備中松山城改修(1600)
慶長5年、徳川家康は関ヶ原後、備中松山城を西国経営拠点とし、小堀遠州に改修を命じた。遠州は山麓に政庁、山上に詰の城を置く二元的構想と「綺麗さび」を融合。中世山城を近世城郭へと転生させた。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
慶長五年の激動:備中松山城、徳川の西国経営拠点への転生
序章:天下分け目の刻、備中の地政学
慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原における天下分け目の戦いは、徳川家康率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。この一日が日本の権力地図を劇的に塗り替え、戦国乱世の終焉と、二百六十余年にわたる徳川幕藩体制の黎明を告げることとなる。この歴史的転換点の直後、備中国(現在の岡山県西部)に聳える名城、備中松山城において着手された改修事業は、単なる一地方城郭の普請に留まらない、徳川家康による国家統治のグランドデザインを体現する、極めて戦略的な意味を帯びた事変であった。
関ヶ原の戦いと権力地図の再編
関ヶ原の戦いにおいて、西軍の総大将として大坂城に座した毛利輝元は、直接戦闘には加わらなかったものの、敗戦の責を一身に負うこととなった 1 。戦後処理において、輝元は中国地方8ヶ国112万石を領有する西国随一の大大名から、周防・長門の二国、約37万石へと大幅に減封され、その勢力を著しく削がれた 1 。これにより、毛利氏が長年にわたり支配してきた安芸、備後、そして備中といった広大な旧領国は徳川家の管理下に置かれることとなり、特に備中国は幕府の直轄領(天領)として再編されたのである 1 。
徳川家康の西国経営戦略
この戦後処理は、家康の深謀遠慮に基づく西国経営戦略の巧みさを如実に示している。関ヶ原の戦いは終結したとはいえ、豊臣恩顧の大名は西国に数多く存在し、徳川の支配体制は未だ盤石ではなかった。特に、強大な潜在能力を維持したまま防長二国に押し込められた毛利氏は、将来にわたる最大の警戒対象であった 6 。家康は、毛利氏の旧領国であり、山陽道の要衝に位置する安芸・備後49万8千石に、子飼いの猛将・福島正則を配置した 6 。広島城を拠点とする福島氏は、西の毛利氏に対する直接的な監視役、そして強力な「楔」としての役割を期待されたのである 8 。
この広島城の福島正則と対をなす形で、その東方に位置する備中松山城が持つ戦略的価値が浮かび上がる。備中松山城の支配権移行は、単に毛利氏から領地を没収したという受動的な結果ではなかった。家康は、この城が毛利氏の旧領国の中心部に深く食い込み、その動向を間近に探るための地政学的な価値を持つことを見抜いていた。広島の福島氏と備中の幕府直轄地は、毛利氏を東西から挟み撃ちにする二重の包囲網を形成する。したがって、慶長5年(1600年)に始まる備中松山城の改修は、単なる戦後処理の一環に非ず、未来の反乱の芽を摘むための「予防的投資」であり、徳川による天下泰平の実現に向けた国家戦略の重要な一翼を担うものであった。
要衝としての備中松山城
備中松山城が築かれた臥牛山は、古来より軍事上の要衝であった。山陰と山陽を結ぶ交通の結節点に位置し、眼下には高梁川が流れ、水運の利便性も高い 10 。この地理的優位性ゆえに、戦国時代を通じて激しい争奪戦の舞台となり、毛利氏にとっては東方進出の最前線基地として機能していた 12 。徳川幕府がこの地を直轄し、城の再整備を急いだのは、この城が持つ軍事的・経済的なポテンシャルを正確に評価したからに他ならない。荒廃した戦国の山城を、徳川の威光を示す近世城郭へと転生させること。それこそが、新たな時代の幕開けを西国の地に知らしめる、最も効果的な手段だったのである。
第一章:新時代の使者、小堀氏の着任
関ヶ原の戦いが終結し、備中が徳川の直轄領となるや否や、家康は新たな統治体制を構築すべく、信頼の置ける腹心をこの地に送り込んだ。その任に当たったのが、小堀正次(こぼりまさつぐ)と、その子・政一(まさかず)、後の小堀遠州(えんしゅう)である。彼らの着任は、備中松山城が新たな時代へと踏み出す第一歩となった。
