利根川東遷着手(1604)
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戦国終焉のグランドデザイン:利根川東遷着手(1604年)のリアルタイム分析
序章:天正の関東、暴れ川と新たな支配者
徳川家康入府以前の関東平野の原風景
天正18年(1590年)、徳川家康が江戸に入府した際に目の当たりにした関東平野は、今日の豊穣な姿とは似ても似つかぬ、広大無辺でありながらも荒々しい自然が支配する土地であった。その中心を流れる利根川は、「坂東太郎」の異名を持つ日本三大暴れ川の一つであり、その名の通り、一度牙を剝けば関東一円に災厄をもたらす巨大な龍であった 1 。当時の利根川は、現在の流路とは全く異なり、埼玉県の越谷付近で荒川と合流し、複雑に絡み合いながら広大な湿地帯を形成し、江戸湾(現在の東京湾)へと注いでいた 2 。
この二大河川の合流は、埼玉東部から東京東部にかけての一帯を、恒常的な洪水のリスクに晒される氾濫原に変えていた。人々が「びちゃびちゃ」と表現したように、河口部では海水も混じり、安定した居住地を確保することも、大規模な稲作を行うことも極めて困難な状態だったのである 4 。利根川の本流の一部は、現在の大落古利根川の河道を流れ、江戸城のすぐ東側を通過していた 5 。これは、家康が新たな本拠地と定めた江戸が、常に大水害の脅威と隣り合わせであったことを意味している。この荒ぶる川の存在こそが、関東平野の潜在的な生産力を封じ込め、その広大さにもかかわらず、経済的には未開発な土地であり続けた最大の要因であった。
戦国大名にとっての治水の意味
戦国時代という視点からこの状況を捉えるとき、治水事業は単なる災害対策以上の、極めて戦略的な意味を持っていた。戦国大名の権力基盤は、領国の経済力、すなわち石高(米の生産量)に直結していた。したがって、河川を制御し、氾濫原を安定した耕作地に変えることは、領国の富を増大させ、より多くの兵を養い、軍事力を強化するための根幹をなす統治行為そのものであった。
家康の関東移封は、豊臣秀吉が小田原北条氏滅亡後、家康を徳川家代々の本拠地である三河から引き離し、豊臣政権の中枢である京・大坂から遠ざけるとともに、統治の難しい土地でその力を削ごうとする高度な政治的判断であったとされている 6 。秀吉は、北条氏の旧臣が多く残る関東で一揆が頻発し、家康が統治に失敗することを期待していた節さえある 6 。
しかし、家康はこの一見すると左遷ともとれる命令を、全く異なる視点から捉えていた。それは、この未開発の広大な平野に、治水という手段を用いることで、日本最大の穀倉地帯を創出できるという、計り知れない可能性を見出していたからである。先祖代々の土地が持つ複雑なしがらみから家臣団を切り離し、新たな支配体制を構築する上でも、この移封は絶好の機会であった 6 。家康にとって関東平野は、自らの手で理想の国家を設計できる「白紙のキャンバス」であり、利根川東遷という壮大な構想は、この逆境を好機と捉える戦略的思考から生まれたのである。
この事業は、戦国時代における武力による「国盗り」の延長線上にありながら、その手法を根本から変えるものであった。もはや合戦によって領土を奪い合うのではなく、土木技術という新たな力によって、湿地帯という価値の低い土地から、豊かな穀倉地帯という莫大な経済的価値を「創造」する。これは、戦国武将から近世の天下人へと変貌を遂げる家康の統治思想を象徴する、新たな時代の「国盗り」の始まりであった。
【利根川流路の変遷比較図】
利根川東遷事業の地理的な規模を理解するため、事業以前と以後の流路を比較する。
- 事業以前(16世紀末): 利根川は現在の熊谷市付近から南下し、現在の元荒川や大落古利根川の流路をたどっていた。荒川も同様に南下し、現在の越谷市付近で利根川と合流。両河川は合流後、現在の隅田川や中川のルートを通り、江戸湾に注いでいた。このため、江戸の東側は広大な低湿地帯であった。
