前田家家中掟改訂(1602)
慶長七年、前田利長は家中掟を改訂。父利家死後、徳川圧力と内紛に苦悩し、母芳春院人質下向で危機回避。掟は戦国武士団を近世家臣団へ変革、百万石の礎を築いた。
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慶長七年前田家家中掟改訂の真相:百万石の礎を築いた苦悩の統治改革
序章:百万石の黎明と揺らぐ礎
慶長七年(1602年)、加賀藩前田家において行われた家中掟の改訂は、単なる法制度の更新に留まらない、戦国の終焉と近世大名家の確立という時代の巨大な転換点において、前田家がその存亡を賭して行った一大統治改革であった。この掟改訂の歴史的意義を深く理解するためには、まずその背景にある、父祖の栄光と眼前に迫る危機の狭間で苦悩した二代目当主・前田利長の置かれた状況を、時系列に沿って解き明かす必要がある。
豊臣政権の守護者、前田利家の死
慶長四年(1599年)閏3月3日、豊臣政権の重鎮であり五大老の筆頭格であった前田利家が、大坂の自邸にてその生涯を閉じた 1 。これは単なる一個人の死ではなかった。利家は、豊臣秀吉の「昔なじみの友人」として絶大な信頼を得ており、その死は、徳川家康の独走を抑え、豊臣政権内部の微妙なパワーバランスを維持していた重石そのものが失われたことを意味した 2 。利家は生前、家康が秀吉の定めた法度を破って伊達政宗らと無断で婚姻関係を結んだ際には、これを厳しく咎めることでその野心を牽制する中心的な役割を果たしていた 4 。その利家が世を去ったことで、豊臣政権は急速にその求心力を失い、天下の情勢は大きく揺らぎ始める。
利家は死に際し、嫡男・利長に対して「三年は加州(加賀国)へ下り申し候儀、無用に候(三年間は加賀へ帰国してはならぬ)」という遺言を残した 6 。これは、若き豊臣秀頼の傅役(後見人)という重責を担う利長が、父の政治的地位を継承して大坂に留まり、家康を牽制し続けることを強く期待したものであった。父の死は、利長に巨大な遺産と共に、あまりにも重い責務を負わせることになったのである。
巨大化する徳川家康の影
利家の死を待っていたかのように、徳川家康はその政治的影響力を一気に拡大させる。もはや、その行動を抑止できる者は豊臣政権内には存在しなかった。家康は、秀吉が定めた大名間の私的な同盟や婚姻を禁じる「御掟」を公然と無視し、自らの影響力を盤石なものとしていく 4 。利家の死によって、豊臣政権は事実上、家康主導の体制へと大きく傾斜していった。
父の跡を継ぎ、形式上は五大老の一角に名を連ねた利長であったが、父ほどの政治力も人望もなく、老獪な家康と中央政界で単独で対峙するには、あまりにも若く、経験が不足していた 1 。大坂城にあって秀頼を補佐する日々は、利長にとって栄光の座ではなく、むしろ四面楚歌の孤立した立場であったと言えよう。
家督相続と利長の孤独な決断
慶長四年八月、利長は父の遺言に背き、家康の勧めも受ける形で、本国・金沢への帰国を決断する 1 。この行動は、豊臣家を見捨てて家康に靡いたと見なされ、世間からは「前田の利長は、徳川家康の家来も同然じゃ」と酷評され、前田家古参の家臣たちでさえ「前田の家運もこれまでか」と嘆いたと伝えられている 3 。
しかし、この決断を単なる「弱腰」と断じるのは早計である。むしろこれは、利長なりの極めて冷静な状況分析に基づいた「戦略的撤退」であった可能性が高い。利家という絶対的な支柱を失った以上、もはや大坂で家康の政治工作と渡り合っても、いずれ孤立し失脚させられる危険性が高い。それならば、本国である加賀・越中・能登に深く根を張り、巨大な国力を背景に自家の地盤を固めることこそが、前田家の存続にとって最善の策だと判断したのではないか。中央政権での名目的な影響力を放棄する代わりに、領国経営に全精力を注ぐという「国元第一主義」への転換。それは、父の遺言に背くという苦渋に満ちた決断であり、来るべき徳川の世を見据えた、極めて現実的な選択であった。この決断こそが、後に続く前田家の存亡を賭けた試練の序章となったのである。
第一章:慶長の危機—徳川家康の圧力と前田家の岐路(1599年〜1600年初頭)
利長の金沢帰国は、彼が意図した領国の安定とは真逆の結果をもたらした。中央政界から最大の外様大名である前田家が姿を消したことを好機と捉えた徳川家康は、間髪入れずに次の一手を打つ。それは、武力による威嚇と情報操作を組み合わせた、前田家を完全に屈服させるための周到な策略であった。世に言う「慶長の危機」の勃発である。
