最終更新日 2025-10-01

土崎湊整備(1604)

慶長九年、佐竹義宣は関ヶ原の敗北後、秋田へ転封。旧湊城を破却し、内陸に久保田城を築城。土崎湊を藩の物流拠点として再編した。これは佐竹氏の再生をかけた壮大な都市計画であり、久保田藩の礎となった。
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慶長九年、土崎湊整備の真相 ― 戦国の終焉と久保田藩誕生の序曲 ―

序章: 1604年、出羽国湊にて

慶長9年(1604年)8月28日、出羽国秋田の地で、一つの城がその歴史的役割を終えようとしていた。雄物川の河口に位置し、長らくこの地の政治経済の中心であった湊城の破却。これは単なる老朽化した城の解体ではない。新領主・佐竹義宣が下したこの決断は、旧時代の権威を物理的に消し去り、新たな時代の幕開けを領国全土に告げる、極めて象徴的な儀式であった。

後世、「土崎湊整備」として知られるこの一連の政策は、利用者様が提示された「久保田の外港を整備し物流拡大」という簡潔な説明に留まるものではない。それは、関ヶ原の戦いで事実上の敗者となり、存亡の危機に立たされた名門大名が、新天地で生き残りをかけて描いた壮大なグランドデザインの核心であった。本報告は、この「土崎湊整備」が、単なる港湾の改修事業ではなく、戦国時代の終焉と近世大名としての再生をかけた、佐竹氏の国家建設事業そのものであったことを、時系列に沿って克明に解き明かすものである。

最大の問いはここにある。なぜ佐竹義宣は、入部してわずか2年で、旧領主の拠点であり、北方交易の要衝でもあった湊城と、それに付随する都市を放棄する決断を下したのか。そして、なぜあえて内陸の神明山に新たな城と城下町を建設し、土崎湊を「外港」として再定義する必要があったのか。この決断の背後には、関ヶ原の敗北という政治的挫折、大幅な減封という経済的困窮、そして新領地が抱える地理的・歴史的課題が複雑に絡み合っていた。本報告は、これらの要因を多角的に分析し、戦国から近世へと移行する時代の大きな奔流の中で、一人の大名がいかにして未来への礎を築いたか、その軌跡を追うものである。

第一章: 岐路 ― 関ヶ原と佐竹義宣の決断

「土崎湊整備」という未来への布石を理解するためには、まず佐竹氏が秋田の地へ至るまでの、苦難に満ちた道のりを遡らねばならない。そのすべての遠因は、天下分け目の戦い、関ヶ原にあった。

第一節: 義の板挟み(1600年)

関ヶ原の戦いが勃発した慶長5年(1600年)、佐竹義宣は常陸国(現在の茨城県)に54万石余りを領する、全国でも屈指の大名であった 1 。源氏の名門であり、鎌倉時代以来の旧族として関東に覇を唱えた佐竹氏は、豊臣政権下においてもその地位を確固たるものとしていた 1

義宣の立場を複雑にしたのは、その「律儀」 3 とも評される性格と、豊臣政権内部の人間関係であった。特に、五奉行の一人であった石田三成との関係は、単なる政務上の付き合いを超えた、深い盟友関係にあった。慶長4年(1599年)、前田利家の死後、加藤清正ら七将が三成を襲撃した際、義宣は自らの駕籠に三成を忍ばせ、伏見の自邸に保護するという、命がけの行動をとっている 2 。この恩義は、義宣の行動原理を強く束縛することになる。

関ヶ原の戦端が開かれると、義宣は究極の選択を迫られた。徳川家康率いる東軍につくか、石田三成が主導する西軍につくか。佐竹氏は、北条氏を共通の敵としてきた上杉氏と長年の協力関係にあり、義宣は上杉景勝との間で味方する旨の密約を交わしていた 1 。しかし、家中には東軍につくべきとの意見も根強く、義宣の密約は独断であった可能性が高い 1 。三成への義理と上杉との盟約を思えば西軍に与するのが筋であるが、家康の強大な軍事力を考えれば、それは佐竹家の滅亡に直結しかねない危険な賭けであった。

この義と実利の板挟みの中で、義宣が下した決断は「中立」という名の不戦であった。彼は軍を動かさず、水戸城に留まり、戦いの趨勢を見守った 1 。どちらが勝利しても弁明の余地を残すという、当時の義宣にとっては唯一の生存戦略であったかもしれない。しかし、この選択は、勝者となった家康によって「敵対行為」と見なされ、佐竹氏の運命に暗い影を落とすことになる。

