最終更新日 2025-09-17

堺の貿易統制強化(1586~98)

1590年代、豊臣秀吉は堺の貿易統制を強化。環濠埋め立て、千利休切腹、朱印状制度導入で自治を奪い、貿易を国家管理下に置いた。これは近世国家形成における経済支配の象徴である。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

黄昏の自由都市:豊臣政権下における堺貿易統制の時系列的分析(1586年~1598年)

序章:黄金の日々の終焉

本報告書は、1590年代に豊臣秀吉政権下で断行された「堺の貿易統制強化」について、その歴史的背景、政策の具体的な内容と経緯、そして中世以来の自治都市・堺に与えた決定的影響を、戦国時代から近世へと移行する日本の大きな権力構造の変遷の中に位置づけ、時系列に沿って徹底的に分析するものである。利用者より提示された「朱印状による出入港の管理」という事象は、この統制強化策の核心をなすものであるが、本報告はそれに留まらない。この一連の政策が、単なる一都市への圧力ではなく、日本の対外交易のあり方そのものを国家が再定義し、管理下に置こうとする、近世的な国家管理体制への移行を象徴する画期的な事象であったという視座から、多角的な解明を試みる。

戦国時代、堺は日明貿易や南蛮貿易の拠点として空前の繁栄を謳歌し、「黄金の日日」と称された 1 。その富を背景に、有力商人からなる「会合衆(えごうしゅう)」が町の自治を運営し、周囲を環濠で囲んだ要塞都市として、いかなる戦国大名の支配も受け付けない「自由・自治都市」としての地位を確立していた 2 。しかし、天下統一事業が最終段階に入ると、この特異な存在は、中央集権化を目指す天下人にとって看過し得ないものとなる。

1590年代の貿易統制強化は、堺が享受してきた中世的な自由と自治の伝統に事実上の終止符を打ち、国家の経済戦略と対外政策に奉仕する一地方都市へと、その性格を不可逆的に変貌させた決定的な転換点であった。そして、豊臣秀吉の朱印状は、その最も象ార徴的かつ強力な統制の道具として機能したのである。

第一部:統制への序曲 ― 自治都市の変質(~1591年)

1590年代に本格化する直接的な貿易統制は、決して突発的な出来事ではなかった。それは、織田信長の時代から約20年間にわたって続けられた、周到な「地ならし」の帰結であった。この期間を通じて、堺が誇った自治の精神と物理的防衛力は段階的に、そして確実に侵食されていった。本章では、その不可逆的な変質の過程を追跡する。

第一章:織田信長の衝撃と残された「自治」

堺の運命が大きく転換する最初の画期は、永禄11年(1568年)に訪れた。足利義昭を奉じて上洛した織田信長は、畿内を平定する過程で、堺が三好三人衆を支援していたことを咎め、軍資金として二万貫という巨額の矢銭(やせん)を要求した 4 。これは現在の価値で約2億円にも上るとされる金額である 4

当初、会合衆はこの要求を一度は拒否し、環濠を深くして籠城の構えを見せるなど、抵抗の意思を示した 4 。これは、彼らが長年培ってきた自治都市としての誇りと、外部権力への不干渉という原則を守ろうとする最後の試みであった。しかし、信長の圧倒的な軍事力を前にして、長期の抵抗は不可能であると判断せざるを得なかった 4 。最終的に、会合衆の一員であり信長とも通じていた今井宗久らの説得もあり、堺は矢銭の支払いに応じ、信長に屈服した 7 。この瞬間、堺は政治的・軍事的な独立性を完全に喪失し、元亀元年(1570年)には信長の直轄領となったのである 9

ただし、信長の堺支配には特筆すべき点があった。彼は堺の「政治的自治」は徹底的に否定したが、その「経済的機能」は破壊するどころか、むしろ自身の天下統一事業に積極的に活用したのである。信長にとって、堺は鉄砲の一大生産地であり 10 、海外の珍品や莫大な富が集積する、かけがえのない経済エンジンであった 11 。彼は今井宗久のような豪商を御用商人として取り立て、堺五箇庄の代官に任命するなど、自身の支配体制に組み込むことで、その商業活動を保護・利用した 7 。これにより、堺は政治的な自立性を失いながらも、商業活動における一定の自律性は維持することができたのである 8

