最終更新日 2025-10-03

品川宿整備(1601)

慶長6年、家康は東海道第一宿として品川を整備。戦国期の品川湊の価値を継承し、関ヶ原後の全国支配体制確立のため交通網を再編。品川は陸海複合ターミナルとして発展し、江戸の経済と文化の玄関口となった。
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戦国から泰平へ:慶長六年「品川宿整備」の歴史的深層分析

序論:事象の再定義 ― 1601年、品川における「創造」と「再編」

慶長6年(1601年)、徳川家康によって断行された「品川宿整備」は、一般に東海道五十三次の第一宿の誕生として、江戸時代の交通網整備の輝かしい起点と認識されている。しかし、この事象を歴史の連続性の中に位置づけるとき、その本質は単なる無からの「創造」ではなく、戦国時代を通じて醸成されてきた地政学的・経済的価値を継承し、新たな全国支配体制へと組み込む戦略的な「再編」事業であったことが浮かび上がる。

本報告書は、この慶長6年の品川宿整備を、戦国動乱の終焉と徳川による泰平の世の構築が交差する、時代の転換点を象徴する事象として捉え直すことを目的とする。そのために、まず宿駅整備前夜、戦国時代の品川が「品川湊」としていかに重要な戦略拠点であったかを解明する。次いで、関ヶ原の戦いという天下分け目の決戦の直後、なぜ徳川家康がこれほど迅速に交通網の整備に着手し、その最初の宿場として品川を選んだのか、その戦略的意図を天下統一のグランドデザインの中に位置づける。さらに、1601年正月の整備事業そのものを、政策決定から現場での施行に至るまで時系列に沿って再構築し、その具体的なプロセスを明らかにする。最後に、宿駅として新たに付与された機能と構造を分析し、それが江戸の玄関口としての品川の発展、ひいては江戸時代の社会経済に与えた深遠な影響を考察する。

この分析を通じて、品川宿整備が単なるインフラ整備に留まらず、前時代の戦略的資産を接収・転用し、新たな支配体制の礎を築くという、徳川家康の高度な政治的・軍事的判断の結実であったことを論証する。

第一章:戦国動乱のなかの品川湊 ― 宿駅整備前夜の地政学的価値

慶長6年(1601年)の宿駅整備は、白紙の上に新たな町を建設したわけではない。その土地には、中世以来、特に戦国時代を通じて関東の政治・経済・軍事の動向と深く結びついた「品川湊」という、活気に満ちた港湾都市がすでに存在していた。徳川家康がこの地を最初の宿場に選定した背景には、この品川湊が有していた潜在的な価値に対する深い理解があった。

第一節:関東の覇権と江戸湾 ― 後北条氏の海上交通拠点

戦国時代、関東に覇を唱えた後北条氏にとって、江戸湾の制海権確保は領国経営の生命線であった。本拠地・小田原と関東支配の重要拠点である江戸城を結び、また、房総半島に拠点を置く宿敵・里見氏の海上からの脅威に対抗するため、江戸湾内の港湾ネットワークの掌握は最重要課題であった。このネットワークの中核をなしたのが、浅草湊、江戸湊、そして品川湊であった 1

1524年(大永4年)に北条氏綱が江戸城を攻略して以降、品川湊は後北条氏の直接的な影響下に置かれることとなる 2 。現地の支配は、品川神社の神職も務めた宇田川氏や鳥海氏といった在地勢力に委ねられていたが、彼らは後北条氏の被官として、その海上交通戦略の一翼を担っていた 4 。歴史家の指摘によれば、品川湊は、後北条氏の宗家である得宗家が武蔵国から徴収した年貢や物資を、政治的中心地であった鎌倉へ海上輸送するための拠点港として機能していた可能性も考えられている 3

