最終更新日 2025-10-08

加納城築城(1601)

慶長6年、家康は信長の岐阜城を廃し、対西国の要衝として加納城の築城を命じた。天下普請で築かれ、交通を掌握し徳川支配を固める拠点となった。
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泰平の礎:徳川家康の深謀と加納城築城 ― 慶長六年の戦略的転換

序章:天下分け目の後、美濃に新たな礎を

慶長5年(1600年)9月15日、美濃国関ヶ原における一天地六の会戦は、徳川家康の率いる東軍の圧倒的勝利に終わった。この勝利により、家康は事実上の天下人としての地位を確立したが、天下が完全に平定されたわけではなかった。豊臣家は依然として巨城・大坂城に拠点を構え、西国には豊臣恩顧の大名が数多く存在していた。戦乱の火種は未だ燻り続けており、日本全土は依然として予断を許さない軍事的緊張の中にあったのである 1

この天下の帰趨を占う重要な局面において、美濃国は比類なき戦略的価値を有していた。美濃は、徳川家の本拠地である関東と、京・大坂、そして西国とを結ぶ結節点に位置する。中山道と東海道という二大動脈が近接するこの地は、まさに日本の心臓部ともいえる交通の要衝であった 1 。この地を完全に掌握し、徳川の統制下に置くことは、新たな時代における全国支配体制を盤石にする上で不可欠の課題であった。

本報告書は、慶長6年(1601年)に開始された加納城の築城という事象を、単なる一つの城の建設として捉えるのではなく、徳川家康による新たな国家構想の象徴であり、戦国の世の終焉と近世の幕開けを告げる一大事業として多角的に分析するものである。なぜ、信長の威光を宿す岐阜城は廃されねばならなかったのか。なぜ、加納の地が新たな拠点として選ばれたのか。そして、その築城がいかにして行われ、新たな時代に何をもたらしたのか。その全貌を、時系列に沿って詳細に解き明かすことを目的とする。

第一章:岐阜城の落日 ― 時代の終焉と新時代の胎動

1-1. 前哨戦の激突:慶長五年八月、岐阜城の戦い

関ヶ原の本戦に先立つこと約一ヶ月、美濃では天下の趨勢を左右する重要な前哨戦が繰り広げられていた。その中心にあったのが、織田信長の嫡孫であり、美濃岐阜13万石の領主であった織田秀信である 6 。豊臣政権下で厚遇された秀信は、石田三成の挙兵に応じ西軍に与することを決断。信長以来の名城である岐阜城を拠点に、東軍を迎え撃つ構えを見せた。

これに対し、東軍の先鋒として進軍してきたのは、池田輝政、福島正則といった歴戦の猛将たちであった。秀信は、重臣を米野(現在の岐阜県羽島市)などに派遣して迎撃を試みるも、圧倒的な兵力差の前に防衛線は次々と突破される 8 。慶長5年(1600年)8月22日夜、岐阜城に追い詰められた秀信は籠城を決意し、諸将に持ち場を固く守るよう命じた 9

しかし、かつて難攻不落を謳われた名城も、時代の奔流には抗えなかった。池田・福島軍の猛攻の前に、岐阜城はわずか一日、8月23日には陥落してしまう 9 。この電撃的な落城は、西軍の総大将であった石田三成の戦略にも大きな誤算を生じさせた 12 。落城に際し、秀信の家臣38名が城内で切腹して果てた。その凄惨な最期を物語るかのように、彼らの血で染まった床板は、後に織田家の菩提寺である崇福寺の本堂天井に張られ、「血天井」として今なお戦いの悲劇を伝えている 6 。福島正則らのとりなしにより一命を救われた秀信は、剃髪して高野山へ送られ、ここに信長の嫡流はその歴史的役割を終えたのである 9

1-2. 難攻不落の城、その廃城の理由

岐阜城(旧名:稲葉山城)は、斎藤道三が国盗りの拠点とし、後に織田信長が「天下布武」の第一歩を印した、金華山山頂にそびえる名城であった 13 。その堅固さは広く知られていたが、一方で時代が求める城の機能とは乖離しつつあった。山頂という立地は、防衛には有利である反面、城郭として利用できるスペースが極めて狭隘であり、大規模な軍隊の駐屯や兵站の維持には不向きであった 7 。また、岩山であるため水利に乏しく、長期の籠城戦には致命的な弱点を抱えていた 14

