佐賀城本丸再建(1608)
慶長13年、鍋島氏が佐賀城を大普請。龍造寺氏から実権を掌握した鍋島氏の権威を示すもので、広大な水堀と土塁は幕府への恭順、本丸石垣は旧龍造寺勢力への威嚇を意図した。
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佐賀藩の黎明:慶長十三年佐賀城大普請の真相 ―戦国終焉の象徴から近世大名の礎へ―
序章:慶長十三年、佐賀城本丸普請の歴史的意義
慶長13年(1608年)に開始された佐賀城の総普請は、単なる既存城郭の修繕や増築事業として捉えるべきではない。これは、戦国時代を通じて肥前国に覇を唱えた龍造寺氏の時代に事実上の終止符を打ち、その実権を継承した鍋島氏が、名実ともに肥前佐賀三十五万石余の支配者として新たな時代を切り拓くことを内外に宣言する、極めて政治的な意味合いを帯びた「創建」事業であった 1 。龍造寺氏の旧居城であった村中城を基礎としながらも、その構造と規模を抜本的に変革し、近世城郭として再生させるこの一大事業は、鍋島氏による新体制の幕開けを象徴するものであった。
本報告書は、この慶長の大普請がなぜこの時期に行われなければならなかったのか、そして完成した城の特異な構造、すなわち広大な水堀と限定的な石垣の使用には、いかなる戦略的・軍事的合理性と、複雑に絡み合う政治的意図が込められていたのかを、戦国時代から続く権力移行の力学という視座から徹底的に解明するものである。
第一部:普請前夜 ―鍋島氏、実権掌握への道程
佐賀城大普請という「結果」を理解するためには、それに至る数十年にわたる政治的「原因」の解明が不可欠である。戦国時代から続く権力移行のダイナミズムこそが、この築城の真意を読み解く鍵となる。
第一章:龍造寺体制の動揺と鍋島直茂の台頭
肥前の戦国大名龍造寺氏は、当主・隆信の卓越した軍事指導力のもと、九州北部に広大な勢力圏を築き上げた。しかし、その体制は隆信個人の力量に大きく依存しており、本質的な脆弱性を内包していた。
天正12年(1584年)、島津・有馬連合軍との沖田畷の戦いにおいて、龍造寺隆信がまさかの戦死を遂げると、その軍事的中核は崩壊し、龍造寺家の権力に巨大な空白が生じた 4 。この国家存亡の危機に際し、宿老であった鍋島直茂は、巧みな外交手腕と冷静な軍事行動によって家中の分裂と崩壊を防ぎ、若き新当主・政家を補佐する形で実質的な指導者として台頭していく 4 。
その後、天下統一を進める豊臣秀吉は、龍造寺家の内情と直茂の卓越した実務能力を見抜き、龍造寺家の領国経営を直茂に委任する旨の朱印状を発給した 1 。これにより、名目上の領主である龍造寺政家と、実質的な支配者である鍋島直茂という二重権力構造が、天下人によって公的に追認されることとなった。この歪な統治体制は、後の鍋島氏による円滑な権力掌握への重要な布石となる 1 。天正18年(1590年)、直茂は龍造寺氏の居城であった村中城(後の佐賀城)に入り、城の改修計画に着手し始める 1 。これは、直茂が物理的にも権力の中心を掌握したことを示す象徴的な出来事であった。
第二章:関ヶ原の岐路 ―西軍加担と東軍への転身
慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いは、全国の大名を二分し、鍋島家もまたその渦中で重大な決断を迫られた。
当時の当主であった鍋島勝茂は、豊臣政権との関係から石田三成らが率いる西軍に与し、伏見城攻めに参加した 1 。これは、豊臣政権下でその地位を確立した鍋島家にとって、ごく自然な選択であったと言える。
しかし、佐賀にあって天下の形勢を冷静に見極めていた父・直茂の判断は異なっていた。彼は徳川家康の勝利を確信し、密かに家康に恭順の意を示すと同時に、勝茂を戦線から巧みに離脱させた 7 。さらに、家康の要請に応える形で、九州における西軍方の諸将、すなわち立花宗茂の柳川城や小早川秀包の久留米城を攻撃し、東軍としての戦功を「後付け」で作り上げるという離れ業を演じた 7 。
この直茂の深謀遠慮が功を奏し、戦後、鍋島家は改易の危機を免れ、肥前国の本領を安堵されることとなった 7 。しかし、一度は西軍に与したという事実は、外様大名として徳川幕府に対して常に慎重な姿勢を求められるという、後の鍋島家の立場を決定づけることになった。この関ヶ原における政治的「失敗」の記憶は、後の佐賀城の構造、特に幕府に対する「遠慮」を示す設計思想に、色濃く影を落とすことになる。
第三章:龍造寺本家の終焉と新時代の幕開け
関ヶ原の戦いを乗り越えた鍋島氏であったが、名目上の主君である龍造寺家の存在は、依然としてその支配体制における最大の不安定要因であった。
