最終更新日 2025-09-11

加賀一向一揆蜂起(1488)

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長享の一揆(1488年)全史:守護・富樫政親の終焉と「百姓の持ちたる国」の誕生

序章:戦国時代の扉を開いた一揆

1488年(長享2年)、加賀国(現在の石川県)において、一向宗(浄土真宗本願寺派)の門徒たちが守護大名・富樫政親を攻め滅ぼすという、日本史上未曾有の事変が発生した。これは「加賀一向一揆」または「長享の一揆」として知られ、単なる一地方の反乱に留まらず、室町幕府が築き上げた守護領国制を根底から覆し、実力主義が支配する戦国時代の到来を全国に告げる画期的な出来事であった。

本報告書は、この1488年の一揆蜂起という一点に焦点を絞り、その背景にある複雑な政治・宗教情勢から、蜂起、そして守護・富樫政親が自害に至るまでの過程を、可能な限り詳細な時系列に沿って再現することを目的とする。さらに、政親の死後に誕生した「百姓の持ちたる国」と呼ばれる統治体制の実像と、この事件が戦国時代全体に与えた歴史的意義について深く考察する。この一揆は、民衆の力が既存の権威を打倒しうることを証明した、下剋上時代の象徴的事件なのである 1

第一章:動乱の序曲 ー 一揆蜂起に至る加賀国の情勢

長享の一揆は、突発的に発生したわけではない。その土壌は、応仁の乱以降の数十年にわたる中央権力の弱体化、加賀国内の守護家の内紛、そして新興宗教勢力の爆発的な拡大という三つの要素が複雑に絡み合う中で、時間をかけて醸成されていった。

1.1. 応仁の乱の遺産:中央権力の失墜と地方の自立化

1467年から1477年まで11年間にわたって続いた応仁の乱は、京都を焦土に変え、室町幕府の権威を決定的に失墜させた 2 。将軍家の後継者問題と有力守護大名である細川氏・山名氏の対立に端を発したこの大乱は、全国の守護大名を巻き込み、幕府の統治能力を麻痺させた。乱が終結しても、将軍の権威は地に落ち、もはや地方の動乱を抑える力は残されていなかった 3

室町時代の守護大名の権威は、あくまで幕府からの任命という正当性に依拠していた 4 。そのため、幕府権威の失墜は、すなわち守護大名の権威の失墜に直結した。この権力の真空状態を突いて、守護の家臣である守護代や、その土地の有力者である国人衆が実力を蓄え、時には守護を凌駕する存在へと成長していく「下剋上」の風潮が全国的に蔓延した 1 。加賀一向一揆は、こうした中央集権体制の崩壊というマクロな構造変動の中で発生した、必然的な帰結であったと言える。守護の権威が揺らぐ中で、それに代わる新たな秩序形成の担い手として、加賀では一向宗という宗教勢力が登場したのである。

1.2. 守護・富樫家の内訌:応仁の乱の代理戦争

中央の混乱は、加賀国にも直接的な影響を及ぼした。守護・富樫家では、応仁の乱と連動する形で深刻な内紛が勃発していた。当主の富樫政親が東軍の細川勝元方に属したのに対し、弟の幸千代は西軍の山名宗全方に擁立され、兄弟間で加賀の覇権を争う泥沼の戦いが繰り広げられた 5

この対立は単なる兄弟喧嘩ではなく、加賀国内の国人衆や宗教勢力を二分する代理戦争の様相を呈していた。特に注目すべきは、宗教勢力の動員である。幸千代が既存の仏教勢力である高田門徒(専修寺派)と結んだのに対し、政親は当時、北陸で急速に信者を増やしていた本願寺門徒(一向宗)を味方に引き入れた 5 。自らの政治的野心のために、新興宗教の持つ熱狂的な組織力と動員力を軍事力として利用する。この政親の判断こそが、後の悲劇の始まりであった。彼は自らの手で、一向宗という「パンドラの箱」を開けてしまったのである。この時点では便利な駒であった一向宗門徒が、やがて自らの意思で国政を動かす主体へと変貌していくことを、政親はまだ知らなかった。

