最終更新日 2025-10-02

名古屋寺町形成(1610)

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名古屋寺町形成(1610)—戦国終焉の戦略都市、そのリアルタイムと多層的機能—

序論:天下普請の槌音と新時代の都市像

慶長15年(1610年)、徳川家康の絶対的な号令一下、尾張国名古屋の広大な台地上で、壮麗な城郭と計画的な城下町の建設が開始された。この事業は、単なる一地方の拠点構築に留まるものではなかった。それは、依然として大坂城に勢力を保つ豊臣家との最終決戦を睨み、全国の諸大名を動員して行われた国家プロジェクト「天下普請」の一環であり、徳川による天下統一事業の総仕上げを意味するものであった 1 。この壮大な都市創造の中心的な構成要素の一つが、本報告書で詳述する「名古屋寺町形成」である。

一般に、名古屋の寺町は防火帯や都市景観の整備を目的として形成されたと理解されている。しかし、その本質はより深く、多層的である。「戦国時代」という視座からこの事変を分析する時、そこには乱世を通じて培われた軍事技術、統治思想、そして社会統制のノウハウが集約されていることが明らかになる。名古屋の寺町は、来るべき徳川の泰平の世を盤石にするため、戦国の教訓を昇華させて設計された、極めて高度な多機能的都市装置であった。

本報告書は、この「名古屋寺町形成」について、計画の策定から寺院の移転・再建に至るまでの過程を、あたかもリアルタイムで追体験するかのように時系列で詳細に再現する。さらに、軍事、防災、権威の象徴、宗教統制という四つの側面から、寺町に込められた多層的な機能を徹底的に解明し、この一大事業が名古屋、ひいては近世日本の都市形成史において持つ画期的な意義を明らかにすることを目的とする。

第一章:背景—「清須越」という必然の選択

慶長15年の名古屋開府と寺町形成を理解するためには、まず、なぜ尾張の中心地が長年栄えた清須から、全く新しい名古屋の地へと移されねばならなかったのか、その背景にある軍事的、地理的、そして政治的な必然性を解き明かす必要がある。

1-1. 対大坂包囲網の最前線基地として

慶長5年(1600年)の関ヶ原合戦における勝利により、徳川家康は天下の実権を掌握したが、その支配は未だ盤石ではなかった。大坂城には豊臣秀頼が健在であり、彼を支持する西国大名の潜在的な脅威は依然として徳川政権にとって最大の懸案事項であった 1 。家康はこの豊臣方への軍事的圧力を強化し、江戸と京・大坂を結ぶ日本の大動脈、東海道の防衛を固めるため、その要衝である尾張に強力無比な軍事拠点を築くことを決断した 1 。名古屋は、地理的に西国への睨みを利かせるための最前線基地として、まさに理想的な位置にあったのである 1

さらに家康は、この新城の城主に自らの九男・徳川義直を配した 3 。これにより、名古屋城は徳川御三家の筆頭である尾張徳川家の居城となり、単なる軍事拠点に留まらず、徳川一門の権威を天下に示す象徴的な役割をも担うこととなった 2

1-2. 清須の地理的・構造的限界

当時の尾張国の中心は、織田信長の拠点としても知られる清須であった 6 。しかし、この都市は五条川沿いの低湿地帯に位置しており、常に水害の危険に晒されていた 1 。特に慶長10年(1605年)に発生した慶長地震による被害は、その脆弱性を改めて浮き彫りにした 1 。また、戦国時代を通じて発展した城下町は、すでに市街地が飽和状態にあり、徳川が構想する大規模で計画的な近世城下町を展開するにはあまりにも手狭であった 1

清須を改修するのではなく、全く新しい都市への完全移転を選択した背景には、単なる地理的・物理的な問題を超えた、高度な政治的計算が存在する。清須は織田信長以来の長い歴史を持つ都市であり、そこには旧来の権益や複雑な人間関係が深く根付いていた。家康は、これらの旧時代のしがらみを一度完全に断ち切り、徳川の絶対的な権威のもとに設計された新しい秩序空間へ人々を組み込むことで、支配の効率性と浸透度を最大化しようとしたのである。つまり、都市の物理的な移転は、社会構造の強制的な再編プロジェクトでもあったのだ。

