最終更新日 2025-09-13

北野大茶湯(1587)

天正十五年、豊臣秀吉は北野大茶湯を催す。九州平定を祝し、身分問わず参加を許し文化の民主化を図る。秀吉の権威を天下に誇示する政治的祝祭であったが、肥後国人一揆により一日で中止。
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天正十五年 北野大茶湯 ― 天下人・豊臣秀吉、祝祭と動乱の一日

序章:天正十五年、天下人の描く新秩序

天正15年(1587年)、それは豊臣秀吉が「天下人」としての地位を内外に決定づけた、画期的な年であった。この年に京都・北野の森で催された空前絶後の大茶会「北野大茶湯」は、単なる文化的な催しではない。それは、秀吉が描く新しい天下秩序のビジョンを、最も鮮烈な形で可視化した、高度に計算された政治的祝祭であった。この一大イベントを理解するためには、まずそれが開催されるに至った天正15年という時代の特質を解き明かす必要がある。

軍事的達成の頂点 ― 九州平定の完了

北野大茶湯が開催される直接的な契機となったのは、秀吉の生涯における最大級の軍事的成功、すなわち九州平定の完了である 1 。天正14年(1586年)から本格化したこの戦役は、長らく九州に覇を唱えてきた島津氏との最終決戦であった 4 。秀吉は自ら20万を超える大軍を率いて九州に出陣し、圧倒的な物量と周到な戦略をもって島津軍を追い詰めていく 5 。そして天正15年5月、島津義久が降伏し、6月には九州全域が豊臣政権の支配下に組み込まれた 5 。これにより、本能寺の変からわずか5年で、秀吉は西国を完全に手中に収め、その権威は揺るぎないものとなった。この凱旋を祝し、天下泰平の到来を宣言する場として、大規模な祝祭の開催は必然であった。

新首都の建設 ― 聚楽第の造営と京都改造

軍事行動と並行して、秀吉は新たな政治中枢の建設にも邁進していた。それが、平安京の内裏跡に造営された聚楽第である 7 。この壮麗な邸宅は単なる居城ではなく、後陽成天皇の行幸を迎え、全国の大名を臣従させるための新たな首都機能を担うべく設計されていた 7 。九州平定を終えた秀吉が京に帰還した頃には、この聚楽第も完成の域に達していた 2 。北野天満宮は、この聚楽第から目と鼻の先に位置し、広大な松林を有する風光明媚な地であったため、祝祭の舞台としてこの上ない立地条件を備えていたのである 7

文化による統治 ―「御茶湯御政道」の継承と発展

秀吉は、先駆者である織田信長が確立した、茶の湯を政治利用する手法「御茶湯御政道」を巧みに継承し、さらに発展させた。信長にとって茶道具は、土地や金銭以上に価値ある恩賞であり、家臣の序列を可視化する道具であった 8 。秀吉もまた、茶会を重要な外交・政治交渉の場として活用し 9 、天正13年(1585年)には正親町天皇に茶を献じる「禁中献茶」を執り行い、自らが茶の湯の世界における最高権威者であることを朝廷からも公認させた 7 。この時、千宗易は「利休」の居士号を勅賜されている 11 。九州平定という軍事的成功と、聚楽第という政治的拠点の完成。この二つが揃った今、秀吉は文化の領域においても天下統一の総仕上げに取り掛かろうとしていた。

この祝祭は、単なる凱旋記念に留まるものではなかった。九州平定後、服属したばかりの島津氏をはじめとする西国大名の多くが、人質と共に在京を余儀なくされていた。彼ら、そして未だ完全服従には至っていない関東の北条氏らに対し、秀吉の軍事力だけでなく、それを支える圧倒的な経済力と、文化を支配するほどの洗練された権威を見せつける必要があった。北野大茶湯は、凱旋を祝う「祝祭」であると同時に、逆らうことの無意味さを知らしめる「示威」行為でもあった。それは、武力と文化の両面から天下の平定が完了したことを宣言する、壮大なデモンストレーションだったのである 12

