最終更新日 2025-10-08

前橋城下再興(1601)

慶長6年、家康は酒井重忠に前橋の再興を命じた。城下は「関東の華」と称されるほど整備されたが、利根川の水害に抗えず、ついに城は廃された。
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関東の華の創造と宿命:慶長六年「前橋城下再興」の時系列分析

序章:慶長六年の地平

慶長五年(1600年)九月、関ヶ原における徳川家康の勝利は、日本の歴史における決定的な転換点となった。これにより、百年にわたる戦国の乱世は実質的に終焉を迎え、徳川による新たな治世の幕が開かれたのである。続く慶長六年(1601年)は、その新秩序を全国に浸透させるための「天下普請」が本格的に始動した年であった。この年、全国各地で大規模な大名の国替えや、新たな支配体制を象徴する城郭の建設・改修が活発化した。本報告書が主題とする上野国厩橋(うまやばし)、後の前橋における「城下再興」も、この時代の大きな潮流の中に位置づけられる事象である。

しかし、この出来事を単なる一地方における都市整備事業として捉えることは、その歴史的意義を見誤ることになる。厩橋の地は、戦国時代を通じて上杉、武田、北条という三大勢力が激しく争奪を繰り広げた北関東の戦略的要衝であった 1 。同時に、その立地は「坂東太郎」の異名を持つ日本最大級の暴れ川、利根川の氾濫原にあり、城郭と町は常に水害という根源的な脅威に晒され続けていた 3 。地政学的な価値と、自然的脅威という二律背反。この宿命的な課題を抱える地に、徳川家康は譜代筆頭の名門・酒井家の重臣、酒井重忠を送り込み、新たな拠点としての再生を命じた 4

興味深いことに、同じ慶長六年には、西国において池田輝政による壮大な姫路城の築城が開始されている 6 。これは、依然として影響力を保持する豊臣恩顧の西国大名に対する、徳川の威光を誇示するための巨大な軍事・政治的プロジェクトであった 7 。これに対し、厩橋における「再興」は、関東内部の安定化、そして北に控える伊達政宗ら奥州の雄への備えという、より内向きで実務的な支配網の緻密化を目的としていた。すなわち、1601年という年は、徳川の天下統一事業が、西国への「威圧」と東国・北国への「支配網の構築」という、二つの異なる戦略を同時に推進していたことを象徴している。したがって、前橋城下の再興は、後者の戦略を体現する重要な一齣であり、戦国の価値観で生まれた軍事拠点を、泰平の世における恒久的な統治拠点へと転換させるという、壮大な試みの始まりだったのである。

第一章:「再興」前夜 ― 戦国動乱と厩橋城の宿命

慶長六年に酒井重忠がその地を踏む以前、厩橋城と城下は「戦乱」と「水害」という二つの宿命に翻弄され、疲弊の極みにあった。恒久的な都市としての発展を阻み続けたその過酷な歴史を、時系列で詳述する。

1. 戦略的要衝の誕生と流転

厩橋城の起源は、室町時代中期の文明年間(1469-1487年)に、長尾忠房が石倉の地に築いた城に始まるとされる 2 。一説には太田道灌の築城とも伝わるが 8 、いずれにせよ、この城は誕生の瞬間から、関東平野における交通と軍事の要衝として、歴史の奔流に巻き込まれていく。

戦国時代に入ると、その戦略的重要性が故に、厩橋は越後の上杉謙信、甲斐の武田信玄、そして相模の北条氏康という、当代きっての巨星たちが覇を競う最前線と化した 1 。城主は目まぐるしく入れ替わり、城は特定の勢力による安定した拠点ではなく、常に戦火に晒される「戦場」であり続けた。例えば、永禄三年(1560年)には長尾景虎(後の上杉謙信)がこれを攻略し、関東進出の足掛かりとしたが、そのわずか三年後には北条・武田連合軍によって攻め落とされる 9 。その後、再び上杉方の城代として越後の北条高広が配されるも、今度はその高広が北条方へ寝返るなど、裏切りと攻防が繰り返された 9

