最終更新日 2025-10-04

原宿整備(1601)

慶長6年、徳川家康は原宿を整備し東海道宿駅制度を確立。戦国伝馬制を全国規模に昇華し、江戸中心の交通網を構築。民衆に伝馬役を課し、高波被害で移転。幕府の高度な統治能力と戦国との決別を象徴。
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慶長六年の「原宿整備」:戦国から泰平への道筋を定めた国家事業の解剖

序論:問いの再定義 — 「原宿整備」とは何か

慶長6年(1601年)、駿河国原(はら)において行われた「原宿整備」。この事象は、一見すると富士の裾野における一宿場の建設という地方的な出来事として捉えられがちである。しかし、その歴史的本質を「戦国時代という視点」から深く掘り下げる時、その様相は一変する。これは単独の「事変」ではなく、関ヶ原の戦いの勝利からわずか数ヶ月後、徳川家康が天下統一事業の総仕上げとして断行した国家プロジェクト、すなわち 慶長6年の東海道宿駅伝馬制度の確立 という壮大な政策の一環であった 1 。駿河国の原宿(はらしゅく)が、この国家構想の中で公式な宿場として指定され、整備されたのが、この事象の真相である。

本報告書が採用する「戦国時代という視点」とは、単に時代背景を述べるに留まらない。それは、以下の三つの分析軸を意味する。第一に、 制度の継承と革新 の観点である。戦国大名が領国経営の道具として用いた伝馬制度が、徳川幕府の手によっていかにして全国規模の統治システムへと昇華されたのかを検証する。第二に、 軍事・政治的必然性 の観点である。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い直後という、天下が未だ完全に静謐(せいひつ)ならざる緊迫したタイミングで、なぜこの政策が最優先で断行されねばならなかったのか、その戦略的意図を読み解く。第三に、 社会構造の変革 の観点である。戦国時代の分断され、無秩序であった交通網が、江戸を中心とする中央集権的なインフラへと再編される過程が、当時の社会に何をもたらしたのかを分析する。

この壮大な国家事業において、原宿は江戸日本橋から数えて13番目の宿場として、極めて重要な地理的位置を占めていた 3 。なお、本報告書の対象は現在の静岡県沼津市に位置した東海道の「原宿」であり、鎌倉街道の宿駅に由来し、後に江戸近郊の地名となった東京の「原宿」とは歴史的文脈を異にするものであることを、ここに明確にしておく 5

したがって、「原宿整備」という言葉が持つ地方の土木事業という印象は、より大きな歴史的文脈の中に再配置されねばならない。その実態は、戦国の終焉と江戸の始まりを物理的に、そして象徴的に刻印する国家行為であった。本報告書は、「原宿」という一つのレンズを通して、徳川幕府による国家建設のダイナミズムと、戦国という時代への決別を告げる壮大なビジョンを解き明かすことを目的とする。

第一章:戦国乱世の道と伝馬 — 徳川以前の交通網

徳川家康による慶長6年(1601年)の宿駅伝馬制度は、全くの無から生まれたものではない。その前史として、戦国大名たちが自らの領国を統治するために構築した、独自の伝馬制度が存在した。しかし、それらは徳川の制度とは目的と規模において根本的に異なる、閉鎖的かつ軍事優先のシステムであった。

戦国大名の伝馬制度

戦国時代、伝馬制度は各大名が領国内の支配を維持・強化するための神経網として機能した。その主たる目的は、本城と各地の支城を結び、軍勢の移動、軍事物資の輸送、そして何よりも迅速な情報伝達を円滑化することにあった 8 。この制度は、あくまで領国経営という閉じた枠組みの中での効率化を追求するものであり、全国的な交通網の整備を意図したものではなかった。