このように、品川湊は後北条氏の支配体制において、江戸城への兵站を支える兵站基地であり、江戸湾内の物流を管理する経済拠点であり、さらには敵対勢力への睨みを利かせる水軍の基地としての役割をも担う、多機能な戦略拠点であった。徳川家康が関東に入部した際、彼が目にしたのは、敵対勢力であった後北条氏が長年にわたり築き上げてきた、この極めて価値の高い海上交通インフラであった。1601年の宿場整備は、この既存のインフラを単に破壊・放棄するのではなく、接収し、自らの新たな支配体制の基盤として転用するという、極めて合理的かつ戦略的な選択であった。それは物理的な土木事業であると同時に、前支配者の権威と経済基盤を無力化し、自らのものとする象徴的な政治行為でもあったのである。

第二節:争奪の的となった経済拠点 ― 湊町の富と社会

品川湊の重要性は、軍事的な側面に留まらなかった。むしろ、その軍事的価値の根源には、湊町が有する豊かな経済力があった。戦国時代の品川湊は、大規模な米の集積地として知られていた 2 。米は、貨幣と同様の価値を持つと同時に、軍隊を維持するための最も重要な戦略物資、すなわち兵糧米であった。そのため、品川湊に集積される米は、関東の覇権を争う扇谷上杉氏、後北条氏、さらには房総の上総武田氏や安房里見氏といった諸勢力にとって、常に垂涎の的であった 2

記録によれば、品川湊は1526年(大永6年)に後北条氏に敵対する里見義豊の攻撃を受けるなど、実際に争奪戦の舞台となっている 2 。このような緊迫した状況下で、妙国寺などの寺社や湊町の有力商人たちは、各勢力から「制札」を購入することで自衛を図った 2 。「制札」とは、特定の勢力による略奪や乱暴狼藉を禁じる保証書であり、これを購入するということは、湊町が単なる武力支配の対象ではなく、外交や経済力を駆使して自らの安全を確保しようとする、高度な自治能力を持った共同体であったことを示唆している。

当時の品川湊の情景を想像するに、目黒川の河口付近には諸国から運ばれてきた貨物を保管する倉庫が立ち並び、沖合には様々な物資を満載した船が停泊していたであろう 5 。そして、陸に上がれば、東海道の両側に旅人や水夫を相手にする小規模な店舗が軒を連ね、多くの人々が行き交う活気ある町並みが広がっていたと推測される 5 。この経済的繁栄と、それに伴う人々の往来こそが、後の宿場町としての発展の素地となったのである。

第二章:天下人のグランドデザイン ― 徳川家康の全国交通網構想

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける勝利は、徳川家康に天下人としての地位をもたらしたが、それは決して安泰なものではなかった。豊臣恩顧の大名は西国を中心に依然として多数存在し、武力による支配だけでは恒久的な平和は訪れないことを、家康自身が誰よりも深く理解していた。彼が目指したのは、武力による支配から、法と制度による支配への転換であり、その構想の根幹をなしたのが、江戸を中心とする全国的な交通・通信網の整備であった。

第一節:戦国時代の教訓と「制度による支配」

徳川幕府が創設した宿駅伝馬制度は、全くの独創ではない。その淵源は、戦国大名が自らの領国内で軍隊の移動や軍需物資の輸送を円滑化するために設けていた伝馬制度に遡る 6 。家康自身も、豊臣政権下で関東に移封された後、天下取りの布石として、既に江戸と小田原の間に宿駅を設け、独自の伝馬制度を整えていた 8

しかし、戦国大名による伝馬制度は、あくまで分断された領国単位のものであり、全国的な統一性や規格は存在しなかった。家康の構想が画期的であったのは、これを継承・発展させ、江戸の日本橋を起点とする一つのシステムの下に、全国の主要街道を統合しようとした点にある 6 。標準化された交通・通信網を全国に張り巡らせること。それこそが、中央集権体制を確立し、260年以上にわたる泰平の世を維持するための、最も重要な社会基盤であると家康は認識していたのである。この構想は、彼の統治哲学、すなわち個々の武将の武勇や才覚に依存するのではなく、恒久的な「制度」によって国家を統治するという思想の、具体的な現れであった。

