最終更新日 2025-10-02

八戸湊町形成(1602)

慶長7年、関ヶ原の戦後、南部利直は八戸を領国の経済・戦略拠点と構想。対伊達氏防衛と根城南部氏の影響力排除のため、八戸に城と湊町を建設。これは南部氏の国家戦略であり、後の八戸藩立藩の礎となった。
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慶長七年「八戸湊町形成」の真相:戦国終焉期における南部利直の国家構想

序章:慶長七年、奥州の夜明けーなぜ八戸だったのか

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いを経て、日本の永きにわたる戦乱の時代は実質的な終焉を迎えた。徳川家康による新たな天下統一が成り、各大名はもはや軍事力による領土拡大を追求するのではなく、領国の安定化と経済基盤の構築による藩経営へと、その思考と戦略を大きく転換させることを余儀なくされた 1 。この激動の時代の転換点において、陸奥国を支配する南部氏の若き当主、南部利直は、一つの壮大な都市計画を構想する。それが、本報告書の主題である「八戸湊町形成」である。

利用者様が提示された慶長七年(1602年)という年は、この事業を理解する上で極めて重要な意味を持つ。八戸の本格的な城下町建設が始まったのは、寛永四年(1627年)以降のことであり、物理的な「形成」とは時期が異なる 3 。では、1602年とは何だったのか。本報告書では、この年を単なる年号としてではなく、戦国という時代の文脈の中で捉え直し、**物理的な建設開始年ではなく、関ヶ原の戦後処理が一段落し、新たな時代を見据えた南部利直が、八戸を領国の新たな経済的・戦略的拠点とする基本構想を固めた「戦略決定の年」**として位置づける。

慶長四年(1599年)に父・信直から家督を継いだばかりの利直は、戦国以来の課題、すなわち不安定な領内統治と伊達氏をはじめとする外部勢力との緊張関係を継承しつつ、徳川の世という新たな政治秩序への適応という難題に直面していた 6 。この文脈において八戸湊町の形成は、単なる港湾開発や市場の整備に留まらない。それは、戦国の遺制を清算し、近世大名として生き残るための、南部氏の国家戦略そのものであった。本報告書は、「1602年」という一点から歴史を遡り、また未来を展望することで、一つの湊町がいかにして時代の要請の中から生まれ、南部藩の、そして八戸の未来を拓く一手となったのかを、リアルタイムの時系列に沿って徹底的に解明するものである。

第一部:動乱の記憶ー湊町形成に至る政治的背景

八戸湊町の構想は、平穏な時代の経済振興策として生まれたのではない。それは、関ヶ原の戦いの記憶も生々しい、戦国の緊張を色濃く引きずった政治情勢の中から、必然として要請された戦略的事業であった。南部利直の視点に立てば、この構想は二つの大きな「脅威」への解答であった。一つは宿敵・伊達政宗という外部からの脅威、もう一つは領内に半独立的な勢力を維持する根城南部氏という内部からの脅威である。

第一章:関ヶ原の選択

天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、南部利直は東軍(徳川方)に与するという重大な政治的決断を下した。この選択は、戦後の所領安堵を確実なものとし、新たに覇者となる徳川家との間に強固な信頼関係を築く上で決定的な意味を持った 7 。しかし、主戦場から遠い奥羽の地では、中央の戦況とは別の、もう一つの戦いが繰り広げられていた。

利直が徳川方への恭順を示すため上方に赴く隙を突き、長年の宿敵である伊達政宗が、旧和賀領主の和賀忠親を扇動し、南部領南部に侵攻させたのである。世に言う「岩崎一揆」である 8 。この事件は、関ヶ原の戦いが終結してもなお、奥羽においては戦国的な領土拡張の野心が渦巻いていた現実を白日の下に晒した。利直は、この一揆を鎮圧することで徳川家康への忠誠を改めて示すと同時に、伊達氏という恒常的な脅威を再認識させられることとなった。

