最終更新日 2025-09-16

出雲国銀山御料化(1598)

1598年、秀吉は朝鮮出兵戦費と政権安定のため石見銀山を直轄化。秀吉死後、関ヶ原を経て家康が接収し天下統一の足がかりとした。
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慶長三年 石見銀山御料化の真相:落日の豊臣政権と天下の行方

序章:慶長三年の激震 – なぜ石見銀山は狙われたのか

慶長三年(1598年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。大陸では泥沼化した朝鮮出兵(慶長の役)が豊臣政権の屋台骨を蝕み、国内では天下人・豊臣秀吉の衰えが誰の目にも明らかとなり、その死期が目前に迫っていた 1 。政権内部では後継者・秀頼の将来を巡る不安と、次代の覇権を狙う者たちの思惑が渦巻き、一触即発の緊張が国中を覆っていた。この、豊臣家の存亡がかかった年に、政権は最後の大博打ともいえる一手に出る。それが、日本最大の銀山であった石見銀山の「御料化」、すなわち豊臣家による直接支配への切り替えであった。

本報告書は、この「石見銀山御料化」という事変を、戦国時代末期の政治・経済・軍事が複雑に絡み合う文脈の中に位置づけ、その背景、具体的な経緯、そして歴史的影響を時系列に沿って徹底的に解明するものである。

なお、本件を指して「出雲国銀山」という呼称が用いられることがあるが、これは地理的・行政的には「石見国」に属する鉱山である。古代の神話において、出雲と石見がかつて一つの国であったとする伝承が存在することから 3 、広義の呼称として用いられた可能性が考えられる。しかし、本報告書では歴史的正確性を期すため、一貫して「石見銀山」の名称で論を進める。

1598年という年は、秀吉の死、朝鮮からの撤兵、そして徳川家康の台頭という、時代の歯車が大きく軋みながら回転した年であった 2 。この激動の渦中、なぜ豊臣政権は最大の外様大名である毛利氏の経済的基盤に手をつけるという危険な策に打って出たのか。それは単なる財源確保という一言では片付けられない、末期政権の焦燥と、天下の行方を左右する高度な政治的駆け引きの表れであった。

第一章:世界の富を産み出す銀山 – 石見の戦略的価値

石見銀山の御料化を理解するためには、まずこの鉱山が当時の日本、ひいては世界においてどれほど絶大な価値を持っていたかを認識する必要がある。それは単なる富の源泉ではなく、軍事を支え、外交を動かし、そして天下人の権威を象徴する、まさに戦略物資そのものであった。

1.1. 16世紀世界経済のエンジン

16世紀、石見銀山で産出される銀は、日本の経済を遥かに超え、世界経済に巨大な影響を及ぼしていた。最盛期には、その産銀量が世界の約3分の1を占めたと推定されており、日本は世界有数の銀供給国であった 6 。この膨大な銀は、大航海時代の到来とともに日本へ来航したポルトガル商人らの手を経て、世界的な交易ネットワークへと流れ込んでいった 8

特に重要なのが、当時の超大国であった明(中国)の存在である。明は15世紀から16世紀にかけて、税制を銅銭や現物納から銀納へと移行させており、国内で爆発的な銀需要が生まれていた 8 。しかし、中国国内の銀産出量ではその需要を到底満たすことができず、国外からの銀の流入が国家経済の生命線となっていた。この状況下で、高品質かつ大量の銀を産出する石見銀山は、東アジアの交易における最重要拠点となったのである。ポルトガル商人は、中国の安価な生糸を日本へ運び、それを日本の銀と交換し、その銀で再び中国産品や東南アジアの香辛料を買い付けてヨーロッパへ持ち帰るという、いわゆる三角貿易を展開し、莫大な利益を上げていた 8 。石見銀山は、この世界規模の富の循環を駆動させる、強力なエンジンだったのである。

1.2. 覇権争奪の地 – 銀山を巡る攻防史

これほどの価値を持つ鉱山が、戦国乱世において平穏であるはずがなかった。大永六年(1526年)に博多の豪商・神屋寿禎によって本格的な開発が始まって以降、石見銀山は常に覇権争いの中心地であり続けた 10 。当初は周防の大内氏がその支配権を握っていたが、大内氏が滅亡すると、その利権を巡って出雲の尼子氏と安芸の毛利氏が数十年にわたる熾烈な争奪戦を繰り広げた 8

