最終更新日 2025-09-19

名古屋城下町建設(1610)

Perplexity」で事変の概要や画像を参照

慶長十五年 名古屋新都創造:徳川家康、天下平定の総仕上げ

序章:天下動乱の終焉と新たなる胎動(1609年以前)

慶長15年(1610年)に開始された名古屋城下町の建設は、単なる一都市の造成事業ではない。それは、関ヶ原の戦いという未曾有の内乱を乗り越え、徳川による恒久的な天下泰平を志向した徳川家康の、深謀遠慮に基づく国家プロジェクトの集大成であった。この壮大な事業が、なぜ尾張の地で、この時期に行われなければならなかったのか。その背景には、戦国乱世の終焉と新たなる時代の秩序構築に向けた、政治的、軍事的、そして地理的な必然性が複雑に絡み合っていた。

1.1. 関ヶ原後の天下と残された火種

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける東軍の勝利により、徳川家康は天下の実権を掌握した。慶長8年(1603年)には征夷大将軍に任官し、江戸に幕府を開府するに至る。しかし、徳川の支配体制は未だ盤石とは言い難い状況にあった。最大の懸念は、大坂城を拠点とする豊臣家の存在である。豊臣秀頼の下、依然として莫大な財力を保持し、その権威を慕う西国大名も少なくなかった 1 。家康にとって、豊臣家は徳川による天下統一を完成させる上で、避けては通れない最後の、そして最大の障害であった。

家康は、豊臣家の膨大な資産を枯渇させるべく、方広寺大仏殿の再建をはじめとする大規模な寺社の寄進を勧めるなど、巧みな懐柔策と経済的圧迫を続けていた 2 。しかし、それだけでは不十分であった。来るべき直接対決に備え、江戸と京・大坂を結ぶ大動脈である東海道の要衝に、豊臣家を軍事的に封じ込めるための強力な拠点を築くことが、喫緊の課題となっていたのである 1 。その戦略的要地として白羽の矢が立ったのが、尾張国であった。

1.2. 旧都・清洲の限界

当時、尾張国の中心地は清洲城であった。清洲は鎌倉街道と伊勢街道が合流する交通の要衝として、織田信長の時代から政治・経済の中心として繁栄を極めていた 6 。しかし、この旧都は、徳川が構想する新時代の拠点としては、致命的な欠陥を抱えていた。

最大の問題は、その地理的脆弱性である。清洲城および城下町は、五条川沿いの低湿地に位置しており、常に水害の危険に晒されていた 1 。大規模な城下町をさらに拡張するには土地が狭隘であり、水攻めに対する防御上の弱点も懸念されていた 7 。この地政学的リスクは、平時における都市の発展を阻害するだけでなく、有事の際の軍事拠点としても致命的であった。家康の九男であり、尾張の新たな領主となった徳川義直の傅役(もりやく)・山下氏勝らは、この清洲の限界を家康に進言し、新たな拠点への遷府を強く働きかけた 8 。清洲の放棄は、単なる移転ではなく、過去の脆弱性との決別を意味していた。

1.3. 新たな舞台:名古屋台地の選定

遷府先の候補地として、那古野(名古屋)、古渡、小牧などが検討された 8 。綿密な調査と戦略的判断の末、最終的に選ばれたのが、熱田台地の北西端に位置する那古野の地であった。この場所は、かつて織田信秀が今川氏から奪取し、若き日の織田信長が居城とした那古野城の故地でもある 2

この地が選ばれた理由は、清洲が抱える問題をすべて克服する地理的優位性にあった。周囲より約10メートル高い堅固な台地上に位置するため、水害の心配がほとんどなく、大規模な城郭と城下町を建設するのに十分な広がりを持っていた 5 。防御面においても、この高低差は天然の要害として機能し、新時代の拠点にふさわしい条件を備えていた。

名古屋城下町の建設は、このようにして、地政学的リスクの克服という現実的な課題解決と、対豊臣最終戦略の物理的具現化という高度な軍事目標が完全に一体化した国家プロジェクトとして始動した。清洲という過去との決別は、水害リスクと旧来の都市構造からの脱却を意味し、名古屋という未来への選択は、徳川による恒久支配と経済発展への確固たる意志表明だったのである。家康は、自然災害というリスクを排除しつつ、最大の政治的脅威に対する軍事拠点を構築するという、一石二鳥の壮大な構想を描いていた。

第一章:新時代の設計図:城と町のグランドデザイン(1609年〜1610年初頭)