慶長12年(1607年)、龍造寺家の当主であった高房が、鍋島氏による事実上の「御家乗っ取り」に絶望し、直茂の養女であった自らの妻を殺害した上で自害を図るという悲劇が起こる 12 。高房は一命を取り留めたものの、この事件は龍造寺本家の権威を完全に失墜させた。さらに、この事件による心労が追い打ちとなり、父である政家も後を追うように急死した。これにより、龍造寺本家は事実上断絶する 11 。
この龍造寺本家の終焉は、鍋島氏の支配を阻む最後の枷が外れたことを意味した。ここに、名実ともに「鍋島佐賀藩」が成立する政治的条件が完全に整ったのである 1 。そして、この政治的画期こそが、翌年の佐賀城大普請開始の直接的な引き金となった。龍造寺家が存在する間は、いかに実権を握ろうとも家臣の立場である鍋島氏が、主家の城を抜本的に改変することは政治的に不可能であった。龍造寺家の断絶は、鍋島氏が自らを「藩主」として位置づけ、その権威を象徴する新たな城を築くための、最後の、そして最大の「政治的許可」だったのである。
第二部:慶長の大普請 ―佐賀城誕生の軌跡(1608年~1611年)
龍造寺本家の断絶という政治的空白を埋めるべく、鍋島直茂・勝茂父子は間髪を入れず、新たな時代の象徴となる城郭の建設に着手した。その過程は、鍋島氏がこの事業に込めた強い意志と、周到な計画性を示すものであった。
以下の時系列表は、大普請の具体的な進捗と、それを取り巻く政治的動向をまとめたものである。
年代(西暦/和暦) |
政治・社会情勢 |
佐賀城普請の進捗 |
関連資料 |
天正12年(1584) |
沖田畷の戦い。龍造寺隆信戦死。 |
(前史) |
4 |
慶長5年(1600) |
関ヶ原の戦い。鍋島勢は西軍から東軍へ転向。 |
(前史) |
1 |
慶長12年(1607) |
龍造寺高房自害未遂、政家死去。龍造寺本家断絶。 |
(前史)普請計画の本格化。 |
11 |
慶長13年(1608) |
徳川幕府の支配体制が安定化。 |
**佐賀城総普請開始。**6月16日より四方の城堀の掘削に着手。 |
1 |
|
筑前福岡藩主・黒田長政が人夫を送り支援。 |
城北堀の一部「筑前堀」が掘られる。 |
15 |
慶長14年(1609) |
鍋島勝茂、弟・忠茂に鹿島藩を創設させる。 |
四層五階の天守が竣工。 |
15 |
慶長15年(1610) |
- |
本丸御殿、石垣、土塁などの工事が進行。 |
- |
慶長16年(1611) |
領内総検地を実施。 |
**総普請完了。**鍋島勝茂が新築された本丸御殿へ入城。 |
2 |
慶長18年(1613) |
幕府が佐賀藩の石高(35万7千石)を公認。 |
- |
18 |
第一章:慶長十三年(1608年)-大地を穿つ-
慶長13年、鍋島直茂・勝茂父子は領内に総普請を号令し、藩内の人的・物的資源を総動員する一大事業を開始した 1 。その最初の、そして最も象徴的な工事が、城の根幹をなす広大な水堀の掘削であった。
同年6月16日、国中から動員された人夫によって、城の四方を囲む堀の掘削が開始された 15 。その規模は、幅が40間(約72メートル)から50メートル以上にも及び、佐賀城の最大の特徴となる防御線を形成した 1 。この工事において特筆すべきは、城の北堀東部分の掘削である。この区画は、隣国・筑前福岡藩の藩主である黒田長政からの加勢を得て掘られたため、今日に至るまで「筑前堀」の名で呼ばれている 15 。これは、かつて鍋島氏が福岡城の普請を手伝ったことへの返礼であり 20 、関ヶ原を共に東軍として戦い抜いた九州の有力外様大名間の協力関係を示す貴重な事例である。
第二章:慶長十四年(1609年)-天守、聳え立つ-
普請開始からわずか1年余りという驚異的な速さで、佐賀城の象徴となる天守が竣工した 15 。天守台は高さ約9メートル、南北31メートル、東西27メートルに及ぶ大規模なものであり、その上に4層5階の壮大な天守が聳え立った 17 。
古絵図などの資料から、この天守は層塔型と呼ばれる、戦闘拠点としての機能に加え、藩主の権威を象徴する「見せる」ことを意識した近世城郭特有の様式であったと推測される 10 。この迅速な天守建設は、鍋島氏が自らの新たな権威を領内外に視覚的に確立することを、他の何よりも優先した結果であると考えられる。それは、もはや龍造寺氏の家臣ではなく、この地の支配者であることを示す、揺るぎない宣言であった。
第三章:慶長十六年(1611年)-新時代の政庁、始動-