この信長の政策は、堺の商人たちに極めて重要な教訓を植え付けた。それは、「政治的に従属しさえすれば、経済活動は継続できる」という認識である。信長が引いた「政治的支配」と「経済的利用」の間の明確な一線は、堺の価値が独立した政治勢力としてではなく、天下人に従属する経済的ツールとして再定義されたことを意味した。この経験は、後の豊臣秀吉による、より直接的で踏み込んだ経済統制に対する商人たちの心理的な抵抗を著しく弱める遠因となった。彼らの抵抗の選択肢は、もはや「政治的・軍事的抵抗」ではなく、「支配下での経済交渉」へと狭められていったのである。

第二章:大坂城下の巨大な影

信長の後継者となった豊臣秀吉は、その支配体制をさらに強固なものとしていく。彼が堺に対して行った政策は、信長以上に抜本的かつ戦略的なものであった。その象徴が、自身の本拠地として築城した大坂城とその城下町の存在である。秀吉は、大坂に全国から商人や職人を集め、碁盤目状の都市計画や背割下水(太閤下水)の整備を進め、新たな経済・物流の一大拠点を形成した 11

この巨大な新興都市の出現は、畿内における経済的中心地としての堺の地位を根底から揺るがした。かつて畿内、ひいては西日本のハブ機能を独占していた堺は、その役割を急速に大坂に奪われ、相対的な地位の低下は避けられなかった 11 。堺はもはや唯一無二の国際貿易港ではなく、大坂に従属する衛星都市としての地位へと、その役割を再編されていく過程にあった。

そして、天正14年(1586年)、秀吉は堺の運命を決定づける命令を下す。自治と防衛の物理的な象徴であった環濠の埋め立てを命じたのである 6 。環濠は、堺が外部権力からの干渉を拒絶し、自治を維持するための「城壁」そのものであった 15 。この命令は、堺が武装し、権力に抵抗する能力を物理的に完全に奪い去ることを意味した。この年、石田三成や小西隆佐が堺の代官に任命され、豊臣政権による直接的な行政支配が開始されたことと合わせ、堺の自治は名実ともに終焉を迎えた 9

この環濠埋め立てという事象は、単なる威嚇や都市改造計画として捉えるべきではない。これは、1590年代に実施される貿易統制、すなわち朱印状制度を円滑に、かつ抵抗なく断行するための、極めて戦略的な「物理的布石」であった。経済的な支配を完全なものにするためには、その前提として、物理的な抵抗能力を無力化する必要がある。環濠という「盾」を失った堺の商人たちは、数年後に秀吉が「私の許可なくして貿易はさせない」という命令を下した際、もはや「否」と答えるための物理的な手段を持たなかった。1586年の環濠埋め立てと1592年からの朱印状制度は、一連の支配強化プロセスとして、密接に連動していたのである。

第三章:権力と茶の湯の狭間で

豊臣政権下において、堺商人の存在感を際立たせていたのが、茶人・千利休であった。魚屋の出身である利休は、茶の湯を大成させ、秀吉の茶頭として絶対的な信頼を得て、政権内で絶大な影響力を行使した 1 。大友宗麟が秀吉に謁見した際、秀吉が「公儀のことは(弟の)秀長に、内々のことは利休に相談せよ」と述べたとされるほど、その存在は重きをなしていた 11 。利休の存在は、堺の商人が単なる富裕層であるだけでなく、文化的な権威を通じて中央政治に深く関与し、影響を及ぼしうることを天下に示していた 16

しかし、天正19年(1591年)、その栄華は突如として終わりを告げる。秀吉が利休に切腹を命じたのである 9 。その直接的な理由は、大徳寺山門の木像事件など諸説あるが、その政治的な意味合いは極めて重大であった。この事件は、堺商人が持つ「政治的影響力」そのものを、天下人である秀吉が断固として否定したことを天下に知らしめる結果となった 11 。一介の商人が、たとえ文化の頂点に立つ権威であっても、天下人の意向を超えて存在し、独自のサロンを形成して政治に影響を及ぼすことは断じて許されない、という強烈なメッセージであった。商人が切腹を命じられること自体が前代未聞であり、その衝撃は計り知れないものがあった 20

利休の死は、堺商人から「政治的プレイヤー」としての人格を剥奪し、彼らを純粋な「経済的ツール」へと貶める象徴的な出来事であった。堺の代表者ともいえる人物の抹殺は、堺全体の政治的地位を無力化し、豊臣政権と堺との関係性を「対話」や「交渉」から、一方的な「命令」と絶対的な「服従」へと決定的に変えた。他の堺商人たちは、政治的な野心や抵抗が死に直結することを痛感し、彼らの行動原理は「いかにして政権の意向に沿い、経済活動を継続するか」という一点に集約されていった。翌年から始まる朱印状制度による貿易統制は、この新たな権力勾配の上で初めて可能になった政策だったのである。