特に、後の東海道が貫くこととなる駿河国や関東地方においては、先進的な伝馬制度が確認できる。

  • 今川氏の伝馬制度: 駿河・遠江・三河にまたがる広大な領国を支配した今川氏は、天文年間(1550年代)には既に出兵に際して伝馬制度を体系的に運用していた。例えば、三河国の御油宿(後の東海道の宿場)は、この時点で既に今川氏の伝馬ネットワークに組み込まれており、重臣が発行した伝馬手形によって公用の馬が提供されていた記録が残っている 10 。これは、軍事行動と一体化した兵站(へいたん)システムとして、伝馬制度が極めて重要であったことを示している。
  • 後北条氏の伝馬制度: 小田原を本拠地とし、関東一円に覇を唱えた後北条氏は、さらに洗練された伝馬制度を構築した。大永4年(1524年)の制札には、「虎の印判」を持つ公的な使用者以外に伝馬を提供してはならないという厳格な規定が見られ、交通の利用権限を大名が一元的に管理しようとする強い意志が窺える 12 。後北条氏の伝馬網は、小田原を中心として領国全域に張り巡らされ、その運用方法は後の徳川幕府の制度にも影響を与えたと考えられている 13

戦国時代の交通の限界

これらの大名による伝馬制度は、それぞれの領国内では機能したものの、日本全体として見れば、交通網は深刻なまでに分断されていた。大名の領国がそのまま交通圏の単位となり、国境には私的な関所が乱立した。これらの関所は、通行税(関銭)を徴収する経済的機能と、敵の侵入や情報の漏洩を防ぐ軍事的機能を併せ持ち、結果として自由な人々の往来や広域的な物流を著しく阻害する要因となっていた 14

天下統一を目指した織田信長は、この問題の重要性を認識していた。彼は「楽市楽座」と並行して、領国内の関所を撤廃し、物流の円滑化を図った。さらに、道幅を本街道、脇街道、在所道にランク分けして規格化するなど、交通インフラの整備にも着手した 14 。豊臣秀吉もこの政策を継承し、太閤検地などによって全国支配を推し進めたが、全国を網羅する恒久的な宿駅制度を確立するには至らなかった。彼らの時代、道はまだ戦国の延長線上にあったのである。

徳川家康の宿駅伝馬制度が如何に画期的であったかを理解するためには、戦国大名のそれとの比較が不可欠である。

【表1】戦国大名と徳川幕府の伝馬制度比較

項目

今川氏・後北条氏の伝馬制度

徳川幕府の宿駅伝馬制度

目的

領国内の軍事行動・情報伝達

全国支配の確立、大名統制、公用輸送

管理主体

各戦国大名

江戸幕府(道中奉行)

規模

領国内(閉鎖的ネットワーク)

全国規模(五街道を中心とする開放的ネットワーク)

運用方法

大名発行の印判等による不統一な管理

伝馬朱印状・御伝馬之定による全国統一基準

この比較から明らかなように、徳川家康の構想は、単なるインフラ整備を超えた、極めて高度な政治的プロジェクトであった。それは、戦国大名が築き上げた「領国」という閉鎖的な空間概念そのものを解体し、「日本」という統一国家の空間を新たに定義し直すための壮大な試みだったのである。戦国大名の伝馬が「内向き」の支配ツールであったのに対し、家康のそれは江戸という新たな政治中心と全国を結びつける「外向き」かつ「求心的な」統治システムであった。この街道整備は、物理的な道を建設するだけでなく、人々の意識の中に深く根付いていた「国境」の垣根を取り払い、江戸を中心とする新たな秩序を全国に植え付けるための、思想的・象徴的な意味合いを強く帯びていたのである。

第二章:天下統一のグランドデザイン — 慶長六年の宿駅伝馬制度

関ヶ原の戦いにおける勝利は、徳川家康に天下人としての地位をもたらしたが、それは決して安泰なものではなかった。豊臣家は依然として大坂城に健在であり、西国には豊臣恩顧の大名が多数存在していた。この不安定な情勢下で、家康は武力による平定と並行して、新たな国家統治システムの構築を驚異的な速度で推し進めた。その中核をなしたのが、慶長6年(1601年)に発令された宿駅伝馬制度である。

