最終更新日 2025-09-15

博多太閤町割(1587)

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灰燼からの再生 ― 豊臣秀吉の都市革命「博多太閤町割」の時系列的全貌

序章:灰燼の国際都市・博多

天正十五年(1587年)、豊臣秀吉によって断行された「博多太閤町割」は、単なる戦災復興事業ではない。それは、中世以来、日本の西の玄関口として栄華を極めた国際貿易都市の「死」と、全く新しい秩序に基づく「再生」を象徴する、戦国時代の終焉を告げる一大都市革命であった。この歴史的事業の全貌を解き明かすためには、まず、博多がいかにして繁栄し、そしてなぜ跡形もなく焼き尽くされるに至ったのか、その光と影の歴史を遡る必要がある。

黄金の日々、国際貿易港・博多

鎌倉時代から室町時代にかけ、博多は日明貿易、日朝貿易、さらには琉球貿易の中核を担う、比類なき国際貿易港として繁栄を謳歌していた 1 。大陸からもたらされる絹織物、陶磁器、薬品、そしてイスラム起源の文物に至るまで、異国の富と文化がこの港に集積し、日本各地へと伝播していった 3 。平清盛が日宋貿易の拠点として人工港「袖の湊」を築いて以来 4 、博多は常に日本の対外交易の最前線にあり続けた。

その富は、宗金に代表されるような豪商たちを生み出した。彼らは時に守護大名をしのぐほどの交易量を誇り 2 、その財力を背景に、博多は堺と並び称される自治都市としての性格を強めていく 5 。有力商人たちが町の運営を担い、独自の文化と経済圏を形成したこの時代は、まさに博多の「黄金の日々」であった 1

戦国争乱の渦中へ

しかし、その巨万の富は、皮肉にも戦乱の火種を呼び寄せる最大の要因となった。博多が蓄積した富と、交易がもたらす利権は、九州の覇権を狙う戦国大名たちにとって、抗いがたい魅力を持つ標的だったのである 2

室町中期、博多は大友氏と少弐氏によって分割統治されていたが、やがて中国地方の大内氏が介入し、少弐氏を駆逐する 5 。しかし、天文二十年(1551年)、大内義隆が家臣の陶晴賢の謀反によって倒れると、その隙を突いて豊後の大友宗麟が博多の完全支配を確立した 5 。だが、それも束の間の安定に過ぎなかった。大友氏の勢力に陰りが見え始めると、毛利氏、龍造寺氏、そして九州南部から急速に勢力を拡大してきた島津氏といった有力大名たちが、次々と博多の支配権をめぐって激しい争奪戦を繰り広げるようになる 9 。幾度となく戦火に見舞われ、博多の町は徐々にその輝きを失っていった。

天正十四年(1586年)のカタストロフ

そして、天正十四年(1586年)、博多の歴史における最大の悲劇が訪れる。九州統一を目前にした島津義久の軍勢が博多を占領 5 。しかし、彼らの支配も長くは続かなかった。島津氏の勢力拡大に危機感を抱いた大友宗麟の救援要請に応じ、天下人・豊臣秀吉が九州平定の大軍を派遣するとの報が届いたのである 11

秀吉軍の圧倒的な物量を前に、島津軍は戦略的撤退を決断する。その際、彼らが実行したのが、博多の町を徹底的に焼き払う焦土作戦であった 12 。これは、秀吉軍に博多を経済的・兵站的拠点として利用させないための非情な戦略であり、その破壊は凄惨を極めた。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、この兵火によって博多の在家一万戸が焼け落ち、「街の痕跡すら留めぬ有様」になったと伝えられている 14 。中世以来、数百年にわたって築き上げられてきた国際都市の富と文化は、文字通り灰燼に帰した。これは、戦国争乱の時代の狂気がもたらした帰結であり、中世自治都市・博多の完全な「死」を意味する出来事であった。

