八幡堀整備(1597)
豊臣秀次が築いた八幡堀は、城の防御と琵琶湖の物流を結ぶ運河を兼ね備える。掟書で商船の寄港を義務付け富を独占。秀次の死後、城が失われても堀は経済基盤として自立し、近江商人の町の礎となった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
戦国期都市開発における八幡堀の創設と機能:豊臣秀次による近江支配の経済的基盤
序論:慶長二年(1597年)という時点の再検討と本報告書の視座
本報告書は、日本の戦国時代、特に織豊政権期における都市開発の一大事業として、「八幡堀整備」を多角的に分析するものである。ご提示された「1597年(慶長二年)」という年号は、この事変を理解する上で重要な出発点となるが、史料を精査すると、八幡堀の主要な建設と城下町の整備は、豊臣秀次が八幡山城主であった天正13年(1585年)から文禄4年(1595年)の間に集中的に行われたことが明らかである 1 。秀次自身は文禄4年(1595年)に自刃に追い込まれ、その拠点であった八幡山城も直後に廃城となった 3 。したがって、慶長二年(1597年)の時点では、八幡堀はすでに完成・機能しており、大規模な「整備」という事変が新たに発生したとは考え難い。
この歴史的経緯を踏まえ、本報告書では、ユーザーの真の関心が「八幡堀がどのようにして創られ、戦国時代の社会経済に如何なる影響を及ぼしたのか」という点にあると解釈する。そこで、単一の年次に固執するのではなく、事変の対象期間を、豊臣秀次による八幡山城築城が開始された天正13年(1585年)から、秀次の死を経て城下町が自律的な商業都市へと変貌を遂げる慶長年間初頭(約1600年)までと設定する。これにより、「八幡堀整備」という事象を、その構想、計画、実行、そして初期の機能発現と社会経済的インパクトの全貌として捉え、ご要望である「事変中のリアルタイムな状態」をより動的かつ立体的に描き出すことを目指す。
本報告書は、八幡堀を単なる土木事業としてではなく、豊臣政権の国家戦略、先進的な都市計画思想、そして近世日本の商業資本の萌芽が凝縮された、戦国時代末期を象徴する複合的歴史事象として位置づけ、その詳細を時系列に沿って徹底的に解明するものである。
第一章:八幡堀誕生の戦略的背景 — 織田信長から豊臣秀吉へ
八幡堀の誕生を理解するためには、その時代背景、すなわち本能寺の変以降の近江国が持つ地政学的な重要性をまず押さえなければならない。
本能寺の変後の近江と安土城の喪失
天正10年(1582年)、織田信長が本能寺の変に倒れ、その天下統一事業の象徴であった安土城が焼失したことは、近江国における政治・経済秩序に巨大な空白を生み出した 5 。安土城下は、信長が推進した楽市楽座政策の下で全国から商工業者が集まる一大経済センターであったが、その中核を失い、機能不全に陥った。信長の後継者として天下統一事業を引き継いだ豊臣秀吉にとって、この近江国の再編と、安土に代わる新たな拠点の構築は、政権の安定化における喫緊の課題であった。
豊臣政権における近江国の地政学的重要性
秀吉にとって近江国は、畿内(京都・大坂)と東国を結ぶ交通の結節点であり、軍事・経済の両面で国家の動脈ともいえる最重要地域であった。特に、秀吉が関白として政権を確立した後も、東には依然として強大な勢力を誇る徳川家康、そして関東には北条氏という「東の脅威」が存在していた 6 。これらの勢力に対峙し、万一の事態に備えるため、東国への玄関口である近江に、信頼できる強力な防衛拠点を設置することは、豊臣政権の安全保障戦略の根幹をなすものであった。
豊臣秀次の抜擢と期待
この戦略的要衝の支配を、秀吉は自身の姉の子であり、養子としていた豊臣秀次に託した 5 。天正13年(1585年)、秀吉はわずか18歳の秀次を近江43万石の領主として八幡に封じたのである 1 。これは単なる身内への恩賞ではない。豊臣一門の最有力者であり、将来の後継者候補と目される秀次を、政権の最重要拠点に配置することで、彼を次代の指導者として育成すると同時に、対東国戦略の全権を委ねるという秀吉の深謀遠慮があった。この配置は、秀次個人への期待と、豊臣政権の国家戦略とが分かちがたく結びついたものであった。