慶長14年(1609年)、徳川家康は名古屋城の築城と清洲からの遷府を正式に決定する 12 。この決定に基づき、着工に先立って城と町の壮大なグランドデザインが練り上げられた。その設計思想は、戦国乱世を通じて培われた築城技術と戦闘思想の集大成であると同時に、来るべき泰平の世における都市の繁栄を見据えた、革新的な都市計画の萌芽でもあった。それは、軍事と経済、防衛と発展という二つの異なるベクトルを、一つの都市空間の中に矛盾なく統合しようとする、家康の卓越した国家構想の現れであった。

2.1. 近世城郭の完成形:名古屋城の縄張

名古屋城の縄張(城郭の設計)は、家康自身の強い意志が色濃く反映されたものであった 13 。戦国時代に見られたような、防御のために複雑に入り組んだ縄張とは一線を画し、方形の曲輪を直線的に配置した、一見するとシンプルな構成を特徴としている 15 。しかし、その単純さの裏には、極めて合理的かつ堅固な防衛思想が貫かれていた。

城郭は、本丸を中心に、南東に二之丸、南西に西之丸、北西に御深井丸を配置した梯郭式を採用 15 。各曲輪は深い堀によって完全に分断され、それぞれが独立した防御単位として機能するよう設計されている。そして、これらの曲輪は幅の狭い土橋のみで連結されており、仮に一つの曲輪が敵の手に落ちても、他の曲輪への侵攻を容易に許さない構造となっていた 15

さらに、城内への主要な入口である虎口(こぐち)には、二重の門で構成された「枡形(ますがた)」を設け、敵兵の侵入速度を削ぎ、集中攻撃を可能にした。本丸の南(大手)と東(搦手)には、枡形の外側にさらに「馬出(うまだし)」と呼ばれる独立した防御施設を配置し、幾重にもわたる鉄壁の防御線を構築した 5 。これらの設計は、当時の最新技術を結集したものであり、名古屋城が「近世城郭の完成形」と評される所以である 14

この壮大な城郭の建築には、当代随一の専門家たちが集められた。天守などの建築は、家康の側近であり、江戸城や駿府城の作事も手掛けた大工頭・中井正清と、茶人としても名高い小堀政一(後の小堀遠州)が担当した 17 。城全体の縄張の設計責任者については、家康自身が深く関与したことは間違いないが、築城の名手として知られる藤堂高虎らの意見も取り入れられたと考えられている 18

2.2. 恒久都市への意志:碁盤割の導入

家康の設計思想は、城郭本体に留まらなかった。城の南側に広がる城下町には、来るべき平和な時代の繁栄を見据えた、合理的で機能的な都市計画が導入された。その中核をなすのが、碁盤の目のように整然と区画された町人地、「碁盤割(ごばんわり)」である 19

南北の基軸として本町通、東西の基軸として伝馬町通が設定され、これらを中心に正方形の街区が規則正しく配置された 9 。この計画的な街路網は、単に見た目が美しいだけでなく、物資の流通、火災時の延焼防止、そして日常の治安維持といった、都市が持つべき多様な機能の効率化を目的としていた 20 。碁盤割が実施された範囲は、北を外堀、南を堀切筋(現在の広小路通)、東を久屋町(現在の久屋大通)、西を御園町(現在の御園通)とし、これが現代に至る名古屋市中心部の骨格を形成することになる 9

2.3. 戦略的ゾーニング:身分制社会の空間的反映

名古屋の都市計画は、近世の身分制社会を空間的に反映した、明確なゾーニング(区域分け)によって特徴づけられる。城を頂点として、武士、町人、そして寺社が、それぞれの役割に応じて戦略的に配置された 9

城に最も近い三之丸には、尾張藩の重臣たちの広大な屋敷が配置された。その南側に広がる碁盤割のエリアが、商業や手工業を担う町人たちの居住区兼仕事場と定められた 23 。そして、中流以下の武士が住む武家地は、この町人地を東と南から包み込むように配置された。さらにその外周、城下町の境界線となる主要な街道沿いには、多数の寺院が集められた寺町が形成された 19 。この寺社の配置は、単なる宗教的な理由からだけではない。有事の際には、その堅牢な塀や建物を防衛拠点として利用するという、明確な軍事的意図が含まれていた。

2.4. 都市の動脈:堀川開削計画

名古屋城下町の設計において、城郭そのものと同じくらい重要視されたのが、都市の生命線となるインフラの整備であった。特に、内陸の台地上に建設される新都市にとって、物資輸送手段の確保は死活問題であった。その解決策として、築城と同時に計画されたのが、運河「堀川」の開削である 7

この計画は、海に面した熱田の湊と名古屋城下を直接結ぶ、全長約6キロメートルに及ぶ人工河川を掘削するという壮大なものであった 25 。この運河が完成すれば、築城に不可欠な大量の石材や木材はもちろんのこと、城下の住民の生活を支える米、塩、魚といったあらゆる物資を、船を使って効率的かつ大量に輸送することが可能になる 7 。堀川は、まさに新都市の経済を支える大動脈となるべく設計されたのである。この重要プロジェクトの総奉行には、豊臣恩顧の勇将・福島正則が任命された 19

