兵庫津改修(1602)
慶長七年、池田輝政は慶長伏見地震と関ヶ原後の兵庫津を大改修。中世港を近世物流拠点へと再生させ、徳川幕府の全国流通網と経済戦略の要衝とした。これは戦国から近世への転換を象徴する。
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兵庫津改修(1602年)の歴史的意義:戦国から近世への転換点
序章:大海運時代の遺産と戦国の動乱 ― 改修前夜の兵庫津
慶長七年(1602年)に播磨国兵庫津で開始された大規模な改修事業は、単なる一地方港の復旧工事として語られるべきではない。それは、戦国の動乱と大災害によって荒廃した中世以来の国際港を、徳川の治世がもたらす新たな国内経済秩序の中核を担う近世的物流拠点へと再生させる、画期的な「事変」であった。この改修の歴史的意義を理解するためには、まず、兵庫津が内包していた栄光の記憶と、戦国末期に至るまでの深刻な機能不全という、二つの側面を解き明かす必要がある。
古代・中世の栄光「大輪田泊」
兵庫津の歴史は、奈良時代にまで遡る。高僧行基によって整備されたとされる「摂播五泊」の一つ、「大輪田泊」としてその歴史は始まった 1 。和田岬が北西の風を、六甲の山塊が北風を遮る天然の良港であり、都と西国、さらには大陸を結ぶ海上交通の要衝として、早くからその重要性を認識されていた 3 。
この港の名を不朽のものとしたのが、平安時代末期の平清盛である。日宋貿易の拠点として大輪田泊に着目した清盛は、私財を投じて大規模な修築事業を断行した 1 。特筆すべきは、日本最初の人工島ともいわれる「経ヶ島」の築造である 2 。これにより南東からの波浪を防ぎ、大型の宋船が安全に停泊できる一大国際貿易港へと変貌を遂げた。福原への遷都計画と相まって、大輪田泊は国家の経済と政治を左右する中心地となったのである。
鎌倉時代に入ると、大輪田泊は「兵庫津」と呼ばれるようになり、その重要性はさらに増した 5 。室町時代には、三代将軍足利義満が開始した日明貿易(勘合貿易)の拠点港として、再び国際舞台の主役となる 1 。その経済的価値は絶大であり、東大寺や興福寺といった中央の大寺社が港に関所を設置し、入港する船舶から関銭を徴収する権利を幕府から認められるほどであった 7 。『兵庫北関入舩納帳』などの史料は、当時、米をはじめとする全国各地の物産がこの港に集積し、瀬戸内海運のハブとして活況を呈していた様を雄弁に物語っている 2 。
戦国期の混乱と地位の低下
しかし、応仁の乱(1467年~)に始まる戦国の動乱は、兵庫津の運命を暗転させる。畿内における度重なる戦乱の舞台となり、港町は幾度となく戦火に見舞われた 8 。特に、国際貿易の拠点は、より自律的で武装した会合衆が支配する和泉国堺へと次第に移っていった 6 。これにより、兵庫津はかつてのような国際貿易の最前線としての地位を失い、その役割は国内物流の中継港へと限定されていく。
この状況に決定的な変化をもたらしたのが、織田信長の天下統一事業であった。天正八年(1580年)、信長は、反旗を翻した荒木村重の討伐後、その旧領であった摂津国の一部を池田恒興(輝政の父)に与えた 10 。信長の命を受けた恒興は、荒木方の拠点であった花隈城を破却し、その資材を転用して兵庫津に新たに「兵庫城」を築城した 2 。この築城は、単なる軍事拠点の建設に留まらない。それは、中世以来、寺社勢力などの影響が強かった兵庫津を、織田政権の直接的な軍事・政治的支配下に置くことを意味していた。発掘調査によって発見された、六甲山系の花崗岩を用いた「野面積み」の石垣は、この時代の城郭建築の様相を伝える貴重な物証である 11 。
