城下で御用金徴収(1590年代)
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天下一統の代償:1590年代、大坂における御用金徴収のリアルタイム・ドキュメント
序章:天正十八年(1590年)、天下統一後の新たな財政需要
天正十八年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が完了し、ここに戦国乱世は終焉を迎えた。名実ともに日本の支配者となった秀吉の権力は、日の本全土に及び、その基盤は盤石に見えた。しかし、この天下統一という偉業の達成は、同時に、これまで誰も経験したことのない国家規模の巨大な財政需要を抱え込む構造の始まりでもあった。この新たな時代の要請に応えるため、豊臣政権が打ち出した一つの策が、本報告書の主題である「城下での御用金徴収」である。
まず、この事象を正確に理解するためには、「御用金」という言葉の概念を、時代背景に即して再定義する必要がある。後世の江戸時代において、「御用金」は幕府や藩が財政窮乏を補うために、商人や農民に対して課した制度化された臨時税としての性格を持つ 1 。しかし、我々がこれから検証する1590年代の豊臣政権による資金調達は、そのような法制度に基づくものではない。それは、天下人の絶対的な権力に基づき、特定の対象に直接賦課される「臨時の資金調達命令」であり、戦国時代特有の剥き出しの権力と富の関係性を色濃く反映したものであった。
この事変を単なる資金不足への場当たり的な対応策として捉えることは、その本質を見誤る。これは、豊臣秀吉が強力に推進した国家改造計画、すなわち「兵農分離」と「城下町集住政策」がもたらした必然的な帰結であった 3 。秀吉は、刀狩や人掃令を通じて武士と農民を社会的に切り離し、商工業者を城下町、特に自らの本拠地である大坂に集住させた 3 。この政策は、大坂にかつてない規模の「貨幣資本」を蓄積させる結果を生んだ 4 。土地に根差した「米」を基盤とする旧来の経済体制とは別に、都市に集中し、高い流動性を持つ「金銀」という新たな富の源泉が誕生したのである。1590年代の御用金徴収は、この新しい時代の巨大な富を、いかにして国家的な事業に動員するかという課題に対する、豊臣政権による初の本格的な回答であり、近世的な国家財政システムへの移行期を象徴する画期的な出来事であった。
第一章:巨大事業の胎動(1591年~1592年)- 財源逼迫への序曲
天下統一後の豊臣政権は、一見すると極めて強固な財政基盤を有していた。その歳入の柱は、全国に散在する約200万石に及ぶ広大な直轄地「蔵入地(くらいりち)」から納められる年貢米であった 6 。これに加え、佐渡金山、生野銀山、石見銀山といった日本有数の鉱山を直轄支配下に置き、そこから産出される莫大な金銀が国庫を潤していた 7 。さらに、1591年には全国の大名に領国の検地帳(御前帳)と国絵図の提出を命じ、これにより全国の石高を公式に確定させた 3 。この石高制に基づき、各大名に石高に応じた軍役を負担させるシステムも確立され、国家の軍事・動員体制は制度的に整備された 3 。
しかし、この強力な歳入基盤を以てしても、それを遥かに凌駕する天文学的な規模の歳出が、豊臣政権の財政に重くのしかかり始めていた。その要因は、大きく二つの巨大事業に集約される。
第一に、大陸への野心、すなわち「文禄の役」(朝鮮出兵)である。1592年に開始されたこの対外戦争は、豊臣政権の財政を根底から揺るがす未曾有の国家事業であった。数十万の兵を動員し、玄界灘を渡らせ、異国の地でその活動を維持するための兵糧、武具、弾薬、そして無数の輸送船の確保にかかる費用は、これまでの国内統一戦とは比較にならない規模に膨れ上がった 9 。この戦役は、豊臣政権の財政に恒常的かつ際限のない負担を強いることとなる。
第二に、国内における権威の象徴としての巨大普請事業である。秀吉は、天下人としての自身の権威を内外に可視化するため、壮大な建設プロジェクトを次々と敢行した。その代表格が、1592年に着工された、自身の隠居後の政庁かつ居城となる伏見城の築城である 11 。大坂城の改修や聚楽第の建設に続くこれらの大規模普請は、諸大名に費用や労役を負担させる「御手伝普請」の制度を以てしても 12 、到底その全てを賄うことはできず、豊臣家の直轄財政から多額の資金が投入され続けた。