- 事業以後(17世紀半ば以降): 利根川は、大規模な瀬替え工事により東へ流路を転じさせられた。新たに開削された赤堀川などを経て、それまで独立した水系であった常陸川(鬼怒川・小貝川が合流)に接続され、太平洋側の銚子を河口とする現在の流路が形成された。一方、荒川は利根川水系から切り離され(西遷)、入間川に合流して隅田川筋を流れ、江戸湾に注ぐ流路に固定された。これにより、江戸は利根川の直接的な洪水リスクから切り離され、旧河道は広大な新田として開発された。
第一章:江戸幕府の礎を築く―利根川東遷の多角的戦略
利根川東遷事業は、単一の目的のために行われた土木工事ではない。それは、徳川家康が描いた新たな国家構想の根幹をなす、複数の戦略的意図が緻密に織り込まれたグランドデザインであった。治水、新田開発、水運、そして軍事という四つの目的は、それぞれが独立して存在するのではなく、相互に補完し合い、江戸を中心とする新たな政治・経済秩序を確立するための統合された国家戦略として機能した。この壮大な計画の実行者として、家康が三河譜代の家臣であり、卓越した技術官僚であった伊奈備前守忠次を関東郡代に任命したことは、この事業が単なる思いつきではなく、長期的な視野に立った計画であったことを物語っている 7 。
江戸の都市防衛と洪水対策(治水)
東遷事業の最も根源的かつ喫緊の課題は、治水、すなわち新首都・江戸を「坂東太郎」の脅威から物理的に守ることであった 7 。前述の通り、当時の利根川は江戸のすぐ東を流れており、ひとたび氾濫すれば、建設途上の城下町は壊滅的な被害を受けかねなかった。急速に人口が増加し、全国の政治・経済の中心地として発展させようとしていた江戸にとって、洪水の脅威はまさにアキレス腱であった。利根川の流れそのものを江戸から遠ざけ、東方の銚子へと導き太平洋に流すという、常識を覆す発想の転換こそが、この事業の核心であり、他のすべての目的を達成するための大前提であった。
幕府財政を支える米倉の創出(新田開発)
戦国の気風が色濃く残る当時、幕府の権威と軍事力を支えるものは、依然として石高であった。東遷事業は、利根川の流路変更によって生み出される広大な旧河道や、周辺の湿地帯を干拓し、大規模な新田地帯を創出することを目的としていた 7 。これにより、関東平野は文字通り幕府の足元を支える巨大な米倉(天領)となり、その財政基盤を盤石なものにする計画であった。これは、戦国時代から続く富国強兵策を、国家的なスケールで実現しようとする試みであり、武力制覇後の経済による天下平定という、新たな統治の段階を象徴するものであった 14 。
東北への経済・軍事的回廊の確保(水運)
江戸の急速な都市化と人口増加は、食料や建築資材など、膨大な量の物資を必要とした 16 。陸上輸送が未発達な当時、大量輸送の手段は舟運以外にあり得なかった。特に、米の一大産地である東北地方からの物資輸送は、江戸の生命線であった。しかし、東北から江戸へ至る太平洋航路は、銚子沖で黒潮と親潮がぶつかる海の難所であり、海難事故が絶えなかった 4 。
利根川東遷は、この危険な外洋航路を迂回し、銚子から利根川を遡り、関宿を経由して江戸川を下ることで、安全かつ安定的な内陸水運網を確立するという、画期的な物流革命をもたらすものであった 17 。この水運路の確立は、単に江戸の経済を潤すだけでなく、より深い戦略的意味合いを帯びていた。東北諸藩の経済は、江戸市場への年貢米や特産品の販売に大きく依存することになる。この物流の大動脈を幕府が完全に掌握することは、平時においては経済的な支配を、そして有事の際には物資の流入を止めることで、東北諸藩への強力な経済制裁、すなわち「兵糧攻め」を可能にすることを意味した。この水運網は、経済繁栄と軍事的優位を両立させる「両刃の剣」として構想されていたのである。
見えざる敵・伊達政宗への備え(軍事)