第二節:関ヶ原の戦い直後の迅速な着手 ― 慶長六年の意味

家康の構想が単なる理想論でなかったことは、その実行の驚くべき「速度」に示されている。関ヶ原の戦いが終結したのが慶長5年9月。そのわずか4ヶ月後、年が明けた慶長6年(1601年)正月には、幕府は東海道の各宿に対し、徳川家康の朱印状と、伊奈忠次、彦坂元正、大久保長安ら奉行衆の連署による「御伝馬之定」を交付し、宿駅伝馬制度を公式に発足させた 7

この迅速さは、交通網整備が家康にとって、他のいかなる戦後処理よりも優先されるべき戦略的課題であったことを物語っている。関ヶ原の勝利は軍事的な優位を確立したに過ぎず、政治的な支配を盤石にするためには、いくつかの条件を早急に満たす必要があった。第一に、万が一、西国で反乱が起きた際に、江戸から迅速に討伐軍を派遣できる軍事輸送路の確保 12 。第二に、全国の大名に江戸への参勤を義務付け、その往来を管理するための物理的基盤の構築 13 。そして第三に、全国の情報を正確に江戸へ集約し、幕府の命令を速やかに全国へ伝達するための通信網の確立である。

これら軍事的、政治的、そして情報戦略的な要求のすべてに応えるのが、五街道、とりわけ江戸と京・大坂という二大都市圏を結ぶ最重要幹線である東海道の整備であった。したがって、関ヶ原の戦勝後、間髪を入れずにこの事業に着手したという事実は、それが単なる公共事業ではなく、軍事的勝利を恒久的な政治的支配へと転換するための、極めて高度な国家戦略であったことを示している。それは「平和のためのインフラ」であると同時に、来るべき反乱を抑止するための「戦争抑止のインフラ」でもあったのだ。

第三章:慶長六年(1601年)正月 ― 品川宿誕生のクロニクル

慶長6年(1601年)正月、徳川政権は始動したばかりの巨大な国家プロジェクト、すなわち東海道宿駅伝馬制度の確立へと踏み出した。その記念すべき第一歩が、品川宿の整備であった。この章では、断片的な記録を繋ぎ合わせ、江戸城での政策決定から品川の地での具体的な措置に至るまでの一連の動きを、あたかもリアルタイムで進行しているかのように時系列で再構築する。

第一節:江戸城中枢の決定と奉行衆への下命

慶長6年の年頭、まだ戦塵の香りが残る江戸城において、徳川家康は東海道の宿駅制度確立を最終的に決断し、その実行を腹心の部下たちに命じた。この国家プロジェクトの実行部隊として白羽の矢が立ったのは、彦坂元正、大久保長安、そして伊奈忠次といった、家康が深く信頼を寄せる能吏たちであった 7 。彼らは、戦国時代を通じてその実務能力と忠誠心を証明してきた、徳川政権の屋台骨を支えるテクノクラート集団であった。彼らに課せられた使命は、家康の壮大な構想を、具体的な形として街道筋に実現することであった。その最初の対象地こそ、江戸の喉元に位置する品川であった。

第二節:奉行衆の巡見と宿場指定

命令を受けた彦坂元正ら奉行衆は、早速行動を開始した。『新編武蔵風土記稿』の記述によれば、彼らは慶長6年の正月、厳冬の東海道を巡見するために江戸を発った 7 。彼らの最初の目的地は、江戸から西へ約二里(約8キロメートル)の距離にある品川であった。

一行が品川に到着した際、彼らが目にしたのは、前章で述べたような、活気ある湊町の姿であった。彼らは、既存の町並みの広がり、物流の拠点である目黒川の流路、江戸湾へのアクセス、そして東海道が貫く道筋の幅員などを実地検分した。宿場を設置するにあたっては、多くの場合、全く新しい町を作るのではなく、既存の集落を基盤とすることが効率的であった 7 。品川は、その地理的条件、経済的基盤、そして江戸からの距離、そのいずれをとっても、東海道最初の宿場として申し分のない場所であった。奉行衆は、この地を幕府公認の「駅場(宿場)」とすることを正式に決定した 7 。この決定と同時に、彼らの頭の中では、既存の町並みをいかに区画整理し、宿場の中核機能である本陣や問屋場をどこに配置するかという、具体的な都市計画の青写真が描かれ始めていたであろう。

