佐野城改修(1603)
慶長7年、家康は豊臣恩顧の佐野信吉に唐沢山城から佐野城への移転を命じた。信吉の力を削ぐ政治的圧力で、完成した城も彼の改易と共に廃城となった。
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泰平の礎か、悲劇の序章か:慶長の佐野城移転・築城の時系列全史
序章:関ヶ原の残響と下野佐野の岐路
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いは徳川家康の勝利に終わり、日本の権力構造は決定的な転換点を迎えた。豊臣政権は形骸化し、家康による新たな支配体制、すなわち江戸幕府の礎が築かれ始めた時代である。この激動の時代にあって、下野国佐野(現在の栃木県佐野市)の領主、佐野信吉は極めて繊細かつ危険な立場に置かれていた。
佐野信吉は、豊臣秀吉子飼いの奉行衆として知られる富田一白(知信)の子として生まれ、佐野氏の名跡を継承していた佐野房綱の養子となった人物である 1 。秀吉からは直々に「吉」の偏諱と豊臣姓を賜るなど、その出自は紛れもなく豊臣恩顧の大名であった 2 。それゆえ、関ヶ原の戦いではその去就が注目されたが、信吉は東軍(徳川方)に与し、戦後、家康から所領3万9000石を安堵され、佐野藩の初代藩主となった 1 。
しかし、この所領安堵は、決して信吉の未来を保証するものではなかった。むしろ、それは徳川家康による一種の「観察期間」の始まりであったと解釈できる。関ヶ原で東軍に味方した豊臣恩顧の大名は数多く存在したが、家康は彼らを即座に粛清するのではなく、一旦は所領を認め、その忠誠心を試すという手法をとった。信吉の豊臣家との深い縁は、新時代の支配者である徳川にとって、決して消えることのない原罪であり、常に警戒の対象とされ続けたのである 6 。
さらに、この時期の家康が推し進めていた「関東再編」は、単なる大名の配置転換に留まらない、より深遠な意図を含んでいた。それは、徳川の本拠地である江戸を中心とした「徳川圏」から、潜在的な脅威となりうる不純物を排除し、その支配体制を盤石にするための「純化プロセス」であった。佐野の地は江戸から約80キロメートルという戦略的要地にあり 7 、そこに豊臣恩顧の大名である信吉が存在すること自体が、家康にとって許容しがたいリスクと映った。慶長7年(1602年)に下される佐野城への移転命令は、この関東純化プロセスの具体的な一歩であり、信吉の運命を大きく左右する序曲となったのである。
【表1:佐野城改修関連年表(慶長5年~元和8年)】
年代(西暦) |
元号 |
主な出来事 |
関連事項・背景 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い。 佐野信吉は東軍に属し、戦後3万9000石を安堵される。 |
徳川家康が天下の実権を掌握。 |
1601年 |
慶長6年 |
佐野信吉の養父・佐野房綱が死去。 |
信吉が名実ともに佐野氏の当主となる。 |
1602年 |
慶長7年 |
徳川家康の意向により、唐沢山城の廃城と佐野城の築城が開始される。 |
豊臣恩顧大名への圧力が顕在化。 |
1603年 |
慶長8年 |
徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く。 |
徳川による支配体制が公式に確立。 |
1607年 |
慶長12年 |
佐野信吉、築城中の佐野城へ居城を移す。 |
城郭は未完成ながらも藩庁機能が移転。 |
1613年 |
慶長18年 |
大久保長安事件が発覚。長安は死後処罰される。信吉の兄・富田信高が改易される。 |
信吉の周辺で不穏な動きが活発化。 |
1614年 |
慶長19年 |
1月:大久保忠隣が改易。3月:江戸大火に際し、信吉が無断参府。7月: 佐野信吉、改易。 |