年月

主要な動向

天正13年(1585年)

7月:関白任官 4

10月:禁中献茶を執り行う。千利休が居士号を勅賜される 10

四国を平定する 13

天正14年(1586年)

3月:聚楽第の造営を開始 7

6月:島津氏討伐(九州平定)を命令 4

9月:「豊臣」の姓を賜る 4

12月:太政大臣に任官 13

天正15年(1587年)

3月:秀吉自ら大軍を率い大坂城を出発、九州へ 4

5月:島津義久が降伏 6

6月:九州平定が完了。佐々成政を肥後国主に任命 5

7月:北野大茶湯の開催を告知する高札が掲げられる 14

9月:聚楽第が完成し、秀吉が入城 7

10月1日:北野大茶湯が開催される 15

第一章:布告 ― 前代未聞の茶会への誘い

天正15年7月、京、大坂、堺、奈良といった畿内の主要都市に、一枚の高札が掲げられた 14 。『北野大茶湯之記』などにその文面が記録されているこの布告は、来る10月1日に北野の森で催される大茶会への招待状であったが、その内容は当時の社会常識を根底から覆す、前代未聞のものであった 16

高札の具体的文言とその分析

高札は全七カ条から成り、その核心は参加資格の画期的な緩和にあった 12

第一条では、来る10月1日から10日間、北野の森で大茶湯を催し、秀吉所蔵の名物道具を残らず展示し、茶の湯に執心ある者に見せる、とその目的が述べられている 16

続く第二条が、この茶会の最も革命的な部分である。「茶湯執心においては、また若党・町人・百姓以下によらず、釜一、つるべ一、呑物一、茶なきものはこがしにても苦しからず候間、提げ来り仕るべき候事」 16 。これは、茶の湯を愛好する心さえあれば、武士、町人、百姓といった身分は一切問わないという宣言であった 17 。高価な茶道具を持つ必要もなく、釜と水瓶、そして茶碗一つさえあればよい。もし抹茶がなければ、米を炒って湯を注いだ「こがし」でも構わないという徹底ぶりである 16 。これは、茶の湯が一部の特権階級の独占物であった時代において、文化への扉を万民に開放するに等しい布告であった。

第三条では、茶席の設営について、「座舗の儀は、松原にて候間、畳二畳、但し佗者はとぢ付(継ぎ接ぎの畳)にても、いなはき(稲藁を編んだ筵)にても苦しかる間敷事」と定め、高価な調度を禁じ、質素倹約を旨とすることを求めている 16 。これにより、経済的な負担なく誰もが茶席を設けることが可能となった。

さらに第四条では、「日本の儀は申すに及ばず、数奇心懸けこれ有るものは、唐国の者までも罷出づべく候事」と、参加者を日本人だけでなく、外国人(唐国の者)にまで広げている 15 。これは、秀吉の視野が国内に留まらず、国際的な広がりを持っていたことを示す一文であり、彼の政権が新たな国際秩序の中心にあることを暗に示唆している。

寛容の裏にある絶対的権威

これらの条文は、一見すると極めて寛容で、民衆に開かれたものである。しかし、高札の最終条項には、秀吉の冷徹な支配者としての一面が顔を覗かせる。「かく相催成され候事」「こうした配慮にもかかわらず参加しない者は、今後茶湯を行ってはならない」という趣旨の一文が、記録によっては付されている 10

この一文は、この茶会が単なる自由参加のイベントではないことを示している。それは、秀吉が主催する公式行事への参加を、茶の湯を行う「資格」として定義するものであった。この布告は、全国の数寄者(文化人)に対し、秀吉の文化統治下に組み込まれるか、あるいは文化活動そのものから排除されるかの二者択一を迫る、事実上の踏み絵であった。