1-3. 新天地・名古屋台地の戦略的優位性

移転先の候補地として那古野、古渡、小牧などが検討された結果、最終的に選ばれたのが名古屋台地であった 7 。この台地は、かつて織田信長が幼少期を過ごした那古野城の旧地を含むが、家康はその縄張りを継承することなく、全く新しい都市をゼロから創造する道を選んだ 5

名古屋台地は、清須とは対照的に標高が比較的高く、地盤も強固であったため、巨大な天守閣や石垣を持つ城郭の建設に最適であり、水害のリスクも極めて低かった 1 。家康とそのブレーンたちは、この地形的利点を最大限に活用した縄張り(都市設計)を計画した。それは、戦国乱世の終焉を告げ、徳川による泰平の世の到来を象徴するにふさわしい、壮大かつ合理的な都市計画であった。

1-4. 「清須越」—史上最大級の都市移転プロジェクト

家康の決断は、単に城を移すという規模に留まらなかった。それは、清須に居住する尾張藩士、職人、商人、そして120を超える寺社に至るまで、約6万人もの住民と都市機能のすべてを、文字通り「町ごと」名古屋へ移転させるという、世界史上でも類を見ない壮大な都市移転プロジェクト「清須越(きよすごし)」であった 8

この一大事業は、慶長15年(1610年)に開始され、数年の歳月をかけて実行された 9 。この徹底的な移転は、新しい都市・名古屋を一から作り上げるという徳川の絶大な権力と実行力を天下に示す、強烈なデモンストレーション効果を狙ったものでもあった 10 。当時の人々によって「おもいがけない名古屋ができて、花の清須は野となろう」と謳われたように、旧都の繁栄と活気は完全に新都へと吸収され、清須は急速にその歴史的役割を終えることになったのである 7

第二章:慶長十五年のリアルタイム—名古屋寺町形成の時系列詳解

利用者からの「事変中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要請に応えるため、本章では、名古屋寺町形成に至る計画から実行までのプロセスを、年代を追ってドキュメンタリーのように再現する。この都市創造が、いかに計画的かつ迅速に進められたかを詳述する。

2-1. 計画段階(慶長14年〜15年初頭)

名古屋遷府の構想は、徳川家康の頭脳の中で長年温められていたが、その具体的な計画が策定されたのは慶長14年(1609年)頃からであった。家康自身が名古屋の地を選定し、初代藩主・徳川義直の傅役(もりやく)であった山下氏勝らの側近と共に、新都市の青写真を描き始めた 4

この段階で、城郭本体の縄張りと並行して、城下町の全体構想が練られた。城の南側に東西11区画、南北9区画からなる正方形の町人地「碁盤割」を配置し、その周囲を武家地と寺社地で取り囲むという基本構造が決定された 12 。特に寺社の配置計画は重要視された。戦国時代の城下町造りの教訓から、城下の外縁部、とりわけ敵の侵攻経路となりうる主要街道沿いに寺院を集中配置する「寺町」の構想が、この時点で明確に固まっていたと考えられる。これは、寺院の持つ物理的な防御能力を都市防衛システムに組み込むという、戦国時代以来の戦略思想を色濃く反映したものであった 13

2-2. 天下普請の発令と着工(慶長15年春〜夏)

慶長15年(1610年)、家康は「天下普請」として名古屋城の築城を正式に命令した 1 。この号令一下、加藤清正や福島正則といった築城の名手として知られる西国大名を中心に、全国から大名が動員され、その軍勢と技術者が名古屋台地に集結した 1 。壮大な国家プロジェクトの幕開けである。

槌音や掛声が響き渡る築城現場と同時に、城下町のインフラ整備も急ピッチで進められた。中でも最重要視されたのが、城下へ物資を運び込むための大動脈となる運河「堀川」の開削であった 16 。堀川は、築城に必要な木材や石材を効率的に搬入するための「建設用インフラ」であると同時に、完成後の名古屋の経済を支える「物流インフラ」としての役割も期待されていた。

この時期、移転の対象となる清須の120を超える寺社に対し、幕府から個別に移転の通達と、名古屋における新たな寺地の割り当てが行われたと推測される。各寺院は、長年慣れ親しんだ土地を離れ、全く新しい都市計画の一部となることを受け入れざるを得なかった。