この一連の背景から、八幡における新都市建設は、単なる地方都市の開発事業ではなかったことがわかる。それは、第一に、信長が安土で目指した革新的な都市構想を継承し、発展させるという思想的後継事業であった。秀次が安土城下の民を八幡へ移住させ、信長の楽市楽座政策をほぼそのまま踏襲した法制度を整備した事実は、八幡が「ポスト安土」として明確に位置づけられていたことを物語っている 5 。第二に、八幡山城と八幡堀の建設は、豊臣政権の東国に対する安全保障戦略の要であり、対徳川・北条の最前線基地を構築するという、極めて高度な政治的・軍事的意図に基づいていたのである。
第二章:豊臣秀次の八幡山城築城と一体化した城下町構想
秀次による八幡の都市開発は、場当たり的なものではなく、築城と城下町建設、そして運河開削が当初から一体のものとして計画された、極めて先進的な都市計画であった。
八幡山という立地選定と安土からの機能移転
新たな拠点として選ばれた八幡山(鶴翼山)は、琵琶湖の内湖に面し、水陸交通の便に優れた要衝であった 1 。秀次はこの地に城を築くにあたり、まず大規模な土地造成に着手した。山麓に古くから存在した願成就寺や、山腹にあった日牟礼八幡宮の上社を移転させるなど、既存の権威や土地利用を整理し、全く新しい都市を建設するという強い意志が窺える 9 。
そして、この新都市の中核を形成させるため、信長亡き後に活力を失っていた安土城下から、商人や職人を積極的に誘致した 5 。これは、単に人口を確保する以上の意味を持っていた。安土が信長の楽市楽座の下で培ってきた商業ノウハウ、全国的な交易ネットワーク、そして人的資本そのものを、新しい都市へ「移植」する戦略であった。ゼロから経済を立ち上げるのではなく、成功した経済システムを人材ごと移転させることで、八幡は短期間での飛躍的な発展が可能となったのである。
計画的都市「グリッドプラン」と八幡堀によるゾーニング
秀次が造成した城下町は、縦12筋、横4筋(または5筋)の碁盤目状に整然と区画されていた 1 。このような幾何学的な都市計画(グリッドプラン)は、当時の日本ではまだ珍しく、支配の効率性と都市機能の合理性を追求する先進的な思想の表れであった。
この都市計画において、決定的に重要な役割を果たしたのが八幡堀である。八幡堀は、単に物資を運ぶための水路ではなかった。それは、都市の構造そのものを規定する「背骨」として設計されていた。堀はまず、八幡山城と城下町を物理的に隔てる境界線として機能した 12 。そして、堀の北側を武士の居住区、南側を町人の居住区と明確に区分した 10 。さらに町人地内においても、西側を商人地区、北東側を職人地区とするなど、身分や職業に応じた詳細なゾーニングが行われた 10 。
このように、八幡堀は軍事的な防御線(城と町を分ける)、社会的な身分秩序の可視化(武家地と町人地を分ける)、そして経済的な中心軸(堀沿いに蔵が立ち並び物流の拠点となる)という、都市が持つ三大機能を規定する中心線として計画されていた。これは、単に堀を掘るという土木事業を超え、都市のあらゆる機能を一つの構造物によって統合・制御しようとする、極めて高度な都市設計思想の具現化であった。
第三章:一大事業としての八幡堀開削 — そのリアルタイムな時系列
八幡堀の開削は、当時の土木技術の粋を集めた一大国家事業であった。その建設プロセスを、同時代の政治・軍事状況と連動させながら時系列で追うことで、事業のリアルタイムな様相が浮かび上がる。
西暦(和暦) |
主要政治・軍事動向 |
八幡城・八幡堀関連動向 |
1582(天正10) |
本能寺の変、安土城焼失 |
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1583(天正11) |
賤ヶ岳の戦い |
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1584(天正12) |
小牧・長久手の戦い |
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1585(天正13) |
秀吉、関白就任 |
秀次、近江43万石を拝領。八幡山城・城下町・八幡堀の築城・開削に着手 2 。 |
1586(天正14) |
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「八幡山下町中掟書」を発布 7 。 |
1587(天正15) |
九州平定 |
西川家が八幡で畳表問屋を開業 15 。 |
1590(天正18) |
小田原征伐、天下統一 |
秀次、尾張清洲へ加増転封。京極高次が八幡山城主となる 4 。 |
1591(天正19) |
