和歌山城築城(1585)
天正13年、豊臣秀吉は紀伊国を平定し、和歌山城を築城。独立王国紀伊の終焉と豊臣政権の確立を象徴する。雑賀衆・根来衆の抵抗を排し、藤堂高虎が築城。検地・刀狩で社会変革を断行し、近世国家の礎を築いた。
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天正十三年 和歌山城築城の真相:独立王国・紀伊の終焉と豊臣政権の礎
序章:なぜ紀伊国に城が必要だったのか
天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命により紀伊国に和歌山城が築かれた。この出来事は、単なる一城郭の建設に留まらない。それは、戦国乱世を通じて独自の自治と武力を保持し続けた「独立王国」紀伊国の終焉と、豊臣政権による新たな支配秩序の確立を象徴する、時代の転換点であった。和歌山城築城の真の意味を理解するためには、まず、当時の紀伊国がいかに特異で、天下統一を目指す秀吉にとって危険な存在であったかを解き明かす必要がある。
戦国期における紀伊国の特異性:「百姓たちの共和国」の実態
戦国時代の紀伊国は、特定の戦国大名による一元的な支配が及ばない、極めて特殊な政治的風土を有していた。守護大名であった畠山氏の力は早くに衰え、その空白地帯には、雑賀衆(さいかしゅう)や根来衆(ねごろしゅう)に代表される国人・地侍、そして寺社勢力が連合体を形成し、各地域を共同で統治する体制が築かれていた 1 。これは「紀伊惣国一揆(きいそうこくいっき)」と呼ばれ、その自治の実態を目の当たりにしたイエズス会の宣教師ルイス・フロイスは、驚きをもって「百姓たちの共和国」と記録している 1 。
彼らの多くは漁業、海運、交易といった生業に従事する自由な民であり、既成の武士階級が重んじる面子や体面、名誉といった価値観には縛られない、実利を第一とする気風を持っていた 2 。この統治形態は、秀吉が構築を目指す、武士を頂点とする中央集権的なピラミッド型の封建社会とは、その理念において根本的に相容れないものであった 3 。紀伊国は、天下統一という巨大な奔流の中にあって、中世的な自治のあり方を最後まで保持しようとする、異質な世界だったのである。
雑賀衆・根来衆:戦国最強の鉄砲傭兵集団の力と信長との死闘
紀伊国の独立を軍事的に支えていたのが、雑賀衆と根来衆の存在である。彼らは、当時最新鋭の兵器であった鉄砲を、戦国大名の軍団を凌駕する規模で保有していた。雑賀衆だけでも常時5千から8千挺もの鉄砲を装備していたとされ、根来寺の僧兵集団である根来衆もまた、一大鉄砲部隊としてその名を轟かせていた 2 。紀伊国が鉄砲の一大生産地であり、堺などと結ぶ交易港を有していたことが、彼らの強力な軍備を経済的に支えていたのである 4 。
彼らは単に鉄砲の数が多いだけでなく、その運用技術と戦術においても当代随一と評された 2 。その力は、天下布武を掲げる織田信長との10年以上にわたる石山合戦で遺憾なく発揮される。本願寺勢力の中核として信長軍を大いに苦しめ、天正5年(1577年)には、信長が自ら6万を超える大軍を率いて行った雑賀攻め(第一次紀州征伐)においても、地の利を活かしたゲリラ戦術でこれを撃退。事実上の勝利を収めるに至った 2 。信長でさえ完全に屈服させることができなかったこの独立武装集団は、天下統一を目指すいかなる権力者にとっても、決して看過できない脅威であった。
小牧・長久手の戦いと紀州勢力:秀吉の背後を脅かす存在
信長亡き後、天下人の最有力候補となった豊臣秀吉にとっても、紀州勢力は最大の懸念材料の一つであった。その脅威が現実のものとなったのが、天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いである。この戦いで、雑賀衆・根来衆は徳川家康・織田信雄と結び、秀吉の本拠地である大坂城の後方を攪乱すべく、和泉国へと大挙して侵攻した 5 。