この結果、改修前夜の兵庫津は、複雑な性格を帯びた都市となっていた。一方では、中世から続く「商業港」としての歴史的遺産と潜在的な経済力を持ち、もう一方では、織田政権によって付与された「軍事拠点」としての性格を強く帯びていた。この二重性は、平時においては経済活動の基盤となりうるが、ひとたび戦乱となれば真っ先に攻撃目標となる脆弱性を内包していた。商業と軍事が分かちがたく結びついたこの構造は、来るべき徳川の平和な時代において、その機能の再定義を迫られることになる。1602年の改修は、まさにこの内在的な矛盾を解消し、都市の機能を「軍事」から「経済」へと純化させ、時代の要請に応えるための戦略的な転換事業だったのである。
表1:兵庫津改修に関連する時系列年表
西暦(和暦) |
主要な出来事 |
関連する人物・勢力 |
1580年(天正8年) |
織田信長の命により、池田恒興が花隈城を攻略。 |
織田信長、池田恒興 |
1581年(天正9年) |
池田恒興、花隈城を破却し、その資材を用いて兵庫城を築城。城下町の整備を開始。 |
池田恒興 |
1596年(慶長元年) |
慶長伏見地震が発生。兵庫城および城下町が甚大な被害を受ける。 |
豊臣秀吉(治世下) |
1600年(慶長5年) |
関ヶ原の戦い。池田輝政、東軍で活躍。戦後、播磨姫路52万石に封じられる。 |
徳川家康、池田輝政 |
1602年(慶長7年) |
池田輝政の主導により、兵庫津の大規模な改修事業が開始される。 |
池田輝政 |
1615年(元和元年) |
大坂夏の陣。豊臣家滅亡。 |
徳川家康、徳川秀忠 |
1617年(元和3年) |
兵庫津が尼崎藩領に編入され、兵庫城跡には藩の陣屋が置かれる。 |
戸田氏鉄(尼崎藩主) |
1639年(寛永16年) |
兵庫津の廻船問屋・北風家が加賀藩の米を大坂へ海上輸送することに成功。 |
北風家、加賀藩 |
1672年(寛文12年) |
河村瑞賢が幕府の命により西廻り航路を公式に整備。兵庫津はその重要拠点となる。 |
河村瑞賢、江戸幕府 |
1769年(明和6年) |
兵庫津が幕府領(天領)となり、大坂町奉行の支配下に。兵庫勤番所が設置される。 |
江戸幕府 |
第一章:大いなる災禍 ― 慶長伏見地震(1596年)と兵庫津の壊滅
慶長元年七月十三日(1596年9月5日)、京・伏見を中心に畿内一帯を未曾有の激震が襲った。慶長伏見地震である。この天災は、豊臣秀吉が築いた伏見城を倒壊させ、京の都に甚大な被害をもたらしたことで知られるが、その破壊の力は瀬戸内海沿岸の港町・兵庫津にも容赦なく及んだ 13 。1602年の大改修事業を理解する上で、この地震がもたらした物理的、経済的な破壊の実態を直視することは不可欠である。それは、改修が単なる都市計画ではなく、壊滅した共同体の再生事業であったことを示しているからだ。
発掘調査が語る被災のリアルタイム
文献史料には、兵庫津がこの地震で「甚大な被害を受けた」と簡潔に記されている 13 。しかし、その言葉の裏に隠された被災の具体的な様相を、現代に生々しく伝えているのが、近年の考古学的調査の成果である。特に、神戸市教育委員会が実施した兵庫津遺跡第62次発掘調査は、地震発生の瞬間、時が止まったかのような光景を我々の眼前に描き出した 13 。
調査区からは、地震に伴う火災によって焼け落ちた町屋の遺構が50棟以上も発見された 13 。驚くべきは、その遺物の出土状況である。厚く堆積した焼土と炭の層の中から、文机とその上に置かれたままの硯、焼け焦げた畳、崩れ落ちた壁材などが、まさに人々が生活を営んでいたその場所で、そのままの状態で発見されたのである 13 。これらの発見は、地震の揺れによる建物の倒壊と、それに続いて発生した大規模な火災が、住民に避難する間も与えず、一瞬にして町全体を飲み込んでいった悲劇を物語っている。
