使節ローマ謁見(1585)
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天正遣欧少年使節とローマ謁見(1585)-戦国日本、世界と邂逅す-
序章:時代の黎明-戦国日本とキリスト教の伝来
日本の歴史において、16世紀後半は未曾有の動乱と変革の時代であった。応仁の乱(1467-1477)以降、室町幕府の権威は失墜し、日本列島は「戦国時代」と呼ばれる群雄割拠の状態に陥った。各地の武将たちは「下剋上」の風潮の中で実力をもって領国を拡大し、絶え間ない戦乱が日常と化していた。そのような中、尾張の織田信長が「天下布武」を掲げて台頭し、旧来の権威や制度を次々と打破していく。楽市楽座などの革新的な経済政策は商工業の発展を促し、既成概念に囚われないその姿勢は、新しい思想や文化が流入する土壌を育みつつあった。
この国内の激動と時を同じくして、日本は初めてヨーロッパ世界と直接的な接触を持つことになる。1543年、種子島に漂着したポルトガル人が鉄砲を伝えたことは、戦国時代の合戦の様相を一変させる契機となった 1 。そして1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルの来日は、キリスト教という全く新しい精神文化が日本にもたらされた画期的な出来事であった 3 。
宣教師たちがもたらしたキリスト教の教えと、ポルトガル商人が運んできた生糸や鉄砲、そしてパン、カステラ、ボタンといった未知の文物(これらは後にポルトガル語由来の日本語として定着する)は、日本の社会、特に西国九州の諸大名に大きな衝撃を与えた 3 。宣教師たちは布教の許可を得るため、あるいは活動の拠点を確保するために各地の大名と積極的に交渉を行った。その過程で、彼らはしばしば南蛮貿易の仲介者としての役割を担うことになった 5 。結果として、純粋な宗教的動機からだけでなく、貿易がもたらす莫大な経済的利益や、最新の軍事技術(鉄砲や大砲)の入手を目的としてキリスト教に接近し、洗礼を受ける「キリシタン大名」が次々と誕生した。この時代の日本は、内乱の終結と国家統一への道を模索すると同時に、大航海時代のグローバルな交流網の東端として、否応なく世界史の大きなうねりの中に組み込まれていったのである。本報告書で詳述する「天正遣欧少年使節」のローマ謁見という出来事は、まさにこの戦国日本の国内情勢と、世界的なキリスト教布教および交易網の拡大という二つの潮流が交差した一点において発生した、歴史的な事件であった。
第一章:壮大なる構想-発案者と後援者たちの思惑
天正遣欧少年使節の派遣は、単なる思いつきや偶然の産物ではない。それは、一人の傑出した宣教師の深遠な構想と、存亡の危機に瀕した戦国大名たちの切実な利害とが、奇跡的に一致したことによって実現した、極めて戦略的な計画であった。
発案者アレッサンドロ・ヴァリニャーノの深謀
この壮大な計画の発案者は、イタリア出身のイエズス会士、アレッサンドロ・ヴァリニャーノである 6 。1579年にイエズス会東インド巡察師として来日した彼は、日本における布教活動がいくつかの深刻な課題に直面していることを見抜いた。それは慢性的な財政難、日本人司祭の不足、そしてヨーロッパ式の布教方法と日本の文化・習慣との間に存在する根深い軋轢であった 8 。
ヴァリニャーノは、これらの問題を解決するために「適応主義」と呼ばれる画期的な布教方針を打ち出した 11 。これは、ヨーロッパの価値観を一方的に押し付けるのではなく、日本の文化や習慣、礼儀作法を尊重し、それに順応することでキリスト教の教えを浸透させようとするものであった 11 。彼は茶の湯などを通じて日本人との信頼関係を築き、将来的には日本人司祭を育成し、日本人自身による自立した教会組織を確立することを目指していた 9 。
この適応主義政策の延長線上に、天正遣欧少年使節の派遣という構想が生まれた。ヴァリニャーノ自身が手紙の中で記しているように、この使節には二元的かつ戦略的な目的があった 7 。第一の目的は、ローマ教皇および当時ポルトガルを併合していたスペイン国王に対し、日本の布教活動への経済的・精神的な援助を直接要請することであった 7 。第二の、そしてより深遠な目的は、感受性豊かな日本の若者たちに、キリスト教世界の中心であるヨーロッパの栄光と偉大さをその目で直接見聞・体験させることであった 7 。彼らが帰国した暁には、その体験を自らの言葉で語る「生きた証人」となり、何よりも雄弁にキリスト教の権威と素晴らしさを日本の人々に伝え、布教活動を飛躍的に前進させるであろうと期待されたのである 8 。これは、ヨーロッパに日本の存在とその布教の成果を知らしめると同時に、日本にヨーロッパ・キリスト教世界の絶対的な権威を示すという、双方向の壮大な文化・政治戦略であった 8 。
後援者たるキリシタン大名の政治的苦境
ヴァリニャーノの構想は、当時の九州で極めて厳しい政治的状況に置かれていた三人のキリシタン大名の利害と完全に一致した。