彼らは和泉南部の諸城を攻略し、秀吉方の岸和田城を包囲。さらに一部は建設途上にあった大坂の城下町にまで迫り、放火・略奪の限りを尽くした 7 。この攻撃は、家康と対峙するために東へ向かおうとしていた秀吉の出陣を延期させ、軍を返さざるを得ない状況に追い込むほど深刻なものであった 8 。この事件は、秀吉に紀伊国平定の絶対的な必要性を痛感させた。家康と和睦した後も、いつ紀州勢力が再び反秀吉勢力と結び、大坂の喉元に刃を突きつけてくるか分からない。この戦略的脆弱性を解消しない限り、秀吉の天下統一事業は盤石なものとはなり得なかったのである 3 。和歌山城の築城は、この差し迫った脅威を取り除くための、必然的な軍事行動の帰結であった。
第一部:紀州征伐 ― 力による秩序の再編
小牧・長久手の戦いから一年を経た天正13年(1585年)3月、豊臣秀吉はついに紀伊国への全面的な侵攻を開始する。これは、単なる領土の切り取りではなく、秀吉の新たな天下の秩序に服従しない独立勢力を、圧倒的な武力によって根絶やしにするための殲滅戦であった。この章では、開戦から太田城の陥落まで、約一ヶ月にわたる戦いの経過を時系列で追い、中世的自治世界の崩壊プロセスを克明に描き出す。
第一章:開戦前夜(天正13年3月まで)
秀吉の決断は、短期決戦による完全制圧であった。彼は、紀伊平定を天下統一事業の最優先課題と位置づけ、その軍事行動に一切の妥協を許さなかった 3 。紀州勢が得意とする鉄砲戦術に対し、兵力の損耗を全く意に介さない圧倒的な物量で押し潰すという、極めて冷徹な戦略を立てていた 7 。
そのために動員された兵力は、総勢10万ともいわれる未曾有の大軍であった 9 。軍の編成は、甥の羽柴秀次を総大将格の先鋒とし、その麾下に蒲生氏郷、丹羽長秀、筒井定次、細川忠興、堀秀政といった、かつての織田家臣団を含む豊臣政権の主力武将が悉く名を連ねた 9 。さらに、毛利水軍の協力も得て、小西行長を将とする水軍を編成。紀伊国を海と陸の両面から完全に包囲する鉄壁の布陣を敷いたのである 7 。
これに対し、迎え撃つ紀州勢は、和泉国南部に点在する千石堀城(せんごくぼりじょう)、沢城(さわじょう)、積善寺城(しゃくぜんじじょう)、畠中城(はたけなかじょう)などを前線基地とし、合計9,000余の兵力で防衛線を構築した 7 。しかし、彼らには統一された指揮系統が存在せず、各勢力が個別の判断で防衛にあたるという、巨大な敵を前にしては致命的ともいえる弱点を抱えていた 9 。戦国最強と謳われた鉄砲集団は、組織的な戦略を欠いたまま、豊臣の大軍を迎え撃つことになった。
第二章:電撃戦 ― 和泉国境線の崩壊(3月20日~23日)
戦端は、天正13年3月20日に切られた。この日、先鋒の羽柴秀次軍が大坂を出立し、紀州勢の防衛線にほど近い貝塚に到着 7 。翌21日、秀吉本隊も大坂城を出陣して岸和田城に入ると、これを合図に豊臣軍の各部隊が紀州方の城砦群に一斉に襲いかかった 7 。
攻撃の焦点となった千石堀城では、壮絶な攻防戦が繰り広げられた。城兵は得意の鉄砲を雨霰と撃ちかけ、豊臣軍の先鋒に大損害を与えた。わずか半時(約1時間)の戦闘で、秀次勢の死傷者は1,000人以上に達したと伝えられる 7 。しかし、兵力差は歴然であった。筒井定次麾下の中坊秀行や伊賀衆が城の搦手(からめて)に回り込んで火矢を射かけると、これが不運にも城内の煙硝蔵(火薬庫)に引火。城は凄まじい爆発と共に炎上し、これが致命傷となって、わずか一日で陥落した 7 。
この千石堀城の陥落は、紀州勢の心理に大きな動揺を与えた。翌22日には、積善寺城と沢城も豊臣軍の猛攻の前に次々と開城 7 。畠中城も陥落し、紀州勢が頼みとした和泉国境の防衛ラインは、戦闘開始からわずか2、3日で完全に崩壊した 7 。
防衛線が破られたことを見届けた秀吉は、3月23日、岸和田城を発して紀伊国本土へと進軍。その矛先は、紀州勢力の精神的・軍事的支柱であった根来寺に向けられた 7 。しかし、根来衆の主力部隊はすでに和泉の戦線で壊滅しており、広大な寺内にはもはや戦闘要員はほとんど残っていなかった。秀吉軍はほぼ無抵抗で寺を制圧 9 。その夜、根来寺は原因不明の火の手が上がり、大塔や南大門など一部の建物を残して、三日三晩燃え続け、壮麗を極めた大伽藍の多くが灰燼に帰した 6 。この徹底的な破壊は、紀伊の民衆の抵抗の意志を根底から打ち砕くための、冷徹な計算に基づいた心理戦であった。時を同じくして、天台宗の拠点であった粉河寺も同様に炎上し、紀伊北部の主要な抵抗拠点は完全に機能を失った 14 。