時系列分析①:政策決定から発令まで

  • 慶長5年(1600年)10月: 関ヶ原での勝利後、家康は戦後処理に着手。しかし、国内の緊張は依然として高く、いつ再び戦乱が起きてもおかしくない状況であった。
  • 慶長6年(1601年)正月: 関ヶ原の火蓋が切られてからわずか3ヶ月余り。家康は、東海道の宿駅伝馬制度の確立を命じるという、異例の迅速さで次の一手を打った 1 。この速度は、この政策が平時の経済振興策などではなく、戦後処理と徳川による恒久的な支配体制を確立するための、緊急性の極めて高い軍事・政治マターであったことを雄弁に物語っている。江戸と京・大坂を結ぶ大動脈を完全に掌握することは、西国の動向を監視し、有事の際に迅速に軍を派遣するための絶対条件であった 18
  • 政策の実行部隊: この国家プロジェクトの実行を担ったのは、家康の腹心の中でも特に実務能力に長けた代官頭たちであった。関東代官頭の 伊奈忠次 、石見銀山や佐渡金山奉行を歴任した 大久保長安 、そして勘定方の重鎮であった 彦坂元正 。彼ら三名の連署による「御伝馬之定」が、家康の朱印状と共に各宿場へ交付された 19 。これは、家康の強力なリーダーシップの下、トップダウンで政策が強力に推進されたことを示している。

制度の核心 — 二つの公文書

この新制度の権威と実効性を担保したのが、各宿場に下付された二つの公文書であった。

  • 「伝馬朱印状」: これは、徳川家康の権威そのものを象徴する文書であった。馬と馬の手綱を引く馬士が描かれた「駒曳朱印(こまびきしゅいん)」が押され、「此の御朱印なくしては伝馬を出すべからざる者也」という簡潔かつ絶対的な一文が記されていた 22 。これにより、幕府の許可なく公用の人馬を使用することは固く禁じられ、交通の利用権限は完全に幕府が独占することになった。これは、戦国時代に各大名が独自に発行していた印判を無効化し、徳川の権威の下に交通秩序を再編する宣言に他ならなかった 19
  • 「御伝馬之定」: これは、制度の具体的な運用規則を定めた、いわば全国共通の業務マニュアルであった。全五カ条からなり、各宿場が常備すべき伝馬の数(当初は36疋)、荷物をリレー形式で継ぎ送るべき隣の宿場の指定、伝馬一疋あたりの積載量の上限、そして公用輸送の際の運賃(駄賃)など、詳細な規定が盛り込まれていた 4 。この文書により、東海道のどこであっても、幕府は標準化された質の高い輸送サービスを享受できるようになったのである。

制度の目的 — 戦国への逆行防止

家康がこの制度を急いだ背景には、戦国乱世への逆戻りを断固として阻止するという強い決意があった。その目的は多岐にわたる。

  • 大名統制: 後に制度化される参勤交代の円滑な実施を見据え、諸大名の移動ルートと手段を幕府の厳格な管理下に置くための布石であった 25 。街道と宿場というインフラを幕府が完全に掌握することで、大名の動向は常に監視可能となり、謀反の企てを未然に防ぐ効果が期待された。
  • 軍事・情報網の確立: 江戸と京・大坂、そして全国の要所を結ぶ街道網は、有事の際に迅速な軍隊移動を可能にする軍用道路としての性格を色濃く持っていた 18 。特に甲州街道は、万が一江戸城が攻撃された際の将軍の避難路としても想定されていたという説もある 27 。また、各宿場を中継点とする「継飛脚」制度の整備は、幕府が全国の情報を誰よりも早く、そして確実に掌握するための神経網を構築することを意味した 28
  • 関所の再編と治安維持: 戦国時代に乱立し、物流の妨げとなっていた私的な関所は原則として廃止された。その一方で、幕府は箱根や新居(今切)、碓氷といった国防上の要衝に新たな関所を設置し、幕府直轄の管理下に置いた 14 。これらの関所では、有名な「入り鉄砲に出女」の言葉に象徴されるように、江戸への武器の流入と、人質として江戸に置かれた大名の妻子が脱出することを厳しく取り締まり、体制の安定化を図った 16

