塵芥集(1536)
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塵芥集制定事変の真相:伊達稙宗の野望と挫折、奥州最大分国法の光と影
序章:事変前夜 ― なぜ「塵芥集」は生まれねばならなかったのか
戦国時代の陸奥国に、一人の野心的な大名がいた。伊達氏第十四世当主、伊達稙宗(だてたねむね)。彼が天文五年(1536年)に制定した分国法『塵芥集』は、単なる一法典の成立に留まらない。それは、奥州の政治秩序を根底から覆そうとした壮大な国家改造計画の頂点であり、伊達家史上最大の内乱へと繋がる導火線でもあった。本報告書は、『塵芥集』の制定を一つの「事変」として捉え、その背景、実態、そして歴史的帰結を時系列に沿って解明するものである。
1. 十六世紀初頭、奥州の政治情勢と伊達氏の台頭
伊達稙宗が家督を継承した十六世紀初頭の南奥州は、中央の権威が及ばぬ混沌とした世界であった。有力な国人領主たちが各地に割拠し、互いに勢力を競い合う状況下で、伊達氏の支配基盤も決して盤石なものではなかった 1 。このような情勢の中、稙宗は卓越した政治手腕を発揮する。彼は、周辺の有力大名家へ次々と自らの子女を嫁がせ、あるいは養子として送り込むという広範な婚姻・入嗣政策を積極的に展開した 1 。
この政策によって、蘆名氏、相馬氏、最上氏といった奥州の有力者たちが伊達氏と姻戚関係で結ばれ、「洞(うつろ)」と呼ばれる広域の同盟ネットワークが形成された 1 。これにより、伊達氏は国人領主間の紛争を調停する権威を獲得し、その影響力を南奥州全域へと飛躍的に増大させることに成功したのである。
2. 稙宗の野望:中央集権的領国支配への道
しかし、稙宗の野心は、単なる同盟の盟主という地位に満足するものではなかった。彼の政策の核心にあったのは、国人領主たちの緩やかな連合体を、伊達宗家を絶対的な頂点とする強力な中央集権的支配体制へと変革することであった 1 。その野望を実現するため、稙宗は矢継ぎ早に、そして周到な計画性をもって一連の領国改革を断行していく。この改革の流れこそ、『塵芥集』制定という事変のリアルタイムな前奏曲に他ならない。
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天文二年(1533年):『蔵方乃掟』の制定
改革の第一歩は、経済領域への介入であった。この年に制定された『蔵方乃掟』は、全13ヶ条からなる質屋・金融に関する法令である 6。利子計算や質物の取り扱いなどを細かく規定することで、領国内の経済活動を伊達氏の統制下に置こうとする明確な意図が見て取れる。これは、これまで慣習に委ねられていた経済秩序に、大名権力が法をもって介入した画期的な試みであり、来るべき大法典制定の布石であった 7。 -
天文四年(1535年):『棟役日記』の作成
次に稙宗が着手したのは、領民の直接的な把握と徴税権の強化であった。『棟役日記』は、家屋に課される税の台帳であり、その作成は伊達氏が領内の全ての家屋とそこに住む人々を直接管理下に置くことを意味した 1。これは、在地領主を介さずに領民と直接結びつこうとする、中央集権化への強い意志の表れであった。
これらの改革は、わずか数年の間に立て続けに実行された。金融、家屋税、そして次章で詳述する司法と、国家統治の根幹をなす領域が、体系的に整備されようとしていたのである。この一連の動きは、単なる場当たり的な政策の積み重ねではない。それは、伊達稙宗という一人の人物の明確なビジョンに基づいた、壮大な国家改造計画であった。
そして、この計画の推進方法は、極めて強権的であったと推察される。短期間にこれほど多岐にわたる、既得権益を侵害しかねない改革を断行できたということは、それが国人領主たちとの合議に基づくものではなく、稙宗によるトップダウンで強行されたことを示唆している。この急進性と強引さこそが、領国に安定をもたらすはずの改革が、逆に家中の深刻な亀裂を生み出し、後に「天文の乱」として噴出する根本的な原因を形成していったのである。『塵芥集』の制定は、この強権的政策の頂点に位置する、最も象徴的な「事件」であった。