このように、名古屋の都市計画は、戦国時代の集大成としての軍事思想と、泰平の世の経済発展を前提とした経済思想が、シームレスに融合したハイブリッド型の設計であった。城郭本体は極限まで防御力を高め、武家地と寺社地がそれを幾重にも守る。その堅固な守りの内側で、碁盤割と堀川という合理的なインフラを基盤に、町人たちが活発な経済活動を繰り広げる。これは、家康が「万一の戦」に備えつつも、その先にある「統治による平和な時代」の繁栄を確実にするための、二段構えの深遠な設計思想の表れに他ならなかった。

第二章:天下普請の発令:諸大名の動員と現場の始動(慶長15年 / 1610年)

慶長15年(1610年)1月9日、徳川家康は駿府城において、諸大名に対して名古屋城の築城を正式に命じた 28 。これは「天下普請(てんかぶしん)」と呼ばれる、江戸幕府がその権威をもって全国の大名に命じる国家的な土木事業であった。しかし、名古屋城の天下普請は、単なる城造りではなかった。それは、徳川の絶対的な権威を天下に知らしめ、未だ潜在的な脅威である豊臣恩顧の大名の力を削ぐための、高度に計算された政治的パフォーマンスであり、究極の心理戦でもあった。

3.1. 西国・北国大名への厳命

名古屋城普請のために動員されたのは、加藤清正、福島正則、黒田長政、前田利常(当時は利光)、細川忠興、池田輝政、山内忠義、浅野幸長といった、西国・北国の外様大名を中心とする20家であった 1 。彼らの多くは、かつて豊臣秀吉に仕え、その恩顧を受けた有力大名たちである 2

この人選こそが、家康の狙いの核心であった。普請に参加する大名は、石材や木材の調達から人夫の動員に至るまで、すべての費用を自らの石高に応じて負担しなければならなかった 10 。これは彼らにとって莫大な経済的負担となり、その財力を削ぎ、軍備を整える余力を奪うという明確な政治的意図があった 1 。関ヶ原の合戦後、江戸城や駿府城の普請ですでに疲弊していた大名たちにとって、この命令は徳川への服従を改めて誓わせる、抗いようのないものであった。

3.2. 丁場割の実態:競争と協業の現場

工事は、各大名に担当区域を割り当てる「丁場割(ちょうばわり)」という方式で進められた。工事の分担を記した「丁場割図」が作成され、各大名の普請奉行がこれに署名することで、担当区域を請け負った 33 。この丁場割図は、名古屋城普請という巨大プロジェクトの具体的な施工計画を示す貴重な史料である 35

史料によれば、普請に参加した大名は大きく三つのグループに分けられていた。第一に、城の心臓部である天守台の石垣は、築城の名手として天下にその名を知られた加藤清正が単独で担当した 16 。第二に、本丸全体の石垣は、前田利常、細川忠興、黒田長政ら、九州を拠点とする大名を中心とした7家が担当した。そして第三に、二ノ丸以下の石垣は、池田輝政、山内忠義ら11家が担当した 36

各大名は、自らの家の威信にかけて担当区域の工事を遂行した。隣の丁場を担当する大名に劣ることは許されないという競争意識が働き、結果として工事は驚異的な速度で進捗した 1 。家康は、大名同士を競わせることで、工事の質と速度を最大限に高めるという、巧みなマネジメント手腕を発揮したのである。

3.3. 建設のリアルタイム・クロノロジー(慶長15年)

天下普請の命令が下ると、名古屋の地は瞬く間に巨大な建設現場へと姿を変えた。その進捗は、まさに電光石火の如くであった。

  • 閏2月: 普請が開始される 28 。全国から動員された大名とその配下の者たちが、続々と名古屋に集結する。
  • 4月: 丁場割が正式に決定。各大名が担当区域を確認し、普請内容を承認する 33
  • 5月5日: 城全体の縄張りが完了する 37
  • 6月3日: 石垣の普請が本格的に着手される 37
  • 9月頃: 着工からわずか数ヶ月で、本丸、二之丸、西之丸、御深井丸といった主要な曲輪の石垣がほぼ完成する 12
  • 同期間: 都市の動脈となる堀川の開削も完了し、物資輸送路が確保される 12

この驚異的な工事速度は、動員された大名たちの技術力と組織力の高さを示すと同時に、徳川の号令がいかに絶対的なものであったかを物語っている。


表1:名古屋城天下普請における主要助役大名と担当丁場(区域)一覧

大名名

領地・石高(表高)

担当丁場(推定含む)