大坂冬の陣の直前。豊臣恩顧大名の排除が進む。 |
1614-15年 |
慶長19-20年 |
大坂冬の陣・夏の陣。豊臣家が滅亡。 |
徳川による天下統一が完成。 |
1622年 |
元和8年 |
佐野信吉、赦免されるも同年のうちに江戸で死去。 |
享年57歳。 |
第一章:過去の栄光と未来への桎梏 ― 難攻不落の唐沢山城
佐野城への移転を理解するためには、まず放棄されることになった唐沢山城が、いかなる存在であったかを知る必要がある。唐沢山城は、単なる城郭ではなく、佐野氏数百年の栄光と、戦国乱世を生き抜いた誇りの象徴であった。
難攻不落の「関東一の山城」
唐沢山城は、佐野市街地の北方にそびえる標高247メートルの唐沢山に築かれた連郭式の山城である 8 。その起源は、平安時代の藤原秀郷による築城と伝承されるが、近年の研究では15世紀後半に佐野氏によって本格的に整備されたと考えられている 8 。
この城が歴史の表舞台でその名を轟かせたのは、戦国時代である。関東の覇権を巡り、越後の上杉謙信と相模の北条氏康・氏政親子が激しく争う中、佐野氏はその両勢力に挟まれるという地政学的に極めて困難な状況にあった 5 。城主・佐野昌綱は、巧みな外交戦略で両者の間を渡り歩いたが、特に上杉謙信とは敵対関係になることが多く、実に10度にも及ぶ攻城戦を経験した 8 。しかし、唐沢山城はその天険の要害と巧みな防御施設によって、軍神と謳われた謙信の猛攻をことごとく退けたのである。この輝かしい戦歴により、唐沢山城は「関東一の山城」と賞賛され、その名は天下に知れ渡った 8 。
豊臣の威光を映す高石垣
時代は下り、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐後、佐野信吉が城主となると、唐沢山城は新たな姿を見せる。信吉は、城の南西部に高さ8メートルを超える壮麗な高石垣を築き上げたのである 13 。これは、土塁や切岸を主とする関東の城郭においては極めて珍しいものであり、西日本で発展した最新の築城技術が導入されたことを示している 7 。
この大規模な改修は、単なる防御力強化を目的としたものではなかった。むしろ、それは高度に政治的な意味合いを持つ建造物であった。秀吉の支援を受けて、その子飼いの大名である信吉が、徳川家康の本拠地・関東に豊臣の権威と先進技術の象徴たる高石垣を築く。これは、家康に対する無言の牽制であり、関東に打ち込まれた豊臣の「楔」であったと解釈できる 7 。事実、秀吉は信吉に家康の監視役を期待していたとされ、家康自身もこの城を「目障り」に感じていたという 7 。唐沢山城の山頂からは、約80キロメートル離れた江戸の町まで見渡すことができたという事実が、その戦略的・政治的な意味合いを一層強めている 7 。
時代の変化と価値の転換
しかし、皮肉なことに、戦国時代に唐沢山城の価値を高めたこれらの要素は、徳川の世においては、ことごとくその存在を危うくする桎梏(しっこく)、すなわち足枷へと転化する。戦国乱世において「強さ」の証明であった圧倒的な防御力は、泰平の世では支配者への潜在的な反逆の意思と見なされる。江戸を見下ろす戦略的な立地は、忠誠の証ではなく、不遜な野心の現れと解釈される。時代の価値基準が転換したとき、過去の栄光は未来を縛る呪いとなったのである。この価値の転換こそが、名城・唐沢山城が歴史の舞台から姿を消す根本的な要因であった。
【表2:唐沢山城と佐野城の比較対照表】
項目 |
唐沢山城 |
佐野城(春日岡城) |
立地 |
山城 |
平山城 |
標高 |
約247メートル 8 |
約56メートル 5 |
縄張(設計) |
複雑な曲輪配置を持つ防御重視の構造 |
南北に曲輪が直線的に並ぶ行政重視の連郭式 14 |
主たる防御施設 |
高石垣、巨大な堀切、竪堀、土塁 8 |