ここに、豊臣政権の財政が抱える構造的な欠陥が露呈する。政権の収入源は、蔵入地からの「土地(米)」と、直轄鉱山からの「鉱物(金銀の地金)」という、現物経済に大きく依存していた。これに対し、朝鮮出兵の戦費や普請事業に従事する人夫への賃金支払いなど、喫緊の支出ニーズは、即座に支払いや購買に使用できる「通貨」であった。蔵入地から徴収した年貢米を市場で売却して換金するプロセス、あるいは鉱山から採掘した地金を鋳造して貨幣にするプロセスには、相当の時間と手間、そしてコストを要する。この「収入の性質」と「支出のニーズ」の間に存在する深刻なミスマッチが、莫大な資産を保有しながらも、日々の支払いに窮するという深刻なキャッシュフロー問題を引き起こしたのである。この構造的なギャップを埋めるため、すでに通貨として市場に流通している「商人の富」を直接吸い上げるという、最も迅速かつ効率的な手段、すなわち御用金徴収へと政権が傾斜していくのは、必然的な流れであった。
【表1】1590年代初頭における豊臣政権の財政バランス(推定)
歳入の部 |
歳出の部 |
蔵入地年貢(約200万石) 6 |
朝鮮出兵関連費(兵糧・武具・輸送費等) 9 |
直轄鉱山収入(金・銀) 7 |
伏見城・大坂城等普請費 11 |
各種運上金・冥加金 13 |
朝廷・寺社への寄進・維持費 |
|
直臣への俸禄・経費 |
この表が示すように、豊臣政権は強力な歳入基盤を持っていたにもかかわらず、それを遥かに上回る規模の歳出圧力に晒されていた。既存の財政システムだけでは対応できず、「御用金」という非常手段に訴える必要があった背景がここにある。
第二章:危機の顕在化(1592年~1594年)- 「天下の台所」に伸びる影
豊臣政権が深刻なキャッシュフロー問題に直面する一方で、その足元である大坂は、空前の繁栄を謳歌していた。秀吉は、かつて自治都市として栄華を極めた堺の特権を実力で剥奪し、その経済的機能を大坂へと強制的に移転させる「城下町集中政策」を断行した 4 。この政策により、堺や平野といった伝統的な商業都市から先進的な商人が大坂へ移住させられ、農村からも次男・三男が新たな機会を求めて流入し、大坂の商業人口は爆発的に増加した 4 。その結果、大坂はそれまで商業の中心であった京都の地位を脅かし、やがては凌駕する、名実ともに日本の商業・金融の中心地「天下の台所」へと変貌を遂げたのである。
この「天下の台所」の富の集積メカニズムは、秀吉の国家政策と密接に連動していた。全国規模で実施された太閤検地とそれに続く石高制の確立は、諸大名が自領で収穫した年貢米を、軍役や普請の費用を捻出するために換金する必要性を生み出した。その結果、全国の蔵物(年貢米など)は、大名が設置した蔵屋敷を通じて大坂の市場に集積されることとなった 14 。また、民間の流通機構を経た納屋物と呼ばれる全国の特産品もまた、大坂の有力な問屋を目指して大量に流入した。堂島の米市場で形成される米価は、全国の基準となるほどの権威を持ち 15 、高麗橋周辺に軒を連ねた両替商は、金・銀・銭の三貨を両替し、為替取引を行うことで、全国の貨幣経済の結節点としての役割を担った 16 。
さらに秀吉は、自身の重商政策の一環として、特定の商人に特権を与え、その経済活動を保護・育成した 17 。京の角倉了以や茶屋四郎次郎といった朱印船貿易を手掛ける豪商は、政権の庇護の下で海外貿易に乗り出し、莫大な利益を上げた 17 。また、淀屋常安に代表される新興商人は、伏見城の築城工事のような国家事業に巧みに参入し、その才覚で巨万の富を築き上げた 18 。このようにして、大坂には全国から富が集中し、一部の豪商のもとには天文学的な額の金銀が蓄積されていった。
前章で述べた財政危機に直面した豊臣政権にとって、この大坂に集積された「流動性の高い富(通貨)」は、最も魅力的かつ効率的な資金源として映ったことは想像に難くない。蔵入地の米や鉱山の地金と違い、商人たちが保有する金銀は、そのまま軍資金や普請費用として即座に投入できる。いわば、豊臣政権の足元に、自らの政策によって意図的に作り上げられた巨大な「富の貯水池」が存在していたのである。
秀吉の大坂都市政策は、単なる経済振興策という一面だけでは捉えきれない。それは、全国の富を物理的に一箇所に集め、政権の直接的な監視・管理下に置くという、高度な支配戦略であった。商人を大坂城の膝下に集住させることで、彼らの経済活動の実態を詳細に把握し、必要と判断した際には、その富を国家目的のために動員することが格段に容易になる。1590年代の御用金徴収は、まさにこの支配戦略が発動された瞬間であり、秀吉の都市政策が内包していた最終目的の一つが、財政危機を契機として顕在化した事変と解釈することができる。大坂の繁栄は、将来的な「収奪」を容易にするための、壮大な布石でもあったのである。
第三章:御用金徴収の刻(とき)- 1590年代中盤のリアルタイム再現
この時期の御用金徴収に関する直接的な一次史料は限定的であるため、本章では、当時の政治・経済状況や関連する記録の断片から、専門的な知見に基づき、その実態を「歴史的再現」として時系列に沿って描写する。
指令の発出(推定:1593年~1594年頃)