慶長6年の宿駅伝馬制度は、単に物理的な「道」を整備しただけではなかった。その本質は、交通インフラの整備を通じて、通行の「権利」と、流通する「情報」を幕府が一元的に独占・管理するシステムを構築した点にある。戦国時代、情報は各勢力が独自に収集し、道は実力者が支配するものであった。しかし、「伝馬朱印状」は誰が公的に道を利用できるかを定義し、選別する装置となり、幕府の権威を可視化した。「御伝馬之定」は、全国の宿場に同じルールを課すことで、幕府の命令が日本の隅々にまで及ぶことを示した。これは、戦国的な武力による直接的な支配から、法と情報システムによる、より高度で恒久的な支配への移行を象徴する、画期的な一歩だったのである。この制度は、新たな徳川の世を支える国家の神経網であり、血管系そのものであった。

第三章:駿河国の要衝、原宿の誕生

徳川幕府による全国交通網整備という壮大な構想の中で、駿河国に位置する原は、東海道十三番目の宿場として新たな役割を担うことになった。その誕生は、幕府の強大な権力が、いかにして一つの地域社会を再編し、国家の歯車として組み込んでいったかを示す、具体的な事例である。

地理的・歴史的文脈

  • 宿場設置以前の原: 「原」という地名は、富士山と愛鷹山の南麓に広がる広大な原野、いわゆる「浮島ヶ原」に由来すると考えられている 32 。古代の東海道は、この湿地帯を避けて北側の山裾を通っていたが、平安時代中期以降、より直線的な海岸沿いのルートが主流となると、この地域は交通の要衝としての性格を帯びるようになった 33
  • 戦略的位置: 宿場としての原は、地理的に絶妙な位置にあった。東には天下の険と謳われた箱根峠、西には渡河が困難な富士川が控える。原宿は、これら東海道の二大難所の中間に位置し、旅人にとっては長旅の疲れを癒やし、次の難所に備えるための重要な休息・準備地点であった。幕府の視点から見れば、この結節点を押さえることは、東海道を往来する人々と物資の流れを管理・統制する上で不可欠であった。
  • 徳川家康との縁: 駿河国は、徳川家康が今川氏の人質として幼少期を過ごし、また天下統一後には大御所として君臨した、いわば第二の故郷ともいえる地であった 34 。特に、居城であった駿府城(府中宿)周辺のインフラ整備は最重要課題の一つであり、原宿を含む駿河国内の宿場群の整備は、家康の強い意志の下で進められたと考えられる 36

時系列分析②:原宿の宿場指定と建設プロセス(推定)

原宿が公式な宿場として誕生するまでの過程は、幕府のトップダウンによる計画的な都市建設そのものであった。

  • 慶長6年(1601年)初頭: 幕府の命令が江戸を発し、東海道の各宿場予定地へ「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」が届けられた。隣接する吉原宿には、この時に家康から下された朱印状の存在が記録されており(現物は消失)、原宿にも同様の公文書が下付されたことは確実である 24 。この瞬間、原は単なる街道沿いの村から、国家の公的機能を担う「宿場」へとその性格を規定された。
  • 宿場の建設(宿割): 朱印状の下付に続き、幕府の代官などの役人の監督の下、計画的な町づくり、いわゆる「宿割(しゅくわり)」が実施されたと推定される。これは、無秩序に家屋を建てるのではなく、宿場としての機能を最大限に発揮できるよう、計算された都市計画であった。
  • 中心施設の配置: 宿場の中心的な場所には、公用輸送業務の拠点である**問屋場(といやば)**が設けられた。また、参勤交代で往来する大名や公家、幕府役人が宿泊・休息するための施設として、**本陣(ほんじん) 脇本陣(わきほんじん)**が指定・建設された 28 。宿場の出入り口は、敵の侵攻速度を遅らせる軍事的な目的から、道を直角に曲げた「枡形(ますがた)」と呼ばれる構造が採用されることも多かった 42
  • 住民の役割分担: 宿場の住民は、宿場町に住むことと引き換えに、**伝馬役(てんまやく)**という重い公役を課せられた。これは、幕府が定めた数(当初は36疋)の人馬を常に用意し、朱印状を持つ公用の旅人に対しては無賃または幕府指定の安い公定賃金で提供しなければならないという義務であった 4
  • 特権の付与: このような重い負担の見返りとして、宿場の住民には屋敷地に課せられる年貢(地子銭)が免除されるといった経済的な特権が与えられた 20 。これは、負担と引き換えに特権を与えることで、宿場機能を安定的に維持しようとする幕府の政策であった。

