坂本城築城(1571)
元亀二年、織田信長は比叡山焼き討ち後、明智光秀に坂本城を築かせた。琵琶湖を制する水城は、信長の天下布武戦略の要衝となり、旧権威破壊と新秩序創造を象徴する近世城郭の先駆けであった。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
坂本城築城(1571年)の徹底分析:元亀争乱と信長の琵琶湖戦略
序章:元亀争乱と信長包囲網の形成 - 坂本城前史
元亀二年(1571年)に明智光秀によって築かれた坂本城は、単なる一城郭の建設に留まらず、織田信長の天下布武事業における戦略思想の転換点を象徴する画期的な事変であった。その誕生の背景を理解するためには、時計の針をその前年、元亀元年(1570年)まで巻き戻し、「元亀争乱」と呼ばれる一連の動乱の渦中へと分け入る必要がある。
信長上洛と新秩序の軋轢
永禄十一年(1568年)、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たし、混迷を極めていた畿内に一時的な安定をもたらした 1 。しかし、信長主導で進められる新たな秩序の構築は、将軍として権威の回復を目指す義昭との間に、次第に見えざる軋轢を生み出していく。義昭は信長の影響力を相対的に弱めるべく、各地の有力大名に密かに御内書を送り、反信長勢力の結集を画策し始めた 3 。これが、後に「信長包囲網」として信長を最大の窮地に追い込むことになる情勢の素地であった 5 。
浅井長政の離反 - 「金ヶ崎の退き口」
元亀元年(1570年)四月、信長は度重なる上洛命令を無視し続ける越前の名門・朝倉義景の討伐へと踏み切る 6 。この時、信長は北近江の浅井長政を完全に信頼していた。長政は信長の妹・お市の方を娶った義弟であり、上洛作戦においても重要な同盟者であったからだ 2 。しかし、織田軍が越前深くまで進軍したまさにその時、信長の耳に驚愕の報せが届く。浅井長政の離反である 6 。
浅井家は、織田家との新しい同盟関係よりも、数代にわたる朝倉家との旧来の盟約を優先した 4 。この予期せぬ裏切りにより、信長軍は朝倉・浅井両軍による挟撃の危機に瀕し、絶体絶命の窮地に陥る。木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)らが決死の殿軍を務める中、信長は命からがら京へと撤退した(金ヶ崎の退き口) 4 。
この一件は、信長の近江支配戦略に根本的な見直しを迫るものであった。同盟という、いわばソフトパワーに依存した間接統治の脆さが露呈した瞬間であり、以降、信長は自らの軍事力による直接的かつ恒久的な支配体制、すなわちハードパワーの確立へと大きく舵を切ることになる。この戦略転換の先に、坂本城の築城は必然として待ち受けていたのである。
姉川の戦いと戦線の拡大
同年六月、態勢を立て直した信長は、同盟者である徳川家康の援軍を得て、裏切者・浅井長政を討つべく再び北近江へ出陣。姉川の河原で浅井・朝倉連合軍と激突した 10 。織田・徳川連合軍は激戦の末に勝利を収めたものの、浅井・朝倉両氏を完全に滅ぼすには至らず、両者の対立はより一層深刻化、長期化することが決定的となった 9 。
さらにこの戦いを契機として、畿内では摂津の三好三人衆や石山本願寺といった反信長勢力が一斉に蜂起し、信長は四方を敵に囲まれるという未曾有の危機に直面することになる 10 。近江は、京と信長の本国である美濃・尾張を結ぶ生命線であり、この地が敵性地帯と化したことは、信長の天下統一事業そのものを揺るがす脅威であった。
第一章:志賀の陣 - 膠着する戦況と比叡山の影
姉川の戦いから約三ヶ月後、元亀元年九月、戦局は新たな局面を迎える。坂本城築城の直接的な引き金となる「志賀の陣」の始まりである。
浅井・朝倉連合軍の南下と宇佐山城の攻防
浅井・朝倉連合軍約三万は、織田方の防御線が手薄な湖西地域を南下し、京への進撃を開始した 5 。その進路上にあり、湖南の要衝であった宇佐山城では、城主・森可成が寡兵ながらも奮戦。しかし、連合軍の猛攻の前に坂本周辺の野戦で壮絶な討死を遂げた 11 。城は落城寸前にまで追い込まれるが、残された将兵の必死の防戦により、辛うじて持ちこたえた。
信長の転進と比叡山への籠城
当時、信長は摂津国において三好三人衆や蜂起した石山本願寺勢と対陣中であった(野田・福島の戦い) 5 。そこに浅井・朝倉連合軍が京に迫っているとの急報が届く。京が敵の手に落ちることの政治的打撃を重く見た信長は、即座に摂津からの撤退を決断。九月二十三日、電光石火の速さで軍を転進させ、京へと帰還した 5 。