このような絶え間ない戦乱は、城郭そのものだけでなく、 nascent な城下の町並みにも壊滅的な打撃を与えた。特に永禄十年(1567年)の武田・北条氏による攻防戦では、当時繁栄していたとされる天川原や六供方面の町が焼き払われ、街の中心機能は旧利根川の河原であった低地へと移転を余儀なくされたという 1 。これは、戦乱が単に支配者を変えるだけでなく、都市の物理的な基盤と人々の生活を根底から破壊し、恒久的な都市開発の機会を奪い続けてきたことを如実に物語っている。以下の表は、酒井氏入封以前の約50年間における、厩橋城の支配者の変遷をまとめたものである。この驚異的な交代頻度は、この地がいかに不安定であったかを視覚的に示している。

表1:戦国期における厩橋城主の変遷(1551年~1601年)

年代 (西暦)

支配勢力 / 城主・城代

主要な出来事

天文20年 (1551)

後北条氏

城主・長野賢忠が城を明け渡し、上杉謙信を頼る 9

永禄3年 (1560)

上杉氏(長尾景虎) / 河田長親

上杉謙信が攻略し、関東進出の拠点とする 9

永禄6年 (1563)

北条・武田連合軍

連合軍により落城 9

永禄6年以降

上杉氏 / 北条高広

上杉氏が奪還し、北条高広を城代に置く 9

永禄10年 (1567)

後北条氏(北条高広)

城代・北条高広が後北条氏へ寝返る 9

元亀元年頃 (1570)

上杉氏(北条高広)

越相同盟により、城は上杉方へ返還され、高広も帰参 9

天正7年 (1579)

武田氏 / 北条高広

御館の乱後、高広は武田勝頼に降伏し、引き続き城代となる 9

天正10年 (1582)

織田氏 / 滝川一益

武田氏滅亡後、織田方の滝川一益の支配下に入る 2

天正10年 (1582)

後北条氏

本能寺の変後、神流川の戦いを経て後北条氏の支配下となる 2

天正18年 (1590)

豊臣氏(徳川家康) / 平岩親吉

小田原征伐で落城。徳川家康の関東入府に伴い、平岩親吉が入城 2

慶長6年 (1601)

徳川氏 / 酒井重忠

平岩親吉が甲府へ転封。酒井重忠が入封 2

2. 坂東太郎との対峙 ― 利根川という自然的脅威

戦乱と並行して、厩橋城の存立を根底から脅かし続けたのが、利根川の存在であった。「暴れ川」「坂東太郎」と畏怖されたこの大河は、城にとって天然の要害であると同時に、抗いがたい破壊者でもあった 3

前橋台地と広瀬川低地帯に挟まれたこの地域は、もともと利根川の広大な氾濫原であった 11 。歴史的に利根川はその流路を幾度となく変えてきたが、厩橋城にとって決定的だったのは、室町時代から天文年間(1532-1555年)にかけて起こったとされる大規模な流路変更である 10 。この変流により、それまで城の東側を流れていた利根川の本流が、城の西側を直接洗う位置へと移動したのである。伝承によれば、天文三年(1534年)の大洪水では、厩橋城の前身である石倉城の本丸・二ノ丸が崩壊し、残った三ノ丸を元に再建されたのが厩橋城の始まりだとされている 2

この出来事は、厩橋城がその立地そのものに深刻な脆弱性を抱えていることを示している。戦国の武将たちは、交通の便や軍事的な防御のしやすさといった「戦略的価値」を優先し、利根川の氾濫原という「地理的脆弱性」をある意味で許容した。彼らにとって城は永住を前提とした首都ではなく、あくまで一時的な軍事拠点であり、その機能が果たせればよかったからである。しかし、この戦国期特有の価値判断こそが、後の世の領主たちに永続的な闘いを強いることになる宿命を決定づけた。恒久的な統治を目指す上で、この地理的欠陥は看過できない問題であり、いつかは向き合わなければならない巨大なリスクであった。