第一章:天下人の九州平定と博多への道

焼け野原となった博多の地に、再生の光が差し込むのは、皮肉にもその破壊の遠因となった豊臣秀吉の九州平定によってであった。秀吉が、なぜ中央から遠く離れた一都市の復興に、これほどまでの情熱と資源を注いだのか。その背景には、彼の天下統一事業における九州の戦略的重要性、そして、後の復興事業で中核を担うことになる二人の腹心の存在があった。

九州征伐の開始と天下統一の総仕上げ

島津氏の九州統一の動きは、秀吉が築き上げつつあった天下の秩序に対する明白な挑戦であった。大友宗麟からの救援要請を大義名分とし、秀吉は天正十四年(1586年)、全国の大名に停戦を命じる「惣無事令」を発令する 11 。これを島津氏が事実上拒否したことで、秀吉は満を持して九州への大軍派遣を決定した。これは単なる大友氏の救援戦ではなく、日本の統一を完成させるための総仕上げであり、豊臣政権の権威を全国に知らしめるための軍事行動であった 16

二人のキーパーソン:黒田官兵衛と石田三成

この九州平定において、二人の武将が決定的な役割を果たした。一人は、軍監として先鋒部隊を率いた黒田官兵衛(孝高)である 11 。播磨出身の官兵衛は、秀吉の軍師として早くからその才能を発揮していたが、九州平定では豊前国に上陸後、巧みな戦略と交渉術で次々と敵対勢力を下し、秀吉軍の進撃路を確保した 11 。この戦いを通じて、官兵衛は九州の地理、城郭、そして在地勢力の人心に精通することになる。この経験と知見こそが、後に秀吉から博多復興という大事業を託される最大の理由となった。

もう一人は、石田三成である。三成の役割は、前線での戦闘ではなく、後方支援、すなわち兵站の確保にあった。総勢20万とも25万ともいわれる大軍勢が、長期間にわたって九州各地を転戦するためには、膨大な量の兵糧、武器、弾薬が必要となる。三成は、その補給管理を完璧にこなし、一度の滞りもなく前線へと物資を送り続けた 18 。これは当時としては驚異的なことであり、彼の卓越した行政手腕と算術能力の証明であった。戦の勝敗が兵站にかかっていることを熟知していた秀吉は、三成のこの能力を極めて高く評価し、絶対的な信頼を置くようになる。戦後の都市復興という、軍事とは異なる巨大な行政プロジェクトを構想するにあたり、秀吉が三成をその責任者の一人として想起したのは、論理的な必然であった。

このように、九州平定の成功は、官兵衛の「軍事戦略」と三成の「行政・兵站能力」という、二つの異なる才能が見事に連携した結果であった。そしてこの二人が、そのまま戦後の博多復興事業においても中核を担うことになるのである。

戦後の筥崎宮滞在

天正十五年(1587年)五月、島津義久を降伏させ、九州平定を成し遂げた秀吉は、凱旋の途上、六月三日に筥崎宮(福岡市東区)に着陣し、約二十日間にわたって滞在した 12 。この滞在中、秀吉は千利休を招いて大規模な茶会を催すなど 22 、天下人としての文化的権威を誇示する一方で、極めて重要な戦後処理の構想を練っていた。

特に注目すべきは、博多の豪商・神屋宗湛らを頻繁に茶会に招き、接触を図っていたことである 22 。これは単なる慰労や趣味の共有ではない。焼け落ちた博多の実情、商人たちの財力や情報網、そして何よりも復興への意欲と協力を引き出せるか否かを見極めるための、高度な政治的パフォーマンスであった。秀吉はこの時点で、彼らを単なる統治の対象としてではなく、復興事業を共に推進するパートナーとして活用することを視野に入れていたのである。灰燼と化した博多を前に、秀吉の頭の中ではすでに、壮大な都市再生計画の青写真が描かれ始めていた。


表1:太閤町割に至る主要事象年表

年代(西暦)