さらに、慶長5年の前哨戦において、城は激しい攻撃を受け、火災により甚大な被害を被っていた。発掘調査では、この時の火災で焼けた瓦や壁土、赤く変色した岩盤などが発見されており、城の主要な機能が物理的に破壊されていたことが裏付けられている 15

しかし、徳川家康が岐阜城の廃城を決定した理由は、単に物理的な損壊や機能的な限界だけではなかった。それは、より深く、複合的な戦略思想に基づいていた。第一に、 軍事思想の転換 である。山頂に籠り敵を迎え撃つという旧来の防衛思想は、大規模な軍勢を平地で運用し、迅速に展開させる近世的な集団戦術の前にはもはや有効ではないことが、岐阜城の僅か一日での落城によって証明された。第二に、 政治的象徴性の払拭 である。岐阜城は、良くも悪くも「織田信長の時代」の象徴であった 7 。家康がこれから築こうとする新たな泰平の世において、旧時代の象徴をそのまま残すことは、政治的なメッセージとして適切ではなかった。そして第三に、 経済・交通政策の優先 である。山城では、その麓に形成される城下町の発展に自ずと限界がある。これからの時代は、軍事力だけでなく、経済力と物流の掌握こそが国家統治の要であると家康は考えていた。

岐阜城の廃城は、一つの城の終わりであると同時に、一つの時代の終焉を意味していた。それは、戦国の価値観を破壊し、徳川による新しい価値観、すなわち平地における政治・経済・交通が一体となった近世的支配体制を美濃の地に宣言するための、極めて意図的な政治的決断だったのである。

【表1:岐阜城と加納城の戦略思想比較】

比較項目

岐阜城

加納城

立地

金華山山頂(標高329m)

平地(濃尾平野)

城郭構造

山城

平城

主たる機能

軍事防衛拠点

政治・経済・交通の支配拠点

交通路との関係

主要街道から離隔

中山道に直結

象徴する時代

戦国時代(斎藤・織田)

江戸時代(徳川)

最後の城主

織田秀信

(幕末まで存続)

最終的な運命

廃城(慶長6年)

明治維新まで存続

第二章:徳川家康の深謀 ― なぜ加納の地が選ばれたのか

2-1. 家康、自ら地を択ぶ

岐阜城の廃城を決定した家康は、それに代わる新たな拠点として、加納の地を選定した。特筆すべきは、その選定が家康自身の臨検によって行われたことである。『加納城下絵図』の記録によれば、慶長5年(1600年)11月、関ヶ原の戦後処理を終え江戸へ帰還する途上、家康自らがこの地を検分し、新城の建設地として定めたと伝えられている 4 。全国に数多ある徳川系の城郭の中でも、家康自身が築城を直接命じた例は極めて少なく、この一事をもってしても、美濃における新拠点の建設がいかに重要視されていたかが窺える 5

家康が選んだ場所は、全くの更地ではなかった。そこは、室町時代の文安2年(1445年)に美濃国守護代であった斎藤利永が築城し、その後廃城となっていた中世加納城の跡地であった 2 。これは、既存の堀や土塁の痕跡を利用し、この地が持つ地政学的な利点を最大限に活用しようとする、家康の現実的かつ合理的な判断があったことを示唆している。

2-2. 地政学の要衝「加納」

家康が加納の地を選んだ理由は、複数の戦略的意図が交差する、まさに深謀遠慮の結晶であった。

第一の理由は、 対西国・対豊臣の軍事的最前線 としての役割である。関ヶ原で勝利したとはいえ、大坂城には豊臣秀頼が健在であり、西国の外様大名の中には依然として徳川への反抗の機会を窺う者が少なくなかった。加納は、彼らの蜂起や東上を警戒し、これを迎え撃つための前線基地として、絶好の位置にあった 1

第二の理由は、 交通の掌握 である。加納は、江戸と京を結ぶ大動脈・中山道が貫通する地であった 23 。この街道を完全に支配下に置くことは、有事の際の迅速な軍隊移動を可能にするだけでなく、平時においても人、物資、そして情報の流通をコントロールすることを意味した。この意図は、後に建設される加納城の大手門が、中山道に直接面して設計されたことからも明らかである 4