3. 徳川体制下の厩橋 ― 平岩親吉の時代(1590-1601)

天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐を経て、関東八州は徳川家康の所領となった。これに伴い、厩橋城には家康の譜代家臣である平岩親吉が3万3千石で入封し、初代厩橋藩主となった 2 。彼の統治した約11年間は、戦国から江戸への過渡期であった。

親吉に課せられた第一の使命は、長年の戦乱で荒廃した領内を安定させ、徳川の支配を確立することであった。しかし、それと同時に、天下の情勢は未だ流動的であり、来るべき決戦に備える必要があった。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、親吉は徳川秀忠の軍勢に加わることなく厩橋城に留まった。これは、会津の上杉景勝や、北関東から奥州にかけての諸大名に対する抑えとして、この地で睨みを利かせるという重要な役割を担っていたからである 2 。彼の存在は、家康が西国での決戦に集中できる環境を整える上で、東国の安定に大きく貢献した。

戦後、その功績が認められ、親吉は慶長六年(1601年)二月、甲府六万三千石へと加増移封される 2 。彼の統治は、戦国の後始末と徳川体制の基礎固めという、過渡期における重要な役割を果たした。しかし、彼の任期中に行われたのは、あくまで応急処置的な復旧や軍事機能の維持に留まったと考えられる。利根川の浸食という根本的な問題に対処し、新たな都市計画に基づいて城下を再生するという大事業は、次代の領主に託されることになったのである。

第二章:慶長六年二月、酒井重忠の入封 ― 新たな時代の幕開け

慶長六年(1601年)二月、平岩親吉に代わり、武蔵国川越から酒井重忠が厩橋に入封した 2 。この藩主交代は単なる人事異動ではなく、徳川家康による新たな国家構想の一環であり、疲弊したこの地に新たな時代の到来を告げる画期的な出来事であった。

1. 藩主交代の政治的背景

この人選には、家康の明確な政治的意図が込められていた。酒井氏(雅楽頭家)は、徳川家の祖である松平氏と同祖とされ、徳川家臣団の中では別格の家柄であり、譜代筆頭としての地位を確立していた 5 。その当主である酒井重忠は、家康の信頼も厚い重臣であった 5

彼を、石高こそ3万3千石と決して大きくはないが 9 、戦略的に極めて重要な厩橋に配置したことの意味は大きい。これは、家康がこの地を単なる一地方拠点としてではなく、関東平野のヘソとして、中山道と三国街道が交差する交通の要衝として、そして北関東から奥州方面への睨みを効かせるための重要拠点と位置づけていたことの何よりの証左である。戦国の遺風が未だ色濃く残り、利根川という難題を抱えるこの困難な土地の統治を、最も信頼のおける譜代筆頭に託すことで、徳川による支配の永続性と安定性を確固たるものにしようとしたのである。

2. 「関東の華をとらす」― 期待とプロパガンダ

酒井重忠の入封に際して、後世に語り継がれる有名な伝承がある。徳川家康が重忠に対し、「汝に関東の華をとらす」と諭したというものである 4 。この言葉は、前橋が「関東の華」と称される由来となり、市民の誇りとして広く浸透している。

しかし、歴史学的な検証によれば、この逸話の典拠とされる『三河物語』には、実際には「関東の華」という語句は現れない 9 。このことから、この言葉が家康によって実際に語られたかどうかは定かではなく、後世に創出された可能性も否定できない。だが、たとえ史実でなかったとしても、なぜこのような伝承が生まれ、語り継がれたのかを考察することには大きな意味がある。