元号

主要事象

関連する勢力

1551年

天文20年

大内義隆が家臣・陶晴賢の謀反により自害。大内氏の勢力が衰退。

大内氏、大友氏

1551年以降

天文20年以降

大友宗麟が博多の支配権を確立し、博多は大友氏の支配下に入る 5

大友氏

1569年

永禄12年

多々良浜の戦い。毛利軍と大友軍が博多の支配を巡り激突 23

大友氏、毛利氏

1572年

元亀3年

木崎原の戦い。島津義久が日向の伊東氏を破り、島津氏の勢力拡大が本格化 24

島津氏、伊東氏

1580年頃

天正8年頃

大友氏が島津氏に敗れ勢力が衰退。その隙を突き龍造寺氏が博多を支配 5

龍造寺氏、大友氏、島津氏

1586年

天正14年

九州統一を目指す島津氏が博多を占領後、豊臣秀吉の九州征伐軍接近の報を受け、博多の町を焼き払い撤退 5

島津氏、豊臣氏

1587年

天正15年

豊臣秀吉が九州を平定。島津氏を降伏させる 9

豊臣氏、島津氏

1587年6月

天正15年6月

秀吉が筥崎宮に滞在し、博多の復興計画(太閤町割)を命令 9

豊臣氏


第二章:太閤町割、その刻一刻 ― 天正十五年六月の記録

秀吉の博多復興計画は、周到な準備期間を経て実行されたものではない。九州平定を終えた直後、わずか数日の間に、驚異的な速度で決定され、実行に移された。そのリアルタイムの動向は、秀吉に随行していた博多の豪商・神屋宗湛が記した一次史料『宗湛日記』によって、今日に伝えられている 20 。この記録を基に、歴史が大きく動いた天正十五年六月の数日間を、刻一刻と追体験する。

六月十日:天下人、灰燼に立つ

九州平定を終え、筥崎宮に滞在していた秀吉は、この日、焼け野原となった博多の惨状を自らの目で確かめるべく行動を起こす。神屋宗湛の記録によれば、秀吉は筥崎宮の社頭から、平戸の宣教師が乗ってきた南蛮船「フスタ」に乗り込み、博多の浜に上陸した 20 。この演出自体が、旧来の日本の権力者とは異なる、国際的な視野を持つ支配者であることを内外に示す意図があったのかもしれない。

浜辺では、宗湛ら博多の商人たちが秀吉に贈り物を献上した。秀吉はそのうち銀子一枚だけを手に取り、残りの品々はすべて「博多に下された」という 20 。これは、単なる謙遜や儀礼ではない。復興を願う博多町衆の志を受け取った証として銀子一枚を納め、残りを復興資金の一部として与えるという、極めて象徴的な行為であった。この巧みな人心掌握術により、秀吉は絶望の淵にあった博多の人々の心を一瞬にして掴んだのである。

六月十一日:歴史が動いた一日

博多の現状を視察した翌日、秀吉はすぐさま具体的な行動に移る。『宗湛日記』には「同十一日より博多町の指図を書き付けられて」とある 20 。これは、博多の新しい都市計画図の作成を正式に命じたことを意味する。視察からわずか一日でのこの決定は、秀吉の構想がすでに滞在中に固まっていたことを示唆すると同時に、その絶対的な権力と比類なき実行力を九州の在地勢力に見せつける、強烈なデモンストレーションであった。戦乱に明け暮れ、一つの物事を決めるのに数ヶ月、数年を要した戦国時代の常識を覆すこの速度は、豊臣政権がもたらす新たな時代の到来を告げる号砲でもあった。

六月十二日:再生の槌音

そして、命令の翌日には、早くも実際の作業が開始される。「十二日よりの町割也」との記録がそれを示している 20 。この迅速な事業開始を支えるため、秀吉は直ちに専門の行政チームを組織した。町割の実務を担当する「博多町割奉行衆」として、滝川三郎兵衛、長束大蔵少輔、山崎志摩守、そして小西行長(『宗湛日記』では「小西摂州」と記される)らが任命された 20 。彼らの下には、さらに三十人の下奉行が配置され、測量や人員の差配といった現場作業を指揮する体制が整えられた 20