この経験は、八戸の戦略的価値を飛躍的に高める結果につながった。八戸は太平洋に面し、伊達領と接する南部領の東南端に位置する。海上交通の要衝であるこの地を確実に掌握し、経済的・軍事的に強化することは、対伊達戦略上、喫緊の課題であった。もし伊達氏が海上からの軍事行動を起こした場合、あるいは八戸周辺の在地勢力と結託した場合、南部領は東西から挟撃される危険性を常に孕んでいた。したがって、利直が八戸に新たな拠点を築こうと考えた背景には、北方交易の経済的利益という側面に加え、この戦略的要衝を宗家の直接管理下に置き、対伊達防衛線を強化するという、戦国時代から続く極めて現実的な軍事的要請が強く働いていたのである。

第二章:奥州仕置の残滓

利直が直面した脅威は、外部からのものだけではなかった。むしろ、より根深く、慎重な対応を要したのは、領内に燻る戦国以来の旧勢力、すなわち「奥州仕置の残滓」であった。

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による奥州仕置は、東北地方の政治秩序を根底から覆した。南部氏は広大な所領を安堵されたものの、その支配は盤石ではなかった。仕置に反発した九戸政実が大規模な反乱を起こしたことは、南部宗家の権威が領内隅々にまで浸透していなかったことを物語っている 9 。この乱は鎮圧されたが、宗家の支配に服さない在地勢力の存在は、依然として利直の頭を悩ませる問題であった。

その象徴的な存在が、八戸地方を実質的に支配していた根城南部氏(八戸氏)であった。彼らは南部氏の一族でありながら、南北朝時代から約300年にわたり根城を拠点とし、半ば独立した領主としてこの地を治めてきた 5 。宗家にとって、彼らは潜在的な対抗勢力であり、領国の一元的な支配を確立する上での最大の障害であった。利直の父・信直の代から、宗家は当主となった清心尼に再婚を迫るなど、その影響力を削ごうと画策してきたが、根城南部氏の在地における影響力は根強いものがあった 11

この状況下で、利直が八戸に新たな湊町を建設するという計画は、経済開発を名目とした、根城南部氏の政治的影響力を無力化するための、極めて巧妙な「領内仕置」であったと言える。根城を中心とする既存の政治・経済システムを温存したままでは、開発の果実は根城南部氏に吸収され、宗家の支配強化にはつながらない。解決策はただ一つ、既存の拠点(根城)を無力化し、全く新しい政治・経済の中心(八戸城と湊町)を宗家の手でゼロから創り出すことであった。この壮大な事業は、八戸地方の支配権を物理的にも象徴的にも根城から奪い、宗家へと一元化するプロセスそのものであった。そして、その最終段階として断行されるのが、旧勢力そのものを領外へ移転させる寛永四年(1627年)の「遠野移封」なのである。

第二部:リアルタイム・クロノロジー「八戸湊町」構想の胎動

利用者様の「リアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要望に応えるため、ここでは八戸湊町形成のプロセスを、構想が芽生えた瞬間から、水面下での準備、そして具現化に至るまでの約30年間を、一つの連続した物語として描き出す。それは、一人の若き領主が、戦国の混沌の中から新たな時代の秩序を創造していく過程の記録でもある。

【表1:八戸湊町形成に関連する時系列対照表(1590年~1640年)】

西暦(和暦)

中央の動向(豊臣・徳川政権)

南部氏(宗家)の動向

八戸・周辺地域の動向

1590年(天正18)

小田原征伐、奥州仕置

南部信直、所領安堵される

九戸政実、奥州仕置に不満を抱く

1591年(天正19)

-

九戸政実の乱を鎮圧

根城南部氏は宗家に従い出兵

1599年(慶長4)

-

南部利直、家督を相続

-

1600年(慶長5)

関ヶ原の戦い

利直、東軍に参加。岩崎一揆が勃発

伊達政宗の策動が活発化

1601年(慶長6)

-

岩崎一揆を鎮圧

-

1602年(慶長7)

-

利直、戦後処理を終え、領国経営構想に着手。八戸の戦略的重要性を認識

-

1603年(慶長8)

徳川幕府開府

利直、初代盛岡藩主として藩体制の整備を進める

-

1615年(元和元)

大坂夏の陣、武家諸法度発布

藩政の安定化に注力

近江商人が蝦夷地・奥州への進出を活発化

1627年(寛永4)