第二節: 懲罰的転封(1600年~1602年)

関ヶ原の戦いは、わずか一日で東軍の圧倒的勝利に終わった。父・義重はすぐさま家康に戦勝を祝う使者を送り、不戦を謝罪したが、義宣自身は水戸城を動かなかった 1 。全国で西軍に与した大名への戦後処理が進む中、佐竹氏への沙汰は下されず、2年という異例の長い時間が過ぎていった 1

この沈黙は、徳川家康の深謀遠慮の現れであった。家康にとって、大きな兵力を温存したまま江戸の間近に存在する佐竹氏は、潜在的な脅威以外の何物でもなかった 4 。転封は、関ヶ原での曖昧な態度への懲罰であると同時に、徳川政権の足元を固めるための、極めて政治的な安全保障政策だったのである。

非情の命令が下されたのは、慶長7年(1602年)5月8日のことであった。大坂城で家康に謁見した直後、義宣は国替えを命じられる 1 。しかし、当初は転封先も、転封後の石高も明らかにされなかった 5 。この先の見えない不安は、佐竹家中に大きな衝撃を与えた。最終的に決定された転封先は、遠く離れた出羽国秋田郡。そして石高は、常陸54万石から20万石へと、半分以下にまで削られるという過酷なものであった 1

この大幅な減封は、必然的に家臣団の大規模な整理、すなわちリストラを余儀なくさせた。扶持を削減され、あるいは新天地に同行することすら叶わなかった家臣たちの不満は、後に当主暗殺未遂事件(川井事件)へと発展する 5 。しかし、見方を変えれば、この危機は佐竹氏にとって一つの好機でもあった。義宣はこの減転封を機に、旧来の既得権益を持つ一門や譜代家臣の力を削ぎ、当主の権力を飛躍的に強化することに成功する 5 。常陸時代にはなし得なかった強力な中央集権体制を構築する「創造的破壊」の機会が、皮肉にもこの懲罰的転封によってもたらされたのである。

第三節: 常陸武士団、北へ(1602年)

国替えの命令は、佐竹氏にとって単なる領地の変更ではなかった。鎌倉時代以来、数百年にわたって常陸の地に根を張ってきた旧族大名にとって、土地との結びつきは精神的な支柱そのものであった 2 。故郷を離れ、一族郎党を引き連れて未知の北国へ向かう旅は、困難を極めた 6

この「常陸武士団の大移動」 2 は、佐竹氏の内部構造に大きな変革をもたらした。土地と強く結びついていた伝統的な主従関係は断ち切られ、兵農分離が促進された 2 。家臣団は、土地に依存する土着の武士から、藩主の俸禄によって生活する、より純粋な官僚的組織へと変貌を遂げていった。この変化は、新天地・秋田において、伝統やしがらみに縛られない、トップダウンによる迅速な国づくりを可能にするための重要な素地となったのである。

第二章: 新天地の実像 ― 安東氏の遺産と課題

慶長7年(1602年)9月、長い旅路の果てに佐竹義宣一行がたどり着いた秋田。そこは、常陸とは全く異なる歴史と風土を持つ土地であった。義宣が新たな国づくりの拠点としてまず足を踏み入れた土崎湊は、輝かしい交易の歴史を持つ一方で、新領主が直面するにはあまりにも多くの課題を抱えていた。

第一節: 北方交易の十字路・土崎湊

佐竹氏が入部する以前、この地を支配していたのは安東(あんどう)氏、後の秋田氏であった 7 。彼らは津軽の十三湊(とさみなと)をルーツに持つ海洋豪族であり、土崎湊を拠点として北方交易、特に蝦夷地(現在の北海道)との交易によって繁栄を築いていた 8 。日本海を通じて昆布などの物資がもたらされ、独自の食文化が育まれるなど、土崎は北日本における重要な交易拠点であった 11

その中心にあったのが、雄物川の河口に築かれた湊城である 8 。この城は、安東氏の政治・経済・軍事の中心であり、時には一族内の抗争「湊騒動」の舞台ともなった、この地の歴史そのものを象徴する存在であった 9 。豊臣政権下では、当主の秋田実季が秀吉の命を受け、朝鮮出兵や伏見城築城のための膨大な杉材をこの港から積み出しており、中央政権と直結した国家的な重要港湾でもあった 11

第二節: 佐竹義宣、湊城に入る(1602年9月17日)