「家康暗殺計画」という嫌疑
利長が金沢城に入って間もなく、上方から不穏な風聞が流れ始めた。「利長が加賀に帰ったのは徳川家康討伐を企てるためである」というのである 3 。さらには「利長と淀君(秀頼の母)が不倫関係にある」といった、全く根も葉もない噂までが流布された 3 。これらの風聞は、利長が豊臣家と結託して家康に叛意を抱いているという印象を諸大名に植え付けるための、高度な情報戦であった。
家康はこの風聞を口実とし、利長に謀反の嫌疑ありとして、諸大名を動員した「加賀征伐」を決定する 8 。これは、豊臣恩顧の最大の大名である前田家を武力で屈服させることで、自らの覇権を天下に示威する絶好の機会であった。家康の真の狙いは、前田家を滅ぼすことよりも、完全に自らの支配下に組み込むことにあった。そのために、家康は前田家の内部矛盾を巧みに突き、自壊させる道を選んだのである。
分裂する家中:交戦派と和平派の激突
「加賀征伐」の報は、前田家中に激震を走らせた。徳川との一戦も辞さずと息巻く交戦派と、穏便な解決を模索する和平派に家中は真っ二つに分裂し、激しい議論が日夜繰り広げられた。
交戦派の中心にいたのは、利長の弟である前田利政や、利家以来の宿老である奥村永福といった武断派の面々であった。彼らは、徳川の理不尽な要求に屈することは前田家の末代までの恥辱であるとし、籠城してでも戦うべきだと主張した 10 。一方、和平派の筆頭は、豊臣政権下で吏僚として頭角を現した横山長知であった。彼は、徳川との軍事力、政治力の差は歴然であり、開戦は前田家の滅亡に直結すると冷静に判断し、外交交渉による解決を強く訴えた 10 。
利長自身も苦悩の淵に立たされていた。父・利家が、家康暗殺の企てを黙認していた可能性を示唆する逸話も残っており 11 、家中の反徳川感情は根強いものがあった。しかし、彼は家康の圧倒的な力を誰よりも理解しており、無謀な戦いを挑むことは、領民と家臣を無益な死に追いやるだけだと考えていた 9 。家臣団が分裂し、統一した対応が取れない状況に追い込まれた利長は、まさに絶体絶命の窮地に立たされたのである。
母・芳春院(まつ)の江戸下向
この国家的危機を救ったのは、利長の母・芳春院(まつ)の気丈な決断であった。家康は、前田家の完全な臣従の証として、利長の生母である芳春院を人質として江戸に送るよう要求した。これは、前田家にとって最大の屈辱であり、家中からは強い反対の声が上がった 13 。
しかし、芳春院は利長に対し、「武士は家を立てることが大事。私は老年、覚悟も出来ている。この母を利用しなさい」と諭し、自ら人質となることを受け入れた 13 。慶長五年(1600年)五月、彼女は数名の家臣と共に、江戸へと下向した。この決断により、家康は加賀征伐の兵を収め、前田家は滅亡の危機を寸でのところで回避したのである 11 。
芳春院の江戸での人質生活は、実に14年という長きに及んだ 14 。彼女は江戸から頻繁に書状を送り、故郷の家族を気遣い、時には政治的な情報を伝えるなど、人質でありながら前田家のために尽力し続けた 17 。一滴の血も流すことなく危機は回避されたが、これは前田家が徳川家の支配体制下に完全に組み込まれたことを天下に示す、決定的な出来事となった。家康は、武力ではなく情報と心理を駆使し、前田家最大の政治的カードである芳春院を差し出させるという、最も効果的な形で勝利を収めたのであった。
第二章:関ヶ原、そして巨大化する家臣団の相克(1600年〜1601年)
芳春院を人質に差し出すことで徳川家への恭順の意を示した前田家は、慶長五年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、東軍(徳川方)として参陣することになる。しかし、この天下分け目の戦いは、前田家に栄光をもたらすと同時に、家中に新たな、そしてより深刻な亀裂を生じさせる結果となった。
関ヶ原の戦いと前田家の分裂
東軍に与した利長は、北陸方面軍の主力として、西軍の丹羽長重が籠る大聖寺城を攻略するなど、戦果を挙げた 18 。しかし、その後の進軍は遅々として進まず、関ヶ原の本戦には間に合うことができなかった。
その最大の理由は、弟・前田利政の離反にあった。利政は、西軍の石田三成に妻子を人質に取られていたこと、そしてかねてより抱いていた徳川家康への反発心から、兄・利長の出陣命令に従わず、金沢城に留まり続けたのである 18 。これは事実上、西軍に与したと見なされる行動であった。当主の弟が敵方に与するという異常事態は、出陣中の家臣団に深刻な動揺を与え、利長の指揮権に大きな疑問符を投げかけた。家中が分裂したままでは、全軍を率いて美濃へ進軍することは不可能であった。