この長い戦いに終止符を打ったのが、稀代の謀将・毛利元就であった。元就は永禄五年(1562年)、尼子方の拠点であった山吹城を攻略し、石見銀山を完全にその手中に収めた 8 。以後、銀山から産出される莫大な銀は、毛利氏が中国地方一帯に覇を唱えるための巨大な財源となった。銀は最新兵器である鉄砲や火薬の購入資金となり 11 、兵を養い、城を築くための経済的基盤を支えた。毛利氏が織田信長の猛攻に長期間耐え抜くことができたのも、石見銀山の経済力があったからこそと言っても過言ではない 11

1.3. 豊臣政権下の毛利氏と銀山

天正十九年(1591年)、豊臣秀吉が天下を統一すると、毛利輝元(元就の孫)は豊臣政権下に組み込まれ、五大老の一人として遇されることとなる。この際、石見銀山の支配権の帰属は、両者の間で極めて重要な交渉事項となった 8

結果として、秀吉は毛利氏による石見銀山の領有を認めるという裁定を下した。ただし、それは無条件ではなく、産出された銀の一部を「運上銀」として豊臣政権へ上納することが義務付けられた 8 。これは、秀吉が但馬の生野銀山など他の重要鉱山を直轄領(蔵入地)としたのとは対照的な措置であり、西国一の勢力を誇る毛利氏の力を認め、その懐柔を図るための政治的配慮であったと考えられる。

この時点での石見銀山の支配形態は、豊臣政権と最大級の外様大名である毛利氏との間の、絶妙な政治的パワーバランスを象徴していた。毛利氏は豊臣の臣下でありながらも、自領の最重要資源に対する支配権を維持することで、その政治的自立性をかろうじて保っていたのである。したがって、慶長三年の「御料化」は、単に財源を求める経済政策であるだけでなく、この均衡を破壊し、毛利氏の経済基盤と政治的影響力を根底から削ぎ落とそうとする、極めて重大な政治的意味合いを持つものであった。

第二章:落日の太閤 – 豊臣政権、破綻の瀬戸際

慶長三年、秀吉が石見銀山の直接支配という強硬策に踏み切った背景には、末期症状を呈した豊臣政権が直面していた深刻な三重苦、すなわち「軍事的破綻」「政治的亀裂」「最高権力者の死期」があった。

2.1. 泥沼化する朝鮮出兵(慶長の役)

慶長二年(1597年)に再開された二度目の朝鮮出兵(慶長の役)は、豊臣政権にとって悪夢そのものであった。一度目の出兵(文禄の役)で疲弊した西国大名たちに、さらなる過大な軍役が課された。兵糧、武器弾薬、輸送船の負担は各大名の財政を圧迫し、領内の農村は働き手である男たちを戦夫として徴発され、荒廃の一途を辿った 1 。戦役による日本側の人的損害は数万人にのぼり、その多くは戦闘による死者よりも、飢えや病による死者であったと記録されている 1

この莫大な戦費は、豊臣家の蔵入地からの収入だけでは到底賄いきれず、その多くが石見銀山から産出される銀に依存していた可能性が高い 13 。しかし、その銀はあくまで毛利氏からの運上銀であり、供給は間接的かつ限定的であった。戦況が悪化し、財政が底をつきかける中で、秀吉と政権中枢が、銀の供給源そのものを直接掌握したいと考えるのは、必然的な帰結であった。

2.2. 政権内部の亀裂と家康の台頭

大陸での苦戦は、豊臣政権内部の対立を先鋭化させた。朝鮮の戦地における軍功の査定や作戦方針を巡り、石田三成を中心とする奉行衆(文治派)と、加藤清正や福島正則といった歴戦の武将たち(武断派)との間の溝は、修復不可能なほどに深まっていた 2 。政権を支えるべき重臣たちが互いに憎悪し合うこの状況は、政権の一枚岩体制を内側から崩壊させつつあった。

