最終更新日 2025-10-04

保土ヶ谷宿整備(1601)

関ヶ原の勝利後、徳川家康は全国支配の基盤として東海道整備に着手。1601年、伊奈忠次を責任者とし、交通の要衝である保土ヶ谷に宿場を設置した。
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戦国の終焉と新たな秩序の礎:慶長六年「保土ヶ谷宿整備」の時系列的考察

序章:関ヶ原の戦塵、未だ収まらぬ中で

慶長五年(1600年)九月、美濃国関ヶ原における天下分け目の決戦は、徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。しかし、この勝利が即座に徳川による盤石な支配体制を意味したわけではない。戦場の硝煙は晴れたものの、日本全土には依然として政治的な緊張と不確実性の靄が深く立ち込めていた。豊臣恩顧の西国大名は依然として強大な勢力を保持し、その去就は定かではなかった。家康が直面した課題は、武力によって獲得した覇権を、いかにして恒久的かつ安定的な統治体制へと転換させるかという、壮大かつ困難なものであった 1

この、いわば「戦後処理」と「国家建設」を同時に進めなければならない危うい時期に、家康は驚くべき速さで次の一手を打つ。関ヶ原の戦いからわずか数ヶ月後の慶長六年(1601年)正月、彼は江戸と京都を結ぶ大動脈、東海道の宿駅制度整備を命じたのである 3 。これは単なる交通インフラの整備事業ではなかった。それは、応仁の乱以来、100年以上にわたって続いた戦乱の時代、すなわち「戦国」という時代そのものに終止符を打ち、江戸を中心とする新たな中央集権的国家の夜明けを告げる、極めて高度な政治的宣言であった。

戦国時代とは、中央の権威が失墜し、各地の大名が独自の領国経営を行い、人、物資、情報の流通が分断・割拠されていた時代である。家康の構想は、この断絶を克服し、江戸を日本の政治・経済・情報の中心として機能させる新たなネットワークを列島に張り巡らせることにあった 5 。そのグランドデザインは、小名木川のような水運の整備と並行して進められた陸上交通網の確立を二本柱としていた 7

1601年というタイミングの選択は、家康の卓越した戦略眼を物語っている。未だ豊臣家の威光が残る大坂を睨みつつ、また、態度を決めかねている諸大名に対し、軍事行動ではなくインフラ整備という「平時」の国家事業を敢えて大々的に始動させること。それは、「もはや戦の時代ではない。徳川が構築する新たな秩序に従え」という無言の、しかし絶大な圧力として機能した。保土ヶ谷宿の整備は、この壮大な国家構想の、具体的かつ象徴的な第一歩だったのである。本稿では、この一つの「事変」を戦国時代という大きな文脈の中に位置づけ、そのリアルタイムな過程を時系列で再構築することで、近世日本の礎がいかにして築かれたかを徹底的に解き明かすことを目的とする。

第一章:天下統一の血脈 ― 五街道整備という国家構想

慶長六年(1601年)に始まった保土ヶ谷宿の整備は、個別の土木事業ではなく、徳川家康が描いた国家構想「五街道整備」という壮大な計画の一部であった。江戸の日本橋を起点として全国に伸びる五つの主要街道(東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中)を整備するこの計画は、戦国時代の混乱と断絶を克服し、新たな時代を創出するための多目的戦略装置であった 6

第一に、それは 軍事的・政治的装置 としての性格を色濃く帯びていた。整備された街道は、有事の際に幕府軍を迅速に展開させるための軍事路であり、江戸の防衛線を全国に拡大する意味を持っていた。さらに、後に制度化される参勤交代のルートとして、全国の大名を定期的かつ強制的に江戸へ往復させることで、その経済力を削ぎ、謀反の機会を奪うという、極めて効果的な大名統制策の基盤となった 1

第二に、 情報・通信網 としての機能である。幕府の公的な書状や指令を、宿場から宿場へとリレー形式で迅速に伝達する「継飛脚」の制度は、中央の意思を遅滞なく全国の末端まで届けることを可能にした 11 。情報が錯綜し、あるいは遮断されることで中央の権威が地方に及ばなかった戦国時代への明確な反省が、この制度設計には込められていた 3