堀と天守の完成に続き、藩政の中枢となる本丸御殿の造営が進められ、慶長16年に一連の総普請が完了した 15 。この年、初代藩主・鍋島勝茂は、新築された本丸御殿に正式に入城した 2 。これは、龍造寺氏が支配した村中城の時代が名実ともに終わりを告げ、佐賀城を拠点とする鍋島藩の統治が本格的に始動したことを示す、画期的な儀式であった。
第三部:新生佐賀城の構造分析 ―縄張りに秘められた政治力学
慶長の大普請によって誕生した佐賀城は、その縄張り(城郭の設計)において極めてユニークな特徴を備えていた。その構造は、単なる軍事上の要請だけでなく、徳川幕府、そして領内に残る旧龍造寺勢力という、二つの異なる対象に向けられた、高度な政治的メッセージが込められたものであった。
第一章:「沈み城」の戦略 ―広大なる水堀と土塁の意味
佐賀城は、河川の堆積作用によって形成された沖積平野の低湿地に位置する 1 。築城にあたり、鍋島氏はこの地理的特性を弱点ではなく、最大の利点として活用した。周囲のクリーク(小河川)網から水を巧みに引き込むことで、幅50メートルを超える広大な水堀を城の周囲に張り巡らせ、難攻不落の防御線を構築したのである 1 。
さらに、この城の防御思想を特徴づけるのが、石垣ではなく土塁を多用した点である。城の防御線の多くは、威圧的な高石垣ではなく、土を幾重にも突き固めて造成した土塁で構成されていた 1 。そして、その土塁の上には楠や松といった樹木が密植され、城外から城内の様子を窺うことを物理的に困難にした 1 。この、あたかも森の中に沈んでいるかのような独特の外観から、佐賀城は「沈み城」の異名を持つに至った 10 。
慶長期の築城技術の粋が高石垣であったことを考えれば、土塁の多用は一見、時代遅れあるいは財政難による妥協の産物と見なされがちである。しかし、その選択には極めて合理的な理由が存在した。第一に、石材の切り出し、運搬、加工に莫大な費用と時間を要する石垣に比べ、現地の土を利用する土塁は、経済的負担を大幅に軽減できる。関ヶ原後の不安定な時期にあって、これは現実的な選択であった 20 。第二に、土塁は当時の主要な攻城兵器であった大砲の砲撃に対し、その衝撃を柔軟に吸収するため、石垣よりもむしろ高い耐久性を発揮する場合があった。そして第三に、最も重要な政治的配慮として、高石垣を多用した壮麗な城は、徳川幕府に「天下への野心あり」との警戒心を抱かせかねなかった 23 。土塁と樹木で城の威容を巧みに「隠す」ことは、幕府への恭順の姿勢を示す、計算された政治的パフォーマンスであった。これらを総合すれば、土塁の採用は、経済・軍事・政治の三側面から導き出された、鍋島氏にとっての「最適解」だったのである。
第二章:計算された威光 ―本丸石垣と天守台の象徴性
佐賀城の設計思想の巧みさは、その防御構造だけでなく、権威の象徴である石垣と天守の配置にこそ見て取れる。この城の縄張りは、二つの異なる「聴衆」に向けた、全く異なるメッセージを発信していた。
その一つ目の聴衆は、 外部の最高権力者、すなわち徳川幕府 である。前述の通り、「沈み城」の構造は、幕府に対して軍事的野心がないことを示す恭順のメッセージであった 24 。
しかし、二つ目の聴衆、すなわち 城内に居住する潜在的対抗勢力、旧主・龍造寺一門とその家臣団 に対しては、全く逆のメッセージが送られた 8 。佐賀城で本格的な高石垣が用いられたのは、天守を中心とする本丸の北側と西側に限定されていた 3 。そして、これらの石垣は城の外側(城下町側)ではなく、旧龍造寺家臣団が多く居住する城の内側(二の丸や西の丸)に面して築かれていたのである 24 。これは、彼らに対して「もはや我々鍋島家がこの城の、そしてこの国の主である」という絶対的な権威を見せつけ、旧体制への郷愁や反抗の芽を摘むための、明確な示威行為に他ならなかった。
さらに、佐賀城の天守台は、本丸内部からではなく、外側の二の丸から付櫓を経由して登るという、全国的にも類例のない特異な構造を持っていたと伝わる 24 。これは、しばしば「旧主への配慮」と解釈されるが、むしろ「この天守は我々鍋島家の権威の象徴であり、旧体制の者たちが気安く立ち入る場所ではない」という、厳格な線引きを示す意図があった可能性も否定できない。
このように、佐賀城の縄張りは、外部に対しては「服従」を、内部に対しては「威嚇」を同時に示すという、二つの相反する政治的メッセージを内包した、極めて高度に計算された設計だったのである。
第四部:城は藩の礎なり ―佐賀藩体制の確立
佐賀城の完成は、単に物理的な拠点が出来上がったことを意味するだけではなかった。それは、鍋島氏による藩支配体制が、名実ともに確立されたことを象徴する出来事であった。
第一章:三十五万七千石の公認