この言葉は、荒廃しきった厩橋の地を再興するという、極めて困難な大事業に対する家康の強い期待の表れと解釈できる。そして同時に、それを託された酒井家の名誉を内外に示すための、巧みな政治的プロパガンダであったとも考えられる。領民に対しては、新領主が将軍家から絶大な期待を寄せられていることを示し、その統治への信頼と協力を促す効果があっただろう。また、酒井家自身にとっては、この困難な任務を遂行する上での精神的な支柱となり、家門の誇りを高めるものであったに違いない。史実の有無を超えて、この伝承は、慶長六年の藩主交代が持つ歴史的な重みを象徴する言葉として、大きな役割を果たしたのである。

3. 着任時の厩橋 ― 重忠が見た風景

では、慶長六年二月、酒井重忠が初めて厩橋の地を踏んだ時、彼の目に映ったのはどのような光景だったのだろうか。残された史料の断片から、その情景を再構成してみよう。

彼が渡ったであろう利根川の川岸は、絶えず浸食を受け、城の土塁は無残に削り取られていたかもしれない 2 。城内に入っても、そこにあるのは戦国の砦の面影を色濃く残す、質実剛健だが荒廃した建造物群であり、泰平の世を治める大名の居城としての威厳には程遠い状態だっただろう。

そして城下を見渡せば、かつて栄えた町並みは戦火で焼き払われたままであり 1 、人々は川沿いの危険な低地に肩を寄せ合うように暮らしていた。都市としての計画性はなく、道路は整備されず、経済活動も停滞していたに違いない。まさに、戦乱と水害が刻み込んだ深い爪痕が、街の至る所に残されていたはずである。

この光景は、一見すると絶望的ですらある。しかし、見方を変えれば、それは無限の可能性を秘めた「白紙」の状態でもあった。利用者のクエリにある「再興」という言葉は、何か既存のものを「再び興す」という意味合いを持つが、1601年時点の厩橋の実態は、もはや「再興」すべき輝かしい過去の姿を失っていた。したがって、重忠に課せられた使命は、単なる復旧作業ではなかった。それは、戦国時代の旧弊を一掃し、全く新しい都市計画思想に基づいて、近世的な城下町をゼロから「創造」するという、壮大かつ困難な挑戦の始まりだったのである。彼の眼前には、まさしく「関東の華」をその手で咲かせるべき、広大な未開の地が広がっていたのだ。

第三章:「関東の華」の創造 ― 近世城郭と城下町への大改修

酒井重忠の入封は、厩橋の歴史における新たな創造の時代の幕開けであった。彼と、その事業を継承した二代藩主・忠世によって、戦国の砦は近世城郭へ、無秩序な集落は計画的な城下町へと、劇的な変貌を遂げていく。この都市創造プロジェクトを、「城」「町」「川」という三つの視点から詳細に分析する。

1. 城郭の変貌 ― 近世城郭へのアップグレード

重忠がまず着手したのは、藩の権威と軍事力の象徴である厩橋城そのものの抜本的な改修であった 9 。戦国時代を通じて繰り返された攻防戦と、利根川の浸食によって疲弊した城は、徳川譜代筆頭の居城としてはあまりにも貧弱であった。

この大改修は、単なる修繕に留まらなかった。それは、城の設計思想を根本から転換させる「アップグレード」であった。土塁と空堀が主体であったであろう戦国期の砦に、石垣が導入され、堀はより深く、広く掘り直された。そして、この改修のハイライトが、三層三階の壮麗な天守閣の造営である 2 。天守は、近世城郭において最も重要なシンボルであり、領主の権威を視覚的に示す装置であった。この天守の出現により、厩橋城は単なる防衛拠点から、領国支配の中心にふさわしい「見せる城」へと変貌を遂げた。

この事業は初代・重忠の代に始まり、二代・忠世の時代に完成したとされ、親子二代にわたる長期的なプロジェクトであったことが窺える 2 。この近世城郭への変貌は、徳川の支配がこの地に一時的ではなく、恒久的に及ぶことを内外に宣言する、力強い意思表示だったのである。

2. 都市計画「町割り」の実行 ― 新秩序の空間的具現化

城郭の改修と並行して、酒井氏が最も注力したのが、城下の計画的な整備、すなわち「町割り」であった 15 。これは、無秩序に形成された集落を、機能的かつ身分秩序に基づいた近世的な都市空間へと再編成する作業である。

