最終更新日 2025-09-16

前田利長加賀領確定(1600)

慶長4年、前田利家の死後、利長は家康の謀略で加賀征伐の危機に直面。母・芳春院を人質に出し、関ヶ原の戦いでは東軍として北陸で奮戦。戦後、加賀・越中・能登120万石を安堵され、加賀百万石の礎を築いた。
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加賀百万石の黎明:慶長四・五年、前田利長存亡の刻

序章:豊臣政権の黄昏と権力構造の変容

慶長3年(1598年)8月18日、天下人・豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じた 1 。彼の死は、一代で築き上げられた巨大な権力構造に、避けがたい黄昏の影を落とすことになる。幼い嫡子・秀頼の将来を深く憂慮した秀吉は、その死に際して、徳川家康を筆頭とする有力大名から成る「五大老」と、石田三成ら子飼いの吏僚から成る「五奉行」による合議制を遺した 2 。この制度は、特定の権力者の突出を防ぎ、相互の牽制によって秀頼が成人するまでの間、政権の安定を図るという、秀吉の切なる「願い」が込められたものであった 3

しかし、この統治システムは、その構想段階から構造的な脆弱性を内包していた。まず、五大老間の石高に著しい不均衡が存在した。関東250万石を領する徳川家康の力は、他の大老を圧倒しており、名目上の同格という建前は実態を伴っていなかった 5 。さらに、大名としての格付けである大老と、豊臣家の家臣という立場である奉行との間には、権限や序列を巡る深刻な対立の火種が燻っていた。当時、大老は「奉行」、奉行は「年寄」と呼ばれていたという説もあり、上位者の命令を執行する「奉行」よりも、大名家の重臣に相当する「年寄」の方が格上であったとする見解すら存在する 4 。この権力構造の曖昧さは、秀吉が両者を意図的に対立・牽制させることで権力の均衡を保とうとした結果かもしれないが、それは同時に、家康のような傑出した政治家が自らの影響力を伸長させるための絶好の機会を提供するものであった。

案の定、秀吉の死からわずか数ヶ月後、家康はその野心を露わにする。秀吉が遺言で固く禁じた「大名間の私的な婚姻」を破り、伊達政宗や福島正則といった有力大名と次々に姻戚関係を結び、自派勢力の拡大を公然と開始したのである 3 。この明白な遺命違反に対し、五奉行の石田三成は、五大老の一人であった前田利家と共に家康を詰問し、一時的にその動きを押し止めることに成功する 8 。この時、利家は秀吉との長年の盟友関係という個人的な権威と、加賀百万石(当時)の実力を背景に、家康を唯一掣肘しうる政権の「重石」として、その存在感を示していた 8 。しかし、豊臣政権内部では、三成ら文治派と、加藤清正ら武断派の対立も深刻化しており、家康はこの亀裂を巧みに利用して、着々とその地歩を固めていた 10

この危うい均衡が、音を立てて崩れ去る日は、目前に迫っていた。利家の死は、豊臣政権から形式的な権力の均衡だけでなく、それを辛うじて支えていた「情」や「義理」といった非公式な紐帯をも奪い去ることになる。そして、剥き出しの権力闘争の舞台へと変貌した政界で、最大の力を持つ家康が優位に立つのは、もはや時間の問題であった。本報告書は、この激動の時代を背景に、前田家二代当主・前田利長が如何にして存亡の危機に直面し、それを乗り越えて加賀百万石の礎を築いたか、その一年余りの軌跡を時系列で克明に追うものである。


【表1:慶長4年~5年における前田家関連 時系列表】

年月

出来事

主要人物

関連事項

慶長4年 (1599)

閏3月3日

前田利家、大坂にて死去。利長が家督と五大老職を継承。

前田利家、利長

豊臣政権の「重石」が失われる 9

閏3月4日

石田三成襲撃事件。

石田三成、武断派七将

政権内の対立が表面化 12

8月

利長、父の遺言に反し、金沢へ帰国。

前田利長、徳川家康

家康の勧めがあったとされる 13

9月

増田長盛、利長に家康暗殺の嫌疑ありと讒言。

増田長盛、前田利長

「加賀征伐」の口実が作られる 13

10月3日

家康、諸大名に「加賀征伐」の出兵を命令。

徳川家康

前田家中に激震が走る 14

10月以降

横山長知、三度にわたり家康に弁明。芳春院の人質提出を約す。

横山長知、前田利長

交戦回避のための外交努力 14

慶長5年 (1600)