第三に、 経済的基盤 としての役割である。江戸を中心とする新たな物流ネットワークを構築し、全国の物産と富を江戸に集積させることで、江戸を名実ともに日本の中心地へと発展させる狙いがあった 1

この五街道構想の中核をなしたのが、「伝馬制度」の確立である。伝馬制自体は戦国大名も自領内で採用していたが、徳川幕府のそれは、全国規模で統一された規格とルールに基づき、幕府が直接管轄する国家システムであった点が画期的であった 12 。その骨子は、街道沿いの宿場に対し、幕府の公用通行のために定められた数の人足と馬(伝馬)を常に用意しておくことを義務付けるというものである 14 。幕府の役人や公用の飛脚は、これらの人馬を原則として無料で利用することができた 13 。宿場にとってはこれは極めて重い負担であったが、その見返りとして地租の免除などの経済的特権が与えられた 13

この制度の運用は厳格に管理された。伝馬の利用には、将軍が発給する朱印状や、老中が発行する証文が必要とされ、誰が「公用」として扱われるかが明確に定められていた 6 。ここに、この制度の持つもう一つの重要な意味が浮かび上がる。それは、単なる輸送システムではなく、「公(おおやけ)」と「私(わたくし)」という概念を、徳川幕府の基準で再定義し、全国に浸透させるための装置であったという点である。戦国時代、各大名はそれぞれの領国において主権者であり、「公」の概念は曖昧かつ多元的であった。しかし、徳川の伝馬制度は、将軍の朱印状を持つ幕府の用務が、他のいかなる通行よりも絶対的な優先権を持つことを、全国の宿場に日々の業務を通じて強制した。これにより、「幕府=公儀」という新たな国家観念が、物理的な街道整備と並行して、人々の意識の中に深く刻み込まれていったのである。これは、武力による制圧とは異なる、制度による天下統一事業であった。

第二章:構想の実行者 ― 関東代官頭・伊奈忠次の役割

徳川家康の描いた壮大な国家構想を、具体的な形として関東の地に刻み込んだ人物、それが関東代官頭・伊奈備前守忠次(いな びぜんのかみ ただつぐ)である。彼の存在なくして、慶長六年の迅速な街道整備は成し得なかったであろう。

伊奈忠次は三河国の出身で、一度は父と共に徳川家を出奔するという苦難を経験しながらも、その実直な働きぶりと能力によって家康の深い信頼を勝ち得た人物である 17 。彼の真価は、戦場における武功ではなく、検地(土地調査)、治水、新田開発といった、国家の基盤を支える民政・土木技術の分野で発揮された 20 。天正十八年(1590年)に家康が関東へ移封されると、忠次は関東代官頭に任じられ、広大な幕府直轄領(天領)の支配を一手に担った 18

彼の名を不朽のものとしたのは、利根川の流れを東へ変え、江戸を洪水から守るとともに関東平野に広大な穀倉地帯を生み出した「利根川東遷事業」である 19 。この未曾有の大事業を通じて、忠次は広域的なインフラ整備に不可欠な測量技術、膨大な労働力の動員と管理、そして利害関係の調整といった高度なノウハウを蓄積していた。彼の指揮下には、当時最高水準の技術者集団が形成されていたと考えられる。

この経験と能力が、街道整備事業において遺憾なく発揮される。慶長六年正月、家康が東海道の各宿場に宛てて発給した「伝馬朱印状」は、事業の開始を命じるトップダウンの指令書であった 19 。しかし、それだけでは宿場は機能しない。各宿場が常備すべき人馬の数、公用荷物の扱い方、料金の規定など、具体的な運営規則が必要となる。この詳細な実施要綱、すなわち「御伝馬之定」を作成し、大久保長安らと共に発給したのが伊奈忠次であった 4 。家康の「ビジョン」を、現場で実行可能な「マニュアル」へと落とし込む役割を彼が担ったのである。