-

利直、根城南部氏を遠野へ移封。八戸城(館)の築城を開始

根城南部氏が八戸を去る

1630年(寛永7)

-

利直、八戸城下町の町割り(都市計画)を開始

根城・新井田から商人が新町へ移住

1632年(寛永9)

-

南部利直、死去

湊町の建設が進む

1640年代

-

-

八戸湊、廻船の建造などで賑わいを見せ始める

第一章:1600年~1602年:構想の萌芽

慶長五年(1600年)九月、関ヶ原における東軍勝利の報は、奥州の利直のもとにも届いた。徳川方としての立場を確定させた安堵感と同時に、彼の眼前には岩崎一揆という喫緊の課題が横たわっていた 8 。翌年にかけてこの一揆を鎮圧し、領内の直接的な軍事的脅威を排除したことで、利直は初めて、目前の危機管理から、領国の将来像を構想する時間的・精神的余裕を得ることになる。

この時期、利直は領内を精力的に巡視し、自らの目で領国の実情を把握することに努めたと推察される 15 。その過程で、彼は八戸の地に立った。太平洋に大きく開かれ、蕪島を天然の防波堤とする鮫浦湊は、古くから漁港として機能していたが、そのポテンシャルは十分に活かされていなかった 16 。利直は、この地が持つ地勢的な優位性、すなわち、領内の豊富な山林資源や鉱物資源を海上輸送によって全国市場へと結びつける結節点となりうること、そして、当時まだ経済的なフロンティアであった蝦夷地(北海道)との北方交易の拠点となりうることを見抜いた。

慶長七年(1602年)は、利直の中で思考のパラダイムが転換した年であった。岩崎一揆の鎮圧までは、戦国的な「脅威への対処」という防衛思考が主であった。しかし、それが一段落したことで、八戸という土地を単に「守るべき場所」から、「富を生み出す場所」へと捉え直すことが可能になったのである。父・信直から続く領内統一という政治的課題と、新たな時代が要請する経済的発展という二つの命題を同時に解決する方策。その答えとして、八戸という一点に「新たな政治的中心の創設」と「広域経済のハブ機能の付与」という二つの役割を集中させるという、壮大な都市計画が構想された。これが、「1602年」の真相であった。

第二章:1603年~1626年:水面下の準備

1602年に生まれた壮大な構想は、しかし、すぐには実行に移されなかった。最大の障害である根城南部氏の存在が、あまりにも大きかったからである。構想から実行までの約四半世紀は、決して停滞期ではなかった。それは、利直が江戸幕府という新たな政治秩序に適応しつつ、八戸開発計画の実現に向けて、政治的・経済的な布石を着実に打っていった、長く、忍耐強い「準備期間」であった。

慶長八年(1603年)に江戸幕府が開府されると、利直は初代盛岡藩主として、幕府との関係を強化し、藩政の基礎固めに注力する。この時代、経済の世界では大きな地殻変動が起きていた。特に、近江商人が蝦夷地や奥州へ活発に進出し、松前藩の経済を支える一大勢力となっていた 18 。彼らは、蝦夷地の鰊、昆布、獣皮といった産物を上方に運び、代わりに米や衣類、生活雑貨を供給する交易ネットワークを構築していた 20

利直は、この新たな経済の潮流を鋭敏に察知していた。八戸は、この近江商人の交易ルート上に位置し、彼らを惹きつける戦略的拠点となりうる。実際、慶長年間には、すでに岡田弥三右衛門のような近江商人が八戸を拠点の一つとして活動を始めていた記録も残っている 18 。利直は、こうした商人の動きを把握し、彼らを本格的に新たな湊町に誘致するためには、安全で機能的な港湾施設と市場、そして何よりも宗家の強力な支配による安定した事業環境が必要不可欠であると認識していた。

この25年間は、壮大な都市計画を実現するための「資本」と「権力」の蓄積期間であった。利直は、近江商人のような外部の経済力(資本)を呼び込むための魅力を探りつつ、最大の国内的障害である根城南部氏を排除するための政治的正当性(権力)を、幕府との関係を深める中で静かに、しかし着実に固めていったのである。

