最終更新日 2025-10-07

塩尻宿整備(1602)

塩尻宿は戦国期の軍事拠点から徳川期の計画都市へ変遷。慶長7年に中山道から外れるも、大久保長安失脚後、慶長19年に新ルートで再整備され、交通の要衝として繁栄した。
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信濃国塩尻宿の成立史 ― 戦国期の軍事拠点から徳川期計画都市への変遷

序章:塩尻宿整備の再定義 ― 慶長七年から十九年への道程

慶長七年(1602年)、徳川幕府は全国的な伝馬制度を敷き、五街道の整備を本格化させた 1 。この年は、江戸時代の交通網の骨格が形成され始めた画期として知られる。しかし、信濃国における要衝、塩尻宿が中山道の正式な宿場として設置されたのは、それから12年後の慶長十九年(1614年)のことである 2

本報告書は、この「12年間の空白」に着目し、「塩尻宿整備」という事象を、単一の時点におけるインフラ整備としてではなく、戦国時代の軍事的・経済的遺産から、徳川幕府初期の国家戦略、そして幕閣内の政争というダイナミックな歴史的文脈の中で捉え直すことを目的とする。慶長七年(1602年)に塩尻宿が設置されなかった理由、そして慶長十九年(1614年)に全く新しい宿場町として建設されるに至った背景には、時代の価値観の転換と、一人の有力な幕臣の劇的な失脚が深く関わっている。

本件は、戦国乱世の軍事優先思想から、泰平の世における経済と統治の安定を重視する政策への移行を象徴する事例であり、その過程を時系列に沿って詳細に解明する。


【表1】塩尻宿成立に至る主要年表(戦国期~慶長十九年)

年代(西暦)

元号

主要な出来事

典拠

1548年

天文十七年

塩尻峠の戦い 。武田晴信(信玄)軍が小笠原長時軍に勝利し、信濃中部の支配権を確立。

5

1563年

永禄六年

武田氏が軍事・経済上の理由から街道を整備し、後の「古町」に 伝馬宿を指定 。これが塩尻宿の原型となる。

6

1602年

慶長七年

徳川幕府が全国に 伝馬制度を公布 。中山道六十七宿が定められる。

1

1602年頃

慶長七年頃

中山道総奉行・大久保長安により**「初期中山道」が設定**される。下諏訪から小野宿・牛首峠を経由するルートで、塩尻を迂回した。

7

1613年

慶長十八年

大久保長安が死去 。死後、不正蓄財等の嫌疑で失脚(大久保長安事件)。初期中山道が廃止される。

4

1614年

慶長十九年

幕府の命により、松本藩主・小笠原秀政が 塩尻峠越えの新ルートを中山道として整備 。本山宿、洗馬宿と共に、 新・塩尻宿を設置 する。

2


第一章:戦国時代の塩尻 ― 軍事と物流の交差点

徳川の世が訪れる以前、塩尻の地は既に信濃国における軍事・経済上の要衝として、重要な役割を担っていた。江戸幕府による宿場の「新設」は、全くの無から都市を創造したのではなく、この地に古くから潜在していた地理的優位性を、新しい統治体制の下で再編・再開発する事業であった。

1-1. 武田氏の信濃支配と「古町」の起源

甲斐国を本拠とする武田氏は、信濃侵攻を進める中で、この地の戦略的重要性に早くから着目していた。信濃国を完全に手中に収めると、武田氏は領内の支配を盤石にするため、軍勢の迅速な移動と物資輸送の円滑化を目的とした街道整備に着手する。その一環として、永禄六年(1563年)、後の塩尻宿の原型となる場所に伝馬宿を公式に指定した 6 。この宿場は、江戸時代に新しい塩尻宿が建設された後には「古町」と呼ばれ、次第に農村地帯へと姿を変えていくことになる 9