住民への負担と地域社会の変容

宿場の誕生は、地域社会に劇的な変化をもたらした。

  • 伝馬役と助郷の負担: 交通量が増加するにつれて、宿場町単独で定められた人馬を常備することは困難になっていった。そのため、宿場周辺の農村が、人馬を提供する補助的な義務を負わされた。これを**助郷役(すけごうやく)**という 44 。助郷に指定された村々の農民は、農作業の繁忙期であっても、宿場からの要請があれば人馬を引いて駆けつけねばならず、これは極めて大きな負担となった。後の時代には、この過酷な負担を巡って宿場と助郷村の間で深刻な対立が頻発することになる 46
  • 新たなコミュニティの形成: 宿場建設は、人々を強制的に街道沿いに集住させ、新たな経済圏とコミュニティを創出した。大名行列や幕府役人、そして次第に増加する一般の旅人たちを相手にする旅籠(はたご)や茶屋、様々な商品を売る商店が軒を連ね、原宿は多様な人々が行き交う交流のハブとなった 5

原宿の誕生は、単に建物が建てられたという物理的な事象ではない。それは、幕府の命令一つで新たな町が創設され、そこに住む人々の生活様式、経済活動、そして負担の構造までもが根底から作り変えられていく過程を示す、象徴的な出来事であった。伝馬役や助郷役というシステムは、幕府の公的業務を支えるために、地域社会の資源(労働力や資産)を法と制度に基づいてシステマティックに動員する仕組みである 43 。原宿の住民たちは、徳川幕府が描いた壮大な国家構想の末端を担う歯車として、その生活を規定されることになった。彼らの日常は、江戸からの指令と、東海道を絶え間なく往来する人々の流れによって、否応なく形作られていったのである。これは、徳川幕府が有した、社会全体をデザインし直すほどの強大な権力と実行力を如実に示している。

第四章:稼働する宿場 — 慶長初期における原宿の日常と試練

慶長6年(1601年)に公式な宿場として産声を上げた原宿は、直ちに国家の大動脈として機能し始めた。その日常は、江戸と京・大坂を結ぶ人・モノ・情報の絶え間ない流れを支える、緊張感に満ちた業務の連続であった。そして、その稼働開始から10年も経たないうちに、宿場は存亡の危機に関わる重大な試練に直面することになる。

宿場の運営システム

宿場の心臓部であり、すべての公用輸送業務を司ったのが問屋場であった。そこでは、宿場の代表者である 問屋 、その補佐役である 年寄(としより) 、そして人馬の手配や会計を記録する**帳付(ちょうづけ)**といった宿役人たちが中心となり、24時間体制で業務を差配していた 41

問屋場での業務は、まさにリアルタイムで進行する。

江戸や京方面から朱印状や老中奉書などの証文を携えた公用の旅人(幕府役人や大名行列の先触れなど)が到着すると、宿役人はまずその証文を厳格に確認する。正当なものであると認められると、直ちに次の宿場である沼津宿、あるいは吉原宿までの人馬を迅速に手配する。荷物は、原則として宿場ごとに馬から馬へと積み替える「宿継ぎ」方式が採用されており、その作業も問屋場の指示の下で行われた 29。

また、幕府の公用書状を運ぶ「継飛脚」の中継も、問屋場の最重要業務の一つであった 28 。一刻を争う幕府の命令や報告を滞りなく次の宿場へリレーするため、常に最良の人足と馬が確保されていた。原宿の問屋場は、まさに徳川幕府の支配体制を支える情報・物流ネットワークの、不可欠な中継基地だったのである。