その一方で、関東に250万石という広大な領地を持ち、朝鮮出兵への負担が西国大名に比べて格段に軽かった徳川家康は、着実にその力を蓄え、政権内での影響力を増大させていた 1 。秀吉の衰えが顕著になるにつれ、諸大名は秀頼の将来よりも、秀吉亡き後の天下を誰が握るのかを意識し始める。家康は、その巨大な実力をもって、次代の覇者として最も有力な存在となっていた。この権力闘争の激化が、秀吉に「自分が生きているうちに、豊臣家の財政基盤を盤石にしなければならない」という焦りを抱かせ、石見銀山御料化のような強引な策を後押しした側面は否めない。

2.3. 秀吉の焦燥 – 遺言と後継体制

自身の死を悟った秀吉の最大の関心事は、ただ一つ、幼い嫡子・秀頼の行く末であった 2 。彼は自らの死後、有力大名による権力の暴走を防ぎ、秀頼が成人するまで政権を安定させるため、五大老・五奉行による合議制という集団指導体制を構想した 2

しかし、この体制が絵に描いた餅で終わらないためには、圧倒的な財政的裏付けが不可欠であった。秀頼を頂点とする政権が、他の有力大名を凌駕する経済力を保持し続けること。それが、豊臣の天下を維持するための絶対条件であった。秀吉にとって、石見銀山はもはや毛利氏に管理を委ねておくべき一地方の鉱山ではなく、秀頼の未来、ひいては豊臣家の安泰を保証するための「最後の遺産」であった。この天下人の親としての焦燥こそが、長年の功臣である毛利氏との関係悪化というリスクを冒してまで、銀山の完全掌握へと突き進んだ最大の動機であったと考えられる。

だが、この決断は、豊臣政権にとって諸刃の剣であった。短期的な財源確保という延命効果が期待できる一方で、政権を支えるべき最有力大名の一人である毛利輝元の忠誠心を損ない、潜在的な不満分子へと変えてしまう危険性を孕んでいた。さらに、この強引な中央集権化は、家康を筆頭とする他の有力大名に「次は我が身か」という強い警戒心を抱かせ、豊臣政権からの離反を促しかねない。結果として、石見銀山御料化は、政権の延命を図るための策でありながら、その崩壊を早める劇薬としても作用するという、二律背反の性質を帯びることになるのである。

第三章:石見銀山御料化 – 緊迫の時系列(慶長三年 / 1598年)

ユーザーの「リアルタイムな状態がわかる形」という要望に応えるため、本章では慶長三年(1598年)の出来事を月ごとに追い、中央政権の動向、朝鮮戦線の状況、そして石見銀山を巡る現地の動きを立体的に描写する。この年の複雑な情勢を俯瞰するため、まず以下の年表を提示する。

国内の動向(秀吉・政権)

朝鮮戦線の状況

石見銀山関連の動向(毛利氏・奉行)

1月

秀吉の病状が悪化。財政逼迫が深刻化し、銀山御料化が本格的に検討される。

蔚山城の戦いで日本軍が苦戦。戦況は膠着状態に。

毛利輝元、五大老として大坂・伏見に在城。政権の動きを察知。

3月

醍醐の花見を催し、最後の栄華を誇示。

各地で小競り合いが続くも、大規模な戦闘は減少。

水面下で、秀吉側と毛利側の交渉が開始される。

4月

4月25日:秀吉、毛利輝元宛に朱印状を発給。

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朱印状に基づき、御料化の具体的な手続きが開始される。

5月

秀吉、病状がさらに悪化し、伏見城で療養に専念。

-

豊臣政権より奉行が現地へ派遣される。

6月

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現地にて、毛利氏の代官と豊臣奉行の間で管理権の引き継ぎが始まる。

7月

秀吉、五大老らに秀頼の後事を託す遺言を出す。

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現地では、新旧の支配体制が混在し、混乱が生じた可能性。

8月

8月18日:豊臣秀吉、伏見城にて死去。

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御料化の最高責任者が不在となり、計画が事実上凍結される。

