最終更新日 2025-09-15

名護屋城築城(1592)

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肥前名護屋城 ― 豊臣秀吉の野望が築いた幻の巨大都市の実像

序章:天下統一の次なる一手 ― なぜ肥前名護屋だったのか

天正18年(1590年)の小田原征伐と奥州平定により、豊臣秀吉は長きにわたる戦乱の時代に終止符を打ち、日本列島の統一を成し遂げた。しかし、この天下統一は、新たな課題を生み出すことにもなった。それは、戦によってのみその存在意義を見出してきた膨大な数の武士団のエネルギーを、いかにして統御し、新たな方向へと導くかという、為政者としての根源的な問いであった。この問いに対する秀吉の答えが、彼の壮大な世界観と政治的野心の発露である「唐入り」、すなわち明帝国の征服計画であり、その遂行のために計画されたのが、肥前国名護屋(現在の佐賀県唐津市)における巨大軍事拠点の建設であった 1 。名護屋城の築城は、単なる城造りではなく、天下統一事業の論理的帰結であり、国内の政治的・軍事的エネルギーを国外へと転換させるための国家的な巨大プロジェクトだったのである。

秀吉の構想は、朝鮮半島を経由して明を征服し、さらには天竺(インド)にまで版図を広げるという、前代未聞のものであった。これは単なる領土的野心に留まらず、明を中心とした東アジアの伝統的な国際秩序(華夷秩序)に対し、日本が新たな中心として君臨しようとする意志の表明でもあった 1 。この壮大な計画を実現するためには、数十万の軍勢を海を越えて送り込み、継続的に兵站を維持するための、大規模かつ機能的な前線基地が不可欠であった。その戦略拠点として選ばれたのが、肥前国松浦郡の名護屋であった。

名護屋の地が選ばれた最大の理由は、その地理的優位性にある。九州の北西端、東松浦半島の突端に位置するこの地は、壱岐・対馬を中継点として朝鮮半島南部に至る最短航路上にあり、兵員と物資を大陸へ送り出す上で、これ以上ない好立地であった 1 。複雑なリアス式海岸は天然の良港を形成し、全国から海路で集積される物資を滞留させ、大陸へ向かう船団を編成するのに適していた 3 。博多のような既存の大商業港ではなく、当時「あらゆる人手を欠いた荒れ地」 4 と評されるほどの未開の地であったことは、むしろ利点となった。既存の権益に左右されることなく、ゼロから巨大な軍事兵站基地を意のままに設計・構築することが可能だったのである。この選地は、秀吉政権が極めて近代的かつ合理的な兵站思想を持っていたことを示唆している。

しかし、この地は全くの無人であったわけではない。元来、この地には在地領主である波多氏の家臣、名護屋氏が居城とする垣添城が存在した 3 。一帯の領主であった波多親は、名護屋が大軍を駐留させるには不向きであるとして築城に反対したため、秀吉の不興を買い、後に改易されている 3 。これは、国家プロジェクトの遂行のためには、既存のいかなる権益をも容赦なく排除するという、豊臣政権の強権的な性格を如実に物語る出来事であった。こうして、天下人の野望は、肥前の地に巨大な爪痕を刻み始めることとなる。

第一章:天正十九年(1591年)秋~冬 ― 天下普請の発令と始動

天正19年(1591年)10月、豊臣秀吉による正式な築城命令が下され、肥前名護屋の地で空前の建設プロジェクトが始動した 3 。この事業は、単なる城の建設ではなく、豊臣政権が持つ全国の大名に対する動員力と統制システムを最大限に発揮した「天下普請」であった。秀吉の一声の下、文字通り何もない荒れ地が、日本の新たな政治・軍事の中心地へと変貌を遂げていく過程は、豊臣政権の権力の絶頂を象徴するものであった。

縄張りと普請奉行の任命

城の基本設計である「縄張り」は、当代随一の軍略家として知られる黒田孝高(官兵衛)が担当した 4 。彼の設計は、単に難攻不落の要塞を造ることに留まらなかった。大陸を睨む最高司令部としての威厳、数十万の軍勢を効率的に統制するための機能的な動線、そして天下人秀吉の政庁としての壮麗さを兼ね備えた、複合的な都市計画であったと考えられる。