堀、土塁、切岸 16 |
想定される敵 |
上杉謙信、北条氏政など戦国大名の軍勢 |
(泰平の世であり、大規模な軍事衝突は想定されず) |
主目的 |
軍事拠点、地域の支配拠点 |
藩庁、行政・経済の中心拠点 |
象徴する時代 |
戦国乱世 |
江戸泰平(近世) |
第二章:静かなる圧力 ― 移転命令の真相
慶長7年(1602年)、佐野信吉に対し、徳川家康の意向として唐沢山城を廃し、麓に新たな城を築くよう命令が下された 6 。これは、信吉と佐野藩の運命を決定づける、静かながらも極めて重い圧力であった。この移転命令の背景には、複数の説が語られているが、それらを検証することで家康の真の政治的意図が浮かび上がってくる。
表層の理由:江戸大火遠望説という物語
移転の理由として最も広く知られているのが、「江戸大火遠望説」である。これは、ある時江戸で大火が発生した際、唐沢山城の物見櫓からその煙を発見した信吉が、いち早く手勢を率いて江戸に駆けつけ消火活動に貢献した。しかし、その忠誠心は家康に評価されるどころか、逆に「江戸を見下ろす地に城を構えるとは何事か」と不興を買い、移転を命じられたという逸話である 7 。
この逸話は非常に劇的で分かりやすいが、その信憑性には疑問符が付く。むしろ、これは家康の冷徹な政治的判断を、信吉個人の「不遜な態度」という分かりやすい物語にすり替えることで、改易・移転という厳しい処分を正当化するための、後付けのプロパガンダであった可能性が高い。真の狙い、すなわち豊臣系大名の無力化という政治的目的を隠蔽し、個人的な感情(不興)を理由とすることで、他の大名や民衆の納得を得やすくするという、高度な情報操作の一環であったと分析できる。
制度的理由:山城禁令説
もう一つの説として、「山城禁令説」が挙げられる。これは、江戸から二十里(約80キロメートル)以内にある山城の存在を、幕府が禁じていたというものである 6 。唐沢山城はこの範囲に該当するため、法令に従って廃城になったという見方である。これは一見、客観的で制度的な理由に見えるが、そのような明確な法令が当時存在したかについては確たる証拠がなく、唐沢山城を廃城にさせるための方便であった可能性も否定できない。
核心の理由:豊家縁故説という政治的判断
これらの俗説や制度的理由の奥底に横たわる、最も本質的な理由こそが「豊家縁故説」である 6 。すなわち、豊臣家に縁の深い信吉が、徳川の本拠地である江戸の喉元に、かつて上杉謙信をも退けた難攻不落の山城を維持し続けること自体が、徳川政権にとって潜在的な脅威であると見なされた、というものである 19 。
この移転命令は、単に城の場所を変えさせるだけではない。それは、信吉の持つ力を三つの側面から同時に削ぐ、極めて巧妙な一手であった。
第一に、軍事力の無力化。難攻不落の山城を放棄させ、防御力で劣る平山城に移すことで、信吉の軍事的な牙を抜く。
第二に、経済力の消耗。新たな城と城下町の建設には莫大な費用と労力がかかり、藩の財政を著しく圧迫させる。
第三に、権威の失墜。佐野氏累代の拠点であり、栄光の象徴である唐沢山城を自らの手で廃城にさせることは、信吉自身の権威を傷つけ、家臣団の結束を揺るがす効果があった。
このように、佐野城への移転命令は、信吉を物理的、経済的、そして精神的に弱体化させるための、周到に計算された政治戦略であった。それは、来るべき泰平の世の秩序を構築するために、旧時代の遺物となりうる勢力を、力ずくではなく、法と命令によって静かに解体していく、徳川家康の統治術の典型例と言えるだろう。
第三章:新時代の城と町を創る ― 佐野城・城下町普請のリアルタイム記録(慶長7年~12年)
徳川からの静かなる圧力を受け、佐野信吉は慶長7年(1602年)から、新時代の拠点となる佐野城とその城下町の建設という巨大なプロジェクトに着手した。それは、過去との決別であり、新たな支配体制への適応をかけた必死の努力の始まりであった。