この事実は、徳川政権の性格を象徴している。それは、戦国を勝ち抜くために必要とされた猛将たちの時代から、新たな国家を建設し、安定的に運営するための実務能力を持つテクノクラート(技術官僚)が歴史の表舞台に立つ時代への移行である。家康は、豊臣秀吉の小田原攻めの際に忠次が兵站や街道整備で手腕を発揮したことを記憶しており 17 、国家建設の根幹をなすこの事業の責任者として、最も信頼できる実務家である彼を抜擢した。個人の武勇や家柄ではなく、プロジェクトを完遂する能力を重視するこの人事は、近世的な官僚システムの萌芽であり、保土ヶ谷宿整備が単なる思いつきではなく、周到に計画された行政事業であったことを示している。


表1:保土ヶ谷宿整備に関わる主要人物とその役割

人物名

肩書・立場

本事業における役割

徳川家康

天下人(征夷大将軍就任前)

五街道整備と伝馬制度の最高意思決定者。「伝馬朱印状」を発給し、国家事業として始動させた。

伊奈忠次

関東代官頭

現場の最高責任者。家康の構想を具体的な制度に落とし込み、「御伝馬之定」を発給。測量、ルート策定、宿場の指定などを指揮した。

苅部(軽部)氏

在地の名主(旧北条氏家臣)

幕府から宿駅整備の命令を受け、現地での実務を担った。後に世襲で本陣・問屋役を務め、宿場の中心的存在となった 24


この三層構造は、近世初頭における中央集権的なプロジェクトの遂行メカニズムを明確に示している。家康という「構想者」、忠次という「管理者」、そして苅部氏のような在地勢力という「実行者」。この連携があって初めて、江戸からの指令が保土ヶ谷という一地域で具体的な形となる。これは、大名個人の属人的な才覚に依存した戦国時代の領国経営とは一線を画す、系統だった行政システムの確立を示す好例と言えるだろう。

第三章:保土ヶ谷、宿駅誕生前夜 ― 地理と歴史の交差点

慶長六年、徳川幕府が東海道の新たな宿駅として保土ヶ谷を選定したのには、地理的・歴史的な必然性があった。この地は、まさに街道の結節点となるべく運命づけられた場所であった。

地理的に見ると、保土ヶ谷は帷子川(かたびらがわ)が長い年月をかけて形成した沖積低地と、その両脇に迫る下末吉台地の丘陵によって構成される、典型的な谷あいの地形をしている 26 。この地形は、人々や物資の往来を自然とこの谷底の一本道に収斂させる効果を持っていた。江戸方面から西へ向かう旅人は、神奈川宿を過ぎて広がる平地を抜け、この保土ヶ谷で初めて本格的な丘陵地帯に差し掛かる。権太坂や品濃坂といった難所を前に、一息つくのに絶好の位置にあった。逆に京方面からの旅人にとっては、箱根の山を越えて以来続く平坦な道の終わりに位置し、目前に広がる武蔵野台地と江戸への最後の備えをする場所であった。

歴史的に見ても、この地は古くからの交通の要衝であった。中世には、鎌倉と各地を結ぶ鎌倉街道がこの付近を通過していたことが知られている 28 。ただし、当時の交通の中心は、後の東海道が通る帷子川下流域の湿地帯ではなく、より上流の和田橋付近であった可能性が指摘されている 28 。戦国時代後期にかけて、気候変動による海の後退や人為的な開発が進むにつれて、次第に後の東海道に近い、より直線的なルートが利用されるようになっていったと考えられる。

しかし、徳川幕府による宿駅整備は、単に既存の村落と道を追認しただけのものではなかった。それは、幕府の国家戦略に基づき、自然地形と中世以来の交通路を「再編集」する、計画的な都市設計事業であった。例えば、保土ヶ谷宿の街道筋は、相鉄線天王町駅付近から本陣跡があった場所で、ほぼ直角に屈曲している 29 。これは「桝形(ますがた)」と呼ばれる、城下町によく見られる構造に類似しており、意図的に見通しを悪くすることで、有事の際に敵の侵攻速度を遅らせる防御的な意図があったと考えられている。

つまり、保土ヶ谷宿の誕生は、自然発生的な集落が、中央権力の明確な意思によって計画都市へと変貌させられた瞬間であった。幕府は、この地の地理的・歴史的ポテンシャルを見抜き、それを自らの支配体制に最適化された形で利用したのである。江戸防衛の戦略的価値、そして後の時代に横浜開港場へと至る横浜道が分岐する交通の結節点としての将来性 30 、その全てが1601年の選定の背景にはあった。これは、近世的な国土開発思想の始まりを告げる出来事であったと言えよう。