百万石への加増と新たな火種
関ヶ原の戦いは東軍の圧勝に終わり、天下の実権は名実ともに徳川家康が掌握した。戦後、利長の東軍への貢献が評価され、西軍に与した利政が領していた能登21万石と、同じく西軍方であった丹羽長重らの旧領である加賀二郡が加増された 18 。これにより、前田家の所領は加賀・越中・能登の三国にまたがる120万石という、他に類を見ない巨大なものとなった 8 。
しかし、この急激な領土拡大は、新たな統治の課題を山積させた。統治機構の整備は追いつかず、そして何よりも、家臣団の構成がさらに複雑化し、内部の対立を激化させる要因となったのである。120万石という栄光は、実態としては前田家の統治能力を超える「重荷」となりつつあった。
深刻化する家臣団の内部対立
前田家の家臣団は、もともと多様な出自を持つ集団の集合体であった。
第一に、利家が尾張荒子城主時代から率いてきた譜代の家臣たち(本座者)。彼らは前田家への忠誠心は極めて高いものの、既得権益意識が強く、排他的な傾向があった。
第二に、利家が加賀・能登に入ってから新たに召し抱えた家臣や、旧国主であった畠山氏などの旧臣たち(新座者)。彼らは在地の実情に明るく実務能力に長けていたが、譜代衆との間には常に緊張関係が存在した 8。
120万石への加増により、さらに多くの新参者が家臣団に加わったことで、これらの派閥間の対立は制御不能なレベルにまで激化した。特に、横山長知に代表されるような、政治交渉や行政手腕で頭角を現した吏僚派と、奥村永福ら旧来の武功を重んじる武断派の対立は深刻を極めた 10 。些細な口論が刃傷沙汰に発展することも日常茶飯事となり、城下は常に不穏な空気に包まれていた 8 。
慶長六年の法制定とその限界
この混乱を収拾すべく、利長は慶長六年(1601年)、家臣間の私闘を厳しく禁じる「喧嘩両成敗」などを盛り込んだ法度を制定した 8 。これは、武力による紛争解決を禁じ、藩主の裁定という公的な手続きに従わせることで、領内の秩序を回復しようとする試みであった。
しかし、この法度だけでは、長年にわたって培われてきた派閥意識や、戦国以来の「自らの力で名誉を守る」という武士の気風を根絶することはできなかった。法制定後も家中の不和は収束せず 8 、徳山則秀のような重臣が出奔する事件も発生するなど 10 、利長の統治は限界に達しつつあった。この構造的な欠陥に対する対症療法ではもはや不十分であり、家臣の意識そのものを変革するような、より根本的で強力な法体系の確立が急務となっていた。これが、翌年の「家中掟改訂」へと繋がる直接的な動機となるのである。
表1:慶長の危機から関ヶ原後までの時系列表
年月 |
前田家の動向 |
徳川家の動向 |
豊臣家・その他の動向 |
慶長4年 閏3月 |
前田利家死去。利長が家督相続、五大老就任。 |
利家の死を好機と捉え、政治工作を活発化。 |
豊臣政権内の均衡が崩れ始める。 |
慶長4年 8月 |
利長、父の遺言に背き金沢へ帰国。 |
利長の帰国を促し、中央政権から引き離す。 |
石田三成ら反家康派が危機感を強める。 |
慶長4年 9月 |
「家康暗殺計画」の嫌疑をかけられる。 |
嫌疑を口実に「加賀征伐」を宣言。諸大名を動員。 |
諸大名が家康に与し、前田家は孤立。 |
慶長5年 5月 |
母・芳春院(まつ)が人質として江戸へ下向。 |
加賀征伐を中止。前田家の臣従を確実なものとする。 |
- |
慶長5年 9月 |
関ヶ原の戦い。利長は東軍として北陸で戦う。弟・利政は西軍に与す。 |
関ヶ原で勝利し、天下の実権を掌握。 |
豊臣家は一大名に転落。 |
慶長5年 戦後 |
利政の領地などを加増され、120万石となる。 |
戦後処理を主導。大名の改易・減封・加増を行う。 |
- |
慶長6年 |
家中の混乱に対し、喧嘩両成敗などの法度を制定。 |
江戸幕府の創設準備を着々と進める。 |
- |
表2:前田家家臣団の主要派閥と人物(慶長七年前後)
派閥分類 |
主要人物 |
出自・背景 |
立場・思想 |
譜代衆(本座者) |
奥村永福、村井長頼 |
尾張荒子以来の家臣。利家と共に各地を転戦。 |
武功を重んじる武断派。新参者の台頭に不満。主君への個人的忠誠を第一とする。 |
吏僚派(新興勢力) |
横山長知 |
豊臣政権下で頭角を現した吏僚。 |
実務能力と政治交渉を重視。徳川家との協調路線を主導。近世的な統治体制を目指す。 |
能登・加賀衆 |