これらの遺構と遺物の配置からは、当時の町屋の具体的な間取りまで推測することが可能となった。火を使う土間の台所、家人や客が過ごしたであろう畳の間といった、人々の暮らしの空間が立体的に復元された 13 。さらに、鍛冶屋で使われたとみられる炉の跡や、大量のトリガイの貝殻が出土した区画もあり、兵庫津が単なる商人の町ではなく、多様な手工業者や職人たちが集う生産の場でもあったことが明らかになった 13 。慶長伏見地震は、こうした人々の日常、生業、そして財産のすべてを、一瞬にして灰燼に帰せしめたのである。
港湾機能の麻痺と経済的打撃
地震の被害は、陸上の町屋だけに留まらなかった。港湾都市・兵庫津の生命線である港湾施設そのものにも、壊滅的な打撃を与えたと考えるのが自然である。発掘調査では15世紀から16世紀にかけての護岸施設らしき遺構も発見されているが、その詳細な構造や被災状況はまだ明らかではない 13 。しかし、大規模な地震動は、石積みで構築されていたであろう岸壁や波止場を崩壊させ、液状化現象を引き起こし、港の地形を大きく変動させた可能性が高い。
さらに、地震による海底地すべりや地盤の変動は、港内に土砂を流入させ、水深を著しく浅くしたであろう。これにより、船舶の安全な航行や接岸は極めて困難となり、港湾機能は完全に麻痺状態に陥ったと推測される。西国と畿内を結ぶ物資の集散地としての中核的役割は、この瞬間に失われた。米、塩、木材といった生活必需品や商品が兵庫津を経由して京・大坂へ送られるという、中世以来の経済サイクルは断絶し、地域経済は根底から揺るがされた。
この壊滅的な状況は、単なる部分的な修復では到底回復不可能なものであった。崩壊した町を再建し、麻痺した港湾機能を復活させるためには、都市全体の構造を根本から見直す、大規模で計画的な復興事業が不可欠であった。慶長伏見地震は、兵庫津に未曾有の悲劇をもたらした。しかし、歴史の皮肉というべきか、この大いなる災禍は、旧来の都市構造を一掃する「創造的破壊」の役割をも果たした。地震によって物理的に更地と化した都市空間は、結果として、後の池田輝政による近世的な思想に基づいた、合理的で計画的な都市再開発を容易にする下地を用意したのである。悲劇の中から、新しい時代を創造するエネルギーが生まれようとしていた。
第二章:新時代の設計者、池田輝政 ― 兵庫津改修(1602年)の胎動
慶長伏見地震から4年後の慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが徳川家康の勝利に終わり、日本は新たな時代への扉を開いた。この天下分け目の戦いで東軍の主力として戦功を挙げた池田輝政は、戦後、播磨一国52万石の太守として姫路城に入封する 15 。徳川家康の次女・督姫を正室に迎えていた輝政は、名実ともに関ヶ原後の新体制における最重要人物の一人であり、その役割は西国の外様大名に対する強力な抑えであった 16 。この輝政が、入封からわずか2年後の慶長七年(1602年)に兵庫津の大改修に着手した背景には、彼の卓越した経営能力と、家康が描く国家構想が深く関わっていた。
徳川家康の国家構想と輝政の役割
徳川家康が目指した天下泰平は、単に軍事力によって敵対勢力を抑え込むだけのものではなかった。彼は、全国を網羅する交通網と物流ネットワークを整備し、安定した経済基盤の上に恒久的な支配体制を築くことを構想していた。慶長六年(1601年)の東海道宿駅制度の制定や、各地の河川改修、航路開削などは、その具体的な現れである 18 。また、朱印船貿易を奨励し、海外との交易による国富の増大も積極的に図っていた 20 。