第二部:統制の実行 ― リアルタイムで見る1590年代

織田信長による政治的自治の剥奪、豊臣秀吉による物理的防衛力の無力化、そして千利休の死による政治的影響力の排除という周到な地ならしを経て、1590年代、豊臣政権は堺の経済活動の根幹である対外貿易に対し、直接的かつ包括的な管理体制を構築していく。特に、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)という国家的な大事業は、港湾と交易の国家的管理を絶対的なものとし、統制強化を加速させる決定的な要因となった。

以下の年表は、堺を取り巻く国内・対外情勢と、それに応じて実行された統制政策の連動性を俯瞰するためのものである。

表1:堺の自治から統制へ:主要事変年表(1568年~1615年)

西暦(和暦)

国内・対外の主要動向

堺に対する具体的政策・事変

意義・影響

1568年(永禄11)

織田信長、上洛

矢銭二万貫を要求、堺は屈服 4

政治的自治の喪失

1570年(元亀元)

-

信長の直轄領となる 9

外部権力への完全な従属

1582年(天正10)

本能寺の変、秀吉が信長の後継者となる

-

-

1583年(天正11)

大坂城築城開始

大坂が新たな経済中心地として台頭 11

堺の経済的地位の相対的低下

1586年(天正14)

-

環濠の埋め立てを命令、代官を設置 6

物理的防衛力の無力化、直接支配の開始

1587年(天正15)

九州平定、バテレン追放令

長崎を直轄地化 21

貿易港の多元化、堺の独占的地位の崩壊

1591年(天正19)

-

千利休に切腹を命じる 9

堺商人の政治的影響力の排除

1592年(文禄元)

文禄の役(朝鮮出兵)開始

朱印状制度を開始、堺商人も対象となる 23

貿易の国家管理化、自由交易の終焉

1597年(慶長2)

慶長の役(朝鮮再出兵)開始

港湾管理と貿易統制が常態化

国家による経済支配の確立

1598年(慶長3)

豊臣秀吉、死去

-

統制システムは徳川政権へ継承

1615年(元和元)

大坂夏の陣

豊臣方の焼き討ちにより市街が全焼 6

物理的破壊、中世自由都市の完全な終焉

第四章:1592年 ― 朱印状と大陸への道

天正20年/文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は数十万の軍勢を大陸へ送るという、未曾有の大事業、朝鮮出兵(文禄の役)を開始した 21 。この大規模な海外派兵は、膨大な兵員、兵糧、武具の海上輸送を必要とし、日本の港湾機能を国家の管理下に置き、効率的に運用することを絶対的な課題とした 26 。堺は、九州の名護屋や博多と並び、この巨大な兵站ネットワークの重要な拠点としての役割を担わされることになった。

この国家的な要請と時を同じくして、秀吉は日本の対外貿易のあり方を根底から変える新制度を導入する。それが「朱印船制度」である。これは、海外への渡航を望む日本の船に対し、豊臣秀吉の朱印(赤い印章)が押された渡航許可状、すなわち「朱印状」の携帯を義務付けるものであった 24 。記録によれば、最初にこの朱印状が下付されたのは、長崎、京都、そして堺の8人の豪商たちであったとされている 23

この制度が導入された目的は、複合的かつ戦略的なものであった。

第一に、海上の安全確保と秩序維持である。当時、東アジアの海域では倭寇と呼ばれる海賊集団の活動が依然として問題となっていた。朱印状を持たない船を「海賊船(私貿易船)」とみなし、厳しく取り締まることで、公式な交易船の航海の安全を確保しようとした 24。これは、陸上における刀狩令と並行する「海上の兵農分離」ともいえる政策であり、武装勢力としての商人の活動を封じ込める狙いがあった。

第二に、 貿易利益の独占と管理 である。朱印状の発行を通じて、政権は「誰が、どの船で、どこへ向かい、どのような交易を行うのか」を完全に把握することが可能となった。これにより、貿易から生じる莫大な利益を確実に捕捉し、国家財源として吸い上げる体制を構築した 17

第三に、 外交権の一元化 である。それまで西国大名や各地の商人が独自に行っていた対外接触や私的な交易を禁じ、貿易の許可権を天下人である秀吉一人に集中させることで、日本の外交窓口を一本化し、国家の専権事項とする意図があった 29

