最終更新日 2025-10-07

倉賀野河岸整備(1602)

慶長7年(1602年)倉賀野河岸は徳川家康の物流網構築で整備。戦国兵站から経済拠点へ転換し、陸路と水路の結節点として江戸の発展に大きく貢献した。
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転換期の要衝:戦国兵站から天下の物流へ――慶長七年(1602年)倉賀野河岸整備の徹底分析

序論:画期としての慶長七年――倉賀野に何が起きたのか

慶長七年(1602年)、上野国倉賀野において行われた河岸の整備事業は、徳川幕府による近世日本の物流網構築における画期的な一歩であった。本報告書の中心的な問いは、この事業が全く新しいインフラの「創造」であったのか、あるいは戦国時代に生まれた既存の軍事拠点を、天下泰平の世における国家経済の要衝へと「転換」させるものであったのか、という点にある。この問いを解き明かすことは、戦国から江戸へと移行する時代のダイナミズムを理解する上で不可欠である。

倉賀野という地は、江戸と京を結ぶ中山道と、日光へと続く日光例幣使街道が分岐する陸路の要衝であると同時に、利根川水系の一支流である烏川に面し、内陸水運の結節点ともなりうる、二重の地政学的価値を秘めた場所であった 1 。1602年の整備事業は、この潜在的な価値を国家的な規模で顕在化させるための、極めて戦略的な一手であったと言える。

本報告書は、まず第一章において、戦国動乱期における軍事兵站拠点としての倉賀野の黎明期を明らかにする。続く第二章では、天下統一を成し遂げた徳川家康の国家構想と、その壮大なグランドデザインの中に倉賀野がどのように位置づけられていたかを論じる。第三章では、利用者様の要望に応え、慶長七年前後の状況を時系列に沿って再構成し、整備事業のリアルタイムな様相を描き出す。そして第四章で、整備によって完成された「川の港」が江戸時代を通じていかに繁栄し、その歴史的役割を終えたかを概観する。これらの多角的な分析を通じて、「倉賀野河岸整備」という事象の歴史的意義を深く掘り下げていく。

表1:倉賀野河岸関連年表

年代(西暦/和暦)

出来事

関連人物・勢力

典拠

応永年間(14世紀末~15世紀初頭)

倉賀野氏、戦略拠点として倉賀野城を築城する。

倉賀野氏(武蔵児玉党)

4

永禄4年(1561)

倉賀野河岸が開設されたと伝わる。第四次川中島の戦い。

上杉謙信、武田信玄

6

永禄4年(1561)

西上野の雄、箕輪城主・長野業正が病死する。

長野業正

8

永禄7年(1564)

倉賀野城が武田信玄の攻撃により落城する。

武田信玄、倉賀野氏

4

天正18年(1590)

徳川家康が江戸に入府。関東郡代として伊奈忠次を任命する。

徳川家康、伊奈忠次

9

慶長7年(1602)

徳川幕府により倉賀野河岸が公認・整備される。中山道碓氷峠越えルートが正式に制定される。

徳川家康、伊奈忠次

4

慶長9年(1604)

伊奈忠次が烏川から用水路(備前渠用水)を開削する。

伊奈忠次

12

慶長12年(1607)

江戸城修築(天下普請)のため、利根川水運を利用した石材輸送が行われる。

徳川家康、諸大名

7

天明3年(1783)

浅間山が大噴火。烏川に大量の火山灰が降り注ぎ、川底が上昇する。

-

6

明治17年(1884)

高崎線が開通。河川舟運は急速に衰退し、河岸はその役割を終える。

-

4


第一章:戦国動乱と倉賀野――軍事兵站拠点としての黎明

慶長七年(1602年)の整備事業を理解するためには、まずその前史、すなわち戦国時代の倉賀野が果たした役割を解明せねばならない。この事業は決して白紙の上に描かれたものではなく、戦乱の時代に形成された軍事的・物流的な基盤の上に成り立っていた。本章では、利用者様の「戦国時代という視点」という要望の核心に応えるべく、軍事兵站拠点としての倉賀野の姿を明らかにする。