そして第三の理由が、 平城の優位性 である。岐阜城のような山城を捨て、あえて平城を選択したことには、時代の転換を象徴する明確な意図があった。平城は、広大な敷地を利用して大規模な軍隊の集結や展開が容易である。それ以上に重要なのは、城と一体化した計画的な城下町の建設が可能となり、地域の政治・経済の中心地として発展させやすいという点である 4 。これは、軍事力による「点」の支配から、統治機構と経済活動を一体化させた「面」の支配へと移行しようとする、家康の近世的な国家統治思想の現れであった 7

2-3. 自然地形の活用

加納の地は、人工的な防御施設を構築する上で、自然の恵みも受けていた。城地の東側には荒田川、北側には清水川が流れており、これらを天然の外堀として活用することができた 21 。さらに西側には新たに長刀堀(なぎなたぼり)と呼ばれる堀を掘削することで、四方を川と堀で囲まれた、まさに「水に浮かぶ城」を現出させることが可能だったのである 21

家康の城選びは、単一の城の堅固さだけを求める戦国的な発想とは一線を画していた。加納城は、単独で完結する要塞としてではなく、より広域な防衛ネットワークの一部として構想されていた。西の彦根城、東の名古屋城、そして大御所家康の駿府城、将軍の江戸城へと連なる「対大坂防衛ライン」という巨大なシステムの中で、加納城は重要な「中継拠点」としての役割を担っていた。一部で「凡城(平凡な城)」と評されることがあるのは 4 、この役割に起因する。万一、豊臣方が攻勢に出て彦根城が破られた場合、徳川軍は加納城で玉砕覚悟の徹底抗戦をするのではなく、主力を名古屋城まで後退させて戦力を再結集し、万全の態勢で反撃に転じるという戦略が描かれていた。したがって、加納城に求められたのは、突破不可能な堅固さではなく、兵力の集結と移動を円滑に行うための機能性と柔軟性であった。この「凡庸さ」とも見える設計は、欠陥ではなく、国土全体を俯瞰する国家的戦略の中で、システム全体の最適化を優先した、意図的な選択だったのである。

第三章:天下普請の発令 ― 加納城築城のリアルタイム・クロニクル(1601-1603)

徳川家康による加納城築城の決定は、関ヶ原の戦後処理がまだ生々しい中で、驚くべき速度で実行に移された。そのプロセスは、新たな支配者の権威と、それに服従する諸大名の姿を天下に示す壮大な国家事業であった。

【表2:加納城築城 年表(1600-1603)】

年月

主要な出来事

典拠

慶長5年(1600)8月

岐阜城が落城。織田秀信は降伏。

11

慶長5年(1600)9月

関ヶ原の戦いで東軍勝利。奥平信昌が京都所司代に就任。

27

慶長5年(1600)11月

徳川家康、帰途に加納の地を検分し、新城の築城を決定。

5

慶長6年(1601)2月

奥平信昌、美濃加納10万石の領主として封じられる。

27

慶長6年(1601)3月

家康が伏見城で政務を開始。膳所城と共に加納城の天下普請が発令される。

2

慶長7年(1602)

築城工事が本格化。7月1日に着工したとの記録もある。

24

慶長7年(1602)9月

本丸・二の丸が概ね完成し、城主・奥平信昌が入城。

24

慶長8年(1603)

城郭の全体が完成。

29

3-1. 天下普請という名の国家事業

加納城の築城は、「天下普請」という方式で進められた。これは、江戸幕府が全国の諸大名に対し、その石高に応じて人員や資材の提供を命じて行わせる大規模な土木工事である 3 。加納城は、家康による天下普請の最初期における重要な事例の一つであった 2

天下普請の目的は、単に城やインフラを整備することに留まらなかった。それには、二つの高度な政治的狙いが込められていた。第一に、 幕府の絶対的な権威を全国に示す ことである。諸大名を動員して巨大な建造物を築き上げることで、徳川の支配が名実ともに全国に及んだことを可視化する狙いがあった 31 。第二に、 諸大名、特に豊臣恩顧の西国大名の財政を圧迫し、その力を削ぐ ことである。普請にかかる莫大な費用を大名たちに負担させることで、彼らが軍備を蓄え、謀反を企てる余力を奪うという巧みな戦略であった 32 。加納城の普請には、主に北陸・東山の諸大名が動員されたと記録されている 5