舞台は大坂城内の政務を司る一室。文禄の役は朝鮮半島で戦線が膠着し、戦費はかさむ一方であった。国内では伏見城の普請が急ピッチで進められており、その費用もまた天井知らずに膨らんでいた。蔵入地からの年貢収入や鉱山からの増産には限界が見えている。このような状況下で、豊臣政権の頭脳である五奉行による緊急の評定が開かれたと推察される。
出席者は、財政全般を管掌する長束正家、土木・普請を担当する増田長盛、そして行政全般を統括し、秀吉の意を最も深く理解する石田三成が中心であっただろう 19 。まず、長束正家が帳簿を元に財政の窮状を報告し、増田長盛が普請費用の深刻な不足を訴える。議論の末、既存の歳入ではこの国家的な危機を乗り越えられないことが確認される。ここで、石田三成が、秀吉の最終的な意向、すなわち「天下統一事業の完遂のためである」という大義名分を背景に、大坂の豪商たちから直接資金を調達するという最終手段を提案する。この評定において、徴収の目標総額、対象とすべき豪商のリストアップ、そして彼らに通達するための具体的な方法論が、極秘裏に協議されたはずである。
召集される商人たち
数日後、大坂城代、あるいは増田長盛ら奉行衆の連署による奉書が、市中の有力商人たちのもとへ届けられる。淀屋常安、平野屋、天王寺屋といった、大坂の経済を牛耳る豪商たちに、指定の日時に大坂城へ登城せよとの命令が下った。
この一報を受け取った商人たちの胸中は、期待と不安が複雑に交錯していたに違いない。天下人からの直接の召集は、商人としてこの上ない名誉である。しかし、その目的が「金の無心」であることは火を見るより明らかであった。どれほどの額を要求されるのか、もし応じられなければどのような仕打ちが待っているのか。一族の存亡をかけた恐怖と不安が彼らを襲う。だが同時に、彼らはこれを絶好の商機と捉える計算高さも持ち合わせていた。この危機に際して政権の期待に応えることができれば、天下人との結びつきを一層強固なものとし、ライバル商人たちを出し抜くことができるかもしれない。いくら献上すれば秀吉の歓心を買い、新たな特権、例えば特定の品物の専売権や、誰もが欲しがる朱印船貿易の許可といった見返りを得られるのか。彼らの頭脳は、この危機的状況下で、損失を最小限に抑え、いかにして利益を最大化するかという、究極の損得勘定でフル回転していたことであろう。
「交渉」という名の通達
指定の日、商人たちが恐る恐る登城すると、城内の一室には、上座に増田長盛や石田三成ら奉行衆が威儀を正して並んでいた。その場の空気は、張り詰めた緊張感に支配されていた。
奉行衆は、一方的な命令という形式を巧みに避けた。まず口火を切ったのは、おそらく増田長盛か石田三成であろう。彼らは、「異域征伐(朝鮮出兵)」や「都の造営(伏見城築城)」といった国家事業の重要性を荘重に説き、これらは秀吉個人のためではなく、天下泰平と万民の安寧のための大事業であると強調した。その上で、商人たちに対し、この国家的な事業に「協力」を願いたい、と申し渡した。これは命令ではなく、あくまで「天下への奉公」という名誉を与える形を取っていた。しかし、その言葉の裏には、拒否は決して許されないという、天下人の絶対的な意志が透けて見えていた。
豊臣政権は、単なる恫喝や恐怖による支配に頼ったわけではない。彼らは商人の心理を巧みに操る「アメとムチ」の使い分けを熟知していた。政権はこれまで、商人に特権を与えることで彼らの経済活動を保護・育成し、その成長から利益を得てきた 17 。この御用金の徴収の場においても、同様の論理が働いていた可能性が極めて高い。高額の御用金に応じた商人には、何らかの具体的な見返りが示唆されたはずである。例えば、「今回の銀子調達に功のあった者には、未開発の銀鉱山の採掘権を与える」「朝鮮との交易が再開された暁には、優先的な取引の地位を認める」といった、彼らの商売上の野心を刺激するような約束である。これは、商人が持つ「もっと儲けたい」という根源的な欲望を巧みに利用し、彼らの協力を、あたかも自発的な投資であるかのように引き出す、極めて高度な統治技術であった。この「投資機会」を前に、商人たちは競うように承諾の意を示したであろう。
徴収された莫大な金銀は、財政担当である長束正家の管理下に置かれ、厳密な会計処理がなされた後、一部は為替手形の形で朝鮮の兵站基地である肥前名護屋へ、また一部は伏見城の普請奉行のもとへと、国家の最優先課題のために迅速に分配されていったと考えられる。
第四章:余波と遺産(1590年代後半~)
1590年代中盤に行われた大規模な御用金徴収は、大坂の商人社会に大きな影響を及ぼし、その後の豊臣政権と商人との関係、さらには日本の経済史そのものに無視できない足跡を残した。