政治的背景

加藤 清正

肥後熊本 52万石

御天守(天守台)

豊臣恩顧(子飼い)

福島 正則

安芸広島 49万8千石

本丸北東部、堀川開削総奉行

豊臣恩顧(子飼い)

前田 利常

加賀金沢 119万5千石

御本丸之衆(本丸西側)

外様大名(最大)

黒田 長政

筑前福岡 52万3千石

御本丸之衆(本丸南東部)

豊臣恩顧、関ヶ原で東軍

細川 忠興

豊前小倉 39万9千石

御本丸之衆

豊臣恩顧、関ヶ原で東軍

池田 輝政

播磨姫路 52万石

御二ノ丸加衆

徳川家康の娘婿

浅野 幸長

紀伊和歌山 37万6千石

御二ノ丸加衆

豊臣恩顧、関ヶ原で東軍

山内 忠義

土佐高知 20万2千石

御二ノ丸加衆

外様大名、関ヶ原で東軍

(史料 1 等を基に作成)


3.4. 石曳きの喧騒と逸話

建設現場は、巨大な石を運ぶ「石曳き(いしびき)」の喧騒に満ちていた。石垣に用いる石材は、主に知多半島の篠島や、三重県の九鬼などから船で熱田の湊まで運ばれ、そこから陸路で建設現場へと曳き上げられた 17

現場では、各大名が自らの担当区域で用いる石に、他の大名のものと区別するための刻印を打った。これは、工事の責任の所在を明確にすると同時に、自家の威光を示すためのものでもあった 16

中でも、天守台を担当した加藤清正にまつわる逸話は数多く残されている。清正自らが巨大な石の上に乗り、扇を振って音頭をとり、人夫たちの士気を鼓舞しながら石を運ばせたという伝説は特に有名で、その様子を模した像が現在も城内に建てられている 16 。また、城内で最大の巨石は「清正石」と呼ばれ、清正が運んだと伝えられているが、実際にはその石垣の丁場を担当したのは黒田長政であり、これは清正の築城名人としての名声がいかに高かったかを物語る伝説である 16

名古屋城の天下普請は、単なる建設事業ではなかった。それは、家康が潜在的な敵対勢力であった豊臣恩顧の大名たちを、徳川の権威を象徴する巨大建造物の建設へと強制的に動員する、「強制的協業体制」を通じた心理的支配の確立プロセスであった。彼らは、自らの財力と労力を投じて、来るべき豊臣との決戦に備える徳川の拠点を築くという矛盾した行為を強いられた。自らの手で「徳川と戦っても勝ち目がない」と思わせるほどの堅固な城を造らせることは 2 、物理的な忠誠の証を強いる、家康の冷徹な政治戦略の極致だったのである。

第三章:清洲越し:一つの都市の死と、一つの都市の誕生(1610年〜)

名古屋城の石垣普請が驚異的な速度で進むのと並行して、慶長15年(1610年)から、もう一つの壮大な国家プロジェクトが始動した。それが、尾張の中心地を旧都・清洲から新都・名古屋へ、町ぐるみで完全に移転させる「清洲越し(きよすごし)」である 9 。これは単なる引っ越しではない。一つの都市がその歴史的役割を終え、新たなる都市がその機能と魂を継承して誕生するという、日本の都市史上でも類を見ない、ダイナミックな社会変動の瞬間であった。

4.1. 前代未聞の都市移転

「清洲越し」の規模は、まさに前代未聞であった。移転の対象となったのは、尾張藩の家臣団や町人だけでなく、彼らが信仰の拠り所としてきた神社3社、寺院110寺に及んだ。清洲城下にあった約2700戸の町屋のほとんどが移転し、その総人口は約6万人に達したと推定されている 1 。呉服商、米問屋、塩問屋といった大店から、刀鍛冶や鉄砲職人などの武具職人、そして質屋に至るまで、清洲の都市機能を構成していたあらゆる人々が、その生活基盤ごと名古屋へと移動したのである 9

この事業は、物理的な都市空間をゼロから創造する一方で、そこに息づく社会システム、経済基盤、そして文化資本といった「都市のソフトウェア」は、既存のものを丸ごと移植するという、極めて先進的な発想に基づいていた。家康は、新都市の立ち上げに伴う時間的、社会的なコストを劇的に圧縮するため、都市を一つの生命体として捉え、その成長を加速させるという社会工学的な手法を用いたのである。

4.2. 記憶と秩序の移植

この巨大プロジェクトを円滑に進めるため、周到な計画が立てられた。その最も特徴的な点は、清洲時代の社会秩序とコミュニティを、そのまま新都・名古屋に再現しようと試みたことであった。