この家康の壮大な国家構想において、瀬戸内海航路が持つ戦略的重要性は計り知れない。西国諸藩の産物を「天下の台所」大坂へ、そして政治の中心地江戸へと運ぶ大動脈であり、この航路の安定確保は徳川政権の経済的生命線を握るに等しかった。その瀬戸内海航路の東端に位置し、大坂への最終結節点となる兵庫津は、まさにその要衝であった。しかし、その最重要拠点は慶長伏見地震によって壊滅的な打撃を受け、機能不全に陥ったままだったのである。
家康にとって、兵庫津の復興は、単なる一地方都市の再建問題ではなかった。それは、西国と中央を結ぶ物流網を再構築し、徳川による全国支配を経済面から盤石にするための、国家的な戦略プロジェクトであった。そして、この重要任務を託すに最もふさわしい人物こそ、西国支配の拠点である姫路に配置した、信頼厚い娘婿、池田輝政だったのである。
輝政の経営思想と土木技術
池田輝政は、当代随一の築城家、そして領国経営者として知られていた。彼が三河国吉田城主であった時代に行った城と城下町の大規模な改修は、その手腕を世に示すものであった 16 。そして、その才能が最も遺憾なく発揮されたのが、姫路入封後、9年の歳月をかけて行った姫路城の大改築である。今日、我々が目にする壮麗な白鷺城の天守群は、まさしく輝政の作品であり、その計画性、技術力、動員力は他の追随を許さないものであった 16 。
輝政の関心は、城郭建築だけに留まらなかった。彼は、領国全体の経済的発展を視野に入れたインフラ整備に極めて積極的であった。姫路藩の重要な外港であった高砂湊の整備を行い、舟溜りを設けるなど港湾機能を強化した記録が残っている 15 。また、塩田開発を奨励するなど、地域の産業振興にも力を注いだ 22 。これらの政策は、輝政が軍事的な安全保障と経済的な繁栄を一体のものとして捉える、近世的な領国経営思想の持ち主であったことを示している。
このような輝政にとって、地震で荒廃した兵庫津は、放置すべき負の遺産ではなく、自らの手で再生させるべき、計り知れない潜在価値を秘めた宝の山に見えたに違いない。彼は、この事業を単なる地震からの復旧(リコンストラクション)とは考えていなかった。むしろ、地震による破壊を好機と捉え、旧弊を一掃し、新たな時代の要請に応える最新の港湾都市をゼロから創り上げる、壮大な再開発(リディベロップメント)として構想したのである。
この事業は、輝政にとっては自領である播磨国の経済的価値を飛躍的に高める「領国経営」そのものであった。同時に、それは徳川家康が推進する全国物流網の再編という「天下普請(国家事業)」の一翼を担うものでもあった。輝政は、家康の国家戦略に積極的に貢献し、その期待に応えることで、徳川政権内における自らの政治的地位をより一層強固なものにしようとした。そして、その先には、再生した兵庫津がもたらすであろう莫大な経済的利益が待っていた。領国経営と天下への奉公。この二つが分かちがたく結びついたところに、1602年、兵庫津改修事業の胎動があったのである。
第三章:慶長七年のリアルタイム・ドキュメント ― 兵庫津改修の実行
慶長七年(1602年)、池田輝政の号令一下、兵庫津の地で未曾有の大改修事業の槌音が響き始めた。それは、地震と戦乱の傷跡が深く残る土地に、新たな秩序と繁栄をもたらすための創造の営みであった。この章では、断片的な史料と考古学的知見、そして同時代の土木技術に関する情報を組み合わせることで、1602年前後に展開されたであろう改修工事のリアルタイムな様相を、計画、港湾施設の再建、城下町の再整備という三つの側面に分けて再現する。
フェーズ1:計画と準備(1601年頃~)