時系列分析③:初期の重大事象 — 慶長14年(1609年)の高波と宿場移転

順調に稼働を始めたかに見えた原宿であったが、その立地は自然の猛威に対して脆弱であった。

  • 災害の発生: 慶長14年(1609年)、原宿は大規模な高波(津波とも記録される)の被害に見舞われた 51 。宿場が創設された当初、その町並みは現在の旧東海道沿いの場所よりもさらに南、つまり駿河湾の海岸に近い低地に位置していた。この災害により、宿場の施設や家屋は甚大な被害を受け、宿場機能は麻痺状態に陥ったと考えられる。
  • 幕府の対応: この危機に対し、徳川幕府の対応は迅速かつ抜本的であった。幕府は、この被災を単なる一地域の不運として放置せず、「道路政策の面から」国家的な問題として捉えた。そして、被災した宿場をその場で再建するのではなく、より安全な北側の高台(現在の旧東海道が通る場所)へ、宿場全体を計画的に移転させるという大胆な決定を下したのである 52
  • 移転の意味: この大規模な移転事業は、単なる災害復旧工事に留まらない、極めて重要な意味を持っていた。
  1. インフラ維持への強い意志: 幕府が東海道という国家の大動脈の安定稼働を、何よりも優先すべき最重要課題と認識し、その維持のためには巨額の投資や大規模な都市計画さえも厭わなかったことを明確に示している。
  2. 高度な危機管理能力: 予期せぬ自然災害に対し、場当たり的な対応ではなく、将来のリスクを考慮した上で計画的かつ大規模な都市再開発を断行できるだけの、高度な統治能力と技術力を幕府が有していたことを証明している。
  3. 戦国時代との決別: もし戦国時代であれば、このような大規模災害は一地域の永続的な衰退に直結しかねなかったであろう。しかし、強力な中央権力の下では、宿場は国家インフラの一部として迅速に、そして以前よりも強靭な形で再建された。これは、時代の価値観が根本的に変化したことを象徴する出来事であった。

関ヶ原の戦いから宿場移転までの一連の流れは、徳川幕府による国家建設のダイナミズムを如実に示している。

【表2】慶長年間における原宿関連年表

西暦

和暦

主な出来事

典拠

1600年

慶長5年

10月、関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利。

(歴史事実)

1601年

慶長6年

1月、徳川幕府が東海道宿駅伝馬制度を発令。原宿が正式な宿場に指定される。

1

(推定)

(推定)

原宿において宿場の建設(宿割り、問屋場・本陣等の設置)が開始される。

41

1609年

慶長14年

高波(津波)により、海岸近くにあった原宿が壊滅的な被害を受ける。幕府の決定により、より安全な北側の高台へ宿場全体が計画的に移転する。

51

慶長14年の宿場移転は、徳川幕府の統治が、単に命令を下して人々を従わせるだけの「支配(ドミネーション)」の段階から、社会インフラを能動的に維持・管理し、危機に対応することで民衆の生活基盤を保障する、より高度な「統治(ガバナンス)」の次元へと移行しつつあったことを示す画期的な事例である。戦国時代の論理が「獲るか獲られるか」という短期的な生存競争であったのに対し、幕府のこの判断は、泰平の世の永続を前提とした、長期的かつ戦略的な国家経営の論理に基づいていた。原宿の移転は、この新しい時代の幕開けを、災害からの復興という形で力強く告げる出来事だったのである。

結論:原宿整備が象徴する時代の転換

慶長6年(1601年)の「原宿整備」は、その言葉が持つ局所的な響きとは裏腹に、駿河国の一宿場の建設という事象に留まるものでは断じてなかった。それは、徳川家康が百年にわたる戦国乱世に終止符を打ち、法と制度に基づく新たな中央集権的統治体制、すなわち幕藩体制を全国に確立していく過程を凝縮して象徴する、画期的な国家事業であった。