5月

家康と前田家の講和が成立。

徳川家康、前田利長

5月6日

芳春院(まつ)、人質として江戸へ下向開始。

芳春院

前田家の徳川への臣従が確定 15

7月

関ヶ原の戦い、勃発。利長は東軍として出陣。

前田利長

8月3日

大聖寺城の戦い。利長、西軍の山口宗永を破る。

前田利長、山口宗永

北陸における前哨戦 16

8月8日

利長、大谷吉継の謀略により金沢への撤退を決定。

前田利長、大谷吉継

関ヶ原への進軍を断念 18

8月9日

浅井畷の戦い。丹羽長重軍の追撃を受け苦戦。

前田利長、丹羽長重

「北陸の関ヶ原」 18

9月15日

関ヶ原の本戦。東軍が勝利。

徳川家康、石田三成

利長は本戦に参加できず。

9月18日

丹羽長重、利長に降伏。

丹羽長重

北陸の戦いが終結 20

戦後

論功行賞。利長、加賀・越中・能登120万石を安堵される。

徳川家康、前田利長

加賀藩体制が盤石となる 6


第一章:巨星墜つ – 前田利家の死と利長の苦悩

慶長4年(1599年)閏3月3日、豊臣政権の支柱であり、徳川家康に対する最後の防波堤であった前田利家が、大坂の自邸でその生涯を閉じた 9 。享年62。彼の死は、単に一人の大老の逝去に留まらず、豊臣政権のパワーバランスを決定的に崩壊させる号砲となった。利家という「重石」が失われた政権は、もはや剥き出しの権力闘争の場と化し、その死の翌日には、石田三成が加藤清正ら武断派七将に襲撃される事件が発生、政権内の対立は一気に武力衝突寸前の様相を呈した 11

この混乱の渦中に、父の跡を継いで前田家の家督、そして豊臣政権の五大老および秀頼の傅役(もりやく)という重責を一身に背負うことになったのが、嫡男の利長であった 10 。しかし、37歳の若き当主には、父・利家が持っていたような絶対的な政治的権威も、政敵を黙らせるほどのカリスマもまだ備わっていなかった。彼は、巨大な前田家を率いるという重圧と、魑魅魍魎が跋扈する中央政界の荒波に、いきなり一人で立ち向かわなければならないという、極めて困難な立場に立たされたのである。

利家は生前、利長に対して「3年は上方を離れるな」と遺言していたと伝えられる 10 。これは、中央政界から物理的に距離を置けば、家康の独走を許し、豊臣政権内における前田家の影響力が急速に低下することを見越した、老練な政治家としての的確な助言であった。しかし、利長は父の死からわずか半年後の同年8月、この遺言に背き、居城である金沢への帰国を断行するという、周囲を驚かせる行動に出る 13 。一説には、この帰国は家康自身の勧めによるものであったとも言われている 13

この不可解な行動は、世間から「軟弱」「家康の家来も同然」と厳しく酷評され、前田家譜代の家臣たちですら「前田の家運もこれまでか」と嘆いたという 13 。しかし、この一見、責任放棄とも映る行動は、単なる弱さや判断力の欠如から来たものではなかった。むしろ、それは利長が自らの置かれた状況を冷静に分析し、父とは異なる生存戦略を選択した、主体的な「決断」であったと評価すべきであろう 23 。利長は、不慣れな大坂の政争の渦中で家康に翻弄され、その掌の上で踊らされるよりも、一度自らの権力基盤である領国に戻り、足元を固めることを優先したのである。これは、父のカリスマに頼るのではなく、自家の地盤と実力でこの乱世を生き抜こうとする、現実的かつ防衛的な戦略への転換を意味していた。

一方で、家康が利長の帰国を「勧めた」とされる点は、極めて重要な意味を持つ。家康の立場からすれば、反家康派の旗頭となりうる利長を中央政界から物理的に引き離すことは、自らの政治的野心を実現する上で極めて好都合であった。利長を金沢に「封じ込める」ことで、大坂城の秀頼を完全にその掌中に収め 25 、次の政治工作、すなわち前田家を屈服させるための口実作りの準備を、誰にも邪魔されることなく進めることが可能となったからである。利長の帰国は、彼自身の決断であると同時に、家康の巧妙な政治戦略に巧みに誘導された結果でもあった。こうして利長は、自ら虎の口を離れたつもりが、実はより大きな罠へと足を踏み入れていくことになる。