堺の商人たちにとって、この朱印状制度は、彼らが拠り所としてきた自由な交易の原則を根本から覆すものであった。しかし、前述の通り、彼らにはもはや政治的・軍事的に抵抗する術は残されていなかった。環濠は埋められ、自治組織は形骸化し、政治的代弁者であった利休もこの世にない。彼らに残された選択肢は、豊臣政権が定めた新たなルールの下で許可を得て貿易を続けるか、あるいは海外交易から完全に手を引くかの二者択一であり、その多くが前者を選んだのである。

第五章:統制下の航海(1593年~1596年)

朱印状制度の導入後、堺の港湾管理は、豊臣政権から派遣された奉行によって厳格に執行された。堺奉行に任じられた石田三成らは、堺に出入りする全ての船舶、その積荷、乗組員に至るまでを厳しく点検し、管理下に置いた 30 。秀吉が太閤検地で全国の土地と生産力を石高という統一基準で把握したように 21 、その徹底した中央集権的・合理的な管理手法が、堺の港湾運営にも適用されたのである。

この新たな体制の下、堺の商人たちは活動を続けた。堺商人の木屋弥三右衛門や西ルイス(西類子)といった人物が、朱印状を得て東南アジア方面へ交易船を派遣したことが記録されている 3 。しかし、彼らの立場はかつての独立した豪商とは全く異なっていた。彼らはもはや自由な企業家ではなく、国家から貿易活動を許可された、いわば「公認貿易請負人」としての性格を帯びるようになっていた。

当時の貿易構造を見ると、主要な輸出品は石見銀山などで産出される日本の豊富な銀であり、輸入品はポルトガル商人がマカオ経由で運んでくる中国産の生糸や絹織物、陶磁器などが中心であった 33 。豊臣政権は、この銀と生糸の交換から生まれる莫大な利益を、朝鮮出兵の膨大な戦費や、伏見城の造営といった国内の巨大プロジェクトの資金源として活用した。

この時代の堺商人のあり方を象徴する逸話として、呂宋助左衛門(るそんすけざえもん)の物語が挙げられる。彼はルソン(現在のフィリピン)との交易で富を築き、現地から持ち帰った珍しい壺(ルソンの壺)を秀吉に献上して大変な寵愛を受けたとされる 1 。この逸話は、秀吉の庇護下で商才を発揮すれば巨万の富を築くことも可能であったことを示している。しかし、その後の彼の運命は、この時代の商人の危うさをも同時に物語っている。助左衛門は過度な奢侈が秀吉の不興を買い、一説には石田三成の讒言によって財産没収の危機に瀕し、全財産を寺に寄進して海外へ逃亡したと伝えられている 1 。たとえ政権に多大な利益をもたらす有能な商人であっても、その富の誇示が天下人の機嫌を損ねれば、いとも簡単にその地位と財産を失う。商人の成功は、もはや自身の才覚だけでなく、絶対権力者の意向一つにかかっていたのである。

第六章:黄昏の港(1597年~1598年)

慶長2年(1597年)、明との和平交渉が決裂し、秀吉は再び朝鮮への出兵を命じる(慶長の役)。この再度の派兵により、港湾と貿易に対する国家管理体制は、もはや一時的な戦時措置ではなく、揺るぎない日常として完全に定着した。

この時期、秀吉の港湾政策は、堺の統制だけに留まらなかった。彼は日本の対外交易体制そのものを、より多元的かつ機能的に再編しようとしていた。天正15年(1587)の九州平定後、イエズス会から没収して直轄地とした長崎を、ポルトガル船が来航する南蛮貿易の拠点として明確に位置づけた 21 。また、戦乱で荒廃していた博多に対しては、石田三成らに命じて大規模な復興事業(太閤町割)を行わせ、大陸貿易の拠点として再生させた 30

この政策は、日本の対外貿易の窓口を、堺、長崎、博多などに分散・再編することを意味した。結果として、かつて対明貿易と南蛮貿易、そして国内物流の結節点として全ての機能を独占していた堺の地位は、完全に過去のものとなった。これは単に堺の地位を低下させただけでなく、日本の港湾システム全体を、より近代的で効率的な分業体制へと移行させるプロセスであった。南蛮貿易(対ポルトガル)は長崎、大陸貿易は博多、そして畿内の物流拠点は大坂と堺、という役割分担の原型がここに形成されたのである。堺の黄昏は、日本全体の新たな国際関係の夜明けでもあった。