第三章:雑賀荘の自壊と太田城水攻め(3月24日~4月27日)
根来寺が炎上するのとほぼ時を同じくして、もう一方の雄であった雑賀荘もまた、崩壊の時を迎えていた。しかしその結末は、外部からの攻撃というよりも、内部からの自壊に近かった。秀吉軍の圧倒的な力の前に、雑賀衆内部では親秀吉派と反秀吉派の対立が激化。組織的な抵抗が全くできない内紛状態に陥っていたのである 10 。3月24日、進駐してきた秀吉軍は、この混乱に乗じて雑賀荘の各地に放火。かつて信長を苦しめた強大な軍事集団は、自滅に近い形で歴史から姿を消した。
しかし、紀州の抵抗が完全に潰えたわけではなかった。雑賀衆の残存勢力や、日前宮(ひのくまじんぐう)を拠点とする太田党など数千人が、太田城(現在の和歌山市)に籠城し、最後の望みを賭けて徹底抗戦の構えを見せたのである 5 。
これに対し、秀吉はかつて備中高松城攻めで用いた水攻めを決断。3月28日頃から、城の周囲約7kmにわたって、高さ4mから6mにも及ぶ巨大な堤防の建設を開始した 10 。4月5日頃に堤防が完成すると、紀ノ川の水が引き入れられ、太田城はたちまち湖上に浮かぶ孤島と化した 17 。
籠城戦は凄惨を極めた。4月8日頃、城内に元々あった治水用の横堤が水圧に耐えきれず決壊。濁流が城内になだれ込み、籠城者の士気は著しく低下した 17 。しかしその翌日には、今度は秀吉軍が築いた堤防の一部が決壊し、豊臣軍側にも多数の溺死者が出るという皮肉な事態も発生した 17 。秀吉は堤防を修復させ、安宅船を浮かべて城への攻撃を再開するが、戦況は膠着。兵糧攻めと心理的圧迫が続けられた 7 。
援軍の望みも絶たれ、兵糧も尽き果てた4月下旬、籠城側はついに降伏を決断する。その条件は過酷を極めた。城兵や農民たちの命は助ける代わりに、指導者である太田左近をはじめとする主だった者53名が自害すること、そしてその妻子数十名を磔にすることであった 15 。4月27日、約一ヶ月にわたる籠城戦の末、指導者たちは自刃して果てた。助命された農兵たちは、農具以外の全ての武器を没収された上で解放された 10 。これは、天正16年(1588年)に全国で発令される「刀狩令」の先駆けともいえる措置であり、紀州征伐が単なる軍事制圧ではなく、豊臣政権による新たな社会秩序構築の実験場であったことを示唆している。
太田城の陥落と並行して、豊臣軍の別動隊は紀伊南部も平定し、高野山も秀吉の圧力の前に4月10日には降伏 6 。こうして、戦国乱世を通じて独立を保ち続けた紀伊国は、完全に豊臣政権の支配下に置かれることとなった。
日付 (天正13年) |
場所・事変 |
豊臣軍の動向 |
紀州勢の動向 |
結果・意義 |
3月20日 |
和泉国 貝塚 |
先鋒・羽柴秀次軍が貝塚に到着 7 。 |
和泉国境の城砦群で防衛体制を敷く 7 。 |
紀州征伐の本格的な軍事行動が開始される。 |
3月21日 |
和泉国 千石堀城 |
秀吉本隊が岸和田城入り。秀次軍が千石堀城を攻撃開始 7 。 |
鉄砲で激しく応戦し、豊臣軍に大損害を与える 7 。 |
煙硝蔵の爆発により千石堀城が一日で陥落。紀州勢の戦術思想と秀吉の物量作戦の差が露呈する。 |
3月22日 |
和泉国 積善寺城・沢城 |
猛攻を加え、両城を開城させる 7 。 |
主要な防衛拠点を失い、戦線が崩壊する。 |
和泉国境の防衛ラインが完全に突破される。 |
3月23日 |
紀伊国 根来寺 |
秀吉本隊が根来寺に進駐。ほぼ無抵抗で制圧 7 。 |
主力部隊を失い、組織的抵抗が不可能な状態。 |
その夜、根来寺が出火・炎上。一大宗教軍事拠点が壊滅し、紀州勢の精神的支柱が破壊される。 |
3月24日 |
紀伊国 雑賀荘 |
秀吉軍が雑賀荘に進駐し、各地に放火 10 。 |
内部対立により組織的抵抗ができず、自壊状態に陥る 10 。 |
雑賀衆が事実上壊滅する。 |
3月28日頃 |
紀伊国 太田城 |