大村純忠 は、日本で最初に洗礼を受けたキリシタン大名として知られる 9 。彼は当初、平戸の松浦氏との関係が悪化したポルトガル船を自領に誘致するため、横瀬浦を開港した 4 。横瀬浦が反乱で破壊された後、1571年には長崎を開港し、南蛮貿易の拠点とした 4 。しかし、純忠はもともと大村家の養子であったため領内の権力基盤が脆弱であり、常に周辺勢力からの脅威に晒されていた 18 。彼にとって、ポルトガルとの南蛮貿易がもたらす経済的利益は、領国経営を支える文字通りの生命線であった。1580年には、貿易関係の安定と領地の安全を確保する狙いから、長崎と茂木をイエズス会に寄進するに至っている 4 。彼にとって使節の派遣は、この貿易関係をさらに盤石なものとし、ヨーロッパからの後ろ盾を得るための重要な外交政策であった。
有馬晴信 の状況は、さらに切迫していた。彼の領地は、当時九州で最大勢力を誇った肥前の龍造寺隆信による強大な軍事的圧力に常に晒され、まさに存亡の危機にあった 21 。龍造寺氏の南進に対抗するため、晴信は南の薩摩・島津氏と同盟を結ぶ一方で、イエズス会に接近した 21 。彼はポルトガルからもたらされる大砲などの軍事技術や経済的支援を渇望し、1580年に洗礼を受けた 22 。彼にとって使節派遣は、ヨーロッパからの具体的な支援を取り付け、宿敵・龍造寺氏を牽制するための、起死回生を賭けた戦略的な一手であった。事実、使節団が出発したわずか2年後の1584年、晴信は島津の援軍を得て龍造寺隆信本人を討ち取るという大金星を挙げる(沖田緡の戦い) 23 。この戦いでは、イエズス会が提供した大砲が威力を発揮したとも伝えられており 22 、当時の彼の置かれた状況の緊迫ぶりと、使節派遣に込められた政治的・軍事的意図の強さがうかがえる。
大友宗麟 は、かつて九州六ヶ国を支配下に置いた大大名であったが、1578年の耳川の戦いで島津氏に歴史的な大敗を喫して以降、その勢力には陰りが見え始めていた 27 。彼は熱心なキリスト教徒であり、領内に修練院(ノヴィシャド)を開設するなど、布教活動を積極的に支援していた 28 。しかし、一部の研究では、宗麟は使節派遣の計画そのものを出発前に知らされていなかった可能性が指摘されている 29 。当時の情報伝達手段を考えれば、豊後(大分)にいる宗麟の正式な許可を得ることは時間的に困難であったかもしれない。ヴァリニャーノが、九州を代表するキリシタン大名である宗麟の名声と権威を、計画の正当性を高めるために利用した側面も否定できない。
このように、天正遣欧少年使節の派遣は、表向きには「キリスト教の布教促進」という宗教的目的を掲げているが、その内実を深く探ると、全く異なる側面が浮かび上がってくる。それは、ヴァリニャーノの描いた壮大な宗教的・組織的戦略と、九州の、特に弱小であった大名たちの、領国の生き残りを賭けた政治的・軍事的生存戦略とが、絶妙のタイミングで合致した結果生まれた、極めて高度な政治的駆け引きの産物であった。少年たちがローマで教皇に謁見し、祈りを捧げているまさにその間、彼らの故郷では、使節派遣の真の目的であったかもしれない、存亡を賭けた戦いが繰り広げられていたのである。これは、戦国時代の「下剋上」の論理が、日本という枠組みを超えて国際関係にまで及んだ、稀有な事例と言えよう。
第二章:選ばれし少年たち-四人の使節とその横顔
使節団の主役として選ばれたのは、まだ13歳から14歳という若年の少年たちであった 7 。彼らはヴァリニャーノの構想を実現するための、まさに希望の星であった。
人選の舞台、有馬のセミナリヨ
四人の少年は、いずれもキリシタン大名・有馬晴信の領地である日野江城下に設立されたイエズス会の初等神学校「セミナリヨ」で学ぶ、優秀な第一期生の中から選抜された 7 。このセミナリヨでは、キリスト教の教義はもちろんのこと、ラテン語、西洋音楽、地理学、天文学といった当時の日本では最先端の学問が教えられていた 15 。ヴァリニャーノの第二の目的、すなわち「日本の若者にキリスト教世界を体験させ、帰国後にその偉大さを語らせる」ためには、若く、知的好奇心に富み、多感な吸収力を持つ少年たちが最もふさわしいと考えられたのである 7 。
四人のプロファイル
使節に選ばれた四人の少年は、それぞれ異なる出自を持ち、その人選には高度な政治的配慮がうかがえる。
- 伊東マンショ(主席正使): 豊後の大友宗麟の名代 31 。彼は、かつて日向国を支配した名門戦国大名・伊東義祐の孫であり、大友宗麟とも縁戚関係にあった 7 。没落したとはいえ名門の血筋を引く彼の存在は、使節団の権威を高める上で不可欠であった。主席正使として、一行を率いる重責を担った。
- 千々石ミゲル(正使): 大村純忠と有馬晴信の名代 31 。彼は大村純忠の甥であると同時に、有馬晴信の従兄弟でもあり、派遣大名である両家の血を引く極めて重要な立場にあった 7 。この人選は、大村・有馬両家の固い結束を内外に示す意味合いも持っていた。
- 中浦ジュリアン(副使): 肥前中浦城主・小佐々氏の子 7 。使節の中では最年長であったとされ、その落ち着いた人柄が評価されたと考えられる 7 。
- 原マルチノ(副使): 肥前波佐見の出身 30 。語学に非常に堪能で、ヨーロッパ滞在中、多くの公式の場でラテン語の演説を行い、使節団のスポークスマンとしての役割を見事に果たした。
随行員たち