第二章:加賀征伐の危機 – 家康の謀略と前田家の岐路

前田利長の金沢帰国は、徳川家康にとって待ち望んだ好機であった。利長が中央政界から離れた直後の慶長4年(1599年)9月、上方では「利長が加賀にて家康討伐を企てている」という風聞が、あたかも事実であるかのように流布され始めた 13 。そして、この風聞に決定的な信憑性を与える「証言」が、家康のもとにもたらされる。証言者は、豊臣五奉行の一人、増田長盛であった。

長盛は家康に対し、「浅野長政、大野治長、土方雄久らが徳川様暗殺を企てております。そして、彼らを陰で操る黒幕こそ、加賀の前田利長にございます。利長は淀君と密通し、夫婦となって秀頼様を後見するつもりですぞ」と、具体的かつ衝撃的な内容の讒言を行った 10 。この嫌疑は、利長が金沢城の修繕や武器の収集を行っていたという事実を、謀反の証拠として巧みに利用したものであった 14

増田長盛のこの行動は、単純な裏切りとして片付けることはできない。彼は後の関ヶ原の戦いの前哨戦である伏見城攻めでは西軍として戦う一方で、石田三成の挙兵を家康に密告するなど、終始、二重スパイのような不可解な動きを見せている 10 。これは、彼が豊臣政権の崩壊を予見し、来るべき時代の勝者となりうる家康と、旧主への義理を立てる三成との間で、自らの生き残りを賭けた危険な綱渡りを演じていたことを示唆している。彼の讒言は、家康の謀略に利用された駒であると同時に、彼自身の必死の生存戦略の一環であった可能性が高い。

この讒言を待っていたかのように、家康は迅速に行動を起こす。同年10月3日、家康は豊臣家の大老として、諸大名に対して「加賀征伐」のための出兵を正式に命令した 14 。この一連の動きは、家康による周到に計画された自作自演であったとする説が有力である 10 。家康の真の目的は、前田家を滅亡させることではなく、豊臣政権下で最大の軍事動員力を有する前田家を完全に屈服させることにあった。そうすることで、他の全ての豊臣恩顧大名に対し、徳川の力と権威を絶対的なものとして見せつけ、自らの支配体制を盤石にしようと図ったのである 14

家康挙兵の報は、金沢に激震をもたらした。前田家中は「徳川の理不尽な言いがかりに屈するべきではない」とする徹底抗戦派と、「勝ち目のない戦は避けるべきだ」とする恭順回避派に分裂し、激しい議論が連日連夜交わされた 14 。利長自身は当初、交戦も辞さない構えを見せたが、これは家中の主戦派の顔を立てるためのポーズであった可能性が高い 10 。豊臣家からの支援を要請するも、既に大坂城西の丸に入り秀頼を事実上掌握していた家康の意向に逆らうことはできず、豊臣家はこれを拒否 25 。この時点で「豊臣公儀」は家康に乗っ取られており 8 、家康への反逆は即ち豊臣家への反逆と見なされるという恐るべき政治構造が完成していた。頼るべき主家から見捨てられ、完全に孤立無援となった前田家は、存亡を賭けた決断を迫られる。

最終的に利長は交戦回避を決定し、家臣の横山長知を大坂の家康のもとへ急派する。長知は利長の譜代の家臣であったが、父・利家に仕えた経験はなく、家中の統制に苦心する利長にとっては、信頼できる腹心の一人であった 14 。長知は三度にわたって家康に謁見し、利長に謀反の意思が毛頭ないことを、必死に弁明し続けた 10 。前田家の運命は、この若き当主と一人の家臣の双肩にかかっていた。

第三章:母の決断 – 芳春院、江戸へ

前田家が絶体絶命の窮地に立たされる中、この危機を救ったのは、軍事力でもなければ、外交交渉の成果でもなかった。それは、利長の母であり、利家の正室であった芳春院(まつ)の、自己犠牲に満ちた気高い決断であった。