慶長3年(1598年)8月、豊臣秀吉は伏見城でその生涯を閉じた。彼の死によって泥沼化していた朝鮮出兵はようやく終結する。しかし、彼が1590年代を通じて堺に、そして日本全体に構築した朱印状による貿易管理システムは、彼一代で終わることはなかった。この強力な国家統制の遺産は、次の天下人である徳川家康へと引き継がれ、江戸時代を通じてさらに制度化・強化されていくことになるのである 3

第三部:その後の堺 ― 新時代への航跡

豊臣秀吉の死は一つの時代の終わりを告げたが、彼が遺した中央集権的な統制システムは、新たな時代を規定する強固な枠組みとなった。かつての自由都市・堺は、この新しい秩序の中でいかに生き残り、その姿を変えていったのか。本章では、秀吉後の堺の航跡を展望する。

第七章:統制の遺産と商人の活路

関ヶ原の戦いを経て天下の覇権を握った徳川家康は、豊臣政権の多くの政策を継承したが、中でも朱印船貿易は積極的に引き継ぎ、さらに制度として完成させた 24 。家康は、西国大名や京都・大坂・堺・長崎の豪商に対し、朱印状を与えて海外交易を奨励した 27 。堺の商人たちも、この徳川の体制下で引き続き朱印状を得て、東南アジア各地で活動を続けたのである 3

しかし、時代が下り、江戸幕府による鎖国体制が段階的に強化されると、日本の対外貿易は長崎の出島一港に限定されることになった 37 。これにより、国際貿易港としての堺の歴史は名実ともに幕を閉じる。だが、堺の商人たちの商魂が絶えることはなかった。彼らは新たな状況に驚くべきしたたかさで適応した。活動の拠点を長崎に移し、「堺の長崎商人」として、幕府の管理貿易の枠内で商機を見出し、活躍を続けたのである 38 。井原西鶴の『日本永代蔵』にもその姿が描かれているように、彼らはもはや自治都市の誇り高き主役ではなく、新たな国家体制のシステム内で利益を追求する、現実的な近世商人へと変貌を遂げていた。

豊臣政権が1590年代に確立した「国家が貿易を管理する」という基本理念は、江戸幕府の貿易政策の根幹をなした。幕府が特定の商人に輸入生糸の価格決定権と一括購入を独占させた「糸割符制度」 29 や、貿易額そのものを制限した「定高貿易法(海舶互市新例)」 40 といった様々な管理貿易の形態は、すべて秀吉が始めた国家による貿易統制の延長線上にあった。

第八章:結論 ― 近世都市への転生

豊臣家が滅亡する慶長20年(1615年)の大坂夏の陣は、堺にとって最後にして最大の悲劇をもたらした。大坂城に近いという地理的条件から、堺は豊臣方の残党による焼き討ちに遭い、二万戸ともいわれる市街地のほぼ全てが灰燼に帰したのである 6 。この大火は、中世以来の自由都市・堺の物理的な姿を地上から完全に消し去った。

戦後、堺は徳川幕府の直轄地として、新たな都市計画「元和の町割り」に基づいて一から再建された 10 。碁盤目状に整然と区画された街路、町域を拡大して掘り直された新たな環濠。それはもはや、会合衆が自治を行ったかつての雑多で有機的な都市ではなく、幕府の厳格な管理下にある、整然とした近世の商業都市の姿であった。

総括すれば、1590年代の「貿易統制強化」は、単なる一過性の弾圧政策ではなかった。それは、織田信長による政治的支配に始まり、豊臣秀吉による物理的・経済的支配によって決定づけられ、そして徳川幕府による都市再建によって完成される、日本の「中世」から「近世」への移行期における、都市と国家の関係性の根本的な変革を象徴する、一連の長大なプロセスであった。かつて環濠に守られ、自由と自治、そして莫大な富を誇った国際貿易港・堺は、この大きな歴史のうねりの中でその歴史的役割を終え、新たな時代の経済を担う一員として、全く異なる姿へと転生を遂げたのであった。

引用文献

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  42. 【第69回】南蛮貿易都市「堺」(Sakai)《其ノ二》―自由自治都市・堺の環濠と四人の天下人《後篇》[出世人]豊臣秀吉公と[苦労人]徳川家康公― | 株式会社有田アセットマネジメント https://aam.properties/column/history/9928.html
  43. 堺環濠都市について http://sakaimachinami.jp/sakai_kangotoshi.html