備中国奉行の設置と小堀正次の入国(慶長5年/1600年)
慶長5年(1600年)、戦後間もなく、徳川家の代官として小堀正次が備中国奉行に任命され、備中松山城を預かることとなった 3 。これは、西国における徳川の支配権を迅速に確立しようとする家康の強い意志の表れであった。しかし、正次が目の当たりにした城は、新たな統治の拠点とするにはあまりにも無惨な姿を晒していた。
着任時の城郭の状態 ― 荒廃した中世の要塞
小堀氏が着任した当時の備中松山城は、長年の戦乱と放置により著しく荒廃していた。小堀氏の時代に描かれたとされる城絵図の分析によれば、城の基本的な縄張り(区画割り)こそ後世の姿と大差ないものの、防御の要である石垣や土塀は各所で崩れ落ち、山上の曲輪には草葺きとみられる粗末な建物がわずかに残るのみであったという 15 。
この荒廃の一因は、天正年間に遡る。城主であった三村氏を滅ぼした毛利氏は、この城を対織田戦線の拠点として大改修に着手した。しかし、天正10年(1582年)の備中高松城水攻めを契機とする織田氏との和睦により、その工事は中途で放棄された可能性が高い 15 。以来、約20年もの間、城は本格的な手入れをされることなく風雨に晒され、半ば廃墟と化していたのである。このような状況では山上で政務を執ることは不可能であり、正次は山麓の頼久寺(らいきゅうじ)を仮の政庁として、備中統治の第一歩を踏み出した 10 。
小堀政一(遠州)への代替わり(慶長9年/1604年)
慶長9年(1604年)、父・正次が江戸への道中で急逝し、26歳の若き政一が家督と備中国奉行の重責を継承することになった 13 。この若き後継者こそ、後に茶人、作庭家、建築家として「綺麗さび」の美学を確立し、当代随一の文化人としてその名を馳せる小堀遠州その人である 19 。遠州は、茶道を古田織部に学び、和歌や書にも通じた芸術家であったと同時に、父・正次や、築城の名手として知られる舅・藤堂高虎から土木・建築の実務的な才覚を受け継いだ、稀有な人物であった 21 。
家康がこの重要拠点の再建を、単なる武断派の武将ではなく、当代一流の文化人であり、かつ幕府の作事奉行として駿府城や二条城といった国家的な建築事業にも深く関与する遠州に託したことには、極めて深い意図が隠されている。それは、単に武力によって西国を支配する(ハードパワー)のではなく、洗練された文化と新たな時代の秩序によって統治する(ソフトパワー)という、徳川政権の先進的な統治哲学の表明であった。遠州の存在そのものが、戦乱の時代の終わりと、文化的な治世の到来を告げる象徴であり、彼の指揮による備中松山城の改修は、単なる地方の城普請ではなく、幕府中枢の意向と美意識が直接反映された国家事業として位置づけられたのである。彼の任命は、徳川の権威が旧来の戦国大名のそれとは一線を画す、高度に文化的なものであることを西国の地に見せつけるための、計算され尽くした人選であったと言えよう。
第二章:近世城郭への設計思想 ― 小堀遠州の美学と戦略
小堀遠州に託された備中松山城改修は、単に崩れた石垣を積み直し、失われた建物を再建するだけの事業ではなかった。それは、中世以来の山城が持つ戦闘本位の思想を、泰平の世の統治と防衛を両立させる近世城郭の思想へと昇華させる、一大プロジェクトであった。その設計の根底には、合理的な機能主義と、遠州独自の美意識「綺麗さび」とが分かち難く結びついていた。
二元的城郭構想 ―「統治」と「防衛」の分離と連携
遠州が描いたグランドデザインの最大の特徴は、城の機能を「統治」と「防衛」に明確に分離し、それぞれに最適な場所を与えた点にある。
標高430メートルに位置する山城は、天険の要害ではあるものの、日常的な居住や政務を行うには著しく不便である 11 。そこで遠州は、平時の政治・経済活動の中心地として、山麓に政庁兼居館である「御根小屋(おねごや)」を建設する計画を立てた 23 。これは、常に臨戦態勢で山城に籠もることを前提とした戦国時代の発想から、平地に拠点を構えて領国を効率的に経営するという、近世的な統治思想への明確な転換を示すものであった。