実際の工事を指揮・監督する普請奉行には、黒田孝高の子である黒田長政、後に熊本城築城で名を馳せる加藤清正、そして地元肥前の大名である寺沢広高らが任命された 4 。彼らの指揮の下、九州の諸大名を中心に「割普請」が命じられた。これは、各大名が石高に応じて定められた担当区域の工事に責任を持つというシステムであり、大名間の競争原理を巧みに利用して工事の迅速化を図ると同時に、責任の所在を明確化する、極めて効率的な手法であった 6

大名統制システムとしての天下普請

この名護屋城築城における天下普請は、土木工事としての側面以上に、豊臣政権による大名統制システムの一環として重要な意味を持っていた。各大名に課せられた普請役は、石高に応じて算出される軍役の一種であり、これに応じることは秀吉への忠誠を示すことであった 7 。膨大な資材と労働力を提供させることで各大名の財力を削ぎ、その動員力を正確に把握するという、巧みな統治術でもあった。定められた期限内に、秀吉の威光にふさわしい優れた普請を成し遂げることは、政権内での序列を維持・向上させるための必須条件であり、手抜きや遅延は許されなかった。このように、築城のプロセスそのものが、全国の大名を豊臣政権という絶対的なヒエラルキーの中に組み込み、秀吉の権威を再確認させるための壮大な政治的儀式(パフォーマンス)として機能したのである。

全国から結集した最先端技術

名護屋の地には、各大名がお抱えの石工集団をはじめとする、当時の日本における最高の技術者たちが全国から集結した。特に、織田信長の安土城築城で名を馳せた近江の穴太衆(あのうしゅう)に代表される石工たちの技術は、堅固な高石垣を築く上で不可欠であった 9

通常、城の築城技術、とりわけ石垣の積み方などは各大名の軍事機密であり、秘匿されるべきものであった。しかし、名護屋城では秀吉の絶対命令の下、各大名がそれぞれの持つ技術を惜しみなく投入せざるを得なかった 9 。これにより、例えば石垣の隅角部を強固にする「算木積み」や、自然石を巧みに組み合わせる「穴太積み」といった最先端の技術が、普請に参加した全ての技術者集団の目に触れることになった 9 。この経験は、各大名によってそれぞれの領国に持ち帰られ、文禄・慶長の役以降に日本全国で築かれる近世城郭(いわゆる織豊系城郭)の技術レベルを飛躍的に向上させ、その標準化を促す大きな要因となった。名護屋城は、日本の城郭史における技術的「特異点(シンギュラリティ)」、すなわち近世城郭の技術的プロトタイプが誕生した場所だったのである。

第二章:文禄元年(1592年)春 ― 巨城、その姿を現す

天正19年(1591年)秋の着工からわずか数ヶ月、翌文禄元年(1592年)の春には、名護屋城はその主要部の威容を現した 4 。この驚異的な工期は、豊臣政権の圧倒的な動員力と、割普請という効率的なプロジェクト管理手法の賜物であった。荒れ地であった丘陵地帯は、当時の日本の土木・建築技術の粋を結集した巨大城郭へと変貌を遂げたのである。

大坂城に次ぐ規模と壮麗な構造

完成した名護屋城の総面積は、約17ヘクタール(17万平方メートル)にも及び、秀吉の本拠である大坂城に次ぐ、当時日本最大級の規模を誇った 11 。城郭は、標高約90メートルの丘陵頂部に本丸を置き、西に二ノ丸、東に三ノ丸を配し、それらを馬場が繋ぐという基本構造を持っていた 5

城の象徴である天守は、本丸の天守台に聳える五層七階の壮大なものであったと伝えられる 5 。天守台からは、眼下に広がる玄界灘はもちろん、天候に恵まれれば遠く対馬まで望むことができ、まさに大陸を睨む秀吉の意志を体現した建造物であった 6 。佐賀県立名護屋城博物館による発掘調査では、天守台周辺から金箔を施した瓦が多数出土しており、その外観は陽光を反射して黄金に輝く、絢爛豪華なものであったと推測される 15 。この「見せる」ための権威性は、参陣した諸大名や後に訪れる明の使節に対し、秀吉の絶対的な権力を視覚的に誇示するための装置として、極めて重要な役割を果たした。

機能性と拡張性 ― 進化する城

名護屋城は、権威の象徴であると同時に、巨大な軍事基地としての合理的な機能性を徹底的に追求していた。秀吉の居住・政務空間である本丸御殿は、発掘調査によって礎石や玉石敷きの遺構が確認されており、豊臣秀吉の御殿跡が唯一現存する城跡として、学術的にも極めて価値が高い 6