1-1. 上野国の地政学的重要性:四強が鎬を削る最前線

倉賀野の地は、鎌倉時代に武蔵児玉党の一族が倉賀野氏を名乗り、応永年間(14世紀末~15世紀初頭)に倉賀野城を築城して以来、地域の戦略拠点として機能してきた 4 。戦国時代に入ると、その地政学的な重要性は飛躍的に高まる。上野国は、越後の上杉氏、甲斐の武田氏、相模の北条氏という三大勢力の版図が接触する、まさに「力の衝突点」であった 4 。関東平野の北西端に位置し、信濃や越後へ抜ける交通路を扼するこの地は、関東支配を目指すいずれの勢力にとっても、決して手放すことのできない要衝だったのである。

この地を巡る争奪戦の激しさは、倉賀野城の運命が如実に物語っている。永禄七年(1564年)、武田信玄の猛攻によって落城 4 。その後、武田氏滅亡後は織田氏、そして本能寺の変後は北条氏の支配下に入るなど、目まぐるしくその主を変えた。これは、倉賀野が常に大国の国境紛争の最前線にあり続けたことの証左に他ならない。

1-2. 永禄四年(1561年)河岸開設説の再検討:軍事兵站の視点から

複数の資料が、倉賀野河岸の開設を永禄四年(1561年)頃と伝えている点に注目する必要がある 6 。この年は、単なる一年に留まらない。甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信濃川中島で激突した第四次川中島の戦いが行われ、両者の抗争が頂点に達した年である 17 。さらに、この時期は上杉謙信が関東管領としてその権威を示すべく、関東へ頻繁に出兵を繰り返していた時期とも完全に符合する。

この歴史的文脈に鑑みれば、永禄四年の河岸開設は、平時における商業的な目的から始まったとは考え難い。むしろ、それは大規模な軍事行動を支えるための 兵站拠点 として、極めて意図的に整備されたと見るべきである。当時の未発達な陸路では、数千、数万の軍勢を支える兵糧米、武具、弾薬といった膨大な軍需物資を迅速かつ安定的に輸送することは至難の業であった。これに対し、烏川を利用した河川舟運は、大量の物資を比較的安全に、そして効率的に前線近くまで運ぶための生命線となり得たのである 18

さらに、この永禄四年という年は、西上野に絶大な影響力を誇った箕輪城主・長野業正が病死した年でもある 8 。業正は巧みな戦略で武田信玄の侵攻を幾度となく退けてきた名将であり、その死は西上野における勢力均衡の崩壊を意味した 20 。これにより、武田・上杉双方にとって、この地域の支配権と、それを支える兵站線の確保は、死活問題となった。当初、倉賀野氏は上杉方に属して活動しており 22 、この河岸の整備は、上杉軍の関東における軍事活動を円滑化するための兵站基地として、あるいは在地領主である倉賀野氏自身が自衛のために構築した可能性が極めて高い。

1-3. 城と河岸の一体性:防衛と輸送の連携

倉賀野城と倉賀野河岸が地理的に近接していることは、両者が不可分の一体として機能していたことを示唆している。すなわち、城は河岸を防衛するための軍事拠点であり、河岸は城へ兵糧や物資を補給するための兵站基地であった。この「城河一体」とも言うべき軍事システムこそが、戦国期における倉賀野の戦略的価値の源泉であった。河岸で荷揚げされた物資は、ただちに城内へ運び込まれて防衛力に転化され、また城の兵力は、敵による河岸の破壊や輸送路の遮断を阻止するために展開されたであろう。この防衛と輸送が連携したシステムは、戦国時代の過酷な生存競争の中で必然的に生み出された、実践的な知恵の結晶であった。1602年の整備は、この戦国期に形成された軍事インフラのポテンシャルに着目し、それを平和な時代の経済インフラへと昇華させる試みだったのである。


第二章:天下統一と徳川の国家構想――グランドデザインの胎動

関ヶ原の戦いを経て天下の実権を掌握した徳川家康は、戦国の世を終わらせ、恒久的な平和を基盤とする新たな国家体制の構築に着手した。その構想は壮大であり、江戸を中心とした全国的な政治・経済システムの再編を目指すものであった。慶長七年(1602年)の倉賀野河岸整備は、この徳川のグランドデザインを具現化するための、具体的かつ戦略的な一歩として位置づけられる。それは、戦国時代の軍事拠点を、平和な時代の経済インフラへと転換させるという、家康の明確な国家ビジョンを反映したものであった。