御用金の負担は、商人たちの運命を大きく分かつ分水嶺となった。政権が期待する額、あるいはそれを上回る額の献金を行った淀屋一族のような豪商は、豊臣家との結びつきを一層強固なものとし、その後の事業展開において有利な地位を確保した。彼らは政権の庇護を背景に、さらなる富を築くための強固な基盤を得たのである。一方で、この莫大な負担に耐えきれなかった中小の商人は、経営が立ち行かなくなり、没落していった可能性も否定できない。結果として、この御用金徴収は、大坂商人の中でも、政権と癒着して生き残る「政商」と、そうでない者との経済的格差を、さらに拡大させる一因となった。
一度成功した資金調達方法は、繰り返されるのが常である。1596年の日明講和交渉が決裂し、翌1597年に「慶長の役」として朝鮮への再出兵が開始されると、豊臣政権の財政は再び、そしてより深刻な圧迫を受けることとなった 9 。この新たな軍事費を賄うため、一度成功体験を持つ御用金徴収は、再び、そしておそらくは前回を上回る規模で、大坂の商人たちに課せられたであろう。度重なる負担は、商人たちの経済力を著しく疲弊させると同時に、豊臣政権に対する潜在的な不満を彼らの心中に蓄積させていった可能性がある。
そして1598年、絶対的な権力者であった豊臣秀吉が伏見城にてその生涯を閉じた。この死は、全てのパワーバランスを根底から覆した。秀吉という絶対的な「重し」がなくなった後、豊臣政権と大坂商人との関係は質的な変化を遂げる。五大老・五奉行による集団指導体制下では、もはや秀吉存命中のような強権的な御用金徴収は困難となった。抜け目のない商人たちは、豊臣家の権勢の陰りを敏感に察知し、次なる天下人として頭角を現しつつあった徳川家康など、新たな権力者との関係構築を水面下で模索し始める。
歴史的な視点に立てば、豊臣政権による一連の御用金徴収は、武家政権が商人の持つ「貨幣資本」の重要性を認識し、それを国家財政に直接組み込もうとした、日本史上でも画期的な試みであった。それは、戦国時代的な実力行使による収奪と、近世的な経済システムによる支配の中間に位置する、過渡期的な事象と言える。この1590年代の経験は、後の江戸幕府による豪商との関係構築、すなわち「御用達」制度や制度化された「御用金」に、多大な影響を与えたことは間違いない。権力が富を支配し、富が権力に奉仕するという、近世日本の社会経済体制の原型が、まさしくこの1590年代の大坂の地で、生々しい現実として形成されたのである。
結論:権力と富の交差点
1590年代、摂津国大坂において行われた「城下での御用金徴収」は、単発の資金調達事件ではない。それは、天下統一という偉業を成し遂げた豊臣秀吉が、次なる野望である大陸侵攻と壮大な都市建設を実現しようとした時、既存の国家財政システムの限界を突破した瞬間に起きた、必然的な事変であった。
この出来事は、秀吉自身がその卓越した都市政策によって育て上げた「天下の台所」という巨大な富の集積地に対し、その生みの親である絶対権力が、その富を直接吸い上げようとする、壮大なスケールの親子相克にも似たドラマを内包していた。そこでは、恐怖による一方的な収奪だけでなく、商人の欲望を巧みに利用した「アメとムチ」の統治技術が見られ、権力と富の間の緊張感に満ちた相互作用が展開された。
この御用金徴収は、豊臣政権の延命には寄与したものの、同時に商人層の疲弊と不満を招き、結果として豊臣家没落の遠因の一つとなった可能性も否定できない。しかし、より大きな歴史の文脈で捉えれば、この事変は、日本の経済史が中世的な荘園経済や石高を基盤とした現物経済から、近世的な貨幣経済・商業経済へと大きく舵を切る、その転換点に打ち込まれた一本の巨大な楔(くさび)であった。権力が初めて本格的に「カネの力」と向き合い、それを国家の道具として利用しようとしたこの試みは、その後の日本の社会経済構造を規定する、重要な一歩だったのである。
【表2】1590年代主要年表:御用金徴収に関連する出来事
年 |
西暦 |
主要な出来事 |
財政への影響 |
天正18年 |
1590 |
小田原征伐、天下統一。 |
統一事業の完了、新たな国家建設への移行期。 |
天正19年 |
1591 |
秀吉、関白を秀次に譲り太閤となる。御前帳・国絵図の提出を命じる 3 。 |
全国石高の確定、財政基盤の制度化。 |
文禄元年 |
1592 |
文禄の役(朝鮮出兵)開始 9 。伏見城の築城開始 11 。 |
戦費と普請費という二大歳出が本格化。 |
文禄2年 |
1593 |
朝鮮で戦線膠着、戦費増大。 |
財政逼迫が深刻化。第一回目の大規模な御用金徴収があったと強く推定される。 |
文禄3年 |
1594 |
伏見城本丸が完成。 |
普請費用がピークに達する。 |
文禄4年 |
1595 |
豊臣秀次切腹事件。 |
政権内部の動揺。 |
慶長元年 |
1596 |
慶長伏見地震、伏見城倒壊。再建開始。 |
予期せぬ巨額の再建費用が発生。 |
慶長2年 |
1597 |
慶長の役(再出兵)開始 9 。 |