さらに、城内には二ノ丸、三ノ丸といった主要な曲輪のほか、多様な機能を持つ空間が巧みに配置されていた。山里丸には茶室や能舞台が設けられ、政治的・文化的な交流の場として利用された 6 。また、明の使節が滞在したとされる遊撃丸や、深刻な水不足に対応するために雨水を貯める専用の郭であった水手曲輪など、その用途は多岐にわたった 5

特筆すべきは、この城が静的な完成品ではなく、状況に応じて変化し続けた「進化する城」であった点である。1992年の発掘調査では、現在の本丸を構成する石垣の内側から、それ以前に築かれた旧本丸の石垣が埋められた状態で発見された 6 。これは、初期の突貫工事でまず最低限の城郭機能を確保し、その後、秀吉の長期滞在や戦況の変化に対応するため、本丸そのものを拡張するという大規模な改修が行われたことを示している。名護屋城は、戦争の進展と共にその機能を変容させていく、ダイナミックで有機的な巨大構造物だったのである。

石垣技術の競演

名護屋城の石垣は、まさに当時の石工技術の見本市であった。全国から集った石工集団は、割普請で定められた工区において、それぞれの技を競い合った。自然石を巧みに積み上げる「穴太積み」、横方向のラインを意識した「布目崩し」、そして隅角部の強度を飛躍的に高める「算木積み」など、多様な技法が城内の至る所で見られる 9 。特に、東出丸の櫓台などには、石を縦方向に積む「縦石積み」という、高度な技術と危険を伴う特殊な技法も用いられており、当時の技術水準の高さを物語っている 9 。これらの石垣は、単なる防御施設ではなく、豊臣政権の威光と、それに参集した大名たちの技術力を示す、壮大な作品群でもあった。

第三章:文禄元年(1592年)四月~夏 ― 巨大軍事都市の誕生と稼働

文禄元年(1592年)4月25日、豊臣秀吉が名護屋城に着陣した 3 。この日を境に、肥前の一角に過ぎなかった名護屋は、名実ともに日本の政治・軍事の中枢となり、大陸侵攻の拠点として本格的に稼働を開始する。城の完成と天下人の到来は、その周囲に未曾有の巨大軍事都市を誕生させた。

諸大名の参陣と陣屋町の形成

秀吉の号令一下、全国の諸大名が続々と名護屋に参集した。その数は130家から160家にも上り、彼らは名護屋城を中心とする半径約3キロメートルの範囲内に、それぞれの陣屋を構築した 14 。これらの陣屋は、単なる宿営地ではなかった。多くは石垣や土塁、堀を備えた小規模な城砦とも言うべき堅固な構造を持ち、各大名がその威信をかけて築いたものであった。現在でも、徳川家康、前田利家、伊達政宗といった錚々たる大名のものを含む23箇所の陣跡が、国の特別史跡に指定されている 12

この陣屋町の配置は、豊臣政権の権力構造を可視化した「三次元の勢力図」そのものであった。徳川家康や前田利家といった五大老に列せられる最有力大名は、名護屋城の本丸に近接する要衝に広大な陣屋を構えた 14 。一方で、石高の低い大名や、政権内での序列が低い大名は、中心部から離れた場所に配置された。陣屋の規模や構造の立派さもまた、各大名の石高や秀吉からの信任の厚さを如実に反映していた。秀吉は、自身を絶対的な中心とする求心的な都市構造を意図的に作り上げることで、その支配体制を不動のものとして天下に示したのである。

大名名(官位)

本拠地

表高(石高)

動員兵力(推定)

名護屋での役割

陣屋の位置

備考

徳川家康(内大臣)

武蔵国・江戸

240万石

15,000人

秀吉の補佐、明使節の接待役 23

名護屋城の北東、本丸に近接

渡海せず名護屋に在陣

前田利家(大納言)

加賀国・金沢

83万石

不明

明使節の接待役、秀吉の側近 22

名護屋城の東、大手口正面

渡海せず名護屋に在陣

伊達政宗(左近衛権少将)

陸奥国・岩出山

58万石

3,000人

渡海し朝鮮で参戦

名護屋城の北方約3km

豪華な軍装が「伊達者」の語源に 24

上杉景勝(中納言)

越後国・春日山

90万石

5,000人

渡海せず名護屋に在陣

名護屋城の西、湊を見下ろす丘陵

豊臣秀保の陣跡に隣接

島津義弘(侍従)