第一章:事変の勃発 ― 「塵芥集」の誕生とその特異性
天文五年(1536年)四月十四日、伊達稙宗の国家改造計画は、その核心部分である司法体系の確立をもって一つの頂点を迎える。この日、戦国時代の分国法の中でも異彩を放つ大法典、『塵芥集』が公布された。その誕生の瞬間から、この法典は他のいかなる分国法とも異なる、制定者・稙宗個人の思想と野望を色濃く反映した特異な性格を帯びていた。
1. 制定の瞬間:天文五年(1536年)四月十四日
『塵芥集』は、前文、本文、そして制定者である稙宗の花押(署名)に続き、中野宗時をはじめとする伊達家重臣12名が法典の遵守を誓う連署起請文という体裁で構成されている 7 。その名称は、文字通り「塵(ちり)・芥(あくた)」、すなわちゴミを意味する言葉から採られている。これは、森羅万象、ありとあらゆる事柄を網羅し、領国統治に関わる全てを規定するという、制定者の並々ならぬ自負と意気込みを示すものであった 6 。伝本によって条文数に差異はあるが、最も完備した村田本では全171ヶ条にも及び、戦国時代の分国法としては最大級の規模を誇る 6 。
2. 孤高の立法者、伊達稙宗
この長大な法典は、どのようにして生み出されたのか。近年の有力な研究では、稙宗が法曹の専門家集団(ブレイン)に頼ることなく、ほとんど独力で、日頃から思い当たった条文をこつこつと書き溜めていった結果、成立したとされている 6 。
この説を裏付けるのが、法典そのものに見られる数々の「不備」である。例えば、関連性の薄い条文が隣接して配置されていたり、ほぼ同じ内容の規定が重複して存在したりと、構成の整理が不十分な点が散見される 10 。また、法概念の抽象化や一般化が徹底されておらず、具体的な事例に基づいた記述が多い。これらは、専門家による体系的な編纂作業を経なかったことの証左と考えられている。かつては、条文数の少ない伝本ほど古い原型であり、段階的に改訂・増補されて171ヶ条の完成形に至ったとする「三段階成立説」も唱えられたが、現在では、一度に完成したものが写本される過程で脱落が生じ、条文数の差異が生まれたとする説が有力視されている 10 。
これらの特徴は、『塵芥集』が洗練された法典ではないことを示す一方で、伊達稙宗という一個人の思考の軌跡を生々しく伝える稀有な資料であることを物語っている。
3. 全171ヶ条の解剖:他の分国法との比較
『塵芥集』の特異性は、他の戦国大名が制定した分国法と比較することで一層鮮明になる。
表1:主要戦国分国法の比較一覧
法典名 |
制定者 |
制定年(主なもの) |
条文数(目安) |
性格(主) |
使用言語(主) |
刑事法条項の割合(概算) |
今川仮名目録 |
今川氏親・義元 |
1526年 |
33+21条 |
家中法・裁判規範 |
和文 |
中 |
塵芥集 |
伊達稙宗 |
1536年 |
171条 |
裁判規範 |
和文(仮名多用) |
高(約41%) |
甲州法度之次第 |
武田信玄 |
1547年 |
55条 |
家中法 |
漢文体 |
中 |
結城氏新法度 |
結城政勝 |
1556年 |
104条 |
家中法 |
漢文体 |
不明 |
六角氏式目 |
六角義賢・義治 |
1567年 |
67条 |
家中法(起請文形式) |
漢文体 |
低 |
長宗我部元親百箇条 |
長宗我部元親 |
1597年 |
100条 |
家中法・領国法 |
和文 |
中 |
- 形式と性格 : 『塵芥集』は、鎌倉幕府の基本法である『御成敗式目』を体裁や条文配列のモデルとしている 6 。しかし、その内容は奥州の慣習法などを色濃く反映した独自のものであり、単なる模倣ではない 7 。特に注目すべきは、その性格である。他の多くの分国法が、家臣団の統制を主目的とする「家中法」としての性格が強いのに対し、『塵芥集』は領国全体のあらゆる紛争を解決するための「裁判規範」としての性格が極めて濃厚である 7 。これは、稙宗が自らを伊達家の当主としてだけでなく、領国全体の最高裁判官として位置づけ、全ての紛争解決権を宗家に一元化しようとした野心の表れに他ならない。