六月十四日:秩序の基準

事業が本格化する中で、その基準となる道具も定められた。当時、町割の測量に使われたと考えられる間杖(けんざお)が現存しており、その一本には宗湛自身の筆による次のような刻銘が残されている。「嵐(時)天正十五年丁亥林鐘(六月)中旬四日(十四日)壬申除博多津町劃吉辰 宗湛」 20 。これは、六月十四日の吉日に、博多の町の区画整理が正式に始まったことを記念する銘であり、この日から、新しい博多の秩序を測るための統一された基準が適用され始めたことを示している。

官民一体の推進体制

この巨大プロジェクトは、秀吉のトップダウンだけで進められたわけではない。その推進体制は、豊臣政権の統治機構の縮図ともいえる、機能的で合理的な役割分担に基づいていた。

事業全体の監督・統括を担ったのが、九州平定で功績を挙げた黒田官兵衛と石田三成であった 23 。官兵衛は軍師としての知見から都市の防衛機能や土木技術を、三成は卓越した行政能力で予算管理や人員・資材の配分を監督したと考えられる。その下で、滝川三郎兵衛ら四人の奉行衆が現場の実務を執行した。

そして、この事業の成功に不可欠だったのが、在地協力者の存在である。博多豪商の神屋宗湛と嶋井宗室は、単に秀吉の命令に従うだけでなく、積極的に事業に参加した 27 。彼らは、その莫大な財産から復興資金を提供し 29 、また、遠方に避難していた博多の住民を呼び戻し、労働力を確保するなど、地元との調整役として極めて重要な役割を果たした 5

このように、太閤町割は、中央から派遣された武士団の専門知識と、在地商人たちの財力・人脈が見事に融合した、当時としては画期的な官民一体の公民連携事業であった。それは、個々の武将の武勇に頼った旧来の統治とは一線を画す、近世的な国家運営の萌芽を示すものであった。


表2:博多太閤町割の主要関係者とその役割

役割

担当者

具体的な職務・貢献

最高意思決定者

豊臣秀吉

博多復興の全体構想を策定し、事業の断行を命令。経済特区としての博多の地位を確立するための法令「定」を発布 14

実務統括責任者

黒田官兵衛(孝高)

軍監としての経験を活かし、事業全体の監督を担当。都市の防衛機能や土木技術に関する助言を行ったと考えられる 17

石田三成

九州平定での兵站管理手腕を活かし、行政・財務面から事業を監督。予算、資材、人員の効率的な配分を管理したと推測される 23

町割奉行衆

滝川三郎兵衛、長束大蔵少輔、山崎志摩守、小西行長

現場における実務責任者。測量、区画整理の指揮、下奉行や人夫の管理など、町割の直接的な執行を担当 20

在地協力者

神屋宗湛、嶋井宗室

博多を代表する豪商。復興資金の提供、情報提供、避難民の呼び戻しによる労働力の確保、地元町衆との合意形成など、官民の橋渡し役を担う 27


第三章:復興の設計図 ― 新生博多の都市構造と特質

豊臣秀吉と彼が任命した奉行たちによって描かれた新生博多の設計図は、単に焼け跡を整理し、家屋を再建するだけの計画ではなかった。そこには、商業活動の効率化、強固なコミュニティの形成、そして有事への備えといった、明確な思想が込められていた。太閤町割の真の革新性は、物理的な都市構造(ハードウェア)と、そこに住まう人々の社会的・文化的共同体(ソフトウェア)を、同時に設計・導入した点にある。

合理的都市計画と碁盤の目の街路

太閤町割によって生まれた博多の街並みは、南北に長い短冊状の区画を基本とし、これを貫く東西の道が配置された、整然とした碁盤の目状の構造を特徴としていた 12 。特に、現在の「大博通り」の原型となる道が基軸として設定され、それに直交する形で街路が整備された 34

この合理的な区画整理は、いくつかの目的を持っていた。第一に、土地の面積を明確にすることで、公平な分配と後の資産管理を容易にすること。第二に、直線的な道路網は物資の輸送効率を高め、商業活動を活性化させること。そして第三に、火災が発生した際に延焼を食い止める防火帯としての機能も期待されていた。これは、戦国時代までの自然発生的に形成された複雑な都市とは一線を画す、明確な意図を持った近世的な都市計画であった。