つまり、この高札は、文化領域における新たな「法」の公布に他ならなかった。秀吉は、武力による検地で土地と人民を把握したように、この大茶会という装置を用いて、全国の文化人を把握し、自らの権威の下に登録・序列化しようとしたのである。それは、文化の領域における「人改め」であり、秀吉の文化政策が、その軍事・政治政策と分かちがたく結びついていたことの証左であった。この一枚の高札によって、秀吉は茶の湯という文化の頂点に立つだけでなく、そのルールを定め、免許を与える唯一無二の存在として、自らを位置づけることに成功したのである。

第二章:十月朔日、北野の森 ― 祝祭のリアルタイム再現

天正15年10月1日(グレゴリオ暦1587年11月1日)、秋晴れの空の下、京都・北野天満宮とその周辺の松林は、かつてない熱気に包まれた。布告に応じ、全国から集まった数寄者たちによって、この地は一日限りの巨大な茶の湯の都へと変貌を遂げた。史料に残された断片的な記録を繋ぎ合わせることで、その祝祭の一日を時系列に沿って再現する。

早朝から午前:設営と開会

会場の情景

夜が明ける頃から、北野天満宮の境内と、かつてその周囲に広がっていた松原には、無数の茶席が設営され始めた。その数は800とも1500とも伝えられ、まさに壮観の一言であった 9。高札の指示通り、ほとんどの席は畳二畳を基本とする簡素なもので、継ぎ接ぎの畳や藁の筵を敷いただけの席も少なくなかった 16。しかし、それぞれの席主は創意工夫を凝らし、自らの「数寄」の心を表現しようとしていた。武将、公家、僧侶、豪商から名もなき町人や百姓まで、あらゆる身分の人々が隣り合って席を構える光景は、戦国乱世が終わり、新たな時代が到来したことを象徴していた。

拝殿の本席

この祝祭の中心は、国宝に指定されている北野天満宮の拝殿であった 7。拝殿の正面の間には、秀吉が天下に誇る名物道具の数々が惜しげもなく陳列された。その数は六十余種に及び、参加者は自由にこれを拝見することが許された 1。そして、その中でもひときわ異彩を放っていたのが、組み立て式の「黄金の茶室」である 7。壁、天井、柱、そして茶道具に至るまで金で覆われたこの茶室は、秀吉の富と権力を最も直接的に示す象徴であり、見る者を圧倒した 17。

四つの公式茶席

拝殿、あるいはその周辺には、この日の公式な亭主を務める四人のための茶席が設けられた 21。関白・豊臣秀吉本人、そして彼が当代随一と認めた三人の茶人、すなわち千利休、津田宗及、今井宗久である 1。利休、宗及、宗久は「天下三宗匠」と称された堺の豪商出身の茶人であり、この人選は、秀吉が茶の湯界の頂点に君臨し、その下に最高の茶人たちを従えているという序列を明確に示すものであった 23。

昼:饗宴の頂点

籤引きによる席割り

茶会が本格的に始まると、参加者は極めてユニークな方法で席に案内された。公家・吉田兼見の日記『兼見卿記』によれば、参加者は8人1組で拝殿に上がり、そこで籤を引かされたという 17。籤は四種類あり、1番籤を引いた者は秀吉の点前で、2番籤は利休、3番籤は宗及、4番籤は宗久の点前で茶を飲むことができた 17。この一見公平に見える籤引き制度は、秀吉を頂点とする茶の湯界の絶対的な序列を、参加者一人ひとりに体感させる巧みな演出であった。

秀吉の巡回と賞賛

秀吉は自らも亭主を務める傍ら、上機嫌で広大な会場を巡回し、庶民の茶席にも気軽に立ち寄った 7。ある時、美濃国から来た一化という者が点てた「こがし」(炒った米に湯を注いだもの)を飲むと、「今日一の冥加(みょうが)なり」と大いに賞賛し、記念に白扇を与えたという逸話が残っている 7。これは、高価な抹茶だけでなく、素朴ながらも心のこもったもてなしを評価するという秀吉の姿勢を示すパフォーマンスであり、彼の寛大さを人々に印象付けた。