- 言語 : 他の分国法の多くが武士階級の公用文である漢文体で記されているのに対し、『塵芥集』は仮名を多用した平易な和文で書かれている点も際立った特徴である 12 。これは、漢字の読解が困難な下級武士や、さらには庶民層にまで法の存在とその内容を知らしめようとした、当時としては画期的な試みであった可能性が高い。
- 際立つ刑事法の詳細規定 : 全171ヶ条のうち、約三分の一にあたる70条(約41%)が殺人、強盗、傷害といった刑事法関連の条文で占められている 12 。この割合は他の分国法と比較して突出して高く、稙宗が領国内の治安維持を最重要課題の一つと捉えていたことがうかがえる 14 。
- 地頭権限の広範な承認 : 稙宗の中央集権化政策とは一見矛盾するように思えるが、『塵芥集』は地頭(在地領主)が持つ伝統的な支配権を法的に広く認めている 6 。これは単なる妥協の産物ではない。稙宗の狙いは、地頭の年貢徴収権といった在地レベルでのミクロな権力は安堵する代わりに、領主間の紛争解決権や治安維持権といった領国全体に関わるマクロな権力を伊達宗家に一元化することにあったと考えられる。つまり、『塵芥集』は、地頭の在地支配権を法的に保障するという「アメ」と、私闘(自力救済)を禁じて伊達氏の裁判権への服従を強制するという「ムチ」を組み合わせた、高度な政治的取引の提案書としての側面を持っていたのである。
4. 特異な法概念の分析
『塵芥集』には、当時の奥州の社会実態を反映した、現代の視点からは極めてユニークな法概念が含まれている。
- 「生口(いけくち)」制度 : 犯罪が発生した際、伊達家は公的な捜査を行わず、被害者自身が加害者を自力で生け捕りにして突き出さなければならない、という驚くべき規定である 6 。もし誤認逮捕であった場合、被害者は50日以内に真犯人を「むかい生口」として引き渡す義務を負う。この制度は、伊達氏の警察権が領国の末端まで及んでいないという現実を逆説的に示していると同時に、領民に治安維持の責任の一部を負わせるという現実的な統治策でもあった。
- 「同士討ち」の名誉化 : 乱戦となりがちな当時の戦場において、味方同士の誤射や誤殺は避けがたい事態であった。『塵芥集』は、この「同士討ち」を不名誉な死ではなく「名誉の戦死」として扱うと定めている 16 。これにより、偶発的な死をめぐる遺族間の紛争や遺恨を防ぎ、軍団の結束を維持しようとした、極めて現実的な判断が見て取れる。
- 独自の「喧嘩両成敗」 : 「喧嘩両成敗」は多くの分国法に見られる原則だが、『塵芥集』の規定は一律の厳罰主義とは一線を画す。例えば、今川仮名目録が「理非を論ぜず双方とも死罪」と定めたのに対し、『塵芥集』第20条では、喧嘩を仕掛けられた側が耐え忍んだ場合や、先に手を出した側の非を重く見るなど、より情状を酌量した現実的な内容となっている 17 。
このように、『塵芥集』は単なるルールブックではなかった。それは、稙宗による「統治の可視化」であり、一種の政治的プロパガンダであった。仮名を多用した平易な言葉で、領国の隅々にまで「伊達稙宗の法」の存在を知らしめること自体が、重要な目的だったのである。これまで慣習や地域の力関係に委ねられていた秩序を、稙宗個人の意志に基づく単一の法体系で塗り替えるという、革命的な宣言に他ならなかった。その構成上の「不出来」さすら、「専門家が作った小難しい法」ではなく、「殿様が自ら民のために書き下された有り難い法」という、ある種のカリスマ性を演出する効果を持っていた可能性さえ考えられる。
第二章:事変の展開 ― 制定直後の波紋と形骸化への道