この歴史的な旅は、少年たちだけで成し遂げられたものではない。彼らを支え、導いた随行員たちの存在もまた重要である。少年たちの教育係であった日本人修道士 ジョルジェ・ロヨラ 、全行程に同行し、通訳として、また少年たちの監督者として重要な役割を果たしたイエズス会士 ディオゴ・デ・メスキータ神父 、そしてヴァリニャーノのもう一つの狙いであった西洋の進んだ印刷技術を習得するという使命を帯びて派遣された日本人少年 コンスタンチノ・ドラード らがいた 7 。彼らの献身的なサポートなくして、この前代未聞の長旅の成功はあり得なかったであろう。
以下の表は、使節団の主要な構成員とその背景をまとめたものである。
表1:天正遣欧少年使節 四少年および主要関係者一覧
氏名(洗礼名) |
役職 |
出自・派遣大名との関係 |
特徴・役割 |
帰国後の運命 |
伊東 マンショ |
主席正使 |
日向伊東氏当主の孫。大友宗麟の縁者(宗麟の名代) |
名門の血筋を持つ使節団の筆頭。 |
司祭叙階後、布教活動中に長崎で病死(1612年) 32 |
千々石 ミゲル |
正使 |
大村純忠の甥、有馬晴信の従兄弟(大村・有馬両家の名代) |
両大名家との血縁を持つ、政治的に重要な存在。 |
イエズス会を退会し棄教したとされるが、近年の研究で再評価が進む 34 。 |
中浦 ジュリアン |
副使 |
肥前中浦城主・小佐々氏の子 |
使節団の最年長。 |
司祭叙階後、国内潜伏を続け、長崎で穴吊りの刑により殉教(1633年)。福者 7 。 |
原 マルチノ |
副使 |
肥前波佐見の出身 |
語学に堪能で、公式の場で多くの演説を行った。 |
司祭叙階後、マカオへ追放され、同地で客死(1629年) 7 。 |
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ |
発案者 |
イエズス会東インド巡察師 |
使節派遣を計画・実行した総責任者。インドのゴアまで同行 8 。 |
日本の教会組織の改革に尽力し、マカオで死去(1606年) 8 。 |
ディオゴ・デ・メスキータ |
通訳・監督 |
イエズス会士 |
全行程に同行し、少年たちの通訳と監督を務めた。 |
帰国後も日本で活動。 |
この一覧は、使節団が単なる学生の視察旅行ではなく、九州のキリシタン大名たちの政治的代理人として、明確な外交的使命を帯びていたことを示している。そして、彼らがヨーロッパで受けた栄光とは裏腹に、帰国後に待ち受けていた殉教、追放、病死、棄教という四者四様の過酷な運命は、日本のキリスト教弾圧の厳しさと、歴史の非情さを劇的に物語っている。
第三章:遥かなる旅路-長崎からリスボンへ(1582年~1584年)
少年たちの旅は、現代の我々が想像を絶するほどの時間と困難を伴うものであった。それは、地球を半周する、文字通りの大冒険であった。
1582年2月20日、長崎出帆
天正10年(1582年)2月20日、伊東マンショ、千々石ミゲル、中浦ジュリアン、原マルチノら一行を乗せたポルトガル船は、多くの人々の期待と祈りに見送られ、長崎の港を出帆した 7 。彼らの平均年齢はわずか13歳。故郷を離れ、二度と生きては戻れないかもしれない未知の世界へと旅立つ少年たちの胸には、大きな使命感と共に、計り知れない不安が渦巻いていたことであろう。
マカオ・ゴアでの滞在
一行が最初に目指したのは、東アジアにおけるポルトガルの貿易と布教の拠点、マカオであった。3月9日にマカオに到着した一行は、ここでヨーロッパへ向かうための季節風(モンスーン)を待つため、約9ヶ月もの長期滞在を余儀なくされた 7 。年末にマカオを出帆した一行は、マラッカ海峡を経て、翌1583年の暮れにポルトガルのアジア支配の拠点であるインドのゴアに到着した 7 。
このゴアで、一行は大きな転機を迎える。計画の発案者であり、少年たちにとって最大の精神的支柱であったヴァリニャーノが、イエズス会の命令によりインド管区長としてゴアに留まることになったのである 7 。少年たちは敬愛する師との突然の別れに涙したが、その意志を継ぎ、ヌーノ・ロドリゲス神父らに率いられてヨーロッパへの旅を続ける決意を固めた 37 。
喜望峰を越えて
ゴアを出帆した一行は、インド洋を横断し、アフリカ大陸の南端を目指した。喜望峰を回り、大西洋を北上するこの航路は、当時の航海技術では最も危険な区間の一つであった。案の定、船内では疫病が発生し、約30名もの乗組員が命を落としたと記録されている 37 。密閉された船内で、仲間たちが次々と病に倒れていく様を目の当たりにしながら、少年たちはただ神に祈ることしかできなかった。帆船による3年近くにも及ぶこの過酷な船旅は、彼らの信仰心と精神力を極限まで試す、厳しい試練の連続であった 15 。
1584年8月10日、リスボン到着
長崎を出帆してから実に2年半という歳月を経て、天正12年(1584年)8月10日、一行はついにヨーロッパ大陸の玄関口、ポルトガルの首都リスボンに到着した 7 。彼らが初めて目にしたヨーロッパの都市は、大航海時代の富が集積した、壮麗な港湾都市であった。一行はイエズス会のサン・ロッケ教会を宿舎として提供され、長かった船旅の疲れを癒すとともに、これから始まる未知の体験への期待に胸を膨らませた 7 。日本の戦国時代に生まれた少年たちが、ヨーロッパの地に第一歩を記した歴史的瞬間であった。