3-2. プロジェクトチーム:普請奉行と助役大名

この国家プロジェクトの総監督である普請奉行には、徳川四天王の一人に数えられる猛将・本多忠勝が任命された 22 。忠勝は、生涯57度の合戦でかすり傷一つ負わなかったという武勇伝で知られるが、同時に桑名城や大多喜城の築城・城下町整備を手がけるなど、優れた行政手腕と築城術も兼ね備えた人物であった 34

忠勝の指揮の下、助役大名として動員された近隣の諸大名が、それぞれの担当区域の工事を分担して進めた。彼らにとってこの普請への参加は、多大な負担であると同時に、徳川への恭順と忠誠を具体的な形で示す絶好の機会でもあった。

3-3. 資材の再利用と工期短縮

築城工事は、驚くべき効率と速度で進められた。その鍵となったのが、廃城となった岐阜城の徹底的な解体と資材の再利用である。岐阜城の天守や櫓、門、さらには石垣に至るまでが解体され、加納の地へと運ばれた 2 。また、近隣にあった中世の城館・革手城からも土砂などが運び込まれたという 24 。これにより、新たな資材を調達するための時間とコストが大幅に削減され、関ヶ原の戦いからわずか2年という短期間での主要部分の完成が可能となったのである。

この一連の築城プロセスは、単なる土木工事以上の意味を持っていた。それは、旧体制の解体と新体制への忠誠表明を同時に行わせる、一種の**「服従儀礼」**であった。助役大名たちは、自らの費用と人夫を投じて、旧時代の象徴である岐阜城をその手で解体し、その資材を用いて徳川の新たな支配の拠点である加納城を建設するという行為を強いられた。この作業は、「我々は織田・豊臣の時代を過去のものとし、徳川による新たな泰平の世の礎を築くことに、身をもって貢献する」という意思表示を強制する儀式に他ならなかった。築城の槌音は、徳川による新たな秩序へ諸大名が精神的にも物理的にも組み込まれていく音だったのである。

第四章:近世城郭の姿 ― 加納城の構造と戦略的価値

天下普請によって築かれた加納城は、戦国時代の山城とは一線を画す、近世平城としての特徴を随所に備えていた。その縄張(設計)には、徳川家康自身の思想が色濃く反映されていると伝えられる 2

4-1. 縄張と全体の構造

加納城は、南北に約550m、東西に約400mの範囲を二重の堀で囲んだ、南北に細長い梯郭式の平城であった 17 。城の主要部分は、中心に本丸を置き、その東に二の丸、北に厩曲輪と三の丸、南に大藪曲輪を配置する構成となっていた 3

特に注目すべきは本丸の構造である。方形を基本としながら、東側の二の丸に面して突出した外枡形(そとますがた)を備えている。この形式は、初期の徳川系城郭に見られる特徴的なもので、「加納城型」とも称されている 24 。これは、城門への攻撃を側面から防御するための高度な設計であり、実戦をくぐり抜けてきた徳川の築城術の精華を示すものであった。

4-2. 水と石垣の防御システム

加納城の防御は、周囲を巡る水堀と堅固な石垣によって担われていた。前述の通り、外堀は荒田川や清水川といった自然の河川を巧みに利用し、内堀は本丸を厳重に取り囲んでいた 24 。近年の発掘調査では、本丸北側の内堀から、戦国期に多用された畝状の空堀である「障子堀」の遺構が発見されている 24 。これは、加納城が最新の築城技術を取り入れつつも、実戦的な伝統技術を継承していたことを示している。

石垣には、この地域で産出されるチャートと呼ばれる硬質な堆積岩が用いられた 29 。現在、城跡は加納公園として整備されているが、本丸跡や隣接する岐阜地方気象台(旧二の丸跡)の敷地内には、今も往時の石垣の一部が残り、城の輪郭を現代に伝えている 4

4-3. 天守なき城と「御三階櫓」の謎

近世城郭の象徴ともいえる天守であるが、加納城では本丸の北西隅に天守台が築かれたものの、最後まで天守そのものが建てられることはなかった 24 。これは、城の性格を考える上で非常に重要な点である。