第四章:慶長六年、保土ヶ谷宿の誕生 ― ある「事変」のリアルタイム再現

慶長六年(1601年)という一年間は、保土ヶ谷の地にとって、まさに激動の年であった。「宿駅整備で物流と往来を円滑化」という後世から見た静的な評価の裏には、中央からの命令、在地社会の動揺、そして新たな秩序が強制的に形成されていく、ダイナミックで生々しい過程が存在した。ここでは、その一年間の出来事を時系列に沿って再構成し、一つの「事変」としてのリアルタイムな姿を浮かび上がらせる。


表2:慶長六年(1601年)における保土ヶ谷宿整備の時系列

時期

中央(江戸)の動向

現地(保土ヶ谷)の状況

主な関係者

正月

徳川家康が東海道筋への「伝馬朱印状」を発給。

「ほとかや」宛の朱印状と「御伝馬之定」が下付され、宿駅指定が正式に伝達される。

家康、伊奈忠次、苅部氏ら名主層

春~夏

伊奈忠次の指揮下で、街道整備の実施計画が進行。

幕府の役人による実地検分と測量。街道ルート、宿場の範囲(四か町)が確定する。

伊奈忠次の配下、現地案内人

夏~秋

-

問屋場、本陣・脇本陣の指定と建設・整備。伝馬役を担う人馬の登録と割り当て。

苅部氏、宿役人、大工、人足

年末

-

宿駅としての機能が稼働開始。最初の公用旅行者や飛脚が人馬の継立を行う。

宿役人、馬子、人足、公用旅行者


慶長六年 正月:指令の下達

年の初め、保土ヶ谷の村々に衝撃的な報せがもたらされた。徳川家康の朱印が押された「伝馬朱印状」と、関東代官頭・伊奈忠次らの連署による「御伝馬之定」が、「ほとかや」(保土ヶ谷町)宛に発給されたのである 4 。この二通の文書は、この地が幕府公認の宿場となり、公用の人馬を提供する「伝馬役」という重い義務を負うことを命じるものであった。在地の名主層、特に小田原北条氏の旧臣であった苅部(軽部)氏のような有力者にとって、これは徳川の新たな支配体制に正式に組み込まれることを意味し、拒否権のない決定的な転機であった 25 。戦国の世が終わり、新たな権力者の下で生きる覚悟を迫られた瞬間であった。

春~夏:計画の具体化

指令を受け、現地では宿駅建設に向けた具体的な作業が開始された。伊奈忠次の配下と思われる役人や測量技術者たちが保土ヶ谷に入り、街道の正確なルートを策定するための実地検分と測量を行った。彼らは、既存の道を基礎としつつも、より効率的で、かつ幕府の戦略意図に沿うように路線を修正していったであろう。

この過程で、宿場の行政範囲も画定された。保土ヶ谷町を中心に、神戸(ごうど)町、岩間町、そして帷子(かたびら)町という四つの町が、一体として保土ヶ谷宿を構成することが定められた 24 。同時に、道の拡幅や、前述したような防御的意図を持つ道の屈曲部の設計など、宿場町としての基本的なインフラ整備計画が策定されていった。

夏~秋:施設の建設と組織の編成

計画が固まると、物理的な建設と社会的な組織編成が急ピッチで進められた。宿場の心臓部となる「問屋場(といやば)」の建設が始まった。ここは、人馬の手配や公用書状の中継を行う、宿駅運営の中核施設である 11 。また、大名や公家、幕府の高級役人が宿泊するための「本陣」として、在地で最も有力であった苅部家の屋敷が指定された 25 。さらに、本陣だけでは対応しきれない場合に備え、予備の宿泊施設である「脇本陣」も複数指定された 25

並行して、伝馬役を担う人馬の登録と割り当てが行われた。宿内の家々は、その規模に応じて一定数の人足や馬を提供する義務を負わされた。これは、彼らの日常的な生業を犠牲にすることも厭わない、極めて重い負担であった。こうして、宿場という新たな共同体に必要なハードウェア(施設)とソフトウェア(組織)が、数ヶ月のうちに強制力をもって構築されていった。