薩摩国・鹿児島

60.5万石

10,000人

渡海し朝鮮で参戦

名護屋城の南西

兵の到着が遅れ「日本一の大遅陣」と称される 25

加藤清正(主計頭)

肥後国・熊本

19.5万石

10,000人

渡海し朝鮮で参戦(二番隊隊長)

名護屋城の南、呼子湾に面す

築城の普請奉行も務める 4

小西行長(摂津守)

肥後国・宇土

20万石

7,000人

渡海し朝鮮で参戦(一番隊隊長)

名護屋城の南方

キリシタン大名として知られる

黒田長政(甲斐守)

豊前国・中津

12万石

5,000人

渡海し朝鮮で参戦(三番隊隊長)

名護屋城の西

築城の普請奉行も務める 4

人口20万の巨大都市の出現と兵站機能

参陣した大名とその軍勢に加え、彼らに随行する商人、職人、文化人、さらにはイエズス会の宣教師や明の使節団といった多様な人々がこの地に集った結果、名護屋一帯の人口は最盛期には20万人を超えたと推定されている 12 。これは当時の日本の首都であった京都や、経済の中心地であった大坂に匹敵する規模であり、小さな漁村がわずか1年足らずで日本有数の巨大都市へと変貌を遂げたことを意味する。

この都市の存在意義は、ただ一つ、大陸侵攻のための巨大な兵站基地として機能することにあった。全国から兵糧米や武具、弾薬といった膨大な軍需物資が海路・陸路で名護屋に運び込まれ、ここから朝鮮半島の戦地へと送られた 19 。しかし、この巨大な人口と軍事活動を支える上で、水不足は極めて深刻な問題であった。東松浦半島は大きな河川に乏しく、生活用水や飲料水の確保は喫緊の課題であった。このため、城内には雨水を貯めるための「水手曲輪」が設けられ、また「太閤井戸」をはじめとする複数の井戸が掘削された記録が残っている 5

名護屋は、日本の都市史において特異な存在であった。従来の城下町が、政治・経済・文化が有機的に結びつき、長い年月をかけて発展するものであったのに対し、名護屋は「朝鮮出兵」という単一の目的のために、為政者の強力な意志によって極めて短期間に、そして人工的に創出された都市であった。その経済活動は軍事需要に、文化活動は政治的結束に奉仕するものであり、まさに近世的な「単一機能特化型都市」の日本初にして最大の事例であったと言えるだろう。

第四章:名護屋の日々 ― 戦時下の政治・文化・外交

名護屋は、大陸での激戦を支える最前線の軍事基地であったと同時に、華やかな桃山文化が花開き、列強との緊迫した外交交渉が繰り広げられる、日本の政治・文化の中心地でもあった。戦争という極限状況と、絢爛たる文化活動が共存したこの地の日常は、名護屋という空間の特異な性格を色濃く反映している。

最高司令部としての名護屋城

秀吉は、文禄元年(1592年)4月の着陣から翌年8月に大坂へ戻るまで、そして慶長の役の期間も含め、延べ1年2ヶ月を名護屋で過ごした 5 。この間、彼は名護屋城の本丸御殿から、海を渡った諸将の戦況報告を逐一受け、次なる作戦の指示を下していた。朝鮮在陣の諸大名に対し、秀吉への絶対的な忠誠を誓わせた「諸大名等連署誓紙」のような重要文書も、この名護屋で作成された 26 。名護屋は、まさに日本軍の最高司令部として機能していたのである。

政治装置としての文化活動

戦時下にもかかわらず、名護屋では文化活動が盛んに行われた。しかし、それらは単なる慰安や娯楽ではなく、高度な政治的装置としての側面を強く持っていた。

秀吉は、自らの権威を象徴する組み立て式の「黄金の茶室」を大坂城から運び込み、諸大名や公家、明の使節などを招いて茶会を催した 16 。誰が茶会に招かれるか、どのような席次で、どの名物茶器が用いられるか、そのすべてが政権内での序列を示す政治的メッセージを含んでいた。秀吉は、武力だけでなく文化的な権威によっても大名を統制しようとし、茶の湯をそのための有効なツールとして最大限に活用したのである。城内の山里丸や、古田織部をはじめとする諸大名の陣屋でも茶会は頻繁に催され、名護屋は一大茶の湯空間と化していた 14