横山長知による懸命の弁明と交渉の末、徳川家康はついに加賀征伐の中止に同意する。しかし、それは無条件ではなかった。家康が提示した和解の条件は、利長の生母である芳春院を人質として、家康の本拠地である江戸に送ること、ただ一つであった 10 。これは、前田家が徳川家に対して完全なる臣従を誓うことの、何より明確な証を立てることを意味した。さらに、利長の養嗣子であり、後の三代藩主となる利常と、家康の孫娘・珠姫(二代将軍秀忠の娘)との婚約も同時に取り決められ、両家は血縁という強固な絆で結ばれることになった 14

母を人質として差し出すという屈辱的な条件に、利長は激しく躊躇したという 27 。しかし、その息子の迷いを断ち切ったのは、芳春院自身の毅然とした言葉であった。彼女は利長を諭したと伝えられる。「あなたに家康と渡り合う度量はありません。今はただ、加賀一国を安泰に守ることだけをお考えなさい」「侍は、家が第一。この老いた母を、家のために利用しなさい」と 27 。この言葉には、かつて賤ヶ岳の戦いの後、単身で羽柴秀吉との和議を成功させ、夫・利家の危機を救った彼女ならではの、卓越した政治的洞察力と、何よりも我が子と前田家を守り抜きたいという、母としての深く強い意志が込められていた 27

家康が数多いる前田家の一族の中から、あえて芳春院を人質として名指しで要求したことは、彼の人間洞察の深さを物語っている。彼は、前田家中における芳春院の絶大な影響力と、利長の母に対する情愛の深さを正確に見抜いていた。武力で屈服させるよりも、精神的な支柱である母を人質とすることで、より確実に、そして後世に遺恨を残すことなく前田家を支配下に置けると判断したのである。これは、物理的な征伐よりもはるかに高度な、心理的な征服であった。

慶長5年(1600年)5月6日、天下分け目の関ヶ原の合戦が勃発する約3ヶ月前、芳春院は江戸へ向けて静かに出立した 15 。この江戸下向には、前田家譜代の重臣である村井又兵衛長頼らも随行し、彼女の身辺を固めた 27 。芳春院の江戸での人質生活は、実に14年という長きにわたった 30 。しかし、それは決して単なる虜囚の生活ではなかった。彼女は江戸にあって、徳川家の内情を探り、情報を金沢に送り、時には西軍に与した親族の助命嘆願に奔走するなど、前田家のための重要な政治工作を担い続けた 31 。芳春院は単なる「人質」ではなく、前田家の存続を賭けた交渉における、最も重要かつ尊厳ある「外交使節」であった。彼女の決断は、無益な戦を回避し、徳川幕藩体制下で前田家が生き延びるための、最も効果的な道筋を切り開いたのである。

第四章:北陸の関ヶ原 – 大聖寺城・浅井畷の激闘

母・芳春院を江戸へ送り、徳川家への臣従の証を立てた前田利長は、次なる試練に臨む。慶長5年(1600年)7月、家康が会津の上杉景勝討伐へ向かう中、石田三成らが挙兵し、天下は二分された。東軍に与した利長は、徳川方としての忠誠を示すべく、そして何よりも母の身の安全を確保するため、2万5千と号する大軍を率いて金沢城を出陣した 16 。彼の当面の目標は、関ヶ原の本戦に合流することであったが、その行く手には西軍に与した北陸の諸将が待ち構えていた。

利長はまず、後顧の憂いを断つため、加賀南部の西軍勢力の掃討を開始する。慶長5年8月3日、西軍方の山口宗永がわずか2千の兵で守る加賀・大聖寺城に猛攻を仕掛けた 16 。数で圧倒する前田軍の前に城は一日で陥落し、城主・山口宗永とその子・修弘は壮絶な自刃を遂げた 17

しかし、この勝利の直後、利長は思わぬ敵の術中にはまることになる。敵とは、西軍の将として越前敦賀に布陣していた、知将・大谷吉継であった。吉継は、利長の大軍と正面から戦うことを避け、巧みな情報戦を仕掛けた。「大谷軍の別動隊が、海路から手薄になった金沢城を奇襲する」「上杉景勝が越後を制圧し、加賀をうかがっている」といった、虚実入り混じった流言を前田軍の陣中に流し、利長の心理を激しく揺さぶったのである 18 。さらに吉継は、西軍挙兵の際に捕らえていた利長の妹婿・中川光重を半ば脅迫し、利長宛に「本拠地が危うい故、急ぎ帰還されたし」という内容の偽の書状を書かせ、これを届けさせた 18