年末:宿駅機能の稼働

年末には、一連の整備が完了し、保土ヶ谷宿は江戸日本橋から数えて四番目の宿場として、本格的にその機能を始動させた 23 。幕府の役人や公用の飛脚が、初めてこの地で伝馬を乗り継ぎ、西へと向かった。ただし、この時点ではまだ東海道の全ての宿場が完成していたわけではない。例えば、隣の戸塚宿の成立は、三年後の慶長九年(1604年)であり 37 、当初は保土ヶ谷から藤沢宿まで、長い距離を一度に移動する必要があった。この事実は、五街道整備が全線で一斉に行われたユートピア的な計画ではなく、各宿場の事情に応じて進められた、困難を伴う段階的な事業であったことを物語っている。

慶長六年の保土ヶ谷は、法的な命令、技術的な測量、物理的な建設、そして社会的な組織編成が一体となった、まさに近世的な複合プロジェクトの実験場であった。この一年間の動的な過程を経て、保土ヶ谷は単なる村から、徳川の天下を支える国家交通網の重要な結節点へと生まれ変わったのである。

第五章:宿駅の心臓部「問屋場」の機能と構造

慶長六年(1601年)に保土ヶ谷宿に設置された問屋場は、単なる荷物の積み替え所ではなかった。それは宿場全体の運営を司る行政機関であり、徳川幕府の中央集権体制が毛細血管のように列島の末端にまで及んでいることを示す、象徴的な施設であった。ここで日々行われる業務こそが、「物流と往来の円滑化」という国家目標を支える実務そのものであった。

問屋場の業務は、大きく三つに大別される。

第一に、そして最も重要な業務が**人馬継立(じんばつぎたて)**である 11 。これは、幕府の公用旅行者(役人、飛脚など)や参勤交代の大名行列が宿場を通過する際に、彼らの身分や荷物の量に応じて規定された数の人足と馬を用意し、次の宿場まで荷物を輸送する業務である。旅行者が問屋場に到着すると、宿役人は彼らが携行する朱印状や証文を厳しく確認し、正当な利用者であるかを見極めた上で、必要な人馬を手配した 14 。この一連の作業が滞りなく行われることで、幕府の意思と物資は全国を迅速に移動することができた。

第二の業務は、**継飛脚(つぎびきゃく)**と呼ばれる通信業務である 35 。江戸の中央政庁から発せられた公用書状や指令は、飛脚によって宿場から宿場へとリレー形式で運ばれた。保土ヶ谷宿の問屋場は、神奈川宿から到着した書状を受け取り、ただちに新たな飛脚を仕立てて次の戸塚宿(成立後)へと送り出す中継点の役割を担った。これにより、江戸からの指令は驚くべき速さで京都や大坂まで達することが可能となり、幕府の情報支配を確立する上で不可欠な機能であった。

第三に、大名などが宿泊する際の 休泊手配 である 11 。大名行列のような大規模な一行が宿泊する際には、本陣や脇本陣の割り振り、食事の準備、警備の手配など、複雑な調整が必要となった。問屋場はこれらの業務を統括し、大名の格式に応じた適切な対応を行う司令塔の役割を果たした。

これらの複雑な業務を遂行するため、問屋場には専門の宿役人たちが詰めていた。その組織は、さながら小さな役所のようであった。

  • 問屋(といや) : 宿場全体の業務を総括する最高責任者。多くの場合、その宿場で最も有力な名主が世襲で務めた。保土ヶ谷宿では、本陣も兼ねた苅部氏がこの役職に就いた 11
  • 年寄(としより) : 問屋を補佐する副責任者格の役職 11
  • 帳付(ちょうつけ) : 人馬の出入りや公用荷物の内容などを詳細に帳簿に記録する役人。旅行者の監視も重要な任務であった 11 。彼らが日々記録する一筆一筆が、江戸の幕閣が全国の交通状況を把握するための基礎情報となった。
  • 人足指・馬指(にんそくさし・うまさし) : 帳付の指示に基づき、実際に人足や馬を集め、割り当てを差配する現場の指揮役であった 11