壮大な理想を掲げて公布された『塵芥集』は、しかし、奥州の厳しい現実に受け入れられることはなかった。法による秩序の強制という稙宗の試みは、皮肉にも、法を否定する大規模な実力行使、すなわち伊達家史上最大の内乱を誘発する。本章では、制定からわずか6年で勃発した「天文の乱」との関係を軸に、『塵芥集』がなぜ、そして如何にして「忘れられた分国法」へと転落していったのか、その悲劇的な軌跡を追跡する。
1. 幻の法典:実効性の欠如
まず指摘しなければならないのは、この171ヶ条にも及ぶ大法典が、実際の裁判などで使用されたことを示す史料が、今日に至るまで一切発見されていないという事実である 6 。これは、『塵芥集』が制定直後から実質的に機能していなかった、あるいは、ごく短期間、極めて限定的な範囲でしか効力を持たなかった可能性を強く示唆している。稙宗が思い描いた法治国家の理想は、公布された瞬間から、すでに形骸化への道を歩み始めていたのかもしれない。
2. 天文の乱(1542-1548年):法典が招いた内乱
『塵芥集』制定からわずか6年後の天文十一年(1542年)、稙宗の理想は最悪の形で破綻する。彼とその嫡男・晴宗との対立が、南奥州全土を巻き込む大規模な武力衝突へと発展したのである。これが世に言う「天文の乱」である 18 。
乱の直接的な引き金は、稙宗が三男・時宗丸(さねもと)を越後守護・上杉定実の養子にしようとしたことに、晴宗と一部の重臣が猛反発したことであった 4 。しかし、この養子問題は、それまで蓄積されてきた父子間の、そして伊達家中の亀裂が表面化するきっかけに過ぎなかった。その根底には、『塵芥集』の制定に象徴される、稙宗の急進的かつ強権的な中央集権化政策に対する、晴宗や譜代の家臣団の根強い不満と反発があったことは疑いようがない 1 。
乱の対立構造は、この根本的な対立軸を如実に示している。稙宗方には、彼の婚姻政策によって姻戚関係を結んだ相馬氏、蘆名氏、最上氏などの周辺大名が多く馳せ参じた 1 。一方、晴宗方には、稙宗の拡大政策や中央集権化に反発する伊達家譜代の重臣たちが結集した。これは、稙宗が創造しようとした「新しい秩序」と、それに抵抗する既存の「古い秩序」との間の、避けられない決戦であった。
3. 敗者・稙宗と「忘れられた分国法」
6年にも及んだ骨肉の争いは、室町幕府十三代将軍・足利義輝の仲介を経て、天文十七年(1548年)、稙宗が隠居し、晴宗が家督を継承するという形でようやく終結した 2 。
しかし、この内乱が伊達家にもたらした傷跡は計り知れないほど深かった。稙宗が一代で築き上げた広域同盟「洞」は完全に崩壊。伊達氏に従属していた蘆名氏などが独立し、伊達家の勢力は大幅に減退した 3 。南奥州は、稙宗が登場する以前の群雄割拠の時代へと逆戻りしてしまったのである。
そして、この乱の最大の敗者となった父・稙宗は、家中で「忌避されるべき存在」となった。その結果、彼の権威の象徴であり、最大の政治的遺産であった『塵芥集』もまた、意図的に封印され、誰からも顧みられることのない「忘れられた分国法」と化していった 6 。
この一連の経緯を俯瞰すると、単純な因果関係では捉えきれない歴史の複雑な綾が見えてくる。一般的には、「天文の乱が起きた結果、『塵芥集』が忘れられた」と解釈される。しかし、事変の根本原因にまで遡れば、その因果関係は逆転する。『塵芥集』の制定という、既存秩序を破壊しかねない強権的な行為そのものが、家中の反発を招き、天文の乱を引き起こす重要な「原因」の一つであった。つまり、『塵芥集』は天文の乱の「犠牲者」であると同時に、その「加害者」でもあったのだ。
伊達稙宗と『塵芥集』の物語は、「秩序を求める理想が、より大きな混沌を生み出す」という歴史の皮肉を体現している。稙宗は、法による安定した領国支配という、時代の先を行く理想を掲げた統治者であった。しかし、彼の法典は、当時の奥州の政治的・社会的な成熟度を遥かに超えた理想法であった。その先進性ゆえに現実に拒絶され、自らを葬り去る内乱の種を蒔くという悲劇的な結末を迎えたのである。
第三章:事変の残響 ― 再発見と歴史的評価