第三章:1627年~1630年代:構想の具現化

四半世紀にわたる水面下での準備期間を経て、ついにその時は来た。寛永四年(1627年)、南部利直は根城南部氏に対し、突如として遠野への移封を命じる 5 。これは、戦国大名としての絶対的な権力を行使した強硬策であったが、もはや幕藩体制が安定し、利直の藩主としての権威が確立した後では、根城南部氏に抗する術はなかった。八戸地方が名実ともに盛岡藩の直轄地となり、開発の障害が完全に取り除かれた瞬間であった。

これを合図に、利直の構想は堰を切ったように現実のものとなる。同年、利直は自ら八戸に赴き、縄張り(設計)を行って、新たな政治の中心となる八戸城(当初は館、現在の三八城公園)の築城を開始した 4

そして寛永七年(1630年)頃から、城下町の建設が本格的に始まる 3 。その手法は、極めて計画的かつ大胆なものであった。旧来の経済的中心であった根城の商人たちは、新城下の西側(三日町から廿三日町)へ、また新井田にいた商人たちは東側(八日町から廿八日町)へと、組織的に移住させられたのである 3 。これは単なる人口移動ではない。商人たちが持つ顧客、流通網、資本、そして商業ノウハウといった無形の資産ごと、新しい都市という「器」に強制的に流し込むことで、短期間での経済機能の立ち上げを図った、合理的な都市開発手法であった。利直は、ゼロから商人を育成する時間的猶予を待つのではなく、既存の経済圏を一度解体し、自らが設計した新しい都市に再編成するという、トップダウン型の迅速な都市形成を成し遂げたのである。

第三部:新たな時代の設計図ー湊町の構造と経済戦略

こうして誕生した八戸湊町は、単なる人々の居住区ではなかった。それは、南部利直の政治思想と経済戦略が具現化された、緻密な設計図に基づく人工都市であった。その空間配置には、戦国の緊張と近世の合理性が同居し、その機能は、南部藩の経済を牽引する新たなエンジンとなるべくデザインされていた。

第一章:都市計画にみる思想

八戸城下町の空間配置は、近世初期の社会思想を色濃く反映している。まず、城は北に馬淵川の断崖を背負い、南に城下町を見下ろす防御に適した地に築かれた 3 。そして城の南側には、城に近い場所から順に、上級武士の屋敷地、東西に細長く伸びる町人町、そして中下級武士の屋敷地が整然と配置された 3 。これは、身分制度を空間的に可視化した、典型的な近世城下町のゾーニングである。

注目すべきは、防御と経済の両立を意図した設計である。町人町の東西の両端には、城下を防衛するための最終ラインとして足軽町が置かれた 3 。これは、伊達氏への警戒を怠らない戦国以来の備えを示すものである。一方で、城の直下に広大な町人町を計画的に配置した点は、この都市の主目的が経済活動にあることを明確に物語っている。町人町内部では、表通りに御用商人などの大店が並び、裏通りには職人が集められ、大工町、肴町、馬喰町といった職能ごとの町名が計画されたことからも 3 、商業と工業を一体的に振興しようとする利直の強い意志が読み取れる。

この都市計画は、南部藩が純然たる軍事国家から、経済を基盤とする統治へと移行していく過渡期の思想を凍結した、歴史的遺産と言える。それは、「戦国時代の防御思想」と「江戸時代の経済思想」が融合した、ハイブリッド構造の都市だったのである。

第二章:北方交易の新たなハブへ

利直が八戸に託した最大の夢は、この地を北方交易の新たなハブとすることであった。その背景には、かつて北日本最大の交易港として栄華を誇った十三湊の衰退という、大きな歴史的文脈が存在した。