1.3. 本願寺の北陸進出:蓮如と教団の爆発的拡大

この時期、北陸における本願寺の教線拡大を主導したのが、中興の祖と称される第8世法主・蓮如であった。1471年(文明3年)、蓮如が越前吉崎(現在の福井県あわら市)に御坊を建立すると、その分かりやすい教えと精力的な布教活動により、一向宗は武士や農民の間に爆発的に広まっていった 10

蓮如は「御文(おふみ)」と呼ばれる手紙形式の法話を用いて教えを広めると同時に、「講」という門徒の信仰共同体を各地に組織した 12 。この「講」は、単なる宗教組織に留まらず、門徒間の強固な連帯を生み出し、有事の際には一致団結して行動する強力な地縁・血縁的ネットワークへと発展した。これが、後に一向一揆が驚異的な動員力を発揮する組織的基盤となったのである。

第二章:束の間の共闘 ー「文明の一揆」(1474年)

政親と一向宗の関係は、当初から敵対的だったわけではない。むしろ、政親が加賀一国の守護となる上で、一向宗の軍事力は不可欠な存在であった。1474年(文明6年)に発生した「文明の一揆」は、両者の利害が一致した結果の共闘であり、後の破局的な対立への重要な伏線となる。

年代

主要な出来事

関連人物・勢力

影響・意義

1467-1477年

応仁の乱

細川勝元、山名宗全、足利義政

室町幕府の権威が失墜し、全国的な下剋上の時代へ移行する契機となる 2

1471年

蓮如、越前吉崎に御坊を建立

蓮如

北陸地方における本願寺教団の爆発的な拡大が始まる 12

1473年

富樫政親、弟・幸千代に敗れ加賀を追われる

富樫政親、富樫幸千代

政親、起死回生のため本願寺門徒に支援を要請する決断を下す 7

1474年

文明の一揆(蓮代寺城の戦い)

富樫政親、本願寺門徒

本願寺門徒の支援を得た政親が勝利し、加賀一国の守護となる。一向宗が初めて大規模な軍事力として歴史の表舞台に登場する 13

1475年

政親、一向宗の弾圧を開始。蓮如、吉崎を退去

富樫政親、蓮如

両者の蜜月関係が終わり、対立関係へと移行する 11

1481年

越中一向一揆

越中門徒、石黒光義

政親と結んだ石黒光義が門徒に討ち取られ、一向一揆の戦闘力の高さが示される 14

1487年

政親、将軍・足利義尚に従い近江へ出陣(鈎の陣)

富樫政親、足利義尚

長期にわたる軍役負担が加賀国内の不満を増大させ、一揆蜂起の直接的な引き金となる 7

1488年6月9日

長享の一揆(高尾城の戦い)

富樫政親、加賀一向一揆

高尾城が落城し、政親は自害。加賀は「百姓の持ちたる国」と呼ばれる門徒支配の時代へ移行する 14

2.1. 政親の賭けと一向宗の軍事力化

応仁の乱の最中、西軍方の幸千代勢力と高田門徒の連合軍に敗れた富樫政親は、加賀国を追われるという絶体絶命の窮地に立たされていた 7 。この状況を打開するため、政親は当時カリスマ的な人気を誇っていた蓮如に白羽の矢を立て、その門徒集団に軍事支援を要請した 7

蓮如はこの要請を受諾し、門徒たちに政親への助力を指示した。これは、本願寺教団が初めて加賀の政治闘争に、組織化された軍事力として本格的に介入した瞬間であった 8 。信仰で結ばれた門徒たちは、蓮如の檄に応え、政親を勝利に導くべく立ち上がった。

2.2. 蓮代寺城の攻防:勝利と亀裂の萌芽

1474年(文明6年)、政親を支援する本願寺門徒の軍勢は、幸千代方の拠点であった蓮代寺城(現在の石川県小松市)を包囲攻撃した 13 。城には幸千代をはじめ、守護代の小杉氏や狩野氏、そして高田門徒らが籠城していたが、一向宗門徒の圧倒的な勢いの前に持ちこたえることはできなかった 6