慶長7年(1602年)9月17日、佐竹義宣は旧領主・秋田実季の居城であった湊城に正式に入城した 8 。ここが、新たな領国経営の第一歩となるはずであった。しかし、義宣はすぐに二つの深刻な問題に直面する。

第一は、物理的な「狭隘さ」であった。湊城は、関ヶ原の直前に秋田実季によって大規模な改修がなされていたものの 16 、それはあくまで5万石程度の大名である安東氏の規模に合わせたものであった 15 。常陸から20万石の格式で移ってきた佐竹氏の膨大な家臣団とその家族を収容するには、城も城下町も絶対的に狭く、また平城であるため拡張の余地も乏しかった 14 。これは、新政権の威厳を示す上でも、実務を遂行する上でも、喫緊に解決すべき課題であった。

第二は、より根本的な地理的・技術的課題であった。雄物川の河口に位置する土崎湊は、その立地ゆえに、古くから上流から運ばれる土砂の堆積に悩まされ続けていた 11 。水深が浅く、大型の廻船が座礁する危険が常に付きまとい、港湾としての機能には根本的な脆弱性を抱えていたのである 11

義宣は、この新天地が持つポテンシャルと同時に、深刻な制約をも見抜いていた。湊城に留まり続けることは、旧体制の延長線上に自らを位置づけることになり、支配の刷新を妨げる。安東氏の記憶が色濃く残るこの地で、自らが唯一の支配者であることを領民に示すためには、旧来の権威の象徴を乗り越える、新たなシンボルが必要であった。また、港が抱える土砂堆積という地理的宿命は、江戸初期の土木技術では恒久的な解決が極めて困難であり、財政的に困窮する佐竹藩には到底不可能な事業であった。これらの現実が、義宣に湊城の放棄と、全く新しい場所への新城建設という、大胆な決断を促すことになる。それは、港の物理的な形状を大きく変えるのではなく、その「役割」そのものを再定義するという、より現実的かつ戦略的な解決策への転換であった。

第三章: 久保田藩、創生 ― 神明山のグランドデザイン

湊城が抱える物理的・政治的・技術的課題を認識した佐竹義宣の次の一手は、迅速かつ大胆であった。彼は既存の都市に手を加えるのではなく、全く新しい場所に、自らの統治思想を体現した城と城下町をゼロから建設することを選択した。これは単なる首都移転ではなく、新たな藩「久保田藩」の創生を告げる、壮大な国家建設プロジェクトの始まりであった。

第一節: 新城建設の決断(1603年)

義宣が新たな本拠地として選んだのは、湊から数キロメートル内陸に入った「神明山(しんめいやん)」(現在の千秋公園)であった 14 。この選定には、明確な戦略的意図があった。湊城が防御に不向きな平城であったのに対し、神明山は丘陵地を利用した平山城であり、防衛拠点として優れていた 23 。さらに、広大な城下町を展開するための十分なスペースも確保できた。

慶長8年(1603年)5月、義宣は重臣の梶原政景と渋江政光を普請奉行に任命し、神明山に新城の築城を開始させた 14 。藩の総力を挙げたこのプロジェクトは、しかし、戦国時代の城とは一線を画す特徴を持っていた。注目すべきは、城の象徴である天守が当初から建設されなかったことである 23 。これは、新たな支配者である徳川幕府への恭順の意を示すと同時に、華美な装飾よりも実用性を重視する義宣の現実的な判断の現れであった。また、石垣の使用を最小限に抑え、土塁を主とした構造 23 を採用したことも、減封によって逼迫した藩の財政状況と、一日も早い完成を目指す工期短縮の必要性を反映していた。この城は、新たな時代に適応しようとする佐竹氏の姿そのものであった。

第二節: 城下町の設計思想

久保田城の建設と並行して、義宣は極めて計画的な城下町の設計に着手した。その設計思想は、戦国時代の混沌とした都市とは異なり、秩序と統制を重んじる近世的な社会構造を可視化するものであった。

都市計画の根幹をなしたのは、城の西側を流れる旭川を境として、武士が居住する「内町(うちまち)」と、町人が居住する「外町(とまち)」を厳格に区分するゾーニングであった 25 。これは、幕藩体制の根幹をなす身分制度を、都市空間そのものに刻み込む試みであった。

都市の経済的活力をいかにして生み出すか。この課題に対し、義宣は巧みな戦略を用いた。彼はゼロから商人を育成するのではなく、すでに商業の中心地として機能していた土崎湊から、有力な商人たちを積極的に外町へ誘致したのである 25 。これは、既存の経済資本を新城下へスムーズに移転させ、短期間で都市機能を立ち上げるための、極めて効率的な手法であった。