【表2:十三湊と八戸湊の比較分析】

比較項目

十三湊

八戸湊

立地

日本海側(津軽半島)、岩木川河口

太平洋側、馬淵川・新井田川河口

繁栄時期

鎌倉時代~室町時代

江戸時代以降

政治的背景

在地豪族・安藤氏の拠点

南部氏(盛岡藩)の直轄拠点

衰退・発展の要因

土砂堆積による港湾機能の低下、安藤氏の政治的衰退

強力な藩権力による計画的な港湾・都市整備、太平洋航路の発展

主要交易品

蝦夷地の産品、大陸との交易品

領内産品(木材、鉄、海産肥料)、蝦夷地産品

中世、日本海側で栄えた十三湊は、安藤氏の衰退や、岩木川が運ぶ土砂の堆積によって港湾機能を失い、北日本の交易地図に大きな空白を生んでいた 24 。利直は、この歴史の教訓から、交易港の繁栄には、天然の良港という地理的条件だけでなく、強力な政治権力による継続的なインフラ整備と安定した統治が不可欠であることを見抜いていた。

八戸は、この空白を埋める太平洋側の新たな拠点として、まさにうってつけの場所であった。利直の計画の下、八戸湊町は単なる港ではなく、広域経済ネットワークのハブとして機能し始める。領内の九戸など山間部からは木材や炭、大野からは鉄、そして浜通りからは塩や〆粕(イワシなどを原料とする肥料)といった多様な産物が集積された 3 。これらの産物は、八戸湊から全国市場へ、そして特に米作に適さない蝦夷地へと運ばれ、代わりに蝦夷地からは毛皮や海産物、さらには大陸由来の蝦夷錦といった貴重品がもたらされた 24 。盛岡藩は八戸での廻船建造を積極的に奨励し、海運ネットワークの構築を強力に後押しした 27 。これにより、船大工などの技術者や、交易で一攫千金を夢見る商人たちが全国から集まり、町の発展はさらに加速していった。

利直は、単に港を作ったのではない。彼は、「生産地(領内各地)」、「集積・加工地(八戸城下町)」、そして「市場(全国・蝦夷地)」を結びつける、壮大なサプライチェーン全体を設計したのである。八戸湊町形成とは、この新たな経済システムの心臓部を創造する事業であった。

終章:1602年の一手が拓いた未来

慶長七年(1602年)に南部利直の脳裏に描かれた一つの構想は、約30年の時を経て八戸の地に壮麗な湊町として結実した。この事業の歴史的意義は、単に一つの都市が誕生したという事実に留まらない。それは、南部氏にとって戦国的な領内統一の最終仕上げであると同時に、近世的な経済立国への第一歩を印す、時代の転換点そのものであった。

利直による八戸の直轄化と開発は、盛岡藩の経済基盤を著しく強化した。しかし、彼の一手がもたらした最も劇的な結果は、彼自身の死後に訪れる。寛文四年(1664年)、利直の孫にあたる盛岡藩主・南部重直が跡継ぎを定めずに死去したため、幕府の裁定により、盛岡藩10万石から2万石が分割され、利直の子である南部直房を初代藩主とする「八戸藩」が誕生したのである 14

もし1602年の利直の構想と、その後の粘り強い準備・実行がなければ、この八戸藩の立藩はあり得なかった可能性が高い。通常、何もない土地に新たな藩を興すことは、藩庁、城下町、経済基盤をゼロから構築せねばならず、多大な困難を伴う。しかし、1664年の八戸には、利直が整備した城、整然とした城下町、機能的な港、そして活気ある商人コミュニティという、藩として自立するために必要な全てのインフラが既に存在していた。八戸藩は、いわば「ターンキー物件」として、極めてスムーズに発足することができたのである。

これは、利直が盛岡藩全体の強化のために行った先行投資が、数十年後、予期せぬ形で分家の独立を支える偉大な遺産となったことを意味する。彼の先見性ある一手は、後の八戸藩の誕生を可能にし、江戸時代を通じての発展を支え、さらには近代以降、港湾都市として大きく飛躍する今日の八戸市の礎を築いた。

結論として、「八戸湊町形成(1602年)」とは、単一の年に完了した事象ではない。それは、戦国の終焉を告げる時代の激動の中から生まれ、約30年にわたる政治的・経済的準備を経て実現した、南部利直一代の壮大な国家プロジェクトであった。そしてその構想は、時を超えて八戸の運命を決定づけ、現代にまで続く都市のアイデンティティの源流となったのである。