一方で、山上の小松山城は、万が一の有事の際に最後の拠点となる「詰の城」として、その防衛機能が徹底的に強化されることになった 12 。この山麓の「平時の城」と山上の「有事の城」は、完全に分離していたわけではない。両者の中間地点に中太鼓櫓、下太鼓櫓といった中継施設を設け、太鼓の音による迅速な情報伝達システムを構築することで、二つの拠点は有機的に連携するよう計画されていた 25 。この機能の分離と連携という二元的な構造は、戦乱の終焉と新たな統治時代の到来という時代の要請に対する、極めて合理的かつ先進的な回答であった。山上の城は「戦いの記憶」を宿す象徴的な存在となり、政治経済の現実は山麓の政庁へと移行したのである。この設計思想自体が、備中松山城が中世から近世への過渡期に位置する城であることを物理的に物語っている 27 。
美意識「綺麗さび」と城郭建築
この合理的な設計思想に、芸術的な洗練を与えたのが、遠州の美学「綺麗さび」であった。これは、千利休が大成した閑寂な「わび・さび」の世界に、対極とも思える明るさ、豊かさ、そして王朝文化的な華やかさや品格を加え、調和させた独自の美意識である 19 。
この美意識は、城郭建築においても遺憾なく発揮された。御根小屋に作庭されたと伝わる壮麗な庭園は、その最も直接的な表現である 32 。しかしその影響は、山上の軍事施設にも及んでいたと考えられる。例えば、大手門付近に見られる天然の巨大な岩盤と、その上に精密に積まれた人工の石垣との劇的な対比と調和 28 。あるいは、曲輪の配置や建物の意匠に見られるであろう、単なる武骨さだけではない、統治者の権威と洗練性を示すための景観設計。これらすべてに、自然と人工、剛と柔といった相反する要素を融合させ、新たな美を創造しようとする「綺麗さび」の精神が貫かれていたと推察される。備中松山城は、単なる要塞ではなく、徳川の治世がもたらす文化的な豊かさをも体現する、総合芸術作品として構想されたのである。
天下普請の時代と備中松山城
慶長期は、家康が全国の諸大名に普請を命じ、名古屋城や篠山城、丹波亀山城といった巨大城郭を次々と築かせた「天下普請」の時代であった 36 。これらの城は、豊臣家をはじめとする西国大名への抑えという明確な戦略目的を持っていた 40 。備中松山城の改修は、幕府直轄領での事業であり、厳密な意味での天下普請ではない。しかし、西国大名、とりわけ毛利氏への抑えという目的を共有し、幕府中枢の最重要人物である小堀遠州が直接指揮を執るという点において、その思想と政治的背景を色濃く反映した「ミニ天下普請」とも位置づけることができる。それは、徳川の権威の下に全国が再編成されていく時代の大きな潮流の中に、この改修事業が存在したことを示している。
第三章:慶長期大改修のリアルタイム・ドキュメント
慶長9年(1604年)に父の跡を継いだ小堀政一(遠州)の下、備中松山城の改修計画は具体的に動き出す。史料によれば、本格的な修築が始まったのは慶長10年(1605年)頃からとされ 15 、慶長13年(1608年)には山上の城と御根小屋の修築が行われた記録が残る 13 。この事業は、山麓における新たな統治拠点の創出と、山上における既存要塞の近世化という二つの柱で進められた。
第一節:山麓における統治拠点の創出 ― 御根小屋の建設(慶長10年頃~)
遠州がまず着手したのは、平時の政務と生活の拠点となる御根小屋の建設であった。これは、荒廃した山城に代わる、実質的な備中統治の中枢を創り出す事業であった。
立地と縄張り
建設地に選ばれたのは、臥牛山の南西麓、天然の要害である山を背にし、南側を流れる小高下谷川を自然の外堀として利用できる絶好の場所であった 23 。総面積は約34,000平方メートルにも及ぶ広大な敷地が確保され、高さ7メートルを超える重厚な石垣で周囲を固められた 23 。その威容は、単なる代官所ではなく、一大名の居城に匹敵するものであったことを物語っている。
施設配置と機能
幕末期の配置図などを参考にすると、御根小屋の内部には、藩主の居館である御殿を中心に、政務を司る役所、普請などを担当する作事処、さらには年貢米を収める米蔵や武器を保管する武具蔵などが、極めて計画的に配置されていたことがわかる 41 。特に、高梁川の水運で運ばれてきた物資を効率的に蔵へ搬入するための動線が確保されるなど、経済拠点としての機能も重視されていた 41 。御根小屋は、備中における政治・経済・軍事の中枢機能を一手に担う、まさに「麓の城」であった。