「流(ながれ)」の創設とコミュニティの再構築

太閤町割がもたらした最も独創的で、かつ後世に大きな影響を与えたのが、「流(ながれ)」と呼ばれる共同体の創設である 35 。これは、いくつかの町(ブロック)を一つの単位としてまとめたもので、当初は七つの流(東町流、西町流、土居流など)が設定された 36

この「流」は、単なる行政区画ではなかった。それは、博多の総鎮守である櫛田神社の祭礼「博多祇園山笠」を奉納する単位として位置づけられたのである 35 。祭礼という共通の目的を持つことで、「流」に属する住民の間には強固な連帯感と地域への帰属意識が育まれた。つまり、物理的な区画整理が、人々のアイデンティティとコミュニティを形成するための装置として巧みに機能するように設計されていたのである。この制度は400年以上を経た現代に至るまで、博多祇อน山笠の運営の基本単位として生き続けており 35 、太閤町割が単なる都市計画に留まらない、文化創造の事業でもあったことを証明している。

防衛拠点としての都市設計

新生博多は、商都であると同時に、豊臣政権にとって九州における重要な戦略拠点でもあった。そのため、都市の設計には防衛的な思想も盛り込まれていた。その一例が、寺社の戦略的な配置である。町の境界線や主要な街道沿いに寺院を集中して配置することで、有事の際にはこれらの寺院が砦や兵の駐屯地として機能する、一種の防衛ラインを形成する狙いがあったとされる 22 。分厚い土塀や堅牢な門を持つ寺院は、それ自体が防御施設となり得た。これは、戦国の世を勝ち抜いてきた秀吉や官兵衛ならではの、実戦的な発想の現れであった。

記憶の継承「博多塀」

復興工事の過程で、一つの象徴的な建築様式が生まれた。「博多塀」である 39 。これは、戦火で生じた大量の焼け石や割れた瓦を粘土で塗り固めて作られた土塀のことである。資材が不足する中でのリサイクルという現実的な側面もあっただろう。しかし、それ以上に、この塀は破壊の記憶を風化させることなく、復興を成し遂げた証として後世に伝えるための、生きたモニュメントとしての意味合いを持っていた。博多の町の随所に残る博多塀は、灰燼の中から立ち上がった人々の不屈の精神を、今に静かに語りかけている。

第四章:町割がもたらしたもの ― 経済・文化への長期的影響

太閤町割は、博多の物理的な景観を一変させただけでなく、その後の経済、社会、文化に計り知れないほど長期的かつ多角的な影響を及ぼした。秀吉が町割と同時に打ち出した革新的な経済政策は、博多を近世有数の商業都市へと飛躍させる原動力となり、また、この事業を契機として、今日の福岡市の原型となる都市構造が形成されていくことになる。

革新的な経済政策「定(さだめ)」九か条

秀吉は、博多の復興にあたり、九か条からなる「定(さだめ)」と呼ばれる法令を発布した 14 。この法令こそ、新生博多の経済的繁栄を約束するものであった。その内容は、当時としては極めて革新的であった。

特に重要なのは、土地家屋に課せられる税「地子(じし)」や、武士のために奉仕する労役「諸役(しょやく)」を全面的に免除したことである 14 。さらに、特定の商人が仲間内で利益を独占する同業者組合「座」を禁止し、誰でも自由に商売ができるようにした。これは、秀吉が他の地域で進めた「楽市・楽座」政策の発展形であり、中世以来の様々な経済的束縛から商人たちを解放し、自由な競争を促すものであった。また、博多の商船が日本のどの港に立ち寄っても保護されることや、武士が博多の町中に屋敷を持つことを禁じる条項も盛り込まれた 14

これらの政策により、博多は豊臣政権直轄の「経済特区」ともいうべき地位を与えられた。これにより、全国から人、物、金が再び博多に集まり始め、急速な経済復興を遂げる土台が築かれたのである 31

貿易拠点としての再生と限界

秀吉は、博多を明や南蛮諸国との貿易の一大拠点として再生させることを構想していた 23 。太閤町割によるインフラ整備と「定」による規制緩和は、そのための布石であった。実際に、復興後の博多は、国内の海上輸送が発展する中で、各地を結ぶ国内交易の拠点として大いに栄えた 40