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秀次、関白に任官 3 。 |
1592(文禄元) |
文禄の役 |
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1593(文禄2) |
秀頼誕生 |
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1595(文禄4) |
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秀次、謀反の嫌疑により自刃。八幡山城は廃城となる 3 。 |
1596(文禄5/慶長元) |
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京極高次、大津城へ移封 3 。 |
1598(慶長3) |
秀吉死去 |
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1600(慶長5) |
関ヶ原の戦い |
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天正13年(1585年)- 着工と初期段階
秀吉が関白に就任し、徳川家康との和睦が成立した直後の天正13年、秀次は近江に入封し、間髪を入れずに八幡山城と八幡堀の建設を開始した 2 。この迅速な着手は、この事業が豊臣政権の最優先課題の一つであったことを示している。初期段階では、まず都市全体のマスタープランに基づき、全長6キロメートルにも及ぶ堀のルート測量が行われた 1 。並行して、用地確保のために既存の寺社との交渉や立ち退きが実行された 9 。これは、単なる土木工事に先立つ、高度な政治的調整能力が要求されるプロセスであった。
工事の進捗と土木技術
実際の工事は、膨大な労働力を動員して進められた。領内の農民などが普請役として徴発され、鍬やもっこ(土を運ぶ縄の網)といった道具を使い、人力で巨大な溝を掘り進めていったと推測される。掘り出された土砂は、城下町の土地造成に利用されたであろう。堀の両岸には、城郭の石垣構築で培われた「野面積み」などの技術を用いて、堅固な石垣が築かれた 16 。山麓の秀次館跡からは金箔瓦が大量に出土しており、城館が極めて豪壮な建物であったことを示唆している 13 。これと一体で建設された八幡堀の普請もまた、国家事業にふさわしい壮大な規模であったことが窺える。
天正14年(1586年)以降 - 機能の発現と完成
着工の翌年、天正14年には「八幡山下町中掟書」が発布される 7 。この法整備と並行して、堀の掘削と琵琶湖との接続工事が進み、部分的に完成した箇所から順次、運河としての機能を発揮し始めたと考えられる。荷揚げ場や船着き場が整備され、安土から移住してきた商人たちによる経済活動が、新しいインフラの上で本格的に始動した。
秀次が関白就任に備え尾張清洲へ転封となる天正18年(1590年)頃には、八幡山城と八幡堀、そして碁盤目状の城下町という都市の骨格は、ほぼ完成の域に達していたと見られる。秀次が八幡を離れた後も、その構想は後任の城主京極高次に引き継がれ、秀次が悲劇的な最期を遂げる文禄4年(1595年)まで、八幡は城と堀が一体となった、活気あふれる都市として最も輝かしい時代を迎えたのである。
第四章:軍事と経済の融合 — 八幡堀の多角的機能
八幡堀の設計思想の核心は、一つの構造物に複数の、時には相反する機能を見事に統合させた点にある。それは、戦国の軍事的緊張と、勃興しつつある近世的経済合理性とを両立させた、時代の要請そのものであった。
軍事機能 — 城を守る「総構え」として
八幡堀の第一の機能は、八幡山城の麓を環状に巡る巨大な外堀としての役割である 10 。堀幅は約15メートルに及び、城と城下町を隔絶することで、城下町全体が城を守るための広大な防御空間、すなわち「総構え」を形成していた 9 。敵が城に到達するためには、まずこの広大な水堀を渡らねばならず、八幡堀は敵の侵攻を遅滞させ、城方の防御を有利にする第一の防衛線として設計されていた。これは、敵の襲来を常に想定しなければならなかった戦国時代末期の城郭都市における、標準的かつ重要な機能であった。
経済機能 — 物流を支配する「大動脈」として