慶長16年(1611年)、佐賀城の完成と時を同じくして、鍋島勝茂は領内の総検地を実施した 18 。この検地の結果、佐賀藩の公式な石高は三十五万七千石余と算出された。そして慶長18年(1613年)、この石高が徳川幕府によって正式に公認されたのである 18 。これにより、佐賀藩は全国の大名序列の中に確固たる地位を占めることになった。新たに完成した壮麗な佐賀城は、この九州有数の大藩の石高にふさわしい権威の象徴として、その役割を十二分に果たした 29 。
第二章:新たな支配体制の構築
新たな佐賀城は、単なる藩主の居館ではなく、藩の行政・軍事機能を集約した中枢拠点として整備された 5 。そして、この城の建設と並行して、勝茂は自らの支配体制を盤石にするための政治的布石を打っていた。
彼は弟や息子たちに領地を分け与え、小城藩・蓮池藩・鹿島藩の三支藩を創設した 18 。これは、領内に依然として勢力を保っていた旧龍造寺一門に対抗し、鍋島氏による支配を血縁によって強化するための重要な戦略であった。そして、この新たな一門体制の頂点に立つ本城として、佐賀城は絶対的な中心として位置づけられたのである。
結論:未来への布石としての大普請
慶長13年(1608年)に始まった佐賀城の大普請は、単なる建築事業の枠を遥かに超える、多層的な歴史的意義を持つ事象であった。それは、戦国大名・龍造寺氏の時代という「過去」との明確な決別であり、徳川幕藩体制下における自らの立場を規定し、内外のライバルに対する姿勢を表明する「現在」への対応であり、そして約270年にわたる鍋島氏による安定支配の礎を築く「未来」への布石であった。
その「沈み城」と称される特異な構造は、単なる様式の選択や経済的制約の結果ではない。それは、戦国乱世の激動を生き抜き、新たな江戸時代という秩序に適応しようとした鍋島直茂・勝茂父子の、極めて高度な政治的判断と戦略的思考の結晶であった。佐賀城は、まさに石と土と水で描かれた、鍋島佐賀藩誕生の宣言書だったのである。
引用文献
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- 第 2 章 佐賀市の維持及び向上すべき歴史的風致 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/2022/202203/p1fubekmismar1qki1eq5rn71vjtc.pdf
- 鍋島直茂~龍造寺家から独立、佐賀藩祖となった男の才覚 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4914
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- 復元された御殿と現存する櫓門のある【佐賀城の歴史】を総ざらい - 日本の城 Japan-Castle https://japan-castle.website/history/sagacastle/
- 鍋島直茂は何をした人?「卓越した頭脳と手腕で当主に代わって龍造寺氏を導いた」ハナシ https://busho.fun/person/naoshige-nabeshima
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- 佐賀城の魅力再発見!本丸御殿と鯱の門を堪能 - 縄張りマニアの城巡り https://castlewalk.hatenablog.jp/entry/2024/10/09/100000
- 龍造寺から鍋島35万石へ 【佐賀城・高伝寺・徴古館:鍋島家のトビラ1】 佐賀県佐賀市 - note https://note.com/ryuzoujibunko/n/n6171feb16390
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- 佐賀城 肥前国庁 余湖 http://yogokun.my.coocan.jp/kyushu/sagasi.htm
- 佐賀城(佐賀県佐賀市)の登城の前に知っておきたい歴史・地理・文化ガイド - note https://note.com/digitaljokers/n/nad08c14253be
- 佐賀城の観光ポイントとは?歴史ある名城をご紹介 - スカイチケット https://skyticket.jp/guide/407806/
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- 佐賀藩 - さがの歴史・文化お宝帳 https://www.saga-otakara.jp/search/detail.html?cultureId=2492