名島から福岡へ移転(1601)
慶長六年、黒田長政は関ヶ原の功により筑前国を拝領。旧名島城の限界を認識し、新時代に相応しい本拠として福崎に福岡城を築城。博多と一体化した双子都市を形成し、黒田藩の礎を築いた。
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筑前国、名島から福岡へ:黒田長政による新時代への本拠移転(1601年)の時系列的考察
序章:関ヶ原の戦塵、筑前へ
慶長五年(1600年)、日本の運命を決定づけた関ヶ原の戦いは、単なる軍事的な勝利以上のものを徳川家康にもたらした。それは、豊臣政権の実質的な終焉と、二百数十年に及ぶ徳
川幕藩体制の幕開けを告げるものであった。この歴史的な転換点において、一人の武将がその武功と調略によって、新たな時代の主役の一人として躍り出た。黒田長政である。
長政は、父である稀代の軍師・黒田孝高(如水)の薫陶を受け、武勇と知略を兼ね備えた将であった。関ヶ原の本戦において、彼は東軍の先鋒として奮戦するだけでなく、戦いの帰趨を決定づける上で極めて重要な役割を果たした。それは、西軍の有力大名であった小早川秀秋をはじめとする諸将への内応工作であった 1 。長政の巧みな交渉により、西軍は内部から崩壊し、徳川家康に天下をもたらしたのである。
この絶大な功績に対し、家康からの恩賞は破格のものであった。長政は、それまでの豊前国中津十二万石から、筑前国一国五十二万三千石へと大幅に加増移封された 2 。これにより黒田家は、一躍、九州を代表する大大名(外様大名)の地位を確立した。しかし、この栄光の裏には、家康の深い洞察と警戒心も存在した。長政が関ヶ原で戦っている間、父・如水は九州において独自の軍事行動を展開し、破竹の勢いで西軍方の領地を席巻していた 4 。この如水の動きを、家康は「底心の知れぬ事」と評し、その野心を警戒したと伝えられている 5 。恩賞が長政個人にのみ与えられたのは、この如水への牽制と、黒田家の力を認めつつも徳川体制の中に組み込むという、家康の巧みな政治的判断の結果であった。
この一連の出来事こそが、「名島から福岡へ」という一大事業の直接的な引き金となる。単なる居城の移転ではない。それは、豊臣恩顧の一大名から、徳川体制下における九州の雄へと生まれ変わった黒田家が、その新たな地位と権威を天下に示すための、壮大な政治的パフォーマンスの始まりだったのである。旧時代の拠点を捨て、全く新しい地に、新時代の理念に基づいた首都を建設すること。それは、黒田家による筑前支配の永続性を宣言し、新たな秩序の到来を物理的に刻み込む行為に他ならなかった。
第一章:慶長五年(1600年)-新領主、名島城に入る
関ヶ原の戦いが終結し、筑前一国の主として正式に認められた黒田長政は、父・如水と共に、長年拠点としてきた豊前中津城を後にした 6 。彼らが目指すは、筑前国の新たな本拠、名島城である。この入国は、単なる引っ越しではなく、新領主による統治の始まりを告げる重要な儀式であった。
その道中、黒田家の武威と名声は、早くも筑前の在地勢力に影響を与えていた。黒田家譜代の猛将・後藤又兵衛に先導された土豪、門名(臼井)次郎右衛門は、長政一行を丁重に出迎えた。彼は忠誠の証として、長柄(槍や刀)百五十本、持筒(鉄砲)百挺、そして馬代金を献上し、名島城までの案内役を務めたという 8 。これは、新領主に対する在地勢力の服従儀礼であり、長政にとっては、武力を用いることなく在地支配層を掌握する上で、極めて重要な第一歩であった。外来の支配者である黒田家が、円滑に領国経営を開始するためには、こうした在地勢力の協力が不可欠であり、この最初の接触は、その後の統治の安定性を占う試金石となった。