関ヶ原の戦いを経て天下は定まったとはいえ、徳川政権の基盤は未だ盤石ではなかった。特に、奥州の雄・伊達政宗は、豊臣政権下で「あと20年早く生まれていれば天下を狙えた」とまで言われた実力者であり、家康にとって最大の潜在的脅威であり続けた 19 。家康は入府後、鷹狩りを名目に関東平野の地形を徹底的に調査し、ある重大な軍事的弱点を発見した。それが、下総国の関宿(現在の千葉県野田市)であった 19 。
山々に囲まれた関東平野において、関宿は東北方面から軍勢が大きな障害なく南下できる唯一の「抜け穴」であった。家康は、政宗がこのルートから南進し、房総半島を制圧して江戸湾を封鎖する事態を深く警戒した 19 。利根川東遷の最終的な流路計画は、この軍事的な懸念と密接に結びついている。利根川と渡良瀬川の強大な流れを、この関宿の地に合流させ、ぶつけることで、川そのものを敵の進軍を阻む巨大な外堀として利用する。これは、自然の地形を最大限に活用した、壮大なスケールの防衛構想であった 7 。
純粋な治水効率のみを考えれば、利根川の水を最短距離で江戸湾に流す方が合理的であったとする専門家の見解もある 18 。しかし、家康はあえて東へ大きく迂回させる、より困難で大規模な工事を選択した。この一見「非合理」にも見える決断の裏には、治水という目的と同等、あるいはそれ以上に、関宿の防衛拠点化という軍事的な優先順位が極めて高かったことがうかがえる。この選択こそが、戦国の緊張感が未だ社会を覆っていた時代のリアルな国家戦略を物語っている。
第二章:事業前夜から黎明期へ―1594年~1620年の軌跡
利根川東遷という巨大事業は、ある日突然始まったわけではない。その構想が具体化し、大地に最初の鍬が入れられるまでには、周到な準備と試行錯誤の期間が存在した。特に、ご依頼の核心である慶長9年(1604年)の動向を正確に理解するためには、それ以前の黎明期の事業を時系列で捉え、その文脈の中に位置づける必要がある。
【利根川東遷事業 主要工事年表(1594年~1654年)】
年代(和暦) |
年代(西暦) |
主要な工事内容 |
指揮者(関連人物) |
目的・特記事項 |
文禄3年 |
1594年 |
会の川締切り |
松平忠吉、小笠原吉次 |
忍領の治水目的。近年の研究では東遷事業の直接的な開始点ではないとされる 20 。 |
慶長9年 |
1604年 |
天狗岩堰・代官堀の開削、備前渠(備前堀)の開削 |
伊奈忠次、秋元長朝 |
利根川中・上流域における灌漑用水路の整備と新田開発。東遷本工事に向けた準備段階 9 。 |
元和7年 |
1621年 |
赤堀川の開削着手、新川通の開削、権現堂川の拡幅 |
伊奈忠次・忠治 |
利根川本流を東へ導くための本格的な工事の開始。東遷事業の事実上の始点とされる 20 。 |
寛永6年 |
1629年 |
荒川の西遷 |
伊奈忠治 |
荒川を利根川水系から分離し、入間川へ付け替え。関東平野全体の水系再編の一環 20 。 |
寛永12-18年 |
1635-41年 |
江戸川上流部の開削 |
伊奈忠治 |
関宿から江戸へ至る水運路を安定させるため、新たな流路を開削 20 。 |
承応3年 |
1654年 |
赤堀川の通水(拡幅完了) |
伊奈忠治 |
赤堀川が拡幅され、利根川本流が本格的に銚子方面へ流れるようになる。60年にわたる事業の一応の完成 7 。 |
1594年「会の川締切り」の再評価
従来、利根川東遷事業は文禄3年(1594年)の「会の川締切り」をもって開始された、と語られることが多かった 2 。これは、当時二股に分かれていた利根川のうち、南へ流れる「会の川」の流頭部を、家康の四男で忍城主であった松平忠吉が家臣の小笠原吉次に命じて締め切った工事である 9 。この工事によって、利根川の流れが東方向へ一本化されたことから、東遷の第一歩と見なされてきた。
しかし、近年の研究では、この工事の目的はより局地的なものであったとする説が有力となっている。すなわち、これは東遷という壮大な構想の一部として行われたのではなく、あくまで忍領を水害から守るための地域的な治水事業であったという見方である 20 。この学術的な再評価は、東遷事業が単線的な計画ではなく、様々な地域的治水事業の経験と知見を積み重ねた上で、より大きな構想へと発展していった可能性を示唆している。