再び戦費が急増。 二度目の大規模な御用金徴収があったと推定される。 |
慶長3年 |
1598 |
秀吉、伏見城にて死去。朝鮮からの撤兵開始。 |
絶対権力者の不在、財政政策の転換点。 |
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引用文献
- 御用金 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E7%94%A8%E9%87%91
- 豪商 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%AA%E5%95%86
- 全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革 - nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/
- 第一節江戸時代の経済 - 東京油問屋市場 https://www.abura.gr.jp/history/history_pt1-2-1.pdf
- 大阪は何故「天下の台所」と呼ばれたのか? 大坂商人たちが生み出した文化と街 - ホームズ https://www.homes.co.jp/cont/press/reform/reform_01257/
- 【高校日本史B】「豊臣秀吉の諸政策」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12796/
- 5.3 豊臣秀吉の天下統一 https://www.taira-h.tym.ed.jp/wp-content/uploads/2020/04/c06d5f7f8f8fc6666168060f5b7c306e.pdf
- 太閤蔵入地(たいこうくらいりち)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A4%AA%E9%96%A4%E8%94%B5%E5%85%A5%E5%9C%B0-848742
- 中学社会 定期テスト対策豊臣秀吉が朝鮮出兵をした理由は? - ベネッセ教育情報 https://benesse.jp/kyouiku/teikitest/chu/social/social/c00737.html
- 豊臣政権の朝鮮出兵における 兵糠米調達政策とその実態 - HERMES-IR https://hermes-ir.lib.hit-u.ac.jp/hermes/ir/re/6187/kenkyu0090300230.pdf
- 豊臣秀吉が築いた「伏見城」と伏見の街 - 三井住友トラスト不動産 https://smtrc.jp/town-archives/city/katsura/p02.html
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- 社会経済史:近世 - かーしゅうの一橋大日本史論述 https://kashu-nihonshi8.com/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%8F%B2%E3%80%80%E8%BF%91%E4%B8%96/
- 大坂の暮らし(武士・町人)/ホームメイト - 刀剣ワールド大阪 https://www.osaka-touken-world.jp/osaka-history/osaka-life/
- 三都 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E9%83%BD
- 天下統一を目指した豊臣秀吉は、京・大坂などの都市全域の直轄 領 ... https://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/mukashi/pdf/m-p134-135.pdf
- 第10話 〜淀屋常安 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/010.html
- 五奉行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A5%89%E8%A1%8C
- 五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的? - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/5elders5magistrate
- 五奉行(ゴブギョウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%BA%94%E5%A5%89%E8%A1%8C-65897