2-1. 江戸入府と「天下の台所」の設計

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉によって関東へ移封された徳川家康が江戸に入府したとき、そこは日比谷入江が広がる低湿地帯に過ぎなかった 19 。この地を日本の新たな中心として発展させるためには、爆発的に増加するであろう人口を支えるための巨大な消費市場を賄う、全国規模の物流網の構築が絶対的な急務であった。江戸自体は生産力に乏しく、食料から建築資材に至るまで、あらゆる物資を外部からの供給に頼らざるを得なかったからである 9 。家康の関東経営は、まさにこの物流ネットワークの設計から始まったと言っても過言ではない。

2-2. 二大国家プロジェクト:利根川東遷と五街道整備

家康の国家構想を実現するため、二つの巨大な国家プロジェクトが並行して推進された。一つは「利根川東遷事業」、もう一つは「五街道整備」である。

利根川東遷事業 は、従来東京湾に注いでいた利根川の流れを東へ大きく付け替え、太平洋側の銚子へと導く、前代未聞の河川改修事業であった。この事業は、単なる治水対策に留まるものではなかった。第一に、江戸を洪水から守るという防災上の目的。第二に、広大な湿地帯を干拓し、新田開発を進めることによる食糧生産力の増強。そして第三に、関東平野の奥深くまで舟運を可能にする 内陸水運網の確保 という、複合的な目的を持っていた 9 。この事業によって、関東平野は利根川水系を介して有機的に結ばれた一つの巨大な経済圏として機能し始めることになる。

一方で、 五街道整備 による陸上交通網の体系化も強力に推し進められた。特に、慶長七年(1602年)に中山道の碓氷峠を越えるルートが正式に制定されたことは、倉賀野の運命を決定づける出来事であった 11 。これにより、倉賀野は江戸と京、そして信濃・越後方面を結ぶ公式の幹線道路上の宿場町としての地位を確立した。

倉賀野河岸の整備は、この水路(利根川東遷)と陸路(五街道整備)という二つの国家プロジェクトが交差する「結節点」を最適化し、両者の連携を最大化するための、極めて戦略的な一手だったのである。

2-3. 実行者・伊奈忠次:家康の構想を形にしたテクノクラート

家康の壮大な構想を、現場で具体的な形にしたのが、関東郡代に任命された伊奈忠次であった 10 。忠次は、単なる行政官僚ではなく、高度な土木技術知識を持つテクノクラート(技術官僚)であった。彼の用いた治水技術は、かつての敵である武田信玄のもとで培われた「甲州流」の思想を汲む「関東流(伊奈流)」と呼ばれるものであった 29 。これは、徳川政権が旧敵対勢力の有していた優れた技術や人材であっても、国家建設に有用であれば積極的に吸収・活用したことを示す好例である。

忠次の功績は、個別の事業をバラバラに進めたのではなく、それらを統合的な視点から計画し、同時並行で実行した点にある。慶長九年(1604年)には烏川から備前渠用水を開削して灌漑網を整備し 12 、同じ年には中山道の各宿場に伝馬定書を発給して陸上交通制度を確立するなど 31 、河川改修、利水、街道整備を一つのシステムとして捉え、関東全体のインフラを体系的に構築していった 32 。慶長七年の倉賀野河岸整備は、まさにこの伊奈忠次による統合的インフラ戦略の中核をなす事業であり、戦国時代の場当たり的な軍事利用から、計画的な国家経済利用への質的転換を象徴するものであった。


第三章:慶長七年(1602年)――時系列で見る「転換点」のリアルタイム

慶長七年(1602年)という年は、倉賀野にとってまさに「転換点」であった。この章では、利用者様の「事変中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要望に応えるべく、1602年前後の具体的な動きを、現存する資料から推論を交えて時系列に再構成する。

3-1. 前夜(慶長五年~六年 / 1600年~1601年):関ヶ原の戦い後の秩序形成

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける徳川方の勝利は、日本の歴史の大きな分水嶺となった。徳川家康は事実上の天下人として、戦乱の世から泰平の世への移行を強力に推進し始めた。世の中の関心は、軍事から内政へと大きく舵を切り、新たな国づくりのための秩序形成が急ピッチで進められた。

この時期、関東郡代・伊奈忠次をはじめとする幕府の奉行衆は、家康の構想に基づき、関東一円のインフラ整備計画の策定を水面下で進めていたと推察される。戦国時代に軍事目的で利用されていた各地の街道、関所、そして河岸(川の港)がリストアップされ、その機能や立地が精査されたであろう。倉賀野が持つ、中山道と烏川水運の結節点という地理的優位性は、この段階で高く評価され、国家的な再編計画の優先的な対象として位置づけられたはずである 31

