佐竹義宣出羽転封(1602)
慶長七年、佐竹義宣は常陸から出羽秋田へ転封。関ヶ原での曖昧な態度が家康の不信を招き、大幅な減封と過酷な国替えを命じられた。義宣は新天地で久保田藩を確立し、近世大名へと再生。
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慶長七年 佐竹義宣出羽転封の全貌 ― 常陸五十四万石から秋田二十万石へ、激動の記録
序章:北関東の雄、佐竹氏の栄華と豊臣政権
佐竹義宣の出羽転封という事変を理解するためには、まず関ヶ原の戦い以前における佐竹氏の地位を正確に把握する必要がある。佐竹氏は単なる一地方勢力ではなく、豊臣政権下で北関東に君臨した大大名であり、その存在は中央政権にとっても無視できないものであった。この栄華の頂点と、それを支えた政治的背景こそが、後の転封という過酷な処分の重さを物語る前提となる。
戦国時代、佐竹氏は常陸国を本拠とし、下野国から陸奥国南部にまで勢力を伸長させた 1 。北には伊達氏、南には後北条氏という強大な敵に挟まれながらも、巧みな外交と軍事力をもって渡り合い、北関東最大の大名としての地位を確立していた 1 。この地理的位置は、後の天下分け目の戦いにおいて、北の上杉・伊達と南の徳川を結ぶ結節点、あるいは分断点となりうる、極めて重要な戦略的価値を佐竹氏に与えることになった。
佐竹氏の地位を決定的なものにしたのは、豊臣秀吉による天下統一事業への参画であった。当主・佐竹義宣は、父・義重とともに秀吉の小田原征伐に馳せ参じ、その功績を認められる形で常陸一国の支配を公認された 2 。その後、秀吉政権下で断行された太閤検地を経て、佐竹氏の石高は水戸を中心に54万石余と確定された 1 。これは、佐竹氏が旧来の地域的支配者から、豊臣政権という全国統治機構に正式に組み込まれた正統な構成員、すなわち「豊臣大名」となったことを意味する。
この豊臣政権下での地位向上と領国安定は、政権中枢の実力者であった石田三成との密接な関係なくしてはあり得なかった。義宣は、所領の石高を確定する太閤検地の際に三成から多大な援助を受け、領地を倍増させることに成功している 6 。さらに、縁戚であった宇都宮国綱が改易された際には、佐竹氏も連座して処分される危機に瀕したが、三成の懸命な取りなしによってこれを免れた 8 。これらの出来事は、義宣の中に三成に対する強固な「恩義」の念を植え付けた。彼にとって三成は、単なる政権の同僚ではなく、自らの地位と家を救った恩人であり、深く信頼する盟友であった。
この一連の経緯は、佐竹義宣という武将の行動原理を理解する上で極めて重要である。彼の権力基盤と54万石という広大な領国は、豊臣政権の公認と、石田三成という個人的な繋がりによって保障されていた。したがって、秀吉亡き後に台頭する徳川家康は、あくまで豊臣政権下の一大名に過ぎず、その家康に追従することは、自らの存在基盤そのものである豊臣の秩序と、命の恩人である三成を裏切る行為に他ならなかった。後に見せる彼の「曖昧な態度」は、単なる日和見主義ではなく、この「豊臣大名」としての自己認識と、三成への個人的な義理から生じた、彼自身の論理に根差した必然的な葛藤だったのである。
第一部:関ヶ原への道程 ― 運命の岐路
豊臣秀吉の死は、政権内部の権力均衡を崩壊させ、日本全土を再び動乱へと導いた。徳川家康がその影響力を急速に拡大させる中、佐竹義宣は運命の岐路に立たされる。関ヶ原の戦いに至る過程で佐竹家が直面した内部の深刻な対立と、外部からの強大な圧力は、なぜ彼らが明確な態度を打ち出せなかったのか、その構造的な要因を浮き彫りにしている。
秀吉死後の政局と義宣の立場