【焦点】慶長九年(1604年)の現場
慶長8年(1603年)、徳川家康は征夷大将軍に任ぜられ、名実ともに天下人として江戸に幕府を開いた。これにより、戦乱の時代は終わりを告げ、国家の恒久的な基盤を整備する段階へと移行した。慶長9年(1604年)は、まさにその新たな時代の幕開けの年であり、利根川をめぐる動きも、来るべき大事業への布石を着実に打つ段階に入っていた。
この時点での伊奈忠次が指揮する普請は、利根川本流の流路を劇的に変えるような「瀬替え」ではなく、利根川の中・上流域における用水路の開削と、それに伴う新田開発に主眼が置かれていた。具体的には、以下のような事業が進行していた。
- 天狗岩堰と代官堀: 上野国(現在の群馬県)において、利根川から取水する天狗岩堰が領主の秋元長朝によって開削され、その下流に関東郡代である伊奈忠次が「代官堀」と呼ばれる用水路を開削した 9 。これは、地域の灌漑を整備し、農業生産力を向上させるための事業であった。
- 備前渠(備前堀): 武蔵国北部(現在の埼玉県本庄市・深谷市など)において、利根川の支流である烏川から取水し、利根川沿いの広大な地域を潤すための、総延長20kmにも及ぶ大規模な灌漑用水路「備前渠」の開削が行われた 9 。これもまた、新田開発を促進し、幕府の経済基盤を足元から固めるための重要な事業であった。
1604年の現場をリアルタイムに想像するならば、そこには伊奈忠次の指揮のもと、測量隊が土地の高低差を測り、水が滞りなく流れるための精密な勾配を計算する姿があっただろう。そして、動員された大勢の農民や専門の土工たちが、鍬や鋤を振るい、土砂を「もっこ」で担ぎ、人力のみで黙々と大地を掘り進めていく光景が広がっていたはずである。
これらの事業は、一見すると東遷の主流から外れた地域的な利水事業に見える。しかし、その内実は、来るべき本工事に向けた極めて戦略的な準備であった。なぜ家康と伊奈忠次は、赤堀川開削のような本丸の工事にすぐ着手しなかったのか。それは、前例のない巨大事業に伴う技術的、政治的リスクを深く理解していたからに他ならない。1604年に行われた備前渠のような中規模の事業は、一種の「パイロット事業」としての役割を担っていた。これにより、関東平野の複雑な地質や水理に関する実地データを収集し、伊奈忠次麾下の技術者集団の練度を高め、さらには動員される民衆を統治・管理するためのノウハウを蓄積することができた。同時に、これらの事業は即座に新田という目に見える成果を生み、幕府の財政を潤し、新たな支配の正当性を民に示す効果もあった。
したがって、「利根川東遷着手(1604年)」という事象の本質を再定義する必要がある。この年の「着手」とは、物理的な流路変更の「着手」ではなかった。それは、利根川水系という巨大な自然を幕府の完全な管理下に置き、その潜在能力を最大限に引き出すための、体系的かつ継続的な国家的介入の「着手」であった。武力ではなく、技術と統治思想によって大地を支配するという、新たな時代の幕開けを告げる「静かなる着手」の年として、1604年は位置づけられるべきなのである。
第三章:大地の再創造―赤堀川開削と東遷事業の本格化(1621年~1654年)
慶長期を通じて行われた中・上流域での地道な治水・利水事業は、技術と知見の蓄積、そして経済基盤の強化という形で、来るべき大事業への確かな土台を築いた。そして、徳川の治世が安定期に入った元和7年(1621年)、ついに利根川東遷事業は、その核心である大規模な流路変更工事へと舵を切る。この年から承応3年(1654年)に至る約30年間は、文字通り関東平野の大地を再創造する、苦闘と創造の時代であった。
元和七年(1621年)、東遷事業の真の始動