移転に際しては、清洲で使われていた町名が、そのまま名古屋の新たな町名として引き継がれた。例えば、清洲の京町に住んでいた商人は、名古屋の京町に移り住むことを原則とされた 21 。これにより、住民のアイデンティティの拠り所である地縁やコミュニティが維持され、商業上の取引関係や長年培われてきた人間関係を断絶させることなく、スムーズな都市機能の移行が図られた。これは、移住に伴う人々の心理的負担を和らげ、社会の混乱を最小限に抑えるための、巧みな配慮でもあった。

物理的な建造物もまた、記憶の移植の対象となった。清洲城の天守(小天守とも)や櫓、御殿などの建造物は解体され、その部材は名古屋城へと運ばれた。そして、本丸御殿内の黒木書院や、御深井丸の西北隅に建てられた三重櫓(清洲櫓)などに再利用されたと伝えられている 1 。清洲の五条川に架かっていた橋も、名古屋の堀川に移築された 7 。これらの行為は、単なる資材の再利用に留まらず、旧都の権威と歴史を新都へと継承させるという、象徴的な意味合いを持っていた。

4.3. 新たな町の担い手たち

清洲から移ってきた商人や職人たちは、誕生したばかりの名古屋の経済と文化の担い手となった。彼らは、清洲で培った商才や技術を新天地で存分に発揮し、名古屋の発展の礎を築いた。現在の大手百貨店・松坂屋の前身であるいとう呉服店や、大手建設会社・竹中工務店のルーツも、この清洲越しの町人にあるとされている 43 。やがて、「清洲越し」を経験した旧家であることは、名古屋の町人社会において、他とは一線を画す伝統と格式の証と見なされるようになっていった 21

また、大須観音をはじめとする多くの寺社もこの時に移転してきた 44 。寺社の周辺には自然と門前町が形成され、多くの参拝客で賑わう新たな文化・商業の中心地が生まれていった。こうして、名古屋は計画的に配置された町人地と、自然発生的に生まれた門前町が共存する、重層的な都市構造を持つに至る。

4.4. 旧都の終焉

一方で、すべての都市機能を名古屋に吸い上げられた清洲は、急速にその活気を失っていった。かつて尾張の中心として栄華を誇った城下町は、主を失い、さびれていった。当時の人々は、この劇的な変化を「おもいがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」と謡い、旧都の終焉を嘆き、新都の勃興に驚嘆した 8 。清洲越しの完了は、一つの時代の終わりと、新たなる時代の幕開けを、誰の目にも明らかな形で告げる出来事だったのである。

第四章:城郭の完成と新都市の息吹(1611年〜1616年)

天下普請による城郭建設と、清洲越しによる都市移転が同時並行で進む中、名古屋の地には日ごとに新たな秩序と活気が満ち溢れていった。慶長16年(1611年)以降、城の主要建造物が次々とその威容を現し、城下町は新たな住民で賑わい始める。この時期は、大坂の陣(1614-15年)を目前に控えた、天下の情勢が最も緊迫した時期と重なる。名古屋城下町の完成は、軍事拠点としての即応性と、新時代の政治的中心地としての象徴性を同時に満たす、まさに計算され尽くしたタイミングで実現したのであった。

5.1. 天守の竣工と金鯱の輝き(1612年)

慶長17年(1612年)、名古屋城の象徴となる建造物が完成する。5層5階、地下1階建ての大天守と、それに連結する小天守である 12 。層塔型と呼ばれる、当時最新の建築様式で建てられた大天守は、白亜の漆喰壁と緑青の銅瓦が織りなす壮麗な姿を誇った。

そして、その大天守の最上層の屋根には、一対の黄金の鯱(金鯱)が掲げられた。北側に雄、南側に雌が配されたこの金鯱は、単なる飾りではない。火除けのまじないであると同時に、徳川家の絶大な権威と財力を天下に示すためのシンボルであった 10 。この金鯱には、慶長大判にして1940枚分、小判にして17975枚分に相当する金が惜しげもなく使われたと記録されており、その輝きから名古屋城は「金鯱城」あるいは「金城」の異名をとることになる 49

5.2. 城下町の整備完了と武家・町人の定住(1613年)

天守の完成に続き、城下町の整備も最終段階を迎える。慶長18年(1613年)には、碁盤割の街区が整い、清洲越しによって移住してきた武士や町人たちの住居がほぼ定まった 9 。本町通や伝馬町通といった目抜き通りには商家が軒を連ね、新たな城下町は都市としての体裁を整え始めた。家康が描いたグランドデザインが、現実の都市空間として結実した瞬間であった。

5.3. 本丸御殿の完成と尾張徳川家の始動(1615年〜1616年)