2-3. 寺社の解体・輸送・再建(慶長15年後半〜17年頃)

天下普請の開始と並行して、清須では寺社の移転作業が本格化した。このプロセスは、破壊と創造が同時進行する、極めてダイナミックなものであった。

解体と輸送の実際

寺社の移転は、建物をただ破壊して新築するのではなく、本堂や山門などを構成する主要な木材や部材を丁寧に解体し、再利用可能な形で運び出すという、高度な技術を要する作業であった。当時の輸送技術は、陸路では牛馬に引かせた大八車などが用いられたが、巨大な梁や柱といった重量物の運搬には限界があった 18

そこで重要な役割を果たしたのが水運である。名古屋城の天守閣に使われた木曽の最高級檜材が、筏に組まれて木曽川を下り、名古屋まで運ばれたように 1 、寺院の巨大な部材も同様に、筏や船を用いて効率的に輸送された可能性が高い。清須から名古屋へ移築されたと伝わる五条橋の存在は、こうした部材の再利用が実際に行われていたことを示唆している 17 。解体された部材は、一つ一つに番号や印が付けられ、新天地で正確に組み立て直せるよう、周到な管理が行われていたと考えられる。

段階的な移転プロセス

120を超える寺社の移転は、数年がかりの段階的なプロジェクトとして進行した。特に、織田信秀が創建した織田家の菩提寺である万松寺や、信長の霊を弔うために次男・信雄が建立した総見寺といった、政治的に重要な意味を持つ寺院は、慶長15年(1610年)という比較的早い段階で移転が実行された 21 。これは、旧勢力の象徴をいち早く徳川が設計した新都市の秩序の中に組み込むことで、その影響力を管理下に置こうとする家康の明確な政治的意図の表れであった。

全ての寺社が一斉に動いたわけではなく、プロジェクトは計画的に進められた。例えば、現在の大須の中心である大須観音(真福寺)は、慶長17年(1612年)に家康の直接の命令により、水害の多かった美濃国大須(現在の岐阜県羽島市)から移転されている 21 。清須越全体の完了は、大坂の陣が終結した後の元和2年(1616年)頃とされており、寺社の移転もこの期間を通じて継続的に行われた 11

新たな町並みの出現

名古屋の新天地では、運び込まれた部材を用いて寺院の再建が次々と進められた。これにより、城下の東側には禅宗寺院が集まる「禅寺町」と日蓮宗寺院が集まる「法華寺町」からなる東寺町が、南側には大須観音などを中心とする南寺町が、物理的にその姿を現し始めた 21 。寺院の再建に伴い、その門前には人々が集まり、新たなコミュニティと経済活動が生まれ、名古屋城下は急速に活気を帯びていった。

この一連のプロセスは、名古屋の都市建設が「城」「インフラ(堀川)」「寺町」という三つの要素を個別の事業としてではなく、相互に連携する一つの統合されたシステムとして、同時並行で進められたことを示している。城は軍事的な核であり、堀川は建設と経済を支える動脈、そして寺町は都市を防衛し、人々を精神的に支える外郭であった。家康は、目前に迫る豊臣家との最終決戦に備え、新都市を即座に完全な稼働状態に置く必要があった。この驚くべき統合性と実行速度こそ、徳川幕府が有する卓越した組織力と、新しい時代を築くという家康の強い意志の何よりの証明であった 1

表1:名古屋城下へ移転した主要寺社一覧

寺社名

宗派

旧所在地

新所在地(寺町)

移転時期(慶長年間)

特記事項

万松寺

曹洞宗

名古屋村(現・中区錦/丸の内)

南寺町(現・大須)

慶長15年 (1610)

織田信秀創建、織田家の菩提寺。家康が人質時代を過ごした。加藤清正が築城時の宿舎とした 21

総見寺

臨済宗

清須

南寺町(門前町)

慶長15年 (1610)

織田信長の菩提を弔うため次男・信雄が建立。信長・信雄の廟所がある 21

若宮八幡宮

神社

名古屋城三の丸

南寺町

慶長15年 (1610)

築城に伴い現在地へ遷座。名古屋総鎮守と定められた 22

大須観音(真福寺)