籠城した残存勢力に対し、水攻めのための堤防建設を開始 10 。 |
太田城に数千人が籠城し、最後の抵抗を試みる 15 。 |
日本三大水攻めの一つ、太田城水攻めが始まる。 |
4月10日 |
紀伊国 高野山 |
圧力をかけ、降伏させる 6 。 |
根来寺の惨状を見て、戦わずして降伏。 |
紀伊国における最大級の寺社勢力が秀吉に屈服する。 |
4月22日頃 |
紀伊国 太田城 |
水攻めを継続し、城内への総攻撃をかける 7 。 |
籠城戦を続けるも、兵糧が尽き、援軍の望みも絶たれる。 |
籠城側が降伏を決意する。 |
4月27日 |
紀伊国 太田城 |
降伏を受け入れ、開城させる 17 。 |
指導者53名が自害。他の者は武装解除の上で助命される 15 。 |
紀州における組織的抵抗が終結。後の刀狩令の原型となる措置が実施される。 |
第二部:和歌山城の創建 ― 新時代の象徴
紀州征伐という徹底的な破壊の後、秀吉は直ちに新たな創造へと乗り出す。それは、紀伊国における豊臣政権の恒久的な支配を確立し、その権威を可視化するための新たな拠点、すなわち和歌山城の築城であった。この城は単なる軍事施設ではなく、新たな時代の到来を告げる象徴として、周到な計画のもとに建設されたのである。
第一章:虎伏山の選定 ― 地政学的要衝の掌握
城の建設地は、秀吉自らの手によって選定された。紀伊平定後、秀吉は一ヶ月ほど現地に留まり、城の縄張り(基本設計)を自ら行ったと伝えられる 18 。彼が選んだのは、紀ノ川の河口に位置し、当時は「岡山」と呼ばれていた小高い丘であった。この丘は、海から眺めると虎が伏している姿に似ていることから「虎伏山(とらふすやま)」の異名を持ち、これが後に和歌山城の別称ともなった 20 。
この場所の選定には、秀吉の卓越した地政学的センスが表れている。標高約49mの虎伏山は、平野部にありながら周囲を一望できる平山城の適地であり、山頂からは紀ノ川河口、和歌山湾、そしてその先に浮かぶ淡路島や四国の姿までをはっきりと見渡すことができた 18 。これは、紀伊国内の反乱分子を監視するだけでなく、瀬戸内海の海上交通路を抑え、来るべき四国征伐の兵站基地として機能させる上で、まさに絶好の立地であった 9 。城は、陸の支配と海の支配を結びつける戦略的結節点に置かれたのである。さらに、虎伏山自体が硬い岩盤で形成されており、堅固な石垣を築く上で技術的にも優位性を持っていた 26 。
第二章:普請奉行・藤堂高虎 ― 築城の名手の初陣
この国家的な一大プロジェクトの普請奉行(建設責任者)に抜擢されたのは、当時まだ秀吉の弟・豊臣秀長の家臣の一人に過ぎなかった藤堂高虎であった 27 。これが、後に「築城の名手」と称される高虎が、初めて本格的な近世城郭の築城に携わった記念すべき事業となった 28 。和歌山城は、高虎の輝かしいキャリアの原点であり、彼の築城術を世に知らしめる試金石となったのである。
築城は急ピッチで進められ、わずか1年で完成したとされる 19 。創建当初の和歌山城は、後の徳川時代の大城郭とは異なり、実戦を強く意識した質実剛健な姿をしていたと考えられる。その特徴は、現存する石垣の一部に見て取ることができる。虎伏山の山頂から山裾にかけて見られる石垣の多くは、紀州特産の青石(緑泥片岩)をほとんど加工せずに積み上げた「野面積み(のづらづみ)」という技法で築かれている 19 。これは、見た目の美しさよりも、工期の短縮と防御上の堅牢さを最優先した結果であり、征伐直後の緊迫した状況を反映している。
また、創建当初の大手門(正門)は、現在の南東に位置する「岡口門」であった 33 。この門が、かつての最大の抵抗勢力であった雑賀衆の本拠地があった南の方角を向いていることは、決して偶然ではない。それは、「我々はこの地にお前たちを見下ろす石の砦を築いた。もはや抵抗は無意味である」という、豊臣政権の紀伊に対する姿勢を示す、無言の、しかし強烈なメッセージであった。
第三章:城代・桑山重晴の着任と初期統治