さらに、城下の外縁部には、土崎や故郷の常陸から移転させた寺院が集中的に配置された 25 。これは、領民の精神的な拠り所となると同時に、有事の際には敵の侵攻を食い止める防御ラインとしての役割も期待されていた。

築城と町割りに加え、義宣は街道の整備も同時に進めた。これは、徳川家康が全国的に推進していたインフラ整備計画の一環であり、新城下町・久保田を他藩と結ぶ地域の交通の要衝として位置づけることで、藩の経済的・軍事的安定を図るものであった 14

久保田のグランドデザインは、物理的なインフラ(城、道)の建設と、社会的なインフラ(商人コミュニティ、寺社)の再配置を同時に行う、統合的な都市開発であった。それは、佐竹氏の統治イデオロギーを具現化すると同時に、戦国大名から近世の行政官へと自己変革を遂げようとする、義宣の明確な意思表示だったのである。

第四章: 転換点、慶長九年 ― 「土崎湊整備」の時系列詳解

慶長9年(1604年)、久保田城の主要部分が完成に近づくと、佐竹義宣が描いたグランドデザインは、ついに実行の段階へと移される。この年に行われた一連の政策こそが、「土崎湊整備」の実態である。それは、物理的な建設よりも、政治的な解体と制度的な再構築に主眼を置いた、ソフト・パワー主導の都市革命であった。以下の時系列表は、関ヶ原の敗北からこの転換点に至るまでの、佐竹氏の激動の4年間を概観するものである。

主要動向

関連人物

出典

慶長5年 (1600)

9月

関ヶ原の戦い。佐竹氏は不戦を貫く。

佐竹義宣、徳川家康、石田三成

1

慶長7年 (1602)

5月

徳川家康より、出羽国秋田への転封命令が下る。

佐竹義宣、徳川家康

1

9月

佐竹義宣、秋田に到着。旧領主・秋田氏の湊城に入城。

佐竹義宣

8

慶長8年 (1603)

5月

神明山にて新城(後の久保田城)の築城を開始。

梶原政景、渋江政光

14

慶長9年 (1604)

8月

久保田城の本丸が竣工。義宣は湊城から居城を正式に移す。

佐竹義宣

14

8月以降

湊城の破却を開始。跡地は町人地へと転換される。

-

15

-

藩営倉庫「湊御蔵」を設置し、土崎湊を藩の公式物流拠点と定める。

-

11

第一節: 久保田城への移徙(1604年8月28日)

慶長9年(1604年)8月28日。この日は、秋田の歴史における画期的な一日となった。約1年3ヶ月の工期を経て久保田城の本丸が竣工し、佐竹義宣は家臣団を率いて湊城から正式に居城を移した 14 。この瞬間、秋田の政治的中心は、中世以来の伝統を持つ港町・土崎から、全く新しい計画都市・久保田へと完全に移行した。これは単なる引越しではない。新たな藩都の誕生であり、常陸佐竹氏が「久保田藩」として再出発を遂げた、実質的な建国記念日であった 27

第二節: 「整備」という名の機能再編

久保田城への移徙は、壮大な都市機能再編の始まりを告げる号砲であった。義宣は矢継ぎ早に、土崎湊の役割を根本的に変えるための政策を実行していく。

第一に、旧居城である 湊城の破却 が命じられた 14 。これは、旧領主・安東氏の権威の象徴を物理的に消し去り、もはやこの地が政治・軍事の中心ではないことを内外に示す、極めて政治的な行為であった。過去との決別を、最も明確な形で実行したのである。

第二に、破却された湊城の広大な跡地は、 町人の屋敷地として開放 された 15 。これにより、土崎は軍事拠点としての性格を完全に剥奪され、純粋な港湾商業都市へとその姿を変貌させた。この土地利用の転換こそが、後の江戸時代を通じて土崎湊町が商業で大いに栄えるための重要な基盤となった 15

第三に、藩の経済政策の要として、藩が直接管理する大規模な倉庫群**「湊御蔵(みなとごくら)」が設置**された 11 。ここに藩内の年貢米や専売品である秋田杉、鉱山の産出物などが集積され、上方(京・大坂方面)へ積み出された。これにより、土崎湊は久保田藩の公式な物流ハブとして制度的に位置づけられ、雄物川の舟運と日本海の海運を結ぶ結節点としての役割が、これまで以上に明確化された 11