真言宗

美濃国大須(現・岐阜県羽島市)

南寺町(大須)

慶長17年 (1612)

国宝『古事記』最古写本などを所蔵。水害を避けるため家康が移転を命じ、文庫も建立した 21

七ッ寺(長福寺)

真言宗

清須

南寺町

清須越時

天平年間行基創建と伝わる古刹。清須城下で再建後、名古屋へ移転 21

西本願寺掛所(西別院)

浄土真宗本願寺派

清須

南寺町

慶長14年 (1609)

清須越に伴い移転。後に葛飾北斎が巨大な達磨図を描いたことで知られる 21

高岳院

浄土宗

清須

東寺町

慶長16年 (1611)

家康の八男・仙千代の菩提を弔うため建立。後の町名「高岳」の由来となった 26

法華寺

日蓮宗

不明(清須周辺か)

東寺町(法華寺町)

清須越時

安土宗論で信長を説得した日陽が住職を務めた寺として知られる 26

第三章:戦国時代の視座—寺町に込められた多層的機能

名古屋の寺町形成は、単に寺院を移転・集積させただけではない。その配置と構造には、戦国乱世の数多の合戦と城下町攻防の経験から得られた教訓が、色濃く反映されている。家康は、寺社の持つ宗教的権威と物理的特性を巧みに利用し、新時代の都市・名古屋に複数の戦略的機能を実装した。それは、戦国時代の「寺社の自律性」を解体し、近世的な「国家統制下の多機能ユニット」へと再定義する、画期的な試みであった。

3-1. 第一の機能:軍事拠点としての「防塁」

戦国時代において、寺社は単なる信仰の場ではなかった。その堅固な土塀や石垣、堀、そして広大な敷地は、有事の際には即座に砦や陣地として機能する軍事拠点であった 13 。一向一揆のように寺社そのものが武装勢力化することも稀ではなかった。家康はこの寺社の軍事的ポテンシャルを熟知しており、それを都市防衛システムへと積極的に組み込んだ。

名古屋城下では、この戦国の知見が都市計画レベルで応用された。城下の外縁部、特に東方を走り江戸へ繋がる駿河街道(飯田街道)や、南方の熱田神宮へ至る熱田道といった、敵の主要な侵攻経路と想定される街道沿いに、寺院群が意図的に、そして集中的に配置された 24 。これにより、寺町は堅固な建造物が連続する一種の外郭として機能し、万が一敵が城下へ侵攻してきた際には、その進軍を遅滞させ、城本体を守る第一の防衛線としての役割を担うことが期待された。これは、金沢城下において城の弱点を補強するために三つの寺院群が配置された思想とも共通する、近世城下町における防衛の定石であった 14

3-2. 第二の機能:都市防災の要としての「防火帯」

戦乱の脅威が去った後の近世都市にとって、最大の災厄は火事であった。木造家屋が過密に建ち並ぶ城下町では、一度火の手が上がると瞬く間に燃え広がり、都市機能を麻痺させる大火に繋がりかねなかった。

寺社の持つ特性は、この火事という脅威に対しても有効であった。寺院の広大な境内地は、それ自体が建物のないオープンスペースであり、炎が燃え広がるのを遮断する役割を果たす。また、寺を囲む分厚い土塀や漆喰壁は、木造の町家と比べて燃えにくく、延焼を食い止める物理的な障壁となる。家康と都市計画の担当者たちは、寺町を城下の外周部に配置することで、軍事的な防塁であると同時に、外部からの火災、あるいは城下で発生した火災が武家屋敷や城郭中心部へ燃え広がるのを防ぐ、巨大な「防火帯(火除地)」としての機能を持たせたのである 30

実際に名古屋では、寺町形成から50年後の万治3年(1660年)に城下を焼く大火が発生し、その教訓から本格的な火除地として「広小路」が造成されることになる 12 。しかし、その先駆けとなる都市防災の思想は、すでに慶長15年の寺町形成の段階で明確に組み込まれていた。これは、恒久的な都市を築く上で、軍事的脅威と同時に自然災害のリスクをも視野に入れていた家康の、極めて高い先見性を示すものである。