紀伊国一国は、戦功により豊臣秀長の所領となった 7 。しかし、秀長自身は本拠地を大和郡山城(奈良県)に置いていたため、完成した和歌山城には、その重臣である桑山重晴が3万石を与えられて城代として入城した 28 。これにより、和歌山城は名実ともに紀伊国統治の中核拠点として機能し始めることとなる。
桑山重晴は、秀長の代理人として、あるいは天正19年(1591年)の秀長の死後、その養子・秀保も早世して秀長家が断絶した後は城主として、和歌山城の初期整備と紀伊国の統治にあたった 28 。豊臣・桑山時代に行われた山嶺部分や岡口門周辺の整備は、城の防御機能をさらに高めると同時に、城下町の形成を促す基礎となった 28 。和歌山城は、桑山氏の統治下で、軍事拠点から徐々に行政拠点としての性格を強めていったのである。
第三部:紀伊統治の確立と歴史的意義
和歌山城という物理的な拠点が完成した後、豊臣政権は紀伊国の社会構造そのものを根本から作り変えるための、いわばソフトウェアの導入に着手する。それは、検地と刀狩という二大政策を柱とする、中世的自治世界の完全な解体作業であった。この章では、和歌山城を拠点として断行された新政策の実態と、それに伴う在地勢力の抵抗、そしてこの一連の事変が戦国時代の終焉と近世社会の到来において果たした歴史的意義を考察する。
第一章:豊臣秀長の統治政策 ― 中世から近世へ
紀伊平定後、秀吉は間髪を入れず、国中の百姓から武器を取り上げる「刀狩」を命じた 7 。これは太田城の降伏条件で示された方針を、国全体に拡大するものであった。そして、紀伊国の新たな領主となった豊臣秀長は、天正13年閏8月から「天正検地」と呼ばれる大規模な土地調査を開始した 7 。
この検地は、それまでの領主による自己申告制(指出検地)とは全く異なっていた。測量単位や枡を統一し(京枡の使用)、田畑の等級を定めて米の収穫量(石高)を算定。そして、一つの土地に対して一人の耕作者(納税義務者)を検地帳に登録するという「一地一作人の原則」を徹底した 40 。これにより、奈良時代から続いてきた荘園制下の複雑な土地所有関係は完全に否定され、すべての土地と人民が豊臣政権によって直接的に把握されることになった。
検地による農民の土地への緊縛と、刀狩による武装解除。この二つの政策が一体となって進められた結果、武士と百姓の身分を明確に分離する「兵農分離」が強制的に断行された 43 。これは、雑賀衆や根来衆のような、農業や漁業に従事しながら高度な武力を持つ「武装した民衆」の存在基盤そのものを解体し、彼らを武器を持たない納税者へと変えるための、社会構造の根本的な変革であった 46 。
当然ながら、この急進的な改革は、在地勢力の激しい抵抗を招いた。検地や、熊野地方に対する過酷な材木徴発などに反発した国人衆が蜂起するなど、紀州征伐後も一揆が頻発した 7 。秀長は和歌山城を拠点に、これらの抵抗勢力に対して容赦のない弾圧を加えた 7 。一方で、紀南の有力国人であった湯河氏のように、ゲリラ戦で抵抗を続ける相手とは和議を結んで本領を安堵するなど、硬軟両様の策を使い分けて統治を進めた 7 。この一連のプロセスは、軍事力による「破壊」と、新政策による「再構築」が一体となった、社会システムの強制的なアップデートであったと言える。
第二章:和歌山城が持つ意味 ― 権威の象徴として
和歌山城は、これらの新政策を遂行するための司令塔として、不可欠な役割を果たした。検地役人の派遣、年貢の徴収、そして頻発する一揆の鎮圧といった軍事・行政活動は、すべてこの城を拠点として行われた。城の存在そのものが、豊臣政権による支配が一時的なものではなく、恒久的かつ不可逆的であることを示す物理的な証となったのである。
さらに、和歌山城は紀伊一国の統治に留まらない、より広範な戦略的役割を担っていた。紀伊平定のわずか一ヶ月後には、秀長は紀伊の港から船舶を徴発し、四国征伐の準備を開始している 25 。和歌山城は、秀吉の構想通りに、西国平定に向けた前線基地および兵站拠点として、即座に機能し始めた。これは、この城が単なる地方の拠点ではなく、豊臣政権の天下統一事業全体の中に組み込まれた、極めて重要な戦略拠点であったことを示している。