秀吉の死後、家康と三成の対立が先鋭化すると、義宣はためらうことなく三成への支持を表明した。その象徴的な出来事が、慶長4年(1599年)3月に起きた石田三成襲撃事件である。加藤清正、福島正則ら七将が三成を討つべく大坂の屋敷を囲んだ際、身の危険を感じた三成は義宣に助けを求めた 8 。伏見の屋敷にいた義宣は、即座に三成を自らの駕籠に乗せて伏見の佐竹邸に匿い、追ってきた諸将に対して「三成に私心はなく、公職を全うしたに過ぎない。諸君らの憤りは私憤ではないか」と叱責し、その命を救った 8 。この大胆な行動は、三成との友誼の深さを示すと同時に、家康からも「律義者」と評される一方で、反家康の旗幟を鮮明にするものであった 11 。
家中を二分する路線対立
義宣の個人的な信義に基づく行動は、しかし、佐竹家全体の総意ではなかった。家中は、当主と隠居の父との間で深刻な路線対立を抱えており、これが後の行動を著しく制約することになる。
- 当主・佐竹義宣の立場: 義宣は、石田三成への恩義と友情を何よりも重んじ、豊臣家への忠誠を貫くべきだと考えていた。彼の視点では、家康の行動は豊臣政権をないがしろにする簒奪行為であり、盟友である上杉景勝や三成と連携してこれに対抗することが「義」に適う道であった 5 。
- 隠居・佐竹義重の立場: 一方、父であり隠居の義重は、冷徹な現実主義者であった。彼は早くから織田信長や徳川家康と誼を通じており、天下の趨勢が家康に傾いていることを見抜いていた 5 。義重は、個人的な恩義よりも佐竹家の存続という「利」を優先し、時流に乗って家康方に付くべきだと強く主張した 5 。
この「義」を重んじる息子と、「利」を説く父との間の深刻な対立は、家中の方針を統一することを不可能にした 1 。当主の決定に隠居が公然と異を唱える状況は、組織としての意思決定能力を麻痺させ、佐竹氏を動けない状態へと追い込んでいった。
上杉景勝との密約
慶長5年(1600年)、家康が上杉景勝の謀反を理由に会津征伐の軍を起こすと、佐竹氏にも出兵命令が下された 5 。義宣は表向きこの命令に従う姿勢を見せつつも、水面下では上杉景勝と密約を結んでいたとされる 1 。その内容は、家康が領内を通過して北上した際に、上杉軍と佐竹軍が連携してその後方を突き、挟撃するというものであった 12 。これは、三成、上杉と連携して家康を打倒するという、義宣の明確な西軍加担の意思表示であり、彼の本心がどこにあったかを如実に示している。
しかし、この重大な密約は、義重をはじめとする親徳川派の家臣団には知らされていなかったか、あるいは猛反対を受けていた可能性が高い 12 。結果として、佐竹氏が外部から見せた「中立」や「日和見」といった態度は、積極的な戦略の結果ではなく、内部対立によって身動きが取れなくなった「機能不全」の表れであった。リーダーシップが二元化し、組織としての統一した行動が取れないという内部の亀裂こそが、最終的に転封という最悪の結末を招いた最大の要因だったのである。
第二部:慶長五年、動乱の記録 ― 佐竹義宣のリアルタイムな動向
関ヶ原の戦いが刻一刻と迫る中、佐竹義宣は激しい内圧と外圧の狭間で苦悩に満ちた決断を迫られていた。彼の具体的な行動を時系列で追うことで、その葛藤と、結果的に佐竹家の運命を決定づけた一連の動きが鮮明になる。
慶長5年(1600年)6月〜7月:会津征伐への参加と家康からの要求
慶長5年6月、徳川家康は上杉景勝討伐を名目に大軍を率いて江戸を出発した。佐竹義宣もこの会津征伐軍への参加を命じられ、これに従い軍勢を率いて北上を開始した 12 。しかし、この時点で義宣と家康の間には、すでに深い相互不信が渦巻いていた。家康が下野国小山に着陣した際、彼は義宣に使者を派遣し、改めて会津への進軍を督促すると同時に、忠誠の証として人質を上洛させるよう要求した。これに対し義宣は、「母と妻子は故太閤の時から伏見に証人として出している。今更、別に人質を家康に献ずる必要があろうか」と述べ、この要求を明確に拒否した 10 。このやり取りは、義宣が家康を豊臣秀頼と同格の主君とは認めていないという意思表示であり、両者の亀裂を決定的なものにした。
7月25日以降:小山評定後の独自行動