この武田氏による伝馬宿は、あくまで軍事行動の利便性を最優先したものであり、後の徳川幕府が参勤交代や公用旅行、一般庶民の往来のために整備した宿場とは、その性格を異にしていた 10 。しかし、国家権力が交通の結節点を押さえ、公的な輸送システムを構築するという点において、江戸時代の宿駅制度の先駆けと見なすことができる。

1-2. 塩の道 ― 日本海と太平洋を結ぶ経済回廊

塩尻の重要性は、軍事的な側面に留まらない。この地は、中山道という国家的な幹線道路が整備されるはるか以前から、人々の生活に不可欠な「塩」を運ぶ複数の交易路が交差する、広域物流のハブであった 10

主要なルートは二つ存在する。一つは、日本海側の越後国糸魚川から安曇野を経由して運ばれる「北塩」の道、すなわち千国街道である 10 。もう一つは、太平洋側の三河国から伊那谷を北上して運ばれる「南塩」の道、三州街道(伊那街道)である 11

「塩尻」という地名は、これら二つの塩の道がこの地で終わり(尻)を迎えることに由来するという説が有力であり、このこと自体が、塩尻が古くから物資の集積・中継拠点として機能していたことを雄弁に物語っている 10 。戦国大名にとって、領民の生活を支え、兵糧ともなる塩の安定供給ルートを確保することは、領国経営の根幹をなす重要課題であった。塩尻は、まさにその生命線を握る場所だったのである。

1-3. 軍略拠点としての塩尻峠

交通の要衝は、必然的に軍事上の係争地となる。塩尻と諏訪を隔てる塩尻峠は、その典型であった。天文十七年(1548年)、甲斐の武田晴信(後の信玄)と、信濃守護であった小笠原長時との間で繰り広げられた「塩尻峠の戦い」は、この地の軍事的価値を象徴する合戦である 5

この戦いで武田軍は、油断していた小笠原軍に朝駆けの奇襲を仕掛けて大勝し、信濃府中(現在の松本市)を拠点とする小笠原氏の勢力を駆逐、信濃中部における支配権を決定的なものとした 5 。戦国時代において、峠道は険阻であるがゆえに、敵の侵攻を阻む天然の要害として極めて重視された 10 。塩尻峠を制する者が信濃中部の覇権を握るという、冷徹な現実がそこにはあった。

このように、江戸時代に入る以前の塩尻は、武田氏の軍事・兵站拠点として、また日本海と太平洋を結ぶ物流の結節点として、既に高度な社会経済的機能を備えていた。徳川幕府による後の中山道ルート変更は、この歴史的に形成された交通の要衝を国家の幹線道路網に正式に組み込むという、合理的かつ必然的な選択への回帰であったと評価できる。

第二章:天下統一と街道整備 ― 慶長七年(1602年)の衝撃

関ヶ原の戦いを経て天下の覇権を確立した徳川家康は、武力による支配から、法とインフラによる恒久的な統治体制の構築へと舵を切る。その中核をなしたのが、江戸と各地を結ぶ五街道の整備であった。この壮大な国家プロジェクトの中で、塩尻周辺は当初、予想外の形で位置づけられることとなる。

2-1. 徳川幕府のグランドデザイン ― 五街道構想

徳川幕府は、江戸を中心とした中央集権体制を確立するため、全国の道路網を再編・整備する計画に着手した。東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道の五つを基幹とし、宿駅制度を設けることで、参勤交代や公用文書の伝達、物資輸送の効率化を図ったのである 15

その第一歩として、慶長七年(1602年)、幕府は全国に伝馬制度を公布し、主要街道に宿場を正式に定めた。これにより、木曽路の奈良井宿をはじめとする多くの中山道の宿場が、公式な宿駅としてその歴史をスタートさせた 1 。この幕府の命令こそが、利用者の知る「1602年」という年の持つ歴史的重要性である。しかし、この時、塩尻は中山道のルートから外れていた。