9月

秀吉の死は秘匿される。五大老・五奉行は朝鮮からの撤兵を決定。

撤兵に向けた準備が開始される。

中央の混乱により、銀山の支配体制は宙吊り状態となる。

11月

朝鮮からの撤兵が本格化。

露梁海戦で島津軍などが苦戦しつつも、撤退を強行。

産出された銀の帰属を巡り、現場レベルでの対立が続いたと推測される。

12月

徳川家康が撤兵交渉で主導権を握り、影響力を拡大。

ほぼ全ての日本軍が朝鮮半島から撤退完了。

不安定な支配状況のまま、年を越す。

年初~春(1月~3月):最後の決断

慶長三年の幕開けは、豊臣政権にとって暗雲立ち込めるものであった。前年末から始まった蔚山城の戦いでは、加藤清正らが明・朝鮮連合軍に包囲され、絶体絶命の危機に陥るなど、朝鮮戦線は完全な膠着状態にあった 1 。戦費はかさむ一方、戦果は上がらず、政権の財政は破綻寸前であった。

時を同じくして、天下人・秀吉の肉体も限界に達していた。病状は日増しに悪化し、政権内では「太閤亡き後」を巡る空気が現実味を帯びてくる。この状況下で、豊臣家の財政基盤を恒久的に確保する策として、石見銀山の直接支配案が急浮上し、最終的な決断が下された。五大老の一人として大坂・伏見に詰めていた毛利輝元は、この不穏な空気を肌で感じていたに違いない。水面下では、奉行の浅野長政らを通じて、毛利側への内示や交渉が開始されたと考えられる 11

卯月(4月):朱印状の下令

三月、秀吉は病身を押して京都・醍醐寺で盛大な花見を催し、天下にその健在ぶりをアピールした。しかし、それは沈みゆく巨星が放つ最後の輝きであった。

花見から約一ヶ月後の 卯月二十五日(4月25日) 、ついに歴史が動く。秀吉は毛利輝元に対し、石見銀山の処遇に関する最終決定を記した朱印状を発給した 11 。この朱印状の現物は残されていないが、関連文書からその内容を推測することができる。それは、毛利氏から銀山を完全に没収するという一方的なものではなく、毛利側の面子をある程度立てた、段階的な支配権の移譲を狙ったものであった可能性が高い。具体的には、「先銀山」(古くからの石見銀山)の領有権は形式的に毛利氏に残しつつも、運上銀の額を大幅に引き上げ、さらに豊臣政権が任命する奉行に鉱山の経営・管理権を委ねさせる、といった内容であったと推測される 11 。これは、実質的な支配権を豊臣家が掌握し、毛利氏を経営から排除する「御料化」に他ならなかった。

夏(5月~7月):現場の混乱

朱印状の下令を受け、豊臣政権は直ちに石見の現地へ奉行を派遣した 15 。派遣された人物の具体的な氏名は史料に乏しいが、石田三成配下の有能な代官などがその任に当たったと考えられる。彼らの使命は、長年にわたり毛利氏の支配下にあった銀山の管理システムを接収し、豊臣家直轄の経営体制を構築することであった。

現地では、毛利氏が任命していた銀山奉行の佐世元嘉ら 11 と、新たに乗り込んできた豊臣奉行との間で、緊張を伴う権限の引き継ぎ作業が始まった。鉱山の採掘計画、精錬、銀の輸送ルート、そして数千人ともいわれる鉱山労働者たちの管理に至るまで、全てを豊臣方の管理下へと移す作業は困難を極めたであろう。長年、毛利家の支配に慣れ親しんできた現地の役人や商人、労働者たちの間には、動揺や反発が広がった可能性も否定できない。この時期の石見銀山は、新旧の支配体制がぎこちなく併存する、混乱と不安の夏を迎えていた。

八月十八日:太閤、死す

中央では、秀吉の病状が絶望的な段階に入っていた。七月には五大老らを枕元に呼び、泣いて秀頼の後事を託した。そして 八月十八日 、天下人・豊臣秀吉は、波乱に満ちたその生涯を伏見城で閉じた 2

この歴史的転換点は、始まったばかりの石見銀山御料化計画に決定的な影響を与えた。計画を推進する最高権力者が、この世からいなくなったのである。御料化の正統性と権威の源泉が、突如として失われたことを意味した。

秋~年末(9月~12月):宙吊りの銀山

秀吉の死は、朝鮮からの軍の撤退が完了するまで厳重に秘匿された 5 。五大老・五奉行ら政権首脳部の最優先課題は、対外戦争の終結へと一気にシフトした。徳川家康は、この撤兵交渉において巧みに主導権を握り、その政治的地位を不動のものとしていく 1

