最終更新日 2025-09-16

増田長盛改易(1600)

1600年、豊臣五奉行の増田長盛は関ヶ原で西軍に与するも家康に内通。戦後、大和郡山20万石を改易され高野山へ追放。大坂の陣では豊臣家への忠義を貫き自害した。
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慶長五年・増田長盛改易の真相 ― 豊臣政権崩壊の序曲とある奉行の選択

序論:豊臣政権の黄昏と増田長盛

太閤・豊臣秀吉の死は、日本の歴史における一つの時代の終わりを告げると同時に、未曾有の権力闘争の幕開けを意味した。秀吉が遺した政治体制は、徳川家康を筆頭とする有力大名による合議体「五大老」と、石田三成ら秀吉子飼いの吏僚から成る実務執行機関「五奉行」が相互に牽制し合うことで、幼主・秀頼を輔弼するというものであった 1 。しかし、この精緻に設計されたはずの権力構造は、秀吉という絶対的な中心を失った途端、その脆弱性を露呈する。

五大老筆頭の家康は、秀吉の遺命である大名間の私的な婚姻の禁止を破り、伊達政宗や福島正則らと縁組を進めるなど、公然と天下への野心を顕にし始めた 3 。これに対し、豊臣家への忠誠を掲げる三成ら五奉行は激しく反発し、政権内部の亀裂は決定的なものとなる。この権力の真空地帯で繰り広げられた対立は、やがて慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いへと収斂していく。

本報告書が主題とする「増田長盛改易」という事変は、この激動の時代に起きた単なる一個人の失脚劇ではない。それは、豊臣政権の中枢を担った五奉行の一角が崩れ、政権構造が徳川家康によって実質的に解体・再編されていく過程を象徴する出来事であった。五奉行の一人として、また大和郡山二十万石の大名として重きをなした増田長盛は、天下分け目の大戦において西軍に与しながら、東軍に内通するという複雑な行動を取る。その結果、戦後に待っていたのは、内通の功を認められることなく、所領を全て没収される「改易」という厳しい処分であった。

本報告書は、増田長盛の行動を「裏切り」という単純な二元論で断じることを避け、史料に基づきその動向を時系列で徹底的に分析する。そして、豊臣政権の存続と自家の安泰という二律背反の狭間で揺れ動いた一人の能吏の苦渋の選択を多角的に考察し、「増田長盛改易」が戦国史の転換点において持つ真の意味を解き明かすことを目的とする。

第一章:五奉行・増田長盛の実像

増田長盛という人物を理解するためには、まず彼がどのような経歴を経て豊臣政権の中枢に上り詰めたのか、その人物像を正確に把握する必要がある。彼の生涯は、戦場の勇将としてではなく、卓越した実務能力を持つ能吏・テクノクラートとして主君に貢献した軌跡であった。

秀吉近臣としての台頭:実務能力に長けた能吏

増田長盛の出自については、尾張国増田村(現・愛知県稲沢市)あるいは近江国益田郷(現・滋賀県長浜市)という説があるが、詳細は明らかではない 4 。確かなことは、彼が早くから羽柴秀吉に仕え、そのキャリアの初期から一貫して武功よりも行政手腕で評価されていた点である 6

天正九年(1581年)の鳥取城攻めでは、兵糧攻めという特殊な戦況下で「陣中萬の物商の奉行」、すなわち兵站の責任者を務めている 7 。これは、彼の管理能力と計数能力が高く評価されていたことを示唆する。彼の名を不動のものとしたのは、豊臣政権の財政基盤を確立した画期的な政策「太閤検地」における活躍であった。長盛は石田三成や長束正家らと共に検地奉行の中心的な役割を担い、全国の土地を測量し、石高を確定させるという膨大な作業を指揮した 4 。その緻密な手腕と不正を許さない厳格な姿勢は、豊臣政権の統治システムを盤石にする上で不可欠であった。

また、文禄の役(1592-1593年)では、自ら朝鮮に渡海し、関東諸大名の軍勢を率いて漢城(現在のソウル)に駐留した 4 。ここでの彼の役割は、前線で戦うことよりも、秀吉の上意を諸将に伝達し、現地の戦況を正確に報告するという監察官・連絡官としての側面が強かった。これらの経歴は、長盛が情念や武勇ではなく、数字と現実に基づいて物事を判断する、極めて官僚的な資質の持ち主であったことを物語っている。