しかし、八幡堀の真価は、この静的な防御機能に、動的な経済機能を付加した点にある。堀は市街地と琵琶湖を直接連結する運河として計画され、湖上を往来する全ての荷船を城下の中心部に引き込むことを可能にした 1 。これにより、八幡は琵琶湖水運における新たなハブ港となり、人、物、情報が集中する一大物流拠点へと変貌した 2 。堀沿いには、全国から集められた物資を保管・取引するための白壁の土蔵が立ち並び、活発な商業活動が展開された 11 。このように、敵の侵入を阻むための「堀」が、同時に富を呼び込むための「道」となるという、相反する要求を一つの構造物で解決した点に、八幡堀の設計の革新性がある。
都市インフラとしての先進性 — 「背割り」と「浚渫」
さらに、八幡堀は、都市の持続可能性をも見据えた、先進的なインフラ機能を備えていた。
第一に、城下町の町屋の裏手には「背割り」と呼ばれる排水路が設けられ、生活排水を堀に流す下水道システムが当初から完備されていた 10 。これは、人口が密集する都市において衛生環境を維持し、伝染病の発生を防ぐための極めて重要な設備であり、八幡が長期的な定住を前提とした恒久都市として計画されたことを示している。
第二に、堀の機能を維持するための管理システムが構築されていた。堀には生活排水や土砂が流入するため、放置すれば航路が浅くなり、水質も悪化する。これを防ぐため、船の航行に支障が出る前に定期的に「浚渫(しゅんせつ、川ざらえ)」が行われた 10 。驚くべきは、この浚渫で出た汚泥が、廃棄物ではなく資源として捉えられていた点である。汚泥は近隣の田畑の貴重な肥料として再利用され、その栄養豊富な田んぼで育った粘土は、地場産品である八幡瓦の原料となった 10 。これは、都市と周辺農村が一体となった、資源循環型の持続可能な経済圏を意図したものであり、現代のエコロジー思想にも通じる、極めて先進的な構想であったと言える。
第五章:「八幡山下町中掟書」と楽市楽座 — 経済活性化の制度設計
八幡堀という優れた物理的インフラ(ハードウェア)を最大限に機能させたのは、豊臣秀次が整備した巧みな法制度(ソフトウェア)であった。その中核をなすのが、天正14年(1586年)に発布された「八幡山下町中掟書」である。
条文項目 |
安土山下町中掟書(織田信長) |
八幡山下町中掟書(豊臣秀次) |
比較分析・考察 |
楽市楽座 |
楽市楽座を定め、諸座・諸役を免除する 8 。 |
第一条で楽市楽座を定め、諸座・諸役・諸公事を免除する 19 。 |
信長の基本政策を完全に継承。自由な商業活動を保障し、商人を誘致する意図が明確。 |
交通・商業の誘致 |
街道を通る商人の立ち寄りを推奨。 |
第二条で、街道商人の立ち寄りに加え、「船の上下儀、近遍の商舟これをあい留め、当浦へ出入すべき」と規定 20 。 |
画期的な発展。陸路だけでなく、水路の交通を法的に強制 して八幡に引き込む条項を追加。安土が城と港(琵琶湖)が離れていた弱点を克服し、水運を都市機能に直結させる強力な政策。 |
債務破棄(徳政) |
本能寺の変以前の債務を一部破棄する規定があったとされる。 |
本能寺の変以前の債務を破棄する条項を明記。ただし、町内での貸借は保護する 7 。 |
混乱期の債務関係を整理し、新規の経済活動を促進する意図。同時に、町内での金融秩序は維持しようとするバランス感覚が見られる。 |
治安維持 |
喧嘩口論の禁止、盗品売買に関する規定など。 |
喧嘩口論、押買・押売などを厳禁。盗品と知らずに購入した買主は罪に問わないなど、詳細な規定を設ける 20 。 |
信長の方針を継承しつつ、より具体的な商取引のルールを定めることで、商人が安心して活動できる環境を整備。 |
楽市楽座の継承と発展
掟書の第一条は、信長の安土政策の根幹であった楽市楽座を明確に継承するものであった 19 。特定の商人組合(座)の特権を廃止し、営業税や労役(諸役・諸公事)を免除することで、出自を問わず誰もが自由に商売できる環境を保障した。これは、旧来の権益に縛られない、実力本位の新しい経済秩序を創出しようとする、織豊政権に共通の革新的な政策であった。
掟書第二条の画期性 — 強制的な物流ハブの創出
この掟書が歴史的に画期的なのは、その第二条にある。「船の上下儀、近遍の商舟これをあい留め、当浦へ出入すべき」—この一文は、琵琶湖を航行する全ての商船に対し、八幡の港(八幡堀)への寄港を法的に義務付けるものであった 21 。