この戦いの結果、蓮代寺城は陥落し、富樫幸千代は加賀から追放された 6 。政親は一向宗門徒の力によって、悲願であった加賀一国の守護職を手中に収めたのである。しかし、この勝利は政親にとって両刃の剣であった。彼は自らの地位が、一向宗という強大な宗教・軍事勢力の支援の上にかろうじて成り立っているという、動かしがたい現実を突きつけられた。この「文明の一揆」は、政親にとっては失地回復の勝利であったが、一向宗にとっては自らの軍事力を証明し、国政を左右しうるという成功体験を得る絶好の機会となった。両者の力関係は、この時点で既に対等、あるいは逆転の兆しを見せていたのである 10

第三章:亀裂、そして対立へ

文明の一揆における共闘関係は、長くは続かなかった。加賀一国を掌握した政親は、守護としての権力基盤を確立するため、国内で強大化する一向宗の存在を次第に脅威と見なすようになる。両者の関係は蜜月から対立へと急速に転じていく。

3.1. 守護権力強化と一向宗弾圧

守護としての権威を取り戻したい政親にとって、国内に「国家内国家」とも言うべき強固な組織力を持つ一向宗の存在は、看過できないものであった。彼は勝利の立役者であったはずの一向宗に対し、弾圧という強硬策に打って出る 10

文明7年(1475年)、政親による弾圧が本格化すると、蓮如は身の危険を感じて吉崎御坊を退去せざるを得なくなり、加賀の門徒の多くは隣国の越中へと逃れた 11 。さらに政親は、越中の国人・石黒光義と連携して門徒の掃討を図ったが、これはかえって門徒たちの激しい抵抗を招く。文明13年(1481年)には越中で一向一揆が蜂起し、石黒光義が逆に討ち取られるという事件が発生した 11 。この事件は、一向宗門徒の団結力と戦闘力が、もはや一守護や国人の手に負えるレベルではないことを示すものであった。

3.2. 「鈎の陣」従軍という失策:国内の不満増大

両者の対立が深まる中、政親は致命的な戦略ミスを犯す。1487年(長享元年)、第9代将軍・足利義尚が自ら軍を率いて近江の守護・六角高頼を討伐する「鈎(まがり)の陣」が始まると、政親は幕府への忠誠を示すべく、これに従軍したのである 7

守護大名には、幕府の軍事行動に参加する「軍役」の義務があった 18 。政親の行動は、守護として当然の務めであり、中央における自らの立場を強化しようとする政治的判断であった。しかし、この判断は、足元である領国の実情をあまりにも軽視したものであった。応仁の乱以降、幕府の権威が失墜した時代において、守護の権力基盤はもはや中央の威光ではなく、領国民の支持にかかっていた。長期にわたる遠征のための軍費や兵糧は、重税となって加賀国内の国人や民衆に重くのしかかった 20

政親の長期不在、増税による経済的疲弊、そして積年の宗教的対立。これらの不満が国内で渦巻く中、反政親派の国人衆と一向宗門徒は水面下で連携を深め、打倒政親の機をうかがっていた 14 。政親の「鈎の陣」従軍は、彼らに決起の絶好の機会を与えてしまったのである。

第四章:蜂起 ー 長享の一揆、そのリアルタイムな時系列

1488年、加賀国内に充満した不満はついに爆発する。富樫政親の運命を決定づけた高尾城攻防戦に至るまでの日々を、時系列に沿って詳細に追跡する。

4.1. 帰国と対決への序章(1487年12月〜1488年5月)

  • 1487年12月 :近江の陣中にいた富樫政親は、分国加賀での不穏な動きを察知する。事態の深刻さを認識した彼は、将軍・足利義尚の許可を得て、急遽加賀へと帰国した 15
  • 帰国後 :帰国した政親は、一向一揆との全面対決が不可避であることを覚悟する。彼は自らの居城である高尾城(多胡城、富樫城とも呼ばれる。現在の金沢市高尾町に位置した山城)に入り、防御施設を大規模に修築するなど、籠城の準備を本格化させた 15
  • 1488年5月 :政親の帰国と臨戦態勢は、むしろ一揆勢を刺激する結果となった。反政親派の国人衆と固く連携した一向宗門徒は、ついに加賀全域で一斉に蜂起した 14