第四に、 都市機能の選択と集中 が行われた。有力な商人や主要な寺社には、新たな城下町である久保田への移転が奨励された 11 。これにより、土崎の都市機能は意図的に縮小・再編され、「政治・行政・消費の中心地=久保田」と、「物流・交易の玄関口=土崎」という、近代的ともいえる都市機能の分担が実現した。

この一連の政策は、佐竹氏が「戦国大名」から「近世大名」へと自己変革を遂げるための、象徴的な通過儀礼であった。城と町が一体化した拠点を力で直接支配する戦国的な統治形態から、幕藩体制という大きな秩序の中で、領国を効率的に経営するシステムを構築する近世的な統治形態への移行。1604年の「土崎湊整備」は、まさにその歴史的転換点だったのである。以下の比較表は、この整備がもたらした劇的な変化を明確に示している。

比較項目

安東氏時代(~1602年)

佐竹氏時代(1604年~)

政治機能(藩庁)

湊城に存在(中心的機能)

久保田城へ完全移転

軍事機能(拠点城郭)

湊城が担う

久保田城へ完全移転(湊城は破却)

経済機能

交易・商業の中心地

藩の公式な「物流ハブ」に特化

都市の性格

政治・軍事・経済が一体化した複合都市

純粋な港湾商業都市(外港)

主要な利用者

領主、武士、商人、職人

藩の役人、廻船業者、商人、沖仲仕

第五章: 時代の奔流の中で ― 近世初期の藩経営と土木技術

佐竹義宣が秋田で進めた一連の事業は、同時代の他の事例と比較し、また当時の技術的背景から考察することで、その独自性と歴史的意義がより一層鮮明になる。それは、限られた資源の中で最大限の効果を上げるための、知恵と戦略の産物であった。

第一節: 比較分析:仙台藩・伊達政宗と川村孫兵衛の事業

奇しくも、佐竹氏が秋田で国づくりに苦心していたのとほぼ同時期、隣国の仙台藩では、伊達政宗が壮大な領国開発プロジェクトを推進していた。関ヶ原で勝利側に立ち、62万石の広大な領地を安堵された政宗は、藩の経済基盤を確立するため、家臣の川村孫兵衛に命じて北上川の大規模な河川改修事業に着手させた 29 。複雑に蛇行していた北上川、迫川、江合川の流れを一本化し、舟運路を確保するとともに、河口に新たな港・石巻を開港するという、まさに自然を力で作り変える巨大土木事業であった 33

久保田藩と仙台藩、両者が目指した目的は「年貢米の安全かつ効率的な移出ルートの確保」という点で共通していた 28 。しかし、その実現手法は対照的であった。潤沢な資金と政治力を持つ伊達氏が、理想的な物流網をゼロから作り上げる「ハード・エンジニアリング」に訴えたのに対し、減封され財政的に困窮する佐竹氏は、既存のインフラ(土崎湊)の役割を再定義し、都市計画によって課題を解決する「ソフト・プランニング」で対応した。

この手法の違いは、関ヶ原における両者の勝敗と、その後の経済的・政治的立場の違いを如実に反映している。伊達は「力」で未来を創造し、佐竹は「知恵」で現実を乗り越えた。佐竹義宣の「土崎湊整備」は、伊達政宗の石巻港開港と比較することで、"Resourceful Loser"(機知に富む敗者)の優れたサバイバル戦略として、高く評価することができる。それは、戦国時代の「力の論理」から、江戸時代の「経営の論理」へと社会が移行する中で、敗者がいかにして生き残ったかを示す、見事な一例であった。

第二節: 技術的考察:江戸初期の港湾土木

佐竹氏の選択が現実的かつ合理的であったことは、当時の土木技術の水準からも裏付けられる。江戸時代初期の河口港において、雄物川のような大河川がもたらす土砂の堆積に恒久的に対抗する技術は、まだ確立されていなかった。浚渫(しゅんせつ)作業は、鋤簾(じょれん)といった道具を用いた人力に頼るのが主であり、その効果は一時的なものに過ぎなかった 36

同時期、土佐藩では野中兼山が岩盤を掘削して手結(てい)港を建設するという、極めて先進的な掘込港湾の事例も存在する 39 。しかし、これは莫大な費用と年月を要する特殊なケースであり、どの藩でも採用できるものではなかった。