遠州の美意識の結晶 ― 付属庭園
遠州は、この実務的な政庁の中に、自身の美意識を直接的に表現する空間を創り出した。それが、御殿に付属して作庭された庭園である(現在は岡山県立高梁高等学校敷地内に一部が残る) 32 。この庭園は、巨石を大胆に配した枯滝石組や、鶴と亀を象徴する石組を特徴とし、安土桃山時代の豪壮な気風と、洗練された禅院の趣を併せ持つものであったと伝わる 32 。統治の場に、当代一流の芸術空間を創出すること。これこそ、文化による統治を掲げる徳川政権の思想と、それを体現する遠州の真骨頂であった。
城下町の整備
御根小屋の建設と並行して、遠州は城下町の整備にも着手した。小高下谷川の南岸に本町や新町といった町人地を計画的に配置し、商業の活性化を図った 2 。これにより、城と政庁、そして城下町が一体となった、近世的な都市空間の基礎が築かれたのである。
第二節:天険の要塞、近世への飛躍 ― 小松山城の石垣普請(慶長13年頃~)
山麓の整備と並行し、あるいはそれに続いて、山上の小松山城の本格的な改修が開始された。その主眼は、中世以来の土の城を、石垣で固められた「石の城」へと変貌させ、近世的な戦闘に対応できる要塞へとアップデートすることにあった。
改修の基本方針と縄張り
遠州の改修は、臥牛山全体に広がっていた中世城郭群のうち、最も要害堅固な小松山に資源を集中させるという、選択と集中の戦略を採った 14 。大松山などに残っていた古い遺構は事実上放棄され、小松山の中世以来の縄張り(曲輪の配置)を骨格として活かしながら、その防御線を高石垣で徹底的に強化する「近世城郭化」が進められた 27 。
石垣技術の導入
この改修の核心は、石垣普請にあった。
- 工法と石工 : 慶長期に用いられたのは、自然石をほぼそのまま積み上げる「野面積み(のづらづみ)」や、石の接合部をある程度加工して隙間を減らす「打込接(うちこみはぎ)」といった工法が主であったと推定される 34 。これらの工法は、後の天和期に見られるような、石を完全に方形に加工して密着させる「切込接(きりこみはぎ)」に比べると、荒々しく見えるが、排水性に優れ、堅固であった。この普請には、近江の穴太衆(あのうしゅう)に代表されるような、専門の石工技術者集団が動員された可能性が高い 47 。彼らは「石の声を聞き、石の行きたい場所に置く」と伝えられる経験則に基づき、自然の石を巧みに組み合わせて堅牢な石垣を築き上げた。
- 石材の調達 : 石垣に用いられた石材の多くは、城が位置する臥牛山の地盤を形成する花崗岩であった 27 。城内に明確な石切丁場(いしきりちょうば)の痕跡は確認されていないものの、曲輪を造成する際に出た石材を加工し、有効活用したと考えられる 50 。
防御思想の具体化
遠州の設計は、山城の地形的利点を最大限に活かしつつ、近世の戦闘理論を導入したものであった。
- 天然岩盤との融合 : 最大の見どころは、大手門付近に見られる、天然の巨大な岩盤を石垣の基礎として一体化させた構造である 34 。高さ10メートルを超える垂直な岩壁の上に、さらに高石垣と土塀を築くことで、人力では到底乗り越えられない圧倒的な防御力を生み出した。これは、自然の地形を巧みに取り込む遠州の美意識と、合理的な防御思想が融合した傑作と言える。
- 虎口の厳重化 : 城の出入り口である虎口(こぐち)は、敵兵の侵入速度を削ぎ、集中攻撃を加えるための最重要拠点である。遠州は、通路を直進させず、石垣で囲んで何度も屈曲させる「枡形(ますがた)」構造を導入し、防御力を飛躍的に高めた 28 。
- 鉄砲戦への対応 : 改修された土塀や、計画されていたであろう櫓には、鉄砲や弓矢で攻撃するための「狭間(さま)」が多数設けられた 51 。関ヶ原の戦いを経て、集団による鉄砲運用は戦闘の常識となっていた。城郭の設計も、多方向から死角なく射撃できるよう、狭間の配置が計算されていたと考えられる 54 。
このように、慶長期の改修は、山麓と山上にわたる壮大な事業であり、備中松山城を戦国の遺物から、新たな時代を担う近世城郭へと生まれ変わらせる、決定的な一歩であった。