近年の研究において、利根川東遷事業の事実上の開始点と見なされているのが、元和7年(1621年)である 20 。この年、伊奈忠次(あるいはその跡を継いだ忠治)の指揮のもと、複数の大規模工事が同時に着手された。その中でも最も象徴的なのが、利根川中流域から東へ向かい、常陸川水系(現在の利根川下流域)に接続するための新たな水路、「赤堀川」の開削開始であった 23 。これは、利根川の膨大な水量を、江戸を迂回して太平洋へと導くための、まさに事業の心臓部となる工事であった。
同時に、利根川と、その北を流れる渡良瀬川を効率的に合流させるための「新川通」の開削や、合流した水を一時的に受け止める「権現堂川」の拡幅も行われた 20 。これら一連の工事は、個別の事業ではなく、利根川水系全体の流れを再編成し、東遷という一つの目的に向かって収斂させるための、統合された計画であったことを示している。
連動する巨大事業「荒川の西遷」
利根川東遷と並行し、それと対をなす形で進められたもう一つの巨大事業が、寛永6年(1629年)に行われた「荒川の西遷」である 20 。それまで利根川水系の一部として、越谷付近で利根川に合流していた荒川を、熊谷市の久下で締め切り、その流路を西へ転換。和田吉野川や市野川を経て入間川に付け替え、最終的に隅田川筋を本流として江戸湾へ注がせるという、これもまた壮大な河川改修であった。
この二つの事業は、決して無関係ではない。利根川から荒川という巨大な支流を切り離すことで、東遷させる利根川の水量をコントロールし、下流での治水計画を容易にする狙いがあった。東遷と西遷は、関東平野全体の治水システムを根本から設計し直すための、いわば車の両輪であり、徳川幕府の土木技術と構想力の高さを如実に示すものであった 3 。
60年にわたる苦闘の道のり
赤堀川の開削は、想像を絶する難工事であった。台地を掘り抜くこの工事は、膨大な労働力と時間を要した。元和7年に着手されたものの、当初掘られた川幅はわずか7間(約12.6メートル)に過ぎず、日本最大の大河である利根川本流の水をすべて受け止めるには、到底不十分であった 27 。
この困難な事業は、伊奈忠次からその子・忠政、さらにその子・忠治へと、親子三代にわたって引き継がれた 7 。彼らは数十年にわたり、絶えず拡幅工事を続け、少しずつ、しかし着実に流路を広げていった。そして、最初の着手から33年後の承応3年(1654年)、4代将軍・家綱の時代に、ついに赤堀川は十分な川幅にまで拡幅され、利根川の本流が本格的に常陸川筋を通り、銚子方面へと流下を開始した 7 。この通水をもって、文禄3年(1594年)の会の川締切りから数えて60年にわたる、日本史上でも類を見ない長大な河川改修事業は、一応の完成を迎えたのである。
第四章:巨龍を動かした技術と人々
利根川東遷という、大地を刻み変えるほどの巨大事業を成し遂げたのは、徳川幕府の強大な権力だけではない。その背景には、当時の日本が到達した最高水準の土木技術と、それを支えた無数の人々の知恵と労働があった。機械力が一切存在しない時代、人力のみで「坂東太郎」という巨龍の流れを捻じ曲げた技術と人々の姿は、この事業のもう一つの本質を物語っている。
「伊奈流」治水技術の神髄
この大事業を技術面で主導した伊奈氏が確立した一連の河川技術は、後世「伊奈流」あるいは「関東流」と呼ばれ、江戸時代を通じて幕府の治水事業の標準的な工法となった 14 。その技術は、単に堤防を築くだけでなく、川の流れの性質を巧みに利用し、制御する総合的なシステムであった。
堤防の構造一つをとっても、緻密な計算が見られる。当時の堤防は、川の水が当たる「表法(おもてのり)」の勾配を緩やかにして水の衝撃を和らげ、居住地側の「裏法(うらのり)」の勾配は比較的急に造るのが一般的であった。さらに、表法面には流れによる侵食を防ぐために篠竹や笹を植え、その根で土を固める工夫がなされた 29 。一方、裏法面には、洪水時に堤防の補修や水防活動の資材としてすぐに利用できるよう、木々が植えられていた 29 。