中央の政局が激変する中、石見銀山における御料化は、完全に中途半端な状態で凍結されてしまった。豊臣奉行は現地に留まっているものの、その権威は秀吉の死によって大きく揺らいでいる。一方、毛利氏の旧来の支配機構も完全には解体されておらず、現場は権力の空白と二重支配という不安定な状況に陥ったと推測される。日々産出される銀が、果たして豊臣家のものなのか、それとも毛利家のものなのか。その帰属を巡り、現場レベルでの深刻な対立や駆け引きが繰り広げられていたであろうことは、想像に難くない。石見銀山は、主を失ったまま、新たな時代の嵐が吹き荒れるのを待つことになった。

第四章:天下の行方と銀山の運命

秀吉の死は、かろうじて保たれていた日本の政治的均衡を完全に崩壊させた。石見銀山の運命もまた、この新たな権力闘争の渦へと否応なく巻き込まれていく。豊臣政権が目指した「御料化」は、皮肉にも次代の覇者による「天領化」への地ならしとなるのであった。

4.1. 秀吉死後の権力闘争

秀吉が構築した五大老・五奉行による集団指導体制は、その死後、瞬く間に形骸化した 5 。筆頭大老であった徳川家康は、秀吉が生前に禁じた大名間の私的な婚姻を次々と進め、露骨にその勢力拡大を図り始める 2 。これに対し、豊臣家への忠誠を重んじる石田三成ら五奉行は激しく反発し、両者の対立は決定的なものとなった。

慶長四年(1599年)、五大老の中で家康に唯一対抗しうる重鎮であった前田利家が病死すると、権力の天秤は完全に家康へと傾く。利家の死の直後、加藤清正ら七将が石田三成を襲撃する事件が発生。家康の仲裁により三成は奉行職を追われ、佐和山城へ蟄居させられた 2 。政敵を排除した家康は、大坂城西の丸に入り、事実上の最高権力者として天下の政務を執り始めた 2 。この権力移行の過程で、秀吉が晩年に断行した石見銀山御料化の正統性もまた、大きく揺らぎ始める。豊臣家の権威そのものが失墜していく中で、現地における豊臣奉行の立場はますます弱体化していったと考えられる。

4.2. 関ヶ原への道と銀山の帰趨

慶長五年(1600年)、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑をかけ、諸大名を率いて討伐へと向かう。この家康の不在を好機と見た石田三成は、毛利輝元を総大将に擁立し、反家康の兵を挙げた。天下分け目の関ヶ原の戦いの勃発である。

毛利輝元が、豊臣家のために西軍の総大将となることを決断した背景には、複雑な要因があった。しかし、その一つに、慶長三年の石見銀山御料化に対する根深い不満があったことは間違いない。毛利家にとって、石見銀山は単なる財源ではなく、先祖代々、血を流して獲得し、守り抜いてきた誇りの象徴であった。それを、秀吉晩年の強権によって事実上取り上げられたことは、輝元と毛利家臣団にとって大きな屈辱であった。家康を打倒し、豊臣政権下で毛利家の権威を回復すること、そして石見銀山を再びその手に取り戻すことは、輝元にとって西軍に与する大きな動機の一つであったと考察できる。

4.3. 勝者の戦利品 – 徳川による完全接収

慶長五年九月十五日、関ヶ原の戦いは、わずか一日で東軍の圧倒的勝利に終わった。西軍の総大将であった毛利輝元は、戦わずして敗軍の将となり、その所領は大幅に削減されることとなる。

勝者となった徳川家康の行動は、迅速かつ的確であった。彼が戦後処理において真っ先に手を付けたものの一つが、石見銀山であった。関ヶ原の戦いからわずか10日後、家康は早くも石見銀山周辺の村々に対し、徳川家の支配下に入ったことを示す禁制(占領地域の住民の生命・財産の安全を保障する文書)を発している 13 。これは、彼がこの銀山の戦略的重要性をいかに深く認識していたかを示す証左である。

そして戦いから約一ヶ月後、家康は腹心の部下であり、鉱山経営に卓越した手腕を持つ大久保長安を石見銀山奉行として派遣。毛利氏の残存勢力を完全に排除し、銀山とその周辺地域を徳川家直轄の天領として接収した 8