名島城に入った長政は、ただちに新領主としての権威確立に着手する。その一つが、宗教政策を通じた支配の正当化であった。彼は、古くから太宰府にあった崇福寺を博多近郊の地(現在の博多区千代町)に移転させ、黒田家の菩提寺と定めた 9 。これにより、崇福寺は以後、福岡藩主の手厚い庇護を受けることとなる。菩提寺を定めるという行為は、その土地に永続的に根を下ろし、先祖代々統治していくという強い意志の表明であり、領民に対して黒田家の支配が恒久的なものであることを示す象徴的な意味合いを持っていた。こうして、名島城を舞台に、黒田家による筑前統治の第一幕が静かに、しかし力強く切って落とされたのである。
第二章:名島城の検分-旧時代の要塞の限界
黒田長政と如水が新たに入った名島城は、決して凡庸な城ではなかった。多々良川の河口に突き出た半島状の丘陵に築かれ、東を除く三方を博多湾の海に囲まれた、天然の要害であった 10 。この城は、もともと立花山城の支城であったが、豊臣秀吉の九州平定後、筑前を拝領した毛利家の重鎮・小早川隆景によって大規模に改修され、彼の本拠地となっていた 7 。
隆景は、日本屈指の水軍の将であり、彼の改修によって名島城は強力な海城(水城)としての性格を帯びていた 12 。海水を引き込んだ水堀と空堀で防御を固め、城から直接大船を接岸できる構造は、水軍の根拠地として理想的であった 11 。その規模は東西840メートル、南北280~400メートルに及び、本丸には天守台も設けられ、二の丸、三の丸を配した連郭式の平山城として完成されていた 10 。城内には雲谷等顔作と伝わる「梅に鵜図」の襖絵など、桃山文化の粋を集めた絢爛豪華な装飾が施され、文禄の役の際には豊臣秀吉自身も立ち寄った記録が残る、まさに戦国末期を代表する名城の一つであった 14 。
しかし、築城の名手でもある黒田如水の目には、この名城の持つ「限界」が明確に見えていた。名島城の強みは、すべて戦国乱世の価値観、すなわち「防御」と「軍事拠点」としての機能に特化していた点にある。三方を海に囲まれた地形は、敵の攻撃を防ぐには最適だが、同時に城下町を発展させるための平地が絶望的に不足していることを意味した 7 。黒田家が新たに治めることになったのは、五十二万石という広大な領地である。この大藩を運営していくためには、数千人に及ぶ家臣団を住まわせ、彼らの生活を支えるための商工業者を呼び込み、巨大な城下町を形成する必要があった。名島城の立地は、この新しい時代の要請に全く応えられなかったのである 7 。
さらに、名島は古くからの商都・博多から東に約5キロメートル離れており、領国経済の中心地と一体化した統治を行うには不便であった 7 。時代は、関ヶ原の戦いを経て、大規模な戦争の時代から、安定した統治と経済発展を重視する「治」の時代へと移行しつつあった。城の役割も、純粋な軍事要塞から、領国の政治・経済を司る行政首都へと変貌を遂げなければならなかった。小早川隆景が朝鮮出兵の拠点として最適化した名島城は、その軍事的な完成度の高さゆえに、皮肉にも新時代の首都としては「戦略的に時代遅れ」だったのである。この的確な現状分析が、黒田親子に新城建設という壮大な決断を促すことになる。
項目 |
名島城 |
福岡城(計画) |
戦略的意義 |
立地 |
海に突き出た半島 7 |
内陸に近い沿岸部の丘陵 17 |
防御拠点から行政・経済中心地への転換 |
地形 |
狭隘で拡張性が低い 7 |
広大な平野に面し、拡張性が高い 1 |
大規模な城下町建設と将来の発展を確保 |
城郭形態 |
軍事機能に特化した海城 12 |
政治・経済を統括する総合的首都城郭 |
時代の要請(戦争から統治へ)に対応 |
規模 |
約30ヘクタール前後 10 |
内郭だけで約47ヘクタール 18 |
五十二万石の大藩の威容を示す |
城下町 |
形成の余地がほぼない 7 |
計画的かつ大規模な建設が可能 |
家臣団と商工業者を集約し、藩経済を活性化 |
主要機能 |