異彩を放つ数寄者たち

この自由な雰囲気の中、ひときわ注目を集めた人物がいた。山科に隠棲する風流人、丿貫(へちかん)である 25。彼は、幅が一間半(約2.7メートル)もある巨大な朱塗りの傘を立てて茶席を設え、多くの人々の目を引いた 17。その奇抜な趣向に興味を惹かれた秀吉が立ち寄ると、丿貫は臆することなく、抹茶ではなく香煎(こうせん)を差し出したという 28。連日の茶会で抹茶に飽いているであろう天下人の心情を察したこの機転に秀吉は感心し、丿貫の諸役を免除したと伝えられる 7。

また、会場には利休門下の優れた武将茶人、「利休七哲」に数えられる大名たちの姿もあったはずである 29 。細川忠興(三斎)が茶席を設けていたことは、現在も境内に残る「三斎井戸」がその証拠となっている 2 。彼らのような洗練された数寄者たちが、どのような趣向を凝らした茶席で天下人の耳目を驚かせようとしたのか、想像は尽きない。

この日の北野の森は、一つの壮大な劇場であった。中心には秀吉の権威の象徴である「黄金の茶室」が鎮座し、豪奢と富を絶対的な価値として提示する。その一方で、周辺では丿貫の風流や一化の素朴な「こがし」が賞賛され、「侘び」や「寂び」といった質素さの中の美もまた、秀吉によって肯定される。これら対極にある価値観を一つの空間に共存させ、その両方の価値を裁定する唯一の存在として自らを示すことこそ、秀吉の狙いであった。彼は、あらゆる美意識が自らの権威の下にあることを、この空間構成そのものによって証明しようとしたのである。

役職/立場

人物名

備考

主催者

豊臣秀吉

関白・太政大臣。自らも亭主を務める 18

公式亭主(茶頭)

千利休

天下三宗匠の一人。茶会全体のプロデューサー役を担う 23

津田宗及

天下三宗匠の一人。堺の豪商 23

今井宗久

天下三宗匠の一人。堺の豪商 23

奉行

宮木頼久

事前の会場設営などを担当 18

参加者(逸話あり)

丿貫(へちかん)

朱塗りの大傘を立てた茶席で秀吉を感心させた風流人 7

一化(いっか)

美濃国の人物。「こがし」を秀吉に賞賛される 7

細川忠興(三斎)

利休七哲の一人。茶席を設けたことが「三斎井戸」から窺える 2

蒲生氏郷

利休七哲の一人。参加した可能性が高い 29

参加者(記録者)

神屋宗湛

博多の豪商。到着が遅れ参加できず、その顛末を日記に記す 17

吉田兼見

公家。日記『兼見卿記』に籤引きの様子などを記録 17

第三章:急転 ― 肥後からの凶報と終幕

北野の森が祝祭の熱気に満ち溢れていたその日の夕刻、京の都に衝撃的な報せが駆け巡った。10日間にわたって開催されるはずだった壮大な茶会が、突如として初日限りでの中止を決定したのである。華やかな饗宴の幕は、なぜこれほど唐突に下ろされなければならなかったのか。その背景には、祝祭の華やかさとは裏腹の、戦国時代の生々しい現実があった。

終幕への序曲

北野大茶湯が当初、10月1日から10日までの10日間の予定で計画されていたことは、高札の文面からも明らかである 10 。この長期開催の予定を裏付ける強力な証拠が、博多の豪商・神屋宗湛が記した『宗湛日記』に残されている。宗湛はこの大茶会に参加するため、海路はるばる京を目指していた。しかし、彼が京に到着した10月8日には、すでに茶会は終わり、会場は跡形もなくなっていた 17 。落胆する宗湛に対し、秀吉は直々に慰めの言葉をかけたという。もし茶会が最初から1日だけの予定であったなら、秀吉がわざわざ慰める必要はない。この逸話は、茶会が秀吉側の予期せぬ事情によって、急遽短縮されたことを雄弁に物語っている 17