4.2. 高尾城攻防戦(1488年5月26日〜6月9日)

5月下旬、加賀の歴史を塗り替える運命の戦いの火蓋が切られた。

富樫政親軍

加賀一向一揆軍

兵力

約10,000 14

200,000以上と号する 14

総大将

富樫政親 7

富樫泰高(名目上の大将) 23

主要拠点

高尾城 22

大乗寺(本陣) 21

主要構成

富樫家譜代の家臣団、国人衆

本願寺門徒(武士、農民)、反政親派の国人衆

支援勢力

室町幕府(将軍・足利義尚)、越前・朝倉氏

なし(自立勢力)

戦略

援軍の到着を待つ籠城戦

圧倒的兵力による包囲、援軍の徹底阻止

  • 5月26日 :事態を憂慮した将軍・足利義尚は、越前の朝倉孝景(朝倉氏)や近隣の諸勢力に対し、政親を救援するよう正式な命令を発した 15 。これは、幕府が政親を見捨てていなかったことを示す重要な記録である。
  • 5月下旬 :20万と号する(実数は数万規模と推定されるが、それでも圧倒的多数)一揆勢が、政親の籠る高尾城を幾重にも包囲し、完全に孤立させた。この時、一揆勢は単なる反乱軍ではなく、大義名分を掲げる「公軍」としての体裁を整えるための巧みな政治工作を行った。政親と対立関係にあった叔父の富樫泰高を名目上の総大将として擁立し、野々市の大乗寺に本陣を構えたのである 21
  • 援軍の阻止 :一揆勢の指導部は、この戦いの勝敗が外部からの援軍を阻止できるかにかかっていることを正確に理解していた。彼らは越前との国境を部隊を派遣して封鎖。将軍の命令を受けて救援に向かった朝倉氏の部将・堀江景用らの軍勢は、菅生の願正らが率いる江沼郡の一揆勢によってその侵入を阻まれ、加賀国内に入ることすらできなかった 15 。この的確な軍事行動は、この一揆が単なる烏合の衆の蜂起ではなく、高度な戦略眼と指揮系統を持った計画的な軍事作戦であったことを示している。
  • 高尾城の布陣 :完全に孤立した高尾城内では、政親配下の譜代の部将たちが必死の防戦準備を進めていた。記録によれば、正門(大手)の守備には松山左近、背門(搦手)には森宗三郎がつき、そのほか斉藤八郎、安江弥太郎といった歴戦の武将たちが各所を固めていた 15
  • 6月5日〜8日 :一揆勢による総攻撃が開始された。城兵は奮戦するものの、圧倒的な兵力差の前に次々と打ち破られていく。特に6日に行われた額口での戦闘は激戦となり、ここで一揆側の勝利が事実上決定的となった 21 。城内からは、越中方面からの援軍を迎え入れるため、部将の山川高藤が手勢1,500を率いて城外へ打って出るという最後の賭けに出たが、待ち伏せていた一揆勢の夜襲に遭い、失敗に終わった 15
  • 6月9日 :外部からの援軍の望みは絶たれ、城内の兵も尽き果てた。万策尽きた富樫政親は、ついに自害して果てた。享年34であった 7 。主君の死とともに高尾城は落城し、ここに加賀守護・富樫氏による支配は事実上終焉を迎えた。

第五章:「百姓の持ちたる国」の実像

富樫政親の死は、加賀国に約100年続く新たな時代の幕開けを意味した。それは後に「百姓の持ちたる国」と称される、前代未聞の統治体制の始まりであった。

5.1. 戦後処理と傀儡政権の樹立

一揆を成功させた門徒と国人衆は、戦後処理として、自らが総大将として担ぎ上げた富樫泰高を新たな加賀守護として擁立した 16 。これは、幕府に対して反乱を正当化し、富樫家による統治が継続しているという体裁を整えるための、計算された政治的措置であった。しかし、実権は完全に一揆の指導者たちが掌握しており、泰高は名目だけの傀儡守護に過ぎなかった 24