しかし、秀吉が夢見た壮大な国際貿易都市構想は、歴史の大きな潮流によって完全には実現しなかった。秀吉の死後、天下を掌握した徳川家康が江戸幕府を開き、やがて海外との交易を厳しく制限する、いわゆる「鎖国」政策へと舵を切ったからである 23 。これにより、日本の対外貿易の窓口は長崎の出島に限定され、博多は国際貿易港としての主役の座を長崎に譲ることになった 13 。これは、為政者の壮大な意図が、後世の政治状況によって予期せぬ結果に終わるという、歴史の非情さを示す一例と言える。

二元都市「福岡・博多」の誕生

太閤町割がもたらしたもう一つの大きな歴史的帰結は、現在の福岡市の骨格となる二元的な都市構造の基礎を築いたことである。太閤町割によって再興されたのは、那珂川の東側に位置する「商人の町・博多」であった 14

その後、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いで徳川家康方の勝利に大きく貢献した黒田長政(官兵衛の子)が、筑前国を与えられ、この地に入府する 41 。長政は、那珂川の西側の土地に新たに城を築き、自らの祖先の故地にちなんで「福岡」と名付けた 41 。こうして、福岡城を中心とする「武士の町・福岡」が誕生した。

これにより、那珂川を挟んで、東に伝統ある「商人の町・博多」、西に新興の「武士の町・福岡」という、性格の異なる二つの都市が並立する、日本でも珍しい双子都市が形成された 14 。この対照的な二つの町が、互いに影響を与え合いながら発展していく歴史が、ここから始まったのである。

現代に生きる遺産

太閤町割の影響は、400年以上を経た現代の博多にも色濃く生き続けている。祇園町や呉服町といった博多区中心部の整然とした街路は、まさしく太閤町割の碁盤の目の名残である 12 。昭和の町名整理で多くが失われたものの、今も町の辻には「旧○○町」と刻まれた石碑が点在し、秀吉が定めた133の旧町の記憶を伝えている 43

そして、何よりも雄弁にその遺産を物語るのが、博多祇園山笠である。太閤町割で創設された「流」の制度は、今なお山笠の運営と博多の地域コミュニティの基本単位として、人々の生活の中に深く根付いている 35 。これは、太閤町割が単なる物理的な復興に留まらず、人々の心の中に強固な共同体意識という「無形の資産」を築き上げたことの証左である。この精神的な遺産こそが、その後の時代の変遷を乗り越え、博多が商都として発展し続ける原動力となったと言っても過言ではないだろう。

結論:戦国時代の終焉と近世都市博多の誕生

天正十五年(1587年)の博多太閤町割は、日本の都市史における画期的な転換点であった。それは、戦国時代の長きにわたる争乱によって灰燼に帰した中世の自治都市の跡地に、中央集権的な権力の下で計画的に設計された、全く新しい近世都市が誕生した瞬間であった。

この事業は、単に敵を軍事力で滅ぼすだけでなく、破壊された土地に新たな秩序と繁栄を創造する統治能力こそが天下人の証であるという、豊臣秀吉の天下統一の理念を鮮やかに体現するものであった。驚異的な意思決定の速さ、官兵衛の軍事・土木技術と三成の行政・財務能力を適材適所に配置した合理的な人事、そして宗湛や宗室といった在地商人の活力を巧みに引き出した官民連携の手法。そのすべてが、旧来の封建的な統治とは一線を画す、近世的な国家運営の姿を示していた。

太閤町割によって再建された博多の街並みは、その後の歴史の変遷の中で、秀吉が夢見た国際貿易の拠点とはならなかったかもしれない。しかし、その代わりに国内随一の商業都市としての地位を確立し、新たに生まれた城下町・福岡と共に、今日の九州を代表する大都市・福岡市の礎を築いた。