この事業は、戦国から江戸へと時代が大きく転換したことを、以下の二点において明確に示している。

第一に、 力の支配から仕組み(システム)の支配への移行 である。戦国時代の秩序は、大名個人の武力やカリスマといった、属人的な要素に大きく依存していた。交通網もまた、各大名が発行する印判によって領国ごとに管理される、不均質で不安定なものであった。これに対し、徳川幕府は「伝馬朱印状」と「御伝馬之定」という全国一律の法規を公布し、原宿を含む全ての宿場を標準化されたシステムの下に置いた。これにより、支配は個人の武力から、恒久的で客観的な「仕組み」へとその基盤を移した。原宿の問屋場で日々行われた継ぎ立て業務は、まさにこの新たな統治システムが、国家の末端で確実に機能している証左であった。

第二に、 分断から統合への移行 である。戦国時代の日本は、大名の領国という無数の「クニ」に分断された集合体であった。道は国境で途切れ、関所が人々の交流を妨げていた。慶長6年の東海道整備は、これらの物理的・心理的な障壁を打ち破り、江戸という唯一の中心と全国を結ぶ求心的なネットワークを創出した。原宿は、この統合された国家空間における重要な結節点として誕生した。さらに、慶長14年の高波被害からの計画的な移転は、幕府がこの統合されたインフラを維持するためには、いかなる投資も惜しまないという国家の強い意志を示した。これは、部分の都合よりも全体の利益を優先する、統一国家ならではの論理であった。

慶長6年に産声を上げた東海道と原宿は、その後260年以上にわたって続く江戸時代の平和と安定を支える大動脈となった。それは、参勤交代を通じて政治的な統合を促し、継飛脚を通じて迅速な情報流通を可能にし、そして後世にはお伊勢参りに代表される庶民の旅や文化交流を活発化させ、日本の経済・社会・文化の発展に不可欠な基盤を提供し続けたのである。

結論として、「原宿整備」は、戦国の混沌の中から新たな秩序を創造しようとする、徳川家康の壮大な国家構想の一翼を担うものであった。それは、泰平の世への道筋を物理的に大地に刻み込む、重要かつ決定的な一歩だったのである。