そして何よりも、虎伏山の山頂に聳える和歌山城の天守は、一つの時代の終わりを告げるモニュメントであった。その眼下には、かつて「百姓たちの共和国」と呼ばれた自治の地が広がっている。その地に築かれた壮麗な城郭は、地縁と信仰で結ばれた人々が自らの手で地域を治めていた中世的な「惣国一揆」の時代が終わり、強力な中央集権権力による近世的な支配の時代が到来したことを、誰の目にも明らかにする、圧倒的な権威の象徴であった 6 。
結論:和歌山城築城が告げたもの
天正13年(1585年)の和歌山城築城は、単なる一つの城の建設という歴史的事実を超えて、戦国という時代の大きな転換点を象徴する画期的な出来事であった。本報告書で詳述した通り、その背景には、天下統一の最終段階に入った豊臣秀吉と、最後までその秩序に組み込まれることを拒んだ独立王国・紀伊国との、イデオロギーをも含んだ深刻な対立が存在した。
紀州征伐という圧倒的な武力による制圧は、戦国最強と謳われた鉄砲集団を擁する自治共同体の軍事的・精神的支柱を徹底的に破壊した。そして、その焦土の上に築かれた和歌山城は、新たな支配の始まりを告げるものであった。藤堂高虎という稀代の築城家の手によるこの城は、紀伊国の地政学的な要衝を抑え、西国への覇権を確立するための戦略拠点であると同時に、検地や刀狩といった近世的な統治政策を断行するための行政ハブでもあった。
この紀伊国で実施された「軍事的制圧 → 新拠点(城)の建設 → 社会構造の変革(検地・刀狩)」という一連のプロセスは、その後の豊臣政権による全国統一事業の「雛形(ブループリント)」となった。紀伊での成功は、秀吉に自らの政策への絶対的な自信を与え、未だ服従しない九州の島津氏や関東の後北条氏といった強大な敵対勢力に対しても、同様の手法が適用されることを予感させた。その意味で、和歌山城の築城は、戦国時代の終焉を全国規模で加速させる号砲であったと言える。
それは、自由と引き換えに絶え間ない戦乱に明け暮れた中世的自治世界の終焉であり、強力な権力の下での秩序と安定を志向する近世的統一国家の黎明を告げるものであった。和歌山城は、その破壊と創造のプロセス全てを体現する、歴史の証人として今に聳え立っているのである。
引用文献
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- 雑賀合戦(紀州征伐)古戦場:和歌山県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/dtl/kisyuseibatsu/
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- 秀吉の紀州攻めは、どのような位置づけで、なぜ短期で決着がついたのかを生成AIで調べてみる。 https://note.com/ideal_raven2341/n/n6aa024e73848
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- 秀吉に抗った紀州惣国一揆 - 団員ブログ by 攻城団 https://journal.kojodan.jp/archives/2544
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- 日本三大水攻め_紀伊・太田城址 | パナソニック松愛会 奈和支部 https://www.shoai.ne.jp/nara-nawa/2024/01/24/oota_castle/
- 太田城物語 ~和歌山市北太田~ - 生石高原の麓から https://oishikogennofumotokara.hatenablog.com/entry/2020/05/11/%E5%A4%AA%E7%94%B0%E5%9F%8E%E7%89%A9%E8%AA%9E_%EF%BD%9E%E5%92%8C%E6%AD%8C%E5%B1%B1%E5%B8%82%E5%8C%97%E5%A4%AA%E7%94%B0%EF%BD%9E
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