肥後国人一揆の勃発

茶会が中止された最大の理由、それは九州・肥後国からの凶報であった。九州平定後、秀吉は腹心であった佐々成政を肥後一国の国主に任命していた。しかし、成政は入国後、現地の国衆(在地領主)たちの既得権益を無視し、性急かつ強引な太閤検地を断行しようとした 35 。これに国衆たちが猛反発し、天正15年7月頃から大規模な反乱、すなわち「肥後国人一揆」が勃発したのである 37

一揆の勢いは凄まじく、隈部氏や和仁氏といった有力国衆を中心に、瞬く間に肥後全域に拡大した 39 。佐々成政の軍勢だけでは到底鎮圧できず、周辺大名の援軍を得ても戦況は好転しなかった。秀吉が北野で茶会を催していた10月1日の時点では、一揆勢は数万の規模に膨れ上がり、肥後は再び戦乱の渦中にあった 39 。この深刻な事態を知らせる早馬が、まさに茶会の当日に秀吉のもとへ到着したと考えられている 10

天下人の決断

京都で天下泰平を祝う壮大な祝祭を主宰している、まさにその瞬間に突きつけられた、平定したはずの領国での大規模な反乱。この報せは、秀吉の権威そのものを根底から揺るがしかねない、極めて深刻なものであった。北野大茶湯は、「九州平定の完了」という現実を祝うために創り出された、平和と文化の祝祭空間であった。しかし、肥後からの凶報は、その祝祭を成り立たせる大前提(=九州は平定された)が、実は虚構であったという厳しい現実を突きつけた。

前提が崩れた以上、祝祭という舞台を維持することは不可能である。秀吉は即座に茶会の中止という冷徹な決断を下した。そして、意識を文化の饗宴から、現実の戦争へと切り替えた。この急転直下の終幕は、戦国の支配者にとって、文化的な催しがいかに現実の政治・軍事情勢に従属するものであったかを示している。そしてそれは同時に、秀吉が築き上げつつあった「天下泰平」が、華やかな祝祭の裏側で、常に生々しい暴力と反乱の危険に晒されている、極めて脆弱なものであったことを象徴する出来事でもあった。

第四章:茶湯が映す権力と文化 ― 歴史的意義の考察

わずか一日で幻と終わった北野大茶湯。しかし、この未完の祝祭が日本史に残した影響は計り知れない。それは、豊臣秀吉という人物の統治戦略と思想を凝縮した、画期的なイベントであった。その歴史的意義を、権力と文化の相関という視点から多角的に考察する。

究極のメディア戦略

北野大茶湯は、秀吉の権力、富、そして文化的洗練を、万民に直接「見せる」ための巨大なメディアイベントであったと言える。黄金の茶室や天下の名物を展示することで圧倒的な富を見せつけ 12 、自らも茶を点ててみせることで文化的な権威を誇示した。そして、最も巧みだったのは、その参加資格を「貴賤によらず」とした点である 17 。身分を問わず誰もが参加できるという形式は、このイベントの情報を口コミによって爆発的に拡散させる効果を持っていた 23 。参加した百姓や町人が故郷に帰り、天下人の茶会の様子を語り伝えることで、秀吉の威光は দেশের隅々まで浸透していったのである。