天守の代用とされたのは、二の丸の北東隅に建てられた「御三階櫓」であった 2 。この櫓は、廃城となった岐阜城の天守を移築したものであるという伝承が根強く残っている 3 。実際に残された絵図面を分析すると、櫓の東西面と南北面とで柱の間隔が異なっているなど、既存の建物を改変して再利用した痕跡が見られ、この伝承を補強する材料となっている 24 。ただし、岐阜城天守は望楼型(下層の上に望楼を載せた形式)であったのに対し、御三階櫓は層塔型(各階を規則的に積み上げた形式)であったとされ、単純な移築ではなく、大規模な改築を伴う転用であった可能性が高い 41

この加納城の象徴であった御三階櫓は、築城から約125年後の享保13年(1728年)、城下町で発生した大火が城内に延焼した際に惜しくも焼失。その後、再建されることはなく、加納城は幕末まで天守に類する高層建築を持たない城として存続した 17

本丸という最も格式の高い場所に天守を建てず、政務の中心である二の丸に、旧時代の象徴を「格下げ」して転用した御三階櫓を置いたこと。これは、家康の新しい城郭思想、すなわち権威のあり方の転換を物語っている。もはや支配者の権威は、天守の高さや威容といった視覚的な**「見せる権威」 によって示されるものではない。二の丸に置かれた御殿や役所で行われる統治や行政といった、実務的な 「機能する権威」**こそが、新たな時代の権力の源泉であるべきだという思想の表明であった。岐阜城天守の移築伝承は、旧時代の権威を解体し、新時代の統治システムの一部として再定義した、象徴的な出来事として解釈することができる。

第五章:初代城主・奥平信昌 ― 徳川の信頼を背負う将

この徳川の新たな国家構想を体現する加納城の初代城主として白羽の矢が立てられたのは、徳川家康が最も信頼を寄せる譜代の将の一人、奥平信昌であった。

5-1. 歴戦の勇将、家康の婿

奥平信昌は、その生涯を通じて徳川家への忠誠を貫いた武将である。その名を天下に轟かせたのは、天正3年(1575年)の長篠の戦いであった。当時、長篠城主であった信昌は、武田勝頼率いる1万5千の大軍に城を包囲される絶体絶命の危機に陥る。しかし、寡兵ながら巧みな采配で城を堅守し、織田・徳川連合軍の到着まで持ちこたえ、歴史的な大勝利の礎を築いた 2

この功績を高く評価した織田信長は、自らの名から「信」の一字を与え、家康は長女である亀姫を信昌に嫁がせた 27 。これにより、信昌は単なる有力家臣という立場を超え、徳川宗家と血縁で結ばれる「家康の婿」という特別な地位を得ることになった。その後も小牧・長久手の戦いや小田原征伐で武功を重ね、関ヶ原の戦いの直後には、京の治安維持と朝廷との交渉を担う初代京都所司代という重責を任されるなど、家康からの信頼は絶大なものであった 2

5-2. 10万石の厚遇とその意味

慶長6年(1601年)、信昌は美濃加納に10万石という、譜代大名としては破格の所領を与えられて入封した 4 。この石高は、加納という土地が持つ軍事的・政治的重要性を示すと同時に、この重要拠点を託された初代城主・奥平信昌に対する家康の並々ならぬ期待の大きさを物語っている。家康は、最も信頼できる身内同然の将に、対西国の最前線を委ねたのである。

5-3. 亀姫の存在

信昌の正室である亀姫は、家康の長女であり、その母・築山殿に似て気性の激しい女性であったと伝えられている 29 。彼女の存在は、奥平家と徳川宗家とを繋ぐ強力なパイプとして機能した一方で、その性格が藩政に何らかの影響を与えた可能性も逸話として残されている 1

奥平家は3代で嗣子がなく断絶となるが、加納藩はその後も幕府にとっての重要拠点であり続けた。大久保氏、戸田(松平)氏、安藤氏、そして永井氏と、藩主家は変遷するが、そのすべてが徳川家への忠誠厚い譜代大名であった。これは、加納城に込められた家康の戦略的意図が、江戸幕府の二百数十年にわたる治世を通じて、一貫して継承されていったことの証左に他ならない。