新城の設計思想と縄張り
新たな城の建設地に選ばれたのは、春日岡(または旭丘)と呼ばれる独立丘陵であった 5 。この地には元々、藤原秀郷が平将門討伐を祈願して建立したと伝えられる惣宗寺(現在の佐野厄除け大師)が存在したが、築城にあたり移転を命じられている 6 。
佐野城の縄張り(設計)は、戦国の山城である唐沢山城とは全く異なる思想で貫かれていた。丘陵の地形を利用し、南から三の丸、二の丸、本丸、そして北の守りを固める北出丸が一直線に並ぶ「連郭式平山城」である 14 。史料によれば、城の規模は東西約370メートル、南北約580メートルに及び、広大な外堀も計画されていた 15 。これは、複雑な防御網で敵を迎え撃つことを主眼とした唐沢山城とは対照的に、藩の政務と領主の居住空間としての機能性を重視した、近世城郭の典型的な姿であった。
発掘調査が覆した「未完成の城」説
佐野城は、築城開始からわずか12年後の慶長19年(1614年)に信吉が改易されたことで廃城となったため、長らく「未完成の城」であったと考えられてきた 15 。しかし、昭和63年(1988年)から平成10年(1998年)にかけて行われた佐野市による発掘調査は、この通説を覆す驚くべき事実を明らかにした。
調査の結果、城内からは建物の基礎となる礎石や、城門跡と見られる石垣虎口、さらには見事な石畳の通路が発見された 15 。加えて、屋根を飾っていたであろう瓦も大量に出土しており、これらの物証は、佐野城が単なる工事途中の砦ではなく、主要な建造物が完成し、城郭としての機能を十分に備えた「完成された城」であったことを雄弁に物語っている 22 。この事実は、信吉が極めて高い行政能力と統率力をもって、短期間で大規模な築城事業を成し遂げたことを示唆している。そして、これほど見事な城が完成直後に歴史から抹消されたという事実は、徳川幕府による改易がいかに非情な政治的判断であったかを、より一層際立たせる結果となった。
城下町の整備と民衆の負担
信吉のプロジェクトは、城の建設だけに留まらなかった。築城と並行して、城の東側と南側には、碁盤の目のように区画整理された整然とした城下町が建設された 15 。武家屋敷や町人地が計画的に配置され、さらには鋳物師を「金屋町」に集住させるなど、産業振興策も講じられた 26 。この時に形成された町並みは、400年後の現代に至るまで佐野市の都市構造の骨格として受け継がれている 7 。
しかし、この壮大な都市開発は、領民に大きな負担を強いたことも事実である。その過酷さを今に伝えるのが、「八朔人形」の伝承だ。築城工事があまりに多忙であったため、人々は3月3日の上巳の節句(桃の節句)や5月5日の端午の節句を祝う暇もなかった。そのため、工事が一段落した8月1日(八朔)に、子供たちの成長を願う祝い事をまとめて行ったという 7 。この逸話は、単なる地方の昔話ではない。それは、江戸城や名古屋城など、徳川の権威を示すための巨大プロジェクト「天下普請」が、各大名を通じて末端の領民にまでいかに重い労役を課していたかを示す、貴重な民衆史の証言なのである。佐野城築城という一つの事象は、近世初期の社会の光と影を映し出している。
第四章:束の間の安寧と忍び寄る破局の影(慶長12年~19年)
慶長12年(1607年)、佐野信吉は普請が続く新城・佐野城へ正式に居城を移した 5 。これにより、佐野藩の藩庁機能は名実ともに唐沢山城から麓の平山城へと移行し、新たな時代の統治が本格的に始動した。城下町も徐々に活気を帯び、信吉は新時代の領主として、束の間の安寧を享受したかに見えた。