長連龍 |
能登の旧国主・畠山氏の旧臣。半独立的な立場 10 。 |
在地領主としての意識が強い。前田家の支配に必ずしも一枚岩ではない。 |
当主一門 |
前田利政 |
利長の次弟。 |
家康への反発心が強く、豊臣家への恩義を重んじる。西軍参加により改易 18 。 |
第三章:慶長七年「家中掟改訂」—その詳細と狙い(1602年)
慶長六年の法度制定も空しく、家中の混乱は一向に収まる気配を見せなかった。利長は、もはや小手先の改革ではこの危機を乗り越えられないことを痛感していた。そして慶長七年、彼は前田家の未来を賭けた、より抜本的で強力な「家中掟改訂」に踏み切る。この掟は、単なる規則の集合体ではなく、前田家臣団の精神構造そのものを変革し、戦国の武士団を近世の家臣団へと生まれ変わらせることを目指した、壮大な試みであった。
掟改訂の背景と目的
この掟改訂が目指した目的は、大きく二つあった。
第一の目的は、言うまでもなく 内部統制の確立 である。絶え間ない派閥抗争や私闘を根絶し、いかなる出自の家臣であろうとも、当主である前田利長を絶対的な頂点とする指揮命令系統に服従させること。これにより、120万石という巨大な領国を効率的に統治する、近代的で中央集権的な組織を構築することを目指した。
第二の目的は、 外部、すなわち徳川家康に対する示威 であった。前田家は統制が取れておらず、内紛ばかりしている危険な存在である、という印象を払拭する必要があった。厳格な法度によって家中を完全に掌握し、安定した統治を実現していることを示すことで、前田家が徳川幕府の秩序(幕藩体制)に組み込まれるにふさわしい、信頼できる大名家であることを証明しようとしたのである。これは、徳川からのさらなる干渉や改易の口実を与えないための、巧みな政治的パフォーマンスでもあった。
掟の具体的な条文内容とその解釈
この掟改訂の核心を示す条文が、史料の中に残されている。それは、新参者と古参者の関係性について、利長が極めて強い意志をもって語った部分である。
「新たに取り立てた新座者の忠義は本座者を越えない。威勢がいい時には奉公に励むが、具合が悪くなると妬みや裏切りが出る。能力をよく見極め依怙贔屓せず、長く仕えている者を大切にせよ。本座者はたとえ不満があっても火急の際には逃げることなく自らを犠牲にして励む。本能寺の変時に新座者がとった行動を思い出せばわかるだろう。」 21
この一見、古参家臣を優遇するかに見える条文には、利長の絶妙な政治的計算が隠されている。
- 「本座者」(譜代衆)への配慮 : 「長く仕えている者を大切にせよ」「火急の際には逃げることなく自らを犠牲にする」といった言葉は、武功を重んじる奥村永福ら譜代衆の自尊心をくすぐり、彼らの不満を和らげる効果があった。自分たちの忠義が正当に評価されていると感じさせることで、彼らを新しい秩序に取り込もうとしたのである。
- 「新座者」(新参衆)への強烈な牽制 : その一方で、「裏切りが出る」「本能寺の変を思い出せ」という極めて厳しい言葉は、横山長知ら吏僚派や新参者たちに向けられた強烈な牽制である。本能寺の変とは、まさに新参者であった明智光秀が主君・織田信長を裏切った、日本史上最も有名な事件である。これを引き合いに出すことで、利長は「お前たちの能力は認めるが、その忠誠心は常に疑っている。増長は決して許さない」という明確なメッセージを送った。
- 当主権威の絶対化 : そして最も重要なのが、「能力をよく見極め依怙贔屓せず」という一文である。利長は、単に年功序列を重んじるのではなく、最終的な人事権はあくまで当主である自身が、能力と忠誠心の両方を見極めた上で公平に行使することを宣言している。これにより、彼は譜代衆と新参衆のどちらにも与せず、両派閥の上に立つ絶対的な裁定者としての地位を確立しようとした。これは、利長による巧みな「バランス政治」の宣言であった。
戦国武士団から近世家臣団への転換
この掟改訂がもたらした最も大きな変化は、家臣が主君に仕える論理の転換であった。戦国時代において、主従関係は領主個人のカリスマと、合戦における恩賞の分配という、ある種、個人的で情誼的な関係性によって維持されていた。しかし、この掟は、そうした個人的な関係性よりも、「前田家」という組織の法度への服従を絶対的な義務とした。