第三節:「御伝馬之定」下付と初期機能の確立

現地での指定を終えた奉行衆は、品川の町役人や有力者たちを招集し、幕府からの公式な通達を行った。この時、品川宿に対して、二つの重要な義務と権利が与えられた。

第一に、公用旅行者のために、常に36疋の駅馬(伝馬)を常備することという重い義務である 7 。これは、宿場が幕府の交通・通信ネットワークの結節点としての責任を負うことを意味した。第二に、その義務を果たすための代償として、5,000坪の土地の地子(固定資産税に相当)を免許されるという経済的な特権である 7 。この「アメとムチ」とも言える政策は、地域の住民を新たな国家体制へと円滑に組み込むための、巧みな統治手法であった。

この通達と同時に、各宿には二種類の公式文書が交付された。一つは、馬を牽く人馬の絵柄の朱印(駒牽きの朱印)が押された「伝馬朱印状」 7 。もう一つは、宿場運営の詳細な規則を定めた「御伝馬之定」である 10 。全国の宿場に同じ書式の文書を交付するというこの行為は、極めて重要な意味を持っていた。それは、それまで地域ごとに異なっていた交通のルールや慣習を、幕府が定めた単一の基準(スタンダード)で上書きし、全国を標準化することを意味したからである。これにより、幕府の権威は街道の隅々にまで浸透し、江戸を中心とする中央集権的なヒエラルキーが、交通網を通じて可視化されることになった。

こうして、慶長6年正月、品川は中世以来の湊町としての歴史の上に、新たに宿場町としての機能を重ね合わせることになった。当初の品川宿は、目黒川を境として北側の「北品川宿」と南側の「南品川宿」の二つの行政単位で構成され、一体となって宿場としての役割を果たしていくこととなる 7 。この全国標準化システムの最初の適用事例となった品川宿の設立は、その後の五街道整備全体のモデルケースとなり、徳川による新たな秩序構築の第一歩を力強く印したのである。

第四章:新たな秩序の礎 ― 宿駅としての機能と構造

慶長6年の整備によって、品川は単なる湊町から、幕府の公的な交通・通信網を支える「宿駅」へと生まれ変わった。この新たな役割を果たすため、町にはいくつかの重要な施設が計画的に配置され、その構造は大きく変貌を遂げた。これらの施設は、徳川幕府が目指した中央集権体制の末端を担う、重要な社会インフラであった。

第一節:人馬継立の中枢「問屋場」

宿場町の行政と運営の中核を担ったのが「問屋場(といやば)」である 16 。問屋場は、単に旅人のために馬や人足を手配する窓口ではなかった。そこには、宿場の長である「問屋」を筆頭に、助役にあたる「年寄」、書記役の「帳付」、そして実際に荷物を人馬に振り分ける「人馬指」といった専門の役人たちが詰めていた 16

彼らの最も重要な任務は、幕府の公用旅行者や大名行列が通過する際に、定められた数の人馬を滞りなく提供すること(人馬継立)であった。また、幕府の公式な通信手段である「継飛脚」の管理も問屋場の重要な役割であり、江戸からの指令を次の宿場へ、そして全国からの情報を江戸へと、迅速かつ正確に伝達する情報ネットワークの結節点としての機能も有していた 16 。このように、問屋場は宿場町の役場であると同時に、幕府の命令を末端で実行する出先機関でもあり、新たな支配体制を支える神経網の重要な一部を構成していた。

第二節:大名往来の舞台「本陣」

宿場に設けられたもう一つの重要な施設が「本陣」である。本陣は、参勤交代で往来する大名や、朝廷からの勅使、公家といった高貴な身分の人々が宿泊、あるいは休息するために指定された、最高級の宿舎であった 18