大事業の成功は、周到な準備にかかっている。輝政は、まず家臣団の中から土木・建築に明るい奉行を選任し、現地調査団を組織したであろう。彼らの最初の任務は、被災状況の正確な把握であった。崩壊した町屋の瓦礫の山、土砂で埋まった港、寸断された道。その惨状を一つひとつ検分し、測量を行い、復興計画の基礎となる詳細な地図を作成した。
次に、新たな都市計画の策定が進められた。輝政が目指したのは、単なる旧状復帰ではない。来るべき平和な時代に、西国物流の拠点として最大限の機能を発揮できる、合理的で効率的な港湾都市の設計であった。港の拡張計画、主要な街路の配置、商人や職人の居住区画(ゾーニング)、そして城下町の防衛をも考慮した寺社の配置などが、図面の上で緻密に決定されていった 23 。
計画と並行して、膨大な資材と労働力の調達が開始された。石垣に用いる石材は、姫路城の築城でも活用された播磨国内の石切場から、木材は周辺の山林から切り出された。これらの資材は、陸路と海路を駆使して兵庫津へと集積された。労働力の中核をなしたのは、領内の農民たちであった。彼らは農閑期を利用して普請に参加することが義務付けられた。さらに、石工、大工、左官といった専門技術を持つ職人集団が、高禄で畿内や西国各地から集められた。こうして、兵庫津の浜には、巨大な工事基地が形成されていったのである。
フェーズ2:港湾施設の再建(1602年~)
工事の最優先課題は、港の心臓部である港湾施設の再建であった。
岸壁・波止場の再構築
地震で崩壊した岸壁や波止場は、瓦礫が撤去された後、より堅固な構造で再建された。池田恒興の時代に築かれた兵庫城の石垣は、自然石をあまり加工せずに積み上げる「野面積み」であったことが確認されている 11 。しかし、関ヶ原の戦いを経て、城郭建築技術は飛躍的な進歩を遂げていた。石材の接合面を加工して隙間なく積み上げる「打込接(うちこみはぎ)」や、さらに精密な「切込接(きりこみはぎ)」といった新技術が生まれ、より高く、より急勾配の石垣を築くことが可能になっていた 24 。輝政が当代随一の築城家であったことを考えれば、兵庫津の岸壁再建においても、こうした最新の石垣技術が導入された可能性は極めて高い。熟練した石工たちが、巨大な石材を巧みに組み合わせ、荒波にも耐えうる強靭な石垣を築き上げていく光景が目に浮かぶ。
浚渫と航路確保
港湾機能の回復には、航路の水深確保が不可欠であった。地震で流入した土砂や瓦礫によって浅くなった港内では、大規模な浚渫(しゅんせつ)作業が行われた。当時の浚渫は、主に人力に頼る過酷な労働であった。人々は「鋤簾(じょれん)」と呼ばれる道具で海底の土砂を掻き寄せ、それを「もっこ」や小舟で陸上へ運び出す作業を延々と繰り返した 26 。この地道な作業によって、大型の廻船が安全に出入りできるだけの水深が確保され、港は再びその生命を取り戻した。
防波施設の強化
兵庫津は天然の良港であったが、南東からの風波には比較的弱いという弱点があった。平清盛が築いた経ヶ島も、400年以上の歳月と地震によって、その機能が低下していた可能性がある 2 。改修に際しては、この経ヶ島の補強や、新たな石積みの防波堤(波止)の建設が行われたと推測される。これにより、港内の静穏度はさらに高まり、天候に左右されにくい、全天候型の港湾へと進化を遂げた。
フェーズ3:城下町の再整備(1602年~)
港湾施設の再建と並行して、壊滅した城下町の再整備も急ピッチで進められた。
計画的な町割(都市計画)