喧嘩や派閥争いといった、戦国時代には武士個人の意地や名誉としてある程度許容されていた行動は、もはや「家の法度」を破る許されざる「犯罪」として断罪されることになった。これにより、家臣は自らの判断で行動する独立した武士から、藩という巨大な統治機構を動かすための、秩序だった歯車へと変貌を遂げていくことを求められた。これは単なる法律の制定ではなく、家臣団に対する「思想統制」の試みでもあった。利長は、掟を通じて「忠誠とは何か」「家臣としてあるべき姿とは何か」という価値観そのものを家中に刷り込み、戦国的な気風を払拭しようとしたのである。この改革こそが、戦国の終焉と近世大名・加賀藩の確立を象徴する、決定的な一歩であった。
第四章:掟が築いたもの—加賀藩統治体制の確立と利長の遺産
慶長七年の家中掟改訂は、即効性のある特効薬ではなかったかもしれないが、時間をかけて前田家の体質を確実に変えていく、強力な礎となった。利長が苦悩の末に打ち立てたこの法と秩序は、彼の死後、次代の藩主たちによって受け継がれ、幕末まで続く「加賀百万石」の泰平と繁栄の基盤を築き上げていく。
掟改訂後の変化
厳格な掟の施行により、家中に蔓延していた無秩序な状態は徐々に沈静化に向かった。藩主を絶対的な頂点とする指揮命令系統が確立され、家臣団は内向きの派閥抗争から、領国経営という外向きの仕事へとそのエネルギーを向けるようになっていった。もちろん、対立が完全に消滅したわけではないが、紛争解決の手段が私闘から藩主の裁定へと移行したことは、統治の安定化に大きく寄与した。これにより、後の改作法(農政改革)や十村制(地方支配制度)といった、より高度な統治システムの導入が可能となったのである 22 。
利長の隠居と利常への継承
家中統制に一定の目処をつけた利長は、慶長十年(1605年)、家督を異母弟の利常(八郎)に譲り、越中富山城へと隠居した 1 。当時まだ13歳であった利常は、徳川二代将軍・秀忠の娘である珠姫を正室に迎えており、この家督相続は、前田家と徳川将軍家の関係をより一層強固なものにするための、高度な政治的判断であった 23 。
しかし、利長は単に隠居したわけではなかった。彼はその後も藩政の総監として実権を握り続け、若き利常を後見しながら、なおも不安定な家臣団の統制に心血を注いだ 24 。利長が築いた統治の基礎と、彼が後見役として睨みを利かせていたからこそ、若き利常は巨大な家臣団をまとめ、スムーズに藩主としての地位を確立することができたのである。利長の苦闘は、次代への円滑なバトンタッチという形で結実した。
高岡への移住と最期
隠居後の利長は、富山城の火災を機に、新たに高岡城を築城し、城下町の整備に情熱を注いだ 8 。これは、彼の領国経営者としての優れた手腕を示すものであり、「高岡の祖」として今なお敬われている所以である。しかし、長年の心労が祟ったのか、この頃から利長は病気がちとなり、慶長十九年(1614年)、波乱に満ちた生涯を53歳で閉じた 1 。その生涯は、父・利家の偉大な遺産を、時代の荒波の中で守り抜き、次代へと引き継ぐための、まさに苦闘の連続であった 25 。
加賀百万石の礎として
利長の歴史的評価は、偉大な創業者である父・利家と、泰平の世を築いた名君である三代・利常の間に挟まれ、しばしば過小評価されがちである 9 。家康に屈服し、家中の統制に苦しんだ地味な当主、というイメージが先行することも少なくない。
しかし、本報告書で詳述したように、彼の時代は戦国の価値観が崩壊し、近世の秩序が形成される、日本史上最も困難な転換期であった。彼は、父から受け継いだ属人的な支配に依存する「戦国武士団」を、法と秩序によって統治される「近世大名家」へと脱皮させるという、最も困難で、しかし最も重要な役割を担った。慶長七年の家中掟改訂は、そのための最大の改革であった。
利長の苦闘がなければ、利常の治世も、後に「百万石文化」と称される加賀藩の文化的・経済的繁栄もなかったであろう 23 。武力ではなく、法と秩序によって家を守るという、その後の加賀藩の基本方針は、まさにこの掟改訂にその原点を見出すことができる。前田利長は、偉大な創業者と名君の間に埋もれた「過渡期の統治者」ではなく、時代の激変の中で家を存続させ、次代の成功への確かな橋を架けた「偉大な調整者」として、再評価されるべきなのである。
引用文献
- 高岡の祖・前田利長略年譜 https://www.e-tmm.info/tosinaga.htm
- 前田利家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E5%AE%B6
- 古城万華鏡Ⅲ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_1.html