水軍拠点・海上交通の要衝 12 |
藩庁・領国経営の中枢 18 |
藩の統治機構と経済基盤を一体化 |
第三章:新しき本拠を求めて-福崎の丘の選定
名島城の限界を認識した黒田長政と如水は、筑前国の新たな中心地となるべき新城の建設地選定に着手した。これは、単なる場所選びではなく、今後数百年にわたる黒田家の統治と領国の繁栄を左右する、極めて重要な戦略的決定であった。
検討の俎上に上った候補地は、箱崎、住吉、荒津、そして福崎の四ヶ所であったと記録されている 17 。それぞれの土地には利点があったが、黒田親子の慧眼は、最終的に「福崎」と呼ばれる那珂川西岸の丘陵地を選び出した。この選択は、まさに戦略的思考の結晶であった。
福崎の地が持つ最大の利点は、その地理的条件にあった。第一に、古代から国際交易港として栄え、豊臣秀吉による「太閤町割り」を経て復興した大商業都市・博多に隣接していたことである 17 。全くのゼロから経済基盤を築くのではなく、既存の商業的エネルギーを最大限に活用し、自らの統治に取り込むことができる。これは、新領主にとって計り知れないメリットであった。
第二に、地形的な優位性である。福崎は丘陵地であり、城を築く上で必要な防御性を確保できた。さらに、北は潟、西は草ヶ江と呼ばれる入り江、東は那珂川に囲まれており、これらの自然地形を巧みに利用することで、広大かつ堅固な堀を造成することが可能であった 17 。これは、三大水城の一つと評される中津城を築いた黒田家が得意とするところであった 17 。
この福崎の選定は、新しい都市のあり方に対する明確なビジョンを示している。それは、那珂川を挟んで、西側に武士が住む政治・軍事の中心地「城下町」を新たに建設し、東側に古くからの町人が住む経済の中心地「博多」をそのまま存続させるという、壮大な「双子都市構想」であった。博多の持つ経済力と文化的伝統を尊重し、それを破壊・吸収するのではなく、共存共栄の関係を築こうとしたのである。武士の街と商人の街が、互いの機能を分担しながら隣接して発展していくというこの都市計画は、当時の日本において非常に先進的なものであった。こうして、黒田家は博多の活力を自らの藩政に取り込みつつ、武家社会の秩序と権威を明確に示すという、絶妙なバランスの上に新しい首都を築くことを決断したのである。
第四章:慶長六年(1601年)-天下人の城、ここに始まる
福崎の地を新首都と定めた黒田家は、慶長六年(1601年)、ついに歴史的な築城工事に着手した 22 。これは、単に一つの城を建てるという事業ではなく、新しい藩の政治、経済、軍事のすべてを統合する一大国家プロジェクトであった。この事業は、完成までに七年もの歳月を要することになる 22 。
年(西暦/和暦) |
筑前国(黒田家)における主要な出来事 |
日本国内における主要な出来事 |
1600年(慶長5) |
関ヶ原の戦功により筑前国を拝領。黒田長政が名島城に入城する 8 。 |
関ヶ原の戦い。徳川家康が覇権を確立。 |
1601年(慶長6) |
福崎の地にて福岡城の築城を開始する 22 。 |
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1602年(慶長7) |
長政が名島城から普請中の福岡城本丸へ居を移す 17 。長政が家臣に天守の柱立てを命じる書状を送る 24 。 |
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1603年(慶長8) |
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徳川家康が征夷大将軍に任官。江戸幕府が開かれる。 |
1604年(慶長9) |
黒田如水が伏見の藩邸にて死去。築城への直接的な関与が終わる 21 。 |