輝政が導入したのは、近世的な思想に基づく、計画的なグリッドプラン(碁盤目状の区画)であった。発掘調査では、江戸時代初期に遡る、整然と区画された街路網が確認されている 13 。特に、兵庫城の正面玄関にあたる大手道は、幅が9メートルにも及ぶ広大なものであり、これが単なる自然発生的な復旧ではなく、明確な意図を持った都市計画の産物であったことを示している 13 。この計画的な町割は、土地の所有権を明確にし、効率的な物流と人の往来を可能にした。驚くべきことに、この慶長七年に定められた区画は、幕末に至るまでほとんど変更されることなく踏襲されたことが、後の時代の絵図や土地台帳と発掘成果の比較から明らかになっている 13 。
機能的なゾーニングとインフラ整備
町は、機能ごとに明確に区画分けされた。西国街道沿いには宿場町としての機能が強化され、旅籠や茶屋が軒を連ねた。港に近いエリアには、廻船問屋や倉庫が立ち並ぶ商業地区が設定された。そして、その後背地には、職人たちの工房や住居が配置された。また、城下町の北辺には、防衛線としての役割も兼ねて、大規模な寺院が集められた 23 。
人々の生活を支えるインフラも、計画的に整備された。各町屋には井戸が掘られ、排水のための溝が街路に沿って設けられた 13 。これらのインフラは、町の衛生環境を改善し、人口増加を支える基盤となった。
池田輝政による兵庫津改修は、物理的なインフラ(ハードウェア)の再建に留まるものではなかった。整然とした町割や機能的なゾーニングは、商工業者を誘致し、効率的な経済活動を促すための社会制度(ソフトウェア)の改革でもあった。彼は、物理的な「器」を造ると同時に、その中で人々が豊かに活動するための社会システムをも設計していたのである。慶長七年、兵庫津の地で展開されたこの総合的な都市再生事業は、まさに戦国の終焉と近世の幕開けを象徴する出来事であった。
第四章:西国物流の要へ ― 改修が拓いた兵庫津の黄金時代
慶長七年(1602年)の改修事業は、兵庫津の運命を決定的に変えた。地震によって打ち捨てられた荒廃の地は、池田輝政の近世的な都市計画思想によって、新たな時代の要請に応える最新鋭の港湾都市として再生された。この改修がもたらした効果は絶大であり、兵庫津はその後、江戸時代を通じて日本の国内経済を支える大動脈の要衝として、未曾有の繁栄を謳歌することになる。戦国の軍事拠点から、徳川の平和(パクス・トクガワーナ)を支える経済拠点へ。その劇的な変貌の軌跡を追う。
国内海運のハブポート化
改修によって港湾機能が飛躍的に向上した兵庫津は、瞬く間に西国と畿内を結ぶ海上交通の中心地としての地位を回復し、さらに強化していった。
西廻り航路の事実上の起点へ
江戸幕府が河村瑞賢に命じて、出羽国酒田から日本海を南下し、下関海峡を経て大坂に至る「西廻り航路」を公式に整備したのは、寛文十二年(1672年)のことである 29 。しかし、その航路自体は、それ以前から民間の廻船によって少しずつ開拓されていた。その非公式な航路網の中で、兵庫津は事実上のハブポートとして機能し始めていた。その象徴的な出来事が、寛永十六年(1639年)、兵庫津の廻船問屋・北風家が、加賀藩の依頼を受けて藩の蔵米を日本海から瀬戸内海を経由して大坂まで海上輸送することに成功した一件である 31 。これは、1602年の改修によって兵庫津の港湾能力と、それを拠点とする海運業者の実力が高まっていたからこそ可能となった快挙であった。改修は、瑞賢による航路整備に先立つこと70年、西廻り航路が成立するための不可欠なインフラを準備していたのである。
北前船の一大拠点