3-3. 第三の機能:権威の象徴としての「都市景観」

寺町の形成は、実用的な機能だけでなく、視覚的な効果、すなわち都市景観を通じた権威の誇示という目的も担っていた。整然と区画割りされた土地に、壮麗な瓦屋根を持つ本堂や山門、塔などが計画的に建ち並ぶ景観は、見る者に強烈な秩序と荘厳さの印象を与える。

自然発生的に形成された雑多な町並みとは対照的に、支配者の明確な意志によってデザインされたこの美しい都市空間は、徳川幕府の卓越した統治能力と、その絶対的な権威を可視化する装置として機能した 32 。碁盤割の町人地や広大な武家屋敷群と相まって、この計画的な寺町の景観は、そこに住む人々や訪れる旅人に対し、新たな支配体制の強大さと安定性を無意識のうちに知らしめ、体制への服従を促す効果を持っていたのである。

3-4. 第四の機能:宗教統制の装置

戦国時代、家康自身も三河一向一揆に代表される宗教勢力の抵抗に苦しめられた経験を持つ。寺社勢力が大名権力から半ば独立し、時には武装して敵対するという事態は、全国統一を目指す支配者にとって看過できない脅威であった 13 。この苦い教訓から、徳川幕府は全国の寺社を厳格な管理下に置くという、明確な宗教政策を推進した。

名古屋の寺町形成は、この宗教統制策を都市計画のレベルで具現化したものであった。特定の宗派の寺院を特定の区画に集住させることは、各宗派の動向を日常的に監視し、統制することを物理的に容易にする 34 。問題が発生した際にも、迅速に対応することが可能となる。これは、後に「寺請制度」や「本末制度」として全国的に制度化される宗教統制の、物理的な基盤を構築する試みであったと言える 35 。かつて脅威となり得た寺社勢力を、都市の防衛や防災を担う有益なユニットとして再編・活用しつつ、同時にその力を厳格に管理する。ここに、敵対勢力をも自らの統治システムに統合してしまう、家康の卓越した政治的手腕がみてとれる。

第四章:各寺町の形成と特質

名古屋城下には、主に城の東と南に大規模な寺町が形成された。両者は共に都市計画の一環として意図的に配置されたが、その立地条件と核となる寺院の性格の違いから、後に対照的な発展を遂げることになる。この比較は、徳川の都市計画が持つ「統制」と「活力」という二つの側面を象徴している。

4-1. 計画都市の粋—東寺町

東寺町は、名古屋城の東方、江戸へと続く主要街道である駿河街道(後の飯田街道)を挟む形で、純粋に都市計画上の要請に基づいてゼロから設計されたエリアである 24 。その最大の特徴は、宗派ごとに明確なゾーニングが徹底されていた点にある。

街道の西側には曹洞宗の寺院が集められ、そのものずばり「禅寺町」と呼ばれた。一方、街道の東側には日蓮宗(法華宗)の寺院が集中的に配置され、「法華寺町」と称された 25 。この整然とした宗派別の配置は、東寺町が前章で述べた軍事的防衛、防災、そして宗教統制といったトップダウンの計画意図を、極めて純粋な形で反映した空間であったことを示している。安土宗論において織田信長と対峙した逸話で知られる法華寺なども、この地に移転してきた寺院の一つである 26 。東寺町は、まさに計画都市・名古屋の理念を体現する、静的で秩序正しい空間として誕生した。

4-2. 門前町から歓楽街へ—南寺町(大須)の発展

南寺町は、城下の南方を守る防衛線として、碁盤割の町人地の南端に形成された 21 。このエリアの発展の核となったのが、慶長17年(1612年)に美濃国大須から移転してきた大須観音(真福寺)であった 21

大須観音は篤い信仰を集め、多くの参詣者が訪れるようになると、その周辺は自然発生的に門前町として急速に発展していった。尾張藩は、この人々のエネルギーを城下のさらなる活性化に繋げるため、この地に芝居小屋や、後には遊郭の設置を公認した 21 。特に、質素倹約を旨とする江戸幕府の方針とは対照的に、積極的な消費奨励・開放政策を採った第7代藩主・徳川宗春の時代には、大須は名古屋随一の商業・娯楽の中心地、すなわち一大歓楽街へと変貌を遂げた 23

