5%8E%9F%E5%9F%8E%E8%B7%A1.pdf
- 渋谷家・郡司家の発掘調査 - 宮崎市 https://www.city.miyazaki.miyazaki.jp/fs/7/9/6/4/0/6/_/796406.pdf
- 佐土原城の見所と写真・700人城主の評価(宮崎県宮崎市) - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/225/
- 島津以久 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%BB%A5%E4%B9%85
- 佐土原城跡にのぼってみた、島津家久・島津豊久が守った日向の要衝 https://rekishikomugae.net/entry/2022/07/29/120945
- 【宮崎県のお城/飫肥城・延岡城・佐土原城・都於郡城】伊東氏と島津氏の激闘と、九州を代表する戦国大名ゆかりの城 - 城びと https://shirobito.jp/article/1802
- 薩摩藩は石高72万石ながらなぜ財政難に苦しんでいた? - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/16112/
- 島津以久の墓 - SamuraiWorld サムライワールド - FC2 https://samuraiworld.web.fc2.com/ending_shimadzu_yukihisa.htm
- 島津以久(しまづ もちひさ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%BB%A5%E4%B9%85-1080983
- 2024年夏、宮崎・鹿児島への史跡巡り旅(1):宮崎の佐土原を訪ねて - ブログ 敬天愛人 http://keitenaijin924.blog.fc2.com/blog-entry-233.html
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- ご利用案内 - 宮崎市佐土原歴史資料館 https://sadowararekishi.miyabunkyo.com/guide/
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