第四章:欧州の洗礼-スペイン国王フェリペ二世の厚遇(1584年~1585年)
ヨーロッパに到着した少年たちを待っていたのは、彼らの想像を遥かに超える盛大な歓迎であった。特に、当時ヨーロッパ最強の君主であったスペイン国王フェリペ2世からの厚遇は、異例ずくめのものであった。
ポルトガルでの歓迎
リスボンに到着した一行は、まず近郊のシントラ宮殿を訪れ、当時ポルトガル王を兼務していたフェリペ2世の名代として同地を統治していたアルベルト枢機卿に謁見した 40 。その後、陸路でスペインへ向かう途中、古都エヴォラに8日間滞在した 41 。この地で伊東マンショと千々石ミゲルが教会のパイプオルガンを演奏し、その見事な腕前で聴衆をいたく感動させたという逸話が残っている 41 。遠い異国から来た少年たちが、ヨーロッパの楽器を巧みに弾きこなす姿は、現地の人々に大きな驚きをもって受け止められた。
スペイン入国とマドリードでの謁見(1584年11月14日)
1584年11月14日、一行はマドリードの宮殿で、ついにフェリペ2世との謁見に臨んだ。この謁見の様子は、スペイン側の記録に詳細に記されている。主席正使の伊東マンショがヨーロッパの宮廷儀礼に則って国王の手に接吻しようと進み出たところ、フェリペ2世はそれを制し、慈愛に満ちた表情でマンショを立ち上がらせると、国王としては異例中の異例である 抱擁 をもって彼を迎えたのである 40 。この破格の歓迎は、他の三人の少年と随行の日本人に対しても同様に行われ、その場に居合わせた廷臣たちを大いに驚かせた 40 。
フェリペ2世は、少年たちが身にまとっていた日本の武家の服装に強い個人的な興味を示した。通訳のメスキータ神父が長旅で衣服が傷んでいることを詫びても、「そのようなことはない、大変立派だ」と述べ、マンショの刀や袴、さらには草履まで手に取り、その構造を仔細に観察したという 40 。少年たちは、大友宗麟らからの親書と共に、日本からの献上品である竹製の文机や金箔を施した漆塗りの器などを奉呈した。マンショとミゲルが日本語で挨拶を述べると、その独特の響きが宮廷で微笑みを誘い、また日本語が縦書きであることを知った国王は大変驚いたと記録されている 40 。
エル・エスコリアル宮殿への招待
謁見の後、フェリペ2世は「少年たちが母国に帰り、スペイン国王の強大さと富を語り伝えることができるように」との配慮から、完成したばかりの壮大なエル・エスコリアル宮殿へと一行を招待した 40 。ここは宮殿、修道院、霊廟が一体となった複合施設であり、当時のスペインの国力とカトリック信仰の象徴であった。少年たちはこの壮麗な宮殿に3日間滞在し、王族たちとの晩餐会に参加するなど、国賓としてのもてなしを受けた 40 。
周到な「おもてなし」
フェリペ2世の配慮はこれだけに留まらなかった。少年たちが最終目的地であるローマへ向かうにあたり、彼は経由地であるイタリア諸都市の長官や、ローマ駐在のスペイン大使オリバレス伯爵に事前に親書を送り、一行の旅が滞りなく進むよう、最大限の便宜を図り、丁重にもてなすことを細やかに指示していた 40 。
フェリペ2世によるこれらの行動は、単なる異国の少年たちへの好奇心や親切心だけでは説明がつかない。当時、彼はポルトガルをも併合し、その版図は「太陽の沈まぬ国」と称されるほどの広がりを見せていた。カトリック世界の最大の庇護者を自任する彼にとって、少年たちは、イエズス会が国家的な事業として進めるアジア布教の輝かしい成果を体現する、生きた象徴であった。彼の破格の待遇や周到な手配は、一種の戦略的投資と見ることができる。少年たちにスペインの圧倒的な国力とキリスト教世界の偉大さを強烈に印象付け、彼らが帰国した際にその「語り部」となることを期待したのである 40 。これにより、日本におけるスペイン・ポルトガルの影響力を強化し、アジアにおける貿易の主導権を確保し、ひいてはカトリック世界の拡大という世界戦略を推進する、極めて高度な政治的意図が隠されていた。少年たちの旅は、フェリペ2世の世界戦略の一翼を担う、重要な外交的パフォーマンスでもあったのだ。
第五章:キリスト教世界の中心へ-1585年、ローマでの十三日間
スペインでの歓待を経て、一行はいよいよ旅の最終目的地であり、カトリック世界の中心であるローマを目指した。そこで彼らを待っていたのは、旅のクライマックスにふさわしい、歴史的な出来事の連続であった。
イタリア上陸と諸都市の歓迎
1585年3月1日、一行を乗せた船はトスカーナ大公国の港町リヴォルノに到着し、彼らは初めてイタリアの地を踏んだ 7 。ここからローマへの道程もまた、歓迎の連続であった。
ピサでは、有名な斜塔や壮麗な大聖堂を見学し、時のトスカーナ大公フランチェスコ1世・デ・メディチに謁見した。その夜には、大公妃ビアンカ・カッペッロが主催する舞踏会に招かれ、伊東マンショが公妃とダンスを踊ったという記録も残っている 7 。ルネサンス文化が花開いたフィレンツェでは、シニョリーア広場に面したヴェッキオ宮殿に宿泊するという栄誉を与えられた 7 。その後も一行はヴェネツィア、マントヴァ、ミラノなどを歴訪し、特に「水の都」ヴェネツィяの華麗な景観は、少年たちに一際大きな感銘を与えたという 44 。彼らの訪問はイタリア各地で大きな話題となり、その動静は次々とパンフレットとして出版され、人々の注目を集めた 6 。