【表3:加納藩 主な歴代藩主家】

藩主家

期間(西暦)

石高(変遷)

分類

奥平家

1601年 - 1632年

10万石

譜代

大久保家

1632年 - 1639年

5万石

譜代

戸田(松平)家

1639年 - 1711年

7万石

譜代

安藤家

1711年 - 1756年

6.5万石 → 5万石

譜代

永井家

1756年 - 1871年

3.2万石

譜代

第六章:城下町の誕生と繁栄 ― 中山道の要衝として

加納城の築城は、単に軍事拠点を建設するに留まらず、新たな都市を創造する壮大なプロジェクトであった。その核心にあったのは、城と町を一体化させ、交通と経済のハブ機能を組み込むという先進的な都市計画思想である。

6-1. 城と町の一体化計画

加納城の築城工事と並行して、その周辺では計画的な城下町の整備、すなわち「町割り」が進められた 47 。この都市計画における最大の特色は、従来、加納の南方を経由していた中山道のルートを大胆に変更し、新たに建設される城下町の中心部を貫通させたことであった 5

この決断により、加納は単なる加納藩の城下町であるだけでなく、中山道六十九次の中でも有数の規模を誇る宿場町「加納宿」としての機能をも併せ持つことになった 1 。これは、軍事・政治機能と交通・経済機能を意図的に融合させた、当時としては極めて先進的な「ハイブリッド都市計画」であった。この設計思想の背景には、徳川の天下が軍事力のみによって支えられるのではなく、全国の物流と経済を掌握することによって盤石になるという、家康の深い洞察があった。城を単なる防衛施設ではなく、交通と経済をコントロールするための「ハブ」として捉えるこの思想は、戦国時代の城郭都市とは一線を画す、近世的な都市経営の幕開けを告げるものであった。

6-2. 宿場町・加納宿の賑わい

新たな都市計画に基づき、城の北側と西側には武家屋敷と町人町が整然と配置された。そして、町の中心を東西に貫く中山道沿いには、大名が宿泊する本陣や脇本陣、公用の荷物を扱う問屋場、そして数多くの旅籠や商店が軒を連ねた 5

加納宿は、美濃国における最大規模の宿場として、大いに繁栄した。幕府への献上品であった長良川の鮎鮨をはじめ、多くの人、馬、そして物資がこの宿場を絶えず行き交い、活気に満ち溢れていたと伝えられる 1 。城主は、領内を統治するだけでなく、日本の大動脈である中山道の往来を日常的に監視・管理下に置くことができ、宿場町の経済活動はそのまま藩の財政を潤すことになった。

6-3. 藩政が育んだ産業の萌芽

城下町の安定と経済的な発展は、新たな地場産業を生み出す土壌となった。特に、江戸時代中期に藩主となった永井氏の治世において、下級武士たちの生計を助けるための内職として和傘づくりが奨励されたことは、その後の加納の歴史に大きな影響を与えた 50

この地域が、傘の材料となる良質な竹や和紙、えごま油などの産地に近かったことも幸いし、加納の和傘産業は急速に発展。やがて藩の専売品として保護され、江戸や大坂の市場へも出荷されるようになり、全国的な名声を得るに至った 50 。これは、加納城築城という慶長年間の政治的・軍事的決断が、数世紀にわたる地域の経済的基盤を形成し、文化を育むきっかけとなったことを示す好例である。

終章:歴史的意義と後世への遺産

慶長6年(1601年)に始まった加納城の築城は、日本の歴史における一つの大きな転換点を象徴する事象であった。それは、戦国の世の終焉と、徳川による二百数十年の泰平の世、すなわち近世の黎明を告げる号砲であった。

加納城の建設は、まず、信長の威光を宿す岐阜城という戦国時代の象徴を意図的に過去のものとし、平地に政治・経済・交通の機能を統合した新たな拠点を築くという、明確な時代の刷新宣言であった。山城から平城へという城郭構造の転換は、支配のあり方が、防衛から統治へと移行したことを物語っている。

また、その築城プロセスは、徳川支配体制の確立におけるモデルケースとなった。天下普請によって諸大名に新時代の建設を担わせることでその権威を誇示し、最も信頼できる譜代大名を交通の要衝に配置し、物流と経済の動脈を掌握する。この一連の手法は、その後の徳川幕府による盤石な全国支配体制の雛形となったのである。