7月25日、小山の陣中に石田三成ら西軍挙兵の報が届くと、家康は諸将を集めて軍議を開き(小山評定)、軍を西へ返すことを決定した。東軍の諸将が次々と家康への忠誠を誓い西上を開始する中、義宣の行動は際立って異質であった。彼はすぐには家康に従わず、事前に結んでいた上杉景勝との密約に基づき、会津への進軍を停止した 12 。家中では父・義重ら親徳川派と、義宣を中心とする反徳川派の意見が激しく衝突し、方針を全く決定できなかった。最終的に義宣は、どちらにも与せず軍を本拠地である水戸城へ引き上げるという最悪の選択をしてしまう 12 。この行動は、家康に対して明確な敵対の意思を示したも同然であり、彼の疑惑を確信へと変えさせた 10 。
8月〜9月:曖昧な態度と家康の警戒
水戸に帰城した後も、佐竹家中の混乱は続いた。東軍参加を強く主張する父・義重の圧力に抗しきれなくなった義宣は、苦肉の策として、一族の佐竹義久にわずか300騎の兵を与え、中山道を進む徳川秀忠の本隊への援軍として派遣した 10 。しかし、このような付け焼刃の行動が家康に通用するはずもなかった。家康はすでに佐竹氏の動向を完全に疑っており、国境付近に松平信一や水谷勝俊といった部隊を佐竹監視のために配置していた 17 。そして、秀忠もまた、義久らが率いる援軍の受け入れを謝絶した 10 。これは、徳川方にとって佐竹氏はもはや味方とは見なされていないという、明確な意思表示であった。
9月15日:関ヶ原合戦当日とその後
慶長5年9月15日、美濃国関ヶ原で東西両軍が激突したその日、佐竹氏の1万を超える大軍は水戸城に留まり、全く動かなかった 10 。結果として、常陸国の武士たちはこの天下分け目の戦いで一人の犠牲者も出すことなく、兵力を完全に温存することになった 10 。
やがて関ヶ原での東軍圧勝の報が水戸に届くと、いち早く行動を起こしたのは父・義重であった。彼は当主である義宣を差し置いて、すぐさま家康のもとへ戦勝を祝賀する使者を派遣し、参陣しなかったことを謝罪した 12 。当主ではなく、親徳川派の隠居が戦後処理の初動を取るというこの事実は、佐竹家中の統制が完全に崩壊していたことを象徴している。
この一連の動きを徳川家康の視点から見れば、佐竹氏の脅威は単に「西軍に味方するかもしれなかった」という点に留まらない。関ヶ原の戦いは、家康にとって決して楽な戦いではなかった。もし佐竹軍が上杉軍と連携して背後を脅かしていれば、家康は安心して西上できず、戦況は全く異なる展開を見せた可能性が高い 18 。結果的に佐竹氏は動かなかったが、その潜在的な軍事力は家康にとって無視できないものであった 8 。戦後、新たな天下人として政権の基盤を固める上で、江戸から目と鼻の先の常陸国に、態度が不鮮明で、しかも全く無傷の54万石の大大名が存在し続けることは、政権の安定にとって看過できない地政学的なリスクであった 19 。したがって、後に下される転封という厳しい処分は、単なる「不戦の罪」に対する懲罰という側面だけでなく、徳川政権の足元を固めるための、極めて政治的かつ戦略的なリスク管理という側面が強かったのである。
第三部:出羽転封 ― 常陸五十四万石との訣別
関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わった後、徳川家康による戦後処理が始まった。西軍に与した大名は次々と改易・減封され、新たな秩序が形成されていく。その中で、佐竹家の処遇は最後まで保留され、家中の不安は極限に達していた。そして慶長7年、ついに運命の審判が下される。
慶長7年(1602年)5月8日:転封命令
関ヶ原の戦いから1年8ヶ月もの時間が経過した慶長7年(1602年)5月8日、佐竹義宣は大坂城において豊臣秀頼と徳川家康に謁見した。その直後、家康から国替え(転封)が命じられた 12 。しかし、この時、家康は転封先も、転封後の石高も一切明示しなかった 19 。これは、佐竹氏に最大限の心理的圧迫を与え、抵抗の意思を完全に削ぐための、家康の巧みな政治的駆け引きであった。先祖代々の地を追われること、そしてどこへ、どれほどの領地を与えられるのかも分からないという絶望的な状況は、佐竹家中に大きな衝撃を与えた。最終的に、転封先は遠く離れた出羽国秋田、石高は常陸時代の半分以下である20万石余という、極めて過酷な内容が通達された 1 。