1585年3月23日、ローマ教皇グレゴリウス13世との謁見
1585年3月23日、一行はついにローマに入城した。彼らの到着はローマ中を熱狂させ、貴族から民衆まで、多くの人々が「日本の王子たち」を一目見ようと沿道に詰めかけた。一行は盛大な歓迎パレードの中、ヴァティカン宮殿へと進んだ。
教皇グレゴリウス13世との謁見は、ヴァティカン宮殿の「王の間」で、枢機卿会議が開かれている中で行われた 46 。これは国王からの公式使節を迎える際に用いられる最高級の儀礼であり、彼らがいかに特別な存在として扱われたかを示している 46 。
当時83歳と高齢であった教皇は、祭服をまとった少年たちが恭しく自らの前に進み出る姿を見て、深く感動した。地球の裏側に位置する未知の国から、幾多の困難と2年半以上もの歳月をかけて、ただ教皇に謁見するためだけに旅をしてきた少年たちの純粋な信仰心に心を打たれ、 玉座から立ち上がると、涙を流しながら一人ひとりを優しく抱きしめた と伝えられている 42 。主席正使の伊東マンショが、流暢なラテン語で大友宗麟からの親書を奉呈し、日本のキリシタンへの祝福を願う演説を行うと、満場の枢機卿たちから感嘆の声が上がった。教皇は日本の信徒たちへの祝福を与え、今後の布教活動へのさらなる経済的援助を約束した。
この歴史的な謁見を記念して、教皇は記念メダルを鋳造させた 48 。さらに、四人の少年たちには、外国人に与えられる最高の栄誉の一つである
ローマ市民権 が授与された 7 。
この熱狂的な歓迎の背景には、当時のカトリック教会が置かれていた厳しい状況があった。16世紀のヨーロッパは、マルティン・ルターに始まる宗教改革の嵐が吹き荒れ、プロテスタント勢力の拡大によってカトリック教会の権威は大きく揺らいでいた(対抗宗教改革)。教皇庁にとって、信者の離反と権威の失墜は深刻な危機であった。そのような状況下で、遥か東方の果てにある「日本」という国から、王族(ヨーロッパではそう誤解されていた)の使節が、教皇への服従と忠誠を示すために訪れたというニュースは、まさに天からの吉報であった 49 。この出来事は、カトリックの教えがヨーロッパという地域に限定されるものではなく、全世界に及ぶ普遍的な真理であることを内外に示す、またとない機会となった。教皇の涙は、個人的な感動の表れであると同時に、カトリック世界の威信回復を象-徴する、極めて効果的な政治的パフォーマンスでもあった。この謁見の直後から、ヨーロッパ各地で少年使節に関する出版物が爆発的に発行され、一大「日本ブーム」が巻き起こったのは 6 、この出来事が当時のヨーロッパ社会にとっていかに衝撃的で、かつ重要な意味を持っていたかを如実に物語っている。
第六章:歴史の証人として-教皇崩御と新教皇戴冠
ローマでの栄光の頂点にあった少年たちを、予期せぬ歴史の転換点が待ち受けていた。彼らは意図せずして、カトリック教会の最高権威の継承という、ヨーロッパ史における極めて重要な瞬間に立ち会うことになる。
グレゴリウス13世の崩御
あの感動的な謁見から、わずか18日後の1585年4月10日、教皇グレゴリウス13世は83年の生涯を閉じた 16 。自分たちを涙ながらに抱きしめてくれた慈父のような教皇の突然の訃報に、少年たちは大きな衝撃を受け、深い悲しみに包まれた 50 。彼らは国賓として、ローマで行われた教皇の盛大な葬儀に参列することになった 16 。グレゴリウス13世の治世の最後を飾ったのが、東方の少年たちとの会見であったことは、歴史の奇妙な巡り合わせと言えよう。
新教皇シクストゥス5世の選出と戴冠式
教皇の死後、一行はローマに留まり、カトリック教会の次期指導者を選出するための選挙「コンクラーヴェ」の動向を固唾をのんで見守った。やがて、新教皇としてシクストゥス5世が選出された。幸いなことに、この新教皇もまた、日本からの使節に極めて好意的であった 52 。
1585年5月1日、サン・ピエトロ大聖堂で執り行われたシクストゥス5世の荘厳な戴冠式に、少年たちは貴賓として特別に招待された 7 。彼らは馬に乗り、戴冠を祝う華やかなパレードにも参加した 46 。この時の様子は、後にヴァチカン図書館の壁画にも描かれ、歴史の一場面として永遠に刻まれることになった 46 。新教皇シクストゥス5世は、改めて少年たちを謁見の間に招き入れ、彼らの労をねぎらうと共に、カトリック騎士に与えられる最高の名誉の一つである「黄金拍車勲章(スペロン・ドーロ勲章)」を授与するなど、前教皇にも劣らぬ丁重なもてなしで彼らを遇した 53 。
こうして少年たちは、二人のローマ教皇から祝福を受けるという、前代未聞の栄誉に浴した。彼らは、単なる遠来の使節としてではなく、カトリック教会の歴史が大きく動くその瞬間に立ち会い、その正統な証人として、ヨーロッパ世界にその存在を深く印象付けたのである。
第七章:帰還、そして激変の故国へ(1586年~1591年)
二人の教皇への謁見という最大の目的を果たした一行は、栄光と数々の贈り物を手に、故国日本への長い帰路についた。しかし、彼らがヨーロッパで過ごした数年間のうちに、日本の情勢は彼らの出発時とは全く様相を異にしていた。