引用文献

  1. 1600年 関ヶ原の戦い | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-3/
  2. 「関ケ原の戦い」 ₋ 最新の研究から - 横浜歴史研究会 https://www.yokoreki.com/wp-content/uploads/2024/07/M%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%83%86%E3%83%BC%E3%83%9E%E9%96%A2%E3%82%B1%E5%8E%9FV%EF%BC%94-20240710.pdf
  3. 歴史(城下町八戸) | 八戸市博物館・史跡 根城の広場 https://hachinohe-city-museum.jp/rekishi_castletown/
  4. 八戸城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%88%B8%E5%9F%8E
  5. 【第一回】 八戸藩の誕生 https://www.city.hachinohe.aomori.jp/soshikikarasagasu/somuka/hachinoheshinoshokai/1/1/2348.html
  6. 旅 1214 三戸周辺(4) 南部利康霊屋 若宮八幡宮 - ハッシー27のブログ - Seesaa https://0743sh0927sh.seesaa.net/article/202107article_4.html
  7. 近世大名南部家が向き合った「歴史」 https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/record/5579/files/HirodaiKokushi_140_19.pdf
  8. 南部氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%B0%8F
  9. 【岩手県の歴史】戦国時代、何が起きていた? 九戸政実の乱〜豊臣秀吉の天下統一最後の戦い https://www.youtube.com/watch?v=xhOlAowsdFc
  10. 南部氏歴史年表 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E9%83%A8%E6%B0%8F%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E5%B9%B4%E8%A1%A8
  11. 歴史観光コンテンツリスト https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kenmin/sa-renkei/files/sankoshiryo2.pdf
  12. 八戸歴史探訪: 縄文と南部のロマン薫るまち | VISIT HACHINOHE | VISITはちのへ観光物産サイト https://visithachinohe.com/stories/rekishi/
  13. 八戸氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%88%B8%E6%B0%8F
  14. 南部家を支えた新田弥六郎直義|八戸88ストーリーズ https://hacchi.jp/programs2/dashijin/88stories/74.html
  15. 企画展の窓から④「南部利視の生き方」 - もりおか歴史文化館 https://www.morireki.jp/blog/event/2214/
  16. 鮫湊(さめみなと)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E9%AE%AB%E6%B9%8A-3021300
  17. 『海紀行』人とまちを支える港を訪ねて|一般社団法人日本埋立浚渫協会 https://www.umeshunkyo.or.jp/marinevoice21/umikikou/223/index.html
  18. 近江商人と円空の関わりを探る https://shiryoushitsu.jugem.jp/?eid=348
  19. 近江国(現在の滋賀県)の商人で、16 世紀から 19 世紀にかけて全国にそ https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001653763.pdf
  20. 蝦夷の時代48 (近江商人) - 北海道ビューポイント https://hokkaido-viewpoint.com/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E3%81%AE%E9%BB%8E%E6%98%8E%E6%9C%9F/%E8%9D%A6%E5%A4%B7%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A348%E3%80%80%E8%BF%91%E6%B1%9F%E5%95%86%E4%BA%BA/
  21. 八戸市の歴史・自然 https://www.city.hachinohe.aomori.jp/soshikikarasagasu/kohotokeika/kohokocho/2/1703.html
  22. 【第三回】八戸の城下町 https://www.city.hachinohe.aomori.jp/soshikikarasagasu/somuka/hachinoheshinoshokai/1/1/4388.html
  23. 八戸市中心市街地 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%88%B8%E5%B8%82%E4%B8%AD%E5%BF%83%E5%B8%82%E8%A1%97%E5%9C%B0
  24. 北で輝きを放った湊まち・十三湊の - 大林組 https://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/upload/img/062_IDEA.pdf
  25. 十三湊 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%B8%89%E6%B9%8A
  26. 北方の国際貿易と蝦夷錦 https://ywl.jp/file/y0M8zKuM5HwaFq4FIH6C/stream?adminpreview=0
  27. 八戸根城の南部直義は盛岡 の藩主南部利直の命により https://www.pref.aomori.lg.jp/soshiki/kotsu/seikatsu/files/kenzinkai192.pdf
  28. 八戸藩〜盛岡藩より独立したをわかりやすく解説 - 日本の旅侍 https://www.tabi-samurai-japan.com/story/han/1147/