天文の乱の終結とともに、制定者である伊達稙宗の失脚と運命を共にした『塵芥集』は、百数十年の長きにわたり、歴史の闇の中に沈黙した。しかし、その先進的な法思想と、一人の戦国大名の野望の記録は、完全に失われたわけではなかった。本章では、その劇的な再発見の経緯と、現代における歴史的評価を総括する。
1. 百四十年の沈黙と再発見
『塵芥集』が再び歴史の表舞台に姿を現したのは、制定から144年後の延宝八年(1680年)のことである。伊達家家臣であった村田親重が、秘蔵していた写本を仙台藩四代藩主・伊達綱村に献上したことにより、その存在が百数十年ぶりに公式に認知されることとなった 6 。
この再発見は、単なる偶然ではなかった可能性が高い。綱村の治世は、戦国の動乱期を乗り越え、安定した藩体制が確立した江戸時代中期にあたる。この時期、仙台藩では自家の歴史や伝統を再評価し、編纂する事業が盛んに行われていた。そのような気運の中で、藩祖・政宗の曽祖父にあたる稙宗が制定した幻の大法典が再発見されたことは、伊達家の歴史的権威を高める上で大きな意味を持っていたと考えられる。
2. 文化財としての価値:現存最古写本
村田親重によって献上された写本、通称「村田本」は、現存する『塵芥集』の写本の中で最も内容が完備しており、かつ最古のものと考えられている。その極めて高い歴史的価値から、現在は国の重要文化財に指定され、仙台市博物館に収蔵されている 9 。
この写本の物理的な特徴は、その来歴を雄弁に物語る。表紙は後世に補修されたものだが、藍地の金襴で装飾され、本文は袋綴装の冊子本である 13 。本文の末尾には稙宗の花押が記されているが、これは手書きの署名ではなく、印章のように押された「花押印」であると認められている 13 。これらの特徴から、この村田本は、天文五年(1536年)の制定後まもない時期に、法典の内容を周知させるため、重臣たちへ配布する目的で複数作成された公式な写本の一つであった可能性が極めて高い 13 。
3. 総括:失敗した理想法か、時代の先駆か
『塵芥集』は、制定されたにもかかわらず、ほとんど実効性を持たなかったという点において、紛れもなく「失敗した法典」であった。しかし、その歴史的価値は、成否という単純な二元論では測れない。
その全171ヶ条という圧倒的な網羅性、家臣団の統制よりも領国全体の紛争解決を志向した裁判規範としての先進的な性格、そして下級武士や庶民にまで法を届けようとした仮名交じりの平易な文体は、同時代の他のいかなる分国法にも見られない際立った特徴である。この法典は、伊達稙宗という一人の戦国大名が抱いた、強力な大名権力の下で統一された法治国家を建設するという、壮大かつ緻密なビジョンを映し出す鏡に他ならない。
そして、この法典の歴史的価値は、逆説的にも、その「機能不全」にこそあると言える。もし『塵芥集』がスムーズに施行され、時代に合わせて改訂を繰り返していたならば、制定当初の稙宗の生々しい思想や、1536年当時の奥州が抱えていた矛盾は、後世の加筆修正によって覆い隠されていただろう。施行されずに「時が止まった」からこそ、我々はこの法典を通じて、天文五年という特定の時点における、一人の戦国大名の野心、理想、そして限界を、極めて純粋な形で垣間見ることができる。
それは、成功した法典からは決して得ることのできない、失敗の記録ならではの貴重な歴史的証言なのである。『塵芥集』制定という事変、そしてその挫折の物語は、戦国時代における「法と権力」「理想と現実」の相克を、今なお我々に雄弁に語りかけている。
引用文献
- 伊達氏天文の乱 - BIGLOBE https://www7a.biglobe.ne.jp/echigoya/ka/DateshiTenbunNoRan.html
- 伊達氏天文の乱 - 福島県伊達市公式ホームページ https://www.city.fukushima-date.lg.jp/soshiki/87/1145.html
- 伊達稙宗とはどんな人?東北ビッグダディ、天文の乱を引き起こす - ほのぼの日本史 https://hono.jp/sengoku/date-tanemune/