ヨーロッパ歴訪と「日本ブーム」
1585年6月3日にローマを出発した一行は、帰路の船が出るリスボンへ向かう途中、再びイタリアやスペインの諸都市を歴訪した 7 。ヴェネツィア、ヴェローナ、ミラノといった北イタリアの都市国家では、引き続き大歓迎を受けた 7 。彼らの訪問はすでにヨーロッパ全土に知れ渡っており、その言動や風俗、そして彼らが伝えた日本の様子は、人々の尽きない好奇心の的となった。イタリア、スペイン、ドイツ、フランスなどヨーロッパ各地で、使節に関する報告書やパンフレットが50種類以上も出版され、一大「日本ブーム」を巻き起こした 16 。このブームは、ヨーロッパの人々が初めて日本という国の存在と、そこに住む人々の文化を具体的に認識するきっかけとなった。
1586年4月13日、帰路へ
1586年4月13日、一行はリスボンの港から、再びインド洋、そしてアジアを目指す船上の人となった 7 。ここから日本へ帰り着くまで、さらに4年以上もの歳月を要することになる。
激変した日本
彼らが長い航海の途上にあった1587年(天正15年)、日本国内ではキリスト教徒にとって決定的な転換点となる出来事が起こっていた。前年に大坂城を築き、関白となって天下人への道を突き進んでいた豊臣秀吉が、九州を平定した。その過程で、秀吉はキリスト教の急速な拡大と、宣教師たちが持つ政治的影響力、そして一部のキリシタン大名による寺社の破壊や、長崎が教会領として治外法権的な様相を呈している現実に強い警戒感を抱いた 9 。同年7月、秀吉は筑前箱崎にて、突如として
バテレン追放令 を発布したのである 7 。これにより、宣教師の国外退去と、大名が強制的に領民を改宗させることが禁じられた。
さらに、少年たちをヨーロッパへ送り出した後援者たちも、彼らの帰国を待たずしてこの世を去っていた。大村純忠はバテレン追放令が出される直前の1587年5月に、大友宗麟も同年6月に病没していたのである 7 。
1590年7月21日、長崎帰港
1590年7月21日、出発から8年と5ヶ月の歳月を経て、一行はついに長崎に帰港した 7 。13歳前後であった少年たちは、20歳を過ぎたたくましい青年に成長していた。しかし、彼らを待っていたのは、栄光の凱旋を祝う歓迎ムードではなく、バテレン追放令下でキリスト教徒が息を潜めて暮らす、出発時とは全く異なる祖国の厳しい現実であった 30 。
1591年3月3日、豊臣秀吉との謁見
帰国の翌年、一行は京都の聚楽第に招かれ、天下人・豊臣秀吉に拝謁した 7 。彼らはヨーロッパでの壮大な見聞を報告し、持ち帰ったクラヴォ(チェンバロの前身)などの西洋楽器を秀吉の前で演奏して見せた 7 。異国の珍しい音楽に秀吉は大いに喜び、彼らを気に入って自らの家臣になるよう勧めたが、司祭になることを固く決意していた少年たちは、この申し出を丁重に断った 62 。
この一連の出来事には、歴史の皮肉な逆説が潜んでいる。少年たちがヨーロッパで受けた教皇や国王からの破格の待遇は、キリスト教が単なる一つの宗教ではなく、国境を越えた巨大な政治的・軍事的ネットワークを持つ国際的な組織であることを、秀吉に痛感させる結果となった。特に、九州平定の際にポルトガル商人によって日本人が奴隷として海外に売買されている事実を知った秀吉は 56 、国家の主権が脅かされることに強い危機感を抱いた。結果として、少年たちのヨーロッパでの
成功そのものが、皮肉にもキリスト教の潜在的な危険性を天下人に証明する形 となり、バテレン追放令という厳しい弾圧への引き金を引く一因となった可能性がある。彼らがヨーロッパで勝ち得た栄光は、日本のキリシタンたちにとっての長い受難の時代の幕開けと、固く結びついていたのである。
第八章:分かたれた道-四人の使節、それぞれの終焉
ヨーロッパでの輝かしい体験を胸に帰国した四人の青年を待ち受けていたのは、栄光とはほど遠い、過酷な運命であった。豊臣秀吉によるバテレン追放令に始まり、徳川幕府によってさらに強化されていく禁教政策の嵐の中、彼らの人生は大きく翻弄され、それぞれが異なる、そして壮絶な最期を迎えることとなる。
帰国後、四人はそろってイエズス会に入会し、司祭になるための学問を修めるべく、天草に設立されたコレジオ(大神学校)に進んだ 62 。しかし、共に学び、苦難の旅を乗り越えた彼らの道は、ここから大きく分かれていく。
-
伊東マンショ:志半ばの病死
主席正使として一行を率いた伊東マンショは、1608年に司祭に叙階された 64。その後、小倉などを拠点に布教活動に励んだが、1611年に領主の細川忠興によって追放される 63。長崎へ移った彼は、長旅の疲労と帰国後の心労がたたったのか、翌1612年に病に倒れ、43歳前後でその生涯を閉じた 7。ヨーロッパの栄光を知る彼が、故郷の地で志半ばにして世を去った無念は計り知れない。 -
中浦ジュリアン:殉教の栄光
副使であった中浦ジュリアンは、四人の中で最も壮絶な最期を遂げた。彼もまた司祭に叙階された後、1614年の全国的な禁教令にも屈せず、国外退去を拒否して日本に留まった 32。以後20年以上にわたり、当局の厳しい追及を逃れながら国内に潜伏し、迫害に苦しむ信徒たちを励まし続けた 32。しかし1633年、ついに捕縛され、長崎の西坂の丘で最も過酷な拷問とされる