2-2. 稀代のテクノクラート、大久保長安

この国家プロジェクトの総責任者、すなわち総奉行に任命された人物が、大久保長安である 7 。長安は武田氏の旧臣であったが、その卓越した内政手腕、特に鉱山開発や検地における驚異的な能力を家康に見出され、徳川政権下で勘定奉行や佐渡金山奉行などを歴任し、絶大な権勢を誇った 18 。彼は、単なる武士ではなく、近世的な合理主義と土木技術に通じた稀代のテクノクラート(技術官僚)であった。

2-3. 「初期中山道」の設定 ― 塩尻を迂回した戦略ルート

長安が立案・実行した当初の中山道、後に「初期中山道」と呼ばれるルートは、驚くべきことに、古来からの交通の要衝である塩尻宿(古町)と塩尻峠を完全に迂回していた 9 。その道筋は、下諏訪宿から塩尻峠には向かわず、小野峠を越えて小野宿(現在の辰野町)へ至り、そこからさらに難所である牛首峠を越えて木曽の桜沢(現在の塩尻市贄沢)へと抜ける、より北側のルートであった 7

この一見不自然にも思えるルート選定には、長安ならではの極めて明確な戦略的意図が存在した。当時の江戸は、「江戸の大普請」と呼ばれる大規模な都市建設の真っ只中にあり、膨大な量の木材を必要としていた。長安の狙いは、木材の宝庫である木曽谷から、最短距離で江戸へ木材を輸送する専用路を確保することにあった 18 。同時に、このルートは米どころである伊那地方から米が不足しがちな木曽谷へ米を供給する兵站路としても機能し、資源の交換を効率化する目的も持っていた 18

つまり、初期中山道は、一般旅行者の利便性や既存の経済圏との接続性よりも、幕府が主導する特定の大規模プロジェクト(資源輸送)の完遂を最優先した、トップダウン型の戦略道路だったのである。これは、街道の役割が、戦国時代の「軍事」優先から、江戸初期の「国家プロジェクト」優先へと移行したことを示す過渡期の象徴であった。しかし、それはまだ、多様な人々が往来する公共インフラとしての性格を十分に備えたものではなかった。

第三章:政治的転換と路線変更 ― 初期中山道の廃止

大久保長安の計画によって運用が開始された初期中山道は、しかし、わずか10年あまりでその歴史に幕を閉じる。その背景には、一人の権力者の死と、それに伴う幕府内の政争という、インフラ計画の合理性を超えた政治的なドラマがあった。

3-1. 慶長十八年(1613年):大久保長安の死と「大久保長安事件」

江戸幕府初期において、その財政基盤の確立に絶大な功績を挙げ、栄華を極めた大久保長安は、慶長十八年(1613年)に病没した 7 。しかし、彼の死を待っていたかのように、事態は急変する。長安の死後、生前に莫大な不正蓄財を行っていた嫌疑や、キリシタンとの内通、さらには幕府転覆計画といった数々の疑惑が露見したのである 18

これにより、長安の一族はことごとく粛清され、長安自身も死後であるにもかかわらず武士の身分を剥奪され、その遺領は没収されるという前代未聞の処分を受けた。これは「大久保長安事件」として知られ、その真相については不明な点も多いが、長安の急激な台頭と強大な権力を危険視した幕府内の政敵による失脚劇であったとの見方が有力である 3

3-2. 幕府方針の転換と長安プロジェクトの見直し

この一大政変は、長安が主導してきた様々な国家プロジェクトの運命を大きく左右した。強力な推進者を失っただけでなく、その計画自体が「罪人」長安の遺産として見なされるようになり、全面的な見直しが行われたのである 2 。初期中山道もその例外ではなかった。

長安という政治的な後ろ盾が消滅したことで、これまで幕府の特定目的のために黙認されてきた初期中山道の持つ構造的な問題点が、改めてクローズアップされることになった。

3-3. 牛首峠ルートの致命的な欠陥

初期中山道が通過する牛首峠は、そもそも平時の幹線道路としては多くの欠陥を抱えていた。現代の記録からも推測されるように、この峠道は道幅が極めて狭く、自動車の離合も困難なほどの隘路であった 23 。両側から山の斜面が迫り、視界も悪く、昼なお暗い鬱蒼とした道が続いていた 23