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1607年(慶長12) |
福岡城が竣工。名島城は完全に廃城となる 13 。 |
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第一節:縄張と設計思想
福岡城の基本設計である「縄張」は、数多の城を攻め、また築いてきた黒田如水の経験と知識の集大成であったと広く考えられている 18 。息子の長政もまた、この壮大な計画に深く関与した 21 。彼らの設計思想は、華美な装飾を排し、実戦的かつ合理性を徹底的に追求したものであった。
城は、鴻巣山から伸びる丘陵の先端を利用し、本丸、二の丸、三の丸が階層的に配置される四層構造となっていた 26 。城の中心である本丸には、藩主の政務と生活の場である本丸御殿が置かれた。城の防御は、自然地形を最大限に活用している。東は那珂川を天然の外堀とし、西は草ヶ江の入り江を浚渫して巨大な大堀(現在の大濠公園)へと造り変えた 17 。これにより、城は三つの橋(上之橋、下之橋、追廻橋)を落とせば、容易に外部からの侵入を許さない堅固な要塞となった 17 。
さらに、城内には大小約五十もの櫓が林立し 27 、城門は敵の侵入を阻むために複雑な構造を持つ「枡形虎口」が多用された 29 。この設計は、関ヶ原の戦いを経てなお、戦国の緊張感が色濃く残る時代背景を反映している。徳川の世が始まったとはいえ、大坂には豊臣秀頼が存在し、天下が完全に泰平となったわけではなかった。黒田親子は、来るべき戦乱の可能性を視野に入れ、新時代の行政首都であると同時に、いかなる攻撃にも耐えうる不落の要塞を構想したのである。福岡城の縄張は、平和な統治への願いと、戦乱を生き抜いてきた武将の冷徹な現実認識が同居する、時代の過渡期を象Cするものであった。
第二節:普請の実態
福岡城の建設は、当代最高の技術と莫大な資源を投入した巨大事業であった。普請奉行には、江戸城や大坂城の築城にも参加した石垣造りの名人、野口佐助一成が任命された 30 。彼の指揮のもと、堅固な石垣が次々と組み上げられていった。
この工事における特筆すべき点は、旧本拠である名島城の徹底的な「再利用」である 7 。経済的な合理性のみならず、これは象徴的な意味合いを持つ行為であった。名島城は解体され、その石垣の石材、城門、櫓などの部材が、船で新しい築城現場へと海上輸送された 13 。現在、福岡城跡に残る「名島門」は、その名の通り名島城から移築された脇門であり、この歴史を今に伝えている 6 。また、崇福寺の唐門も名島城の遺構である 9 。石材は名島城だけでなく、元寇の際に築かれた防塁の石や、周辺の古墳の石室材までもが転用されたという 30 。
旧城の部材を新城の礎とすることは、単なる資材の節約ではない。それは、小早川氏から黒田氏へと受け継がれた筑前支配の正統性が、名島の地から福岡の地へと物理的に「移転」したことを可視化する行為であった。古い権威の象徴を解体し、新しい権威の象徴の一部として組み込むことで、黒田家は自らの支配の連続性と永続性を領民に示したのである。この大規模な普請は、領内の人々を総動員して行われ、福岡藩という新しい共同体を形成していく上での最初の共同作業ともなった。
第三節:築城と並行する領国経営
七年にも及ぶ長期間の築城工事中も、当然ながら藩の統治が滞ることは許されない。黒田長政は、築城開始の翌年である慶長七年(1602年)には、まだ未完成であった福岡城の本丸に居を移し、自ら工事の進捗を監督しながら政務を執った 17 。一方、隠居の身であった父・如水は、当初太宰府に仮住まいを設け、後に完成した城内の三の丸の屋敷(御鷹屋敷)に移り住んだ 17 。