引用文献

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  5. 原宿の地名の由来とは?:武士の里から文化の交差点へ - WA MARE https://www.wa-mare.com/column/476/
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  15. 1−1−2 交通変遷と街道の整備実態、機能・役割 https://www.mlit.go.jp/common/000055312.pdf
  16. 関所の廃止 http://www.kyoto-be.ne.jp/rakuhoku-hs/mt/education/pdf/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E6%9C%AC15%EF%BC%88%E7%AC%AC32%E5%9B%9E%EF%BC%89%E3%80%8E%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E3%83%9E%E3%83%8D%E3%83%BC%E9%9D%A9%E5%91%BD%EF%BC%93%EF%BC%89%E3%80%8F.pdf
  17. 川崎が宿場になったのはいつ頃ですか? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index2/a0203.htm
  18. 【街道の成立】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht012620
  19. 伝馬朱印状とはどういうものですか? https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0106.htm
  20. 江戸幕府の街道施策の正確な伝承・発信にご尽力されている志田 威(しだ たけし)先生より、令和4年5月29日(日)に開催された『東海道57次講演』についてのお知らせをいただきました。 - 戸谷八商店 https://www.toyahachi.com/20230222/
  21. 伊奈忠次について | バラのまち埼玉県伊奈町公式ホームページ Ina Town Official Web site https://www.town.saitama-ina.lg.jp/0000004028.html
  22. 東海道53次とは? - ちょっと寄り道・東海道ひとり旅 https://toma-m.com/about.html
  23. 伝馬朱印状(てんましゅいんじょう)|収蔵資料 - 物流博物館 https://www.lmuse.or.jp/collection/gallery/edo/02.html
  24. 吉原宿伝馬朱印状 - 富士市立博物館 https://museum.city.fuji.shizuoka.jp/report/a6-1-1-4.html
  25. 「五街道」とは?地域文化を育んだのは、江戸時代から賑わう“道”でした。 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/148734
  26. 五街道 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E8%A1%97%E9%81%93
  27. 《甲州街道》整備の目的は将軍の身が危ぶまれた際の脱走路!?|浮世絵からひも解く、五街道と地域文化 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/148788
  28. 【高校日本史B】「交通の整備(陸上交通)」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12869/point-2/
  29. 古代の道 その3 近世の街道 江戸時代 https://kaidouarukitabi.com/rekisi/rekisi3.html
  30. 近世関所の諸形態 - 法政大学 学術機関リポジトリ https://hosei.ecats-library.jp/da/repository/00010914/shigaku_23_watanabe.pdf
  31. なぜ箱根に「関所」が作られたのか? 厳格な監視システムと、知られざる女性蔑視の矛盾に迫る【連載】江戸モビリティーズのまなざし(15) | Merkmal(メルクマール) - (2) https://merkmal-biz.jp/post/45632/2
  32. 都市再生整備計画(精算 ) - 沼津市 https://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/keikaku/various/toshisaiseiseibi/doc/27.pdf
  33. 静岡県静岡市・藤枝市、駿州の二峠八宿で、江戸時代の旅人が歩いた東海道の面影をたどる https://shizuoka.hellonavi.jp/tokaido-sunsyu-1
  34. 駿河国 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%BF%E6%B2%B3%E5%9B%BD
  35. 東海道「駿河2峠6宿風景街道」 - 国土交通省中部地方整備局 https://www.cbr.mlit.go.jp/road/chubu-fukei/route/18.html
  36. 東海道~東と西が出会う場所 - 静岡市 https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/p009497.html
  37. 府中宿 - あいち歴史観光 https://rekishi-kanko.pref.aichi.jp/place/huchu.html
  38. 【広報ふじ平成13年】東海道400年祭開催 我が街の東海道 - 富士市 https://www.city.fuji.shizuoka.jp/archive/kouhou/kiji/101130205_0772_02.htm
  39. 歴史が往来した道・東海道 関ヶ原の戦いの後、徳川家康は、政治の拠点 を江戸に置き、江戸と京都など各地を結ぶ街道 の整備を行いました。 - 富士市 https://www.city.fuji.shizuoka.jp/archive/kouhou/image/pagepdf/0772/0772-02-05.pdf
  40. 宿場町とは/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/113262/
  41. 資料紹介6⦆大名行列と本陣・脇本陣・問屋/中津川市 https://www.city.nakatsugawa.lg.jp/museum/n/archives/1575.html
  42. 大名行列が宿泊する宿場町は問屋場と本陣がてんてこ舞 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/c08605/
  43. (第377号)箱根八里の難所と三島宿の伝馬役(令和元年10月1日号) https://www.city.mishima.shizuoka.jp/ipn042368.html
  44. 助郷 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A9%E9%83%B7
  45. 牛久・荒川沖宿・助郷一揆 | 世界遺産(負遺産)情報 https://kousin242.sakura.ne.jp/wordpress014/%E5%9C%B0%E5%9F%9F%E6%96%87%E5%8C%96/%E7%89%9B%E4%B9%85%E5%B8%82/2048-2/
  46. 大名通行時の人馬負担 - 『福井県史』通史編3 近世一 https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T3/T3-4-01-03-03-01.htm
  47. 【伝馬役の負担と資格】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100020/ht020620
  48. 東海道と宿場の施設【問屋場】 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/03_sisetu/06index.htm
  49. “街道と宿場”の豆知識 http://akiyama.my.coocan.jp/kaiteikaidoumame.pdf
  50. 宿駅伝馬制度って、なんのこと? - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/yokohama/tokaido/02_tokaido/04_qa/index1/a0105.htm
  51. 原宿(東海道 - 沼津~原) - 旧街道ウォーキング - 人力 https://www.jinriki.info/kaidolist/tokaido/numazu_hara/harashuku/
  52. 富士海岸の災害記録|静岡県公式ホームページ https://www.pref.shizuoka.jp/machizukuri/dobokujimusho/numazudoboku/1002190/1046103/1042704.html