戦国時代の軍事行動や、特定の資源を運ぶという限定的な目的であればまだしも、大名行列や公家、一般の旅人が恒常的に安全に往来するには、あまりにも不向きな「難所」であった 10 。さらに、山深い峠道であるため、積雪や落石による冬季の通行止めも頻繁に発生したと考えられ、年間を通じて安定した交通を確保するという幹線道路の基本的な要件を満たしていなかった 23

3-4. 塩尻峠ルートの再評価と決定

大久保長安の計画が白紙に戻されたことで、幕府はより安定的で、経済合理性の高い新ルートを模索し始めた。そこで再評価されたのが、古来からの交通の要衝である塩尻を経由し、比較的勾配が緩やかで開けた塩尻峠を越えるルートであった 3

このルートへの変更は、単に難所を避けるという消極的な理由だけではなかった。塩尻を経由することで、中山道は南北に走る塩の道(千国街道、三州街道)と直接接続し、さらに隣の洗馬宿では善光寺へ向かう北国脇往還とも結ばれる 11 。これにより、信濃国内の交通ネットワークが有機的に結びつき、その利便性と経済効果は飛躍的に向上することが期待された。

かくして、慶長十八年(1613年)に初期中山道は正式に廃止され、翌慶長十九年(1614年)より、塩尻峠を越える新ルートが中山道の本線として定められることが決定したのである 2 。中山道のルート変更は、技術的な最適化の結果というよりも、幕府初期の一大政変の直接的な副産物であった。国家のインフラ整備が、一個人の政治的運命によって劇的に左右された実例として、極めて興味深い事例と言える。


【表2】初期中山道(牛首峠越え)と新中山道(塩尻峠越え)の比較

項目

初期中山道(大久保長安ルート)

新中山道(慶長十九年以降のルート)

設定年

慶長七年(1602年)頃

慶長十九年(1614年)

主要経由地

下諏訪宿 → 小野宿 → 牛首峠 → 桜沢

下諏訪宿 → 塩尻峠 → 塩尻宿 → 洗馬宿

設定目的

国家プロジェクト優先 。江戸への木曽材輸送と、木曽への伊那米供給という特定資源の効率的輸送。

公共インフラ機能優先 。安定的な交通の確保と、既存街道網との接続による経済活性化。

地理的特徴

道幅が狭く、険しい難所。冬季の通行に支障をきたす可能性が高い。

比較的勾配が緩やかで、安定した往来が可能。

経済的効果

限定的。既存の物流拠点である塩尻を迂回するため、地域経済への波及効果は小さい。

絶大。塩の道や善光寺街道と接続し、広域交通のハブとなることで、塩尻宿に大きな繁栄をもたらした。

廃止の契機

慶長十八年(1613年)、 大久保長安の死と失脚


第四章:新・塩尻宿の誕生(慶長十九年) ― 計画的宿場町の建設

中山道の新ルートが決定されると、それに伴い新たな宿場を建設する必要が生じた。慶長十九年(1614年)、塩尻の地に、幕府の統制思想を体現した計画的な宿場町が誕生する。これは単なる集落の移転ではなく、近世的な都市計画に基づく「新都市建設」事業であった。

4-1. 松本藩主・小笠原秀政への下命

幕府は、この新しい中山道の整備と、塩尻宿・洗馬宿・本山宿という三つの新しい宿場の建設を、現地の領主である松本藩主・小笠原秀政に命じた 3 。大久保長安事件の後、改易された石川氏に代わって松本に入封した秀政にとって、これは幕府への忠誠を示す絶好の機会であった。幕府が国家の基本方針を定め、その実務を地元の大名に請け負わせるという、江戸時代の典型的な統治手法がここにも見て取れる。