信長の予期せぬ迅速な帰還を知った浅井・朝倉連合軍は、平地での決戦を避け、比叡山延暦寺を頼ってその広大な山内に立て籠もった 5 。比叡山は古来より聖域として不可侵の権威を誇ると同時に、山上には数万の兵を収容可能な、極めて戦略的価値の高い軍事拠点でもあった 12 。
三ヶ月の対陣と延暦寺の敵対
信長は比叡山の東麓、坂本の地に本陣を構え、延暦寺に対して浅井・朝倉軍を退去させ、中立を保つよう再三にわたり要求した。信長は「織田方に味方するならば、かつて没収した寺領を返還する」という破格の条件まで提示している 1 。これは、信長が当初は延暦寺との全面対決を望んでいなかったことを示している。
しかし、延暦寺はこの要求を拒絶した。その背景には、信長による寺領の押領など、以前からの経済的な対立があったとされる 13 。延暦寺は明確に反信長勢力に与し、その聖域を軍事拠点として提供したのである。
この結果、信長軍は敵を眼前にしながらも、聖域である比叡山に手出しができず、約三ヶ月もの間、山麓で対陣を続けるという軍事的な膠着状態に陥った(志賀の陣) 5 。この長期にわたる睨み合いは、信長の軍事的威信を大きく損なうものであった。信長にとって、宗教的権威を盾に軍事行動を妨害し、敵を利する延暦寺の行為は、武家の論理では到底許容できるものではなかった。この時点で、延暦寺はもはや単なる宗教団体ではなく、信長の天下布武を阻む「敵性勢力」として明確に認識されたのである。
最終的に、同年十二月、正親町天皇と将軍義昭の権威を借りた和睦が成立し、双方は兵を引いた 5 。しかし、この屈辱的な経験は、信長の胸中に延暦寺に対する拭い難い不信と怒りを刻み込むこととなった。
第二章:比叡山焼き討ち(元亀二年九月十二日)- 聖域の灰燼と新たな秩序の胎動
志賀の陣における和睦は、根本的な対立構造を何ら解決するものではなかった。明けて元亀二年(1571年)、信長は前年の雪辱を果たすべく、周到な準備の末に行動を開始する。
焼き討ちへの序曲
和睦後も、近江では浅井氏との小競り合いが続いていた 10 。同年九月、信長は満を持して近江へ出兵。九月十一日、坂本に近い三井寺の山内に本陣を構えると、すぐさま軍議を開いた 12 。
席上、重臣の池田恒興が「夜陰に紛れて攻撃すれば逃亡者が出るであろう。夜明けを待ち、完全に包囲した上で攻めかかれば、一人残らず討ち取ることができましょう」と進言。信長はこれを容れ、その日の夜のうちに三万の兵を動員し、比叡山の四方の麓に隙間なく配置。完全な包囲網を敷いた 14 。事態を察知した延暦寺側は、金品を贈って攻撃の中止を嘆願したが、信長の決意は固く、これを一切拒絶した 14 。
元亀二年九月十二日 - 焼き討ちの実行
九月十二日早朝、信長は全軍に総攻撃を命じた。鬨の声とともに、織田軍は四方から一斉に山を駆け上がった。その攻撃は苛烈を極めた。『信長公記』によれば、仏教の総本山である根本中堂、麓の日吉大社をはじめ、山上の壮麗な伽藍、僧坊、経蔵に至るまで、一棟も残さず火を放ち、八百年の歴史を誇る聖域は、一日にして灰燼に帰した 12 。
その惨状は各史料に記録されている。『信長公記』は「僧俗、児童、学僧、上人の首をことごとく刎ね」、その数は数千人に及んだと記す 12 。イエズス会宣教師ルイス・フロイスの書簡は約1500人、『言継卿記』は3,000から4,000人が犠牲になったと伝えている 12 。無抵抗の女性や子供までもが容赦なく斬り殺されたという記録もあり、この事件は信長を「仏敵」として天下に知らしめることとなった 1 。
戦後処理と新体制の構築
焼き討ちの翌日、九月十三日、信長は戦後処理の一切を明智光秀に一任すると、自らは京へと上洛した 12 。これは、光秀がこの作戦において主導的な役割を果たしたことを示唆している 16 。
没収された延暦寺および日吉大社の広大な寺社領は、明智光秀、佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀といった功績のあった重臣たちに分配された 12 。そして、この戦後処理の最も重要な一環として、明智光秀は近江国滋賀郡の支配権を与えられ、この地の新たな支配者として君臨することになる 18 。
この一連の動きは、信長の極めて合理的かつ劇場的な統治手法を物語っている。比叡山焼き討ちという旧権威の徹底的な「破壊」と、その跡地における坂本城築城という新たな支配体制の「創造」は、信長の構想の中では一体不可分のプロジェクトであった。破壊の実行者である光秀に、そのまま創造の責任者をも担わせることで、旧秩序の終焉と信長による新秩序の到来を、これ以上ないほど鮮烈な形で天下に示す狙いがあった。坂本城は、まさに灰燼の中から生まれるべくして生まれた城だったのである。