江戸時代中期以降、日本の海運の主役となったのが、大坂と蝦夷地(北海道)を往復し、寄港地で商品を売買しながら航海する「北前船」であった 33 。彼らが運んだのは、蝦夷地の昆布や鰊(にしん)、身欠きにしんといった海産物であり、特に鰊を加工した干鰯(ほしか)や鰊粕(にしんかす)は、畿内や西日本の綿花栽培などに不可欠な高級肥料として、農業生産の飛躍的な向上に貢献した 23 。この北前船にとって、瀬戸内海の東の玄関口に位置する兵庫津は、最も重要な寄港地の一つであった。彼らは兵庫津で蝦夷地の産物を売りさばき、代わりに米や塩、木綿、酒、鉄製品などを仕入れて北国へと戻っていった 34 。改修によって整備された広大な港には、千石船とも呼ばれる大型の弁才船が数多く停泊し、その荷揚げ・荷積みで浜は常に活気に満ち溢れていた 8 。
豪商たちの活躍と経済効果
港の繁栄は、それを担う商人たちのエネルギーによって支えられていた。兵庫津からは、全国にその名を轟かせる豪商が次々と誕生した。
その筆頭が、前述の北風家である。代々「荘右衛門」を名乗った北風家は、廻船問屋として西国・山陰・北陸、そして蝦夷地から物資を集め、「兵庫津に北風あり」と称されるほどの財力と影響力を持った 23 。彼らは単なる海運業者ではなく、蝦夷地交易に早くから着目し、高田屋嘉兵衛といった新興の商人を後援するなど、全国規模の経済を動かすプロデューサー的存在でもあった 23 。
淡路島出身の高田屋嘉兵衛もまた、兵庫津でその才能を開花させた一人である 23 。北風家の支援を受けて海運業に乗り出した彼は、北前船貿易で巨万の富を築き、幕府から蝦夷地御用取扱を命じられるまでになる。彼の活動は、国後島や択捉島の開発にも及び、日露間の紛争(ゴローニン事件)に巻き込まれるなど、その活躍は一商人の枠を遥かに超えていた。
こうした豪商たちの活躍を核として、兵庫津の経済は飛躍的に発展した。その結果、江戸時代中期には人口が2万人を超える、国内有数の大都市へと成長を遂げたのである 6 。
大坂経済圏の西のゲートウェイ
兵庫津の繁栄は、単独で成し遂げられたものではない。その背後には、常に「天下の台所」と称された巨大な消費・金融市場、大坂の存在があった 38 。全国の諸藩は、年貢米や特産品を換金するために大坂の蔵屋敷へ物資を運び込み、そこで形成される市場価格が日本経済の指標となっていた。兵庫津の最大の役割は、この大坂経済圏へ、西国・北国からの物資を円滑に供給する「西のゲートウェイ」としての機能であった。西廻り航路や北前船が運ぶ膨大な物資は、一度兵庫津に集積・中継され、そこから小型船で淀川を遡り、大坂の市場へと届けられた。1602年の改修は、この巨大なサプライチェーンにおける最重要拠点の一つを創り出し、そのキャパシティを飛躍的に向上させる事業だった。兵庫津の繁栄と大坂の繁栄は、まさに表裏一体の関係にあったのである。
また、鎖国体制下にあっても、兵庫津は限定的な国際交流の舞台であり続けた。朝鮮王朝が江戸幕府に派遣した外交使節団である朝鮮通信使や、長崎出島のオランダ商館長(カピタン)が将軍への謁見のために江戸へ向かう「江戸参府」の一行は、その道中で必ず兵庫津に宿泊した 8 。彼らの宿舎や饗応を通じて、異文化との交流が生まれ、兵庫津は海外へ開かれた窓口としての一面も持ち続けていた。
これら全ての発展の礎を築いたのが、慶長七年の大改修であった。それは、戦国時代の軍事・政治的価値から、近世の経済的価値へと、都市の価値基準を根本から転換させた、歴史的な事業だったのである。
表2:兵庫津の機能変遷比較(改修前 vs 改修後)
項目 |
改修前(戦国末期:1581年~1596年) |
改修後(江戸初期~中期:1602年~) |
主要機能 |
軍事拠点(兵庫城)と商業港の二重機能。軍事的性格が強い。 |
商業・交通の拠点機能に特化。西国物流のハブ。 |
都市構造 |
池田恒興による城下町建設が進むが、地震前の構造は不明な点が多い。 |
池田輝政による計画的なグリッド状の町割。合理的・機能的な都市空間。 |
港湾能力 |