慶長19年(1614年)に大坂冬の陣が勃発し、天下は再び戦乱の渦に巻き込まれる。この緊迫した情勢の中、名古屋城では最後の主要建造物である本丸御殿の建設が急ピッチで進められた。そして大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した慶長20年(元和元年、1615年)、尾張藩主の公邸かつ政庁となる本丸御殿が、ついに完成した 1

武家風書院造の最高傑作と称されるこの御殿は、表書院、対面所など大小30以上の部屋で構成され、その内部は当代随一の絵師集団・狩野派によって描かれた豪華絢爛な障壁画や、精緻な彫刻が施された欄間、きらびやかな飾金具で埋め尽くされていた 1

この壮麗な御殿の完成は、一つの重要な政治的パフォーマンスの舞台となった。同年、城主である徳川義直と、豊臣恩顧の有力大名・浅野幸長の娘である春姫との婚儀が、この完成したばかりの本丸御殿で盛大に執り行われたのである 1 。この政略結婚は、徳川家が武力によって天下を平定しただけでなく、婚姻政策を通じて旧豊臣勢力を取り込み、新たな支配秩序を構築していることを、全国の大名に強く印象付けるものであった。

そして翌元和2年(1616年)、家康がその生涯を閉じた年に、徳川義直は正式に名古屋城に入城する 1 。これより名古屋城は、徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の居城として、約260年間にわたる太平の世を通じて、この地方の政治・経済・文化の中心として君臨し続けることになる。

5.4. 初期名古屋の経済活動

誕生したばかりの新都市・名古屋では、早くも活発な経済活動が始まっていた。その原動力となったのが、都市の動脈として開削された堀川である。堀川西岸の四間道(しけみち)周辺には、水運の利便性を活かした米、塩、味噌、薪炭などを扱う問屋が蔵を構え、尾張一円の物資が集まる一大集散地が形成された 52

碁盤割の内部では、清洲越しで移ってきた商人や職人たちが、それぞれの職業ごとに集住する町を形成した。鍛冶職人が集まる関鍛冶町、大工が集まる大工町、呉服商が軒を連ねる京町など、職住一体の専門家集団が都市の活力を生み出していった 54

また、天下普請という巨大公共事業そのものが、初期の名古屋経済に大きな影響を与えた。全国から集まった数万人の労働者や職人、そして大量の資材は、宿泊施設、食料品店、道具屋などに好景気をもたらした。この一時的な建設特需は、名古屋が自立した経済都市として離陸するための、強力な起爆剤となったのである 56

終章:名古屋創生が残した遺産

慶長15年(1610年)に始まった名古屋城下町の建設は、単に一つの都市をこの世に誕生させただけではない。それは、日本の歴史が大きく転換する画期において、徳川による新たな政治秩序と社会構造を物理的な形として定着させ、その後の日本のあり方を決定づけた、極めて重要な歴史的事業であった。この名古屋創生が残した遺産は、徳川幕府の安定化、そして現代名古屋の形成という二つの側面から、今日に至るまで計り知れない影響を及ぼし続けている。

6.1. 徳川幕府の盤石化への貢献

名古屋城の完成は、徳川の天下統一事業の総仕上げであった。江戸と京・大坂という二大拠点を結ぶ東海道の中間点に、鉄壁の守りを誇る巨大な軍事拠点を確立したことで、西国に対する徳川の睨みは絶大なものとなった 1 。豊臣家に対する軍事的包囲網はここに完成し、大坂の陣における徳川方の勝利、ひいては260年以上に及ぶ徳川の天下泰平の礎を築く上で、決定的な役割を果たした 2

同時に、天下普請という手法は、徳川の支配体制を盤石化させる上で極めて有効な政治的手段であった。豊臣恩顧の有力大名たちに莫大な経済的負担を強いることでその力を削ぎ、徳川の威光を象徴する城を自らの手で造らせることで、彼らの反抗心を削ぎ、徳川への絶対的な服従を誓わせた 2 。名古屋城の石垣の一つ一つは、各大名が徳川体制の一翼を担うことを誓った、物理的な証文でもあったのである。

6.2. 現代名古屋の礎

徳川家康が描いた都市のグランドデザインは、400年以上の時を超えて、現代の名古屋に生き続けている。碁盤の目のように整然と区画された城下町の街路網は、第二次世界大戦による壊滅的な戦災からの復興を経てもなお、名古屋市中心部の都市構造の骨格として受け継がれている 9 。本町通や広小路通といった主要な通りは、今も昔も変わらず、名古屋の経済と文化の中心軸であり続けている。

また、清洲越しによって移植された町人文化や商業の伝統は、その後の名古屋の発展の土壌となった。質実剛健な気風の中で育まれた職人たちの技術は、やがて「ものづくり名古屋」の礎となり、活発な商業活動は、独自の文化が花開く「芸どころ名古屋」の基盤を形成した 29 。名古屋城は、尾張徳川家の拠点としてだけでなく、この地域のアイデンティティの核として、常に名古屋の歴史の中心にあり続けたのである 14