その都市計画の核となったのが、城の大手前に配置された「連雀町(れんじゃくちょう)」であった 15 。ここには商人頭の木嶋氏らが住み、領内の商業・流通の中心地として機能した。そして、この連雀町を起点として、江戸へと通じる江戸道(後の三国街道)や、沼田・越後方面へ向かう沼田街道に沿って、計画的に町が形成されていった 17

さらに、広瀬川の右岸に沿って、鍛冶職人が集住する「鍛冶町」、染物業者が集まる「紺屋町」、材木を扱う「板屋町」といった職人町が、それぞれの機能に応じて戦略的に配置された 15 。これにより、産業の集積と効率化が図られた。また、武士が住む武家屋敷と、町人が住む町人地は明確に区画され、その間には堀や土塁が設けられることもあった。これは、徳川幕府が確立しようとしていた士農工商の身分制度を、都市空間そのものに反映させるという、極めて政治的な意図を持った都市計画であった。

この計画的な町割りによって、城下は急速に発展した。天和三年(1683年)の時点で16町であった町数は、元禄十四年(1701年)には21町にまで増加しており 15 、都市が有機的に成長していった様子が窺える。酒井氏による町割りは、今日の中心市街地の原型を形成し、前橋の都市構造に決定的な影響を与えたのである 9

3. 利根川への挑戦 ― 治水とインフラ整備

しかし、いかに壮麗な城を築き、計画的な町を造ろうとも、利根川という宿命的な脅威が去るわけではなかった。酒井氏の治世は、この大自然との絶え間ない闘いの歴史でもあった。

利根川全体の流路を大きく変えるような大規模な「瀬替え」は、徳川幕府が国家事業として推進した「利根川東遷事業」の一環であり、一藩の財力と技術力でどうにかなるものではなかった 18 。しかし、藩のレベルにおいても、城と城下を水害から守るための局地的な治水対策は、不断の努力をもって続けられたはずである。

その具体的な記録として、初代・重忠が前橋城を整備する際に、城下を流れる「風呂川」の改修工事を行ったことが伝えられている 20 。これは、城下の排水機能を高め、内水氾濫を防ぐための重要なインフラ整備であった。また、前橋藩の史料の中には「利根川の瀬替えに係る絵図」が含まれており 21 、藩がこの問題に極めて高い関心を持ち、幕府の事業と連携しつつ、あるいは独自の対策を講じようとしていたことを示唆している。城の防御を兼ねた堅固な堤防の建設や、水流を逸らすための水制(すいせい)の設置など、当時の土木技術を駆使した様々な試みが行われたと推測される。

これらの努力は、自然の猛威を完全に克服するには至らなかったものの、被害を最小限に食い止め、この危険な土地で人々が暮らし、経済活動を営むことを可能にした。それは、自然に抗い、支配しようとするのではなく、その力を受け流し、共存を図ろうとした近世人の現実的な叡智の表れであった。

酒井氏の事業は、城や道路といった物理的な「ハードウェア」の建設に留まらなかった。観民稲荷神社や岩神稲荷神社といった寺社の創建・寄進 20 、商人頭の任命による経済組織の整備 17 、そして菩提寺である龍海院の前橋への移転 20 などは、都市の精神的支柱や社会経済システムといった「ソフトウェア」を同時に実装する行為であった。このハードとソフトの統合的な整備こそが、単なる建築物の集合体ではない、生命力あふれる都市「城下町」を機能させるための鍵だったのである。

第四章:永続する闘いと「前橋」の誕生

慶長六年の「再興」によって産声を上げた近世城下町・厩橋は、その後、酒井氏九代、約150年間にわたる統治の下で成熟期を迎える。しかし、その栄光の陰では、宿命の敵である利根川との永続する闘いが続けられていた。やがてその闘いは、悲劇的な結末を迎えることになる。