そして、その最大の遺産は、目に見える街区以上に、博多祇園山笠の「流」に象徴される強固なコミュニティ意識という、無形の文化資本を人々の心に根付かせたことにある。秀吉、官兵衛、三成、そして博多商人たち。それぞれの野心と才能、そして故郷復興への願いが奇跡的に融合したこの事業は、戦国という時代の終焉と新しい時代の到来を力強く告げる、灰燼からの再生の物語として、今なお我々に多くの示唆を与え続けている。

引用文献

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  28. 豊臣秀吉 博多の町の復興“太閤町割り” - 博多の魅力 https://hakatanomiryoku.com/mame/%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E3%80%80%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E3%81%AE%E7%94%BA%E3%81%AE%E5%BE%A9%E8%88%88%E5%A4%AA%E9%96%A4%E7%94%BA%E5%89%B2%E3%82%8A
  29. 激動の時代を生き抜いた博多商人 島井宗室 | マンガ 九州の偉人・文化ものがたり https://kyusyu-manga.azusashoin.com/%E6%BF%80%E5%8B%95%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E7%94%9F%E3%81%8D%E6%8A%9C%E3%81%84%E3%81%9F%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E5%95%86%E4%BA%BA%E3%80%80%E5%B3%B6%E4%BA%95%E5%AE%97%E5%AE%A4/
  30. 島井宗室(シマイソウシツ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%B3%B6%E4%BA%95%E5%AE%97%E5%AE%A4-75103
  31. 朝鮮役における物資調達の問題 五、キリシタン禁令と貿易政策 - 三、在地領主制と惣村制 https://nagoya.repo.nii.ac.jp/record/8181/files/jouflh_19_304.pdf
  32. 豊臣秀吉と石田三成|なぜ信長・秀吉・家康のもとに“優秀な人材”が集まったのか?【戦国三英傑の採用力】 - note https://note.com/toshi_mizu249/n/nd45e971fc727
  33. 島井宗室 大友宗麟と結び、豊臣秀吉とも親交のあった博多の豪商 https://rekishi-club.com/%E5%B3%B6%E4%BA%95%E5%AE%97%E5%AE%A4%E3%80%80%E5%A4%A7%E5%8F%8B%E5%AE%97%E9%BA%9F%E3%81%A8%E7%B5%90%E3%81%B3%E3%80%81%E8%B1%8A%E8%87%A3%E7%A7%80%E5%90%89%E3%81%A8%E3%82%82%E8%A6%AA%E4%BA%A4%E3%81%AE/
  34. 福岡市における細街路の実態とその整備に関する一考察 https://urc.or.jp/wp-content/uploads/2014/03/20100930_ups10_07_chishaki.pdf
  35. 博多旧町名石碑で「昔の博多」を巡る |博多祇園山笠の歴史 - 山笠ナビ https://www.hakata-yamakasa.net/knowledge/history/sekihi-tour/
  36. 博多浪漫 - NPO博多まちづくり https://www.hakatabu.net/page045.html
  37. 舁き山笠紹介(30年度) - 博多祇園山笠 https://www.hakatayamakasa.com/94918.html
  38. 福岡市史 福岡歴史コラム https://www.city.fukuoka.lg.jp/shishi/column_b01.html
  39. 福岡歴史探訪HISTORY OF FUKUOKA https://www.fenet.or.jp/history/id/29
  40. 博多港の歴史 - 福岡市 https://www.city.fukuoka.lg.jp/kowan/somu/hakata-port/port-history.html
  41. 福岡の魅力と歴史 ~官兵衛以後の福岡~ - 九州人財ネットワーク with 福岡&九大 https://fukuoka.kyushu-jinzai.com/attraction-of-fukuoka_after-kanbei/
  42. 黒田官兵衛 福岡のゆかりの地タクシー観光 https://nishinihon-taxi.com/kanbei/history.html
  43. 石碑が教える博多旧町名 - 博多の魅力 https://hakatanomiryoku.com/mame/%E7%9F%B3%E7%A2%91%E3%81%8C%E6%95%99%E3%81%88%E3%82%8B%E5%8D%9A%E5%A4%9A%E6%97%A7%E7%94%BA%E5%90%8D