穴吊りの刑 に処せられた 32 。逆さ吊りにされ、意識が遠のく中、彼は処刑場の役人に向かってこう叫んだと伝えられる。「私はローマを見た、中浦ジュリアンである!」 32 。その言葉は、若き日の栄光と、生涯を貫いた信仰への揺るぎない誇りを示す、最後の証言であった。2008年、その殉教の功績により、ローマ教皇によって福者の列に加えられた 7 。 -
原マルチノ:望郷の客死
その卓越した語学力で使節団の顔として活躍した原マルチノも、司祭として日本各地で活動した。しかし、1614年の禁教令により、他の多くの宣教師と共にマカオへ追放されることとなった 32。彼は追放先の地でも布教活動を続けたが、二度と日本の土を踏むことは叶わず、1629年、望郷の念を抱きながらマカオで病死した 7。 -
千々石ミゲル:棄教の謎
四人の中で唯一、その後の人生が大きな謎に包まれているのが千々石ミゲルである。彼はイエズス会を退会し、キリスト教の信仰を捨てたと長らく信じられてきた 34。棄教後は従兄弟である大村藩主に仕えたが、冷遇され、その晩年は不明とされていた 34。しかし2003年、長崎県諫早市で彼の墓所とされる石碑が発見され、その後の発掘調査で歴史を覆す可能性のある発見がなされた 34。ミゲルのものとされる墓の隣から発見された妻の棺の中から、ロザリオを構成するものと思われるガラス玉や、聖遺物入れの蓋と考えられるガラス片など、キリスト教の信仰を強く示唆する遺物が出土したのである 34。この発見は、ミゲルが公式には棄教しながらも、内心では最期まで信仰を保っていた、あるいは妻が熱心な信者であった可能性を示唆するものであり、「裏切り者」という従来の評価に一石を投じた。弾圧の時代を生き抜くため、棄教を装いながら苦悩に満ちた後半生を送った彼の姿に、新たな光が当てられつつある。
ヨーロッパの宮廷で王侯貴族と肩を並べた少年たちの栄光と、その後の彼らを待ち受けた悲劇的な結末。そのあまりにも大きな落差は、信仰と時代に翻弄された彼らの人生の過酷さを、そして日本のキリスト教史における受難の時代の厳しさを、雄弁に物語っている。
終章:天正の旅が遺したもの
8年半に及ぶ天正遣欧少年使節の旅は、四人の少年たちの人生を大きく変えただけでなく、その後の日本の歴史と文化、そして日欧関係に、消えることのない足跡を遺した。
文化的遺産:活版印刷機
少年たちがヨーロッパから持ち帰った最も重要な「土産」の一つが、ヨハネス・グーテンベルクが発明した活版印刷機であった 1 。この印刷機は、随行員であったコンスタンチノ・ドラードらによって日本に導入され、帰国後、加津佐や天草に設立されたイエズス会のコレジオで稼働を始めた。
1591年から約20年間にわたり、この印刷機を用いて数多くの書物が出版された。これらは「キリシタン版」あるいは「天草本」と呼ばれ、日本の印刷史上、特筆すべき存在である。その内容は、キリスト教の教義書や信心書に留まらず、日本の古典である『平家物語』や『伊曽保物語』(イソップ物語)の口語訳、さらには『羅葡日辞典』といった辞書まで多岐にわたった 77 。これらは、ヨーロッパの先進技術と日本の文化が融合した、初期日欧交流の貴重な結晶であった。残念ながら、徳川幕府による禁教政策の強化に伴い、これらの印刷活動は中止され、印刷機もマカオへ移されるなどして、その技術は一度途絶えてしまう 78 。しかし、キリシタン版が日本の出版文化に与えた影響は大きく、その技術が再び日本で花開くのは、約250年後の幕末期を待たねばならなかった 2 。
歴史的意義の再評価
天正遣欧少年使節が持つ歴史的意義は、極めて大きい。
第一に、この使節派遣は、 日本が国家(を代表する勢力)として初めてヨーロッパに公式な使節を送り、ヨーロッパ世界が日本という国の存在と文化を初めて具体的に認識した、記念碑的な出来事 であった 15 。それまでヨーロッパにとって日本は、マルコ・ポーロの『東方見聞録』に記された「黄金の国ジパング」という、半ば伝説上の存在でしかなかった。しかし、四人の少年たちの訪問により、ヨーロッパの人々は、日本が高度な文化と礼節を持つ実在の国家であることを知ったのである。
第二に、この出来事は、 戦国時代の日本が、内乱に明け暮れる閉ざされた世界ではなく、大航海時代のグローバルな交流網の中にすでに組み込まれ、主体的に関わろうとしていた ことを明確に証明している。九州の一大名が、自らの存亡を賭けてローマ教皇やスペイン国王との直接外交を試みたという事実は、当時の日本の武将たちが持っていた国際的な視野と戦略性の高さを物語っている。
第三に、この使節の事績は、後の日本の対外関係にも影響を与えた。江戸時代の鎖国政策により、彼らの偉業は日本では長く忘れ去られていた。しかし、明治時代に入り、欧米を視察した 岩倉使節団の全権大使・岩倉具視が、訪問先のヴェネツィアで大友宗麟が派遣した使節に関する古文書を発見した ことで、三百年の時を経て再び光が当てられることになった 30 。近代日本の扉を開いた岩倉使節団にとって、天正の少年たちは、まさに偉大な先駆者として再評価されたのである。
結論