この家康による一連の行動は、単なる戦利品の獲得という次元に留まらない、高度な政治的計算に基づいていた。石見銀山御料化は、そもそも豊臣秀吉自身が国家財政のために下した決定であった。家康は、西軍総大将として豊臣家に弓を引いた毛利氏からこの「御料」を没収し、天下の公儀たる自らの管理下に置くことで、「自分こそが豊臣政権の正統な後継者であり、その政策を正しく継承・完成させる者である」という大義名分を内外に示したのである。彼は、豊臣政権が遺した政策を巧みに利用し、それを徳川の支配体制へとスライドさせることで、自らの天下支配の正当性を補強した。秀吉の最後の野心は、結果的に最大のライバルであった家康の財政基盤を盤石にするという、歴史の皮肉な結末を迎えたのである。

結論:1598年の御料化が歴史に残した意味

慶長三年(1598年)に断行された石見銀山御料化は、豊臣政権末期の動乱を象徴する、極めて重要な歴史的事件であった。本報告書で詳述した通り、この事変は単なる経済政策ではなく、時代の転換点における様々な要因が凝縮されたものであった。その歴史的意義は、以下の三点に集約することができる。

第一に、 豊臣政権の構造的限界の露呈 である。御料化は、朝鮮出兵の泥沼化によって破綻寸前となった政権財政を立て直すための、最後の延命策であった。しかし、その強引な手法は、政権を支えるべき有力大名・毛利氏の離反を招き、結果的に政権の寿命を縮めることとなった。これは、秀吉個人の絶大なカリスマと軍事力に依存し、大名連合という脆弱な基盤の上に成り立っていた豊臣政権が、その指導者を失った時にいかに脆いものであったかを如実に物語っている。

第二に、 中央集権化への試金石 としての意義である。戦国時代を通じて、鉱山のような重要資源は、その地を支配する大名が掌握するのが常識であった。その中で、天下の政権が国家の最重要資源を大名から取り上げ、中央の直接管理下に置こうとしたこの試みは、織田信長から豊臣秀吉へと続く中央集権化の流れにおける、画期的かつ野心的な一歩であった。その手法は不完全であり、秀吉の死によって頓挫したものの、この前例は後の徳川幕府による天領(幕府直轄領)支配体制のモデルケースとなり、近世日本の統治システムの礎を築く上で重要な役割を果たした。

第三に、 時代の転換点を象徴する出来事 としての側面である。1598年の石見銀山を巡る一連の動きは、秀吉の死、朝鮮からの撤兵、そして徳川家康の台頭という、大きな歴史のうねりと完全に同期していた。銀山の支配権が、毛利氏から豊臣家へ、そして徳川家へと移り変わっていく様は、まさしく天下の主権が誰の手にあるのかを示すバロメーターであった。石見銀山御料化という事変は、戦国乱世の終焉と、徳川による二百六十余年の泰平の世の胎動を告げる、時代の分水嶺に刻まれた出来事として、日本史にその名を留めているのである。

引用文献

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  2. すべては秀吉の死から始まった:天下分け目の「関ヶ原の戦い」を ... https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06915/
  3. 石見国の国名由来 | しまね観光ナビ|島根県公式観光情報サイト https://www.kankou-shimane.com/destination/20846
  4. 秀吉の死後、関ヶ原の戦い目前!石田三成の台頭と豊臣家臣の分裂 福島正則、加藤清正との対立「早わかり歴史授業68 徳川家康シリーズ36」日本史 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=wtQScBdbs6U
  5. 徳川家康 秀吉の死と家康の権力増大 - 歴史うぉ~く https://rekisi-walk.com/%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%80%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%81%A8%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%8A%9B%E5%A2%97%E5%A4%A7/
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  7. 世界遺産 石見銀山 | しまね観光ナビ|島根県公式観光情報サイト https://www.kankou-shimane.com/pickup/35511.html
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  13. 秀吉 家康の登場 - 世界遺産 石見銀山のすべて - 石州瓦工業組合 https://www.sekisyu-kawara.jp/iwamiginzan/busho/index.html
  14. 関ヶ原の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%96%A2%E3%83%B6%E5%8E%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84
  15. 都市隣接で注目される「多田銀銅山」 - 神戸・兵庫の郷土史Web研究館 https://kdskenkyu.saloon.jp/tale19tad.htm
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