4-2. 計画的な町割り(都市計画)

秀政は、戦国時代からの宿場であった旧宿(古町)の南西に位置する、新たな土地に宿場を建設することにした。その設計は、極めて計画的であった。街道に沿って東西に長く伸びる町並みを形成し、東から上町、中町、下町という行政区画に区分した 4

道の両側には、間口が三間から四間(約5.4~7.2メートル)の短冊形の敷地を一つの基準として整然と割り付け、典型的な「街村形式」の宿場町を設計した 16 。これは、自然発生的に形成された不規則な集落とは一線を画す、幕府の統制下で規格化された都市の姿であった。

4-3. 住民の移住と新コミュニティの形成

新しい宿場町に生命を吹き込むため、住民の計画的な移住が行われた。まず、旧宿である「古町」の住民たちが、新市街地へと移住させられた 9 。さらに、宿場の機能を維持・発展させるために、周辺の村々からも人々が集められ、新たなコミュニティが人工的に形成されたのである 9

主を失った古町は、その宿場としての役割を終え、やがて田畑が広がる静かな農村地帯へと回帰していった 9 。一つの町の計画的な死と、もう一つの町の計画的な誕生が、藩の権力によって同時に進行したのである。

4-4. 宿場の機能と施設の配置

新・塩尻宿の町割りにおいて、特に重視されたのが公的な機能を持つ施設の戦略的な配置であった。宿場の中央部には、東から順に、人馬の継ぎ立てや公用荷物の輸送を司る「問屋」、大名や公家が宿泊する「本陣」、そして本陣に次ぐ格式の「脇本陣」が計画的に並べられた 16

さらに、幕府の支配を象徴する施設も置かれた。享保十年(1725年)以降は幕府の直轄領となり、代官所である「塩尻陣屋」が設置された 11 。また、松本藩は人の往来を監視し、治安を維持するために「口留番所」と呼ばれる藩独自の関所を宿の出入り口に設けた 4 。これは、「入り鉄砲に出女」に代表されるように、江戸幕府が最も警戒した謀反の動きや大名の妻子が国元へ逃亡することを防ぐための監視機能が、宿場という交通インフラに当初から組み込まれていたことを示している。

特筆すべきは、塩尻宿の本陣の規模である。川上氏が代々務めたこの本陣は、建坪が288坪(約950平方メートル)、間口は24間(約43メートル)にも及び、中山道六十九次の中でも最大規模を誇った 16 。これは、塩尻宿が単なる通過点ではなく、複数の重要街道が交差する結節点として、幕府や諸藩からいかに重要視されていたかを示す、動かぬ物証と言える。

第五章:分岐宿としての確立と繁栄

計画的に建設された新・塩尻宿は、その優れた立地条件を最大限に活かし、信濃国随一の賑わいを見せる宿場町へと発展していく。その繁栄の鍵は、単に中山道という一本の幹線道路沿いに位置したからではなく、複数の街道が交わる「分岐宿」としてのハブ機能にあった。

5-1. 多街道が交わるハブ機能

新・塩尻宿は、東西を結ぶ中山道と、南北を結ぶ古くからの塩の道(千国街道・三州街道)が交差する結節点としての機能を、公式に引き継ぎ、さらに強化した 11 。これにより、江戸や京へ向かう旅人だけでなく、日本海側と太平洋側を行き来する商人や物資もこの地を経由することになり、塩尻は文字通り信濃国における交通の「ヘソ」となった。

さらに、この広域交通ネットワークは塩尻宿単体で完結するものではなかった。中山道を西へわずかに進んだ隣の洗馬宿は、北へ向かい善光寺に至る北国脇往還(善光寺街道)との分岐点でもあった 25 。これにより、塩尻周辺は、東西南北、そして信濃国第一の霊場である善光寺へと向かう人々をも取り込む、巨大な交通ネットワークの中心地としての地位を不動のものとしたのである。