3-2. 発令と着手(慶長七年 / 1602年):国家プロジェクトの始動

慶長七年(1602年)の年頭、江戸城において家康から伊奈忠次に対し、中山道の公式ルート制定(碓氷峠越えの確定)と、それに伴う主要宿場町、そして倉賀野河岸の本格的な整備に関する正式な命令が下されたと想定される。これは、単なる地域的な開発事業ではなく、幕府の権威を背景とした国家プロジェクトの開始を意味した。

命令を受けた忠次は、直ちに配下の代官や、倉賀野周辺の地を知り尽くした在地の有力者(旧倉賀野氏の関係者なども含まれた可能性がある)を招集し、具体的な工事計画の策定に着手した。河岸の規模、船着場の構造、蔵の配置、そして中山道からのアクセス道路のルートなどについて、詳細な図面が引かれたであろう。同時に、工事に必要となる木材や石材といった資材の調達、そして普請に参加する人夫の動員計画も立てられた。この事業は、徳川の治世が始まったことを天下に示す「御公儀の事業」として、周辺の諸勢力に対し、新しい時代の到来を強く印象付けるものであった。

3-3. 整備事業の実際(慶長七年 / 1602年):川と町の一体的改造

春の雪解け水を待って、倉賀野の地では大規模な土木工事が開始された。その整備は、単に川岸を改修するだけに留まらず、河岸と宿場町を一体の物流拠点として機能させるための、総合的な都市改造であった。

  • 河岸の物理的整備: まず、高瀬舟のような喫水の浅い川船でも安全に航行・接岸できるよう、川底に堆積した土砂をさらう「浚渫(しゅんせつ)」が行われた。そして、荷物の積み下ろしの際に岸が崩れるのを防ぐため、石垣や土塁による護岸工事が施された。舟が直接乗り付けられる、傾斜の緩やかな荷揚げ場(船着場)も複数造成されたと考えられる 33
  • 周辺インフラの整備: 荷揚げされた物資を一時的に保管するための「蔵」を建設する用地が確保され、周辺には幕府から公認された「船問屋」が軒を連ねるようになった 4 。船問屋は、荷主と船頭を仲介し、輸送の差配、運賃の徴収、貨物の保管といった物流業務全般を担う、河岸機能の中核であった。
  • 陸路との接続強化: 水運と陸運をシームレスに連携させるため、中山道の宿場から河岸へと至る「河岸道」が拡幅・整備された。さらに、河岸に荷揚げされた塩俵を牛の背に乗せ、信州方面へと運ぶための専用道「牛街道」もこの時に整備されたと見られる 4 。特筆すべきは、荷下ろしのために停車する荷駄牛や馬借が他の通行の妨げにならないよう、道端を意図的に凹ませた「ノコギリ状」の道が作られた点である 4 。これは、交通渋滞を未然に防ぐための極めて高度な設計思想であり、この事業が単なる力仕事ではなく、緻密な計画に基づいていたことを示している。

3-4. 直後の成果(慶長八年~十二年 / 1603年~1607年):国家事業への貢献

整備の効果は、驚くほど速やかに現れた。慶長八年(1603年)に徳川幕府が開かれると、倉賀野河岸は上信越地方の天領(幕府直轄領)や諸大名から徴収された年貢米(廻米)を江戸へ輸送する公式ルートとして、本格的に稼働し始めた 4

その真価が最も発揮されたのが、慶長十一年(1606年)から始まった江戸城の大規模な修築(天下普請)であった。この国家的な大事業において、大量の石材が必要とされた。『当代記』などの記録によれば、慶長十二年(1607年)、上野国中瀬(倉賀野から利根川を少し下った地点)あたりで切り出された石材が、利根川水運を用いて江戸へ運ばれたとある 7 。この巨大な石材輸送において、整備されたばかりの倉賀野河岸は、資材の集積、船への積み替え、人夫や船頭の休憩・補給拠点として、不可欠な役割を果たしたことは想像に難くない。1602年の整備事業は、物理的なインフラ(ハードウェア)の改修に留まらず、船問屋の公認や輸送ルートの制度化といった物流システム(ソフトウェア)の構築を同時に行う総合的なプロジェクトであり、その成果は幕府の最重要事業において即座に証明されたのである。