品川宿では、宿場開設の初期段階において、目黒川を挟んで北品川宿と南品川宿にそれぞれ一軒ずつ本陣が設けられた 19 。これは、寛永12年(1635年)に参勤交代が制度化される以前から、徳川政権がこの制度の導入を既に見据え、大名の往来を前提として宿場のインフラ整備を進めていたことを示唆している。宿場制度が、当初から大名統制という高度な政治目的と不可分に結びついていたことの証左と言えるだろう。なお、時代が下るにつれて交通のパターンが変化し、江戸中期以降は本陣は北品川宿のみに集約されることとなる 18

第三節:江戸四宿における品川の優位性

江戸の防衛と交通の起点として、五街道のそれぞれに江戸から最初の宿場が置かれた。これらは「江戸四宿」と総称され、東海道の品川宿、中山道の板橋宿、日光・奥州道中の千住宿、そして後に設置された甲州道中の内藤新宿がこれにあたる 21 。しかし、これら四宿の中で、品川宿の規模と重要性は群を抜いていた。後の時代の記録によれば、品川宿は他の宿場と比較して、旅籠屋の数や参勤交代で通行する大名の数が圧倒的に多かったとされている 22

この品川の圧倒的な優位性の根源は、他の三宿が純粋な「陸路の始点」であったのに対し、品川だけが「陸路の始点」であると同時に、戦国時代から続く「海路の終点」としての機能を併せ持つ、「陸海複合交通ターミナル」であった点にある。

以下の表は、江戸四宿の初期における機能的な違いを比較したものである。

宿場名

対応街道

主要機能

地理的特徴

品川宿

東海道

人馬継立・ 海運との結節

江戸湾に面し、湊(港)機能を有する

千住宿

日光道中・奥州道中

人馬継立

大川(隅田川)の渡河点

板橋宿

中山道

人馬継立

内陸へ向かう街道の始点

内藤新宿

甲州道中

人馬継立

内陸へ向かう街道の始点

この表が示すように、板橋、千住、新宿は、江戸からそれぞれの内陸街道へと出発するための「線」の上の点に過ぎなかった。一方で品川は、東海道という「線」と、江戸湾という「面(海)」が交わる、特別な結節点(ハブ)であった。京都や大坂、そして西国大名の領国から江戸へ運ばれる物資や人の多くは、時間と危険を伴う陸路よりも、効率的で大量輸送が可能な海路を選択した。これらの人や物は品川湊で陸揚げされ、そこから初めて江戸市中や関東各地への陸上輸送が開始されたのである 23

この構造的な優位性こそが、品川宿に他の宿を凌駕する経済的繁栄と人口集積をもたらし、ひいては次章で述べるような独自の文化の爛熟を生み出す原動力となった。品川宿の歴史を理解する上で、この「陸海複合ターミナル」という特異性を認識することは、極めて重要である。

第五章:江戸の玄関口としての変容 ― 経済・文化への波及

慶長6年の宿駅整備は、品川の都市構造と社会に決定的な変化をもたらした。それは単に行政機能が付加されただけでなく、人、物、情報の流れを劇的に増大させ、町の性格そのものを変容させる触媒となった。この変容は、品川を徳川の泰平の世を象徴する、活気と混沌が同居する江戸の玄関口へと押し上げていく。

第一節:「湊」から「宿」へ ― 都市機能の重層化

宿場機能の付与は、品川が中世以来有してきた湊町としての機能を消し去ったわけではない。むしろ、既存の商業・物流機能の上に、公的な交通・行政機能が重層化されたと理解すべきである。京都や大坂、紀州といった当時の日本の政治・経済・文化の中心地から海路で運ばれてくる先進的な文物や商品は、引き続き品川湊に集積され、そこから東海道を通じて江戸市中や関東各地へと運ばれていった 23