文化の民主化と中央集権化の二重構造

この茶会は、一見すると矛盾した二つの側面を内包していた。一つは、茶の湯という文化を一部の特権階級から庶民にまで開放した「民主化」の側面である 41 。誰もが釜一つで参加できるという布告は、文化の裾野を大きく広げる契機となった。しかし、その一方で、このイベントは極めて強力な「中央集権化」の装置でもあった。参加者全員が、主催者である秀吉の定めたルールに従い、秀吉を頂点とする序列(籤引きに象徴される)を受け入れなければならなかった。秀吉は文化を万民に開放すると同時に、その文化世界の頂点に自らが君臨し、すべての価値基準を定める絶対的な支配者であることを宣言したのである。

堺の文化資本の吸収

亭主として千利休、津田宗及、今井宗久という、堺の豪商出身の茶人たちを起用した点も重要である 23 。中世において、堺は自治都市として繁栄し、茶の湯文化の一大中心地であった。その堺を代表する三人の茶人を、秀吉が主催するイベントの「茶頭」として従えることは、堺が持っていた自律的な文化資本(文化的権威)を、豊臣政権の権威の下へと吸収・再編する狙いがあった。これにより、文化の中心は堺から、秀吉のいる京・大坂へと完全に移行したのである。

新しい「公儀」の創出

室町幕府の権威が失墜して以降、戦国時代の日本には絶対的な「公儀」(公的権威)が存在しない状態が続いていた。秀吉は関白・太政大臣という朝廷の権威を利用しつつも、それだけでは武家や民衆を完全に掌握するには不十分だと理解していた。北野大茶湯は、身分や出自を問わず、秀吉という一個人の下に全ての民が直接集う場を創り出した。これは、朝廷や幕府といった既存の権威システムを迂回し、「関白秀吉」という新しい「公儀」を人々に直接体感させる画期的な試みであった。

「貴賤によらず」という言葉の裏には、全ての人間は既存の身分秩序の中では不平等だが、「関白秀吉の前では」平等に臣民である、という新たな秩序観が提示されている。このイベントを通じて、秀吉は自らが新しい時代の秩序そのものであり、新たな「公儀」の中心であることを、万民の記憶に深く刻み込んだのである。

秀吉最晩年の慶長3年(1598年)に催された「醍醐の花見」と比較すると、その統治スタイルの変化が窺える 42 。北野大茶湯が身分を問わない「無礼講」を演出したのに対し、醍醐の花見は秀吉の親族や側近、有力大名の夫人など、参加者が厳しく限定された、序列を重んじる閉鎖的なイベントであった。天下統一の過程にあった時期の開放的なパフォーマンスから、治世が安定するにつれて、より固定化された秩序を重視する姿勢へと、秀吉の権力が変質していったことを示している。

終章:残された記憶と遺産

天正15年10月1日、北野の森で燃え上がった祝祭の炎は、肥後からの凶報によってわずか一日で掻き消された。しかし、その一瞬の輝きが後世に残した記憶と遺産は、決して小さなものではない。

歴史的記録の価値

この幻の茶会の様子を今に伝えるのが、『北野大茶湯之記』をはじめとする同時代の記録である 18 。これらの史料は、当日の設営や展示された名物道具、主要な参加者などを具体的に記しており、安土桃山文化の爛熟期を伝える一級の文化史料となっている 43 。また、参加を熱望しながらも間に合わなかった博多の商人・神屋宗湛の『宗湛日記』は、遠国の人々がこのイベントに寄せた期待の大きさと、突然の中止が与えた衝撃を伝える貴重な証言である 17

後世への影響

北野大茶湯は、その後の茶の湯の歴史に大きな影響を与えた。身分を問わず多数の人間が集う大規模な茶会、いわゆる「大寄せ」や、屋外で茶を点てる「野点」の原型として、後世の茶人たちにインスピレーションを与え続けた 14 。そして、その記憶は開催地である北野天満宮に深く刻まれている。現在でも毎年12月1日には、この大茶湯にちなんだ「献茶祭」が執り行われ、多くの茶道家元が奉仕している 32 。境内に立つ「北野大茶湯之址」の石碑は、400年以上前のあの熱狂の一日を静かに今に伝えている 3