これらの巧妙な謀略は、利長の心理的弱点を的確に突いていた。本拠地・金沢を失うことは、前田家の崩壊に直結する。熟慮の末、利長は関ヶ原への進軍を断念し、金沢の防衛を優先するという苦渋の決断を下す。8月8日、前田軍は全軍を北へ返し、金沢への撤退を開始した 18 。物理的な戦闘を交えることなく、2万5千の大軍を戦線から離脱させた大谷吉継の、見事な戦略的勝利であった。

だが、利長の苦難はこれで終わりではなかった。撤退の途上、西軍方として小松城に籠っていた丹羽長重が、この好機を逃さず追撃を開始した。8月9日、小松城の東方に広がる浅井畷(あさいなわて)と呼ばれる、泥沼や深田の中を貫く縄のように細い道で、丹羽軍は撤退する前田軍に奇襲をかけた 10 。前田軍は2万5千の大軍であったが、道幅が極端に狭い湿地帯ではその大軍の利を全く活かすことができず、わずか3千の丹羽軍を相手に大苦戦を強いられた 18 。この「北陸の関ヶ原」とも称される激戦で、前田軍は山崎長徳や長連龍といった猛将たちの奮戦により、辛うじて丹羽軍を撃退し、多大な損害を出しながらも金沢への撤退を果たす 18

この浅井畷での死闘は、結果的に前田利長が9月15日の関ヶ原の本戦に参加できなかった決定的な要因となった。もし、この大軍が本戦に間に合っていれば、戦いの趨勢は大きく変わっていた可能性も否定できない。しかし、皮肉なことに、この北陸での苦戦と遅滞があったからこそ、家康は利長の功績を過大評価することなく、しかし東軍としての忠誠は認めるという、絶妙な政治的評価を下す余地が生まれたのかもしれない。利長の不運は、戦後の破格の加増へと繋がる遠因となったのである。

終章:加賀百万石の礎 – 所領安堵と前田家の未来

慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原の本戦は、わずか一日で徳川家康率いる東軍の圧勝に終わった。天下の趨勢が決した今、家康は新たな支配者として、戦後処理、すなわち論功行賞に着手する。その裁定は、彼の政治的手腕を如実に示すものであった。

西軍に与した大名には、極めて厳しい処分が下された。西軍総大将として大坂城にあった毛利輝元は、安芸・備後など120万石から周防・長門36万石へと、その所領を4分の1以下に削減された。家康による会津征伐の直接の対象であった上杉景勝もまた、会津120万石から米沢30万石へと大幅に減封された 6 。宇喜多秀家や石田三成、小西行長といった西軍の中核をなした大名たちは、改易(所領没収)の上、処刑されるか流罪となった 6

その一方で、東軍に与した大名には、その功績に応じて惜しみない恩賞が与えられた。特に、豊臣恩顧の大名でありながら家康に味方した者たちには、破格の加増が行われた。そして、その筆頭格が前田利長であった。

利長は、関ヶ原の本戦には間に合わなかったものの、北陸において西軍勢力を牽制し、大聖寺城を攻略した戦功が評価された 16 。さらに、家康は政治的に極めて巧妙な処置を行う。関ヶ原の際に東軍への参陣を躊躇し、結果として西軍に利する形となった利長の弟・前田利政の能登22万石を没収し、それを兄である利長に与えたのである 10 。これにより、利長は元々の所領に加え、戦功による加増分(江沼・能美両郡など)、そして弟の旧領を合わせ、加賀・越中・能登の三国にまたがる計120万石余りの広大な所領を安堵された 6 。ここに、徳川家に次ぐ日本最大の大名領、加賀藩が名実ともに成立した。


【表2:関ヶ原の戦い 前後における主要大名の石高比較】

大名

勢力

関ヶ原合戦前(推定石高)

関ヶ原合戦後(確定石高)

変動

徳川家康

東軍

約250万石

約400万石(直轄領)

+ 約150万石

前田利長

東軍

約83万石

約120万石

+ 約37万石

毛利輝元

西軍

約120万石

36万9千石

- 約83万石

上杉景勝

西軍

120万石

30万石

- 90万石

宇喜多秀家

西軍

57万石

0石(改易)