第四章:江戸時代の繁栄と歴史的意義――「川の港」の完成と終焉

慶長七年(1602年)の整備事業によって、倉賀野河岸は戦国時代の軍事拠点から、江戸幕府の経済を支える一大物流ハブへと生まれ変わった。本章では、江戸時代を通じて倉賀野がいかに繁栄し、どのような役割を果たしたかを概観し、その歴史的価値を総括する。

4-1. 利根川水運最上流の拠点としての全盛期

倉賀野は、利根川水系における舟運の最上流に位置する幕府公認の河岸として、江戸時代を通じて空前の繁栄を謳歌した 1 。江戸から倉賀野までは水路で約25里(約100km)、高瀬舟で下りは3日から4日、上りは川の流れに逆らうため17日から18日を要したという 6

この「川の港」は、双方向の物流拠点として機能した。越後や上信越地方からは、年貢米をはじめ、煙草、麻、木材といった産物がはるばる山を越えて倉賀野まで陸送され、ここから高瀬舟に積み替えられて江戸へと送られた。幕末期には、横浜開港の影響で輸出用の生糸なども主要な取扱品目となった 6 。一方、江戸からは、塩、茶、綿製品、そして農業用の肥料である干鰯(ほしか)といった、内陸部の人々の生活に不可欠な物資が大量に運び込まれた 4

最盛期には、米300俵を積むことができる大型の舟を含め、150艘余りの高瀬舟が倉賀野と江戸の間を行き交ったと記録されている 34 。その賑わいは、「い限り、お天道様と米の飯はついてまわる(倉賀野河岸で働いている限り、太陽と白米のご飯には困らない)」という言葉が生まれるほどであった 6 。享和三年(1803年)の記録によれば、倉賀野宿の家数は453軒、旅籠屋は64軒、人口は2056人を数え、宿場町と河岸が一体となった一大商業都市を形成していたことがわかる 4

4-2. 文化の交差点としての役割

倉賀野の重要性は、単なる物資の集散地に留まらなかった。人、モノ、そして情報が絶えず行き交うこの地は、多様な文化が交差する vibrant な場所でもあった。江戸と地方を往復する船頭たちは、江戸で流行している最新の文化や情報をいち早くもたらすトレンドの発信者であった。春には、京都の朝廷から日光東照宮へ幣帛(へいはく)を奉献する勅使(日光例幣使)の一行が雅な京文化を運び込み、参勤交代で往来する諸大名の行列は、武家文化の威光を示した。これに越後や信州の商人、多くの旅人、そして宿場の飯盛女たちが加わり、倉賀野は常に活気と華やかさに満ち溢れていた 6

4-3. 衰退への道程と現代への継承

二百数十年続いた倉賀野河岸の繁栄にも、やがて終焉の時が訪れる。その衰退には、二つの大きな要因があった。

第一の要因は、天明三年(1783年)に発生した浅間山の大噴火である。この噴火により、大量の火山灰が烏川に降り注ぎ、川底が著しく浅くなってしまった。これにより高瀬舟の航行が困難となり、安全を確保するための浚渫費用が膨大にかさむようになった。この維持コストの増大は、船問屋の経営を徐々に圧迫していった 6

そして、衰退を決定づけた第二の要因は、近代化の波、すなわち鉄道の登場であった。明治十七年(1884年)、高崎線が開通すると、物資輸送の主役は、天候に左右されやすく時間もかかる河川舟運から、迅速かつ大量輸送が可能な鉄道へと急速に移行した 4 。かつてあれほど賑わった河岸から船の姿は消え、倉賀野は「川の港」としての歴史的役割を終えたのである。

しかし、その記憶は完全に失われたわけではない。河岸の衰退を目の当たりにした和菓子店「丁子堂」の初代当主は、かつての繁栄を後世に伝えようと、舟運で使われた舟手形を模した「河岸最中」を考案した。この菓子は、110年以上にわたり、倉賀野の歴史を今に伝える語り部となっている 6 。倉賀野河岸の歴史は、徳川幕府が築き上げた前近代的な全国経済システムが、いかにして機能し、そして自然災害や技術革新の波の中で変容していったかを象徴的に示す、優れた事例なのである。


結論:歴史的意義の再評価

慶長七年(1602年)の倉賀野河岸整備は、単なる一地方の土木事業ではなく、戦国から江戸へと移行する時代の大きな転換を象徴する、極めて重要な歴史的事件であった。本報告書の分析を通じて明らかになったその歴史的意義は、以下の三点に集約される。