天正遣欧少年使節の旅は、栄光と悲劇が交錯する、壮大な歴史叙事詩である。それは、戦国という激動の時代に、信仰と政治、そして自らの運命の狭間で翻弄されながらも、未知の世界へと果敢に挑んだ四人の少年たちの物語である。彼らの旅は、日本とヨーロッパという二つの世界が初めて深く交わった瞬間であり、日本が初めて世界史のメインステージに登場した輝かしい一場面として、後世に語り継がれるべきである。
巻末付録:天正遣欧少年使節 詳細年表(1582年~1591年)
本報告書の最後に、天正遣欧少年使節の8年半にわたる長大な旅の行程を時系列でまとめた詳細な年表を付す。これにより、彼らがリアルタイムで体験した出来事の連続性と、その時間的スケールを具体的に把握することができる。
表2:天正遣欧少年使節 詳細年表
年 |
月日(西暦) |
月日(和暦/旧暦) |
場所 |
主要な出来事 |
1582年 |
2月20日 |
天正10年1月28日 |
長崎 |
ヴァリニャーノらに率いられ、長崎港を出帆 7 。 |
|
3月9日 |
天正10年2月15日 |
マカオ |
到着。季節風を待つため、年末まで長期滞在 7 。 |
1583年 |
12月20日 |
天正11年11月17日 |
ゴア(インド) |
到着。ヴァリニャーノが職務のため一行と別れる 7 。 |
1584年 |
8月10日 |
天正12年7月5日 |
リスボン(ポルトガル) |
ヨーロッパ大陸に初上陸。サン・ロッケ教会を宿舎とする 7 。 |
|
11月14日 |
- |
マドリード(スペイン) |
国王フェリペ2世に謁見。異例の抱擁で迎えられる 38 。 |
1585年 |
3月1日 |
天正13年1月30日 |
リヴォルノ(イタリア) |
イタリアに初上陸 7 。 |
|
3月2日 |
天正13年2月1日 |
ピサ |
トスカーナ大公フランチェスコ1世に謁見。舞踏会に参加 7 。 |
|
3月7日 |
天正13年2月6日 |
フィレンツェ |
ヴェッキオ宮殿に宿泊 7 。 |
|
3月23日 |
天正13年2月22日 |
ローマ(ヴァティカン) |
ローマ教皇グレゴリウス13世に謁見。 国王使節級の待遇を受ける 7 。 |
|
4月10日 |
天正13年3月11日 |
ローマ |
グレゴリウス13世が崩御。一行は葬儀に参列 16 。 |
|
5月1日 |
天正13年4月2日 |
ローマ |
新教皇シクストゥス5世の戴冠式に参列 7 。 |
|
6月3日 |
天正13年5月6日 |
ローマ |
ローマを出発。北イタリア諸都市(ヴェネツィア、ミラノ等)を歴訪 7 。 |
1586年 |
4月13日 |
天正14年2月25日 |
リスボン |
帰国の途につく 7 。 |
1587年 |
5月29日 |
天正15年4月23日 |
ゴア |
到着。ヴァリニャーノと再会 7 。 |
|
7月 |
天正15年6月 |
日本 |
豊臣秀吉がバテレン追放令を発布 7 。 |
1590年 |
7月21日 |
天正18年6月20日 |
長崎 |
8年5ヶ月ぶりに長崎に帰港 7 。 |
1591年 |
3月3日 |
天正19年閏1月8日 |
京都(聚楽第) |
豊臣秀吉に謁見。西洋音楽を演奏する 7 。 |
引用文献
- 第6話 日本にも伝来していた金属活字による印刷術 https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=3563
- 5.その250年後の幕末、日本における近代印刷がスタートを切った https://www.jfpi.or.jp/printpia/topics_detail21/id=4034
- 古くて新しい長崎とポルトガルとの交流:日ポルトガル480年友好年に寄せて|外務省 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/local/pagew_000001_00186.html
- 大村純忠と南蛮貿易 - 大村市 https://www.city.omura.nagasaki.jp/kankou/kanko/kankouspot/kirishitan/nanbanboueki.html
- ‑ポルトガルでの天正遣欧少年使節 ‑ - 大分大学学術情報リポジトリ https://our.repo.nii.ac.jp/record/2012324/files/kokusui_kiyo_01_08.pdf
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- 戦国時代の日本代表は4人の少年たち!「天正遣欧少年使節」の天国と地獄 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/131092/
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- 「天正遣欧使節と教皇グレゴリオ13世との謁見記念メダル」 - 青羽古書店 AOBANE Antiquarian Bookshop https://www.aobane.com/books/1522
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