現代において、加納城の天守や櫓といった建物は失われた。しかし、その遺産は決して消え去ってはいない。本丸跡は加納公園として市民の憩いの場となり、随所に残る石垣や堀跡が往時の威容を静かに物語っている 24 。「大手町」「西丸町」「奥平町」といった地名は、城と城下町の記憶を今に刻み込んでいる 26 。そして、近年の継続的な発掘調査によって、障子堀の発見など、これまで知られていなかった城の実像が次々と明らかになりつつある 17

何よりも、加納城の築城と共に始まった都市計画の骨格は、400年以上の時を経て、現代の岐阜市南部の街並みにまで脈々と受け継がれている。徳川家康が描いた泰平の世への深謀遠慮は、歴史の遺構としてだけでなく、今なお生き続ける都市の記憶として、我々の前に存在しているのである。

引用文献

  1. 亀姫ゆかりの加納城と城下町の面影残る中山道 https://www.gifucvb.or.jp/cmsdesigner/data/entry/kankou/kankou.00025.00000003.pdf
  2. 加納城>"家康”のでき事と所縁ある”お城”-自領(東)への備えとして天下普請で築かせた(25) https://ameblo.jp/highhillhide/entry-12839198620.html
  3. 加納城跡|家康が関ケ原合戦後に天下普請で築いた岐阜城に替わる城|岐阜県岐阜市 https://delight-net.biz/archives/5575
  4. 凡城であることに価値がある加納城、大人の城歩きを楽しみたい人にすすめる「もう一つの岐阜城」 https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/89068
  5. KANOU no MA CHI book - 岐阜加納ロータリークラブ https://gifukanoh.com/wp-content/themes/kanohrc2018/pdf/kanoh-no-machi-2021.pdf
  6. 織田秀信(三法師) /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/history/history-important-word/oda-hidenobu/
  7. 織田信長が去った後も織田家の本城だった岐阜城で考える「山城」が廃れた本当の理由 - JBpress https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/80568
  8. 関ヶ原前哨戦「岐阜城の戦い」!信長の嫡孫・織田秀信立て籠もる激戦のあと https://favoriteslibrary-castletour.com/gifu-gifujo-sofukuji/
  9. 岐阜城の戦い ~織田秀信の関ヶ原2~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/gifu.html
  10. 米野の戦い ~織田秀信の関ヶ原1~ - M-NETWORK http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/komeno.html
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  23. 岐阜市景観計画を変更しました https://www.city.gifu.lg.jp/info/machizukuri/1007948/1007950/1007956.html
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  27. 奥平信昌 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/jin/OkudairaNobumasa.html
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  41. 岐阜 加納城 御三階櫓 - 『総帥の自画自賛!』 https://facet.blog.jp/archives/52175544.html
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  43. 加納城内の建物 - 公益財団法人 岐阜市教育文化振興事業団 https://gikyobun.or.jp/maibun/file/12KN_Panel.pdf
  44. 奥平信昌~武田軍の猛攻に屈せず長篠城を死守 - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/4920
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  48. 中山道を歩く 第28回 加納宿~美江寺宿2 - FC2 http://himalchuli7893m2.web.fc2.com/nakasendo28-2.html
  49. 亀姫ゆかりの城下町 加納宿をめぐる https://s65cf943f21be8518.jimcontent.com/download/version/1678265441/module/16469030624/name/area09.pdf
  50. 和傘の種類 - 岐阜市 https://www.city.gifu.lg.jp/_res/projects/default_project/_page_/001/029/290/1029290.pdf
  51. 和傘の最大の生産地・岐阜市 | June 2023 | Highlighting Japan https://www.gov-online.go.jp/eng/publicity/book/hlj/html/202306/202306_03_jp.html
  52. 岐阜和傘の歴史と技術のアーカイブ 〜岐阜市文化資源デジタルアーカイブの構築〜 https://digitalarchiveproject.jp/wp-content/uploads/2023/06/66f95f712488a653b0731a0a437253a9.pdf
  53. 傘の歴史【 江戸時代の「かさ」に関する話 】 洋傘タイムズ 雨傘 日傘 コラム 出版 https://www.kasaya.com/times/014.htm