- 伊達家に巻き起こった親子間の骨肉の争い『天文の乱』!6年続いた大騒動の行方は? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=Jo7n3MHT630&pp=0gcJCfwAo7VqN5tD
- 伊達氏天文の乱 稙宗・晴宗の父子合戦 http://datenokaori.web.fc2.com/sub27.html
- 塵芥集 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%B5%E8%8A%A5%E9%9B%86
- 塵芥集(ジンカイシュウ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%A1%B5%E8%8A%A5%E9%9B%86-81363
- 問 伊達家の塵芥集とはどのような本ですか。 - 仙台市図書館 https://lib-www.smt.city.sendai.jp/wysiwyg/file/download/1/560
- 主な収蔵品 8 歴史資料(1)|仙台市博物館 https://www.city.sendai.jp/museum/shuzohin/shuzohin/shuzohin-12.html
- 「塵芥集」の性格と成立過程について - J-Stage https://www.jstage.jst.go.jp/article/shigaku/132/7/132_41/_article/-char/ja/
- 塵芥集(じんかいしゅう) - ヒストリスト[Historist] https://www.historist.jp/word_j_shi/entry/033561/
- 戦国大名の 「法度」 と分国法 : 中国の法典と比 較して - CORE https://core.ac.uk/download/pdf/223195683.pdf
- 塵芥集 - 文化遺産オンライン https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/188112
- 塵芥集(ジンカイシュウ)とは何? わかりやすく解説 Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E5%A1%B5%E8%8A%A5%E9%9B%86
- じんかいしゅう【塵芥集】 | し | 辞典 - 学研キッズネット https://kids.gakken.co.jp/jiten/dictionary03201567/
- 分国法とは何だ?戦国時代の法律?これを知れば人間味溢れる戦国大名の「生の声」が聞こえる! - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/47197/
- 喧嘩両成敗 https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/data/open/cnt/3/50/1/ssr2-22.pdf
- 骨肉の争い 天文の乱/福島市公式ホームページ https://www.city.fukushima.fukushima.jp/soshiki/7/1032/3/1/3/1401.html
- 天文の乱 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%96%87%E3%81%AE%E4%B9%B1
- 伊達稙宗 - asahi-net.or.jp https://www.asahi-net.or.jp/~JT7T-IMFK/date/arc1-2.htm
- 伊達稙宗 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E9%81%94%E7%A8%99%E5%AE%97