この時期、信吉は徳川政権との関係構築にも努めていた。将軍宣下の式典にも参加するなど、表向きには幕府の忠実な家臣として振る舞い、徳川の秩序の中に完全に組み込まれているように見えた 28 。唐沢山城を自ら廃し、幕府の意向に沿った近世城郭を築いたことは、彼の恭順の意を示す最大の証であったはずである。
しかし、その水面下では、徳川と豊臣の対立が最終局面に向けて着実に進行していた。大坂城には、関ヶ原の戦い以降、徳川の支配を快く思わない浪人たちが集い始め、豊臣秀頼も成長して、その存在感を増していた。徳川家康は、豊臣家を完全に滅ぼす機会を虎視眈眈と狙っており、全国の大名、特に豊臣恩顧の大名に対する監視と圧力を強めていた。
信吉の出自は、決して忘れられてはいなかった。彼の父は豊臣秀吉の側近であり、彼自身も秀吉から直接薫陶を受けた大名である。徳川の世が安定すればするほど、その経歴はかえって危険視されるようになった。大坂の陣を目前に控え、幕府にとって佐野信吉の存在は、関東に残された「豊臣の残滓」であり、万が一にも大坂方と呼応しかねない、排除すべき対象と見なされ始めていたのである 19 。佐野の地で築かれた新たな城と町の上に、破局の影が静かに、しかし確実に忍び寄っていた。
第五章:理不尽なる終焉 ― 慶長19年(1614年)の改易と廃城
慶長19年(1614年)7月27日、大坂冬の陣が勃発するわずか数ヶ月前、佐野信吉の運命は突如として暗転する 2 。幕府は信吉に対し、3万9000石の所領を没収し、改易するというあまりに厳しい処分を下した。その理由は一つではなく、複数の事件が複雑に絡み合ったものであったが、それらは個別の事象というよりも、信吉を排除するために巧妙に結びつけられた「羅網」であった。
複数の理由という「羅網」
幕府が公式・非公式に挙げた改易の理由は、主に以下の四点に集約される。
- 江戸火災への無断参府: 同年3月、江戸で発生した大火に際し、信吉は忠義心からいち早く佐野から駆けつけたが、これが幕府への届け出を怠った「無断参府」であると咎められた 2 。善意の行動が、逆に幕法違反として断罪されるという、理不尽な構図であった。これは、豊臣恩顧の大名が江戸の変事に即応できる能力を持つこと自体を、幕府が危険視したことの表れであった 2 。
- 兄・富田信高の改易への連座: 信吉の実兄であり、伊予宇和島藩主であった富田信高が、家臣間の紛争処理を巡る問題で幕府の裁定を受け、改易されていた。信吉はこの兄の失脚に連座したとされた 2 。
- 大久保長安事件への連座: 慶長18年(1613年)に発覚した、幕府の重臣・大久保長安の不正蓄財事件にも、信吉は巻き込まれた。信吉は長安と親戚関係にあったとされ、この事件への連座も改易の一因と見なされた 2 。
- 大久保忠隣改易への連座: 慶長19年1月、幕府の老中であった大久保忠隣が突如改易されるという政変が起きていた。信吉は忠隣とも縁者であったため、これにも連座したとされている 2 。
もし理由が一つだけであれば、弁明や他の大名からの助命の余地があったかもしれない。しかし、幕府は兄の事件、大久保家の二つの事件、そして信吉自身の「不行跡」と、複数の理由を巧みに絡めとることで、反論の隙を一切与えず、改易という決定を既成事実として押し付けた。これは、法と手続きを駆使した、極めて高度な政治的排除の手法であった。
大坂の陣と「安全保障措置」
この改易劇のタイミングは、決して偶然ではない。大坂の陣という、徳川の天下を盤石にするための最終決戦を目前に控えた時期に行われたことこそが、この処分の本質を物語っている。徳川がその軍事力を全て西国、すなわち大坂に向けるにあたり、後背地である関東、特に本拠地・江戸の近郊に、少しでも豊臣方に通じる可能性のある大名を残しておくことは、安全保障上の最大のリスクであった。
佐野信吉の排除は、一個人の不行跡に対する懲罰というよりも、来るべき決戦を前にして後顧の憂いを断つための、冷徹な「関東方面の安全保障措置」だったのである。信吉は、徳川の天下統一という大義の前に、犠牲となることを運命づけられていた。