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年月日(西暦/和暦) |
出来事 |
関連人物 |
場所 |
概要・意義 |
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1570年4月 (元亀元年) |
金ヶ崎の退き口 |
織田信長、浅井長政、朝倉義景 |
越前・近江 |
朝倉攻めの最中に浅井長政が離反。信長は挟撃の危機に陥り撤退。信長の近江支配戦略の転換点となる。 |
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1570年6月28日 (元亀元年) |
姉川の戦い |
織田信長、徳川家康、浅井長政、朝倉義景 |
近江 姉川 |
織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利。しかし敵を滅亡には至らせず、対立は長期化する。 |
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1570年9月-12月 (元亀元年) |
志賀の陣 |
織田信長、浅井長政、朝倉義景、延暦寺 |
近江 坂本、比叡山 |
浅井・朝倉軍が比叡山に籠城。信長は3ヶ月対陣するも攻めあぐね、和睦。延暦寺の敵対が明確になる。 |
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1571年5月 (元亀二年) |
長島一向一揆攻め |
織田信長 |
伊勢 長島 |
信長は伊勢長島を攻撃するも、多大な損害を出し撤退。信長包囲網の厳しさを物語る。 |
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1571年9月12日 (元亀二年) |
比叡山焼き討ち |
織田信長、明智光秀 |
近江 比叡山 |
信長が延暦寺の伽藍を焼き払い、僧俗数千人を殺害。旧権威を破壊し、後の坂本城築城の直接的な契機となる。 |
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1571年9月以降 (元亀二年) |
坂本城築城命令 |
織田信長、明智光秀 |
近江 坂本 |
焼き討ちの戦後処理として、光秀に滋賀郡が与えられ、坂本城の築城が命じられる。 |
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1572年12月22日 (元亀三年) |
吉田兼見、坂本城を訪問 |
明智光秀、吉田兼見 |
近江 坂本城 |
吉田兼見が日記に「城中天主作事」を見物し驚嘆したと記録。この時点で天守を含む城郭がかなり完成していたことがわかる。 |
第三章:坂本城築城 - 湖上の要塞の誕生
比叡山焼き討ちという衝撃的な事件の直後、信長は間髪入れずに次の一手を打つ。それが坂本城の築城であった。
築城命令と明智光秀
比叡山焼き討ちにおける軍功を高く評価された明智光秀は、それまでの居城であった宇佐山城に代わり、近江国滋賀郡一帯の支配権を与えられた 19 。そして信長は、この地の支配拠点として、比叡山の麓、琵琶湖のほとりである坂本の地に新たな城を築くことを光秀に命じた 19 。
当時の記録である『永禄以来年代記』には、「明智坂本に城をかまへ、山領(延暦寺領)を知行す」と記されており、焼き討ちが行われた元亀二年(1571年)中に築城が開始されたと考えられている 19 。工事は迅速に進められたようである。元亀三年(1572年)十二月二十二日、京の神官であった吉田兼見が坂本城を訪問した際、その日記『兼見卿記』に「城中天守作事以下悉く披見也、驚目了(城の天守の工事をはじめことごとく見物したが、目に驚くばかりであった)」と記している 19 。この記述から、築城開始からわずか一年余りで、壮大な天守を含む城の主要部分がほぼ完成し、見る者を圧倒するほどの威容を誇っていたことがわかる。
築城の多角的・戦略的目的
信長が光秀に坂本城を築かせた目的は、単一ではなく、軍事・経済・政治の各側面を包含した、極めて多角的かつ戦略的なものであった。
-
軍事的目的:
第一の目的は、言うまでもなく、焼き討ちで壊滅させた比叡山延暦寺の監視と、その勢力の再起を物理的に封じ込めることにあった 18。灰燼と化した聖域を眼下に見下ろす地に壮大な城を構えることで、二度と信長に刃向かうことを許さないという断固たる意志を示したのである。加えて、依然として脅威であり続ける北近江の浅井氏、越前の朝倉氏に対する前線基地としての機能も期待されていた 21。 -
経済的・物流的目的:
坂本は、古くから比叡山の門前町、そして琵琶湖水運の要衝たる港町として栄えていた 21。この地を強力な城で押さえることは、琵琶湖の制海権を掌握し、湖上交通という物流の大動脈を完全に支配下に置くことを意味した 19。これにより、信長は京と自身の本国である美濃・尾張を結ぶ兵站線と経済ルートを確保し、広域にわたる支配体制の基盤を固めたのである 24。 -
政治的目的:
坂本城は、破壊された旧権威の象徴である延暦寺の麓に、それを凌駕する壮麗な近世城郭として建設された。これは、旧時代の終焉と信長による新時代の到来を天下に知らしめる、強烈な政治的メッセージを発信する装置でもあった 24。
これらの目的は、坂本城が単なる局地的な監視拠点ではなく、信長が構想したより大きな戦略の一部であったことを示唆している。信長は、琵琶湖を単なる地理的障害ではなく、自らの支配領域を結ぶ「内海」として捉え、その沿岸の要衝を城で結ぶ広域支配ネットワークを構築しようとしていた 23 。坂本城、後に築かれる長浜城、そしてその集大成である安土城は、すべて水陸交通の結節点に位置し、琵琶湖という高速輸送路で結ばれている 23 。坂本城の築城は、この壮大な「琵琶湖ネットワーク構想」の実現に向けた、最初の、そして最も重要な一歩だったのである。
第四章:坂本城の構造と特徴 - 幻の名城の実像
坂本城は、本能寺の変後に焼失し、さらに大津城築城の際に資材が転用されたため、地上にその遺構をほとんど留めていない 19 。しかし、同時代人の記録や近年の発掘調査から、その壮麗で先進的な姿が浮かび上がってくる。
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項目 |
詳細 |
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城名 |
坂本城 |
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築城年 |
元亀2年(1571年) |
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廃城年 |
天正14年(1586年)頃 |
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築城者 |
明智光秀(織田信長の命令による) |
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歴代城主 |
明智光秀、丹羽長秀、杉原家次、浅野長政 |
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城の種類 |
水城(平城) |
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主な構造 |
大天主、小天主、本丸、二の丸、三の丸、内堀、外堀 |
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戦略的役割 |
比叡山監視、琵琶湖の制海権掌握、対浅井・朝倉戦線の拠点 |
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特記事項 |
ルイス・フロイスにより「安土城に次ぐ名城」と評価。安土城に先駆けて天守が築かれた。 |
「安土城に次ぐ名城」との評価
来日していたイエズス会宣教師ルイス・フロイスは、その主著『日本史』の中で、坂本城について次のように記している。「信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどで、日本人にとって豪壮華麗なものであった」 19 。安土城が信長の権威の象徴として天下に比類なき城であったことを考えれば、それに次ぐと評された坂本城が、いかに壮大で美しく、当時の人々の耳目を集めたかがうかがえる 24 。
水城としての先進性