1. 酒井氏九代の治世と城下町の成熟

初代・重忠が礎を築き、二代・忠世が完成させた城と城下町は、その後、歴代藩主の下でさらなる発展を遂げた 13 。特に、四代藩主・酒井忠清は徳川家綱政権下で大老の重職を務め、幕政の中枢で絶大な権力を握った 24 。彼の時代、前橋藩の格式は頂点に達した。

また、忠清の子である五代藩主・忠挙は、父の失脚の影響で幕政での活躍は限られたものの、藩政に心血を注いだ名君として知られる 13 。彼は藩士の子弟を教育するための藩校「好古堂」や「求知堂」を創設して教育を振興し、『前橋風土記』の編纂を命じるなど文化の発展にも貢献した 13 。新田開発などの産業振興にも力を入れ、前橋藩の全盛期を築き上げた。

その結果、城下町は北関東随一の都市として大いに繁栄した。寛延二年(1749年)の時点での人口は、武家屋敷に住む武士とその家族が約1500軒・6000人、町人地に住む商工業者が約1200-1300軒・5000人、合計で1万1000人前後に達したと推定されている 15 。これは、当時の地方都市としてはかなりの規模であり、「関東の華」の名にふさわしい賑わいを見せていたことであろう。

2. 「厩橋」から「前橋」へ ― アイデンティティの確立

城下町が成熟し、経済的・文化的な中心地として発展する中で、この土地の呼称にも変化が訪れる。大老・酒井忠清が藩主であった時代(1636-1681年)に、それまでの「厩橋」という地名が、公式に「前橋」へと改められたとされる 2 。一説には五代・忠挙の代とも言われるが 25 、いずれにせよ、酒井氏の治世下での出来事である。

「厩橋」という名の由来は、かつてこの地を流れていた車川という川に架かっていた「駅家(うまや)の橋」にちなむと伝えられている 10 。「駅家」とは、律令時代に官吏の往来のために馬や宿舎を提供した施設であり、交通の要衝であったことを示す歴史ある地名である。しかし、近世的な城下町として独自の発展を遂げた都市にとって、「うまや」という言葉が持つ宿場や馬小屋といったニュアンスは、もはやその実態にそぐわないものとなっていたのかもしれない。

「前橋」への改称は、単なる名称の変更以上の意味を持っていた。それは、大老を輩出するまでに至った酒井家の威光と、北関東の中心都市へと成長した城下町の繁栄に対する強い自負の表れであった。この改称によって、都市としての新たなアイデンティティが確立され、名実ともに関東の「華」として認識されるようになったのである。

3. 水禍、そして廃城へ ― 宿命との決着

栄華を極めた前橋藩であったが、その足元では利根川による浸食が静かに、しかし着実に進行していた。17世紀後半になると、城郭の崩壊は看過できないレベルに達し始める 17 。そして宝永三年(1706年)には、大規模な洪水が発生し、本丸西側の曲輪群がごっそりと川に飲み込まれるという壊滅的な被害を受けた 26

度重なる洪水は、城郭を破壊するだけでなく、領内の田畑にも甚大な被害をもたらし、藩の財政を深刻に圧迫した 26 。城の修復費用と、年貢収入の減少という二重苦に、藩の財政は破綻寸前に追い込まれた。いかに名門の酒井氏といえども、この抗いがたい自然の力の前には無力であった。

ついに酒井氏は、前橋での領国経営を断念し、幕府に対して領地替えを嘆願するに至る。その願いは聞き入れられ、寛延二年(1749年)、九代藩主・酒井忠恭の代に、播磨国姫路十五万石へと転封となった 23

酒井氏の去った後、前橋には松平朝矩が十五万石で入封する 22 。しかし、彼もまた利根川の問題を解決することはできなかった。わずか18年後の明和四年(1767年)、松平氏は本拠地を川越城へと移すことを決定。これに伴い、歴代藩主が心血を注いで維持してきた前橋城は、ついに廃城とされた 15 。壮麗を誇った三層の天守閣も、堅固な大手門も、この時に取り壊されたのである 16 。慶長六年に酒井重忠が創造を始めてから約160年、「関東の華」と謳われた城は、その宿命の敵であった利根川の前に、完全な敗北を喫したのだった。