- 57万石


出典: 5 に基づき作成。石高は諸説あり、おおよその値。

この一連の事変を通じて、前田家は存亡の危機を乗り越え、徳川幕藩体制下における外様筆頭大名としての地位を盤石なものとした 23 。利長への120万石安堵は、単なる戦功への褒賞ではなかった。それは、豊臣政権第二の実力者であった前田家を、徳川の新たな秩序に完全に組み込むための、家康による壮大な「政治的投資」であった。家康は、前田家を破格の待遇で遇することで、他の外様大名に対し、「徳川に従えばこれほどの栄誉が得られる」という強烈なメッセージを発信したのである。加賀百万石は、徳川の威光を示すための象徴的な存在として、創り出された側面があった。

さらに、弟・利政の所領を兄・利長に与えるという処置は、家康の政治的狡猾さの極みであった。この恩賞により、利長は家康への感謝と忠誠を誓うと同時に、肉親である弟を犠牲にして家を保ったという、生涯消えることのない負い目を背負うことになった 10 。この恩賞は、感謝という名の呪縛となり、前田家が徳川家に決して逆らうことのできない、強力な心理的な楔を打ち込む効果を持っていた。

家康の謀略に屈し、母を人質に出すという屈辱的な選択から始まった前田利長の苦難の一年は、結果として最大の果実をもたらした。この絶体絶命の危機に対する冷静かつ現実的な対応の成功こそが、以後260年以上にわたって泰平を享受する、加賀百万石の揺るぎない礎を築いたのである。前田利長の加賀領確定は、栄光の時代の幕開けであると同時に、徳川の掌中での安泰という、新たな時代の始まりでもあった。

引用文献

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  2. 【高校日本史B】「五奉行と五大老」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12796/point-2/
  3. 五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的? - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/5elders5magistrate
  4. 「五大老」と「五奉行」の違いとは? それぞれのメンバーと人物像まとめ【親子で歴史を学ぶ】 https://hugkum.sho.jp/479426
  5. 【関ヶ原の舞台をゆく①】関ヶ原の戦いに至るまで~2年前から始まっていた関ヶ原・前哨戦 - 城びと https://shirobito.jp/article/484
  6. 関ヶ原戦後処理の一断片|栄村顕久 - note https://note.com/super_mink2656/n/n16fcf7a8fb04
  7. 五大老と五奉行の上下関係に疑問符!? 実は五奉行の方が偉かった!【前編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/2082
  8. 頼りの前田利家に死なれて… - BEST TiMES(ベストタイムズ) https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/496/
  9. 律義者・前田利家、最期の逸話~地獄で閻魔とひと戦さ? | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4856
  10. 「前田利長」利家死後、家康の前田討伐という難局を乗り越える ... https://sengoku-his.com/124
  11. 前田利家はなぜ家康を殺さなかったのか?――五大老五奉行の時代、そして利家の最期のとき https://san-tatsu.jp/articles/271250/
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  14. 関ヶ原合戦直前! 慶長4年の徳川家康暗殺計画の真相とは?【後編 ... https://www.rekishijin.com/2063
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  16. 【今日は何の日?】8月3日「北陸の関ヶ原」前田利長が大聖寺城を攻略 - いいじ金沢 https://iijikanazawa.com/news/contributiondetail.php?cid=9273
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  27. 利長の母まつ、江戸に下る - 古城万華鏡Ⅲ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_2.html
  28. 「おまつ(芳春院)」前田利家の正妻は加賀100万石を存続させた立役者だった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/115
  29. 乱世戦国で武功を立て続けた豪傑・前田利家の妻として「加賀百万石」の栄華を築いた前田利長の母として戦国を生き抜いた賢女【芳春院(まつ)】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/45063
  30. 芳春院消息 - 金沢ミュージアムプラス https://kanazawa-mplus.jp/collection/page-maedatosa315.html
  31. 芳春院(1547年7月25日-1617年8月17日) - 大分県日田市の願正寺のホームページ https://ganshoji.com/publics/index/90/detail=1/b_id=1319/r_id=20899/
  32. 前田利家の正室“まつ” - 見本 https://umenoyaissei.com/maedatoshiienoseishitumatu.html
  33. 芳春院(まつ)書状 | 収蔵資料 - 射水市新湊博物館 https://shinminato-museum.jp/docs/history/802/
  34. 【今日は何の日?】8月9日 浅井畷の戦い、前田利長と丹羽長重が激戦を繰り広げる - いいじ金沢 https://iijikanazawa.com/news/contributiondetail.php?cid=10821