また、城内の山里丸には能舞台も設けられ、連日のように能が演じられていたと記録されている 19 。共通の価値観や美意識を共有させることは、過酷な戦を前にした武将たちの心を繋ぎとめ、豊臣政権を中心とした文化的な一体感を醸成する上で、不可欠な統治技術であった。

この地が全国的な注目の的であったことを示す逸話として、「伊達者(だてもの)」の語源がある。奥州の大名、伊達政宗は、金銀を散りばめた豪華絢爛な軍装で兵を率いて上洛し、名護屋へ参陣した。その華美で粋な行列は京の人々の度肝を抜き、以来、派手な装いを好む者を「伊達者」と呼ぶようになったと伝えられている 24

国際外交の最前線

名護屋は、国際外交の舞台でもあった。文禄2年(1593年)、戦況が膠着する中で、明との講和交渉が開始される。この交渉のために来日した明の使節団(遊撃将軍・沈惟敬ら)の応対も、この名護屋で行われた 5 。徳川家康や前田利家といった重臣が接待役を務め、日本の国運を左右する緊迫した外交交渉が繰り広げられたのである 22 。名護屋城は、日本が初めて本格的に東アジアの国際政治の渦中に身を置いた、その最前線であった。

この戦争は、悲劇的な側面だけでなく、意図せざる文化の伝播ももたらした。侵攻の過程で、朝鮮半島から多くの優れた技術を持つ陶工たちが日本へと連れてこられた。彼らが鍋島直茂をはじめとする西国大名に抱えられたことが、後の唐津焼や有田焼といった日本の磁器生産の劇的な発展に繋がり、日本の工芸文化を大きく変容させるきっかけとなった 16 。秀吉の野望は挫折するが、この時に生まれた朝鮮半島との深い亀裂と、一方で起きた文化的・技術的交流という二律背反の事実は、その後の日本の歴史に長く複雑な影響を及ぼすことになる。名護屋は、その歪んだグローバル化の起点とも言える場所であった。

第五章:慶長三年(1598年)以降 ― 夢の終焉と遺産

慶長3年(1598年)8月18日、この巨大プロジェクトの絶対的な推進力であった豊臣秀吉が、伏見城にてその生涯を閉じた 5 。彼の死は、大陸侵攻計画の完全な頓挫を意味した。五大老による合議の結果、朝鮮半島からの全軍撤退が決定され、名護屋はその存在意義を急速に失っていく。

幻の都市の終焉

出兵という唯一の目的が消滅したことで、あれほどの人々で賑わった巨大軍事都市は、急速にその活気を失った。諸大名はそれぞれの軍勢を率いて領国へと引き揚げ、彼らを当て込んでいた商人や職人たちも蜘蛛の子を散らすように去っていった。わずか7年という短期間で歴史の表舞台に登場し、日本の中心として機能した名護屋は、主を失ったことで瞬く間にゴーストタウンと化し、「幻の巨大都市」としてその役割を終えたのである 16

解体と意図的な破壊 ― 豊臣の記憶の消去

名護屋城の物理的な終焉は、関ヶ原の戦いを経て徳川の世が到来した後に訪れる。慶長7年(1602年)、この地を新たな領地として与えられた寺沢広高は、唐津に新たな城(唐津城)を築くことを決定した。その際、名護屋城の天守をはじめとする壮麗な建造物の多くが解体され、その資材が唐津城の築城に転用されたと伝えられている 5 。これは単なる資材の再利用ではない。豊臣の威光の象徴を解体し、徳川の治世における新たな城の礎とすることで、時代の転換を可視化する、極めて政治的な行為であった。

さらに決定的だったのが、寛永14年(1637年)に勃発した島原の乱後の処置である。幕府は、廃城となっていた名護屋城が、原城のように一揆勢の拠点として利用されることを恐れた。これに加え、秀吉の朝鮮出兵という「負の遺産」を清算し、明や朝鮮との関係改善の意思を明確に示すため、名護屋城の石垣を徹底的に破壊するよう命じた 31 。この破壊は無秩序に行われたのではなく、石垣の隅角部(算木積み)や最上部の天端石を重点的に崩すという、城としての機能を無力化するための、極めて計画的なものであった 31 。徳川幕府にとって、秀吉の野心の象徴であった名護屋城を物理的に「無きもの」にすることは、新しい時代の秩序を盤石にする上で不可欠なプロセスだったのである。