- 「前田利家」加賀百万石の祖は意外にも武勇だけの武将ではなかった! - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/498
- 前田利家|国史大辞典・世界大百科事典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=1616
- 学芸ノート 【第11回】 加賀藩主の数え方 - 高岡市立博物館 https://www.e-tmm.info/gakugei-11.htm
- 御掟 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%8E%9F
- 前田利長 日本史辞典/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/maeda-toshinaga/
- 豊臣政権ではなく家康を選んだ前田利長の「決断」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28146
- 前田利長 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%88%A9%E9%95%B7
- 利長と関が原合戦 - 古城万華鏡Ⅲ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_3.html
- 前田利長(まえだ としなが) 拙者の履歴書 Vol.83~加賀百万石、父の志を継ぎて - note https://note.com/digitaljokers/n/nbc72b16f6949
- 利長の母まつ、江戸に下る - 古城万華鏡Ⅲ https://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_2.html
- 乱世戦国で武功を立て続けた豪傑・前田利家の妻として「加賀百万石」の栄華を築いた前田利長の母として戦国を生き抜いた賢女【芳春院(まつ)】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/45063
- 前田利常】徳川の罠を華麗に避け続けた前田家の人たち【石川歴史解説旅①】 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=6QwdG_-MsUE
- 芳春院自筆書状 | 主な収蔵品 | 前田土佐守家資料館 - 金沢文化振興財団 https://www.kanazawa-museum.jp/maedatosa/collection/collection05.html
- 芳春院(まつ)書状 | 収蔵資料 - 射水市新湊博物館 https://shinminato-museum.jp/docs/history/802/
- 裏切りの果てに…「関ヶ原の戦い」で寝返った戦国武将たちのその後【東軍編】:2ページ目 https://mag.japaaan.com/archives/227749/2
- 高岡の開祖 前田利長 https://www.e-tmm.info/hn-2.pdf
- 前田利家 戦国がたり!徳川家康殿との関係性と戦国時代について語る! https://san-tatsu.jp/articles/218343/
- 第三章 家臣団の成立 - 近世加賀藩と富山藩について - Seesaa http://kinseikagatoyama.seesaa.net/article/364358356.html
- 用語解説 https://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1858_hietsu_jishin/pdf/31_yougo.pdf
- 加賀前田藩の歴史と百万石文化 http://v-rise.world.coocan.jp/rekisan/htdocs/infoseek090519/hokuriku/kaga/kagahyakumangoku.htm
- 年未詳(1610~13年カ)七月二十九日付 前田利長書状(三ゑもん宛) - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/584083
- 前田利長の決断と苦悩 徳川家康の魔の手に翻弄された加賀百万石 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Lr8FhTQiRIU