また、川の流れが強く当たる箇所には、「聖牛(ひじりうし)」と呼ばれる三角形の木枠に石を詰めたものを設置し、水流の勢いを弱めて堤防を守る「水制工」と呼ばれる技術も用いられた 8 。堤防を築く際には、土を層状に盛り、その都度「土羽打ち(どはうち)」と呼ばれる道具で突き固め、密度を高めることで強度を確保した 29 。これらは、自然の力に抗うのではなく、受け流し、いなすという、経験に裏打ちされた日本の伝統的な土木思想の現れであった。
人力と道具による施工のリアル
現代の我々が想像する以上に、当時の土木工事は過酷を極めた。すべての作業は、人間の筋力に依存していたのである 30 。赤堀川のような台地を開削する工事では、まず鶴嘴(つるはし)や鍬(くわ)、鋤(すき)で硬い地面を掘り起こし、その土砂を運び出さねばならなかった。
この土砂運搬において、最も重要な役割を果たしたのが「もっこ(畚)」と呼ばれる道具であった 30 。これは藁や竹を網状に編んだ運搬具で、四隅についた縄に一本の棒を通し、二人一組で担いで土や石を運んだ 32 。絵図資料には、急な斜面に作られたジグザグの作業道を、人々がもっこを担いで黙々と往復する様子が描かれている 30 。その労働は、まさに人海戦術そのものであり、事業の進捗は、動員された人々の体力と忍耐力に懸かっていた。
事業を支えた人々
この歴史的な事業は、様々な階層の人々によって支えられていた。
- 指揮官: 関東郡代として事業全体を統括した伊奈忠次とその一族は、幕府のグランドデザインを現場の計画に落とし込み、広大な地域と膨大な人員を管理する、卓越した技術官僚であった。
- 専門家集団: 現場での中核的な役割を担ったのが、「黒鍬者(くろくわもの)」と呼ばれる土木専門の技術者集団である 30 。彼らは代々土木工事に従事し、測量や築堤に関する高度な知識と経験を有していた。特に平坦地での作業に優れ、困難な現場でその技術力を発揮し、工事の品質を支えた。
- 労働力: 工事の大部分を担ったのは、周辺の村々から普請役として動員された農民たちであった。彼らにとってこれは大きな負担であったが、同時に自らの田畑を水害から守り、新たな耕作地を得るための労働でもあった。また、一部の特に大規模な工事は、全国の諸大名に費用と人員の負担を命じる「天下普請」として行われた 34 。これは、大名の財政力を削ぎ、幕府への反抗心を削ぐという、極めて政治的な目的も兼ね備えていた。
利根川東遷事業は、日本の社会構造そのものを変革させる象徴的な出来事でもあった。戦国時代において最も重要視されたのは、武士の武勇や軍事技術であった。しかし、この巨大事業は、伊奈氏のような治水技術を持つテクノクラート(技術官僚)や、黒鍬者のような専門技術者の社会的地位を飛躍的に向上させた。武力で国を盗る時代から、技術と組織力で国を創り、治める時代への転換が、この事業を通じて加速したのである。それは、徳川幕府がその後約260年もの長きにわたって続く安定政権となり得た、社会システムの根本的な変革の現れであった。
終章:変貌した関東平野―利根川東遷が遺したもの
60年の歳月をかけて成し遂げられた利根川東遷事業は、関東平野の姿を永遠に変え、その後の日本の歴史に計り知れない影響を与えた。それは、江戸という巨大都市の繁栄を約束し、日本の経済構造を再編する一方で、人為的に作り出された大河川が抱える新たな課題をも後世に残すことになった。
光:江戸の繁栄と日本最大の穀倉地帯の誕生
東遷事業がもたらした最大の恩恵は、洪水常襲地帯であった関東平野が、日本最大の穀倉地帯へと生まれ変わったことである 11 。利根川と荒川の分離、そして利根川の流路変更によって、広大な低湿地帯は水害のリスクから解放され、次々と新田として開発された。この安定した食料生産基盤と、確立された内陸水運網は、江戸が人口100万を擁する世界有数の大都市へと発展するための原動力となった 14 。東北や関東各地の物産が利根川水系を通じて江戸に集まり、江戸の文化と経済を支えた。この事業は、まさに戦国の終焉を告げ、江戸時代の泰平と経済的繁栄の礎を築いた、日本史上最大級の国土改造事業として高く評価することができる 13 。