特別史跡としての再生

その後、長く忘れ去られていた名護屋城跡であったが、近代に入りその歴史的価値が再評価される。大正15年(1926年)に国の史跡に、そして昭和30年(1955年)には、城跡と周辺の主要な陣跡群が一体として、国の「特別史跡」に指定された 14

現在では、城跡に隣接して平成5年(1993年)に開館した佐賀県立名護屋城博物館が中核となり、継続的な発掘調査と保存整備事業が進められている 30 。これらの調査によって、本丸御殿跡の具体的な構造や、山里丸の茶室跡の全容などが次々と明らかになり、歴史の中に埋もれていた幻の都市の姿が、再び我々の前に現れつつある 15 。名護屋城跡は、短期間で放棄され、後世の大規模な開発を免れたため、安土桃山時代末期の城郭と陣屋町の構造が、ほぼ手付かずの状態で地下に保存されている。それは、豊臣政権の権力構造から兵站システム、文化に至るまで、その時代の全てを凝縮した、他に類を見ない巨大な考古学的「タイムカプセル」なのである。

終章:名護屋城が歴史に刻んだもの

肥前名護屋城の築城と、そこに生まれた巨大軍事都市は、わずか7年というあまりに短い期間でその歴史的役割を終えた。しかし、この幻の都市が日本の歴史に刻んだ影響は、決して小さくはない。名護屋城は、豊臣政権の到達点と限界、近世社会の形成、そして現代にまで続く国際関係の原点を、我々に示している。

第一に、名護屋城は豊臣秀吉という一人の天下人が到達した権力の絶頂を象徴するモニュメントであった。全国の大名を動員し、未開の地に短期間で大坂城に次ぐ規模の城郭と人口20万の都市を現出させた事実は、彼が確立した統治システムの完成度の高さを物語っている。しかし同時に、その存在理由であった大陸侵攻計画が、現実から乖離した壮大な野望であり、最終的に破綻したことを示す記念碑でもある。名護屋の繁栄と急速な衰退は、秀吉個人の強力なリーダーシップに依存した豊臣政権の脆弱性を浮き彫りにした。

第二に、名護屋城は日本の城郭技術史における明確な分水嶺であった。天下普請という国家的プロジェクトの下、全国から最新の築城技術が一堂に会し、互いに影響し合い、融合した。ここで培われた石垣技術や縄張りの思想は、参陣した大名たちによって各地に持ち帰られ、その後の近世城郭建築のスタンダードを形成する上で決定的な役割を果たした。名護屋は、戦国の城から近世の城への移行を促した、技術史上の重要な転換点だったのである。

第三に、名護屋城は侵略の拠点であったという負の歴史を背負っている。この地から始まった文禄・慶長の役は、朝鮮半島に甚大な被害をもたらし、その後の日朝関係に長く癒えぬ傷痕を残した。この歴史的経緯を深く認識し、佐賀県立名護屋城博物館が単なる城の歴史を紹介する施設に留まらず、「日本列島と朝鮮半島との交流史」を基本テーマに掲げ、韓国国立晋州博物館との学術交流協定を結ぶなど、未来に向けた相互理解の拠点としての役割を担っていることは、極めて重要な意義を持つ 33

権力者の野望によって生まれ、そして消えていった幻の巨大都市の遺跡は、現代の我々に対し、普遍的な問いを投げかけている。国家とは何か、戦争が社会に何をもたらすのか、そして異なる文化や民族といかに向き合うべきか。名護屋城跡は、過去の栄華と悲劇を静かに語りながら、未来を考えるための貴重な歴史的遺産として、今もその地に佇んでいる。