これは、単なる商業優遇策による緩やかな誘致とは全く次元が異なる。豊臣政権という中央権力が、既存の自由な物流ルートを権力によって強制的に変更し、政権が意図する新興都市・八幡に富を集中させるという、極めて強力かつ戦略的な経済介入であった。安土城は琵琶湖からやや離れており、水運の利を直接享受するには限界があった。秀次はこの安土の弱点を完全に見抜き、八幡堀という物理的インフラと、この掟書という法的強制力を組み合わせることで、八幡を一夜にして琵琶湖水運の独占的な中継地へと変貌させたのである。
この政策は、豊臣政権が目指した「天下統一」が、単なる軍事的な制圧に留まらなかったことを示している。それは、交通・物流という経済の血脈をも国家の管理下に置き、富の分配をコントロールしようとする「経済的な天下統一」であった。八幡堀とこの掟書は、その壮大な構想を近江国において具現化するための、巨大な社会実験装置であったと言えよう。
第六章:秀次の悲劇と八幡山城の廃城 — 城主不在の商業都市へ
秀次が築き上げた八幡の繁栄は、しかし、彼の政治的運命の暗転とともに大きな転機を迎える。
政治的激震 — 秀次の失脚と死
豊臣秀吉に実子・秀頼が誕生したことなどを背景に、豊臣政権内部の権力構造は大きく揺らいだ。文禄4年(1595年)、秀吉の後継者であり関白の地位にあった秀次は、突如として謀反の嫌疑をかけられ、高野山で自刃に追い込まれた 4 。この豊臣家の悲劇は、秀次が心血を注いだ八幡の町の運命を根底から覆すものであった。
八幡山城の廃城と政治的中心の喪失
創設者であり、町の権威の源泉であった城主を失った八幡山城は、秀吉の厳命により、秀次が拠点とした聚楽第と同様に徹底的に破却された 3 。築城開始からわずか10年、壮麗を誇った城郭は歴史の舞台から姿を消した。秀次の後、一時的に京極高次が城主となったが、彼も翌年には大津城へ移封され、八幡は城主を完全に失い、政治・軍事拠点としての機能を喪失した 3 。
商業都市としての自立 — 「城下町」から「商家町」へ
通常、城という政治的・軍事的中心を失った城下町は、その存在意義を失い、急速に衰退するのが戦国時代の常であった。しかし、八幡は全く異なる道を歩んだ。その理由は、秀次が遺したものが、城という物理的な建造物以上に、自律的に機能する強固な「経済システム」であったからに他ならない。
八幡堀という比類なき物流インフラと、掟書によって全国から集積された商人たちの経済資本は、城主という政治的権力の庇護がなくとも、自らの力で発展を続けることができた 3 。城の廃城後、町の主役は武士から商人へと完全に移行した。彼らは八幡堀を拠点として、畳表や蚊帳、麻布製品といった地場産品を全国に運び、蝦夷地から琉球、さらには海外の産物までをも持ち帰る「諸国産物回し」と呼ばれる独自の商法を展開し、莫大な富を築いた 10 。八幡は、彼らが全国に展開する支店の活動を統括する「本店町」として、財務、情報、教育の中枢機能を担い、江戸時代を通じて日本有数の商業都市として繁栄を続けたのである 11 。
この八幡の歴史は、日本の都市のあり方が、領主の存在という「政治的求心力」に依存する段階から、交通網や市場機能といった「経済的求心力」を基盤とする段階へと移行する、まさに戦国末期から近世への社会構造の転換を象徴している。秀次が物理的に遺した八幡山城はわずか10年で消滅したが、彼が設計した八幡堀と掟書という経済システムは、その後数百年続く近江商人の繁栄の礎となり、日本の商業史に不滅の足跡を残した。秀次の最大の遺産は、石垣や天守閣ではなく、自律的に発展可能な経済都市モデルそのものであったのである。
結論:戦国時代の都市開発における八幡堀の歴史的意義
豊臣秀次による八幡堀の創設は、戦国時代末期の日本における都市開発の到達点を示す、極めて重要な歴史事象である。その意義は、以下の三点に集約される。
第一に、八幡堀は織田信長の革新的な都市思想を継承し、さらに発展させたものである。信長が安土で目指した楽市楽座による自由経済圏の構想は、八幡において、琵琶湖水運を強制的に引き込むという、より強力で戦略的な経済政策へと昇華された。これは、ハードウェアとしてのインフラ(堀)と、ソフトウェアとしての法制度(掟書)を高度に統合し、都市の経済的成功を必然たらしめようとする、極めて合理的な都市戦略であった。
第二に、八幡堀は豊臣政権の天下統一事業における、軍事と経済を融合させた国家戦略の具現化であった。それは、東国への備えという軍事的要請に応える巨大な外堀であると同時に、琵琶湖の物流を支配し、富を政権の拠点に集中させる経済的装置でもあった。八幡堀の存在は、豊臣政権の支配が、単なる武力による制圧に留まらず、交通網や商業ルートといった経済の根幹にまで及んでいたことを示している。