改易後、信吉は嫡男と共に信濃松本藩主・小笠原秀政に預けられる身となった 2 。彼が心血を注いで築き上げた佐野城は、完成からわずか数年で廃城となり、その石垣や建造物は徹底的に破壊されたと伝えられる 24 。元和8年(1622年)、大坂の陣も終わり、徳川の世が盤石となった頃に信吉は赦免されたが、その年のうちに江戸で波乱の生涯を閉じた 2 。
終章:残されたもの ― 佐野城改修が歴史に刻んだ意味
慶長7年(1602年)に始まり、同19年(1614年)の悲劇的な結末で幕を閉じた「佐野城改修」という一連の事象は、日本の歴史、特に戦国から江戸への移行期が持つダイナミズムと非情さを凝縮した、象徴的な出来事であった。その歴史的意義は、城郭史、政治史、そして現代に繋がる都市史という複数の観点から考察することができる。
城郭史において、この事象は戦国の山城(唐沢山城)から近世の平山城(佐野城)への劇的な移行を体現している 6 。それは単なる築城技術の変化ではなく、社会が求める城の役割が、「戦うための拠点」から「治めるための拠点」へと根本的に転換したことの証左である。難攻不落を誇った唐沢山城の廃城と、行政・経済の中心として設計された佐野城の築城は、乱世の終焉と泰平の到来を告げる、時代の分水嶺であった。
政治史の観点から見れば、佐野信吉の悲劇は、個人の運命を超え、徳川幕藩体制が確立される過程で必然的に生じた「構造的犠牲」であったと言える。信吉個人にどれほどの非があったかという問題ではない。彼の豊臣恩顧という出自、江戸に近い領地、そして戦国の威光を放つ居城という「構造」そのものが、徳川による新たな中央集権体制とは相容れないものであった。彼の改易は、新時代の秩序が、旧時代の有力者をシステムとして許容できなかったことの証明であり、彼は新しい時代の礎となるために、歴史の必然として排除された存在であった。
そして、この歴史は現代にも確かな痕跡を残している。信吉が築いた佐野城は廃墟と化したが、彼が同時に計画した碁盤目状の城下町は、400年の時を超えて現在の佐野市の骨格として生き続けている 15 。市民の憩いの場である城山公園は、かつての佐野城跡であり 6 、国指定史跡となった唐沢山城跡は、戦国の記憶を今に伝えている 8 。
結論として、当初の概要情報にあった「関東再編に伴い城郭と城下を整備」という記述は、結果だけを見れば正しい。しかし、本報告書が明らかにしたように、その動機と過程は、「整備」という言葉が持つ創造的で前向きなイメージとは全く異なっていた。その原動力は、領国の発展を願う純粋な都市計画ではなく、徳川による容赦ない政治的圧力と、一人の大名を追い詰めていく冷徹なプロセスであった。この事象の核心は、創造の裏にあった破壊のダイナミズム、そして泰平の礎の下に埋もれた無数の悲劇を理解することにある。佐野城改修の物語は、歴史が勝者によってだけでなく、敗者や消え去った者たちの痕跡によっても語られるべきであることを、我々に強く示唆している。
引用文献
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- 佐野城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-56.html
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- 佐野城 "築城から廃城まで12年間の佐野氏の居城" つわものどもが夢の跡・城跡めぐり55 https://www.youtube.com/watch?v=GFlSprJy5BU
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