この結果、品川は、西国からの海運物資を扱う「商業・物流の町」という性格と、幕府の公用交通を支える「交通・行政の町」という二つの顔を持つ、複合的な都市へと変貌を遂げた。この機能の重層化は、多様な目的を持つ人々を品川に引き寄せ、人口の増加と経済活動のさらなる活発化を促した 24 。このダイナミズムこそが、後の品川の爆発的な発展の原動力となったのである。

第二節:繁栄の光と影 ― 「南の品川」の誕生

参勤交代が制度化された寛永12年(1635年)以降、東海道の交通量は飛躍的に増大し、品川宿は空前の繁栄を謳歌することになる 8 。江戸日本橋から最初の宿場であるため、大名行列が江戸を出発する際には見送りの人々で賑わい、江戸に入る際には長旅の疲れを癒し、身なりを整えるための最後の休息地として利用された 16

この絶え間ない人の往来は、新たな需要を生み出した。旅人たちの旺盛な需要に応える形で、飲食、宿泊、そして遊興といったサービス産業が自然発生的に発展していく。特に、品川は江戸の出入り口という特殊な立地から、日常(ケ)から非日常(ハレ)へ、あるいはその逆へと移る境界としての性格を帯び、人々の緊張と解放の場となった。

この社会的な土壌の上に、品川宿は岡場所(非公認の遊郭)としても急速に発展を遂げた。幕府は飯盛女(旅籠で給仕する傍ら、売春も行った女性)の数を制限しようと試みたが(1772年に500人と規定)、その実効性は乏しく、需要の力は制度を凌駕した 25 。天保14年(1843年)頃の記録によれば、品川宿には飯盛女を置く食売旅籠屋が92軒、水茶屋が64軒も存在し、その繁栄ぶりは「北の吉原、南の品川」と称されるほどであった 22

これは、幕府が国家的・公的な要請から整備した宿場という「制度的空間」が、そこに集う人々の私的・人間的な欲求と結びつくことで、当初の意図を超えた巨大な歓楽街という「社会的空間」を生み出したことを示している。国家によるトップダウンの都市計画が、民衆のエネルギーというボトムアップの力によって変容させられていくこのダイナミズムは、江戸時代の都市が持つ複雑で重層的な性格を象徴している。公的なインフラが、意図せざる副産物として巨大な非公式経済圏と大衆文化の土壌を育んだのである。

結論:品川宿整備が象徴する時代の転換

本報告書で詳述してきた慶長6年(1601年)の「品川宿整備」は、東海道最初の宿場の誕生という単一の出来事に留まるものではない。それは、戦国時代から江戸時代へと移行する、日本の歴史における一大転換点を象徴する、多層的な意味を内包した事象であった。

第一に、この事業は戦国時代から続く「力と富の集積地(品川湊)」を、徳川幕府による「制度による支配の起点(品川宿)」へと戦略的に再定義するものであった。家康は、敵対勢力であった後北条氏が築き上げた海上交通の要衝という戦略的資産を巧みに接収・転用し、自らの新たな支配体制の礎へと組み込んだ。これは、武力による征服から、既存の社会経済基盤を再編・活用する、より高度な統治への移行を示している。

第二に、関ヶ原の戦いの直後というタイミングで断行された事業の迅速さと、全国に同じ規格を適用しようとしたその手法は、家康が目指した新たな国家像を明確に示している。それは、個々の武将の武力にのみ依存する脆弱な体制ではなく、江戸を中枢とする標準化された情報と物流のネットワークによって全国を統合する、恒久的な中央集権体制の確立という壮大なビジョンであった。品川宿は、そのビジョンを具現化するための、壮大な社会実験の第一歩だったのである。

そして最後に、宿駅整備後に品川が遂げた経済的繁栄と文化的変容は、この国家プロジェクトが、いかに江戸という巨大都市の発展、ひいては260年以上にわたる泰平の世の社会経済のあり方を規定したかを示している。公的な目的で整備されたインフラが、人々のエネルギーと結びつくことで、意図せざる巨大な経済圏と大衆文化を生み出していく。品川宿の歴史は、近世日本のダイナミズムそのものを凝縮した、壮大な物語の序章であったと言えるだろう。

引用文献

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