5-2. 経済的繁栄の証左

この卓越した地理的優位性は、宿場に大きな経済的繁栄をもたらした。その最も分かりやすい指標が、旅籠の数である。天保十四年(1843年)に幕府が作成した『中山道宿村大概帳』によれば、塩尻宿の旅籠の数は75軒に達した 4 。これは、中山道に置かれた信濃二十六宿の中では群を抜いて多く、中山道全体でも有数の規模であった 11

単に中山道の一宿場であるだけでは、この突出した規模は説明できない。この数字は、中山道を旅する人々だけでなく、塩の道を往来する商人、善光寺へ向かう巡礼者など、多様な目的を持つ膨大な数の人々が塩尻宿を利用し、宿泊したことを示唆している。需要の多様性と規模が、供給(旅籠の数)の規模を決定づけたのであり、塩尻宿の繁栄の本質が、ネットワークの中心に位置することによる「ハブ機能」にあったことを証明している。

5-3. 甲州道中との戦略的連携

塩尻宿の戦略的重要性は、さらに東へと広がる。塩尻峠を越えた先にある下諏訪宿は、中山道と、江戸日本橋から甲府を経て至るもう一つの五街道、甲州道中が合流する重要な追分(分岐点)であった 32

これにより、江戸と京を結ぶ交通網は、中山道本線という一本のルートだけでなく、甲州道中を経由するバイパスルートも持つことになり、システムとしての冗長性と戦略的な柔軟性が格段に向上した。特に甲州道中は、江戸城に万一の事態が発生した際に、将軍が甲府へ退避するための避難路としても想定されており、軍事的な意味合いも持っていた 32 。塩尻宿は、この複線化された国家的大動脈の一翼を担う、重要な拠点でもあったのである。

結論:戦国から泰平の世へ ― 塩尻宿が象徴する時代の転換

信濃国塩尻宿の成立史を詳細に追跡すると、それは慶長七年(1602年)の徳川幕府による全国的な伝馬制度の開始から、慶長十九年(1614年)の計画的な宿場町建設まで、12年という決して短くない歳月を要した複雑な過程であったことが明らかになる。

この12年間の変遷は、日本の社会が大きくその価値観を転換させていく様を凝縮している。すなわち、第一段階は、武田氏に代表される戦国時代の「軍事優先」の論理である。次に、大久保長安が主導した初期中山道に見られる、江戸幕府初期の「国家プロジェクト(資源輸送)優先」の論理へと移行する。そして最終的に、長安の失脚を経て、より多くの人々の安定的な往来と経済活動を重視し、既存の交通網との連携を図る「公共インフラ」としての論理へとたどり着く 3 。塩尻宿の誕生は、この価値観の成熟の末に成し遂げられた事業であった。

同時に、その直接的な契機が、大久保長安という一人の傑出したテクノクラートの栄光と、その死後に起きた劇的な失脚という政治的事件にあったことは、歴史の必然と偶然の交錯を如実に示している。インフラという社会の土台が、一個人の運命と幕閣の政争によって根底から覆され、結果として一つの新しい町が誕生したのである。

その意味で、塩尻宿は、徳川幕府による中央集権的な国土開発の記念碑であると同時に、幕藩体制が確立していく過渡期の政治的ダイナミズムが生んだ、数奇な運命の子であったと言える。そして、その後の目覚ましい繁栄は、政治の論理がいかに変わろうとも、この地が持つ地理的優位性がいかに普遍的で強力なものであったかを、後世に証明し続けている。

引用文献

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  6. 塩尻宿(三州街道 - 長野県:歴史・観光・見所 https://www.nagareki.com/kaidou1/sansyuu/siojirijyuku.html
  7. 第1章 塩尻市の歴史的風致形成の背景 https://www.city.shiojiri.lg.jp/uploaded/life/45189_98195_misc.pdf
  8. 街道を学ぶ 初期の中山道 - 塩尻市 https://www.city.shiojiri.lg.jp/soshiki/35/3944.html
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