6.3. 歴史的事業としての総括

名古屋城下町の建設は、戦国乱世の終焉を告げ、近世という新たな時代の到来を象徴する記念碑的な事業であった。このプロジェクトには、卓越した軍事戦略、合理的で先見性に富んだ都市設計、そして「清洲越し」という大胆な社会工学的手法が、分かちがたく統合されている。それは、徳川家康という人物が、単なる戦国武将から、国家全体の長期的な安定と繁栄を構想する「国家経営者」へと完全に変貌を遂げたことを示す、何よりの証左と言えるだろう。

この事業には、軍事力による国家の防衛(城郭)、法と秩序に基づく社会の統治(碁盤割)、インフラ整備による経済の活性化(堀川と商人町)、そして共同体の維持による社会の安定化(清洲越し)という、近代的な国家経営に不可欠な基本要素がすべて含まれている。その意味で、慶長の名古屋は、家康が目指した「天下泰平」という壮大なビジョンが、初めて地上に具現化したプロトタイプ都市であった。一つの都市を創造するに留まらず、日本の歴史の転換点において、新たなる時代の理想像を形として示したことこそ、名古屋創生が持つ最も深遠な歴史的意義なのである。

引用文献

  1. 名古屋城の歴史と史跡・特徴/ホームメイト https://www.homemate-research-castle.com/useful/16955_tour_036/
  2. 名古屋城|「戦う城」に学ぶ経営戦略 城のストラテジー|シリーズ ... https://future.hitachi-solutions.co.jp/series/fea_shiro/09/
  3. 近世城郭の最高峰! 徳川家康が築いた名古屋城 理想的な縄張り! 全国から集めた職人の手による名城 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10224/4
  4. 名古屋城について|歴史や概要を詳しく解説 - BesPes https://article.bespes-jt.com/ja/article/nagoya-castle
  5. なぜ家康は名古屋城を築いた?天下統一の先を見据えた戦略と現代に息づく魅力の全て https://www.explore-nagoyajo.com/ieyasu-strategy/
  6. 清洲城の歴史/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-castle/kiyosujo/
  7. 堀川の開削(暮らしの情報) - 名古屋市 https://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000003531.html
  8. 名古屋を誕生させた家康の〝清須越〞 日本史上最大の引っ越し! 遷府された尾張の中心 https://www.rekishijin.com/9868
  9. 築城と城下町の形成、清須越 | 城外の発展 | 名古屋城について https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/development/kiyosugoshi/
  10. 徳川家康と名古屋城/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/tokugawaieyasu-aichi-shizuoka/ieyasu-nagoyajo/
  11. 名古屋城 - 八木紀彰建築設計事務所 https://www.yaginoriaki.com/2019/05/10/%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E/
  12. 年表 | 名古屋城の歴史 | 名古屋城について | 名古屋城公式ウェブサイト https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/history/chronology/
  13. 名古屋城の概要 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/outline/nagoyajo/
  14. 特別史跡名古屋城跡の本質的価値 - 名古屋市 https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/cmsfiles/contents/0000105/105368/3shou.pdf
  15. 縄張 | 建築・構造 | 名古屋城について | 名古屋城公式ウェブサイト https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/construction/nawabari/
  16. 観覧ガイド | 名古屋城公式ウェブサイト https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/guide/nagoyajo/
  17. 近世城郭の最高峰! 徳川家康が築いた名古屋城 理想的な縄張り ... https://www.rekishijin.com/10224/2
  18. 名古屋城は、天下一の名城である。 | ポンタックのブログ at DESIGN ... https://www.pontak.jp/traditional-architecture-japan-nagoya-castle/
  19. 名古屋市歴史まちづくり戦略(案) https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/cmsfiles/contents/0000023/23147/senryaku_all.pdf
  20. 中区歴史紙芝居 碁盤割と札の辻 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Qrh4Z-Is5o0
  21. 清洲越し - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B4%B2%E8%B6%8A%E3%81%97
  22. 開府名古屋の都市づくり https://www.chubudenkikyokai.com/archive/syswp/wp-content/uploads/2015/09/c6a60bdcbd8073aeba0bdbc251305464.pdf
  23. 名古屋市歴史的風致維持向上計画にみる 名古屋城下の近代建築の ... https://repository.nabunken.go.jp/dspace/bitstream/11177/6587/1/BB25180515_207_214.pdf
  24. 名古屋市歴史まちづく り戦略 <概要版> https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/cmsfiles/contents/0000023/23018/gaiyoban.pdf
  25. 堀川の変遷(暮らしの情報) - 名古屋市 https://www.city.nagoya.jp/ryokuseidoboku/page/0000003537.html