このように、南寺町(大須)は、当初の都市計画における防衛的・宗教的機能を土台としながらも、人々の信仰と欲望というボトムアップのエネルギーを吸収し、経済的・文化的な中心地へと有機的に成長していくという、東寺町とは異なるダイナミックな発展を遂げた。優れた都市計画は、厳格な秩序を強いるだけでなく、人々の自律的な活動を誘発する「余白」をも内包している。家康が設計した「器」に、宗春の政策と民衆の活気という「中身」が注がれた結果が、今日の「大須」の原型となったのである。

結論:名古屋四百年の礎—寺町形成が遺したもの

慶長15年(1610年)に始まった名古屋の寺町形成は、単なる寺院の集団移転事業では断じてなかった。それは、一世紀以上にわたる戦国乱世の経験と教訓を昇華させ、軍事防衛、都市防災、権威の誇示、そして宗教統制という、近世都市が抱える複数の課題を同時に解決するために設計された、画期的な都市計画モデルであった。

家康は、寺社という存在が持つ物理的・宗教的エネルギーを否定し、弾圧するのではなく、それを巧みに自らの統治システムへと組み込んだ。かつては武装し、大名権力と敵対することもあった自律的な存在は、名古屋という新時代の都市において、体制を盤石にするための多機能的な装置へとその役割を再定義されたのである。

この慶長15年の都市創造は、その後の名古屋の発展に決定的かつ長期的な影響を与えた。寺町形成と同時に進められた「碁盤割」は、第二次世界大戦後の復興計画を経て、現代名古屋の都心部の骨格として今なお生き続けている 12 。寺町に込められた防火帯という思想は、後の広小路の造成へと繋がり、名古屋の防災文化の礎を築いた 12 。そして、計画と民衆の活力が融合して生まれた南寺町は、現在も「大須」として独自の文化を発信し続ける、名古屋のアイデンティティの中核をなし続けている 23

最終的に、名古屋の寺町形成は、徳川家康が構想した「戦いのない泰平の世」を永続させるための、物理的かつ社会的なインフラストラクチャーであったと言える。その設計思想は、400年の時を超え、現代名古屋の都市構造と文化の中に脈々と受け継がれているのである 16

引用文献

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  33. 3/27 2017 名古屋市 まちなみデザイン賞(蓮教寺) | 植彌加藤造園 -京都で、日本庭園をはぐくむ- https://ueyakato.jp/news/3-27-2017-%E5%90%8D%E5%8F%A4%E5%B1%8B%E5%B8%82%E3%80%80%E3%81%BE%E3%81%A1%E3%81%AA%E3%81%BF%E3%83%87%E3%82%B6%E3%82%A4%E3%83%B3%E8%B3%9E%EF%BC%88%E8%93%AE%E6%95%99%E5%AF%BA%EF%BC%89
  34. 周辺寺院の紹介 - てらまちプロジェクト https://amagasaki-teramachi.jp/around/temples
  35. 【宗門改】 - ADEAC https://adeac.jp/nakatsugawa-city/text-list/d100040/ht010600
  36. 江戸期富士門流法難の背景 https://www.totetu.org/assets/media/paper/k006_107.pdf
  37. www.city.nagoya.jp https://www.city.nagoya.jp/higashi/page/0000000899.html#:~:text=5%20%E5%AF%BA%E7%94%BA,%E7%94%BA%E3%81%A8%E7%A7%B0%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%82
  38. 東寺町一帯 その1 石碑 - 東区文化のみちガイドボランティアの会 https://higashibgv.com/%E7%9F%B3%E9%80%A0%E7%89%A9/2315
  39. 町名は日蓮宗寺院が集中していることに由来する。北部の8か寺の門前地子が寛文年間以降町家に開発された(名古屋府城志)。北端の本立寺前から西に向かう横筋は - JLogos https://jlogos.com/ausp/word.html?id=7123131
  40. 今 昔 https://www.chubudenkikyokai.com/archive/syswp/wp-content/uploads/2015/09/52cf59ef8a16d21cf8643942f666379c.pdf
  41. ―街園都市・名古屋 ― http://www.nup.or.jp/nui/user/media/document/investigation/h21/gaien.pdf