国替えの準備と家中の動揺
54万石から20万石への大幅な減封は、佐竹家に激しい痛みを強いた。石高の減少は、召し抱えられる家臣の数を大幅に削減しなければならないことを意味する。義宣は断腸の思いで家臣団の大規模なリストラに着手し、扶持(給与)の削減や、一部の家臣を常陸に残していかざるを得ないことを書状で通達している 12 。先祖代々の土地を離れる悲しみと、将来への不安から家中は激しく動揺した。この過酷な処分に不満を抱いた一部の家臣が義宣の暗殺を企てる事件(川井事件)まで発生したが、義宣はこれを断固として鎮圧・粛清し、混乱の中で当主としての権威を再確立した 19 。
この一連の過程は、佐竹家にとって単なる領地喪失以上の意味を持っていた。それは、物理的な苦難であると同時に、社会構造と主従関係の抜本的な再編を強いる「創造的破壊」の機会でもあった。54万石の大大名として抱えていた旧来のしがらみや、複雑な家臣団の構造を、転封という外的要因によって強制的にリセットすることが可能になったのである。誰を新天地へ連れて行き、誰を切り捨てるかという苦渋の選択は、義宣が自らの新しい藩政構想に合致する人材を選抜し、藩主の権力を絶対的なものへと高める契機となった。この過酷な転封は、佐竹氏が中世的な国人領主の連合体から、藩主を頂点とする集権的な近世大名へと脱皮するための、強制的かつ劇的な触媒として機能したのである。
大規模移動の行程と困難
国替えの準備が整うと、数千人とも一万人ともいわれる家臣とその家族、そして膨大な物資を伴う、日本史上でも稀に見る大規模な民族移動が始まった 21 。彼らが辿った道程は、困難を極めるものであった。
区間 |
経由地・特記事項 |
出発地 |
常陸国 水戸城 |
主要街道 |
奥州街道 |
分岐点 |
桑折宿(福島県桑折町)にて羽州街道へ |
羽州街道の難所 |
小坂峠、山中七ヶ宿、金山峠(奥羽山脈越え)など、険しい峠道が続く 23 。冬期には豪雪に見舞われることもあり、旅は過酷を極めたと想像される。 |
経由宿場 |
上山宿、山形宿などを経由 |
目的地 |
出羽国 秋田(当初は湊城へ入城) |
この表に示す通り、彼らの旅路は平坦ではなかった。特に奥羽山脈を越える金山峠は羽州街道最大の難所の一つであり、多くの人々が苦難を味わったことであろう 23 。さらに、この大移動には莫大な費用がかかった。他藩の国替えや参勤交代の事例から類推すると、その費用は現在の貨幣価値にして数億円から十数億円規模に達した可能性も指摘されている 22 。減封によって財政基盤を大きく損なった佐竹家にとって、この移動費用は新天地での藩経営にいきなり重くのしかかる大打撃となった。多くの家臣が途中で脱落する中、それでも義宣に従い北を目指した者たちが、新たな久保田藩の礎を築いていくことになる 21 。
第四部:久保田藩の成立 ― 新天地における挑戦
常陸国との訣別という未曾有の国難を乗り越え、佐竹義宣と家臣団は新天地・出羽国秋田に到着した。しかし、彼らを待ち受けていたのは安住の地ではなく、新たな混乱と厳しい現実であった。ここから、近世大名・久保田藩をゼロから創り上げるための、義宣の不屈の挑戦が始まる。
慶長7年(1602年)9月17日:秋田入部と初期の混乱
慶長7年9月17日、佐竹義宣はまず、前領主であった秋田(安東)実季の居城・土崎湊城に入城した 27 。しかし、新たな支配者に対する在地勢力の反発は根強く、領内各地で旧浅利氏の家臣らによる一揆が勃発した 29 。常陸から来た「よそ者」である佐竹氏の支配は、当初から武力による抵抗に直面したのである。これに対し義宣は、父・義重を六郷城に、従兄弟の小場義成を大館城に配置するなど、一族や有力家臣を横手、能代といった領内の要所に分散配置し、これらの反乱を徹底的に鎮圧した 29 。武力によって領国を掌握し、支配の既成事実を積み重ねていくことが、初期藩政の最優先課題であった。