  26. 堀川の歴史と現状 http://horimachi.jp/plan/index02.html
  27. 流域の歴史 - 愛知県河川整備計画流域委員会 http://www.aichi-river.jp/acrobat/09horikawa-2.pdf
  28. 慶長15年(1610)1月9日は家康が諸大名に名古屋城の築城を命じた日。尾張の中心は清須城だったが水害に弱い地形であり信長も居城とした旧那古野城の地を選んだ。家康の九男義直の尾張藩居城 - note https://note.com/ryobeokada/n/n72111509c677
  29. 近世 | 名古屋城の歴史 | 名古屋城について | 名古屋城公式ウェブサイト https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/learn/history/kinse/
  30. 序論―「現場」からみた名古屋城石垣普請 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/uploads/%E5%BA%8F%E8%AB%96_1.pdf
  31. 名古屋城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/chubu/nagoya.j/nagoya.j.html
  32. 名古屋城 https://jfg.jp/back-number/back-number_119/
  33. 作品詳細 | 名古屋城普請丁場割図 | イメージアーカイブ - DNPアートコミュニケーションズ https://images.dnpartcom.jp/ia/workDetail?id=TAM900750
  34. 第二章 「名古屋御城石垣絵図」を読む https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/uploads/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E7%AB%A0_1.pdf
  35. 名古屋城調査研究センターだより 第2号 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/uploads/b0e2656e05ef25b0948b638b8c4bc898.pdf
  36. 史料が語る 名古屋城石垣普請の現場 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/63/63995/140246_1_%E5%8F%B2%E6%96%99%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E7%9F%B3%E5%9E%A3%E6%99%AE%E8%AB%8B%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%A0%B4.pdf
  37. 名古屋築城 https://kinjo.repo.nii.ac.jp/record/1101/files/01_HARAfumihiko.pdf
  38. 名古屋城石垣の刻印を見に行こう! Vol.00 はじめに - 武将愛 https://busho-heart.jp/archives/14192
  39. 【完全ガイド】名古屋城の石垣を築いた20家大名と持ち場をまとめ ... https://www.explore-nagoyajo.com/stone-wall-stamp20/
  40. 名古屋城愛 - 武将愛 https://busho-heart.jp/nagoya-castle
  41. 名古屋城 - KemaAkeの全国城めぐり https://kemaake.com/c_toukai/c_nagoya.html
  42. 愛知県名古屋市の城下町/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-jokamachi/nagoyashi-jokamachi/
  43. 尾張の古都 清洲と濃尾地域 - 名古屋大学附属図書館 https://www.nul.nagoya-u.ac.jp/assets/file/search/collection/NU_collection/zuroku_201005.pdf
  44. 【大須観音】の歴史や見どころを紹介|商店街で名古屋の文化を体験しよう - THE GATE https://thegate12.com/jp/article/73
  45. 寺町大須|大須商店街あっとおおす https://osu.nagoya/ja/teramachi.php
  46. 尾張 名古屋城-城郭放浪記 https://www.hb.pei.jp/shiro/owari/nagoya-jyo/
  47. 【家康の城へ】乱世を生き抜く知略で築いた名古屋城(1)|愛知県 - たびよみ https://tabiyomi.yomiuri-ryokou.co.jp/article/002053.html
  48. 名古屋城の奥深い歴史と絶景!知られざるみどころとは? https://www.explore-nagoyajo.com/nagoya-castle-deep-history-and-spectacular-views/
  49. 名古屋城の歴史/ホームメイト https://www.touken-collection-nagoya.jp/aichi-shizuoka-castle/nagoyajo/
  50. 名古屋城築城について - BIGLOBE https://www2s.biglobe.ne.jp/~Torianon/meijou.htm
  51. 慶長期成立の名古屋城「四つ之御矢倉・二つ之御門・唐門」 https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/center/uploads/053368784a1a6447639d7e3711b7cc71.pdf
  52. 研 究 報 告 書 - 名古屋まちづくり公社 http://www.nup.or.jp/nui/user/media/document/investigation/h23/shimin.pdf
  53. 四間道 - ニッポン旅マガジン https://tabi-mag.jp/ai0020/
  54. 愛知県立図書館所蔵の「宝暦十二午改名護屋路見大図」を元に作成した。この地図は、宝暦12年(1762年)に作成されたものだ。 - agu-web.jp http://www.agu-web.jp/~seminar/data/201311/edo.pdf
  55. 城下町 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9F%8E%E4%B8%8B%E7%94%BA
  56. 名古屋城「天下普請」の全貌:家康の野望、武将たちの競演、そして空前の経済戦略 https://www.explore-nagoyajo.com/tenka-construction/