影:人為が生んだ新たなリスク
一方で、この事業は光だけをもたらしたわけではない。自然のままに乱流していた川を、高い堤防で囲い、一本の流路に固定するという行為は、新たなリスクを生み出した。堤防の内側に膨大なエネルギーを溜め込んだ大河は、ひとたび堤防が決壊すれば、その破壊的な力は一気に周辺の低地へと襲いかかり、かつてない規模の大水害を引き起こす可能性を常に秘めることになった 18 。
その悪夢が現実となったのが、昭和22年(1947年)のカスリーン台風であった。利根川上流の堤防が埼玉県東村(当時)で決壊し、奔流と化した濁流は南下を続け、遠く離れた東京の葛飾区や江戸川区にまで達し、首都圏に未曽有の被害をもたらした 8 。皮肉なことに、この洪水がたどったルートは、かつて徳川家康が流れを変える以前の、古利根川の流路に酷似していたとされている 8 。これは、人間がいかに自然を制御しようとも、大地に刻まれた記憶を完全に消し去ることはできないという、痛烈な教訓を我々に突きつけている。
総括:戦国時代の終焉と新たな時代の創造
利根川東遷事業は、単なる河川工事の枠を遥かに超える、歴史的な一大事業であった。それは、武力による領土拡大を至上価値とした戦国時代に終止符を打ち、治水・利水という内政の力と、経済の論理によって国家を統治する、新たな時代の到来を内外に告げる壮大なモニュメントであった。
ご依頼のあった慶長9年(1604年)という年は、その壮大な計画が、まだ目に見える大河の流れを変える前の、水面下で着実に、そして極めて戦略的に進められていた「静かなる着手」の年として歴史に刻まれている。それは、戦国武将・徳川家康が、天下の統治者として、大地そのものを設計し直し、未来の日本の繁栄を構想するという、神にも似た事業へ、その確かな第一歩を踏み出した瞬間であった。この事業によって変貌した関東平野の上に、今日の我々の生活が成り立っていることを思えば、その歴史的意義は今なお色褪せることはない。
引用文献
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- 江戸幕府 60年かけ瀬替え、開削の大規模治水事業 - 東京建設業協会 https://token.or.jp/magazine/g201605.html
- 川の歴史 - 日本の川 - 関東 - 荒川 - 国土交通省水管理・国土保全局 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0306_arakawa/0306_arakawa_01.html
- 伊那家三代かけて完成させた利根川東遷|ヌレバイロ - note https://note.com/nurebairo/n/n378084122757
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- 徳川家康はなぜ関東移封されたのか /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/102450/
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- 徳川家康の利根川東遷事業…真の目的は関東防衛か? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2226
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- 江戸の街作り(第3回):第1次天下普請 1606年〜1607年頃(慶長11年〜12年) https://pano.beau-paysage.com/edocreate3/
- 江戸時代の一大事業「天下普請」とは? | ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/tenkabushin/