第三に、そして最も重要な点として、八幡堀は、城主という政治権力から自立した、純然たる商業都市の成立を可能にしたことである。創設者・秀次の悲劇的な死と城の廃城という致命的な打撃にもかかわらず、八幡の町は衰退するどころか、八幡堀という優れた経済インフラを基盤として、近江商人という日本を代表する商人集団を生み出し、近世を通じて繁栄を続けた。これは、都市の存立基盤が、人格的な支配者から非人格的な経済システムへと移行する、日本近世社会の到来を告げる画期的な事例であった。
総じて、八幡堀は単なる過去の土木遺産ではない。それは、戦国という動乱の時代が終わりを告げ、経済が社会を動かす近世という新しい時代が幕を開ける、その転換点に築かれた記念碑であり、日本の都市史・商業史において不朽の価値を持つものである。
引用文献
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- 八幡堀について|【公式】近江八幡市観光情報サイト https://www.omi8.com/stories/hachimanbori
- 近江八幡山城の歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kinki/hachimanyama/hachimanyama.html
- 八幡山の概要を書いた案内板が目に入る。八幡山城の大手道、秀次屋敷跡 http://www.ken-tmr.com/hatimanyama-siroato/hatimanyama-siroato.html
- 豊臣秀次 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべて ... https://www.biwako-visitors.jp/guide/detail/134/
- 八幡山城 - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/column/no03/
- 安土山下町中掟書〈天正五年六月日/〉 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/197586
- 修理が終わった安土山下町中掟書 - 滋賀報知新聞 http://shigahochi.co.jp/info.php?type=article&id=A0039663
- 近江・八幡山城(滋賀県近江八幡市見宮内町) - 西国の山城 http://saigokunoyamajiro.blogspot.com/2018/09/blog-post.html
- 八幡堀 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E5%A0%80
- 歴史的建造物誕生を探る! 近江商人発祥の町並みと八幡堀[滋賀県]| コベルコ建設機械ニュース(Vol.261) https://www.kobelco-kenki.co.jp/connect/knews/vol261/monuments.html
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- 八幡山城 | 近江の城50選 - 滋賀・びわ湖観光情報 https://www.biwako-visitors.jp/shiro/select50/castle/d42/
- 近江八幡の商業発展に大きな役割を果たした人工の水路である。1585 年 https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653773.pdf
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- 市内に点在するお城の紹介 - 近江八幡 https://www.omi8.com/stories/castle
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- 八幡堀 - 滋賀県 https://shiga.mytabi.net/hachiman-bori.php
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