この時期の黒田家は、自らの本拠地建設という巨大プロジェクトを抱えながら、同時に徳川幕府に対する奉公という、大名としての重要な義務も果たさねばならなかった。幕府は、全国の大名に江戸城をはじめとする城郭の普請を命じる「天下普請」を頻繁に実施しており、これは諸大名の財力を削ぎ、幕府への忠誠を試すという政治的な狙いがあった 31 。黒田家も例外ではなく、福岡城の建設と並行して、江戸城の修復工事などに人員や資材を提供する必要に迫られた 19 。
自藩の首都建設と、幕府への奉公という二重の負担は、発足したばかりの福岡藩の財政に大きな圧力をかけたことは想像に難くない。しかし、この困難な状況を乗り切ること自体が、黒田家の藩経営能力の高さと、徳川家への忠誠心を示すことになった。福岡城の石垣の一つ一つには、新時代の領国を築こうとする黒田家の情熱と共に、中央集権化を進める徳川幕府という新しい政治体制下で、外様大名が置かれた複雑な立場が刻み込まれているのである。
第五章:「福岡」の誕生-武士と商人の双子都市
新城の建設が進む中、黒田長政は、この新しい土地に自らの家のアイデンティティを深く刻み込むための、重要な決定を下した。それは、新しい城と城下町の命名である。彼は、この地を「福岡」と名付けた 34 。
この「福岡」という名は、この土地の古い地名であった「福崎」にちなんだという説もあるが 36 、より重要な由来は、黒田家のルーツにあった。黒田氏の祖先は、備前国邑久郡福岡(現在の岡山県瀬戸内市長船町)の地で勢力を築いたとされており、この先祖伝来の地名こそが、新首都の名前として選ばれたのである 2 。これは、単なる命名行為を超えた、高度な政治的・心理的な意図を持つものであった。豊臣秀吉の命により、播磨から豊前、そして筑前へと移封を重ねてきた黒田家にとって、永続的な本拠地を定めることは悲願であった。その地に先祖の故郷の名を冠することで、彼らはこの筑前の地を、名実ともに黒田家の「新たな故郷」として宣言したのである。よそ者であった黒田家が、その土地の歴史に自らの家の歴史を上書きし、支配の正統性を象徴的に確立しようとする、巧みな戦略であった。
こうして誕生した「福岡」は、那珂川を境界として、東の「博多」と対をなす、特徴的な双子都市構造を持つことになった 20 。川の西側には、福岡城を中心に家臣たちの武家屋敷が整然と広がる、政治と軍事の街「福岡」が形成された。一方、川の東側には、古くからの町人文化と商業活動が息づく、経済の街「博多」が存続した。黒田藩は、秀吉の政策を継承し、博多の自治を広く認めたため、「政の福岡」と「商の博多」という明確な機能分担が生まれたのである 35 。この二つの都市が、互いに刺激し合い、補完し合うことで、この地域は九州随一の都市へと発展していくことになる。福岡という地名の誕生は、単に新しい城下町が生まれたことを示すだけでなく、武士と商人が共存する新しい社会秩序の始まりを告げるものでもあった。
第六章:慶長十二年(1607年)-竣工、そして天守の謎
慶長十二年(1607年)、七年にも及ぶ大工事の末、福岡城はその雄大な全貌を現した 21 。総石垣の長さは約3,350メートルに及び 30 、内郭だけでも約47ヘクタールという広大な敷地を持つ、九州でも最大級の巨大城郭であった 3 。高くそびえる石垣、深く巡らされた堀、そして林立する櫓群は、五十二万石の大藩の居城にふさわしい威容を誇っていた 1 。名島城は完全にその役目を終え、ここに福岡藩の新たな歴史が始まったのである 25 。
しかし、この壮麗な城には、今なお歴史家を悩ませる大きな謎が残されている。それは、城の象徴とも言うべき「天守」の存在である。福岡城の本丸には、五層の天守を建てることが可能な、巨大な天守台が築かれている 1 。実際に、築城開始翌年の慶長七年(1602年)に、長政が家臣に宛てた書状の中で「今月中に天守の柱立てを行うように」と命じている記録も発見されており、少なくとも天守の建設が計画、あるいは開始されていたことは確実視されている 24 。