終章:慶長六年の「再興」が現代前橋に遺したもの

酒井重忠が慶長六年に着手した「前橋城下再興」は、その物理的な象徴であった城郭が利根川に敗れ、廃城という悲劇的な結末を迎えた。では、この壮大な都市創造プロジェクトは、最終的に失敗に終わったのだろうか。結論から言えば、否である。その真の価値は、失われた城郭ではなく、今なお生き続ける都市の骨格そのものにある。

前橋の歴史は、城郭という物理的シンボルの儚さと、都市という社会経済システムの強靭さという、興味深い二面性を示している。多くの城下町では、城が失われるとその都市も衰退の道を辿ることが少なくない。しかし、前橋ではその中核が早々に失われたにもかかわらず、都市は存続し、発展を続けた。その最大の理由は、慶長六年に酒井氏が描いた都市の青写真が、単なる軍事拠点の建設に留まらなかったからに他ならない。

彼らが創造したのは、城という「点」の防御ではなく、城下町という「面」の経営を主眼に置いた、複合的な都市システムであった。街道沿いに商業・流通の軸を定め 17 、職人町を配置して産業基盤を整え 15 、寺社を創建して人々の精神的な拠り所を設ける 20 。この多機能で冗長性のある都市計画こそが、中核である城郭(軍事機能)が失われた後も、経済、交通、文化といった他の機能が都市を支え続けることを可能にした。城の喪失という危機が、逆説的に、城に依存しない都市の自立性を促したとさえ言えるかもしれない。

城が廃された後、前橋は一時的に衰退するが、城下で育まれた商人たちの活力は失われなかった。幕末、生糸貿易の隆盛と共に前橋の経済力が高まると、領民たちの熱意によって、文久三年(1863年)に前橋城は再建される 8 。この再建された城の立地も、そして近代都市へと移行していく中で形成された市街地の骨格も、その基礎には酒井氏が築いた町割りが存在していた 1

結論として、慶長六年「前橋城下再興」の最大の成果は、利根川のほとりに壮麗な天守を築いたことではない。それは、自然の脅威と共存しながらも、持続可能な社会経済システムとしての「都市」を創造したことであった。戦国時代の価値観から江戸時代の価値観への転換を体現したこの事業の遺産は、物理的な城郭という形を超え、現代前橋市の都市構造と市民のアイデンティティという無形の形で、四百年の時を経た今なお、我々の前に確かに存在しているのである。

引用文献

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  17. 前橋の寺町|特集 | 前橋の観光・旅行情報サイト 「前橋まるごとガイド」 https://www.maebashi-cvb.com/feature/teramachi/teramachi
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  20. 酒井重忠:概要 - 群馬県:歴史・観光・見所 https://www.guntabi.com/bodaiji/sakaisigetada.html
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  22. 幻の名城 前橋城|特集 https://www.maebashi-cvb.com/feature/maebashi-jyo/maboroshi
  23. 郷土資料 - 前橋市 https://www.city.maebashi.gunma.jp/library/2/1/15969.html
  24. 前橋城・酒井時代の大手門、現地説明会に行ってきた! | - いなもとかおり https://castle-trip.namaste.jp/2021/02/15/maebashi-castle-20200215gensetu/
  25. 前橋藩主酒井家の儒墓群(龍海院):群馬県前橋市 - 石造物を巡る https://nomeshikoki17.fc2.page/491/
  26. 203.前橋城 その1 - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/2024/06/20/203maebashi01/
  27. 再築前橋城をめぐるコース|モデルコース | 前橋の観光・旅行情報サイト 「前橋まるごとガイド」 https://www.maebashi-cvb.com/course/8404