一方、京都の室町幕府は、自らが任命した守護が領国の民に討たれるという前代未聞の事態に激怒した。幕府はすでに加賀を離れていた蓮如を呼びつけ、一揆を扇動したとして加賀の門徒を破門するよう厳しく迫った。しかし蓮如は、「自分はすでに現地を離れており、本願寺が一揆を直接指導したわけではない」と巧みに弁明し、追及をかわした 28 。この幕府の無力な対応は、もはやその権威が地方の動乱を抑えきれないことを象徴していた。

5.2. 蓮如の苦悩:指導者と暴走する門徒

この一揆の精神的支柱であった蓮如だが、彼自身は門徒たちの過激な武力蜂起を必ずしも肯定していたわけではなかった。むしろ、その行き過ぎた行動に強い懸念を抱いていた。政親自害の翌月である7月には、門徒たちを諭し、規律の引き締めを図るための手紙(御文)を送っている 14

蓮如は、他の御文においても武装や合戦を禁じる旨を説いており、教団のトップの意向と、現地の門徒たちの行動との間には明らかな乖離が存在した 30 。彼が蒔いた信仰の種は、彼の意図を超えて巨大な政治・軍事勢力へと成長し、もはや彼一人の手では制御不能な存在となっていた。蓮如は、この「革命」の精神的な父であると同時に、自らが創り出した運動の急進化に乗り越えられてしまった指導者でもあった。信仰の力は、時に指導者の思惑すら超えて暴走する危険性を内包しているのである。

5.3. 統治機構の考察:「百姓の持ちたる国」の真実

政親死後の加賀国は、しばしば「百姓の持ちたる国」と表現される 32 。この言葉は、農民が主体となった自治が行われたというイメージを与えるが、その実態はより複雑であった。この言葉の原典は、蓮如の子である実悟が記した「百姓の持ちたる国の『やうに』なり行き候」という一文であり、文字通り農民が直接統治する民主制国家が成立したわけではない 34

実際の統治を担ったのは、本願寺から派遣された坊官(下間氏など、教団の俗務を司る役人) 36 、一揆に協力した在地有力国人、そして各地の有力寺院の代表者たちによる寡頭制であった 12 。彼らは加賀の四郡を「郡」や「組」といった行政・軍事単位に再編成し、統治を行った 38 。やがて、加賀の中心には金沢御堂(後の尾山御坊)が建立され、ここが守護代に代わる中央統治機関としての役割を担うことになる 11 。これは、特定の一個人が支配する封建体制とは異なる、一種の共和政体とも評されるユニークな統治形態であり、織田信長の勢力が及ぶまでの約100年間、加賀国を支配し続けた 10

5.4. 歴史的意義:戦国時代の本格的到来

加賀一向一揆の成功が日本史に与えた衝撃は計り知れない。それは、守護大名という室町時代以来の支配体制が、信仰で団結した民衆の力によって覆されうることを全国に示した、最初にして最大の成功例であった。この事件は、他の地域でくすぶっていた一揆勢を勇気づけると共に、全国の戦国大名たちに、宗教勢力が持つ組織力と軍事力の恐ろしさをまざまざと見せつけることになった。

一向一揆は、もはや単なる宗教団体ではなく、独自の政治・経済・軍事力を有する一大勢力として、戦国時代の重要なプレイヤーとなったのである 40 。守護を打倒し、一国を支配下に置いた長享の一揆は、まさに身分や権威に関係なく実力ある者が上を目指す、下剋上の時代の本格的な幕開けを告げる号砲であったと言えよう。

引用文献

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  40. 信長の破壊の流儀 - 第7回 信長の最大の敵=意識の壁、石山本願寺率いる一向一揆 https://fleishman.co.jp/2010/02/%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E3%81%AE%E6%B5%81%E5%84%80-%E7%AC%AC7%E5%9B%9E-%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E6%9C%80%E5%A4%A7%E3%81%AE%E6%95%B5%EF%BC%9D%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AE/
  41. 加賀一向一揆 - 日本200名城バイリンガル (Japan's top 200 castles and ruins) https://jpcastles200.com/tag/%E5%8A%A0%E8%B3%80%E4%B8%80%E5%90%91%E4%B8%80%E6%8F%86/