引用文献

  1. 名護屋築城背景‐高島忠平 - 洋々閣 http://www.yoyokaku.com/nagoyajyou-takasima.htm
  2. 名護屋城 - - お城散歩 - FC2 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-204.html
  3. 名護屋城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.hizennagoya.htm
  4. 歴史 | 肥前名護屋城 http://hizen-nagoya.jp/history/
  5. 名護屋城跡並陣跡 - 閑古鳥旅行社 http://kankodori.net/japaneseculture/site/055/index.html
  6. 名護屋城跡 - 佐賀ミュージアムズ https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/nagoya.html
  7. 文禄慶長の役(ぶんろくけいちょうのえき)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%96%87%E7%A6%84%E6%85%B6%E9%95%B7%E3%81%AE%E5%BD%B9-1203561
  8. 文禄・慶長 : 日本軍の合戦・進軍 - 肥前名護屋城 http://hizen-nagoya.jp/bunroku_keicho/kassen.html
  9. 肥前名護屋城跡の石垣 ―文禄・慶長期の城郭石積みとその修理 http://hizen-nagoya.jp/nou_cha_ishigaki/ishigaki.html
  10. 伝統技術にもとづいた城郭石垣の整備 - 文化遺産の世界 https://www.isan-no-sekai.jp/feature/32_souron02
  11. 豊臣秀吉の朝鮮出兵で栄えた 「名護屋城」の歴史の跡を歩く 大名が構えた陣跡巡りも | 記事 https://www.asobo-saga.jp/articles/detail/53f8aa98-00e4-460f-afcf-3bcf24f9d6f9
  12. 名護屋城とは - 佐賀ミュージアムズ https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/
  13. 特別史跡を見てみよう。 - 肥前名護屋城 http://hizen-nagoya.jp/shiseki/index.html
  14. 特別史跡 名護屋城跡並陣跡 | 唐津市 https://www.city.karatsu.lg.jp/uploaded/attachment/16449.pdf
  15. 佐賀県立名護屋城博物館常設展示室をリニューアルオープンします https://www.pref.saga.lg.jp/kiji003112353/index.html
  16. 全国から名だたる武将が集結! 知れば知るほど面白い 肥前名護屋城の歴史 - 佐賀県観光連盟 https://www.asobo-saga.jp/articles/detail/6fd81283-f782-4c92-8a76-32df2c893034
  17. お城の現場より~発掘・復元の最前線【肥前名護屋城】明らかになる幻の城の実態 - 城びと https://shirobito.jp/article/359
  18. 本丸御殿跡 - 全国文化財総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/35460
  19. 名護屋城跡山里口石垣修理報告書 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/24/24971/18473_1_%E7%89%B9%E5%88%A5%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E5%90%8D%E8%AD%B7%E5%B1%8B%E5%9F%8E%E8%B7%A1%E4%B8%A6%E3%81%B3%E3%81%AB%E9%99%A3%E8%B7%A1.pdf
  20. 肥 前 名護屋城下町の空間構造とその特異性 宮武正登 https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/record/1408/files/kenkyuhokoku_127_05.pdf
  21. 肥前名護屋城×尾張名古屋城 | お城note | 名古屋城公式ウェブサイト https://www.nagoyajo.city.nagoya.jp/oshironote/2024/12/20241210_4460.html
  22. 肥前名護屋城 - ストリートミュージアム https://www.streetmuseum.jp/historic-site/shiro/2025/01/08/280/
  23. 徳川家康 | はじまりの名護屋城。 https://www.hajimari-nagoya.jp/tokugawa/
  24. 伊達政宗陣|名護屋城(佐賀県唐津市)の周辺スポット - ニッポン城めぐり https://cmeg.jp/w/castles/9287/pins/29243
  25. 島津義弘 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E7%BE%A9%E5%BC%98
  26. 特別企画展「肥前名護屋 ー幻の巨大都市ー」 - 佐賀ミュージアムズ https://saga-museum.jp/nagoya/exhibition/limited/2018/08/001951.html
  27. 晩年の豊臣秀吉のイヤな性格がよくわかる…朝鮮出兵の前線基地「肥前名護屋城」に作らせた意外な施設 ほかの大名も秀吉に付き合うしかなかった (2ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/74641?page=2
  28. 名護屋城後編 https://sirohoumon.secret.jp/hizennagoya.html
  29. 名護屋城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%8D%E8%AD%B7%E5%B1%8B%E5%9F%8E
  30. 佐賀県立名護屋城博物館 - 旅Karatsu 唐津観光協会 https://www.karatsu-kankou.jp/sp/spots/detail/220/
  31. 【日本100名城・名護屋城編(佐賀県)】 破却された石垣が伝える ... https://shirobito.jp/article/590
  32. (肥前)名護屋城~佐賀県唐津市~ - 裏辺研究所「日本の城」 https://www.uraken.net/museum/castle/shiro205.html
  33. 施設案内|佐賀県立 名護屋城博物館 - 佐賀ミュージアムズ https://saga-museum.jp/nagoya/facility/
  34. 保存整備事業|佐賀県立 名護屋城博物館 https://saga-museum.jp/nagoya/nagoya-castle/hozon.html