坂本城の最大の特徴は、琵琶湖の湖水と地形を巧みに利用した「水城」であった点にある 22 。復元された縄張り図によれば、本丸はほぼ完全に湖上へ突出し、陸側とは内堀で隔てられ、三方は湖水に守られていた 28 。これにより、鉄壁の防御を誇ると同時に、城内から直接船を出すことができ、琵琶湖の水運を最大限に活用できる構造となっていた 30 。防御と兵站の両面を高度に両立させた、極めて先進的な設計であった。
安土城に先駆けた天守
前述の通り、『兼見卿記』の記録から、坂本城には元亀三年(1572年)末の時点で既に「天主」が存在したことが確実視されている 19 。これは、信長の居城・安土城の天主が着工される天正四年(1576年)よりも四年も早い。さらに、天正十年(1582年)に光秀が城内で茶会を催した記録から、「小天主」の存在も確認されており、大小の天守が並び立つ壮麗な景観を誇っていたと推測される 19 。
それまでの城の天守(天主)は、物見櫓の延長線上にある実用的な施設であったが、信長の時代から、それは城主の権威を可視化する象徴的な建築物へと意味合いを変えていく。坂本城は、この「見せる城」としての近世城郭の様式を、安土城に先駆けて具現化した城であり、日本の城郭建築史において、中世から近世への転換点に位置する極めて重要な存在であったと言える。坂本城で試みられた壮麗な意匠や高層建築の技術が、後の安土城でより完成された形で結実したのである。
石垣と発掘調査
坂本城の石垣は、比叡山の門前町である坂本を拠点とした石工集団「穴太衆(あのうしゅう)」が、自然石を巧みに組み上げる「野面積み」の技法で築いたと考えられている 27 。
地上には遺構が残されていないが、1979年に行われた発掘調査や、琵琶湖の水位が異常低下した際に、湖底から本丸の石垣の一部がその姿を現したことがある 24 。調査によれば、石材には比叡山から採石された花崗岩が用いられ、中には墓石である五輪塔などを転用した石材も見つかっている 34 。これらの発見は、文献史料にしかなかった「幻の名城」の実在を考古学的に裏付ける貴重な成果であった。
第五章:城主・明智光秀の統治と坂本の再興
坂本城の築城と統治は、城主である明智光秀の生涯においても決定的な意味を持つものであった。
城持ち大名としての光秀
坂本城と滋賀郡五万石の拝領により、明智光秀は織田家臣団の中で、信長から初めて本格的な城と領地を与えられた重臣の一人となった 20 。これにより、彼の家臣団内における地位は不動のものとなり、坂本城はその後の丹波平定など、各地での軍事行動における重要な拠点として機能した 21 。
坂本の統治と西教寺の復興
光秀は、比叡山焼き討ちで荒廃した坂本の町の復興と統治に力を注いだ。特に注目されるのが、西教寺との関係である。西教寺は比叡山と同じ天台宗の寺院であり、焼き討ちの際に兵火を被り、大きな被害を受けていた 17 。
坂本城主となった光秀は、この西教寺の檀徒となり、その復興を強力に支援した 37 。自身の居城である坂本城の城門を移築して総門とし(現存)、陣鐘を寄進するなど、その援助は手厚いものであった 20 。現在も西教寺には、光秀が戦死した家臣たちの菩提を弔うために供養米を寄進した際の書状が残されており、そこには身分の低い「中間」と呼ばれる兵士の名まで記されている 17 。また、光秀の妻・煕子(ひろこ)の墓をはじめ、明智一族の墓所が西教寺に営まれ、今日まで手厚く供養されている 26 。
比叡山焼き討ちの中心人物であった光秀が、同じ天台宗の寺院の復興に尽力したという事実は、一見すると矛盾に満ちている。しかしこれは、戦国武将が持つ合理的な二面性、すなわち「機能的二面性」の表れと解釈できる。信長の天下布武という大戦略を遂行する「織田家臣」としては、敵対する比叡山を容赦なく破壊する「破壊者」として機能する。一方で、与えられた領地を安定的に治める「領主」としては、地域の宗教施設を保護し、民心を掌握することで秩序を回復する「統治者」として機能する。この二つの顔は矛盾する人格なのではなく、置かれた状況と役割に応じて最適な行動を選択する、極めて有能な武将としての光秀の実像を物語っているのである。
結論:坂本城が戦国史に刻んだ意味
元亀二年(1571年)の坂本城築城は、戦国時代の画期をなす重要な事変であった。その歴史的意義は、以下の三点に集約される。
第一に、 信長の天下統一事業における戦略的要石 としての役割である。坂本城は、比叡山の監視、対浅井・朝倉戦線の軍事拠点、そして何よりも琵琶湖の水運を掌握する経済・物流拠点という多重の機能を担い、信長の畿内支配を盤石なものとした。それは、信長の広域支配構想を具現化する最初の、そして不可欠なピースであった。