中世以来の港湾施設。慶長伏見地震により壊滅。 |
大規模な改修により港湾機能が飛躍的に向上。大型船の多数停泊が可能。 |
経済主体 |
武士、寺社勢力、在地商人。 |
廻船問屋(北風家、高田屋嘉兵衛など)、全国規模で活動する豪商。 |
国内経済における役割 |
畿内と西国を結ぶ一中継港。 |
「天下の台所」大坂を支える西のゲートウェイ。西廻り航路の事実上の起点。 |
人口規模 |
不明(地震により壊滅)。 |
江戸中期には2万人を超える国内有数の港湾都市に発展。 |
歴史的役割 |
織田・豊臣政権による西国支配の拠点。 |
徳川の平和(パクス・トクガワーナ)を支える全国物流網の中核。 |
結論:1602年の改修が持つ、時代転換点としての意義
慶長七年(1602年)の兵庫津改修は、その後の日本の経済史、ひいては社会構造の変容を理解する上で、極めて重要な画期をなす出来事であった。本報告で詳述してきたように、この事業は単なる災害復旧の枠を遥かに超え、戦国の論理から近世の論理へと、社会が大きく転換する時代のダイナミズムを体現した、戦略的な国家プロジェクトであったと言える。
第一に、本改修は、戦国時代の軍事優先の社会システムから、江戸時代の経済優先の社会システムへと移行する過渡期を象徴する、重要な「ミッシングリンク」であった。改修前の兵庫津は、池田恒興が築いた兵庫城を核とする軍事拠点としての性格と、中世以来の商業港としての性格が混在する、戦国期特有の二重機能都市であった。しかし、池田輝政による改修は、この構造を意図的に解体し、純粋な経済・物流拠点として都市機能を再定義した。これは、武力による領土拡大の時代が終わり、経済力による領国経営の時代が到来したことを明確に示すものであった。兵庫津の再生は、徳川の治世がもたらす「武」から「治」へのパラダイムシフトを、港湾都市という形で具現化したのである。
第二に、本改修は、大災害からの復興事業が、新たな社会秩序と経済システムを創造する強力な触媒となりうることを示す歴史的教訓である。慶長伏見地震という未曾有の天災は、兵庫津に壊滅的な被害をもたらした。しかし、この悲劇的な「創造的破壊」は、旧来の不整形な都市構造や既得権益を一掃し、輝政のような為政者が合理的で近代的な都市計画を導入するための「白紙」を用意した。災害復興という大義名分のもと、大規模な資源と労働力が集中的に投下され、その結果として生まれたのは、単なる被災前の町の再現ではなく、来るべき時代に最適化された、全く新しい社会基盤であった。このプロセスは、現代の我々が直面する災害復興や都市再生を考える上でも、多くの示唆を与えてくれる。
最後に、再生した兵庫津が歩んだその後の繁栄の物語は、徳川の平和の下で日本が遂げた経済的飛躍の縮図であった。池田輝政という卓越したリーダーシップを持つ為政者が国家戦略に基づいてインフラを整備し、その上で北風家や高田屋嘉兵衛に代表される商人たちが自由な経済活動を展開し、それを当代最新の土木技術と航海技術が支える。この為政者、民間、技術の三者が有機的に結合した時、社会は爆発的な発展を遂げる。西廻り航路の要衝として、北前船の拠点として、そして「天下の台所」大坂のゲートウェイとして、兵庫津はまさしく江戸時代の日本経済の心臓部の一つとなった。その全ての出発点に、慶長七年(1602年)の改修事業が存在したのである。
したがって、「兵庫津改修(1602年)」という事変は、一港町の歴史に留まらず、戦国という動乱の時代を乗り越え、近世という新たな安定と繁栄の時代を築き上げていく、日本史の大きな転換点として記憶されるべきである。
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