にもかかわらず、福岡城に天守が完成したという明確な記録は存在しない。なぜ、これほどの大城郭に天守がなかった(あるいは、あえて無くした)のか。この謎を解く鍵となるのが、元和六年(1620年)に、隣国・小倉藩主の細川忠興が息子に宛てた書状である 24 。その手紙には、黒田長政が「徳川の御代には城は入り申さず候(徳川様の平和な治世に、もはや城は必要ございません)」と語り、幕府に配慮して天守を取り壊した、という趣旨の内容が記されている 17 。
この書状が示唆するのは、天守の問題が、もはや単なる建築上の問題ではなく、極めて高度な政治的判断であったという事実である。戦国時代、天守は領主の権威の象徴であった。しかし、徳川の天下が安定するにつれ、あまりに壮大で軍事的な天守は、幕府に対する潜在的な脅威、あるいは謀反の意志の表れと見なされかねない、危険なシンボルへと変質していった。長政は、巨大な天守台を築くことで自らの威光を領内に示しつつも、最終的に天守を完成させない(あるいは完成後に解体する)ことで、幕府への完全な恭順の意を示したのではないか。福岡城の「空の天守台」は、徳川の平和という新しい政治秩序の下で、力ある外様大名がいかに繊細な政治的バランス感覚を要求されたかを物語る、無言の証言者なのである。
終章:戦国の終焉、福岡藩の礎
慶長五年(1600年)の筑前入国から、慶長十二年(1607年)の福岡城竣工に至る一連の出来事は、単なる本拠地の移転という事象を遥かに超える、深遠な歴史的意義を持っている。それは、黒田長政という一人の武将が、戦国という時代の終焉を的確に認識し、江戸という新しい時代に自らの家と領国を適応させるために行った、壮大な国家建設事業であった。
名島城の放棄は、軍事力のみが支配の根幹であった旧時代との決別を意味した。海に閉ざされた要塞では、新しい時代の統治と経済を担うことはできない。そして、福岡城の建設と「福岡」という都市の誕生は、新しい時代の統治理念そのものの表明であった。それは、武士による強力な政治的・軍事的統制(福岡)と、商人による自由な経済活動(博多)が両輪となって藩を支えるという、先進的な都市計画に基づいていた 18 。この決断が、その後二百七十年にわたって黒田家による安定した治世を可能にし 2 、現代に至る福岡市の繁栄の礎を築いたのである 9 。
天守の謎に象徴されるように、この事業の随所には、徳川幕府という巨大な中央権力と対峙する、有力外様大名のしたたかな生存戦略が見て取れる。自らの権威を最大限に示しつつも、決して幕府の猜疑心を招かない。この絶妙なバランス感覚こそが、戦国を生き抜き、江戸の世を治める者に求められた新たな資質であった。
結論として、「名島から福岡への移転」は、日本の歴史が中世的な混乱から近世的な秩序へと移行する、そのダイナミズムを凝縮した一事例である。それは、権力の源泉が、純粋な武力から、政治行政、経済運営、そして巧みな都市計画を統合した総合的な統治能力へと移行したことを明確に示している。黒田長政と如水が福岡の地に描いたグランドデザインは、戦国の知恵と新時代のビジョンが融合した、まさに「天下人の城」づくりであり、その遺産は今日の福岡の街並みの中に、今なお脈々と生き続けているのである 42 。
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- 福岡藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E8%97%A9
- フォーラム「福岡・博多の歴史的風景 〜風格のある都市づくり〜」報告 https://urc.or.jp/wp-content/uploads/2014/04/sairoku243.pdf
- 【公式】福岡城・鴻臚館 https://fukuokajyo.com/