第二に、 近世城郭の先駆けとしての技術史的意義 である。安土城に先駆けて壮麗な天守を備え、単なる軍事施設から、統治者の権威を象徴する「見せる城」へと城郭の概念を転換させた。その先進的な設計思想は、日本の城郭史における中世から近世への移行を象徴するマイルストーンとして高く評価されるべきである。
第三に、 城主・明智光秀の生涯との不可分な関係 である。坂本城は光秀を織田家中の重臣へと押し上げ、彼の統治者としての手腕が発揮された舞台であった。しかし、その栄華は長くは続かなかった。天正十年(1582年)、本能寺の変で主君信長を討った光秀は、直後の山崎の戦いで羽柴秀吉に敗れる。敗報が届いた坂本城では、光秀の重臣・明智秀満が光秀の一族を手にかけ、城に火を放って自害。豪壮華麗を謳われた名城は、炎の中に一度その姿を消した 19 。
その後、丹羽長秀によって再建されたものの、天正十四年(1586年)、豊臣秀吉の命により大津城が築かれると、坂本城はその役目を終え、資材は解体・転用された 19 。築城からわずか十五年。戦国の激動の中で生まれ、燃え盛り、そして静かに消えていった坂本城は、その劇的な生涯ゆえに「幻の名城」として、今なお歴史の中に鮮烈な記憶を刻み続けている。
引用文献
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- 織田信長と浅井長政の義兄弟はなぜうまくいかなかったのか? - BS11+トピックス https://bs11plus-topics.jp/ijin-haiboku-kyoukun_29/
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- K'sBookshelf 資料 本能寺の変 坂本城縄張図 https://ksbookshelf.com/HJ/SakamotojyouNawabari.htm
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- 第3回 坂本城主明智光秀 - 亀岡市公式ホームページ https://www.city.kameoka.kyoto.jp/site/kirin/1293.html
- 坂本城 | 近江の城50選 - 滋賀・びわ湖観光情報 https://www.biwako-visitors.jp/shiro/select50/castle/d24/
- 坂本城の歴史 - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/129/memo/713.html
- 琵琶湖の水底から姿を現した「幻の城」坂本城の石垣 | 一般社団法人・東京滋賀県人会 https://imashiga.jp/blog/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E3%81%AE%E6%B0%B4%E5%BA%95%E3%81%8B%E3%82%89%E5%A7%BF%E3%82%92%E7%8F%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8C%E5%B9%BB%E3%81%AE%E5%9F%8E%E3%80%8D%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E3%81%AE/
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- 【現地説明会レポート】世紀の発見!「幻」の坂本城(滋賀県)石垣を見た!! https://shirobito.jp/article/1974
- 明智光秀と西教寺 | 文化遺産 https://saikyojiguide.jp/contents/akechimitsuhide/
- 西教寺 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%95%99%E5%AF%BA
- 明智光秀ゆかりの坂本を訪ねる ~菩提寺「西教寺」を中心に~ | 歴史街道 https://www.rekishikaido.gr.jp/club/event/walk/2324/
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- 坂本城址公園 - びわ湖大津トラベルガイド https://otsu.or.jp/thingstodo/spot179