雄物川の土砂問題を根本的に解決する技術も財源も持たなかった佐竹氏にとって、港の物理的な改変を最小限に留め、制度と都市計画で課題に対応するアプローチは、最も合理的かつ、おそらくは唯一可能な選択であった。この事業は、日本の近世都市計画史において、政治・行政機能と港湾・物流機能を明確に分離し、両者を連携させる「機能分離・連携型」都市開発の先駆的な事例と位置づけることができる。中世・戦国時代の、あらゆる機能が一体化した「多機能複合型」都市から、役割分担による効率化を目指す近代的・合理的な都市圏の発想への萌芽が、ここに見られるのである。

終章: 礎の確立

慶長9年(1604年)の「土崎湊整備」によって確立された、久保田と土崎の機能的な役割分担は、その後250年以上にわたる久保田藩の歴史の礎となった。政治・文化の中心地として発展した城下町・久保田と、藩の財政を支える最大の玄関口として繁栄した港町・土崎。この両輪が、久保田藩の安定した経営を支え続けた。土崎湊は、やがて北前船の寄港地としても重要な役割を担い、その賑わいは「久保田の本町よりも湊町の方すぐれたり」と評されるほどであった 41

佐竹義宣にとって、「土崎湊整備」は、関ヶ原の敗北という過去との決別であり、近世大名として新たな時代を生き抜くための、再生の儀式であった。常陸54万石の栄光を失った絶望から始まった秋田での日々は、この壮大なグランドデザインの実現によって、新たな藩の歴史を創造する希望へと転換されたのである。

結論として、慶長9年の「土崎湊整備」は、単なる港湾整備事業ではない。それは、戦国の敗者が、限られた資源の中で知恵と戦略を尽くして自らの運命を切り拓き、新たな時代の統治者として再生を遂げた、壮大な歴史的転換点であった。この事業にこそ、久保田藩、そして近代都市・秋田の原点が存在するのである 13

引用文献

  1. 「佐竹義宣」関ヶ原では東軍でありながら義理を通して西軍に与した律義者!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/717
  2. 第十三章 佐竹氏の秋田移封 - 水戸市ホームページ https://www.city.mito.lg.jp/uploaded/attachment/10830.pdf
  3. 家康も呆れた佐竹義宣の「律儀」さ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/26171
  4. 佐竹義宣の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38335/
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  6. 佐竹義宣(さたけ よしのぶ) 拙者の履歴書 Vol.38 ~常陸の名門、秋田の礎 - note https://note.com/digitaljokers/n/n30523ca65894
  7. 安東氏発祥の地 - 青森県藤崎町ホームページ http://www.town.fujisaki.lg.jp/index.cfm/6,0,13,227,html
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  29. 時や洪水時のみ流れる流路などがあ - 国土交通省 東北地方整備局 https://www.thr.mlit.go.jp/karyuu/symposium/magobeemap_2.pdf
  30. 政宗公時代からの 北上川改修工事とその意義 - 宮城県 https://www.pref.miyagi.jp/documents/13653/665375.pdf
  31. 海拓者たち 日本海洋偉人列伝|一般社団法人日本埋立浚渫協会 https://www.umeshunkyo.or.jp/marinevoice21/kaitakusya/249/index.html
  32. 川村孫兵衛 北上川改修工事を成し遂げ た技術者 http://www.kyt.or.jp/rekisitanbou/mabobee.htm
  33. 北上川治水の歴史と現状 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00027/1986/22-A05.pdf
  34. 北上川の歴史 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/toukei_chousa/kasen/jiten/nihon_kawa/0204_kitakami/0204_kitakami_01.html
  35. 治水対策は日本が抱える大きな課題!暴れ川を治めてきた歴史を振り返る (2ページ目) - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/22878/?pg=2
  36. いつからある?浚渫工事の歴史について https://reihoku-sensui.jp/column/kohwann/1401
  37. 江戸時代の港湾と近代の築港 - 土木学会 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00902/2016/36-0067.pdf
  38. 浚 渫 の話 https://to-gisi.com/magazine/41/doc06.pdf
  39. 江戸初期の築港技術を示す 港湾遺産「手結港(内港)」 - 一般社団法人 建設コンサルタンツ協会 https://www.jcca.or.jp/kaishi/244/244_doboku.pdf
  40. 21世紀に伝えたい『港湾遺産』|一般社団法人日本埋立浚渫協会 https://www.umeshunkyo.or.jp/heritage-backnumber/10tei/page.html
  41. くぼた旧町名物語 (3)港まち「土崎」編 | 秋田市観光・イベント情報総合サイト アキタッチ+(プラス) https://www.akita-yulala.jp/selection/5000011209