結論:戦国時代の終焉を告げる祝祭

北野大茶湯は、戦国時代の価値観が大きく転換する瞬間を象徴する出来事であった。それは、武力のみによって天下を制圧する時代から、文化の力をも利用して人々を統合し、新たな秩序を構築する時代への移行を告げる号砲であった。肥後一揆による突然の中断は、その移行が未だ道半ばであり、天下泰平が盤石ではなかった現実を示している。しかし、身分や貧富の差を超え、ただ「数寄」の心のみを共有する人々が一堂に会するという秀吉が描いたビジョンは、それ自体が新しい時代の到来を予感させるものであった。

武力と文化、祝祭と動乱、虚構と現実。様々な要素が交錯したこの一日は、豊臣秀吉という稀代の人物が築こうとした天下の形を、鮮烈に、そして凝縮された形で後世に提示した、日本史上類を見ない祝祭であったと言えるだろう。

引用文献

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  8. 茶道具 翔雲堂 岡本 茶人とは2 http://shoundo.jpn.com/tool/hito2.html
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  28. 前田玄以の回想~丿貫~/北野大茶会・豊臣秀吉・千利休 - 骨董品・美術品買取こたろう https://kotto-kotaro.com/news/detail/hechikan/
  29. 豊臣秀吉も、伊達政宗も! 戦国武将の“最強の自制心”ぶっとびエピソード集 - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/266485/
  30. 千利休とその思想、半生、弟子 - 茶道具の買取・売却はいわの美術 https://www.tyadougu.com/wisdom/thought.html
  31. 千利休-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44325/
  32. 千利休が茶頭を務めた「北野大茶湯」の舞台[北野天満宮] - Leaf KYOTO https://www.leafkyoto.net/store/210921-kyoto-kitanotenmangu/
  33. 津田宗及 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B4%A5%E7%94%B0%E5%AE%97%E5%8F%8A
  34. 裏千家メールマガジン https://www.urasenke.or.jp/archives/textm/senyo/magazine/backnumber/bn150415.html
  35. 加 藤 清 正 実 像 - 熊本市 https://www.city.kumamoto.jp/kiji0032846/Bun_89210_21_1152w_all_n.pdf
  36. 特別寄稿佐々成政と肥後国衆一揆 ~中世から近世への歴史的転換点 https://www.ccis-toyama.or.jp/toyama/magazine/narimasa/sasa0205.html
  37. 天正15年9月13日毛利吉成・黒田孝高宛豊臣秀吉朱印状 https://japanesehistorybasedonarchives.hatenablog.com/entry/20210804/1628066139
  38. 北陸関連の図録・資料文献・報告書 第12回 富山市郷土博物館特別展「佐々成政の手紙 ー 古文書から浮かび上がる戦国時代」(編集・発行 - 南越書屋 https://nan-etsu.com/hokuriku-reference12/
  39. No.043 「 肥後国衆一揆(ひごくにしゅういっき) 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/043.html
  40. No.080 「 肥後の国衆(くにしゅう)一揆 」 - 熊本県観光サイト https://kumamoto.guide/look/terakoya/080.html
  41. 天下人・豊臣秀吉と茶の湯|黄金茶室、北野大茶湯、三成との出会い - 山本山 https://yamamotoyama.co.jp/blogs/column/reading287
  42. 醍醐の花見 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%86%8D%E9%86%90%E3%81%AE%E8%8A%B1%E8%A6%8B
  43. 北野 きたの 大茶湯 おおちゃのゆ -天正から現代へ - -裏千家ホームページ 茶道資料館 https://www.urasenke.or.jp/archives/textc/gallery/museum/tenji/backnumber/tenjir02-3/tenji.html
  44. 献茶祭【北野天満宮】 - 京都観光Navi https://ja.kyoto.travel/event/single.php?event_id=2337