問屋場でのやり取りは、時に緊張を伴うものであった。武士と宿役人の間でのトラブルも少なくなく、一部の問屋場のカウンターが高く作られていたのは、激高した武士が刀を抜いた際に、身を守るための工夫であったという説もある 38

このように、保土ヶ谷の問屋場は、江戸城という国家の「頭脳」から発せられた指令を、東海道という「動脈」を通じて受け取り、次の宿場へと送り出す「中継点(ハブ)」として機能した。1601年の問屋場の設置は、単なる運送事務所の開設ではなく、徳川による全国規模の統治ネットワークの、不可欠な末端ノードを構築する行為だったのである。

終章:一点から線へ、そして面へ ― 保土ヶ谷宿整備が拓いた未来

慶長六年(1601年)の保土ヶ谷宿整備という出来事は、歴史の大きな潮流から見れば、武蔵国の一地域で起こった一つの「点」に過ぎないかもしれない。しかし、この一点から始まった変化は、やがて東海道という強靭な「線」となり、最終的には江戸を中心とする徳川幕府の全国支配という広大な「面」を確立する上で、決定的に重要な礎となった。

保土ヶ谷宿の整備を皮切りに、東海道五十三次、さらには中山道をはじめとする五街道全体の宿場網が、数年のうちに次々と形を整えていった 10 。当初は幕府の公用利用が主であった街道と宿場は、泰平の世が続くにつれて、次第に一般庶民の旅や伊勢参りなどにも利用されるようになり、人、物資、そして文化が活発に交流する大動脈へと変貌を遂げた 1 。保土ヶ谷宿もその恩恵を受け、江戸時代後期には人口約3,000人、旅籠の数は67軒を数える、活気あふれる宿場町へと発展した 36

しかし、この発展には光と影があった。街道整備が日本の経済と文化の発展に大きく貢献した一方で、伝馬役という重い負担は、宿場に指定された町や、その負担を補助するために動員された周辺の村々(助郷)に過酷な犠牲を強いた。特に交通量が増加するにつれて、助郷の負担は農村の生産力を奪い、疲弊させ、時には大規模な一揆の原因ともなった 13 。1601年の制度設計の段階で内包されていたこの構造的矛盾は、幕府の支配体制を支えながらも、同時にその足元を揺るがす要因として、幕末に至るまで続くことになる。

歴史的意義を総括するならば、保土ヶ谷宿整備は、戦国時代の「割拠と断絶」を象徴する、不確実で危険に満ちた交通を、近世の「中央集権と流動性」を象徴する、規格化され予測可能な交通へと転換させる、画期的な第一歩であった。徳川家康が目指した、単なる武力に頼らない恒久的で安定した支配体制の礎は、関ヶ原の勝利のみによって築かれたのではない。慶長六年の保土ヶ谷のような、全国各地の一つ一つの宿場における地道な測量、建設、そして組織編成という、無数の人々の労働の上に築かれたのである。

さらに言えば、この事業は、日本人の「空間」と「時間」に対する認識そのものを塗り替える、巨大なプロジェクトの始まりであった。街道に約四キロメートルごとに一里塚が築かれ 1 、宿場間の距離が公定されたことで、日本の国土は初めて客観的かつ均質な尺度で測られる「空間」として捉え直された。また、伝馬制度による安定した輸送速度は、移動にかかる「時間」を計算可能で予測できるものへと変えた。1601年の保土ヶ谷宿整備は、人々が拠って立つ世界の認識の枠組みそのものを、中世的なものから近世的なものへと変革する、壮大な試みの、まさに黎明を告げる出来事だったのである。

引用文献

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  2. discoverjapan-web.com https://discoverjapan-web.com/article/148734#:~:text=%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93%E3%81%AF1601%E5%B9%B4,%E3%82%8B%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%80%82
  3. #1 なぜ家康は東海道を整備したのか|不二考匠 - note https://note.com/takamasa_jindoh/n/nc89e576a7126
  4. 保土ヶ谷が宿場になったのはいつ頃ですか? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0205.htm
  5. 江戸幕府を開いた徳川家康:戦国時代から安定した社会へ | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06907/
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  7. 稀代のロジスティクスプランナー -徳川家康の都市づくり - 東京海洋大学 https://www2.kaiyodai.ac.jp/~kuse/pdf/orioriA4.pdf
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