慶長8年(1603年)〜:久保田城の築城と城下町の建設
湊城は日本海に面した平城であり、防御性に難がある上、新たな藩政の中心とするには手狭であった 27 。義宣は入部の翌年である慶長8年(1603年)、領国のほぼ中央に位置し、雄物川の水運を利用できる神明山(現在の千秋公園)を新たな本拠地と定め、久保田城の築城を開始した 4 。そして慶長9年(1604年)には、未だ普請の途中であったが本拠を久保田城へと移し、城下町の建設にも本格的に着手した 28 。
この久保田城は、壮麗な天守閣や高石垣を持たず、土塁と水堀を主体とした、中世城郭の様相を色濃く残す実戦的な城であった 33 。これは、築城技術の古さというよりは、一揆などの内乱や、隣接する津軽・南部藩との緊張関係を常に意識した、義宣の現実的な判断の結果であったと考えられる。
藩政の確立と財政基盤の構築
新たな城と城下町の建設と並行して、義宣は久保田藩の統治体制を確立するための改革を断行した。
- 中央集権化の断行: 義宣は、常陸からの転封という危機を逆手に取り、一門や譜代家臣の知行を大幅に削減してその権力を削ぎ、藩主である自身への権力集中を徹底した 19 。さらに、旧来の家柄や序列にとらわれず、能力本位で新たな人材を登用し、藩政の中枢を刷新した 34 。
- 新たな経済基盤の構築: 農業生産力が中心であった常陸国とは異なり、秋田は鉱物資源と森林資源に恵まれた土地であった。義宣は領内の総検地や知行割を実施して支配体制を固めると同時に 31 、院内銀山をはじめとする鉱山の開発や、藩の財政を長く支えることになる天然秋田杉の林業を新たな財政の柱として積極的に育成した 4 。
- 幕府との関係修復: 関ヶ原での曖昧な態度のために国を失いかけたという痛烈な教訓から、義宣は徳川幕府への恭順の意を明確に示した。慶長19年(1614年)に大坂の陣が勃発すると、彼は徳川方として参戦。今福の戦いでは、家臣の渋江政光が戦死するなどの犠牲を払いながらも豊臣軍を撤退させる武功を挙げ、幕府内での評価を回復させることに成功した 4 。
久保田藩の初期藩政は、まさに「関ヶ原の敗者」というトラウマと、北国の厳しい自然・経済環境を克服するための、徹底した現実主義と合理主義に貫かれていた。関ヶ原で「義」を貫こうとして全てを失いかけた義宣は、新天地において、もはや理想や恩義ではなく、藩を存続させるための現実的な手段を最優先する冷徹な経営者へと変貌を遂げた。この最大の危機が、佐竹義宣を戦国武将から近世大名へと生まれ変わらせたのである。
結論:転封が佐竹家にもたらした変革と後世への影響
慶長7年(1602年)の佐竹義宣出羽転封は、日本の歴史が戦国の乱世から江戸の泰平へと大きく転換する時代を象徴する、極めて重要な事件であった。この出来事は、単に一大名の領地が変更されたという事実以上に、深い歴史的意義と多層的な影響を内包している。
第一に、処分の背景を再確認すると、義宣の行動は石田三成への恩義に根差すものであり、家康自身もその人柄を「律儀者」と評したほどであった 6 。しかし、彼の個人的な信義に基づく行動は、結果として徳川政権にとって看過できない地政学的な脅威を生み出した。江戸近郊に温存された無傷の大兵力は、新たな支配体制の安定化を目指す家康にとって、排除すべき最大のリスクの一つであった。したがって、この転封処分は、義宣個人の資質への評価とは別に、新時代の秩序を構築するために下された、冷徹かつ必然的な政治的判断であったと言える。
第二に、この転封という事象が持つ二重性である。佐竹家にとって、400年以上にわたり支配してきた先祖伝来の地・常陸国を失ったことは、最大の屈辱であり悲劇であった。しかし、その一方で、この危機は旧来の家臣団の構造を刷新し、藩主主導の強力な中央集権体制をゼロから構築する絶好の機会をもたらした。54万石という旧体制の重荷から解放されたことで、義宣はより効率的で近代的な統治システムを新天地で実現することが可能になったのである。