表1:備中松山城 慶長期改修 年表(1600年~1617年)
西暦(和暦) |
政治・社会情勢 |
備中松山城での動向 |
改修の進捗(推定) |
関連人物 |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い、東軍勝利。毛利輝元は防長二国に減封。備中は徳川幕府直轄領となる。 |
小堀正次が備中国奉行として着任。城が荒廃していたため、山麓の頼久寺にて執務を開始 3 。 |
城郭の現状調査、改修計画の立案段階。 |
徳川家康、毛利輝元、小堀正次 |
1604年(慶長9年) |
- |
小堀正次が急逝。子の政一(後の遠州)が家督と備中国奉行職を継承 13 。 |
父の計画を引き継ぎ、本格的な普請の準備を開始。 |
小堀政一(遠州) |
1605年(慶長10年) |
- |
- |
御根小屋と山上の城の修築が本格的に開始されたと推定される 1 。 |
小堀政一(遠州) |
1608年(慶長13年) |
徳川家康、駿府城の普請を開始。遠州も作事奉行の一人として関与 57 。 |
遠州により、備中松山城および御根小屋の修築が実施される 13 。 |
御根小屋の主要施設と、山上の城の石垣普請が重点的に進められたと考えられる。 |
小堀政一(遠州)、徳川家康 |
1615年(慶長20年/元和元年) |
大坂夏の陣、豊臣氏滅亡。幕府は一国一城令を発布 58 。 |
- |
一国一城令の下、備中における唯一の城として松山城の存在が公認され、改修事業の正当性が強化される。 |
徳川秀忠 |
1616年(元和2年) |
- |
城下に新町、本町が整備される 3 。 |
城下町の整備が進み、城と町が一体となった統治体制が確立。 |
小堀政一(遠州) |
1617年(元和3年) |
- |
小堀政一は近江国へ転封。代わって池田長幸が6万5千石で入城し、備中松山藩が立藩 1 。 |
小堀氏による基礎的な改修が完了。池田氏に引き継がれる。 |
小堀政一(遠州)、池田長幸 |
第四章:慶長改修が持つ歴史的意義
小堀遠州が主導した慶長期の備中松山城改修は、単に一つの城を修復したという事実以上に、日本の歴史、とりわけ城郭史と政治史において深い意義を持つ事業であった。それは、徳川による新たな時代の秩序を西国の地に刻み込む象徴的行為であり、後の時代の礎を築いた重要な転換点であった。
徳川政権の西国支配の象徴として
この改修事業は、徳川の権威が西国の隅々にまで及んだことを物理的に示す、強力な政治的メッセージであった。かつて西国に覇を唱えた毛利氏の拠点であった荒廃した山城を、幕府中枢の人物が、幕府が誇る最新の思想と技術を用いて壮麗な近世城郭へと生まれ変わらせること。この行為自体が、旧来の権威の失墜と、新たな支配者の到来を誰の目にも明らかにするものであった。備中松山城の石垣一つひとつが、徳川の治世の堅固さと永続性を物語るモニュメントとなったのである。
城郭史における位置づけ ― 中世から近世への架け橋
城郭の歴史という観点から見れば、慶長期に改修された備中松山城は、中世と近世の過渡期に位置する極めて貴重な実例である 26 。中世的な山城が持つ、険峻な地形を最大限に利用した縄張りを維持しつつも、その防御の主力を土塁や堀切から高石垣へと転換し、計画的な施設配置を行うという近世城郭の要素を大胆に導入した 29 。
特に、山上に純粋な軍事機能としての「詰の城」を残し、山麓に政治・経済機能を集約した「政庁」を置くという、城の役割を明確に分離した二元的構造は、画期的であった。これは、常在戦場を前提とした中世城郭から、平時の「統治」を主たる任務とする近世城郭へのパラダイムシフトを明確に体現しており、その後の城郭のあり方にも影響を与えた可能性を秘めている。
後代への遺産 ― 水谷氏による天和の大改修の基盤
小堀遠州は元和3年(1617年)に備中を去り、彼の計画は天守のような象徴的な建物を建設するには至らなかった。その意味で、慶長改修は「未完」であった。しかし、この未完の状態こそが、当時の時代の要請を最も的確に反映した結果であった。関ヶ原直後の最優先課題は、華美な天守を建てることではなく、西国支配の安定化という実利的な目的のために、防御の根幹となる石垣と、統治の拠点となる政庁という「実用的なインフラ」を早急に整備することにあった。