第一に、この事業は**「転換」の象徴**であった。倉賀野河岸は、戦国時代に軍事的な要請から生まれた兵站拠点を、徳川幕府がその国家構想に基づき、平和な時代の経済・物流拠点へと機能転換(コンバージョン)させた画期的な事例である。これは、徳川政権が単に武力で天下を制圧しただけでなく、社会経済システム全体を再構築する強い意志と、それを実現する高度な計画性・技術力を有していたことの動かぬ証拠と言える。

第二に、この事業は、支配のあり方が**「点の支配」から「面の支配」へ**と移行したことを示している。城郭とその周辺地域のみを直接支配する戦国大名の「点の支配」に対し、徳川幕府は五街道や河川舟運といった交通・物流網を全国的に掌握し、整備することで、広大な領域を経済的に支配する、より高度な「面の支配」を確立した。倉賀野河岸は、陸路と水路を結ぶそのネットワークの最重要結節点の一つとして整備され、幕府による「面の支配」を支える大動脈の一部となったのである。

最後に、倉賀野河岸の歴史は、 現代への示唆 に富んでいる。社会の安定と持続的な経済発展にとって、長期的視点に立った計画的かつ統合的なインフラ整備がいかに重要であるかを、その盛衰の物語は雄弁に物語っている。戦国の軍事インフラを平和利用へと転換させた徳川の叡智は、現代社会が直面する様々な課題を解決する上でも、多くの示唆を与えてくれるであろう。

表2:倉賀野河岸の機能変遷比較

比較項目

戦国時代(永禄年間頃)

江戸時代初期(慶長年間以降)

主目的

軍事兵站(兵糧・武具等の前線輸送)

経済物流(年貢米・商品の輸送)、国家事業(江戸城普請等)への貢献

管理主体

在地領主(倉賀野氏など)、各戦国大名

徳川幕府(関東郡代の直接管轄下)

主要取扱品目

兵糧米、武具、塩(軍需物資として)

年貢米、各種商品(麻、煙草、生糸、塩、茶、干鰯など)、建築資材(石材)

主要利用者

武士、兵員、人足

幕府役人、諸藩の役人、商人、船頭、一般旅行者

インフラの状態

自然の地形をある程度利用した簡易な船着場

計画的に整備された施設(浚渫された航路、護岸、荷揚げ場、蔵、問屋)

他交通網との関係

周辺の城や拠点と結ぶ限定的な陸路との連携

国家基幹網である五街道(中山道)と一体化した全国物流ネットワーク

引用文献

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  24. 利根川は江戸湾に流れていた ~利根川東遷と川舟の内川廻し~ - 日本海事史学会 https://kaijishi.jp/wp-content/uploads/2021/09/resume202010_tani.pdf
  25. 2.孫の代まで60年かけて、利根川東遷事業を成し遂げた伊奈 忠次 https://industry-co-creation.com/lifestyle/88848
  26. 江戸時代の海運と五街道|旅籠と木賃宿・食事|日本食文化の醤油を知る http://www.eonet.ne.jp/~shoyu/mametisiki/reference-11.html
  27. 伊奈忠次の河川改修と新田開発 https://www.japanriver.or.jp/kataru/kataru_report/pdf/no210_resume.pdf
  28. 第1回〈関東流〉治水利水の祖、伊奈忠次・忠治父子 https://www.water.go.jp/honsya/honsya/pamphlet/kouhoushi/topics/pdf/08rensai/mizunogijyutusya/2021_summer_03.pdf
  29. 治水技術の系譜 ~「関東流」と「紀州流」~ https://www.ktr.mlit.go.jp/ktr_content/content/000659531.pdf
  30. さらに詳しく関東流:関東農政局 - 農林水産省 https://www.maff.go.jp/kanto/nouson/sekkei/kokuei/kanna/rekishi/03_1.html
  31. 伊奈忠次について | バラのまち埼玉県伊奈町公式ホームページ Ina Town Official Web site https://www.town.saitama-ina.lg.jp/0000004028.html
  32. 伊奈備前守忠次公をご存知ですか? https://ina-sci.com/images/inashi_story.pdf
  33. 歴史と文化を偲ぶ境河岸の整備計画 https://www.rfc.or.jp/rp/files/05-20.pdf
  34. 流域歴史探訪 | 高崎河川国道事務所 - 関東地方整備局 - 国土交通省 https://www.ktr.mlit.go.jp/takasaki/takasaki00848.html