第三に、久保田藩の礎の確立である。秋田という未開の地で、義宣は卓越した経営手腕を発揮した。一揆を鎮圧して領国を平定し、久保田城と城下町を建設して新たな政治・経済の中心を創出した。さらに、鉱山開発や林業といった地域の特性を活かした新たな財政基盤を確立し、藩の存続を確かなものにした。この苦難の中から生まれた久保田藩の統治システムは、その後約270年間にわたって佐竹氏による支配を支え、幕末に至るまで存続する強固な礎となった 29 。
総括すると、佐竹義宣の出羽転封は、戦国時代的な価値観(義理や恩義)と、近世的な新しい秩序(覇者による支配)が激しく衝突した象徴的な事件であった。そして、その敗者がいかにして逆境を乗り越え、自己を変革し、新たな時代に適応していったかを示す、近世大名成立過程の克明な一事例として、重要な歴史的価値を持つ。常陸54万石の栄華は失われたが、その代償として得た秋田20万石の地で、佐竹氏は近世大名として再生し、その血脈を未来へと繋いでいったのである。
引用文献
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- 戦国大名・佐竹義宣 常陸の栄華と秋田への流転 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=qgM0W9hUJ_s
- 石田三成が佐竹義宣へ思いを託した薙刀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/7132/
- (佐竹義宣と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/33/
- 佐竹義宣の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38335/
- 家康も呆れた佐竹義宣の「律儀」さ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26171
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- 佐竹氏の歴史 - DTI http://www.remus.dti.ne.jp/~ddt-miz/satake/satake-7.html
- 人生の岐路で友情と名門とに揺れた“戦国時代の御曹子”【佐竹義宣】の葛藤【知っているようで知らない戦国武将】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/37929
- 第十三章 佐竹氏の秋田移封 - 水戸市 https://www.city.mito.lg.jp/uploaded/attachment/10830.pdf
- 【家紋】常陸源氏の嫡流にして豊臣六大将の一!「佐竹義宣」と佐竹氏の家紋について https://sengoku-his.com/867
- 「佐竹義宣」関ヶ原では東軍でありながら義理を通して西軍に与した律義者!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/717
- ある不動産業者の地名由来雑学研究~その壱拾七~ - トータルプラン長山に。 https://www.totalplan.co.jp/sub9-H19-17.html
- 【常陸国佐竹氏】茨城の英雄 佐竹氏とはどんな一族だった?~平安時代から続く超名門一族の生き残り戦術は現代に通ずるアレだった!?~ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=LTzbTNNUXCQ
- 武家家伝_佐竹氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/satake_k.html
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