遠州は、限られた時間の中で、城の本質的な機能(防御と統治)を近世の水準へと引き上げることに注力した。彼が築いたのは、いわば近世城郭としての「骨格」と「基礎」であった 15 。この強固な土台があったからこそ、約80年の後、泰平の世が完全に定着した天和年間(1681年~1683年)に、城主・水谷勝宗が、現存する天守や二重櫓といった壮麗な建造物をその上に築き上げることが可能となったのである 61 。小堀氏の改修を「基礎工事」、水谷氏の改修を「仕上げ工事」と捉えることで、二つの時代の事業は一つの連続した歴史として結びつく。慶長改修は、それ自体が完成形なのではなく、次代へとバトンを渡すための、極めて合理的かつ先進的な第一段階のプロジェクトだったのである。
結論:新たな時代の礎
慶長5年(1600年)を起点とする備中松山城の改修は、戦国乱世の終焉を告げ、徳川による新たな時代の秩序を西国の地に刻み込んだ、国家的プロジェクトであった。それは、単に崩壊した城壁を修復する土木事業ではなく、徳川家康の周到な西国経営戦略の一環として、明確な政治的意図を持って遂行された。
この歴史的事業の指揮を託された小堀遠州という稀代の才人は、戦国以来の山城が持つ天険の利を活かしつつ、高石垣や機能的な施設配置といった近世城郭の技術と思想を導入した。彼は、山上に「有事の城」、山麓に「平時の城」を設けるという二元的な構造によって、防衛と統治という相反する要請を見事に両立させた。その設計の根底には、単なる合理性だけでなく、「綺麗さび」に代表される彼の卓越した美意識が貫かれており、自然と人工、武骨さと洗練とを融合させた独特の景観を創り出した。
遠州が築いたのは、天守を持たない「未完の城」であったかもしれない。しかし、それは来るべき泰平の世における統治の基盤を固めるという、当時の最優先課題に応えるための、最も現実的で賢明な選択であった。彼が遺した堅固な石垣と合理的な縄張りという礎があったからこそ、後の時代に壮麗な天守が加えられ、今日我々が目にする名城の姿が完成したのである。
かくして、毛利氏の東方進出の拠点であった戦国の要塞は、徳川の西国支配を象徴する近世城郭へと転生を遂げた。慶長年間の大改修は、備中松山城の歴史における決定的な分水嶺であり、新たな時代の到来を告げる、静かな、しかし確かな狼煙だったのである。
引用文献
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- <現存重要文化財「備中松山城 天守」> 山城で唯一現存”天守”が残る貴重な城郭 | シロスキーのお城紀行 https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12823120328.html
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- 福島氏の入国と改易/浅野氏の治世 - 広島城 https://hiroshimacastle.jp/history/history02/
- 毛利輝元がある武将を大嫌いな理由|広島城で毛利家当主が語る - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=8UV4-P1XAQY
- 再考、福島正則の入国時期 - 広島城 https://hiroshimacastle.jp/rijo/wp-content/themes/rijo-castle/assets/pdf/magazine/shirouya74.pdf
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- 重文七城「備中松山城」の歴史と特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16944_tour_025/
- 知る備中松山城の歴史 https://www.bitchumatsuyamacastle.jp/history/
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