大和郡山20万石の大名として:領国経営と普請事業

長盛の卓越した実務能力は、秀吉から高く評価され、破格の出世をもたらした。文禄四年(1595年)、豊臣秀長の養子・秀保の死後、その旧領の一部である大和国郡山城主に任命され、二十万石余の大名となった 7

郡山城主となった長盛は、その能力を領国経営と城郭普請において遺憾なく発揮する。彼は郡山城の外堀を大規模に改修し、近世城郭としての防御機能を完成させた 2 。特筆すべきは、秋篠川の流路を東に大きく変更して佐保川に合流させ、その旧河道跡を外堀として利用するという、高度な土木技術を駆使した点である 9 。これは、彼が単なる行政官僚に留まらず、優れた技術的知見をも備えていたことを示している。

さらに、大和国だけでなく、紀伊・和泉両国の豊臣家直轄領(蔵入地)の代官も兼務し 7 、慶長二年(1597年)には安房国(現・千葉県南部)で総検地を実施するなど 4 、その行政管轄は広範囲に及んだ。これらの事績は、彼が豊臣政権下で最も信頼される実務家の一人であったことの証左である。

五奉行としての役割と権力:土木・検地を司る重鎮

秀吉の晩年、豊臣政権の最高意思決定を補佐し、実務を統括する機関として五奉行制度が確立されると、増田長盛はその一員に抜擢された。五奉行は、司法担当の浅野長政、宗教担当の前田玄以、行政担当の石田三成、財政担当の長束正家、そして土木担当の増田長盛という役割分担がなされていたとされる 10 。長盛のこれまでのキャリア、特に郡山城での普請事業の実績が、この任命に直結していることは想像に難くない。

五奉行は、単なる実務担当者ではなく、豊臣政権の政策を立案・実行する最高幹部であり、秀吉から絶大な信頼を得ていた 2 。秀吉死後、石田三成や浅野長政が一時的に奉行職を離れた際には、豊臣家の財政基盤である蔵入地の管理を一手に担うなど、その重要性は政権末期においてさらに高まっていた 12

このように、増田長盛は、武勇ではなく、一貫して実務能力によって豊臣政権の屋台骨を支え続けた「官僚的現実主義者」であった。彼の判断基準は、常に「義」や「名分」よりも、数字に裏打ちされた「現実」と「実利」にあったと考えられる。この人物像こそが、関ヶ原という未曾有の国難において、彼が取った一見矛盾した行動を解き明かす鍵となるのである。

第二章:天下分け目への道程 ― 慶長五年、関ヶ原前夜

豊臣秀吉の死後、豊臣政権内部の権力均衡は急速に崩壊へと向かった。その中心にあったのが、五大老筆頭の徳川家康と、五奉行の中心人物である石田三成との対立であった。

家康の台頭と三成の焦燥:対立の先鋭化

秀吉が築いた五大老・五奉行体制は、大老間の調整役として期待された前田利家の死(慶長四年、1599年)によって、その機能を大きく損なう 4 。最大の勢力を持つ家康は、これを好機と捉え、大坂城西の丸に入って政務を執り、豊臣政権を実質的に掌握しようとする動きを加速させた 2

これに対し、豊臣家への絶対的な忠誠を掲げる三成は、家康の専横を断じて許すことができなかった。しかし、加藤清正ら武断派七将による三成襲撃事件が起こると、家康の仲裁によって三成は奉行職を辞して佐和山城に蟄居させられ、政治の中枢から一時的に排除される 4 。この事件は、豊臣家臣団の分裂を決定的にし、家康の政治的優位を不動のものとした。長盛ら他の奉行は、この対立の激化を前に、豊臣政権の崩壊を食い止める有効な手立てを打てずにいた。

反家康の狼煙:「内府ちかひの条々」への連署

慶長五年(1600年)6月、家康は会津の上杉景勝に謀反の嫌疑ありとして、諸大名を率いて討伐に出陣する。大坂の政治権力が空白となったこの機を、三成は見逃さなかった。彼は毛利輝元を総大将に担ぎ上げ、反家康の兵を挙げることを決意する。

同年7月、三成らは家康の罪状を十三ヶ条にわたって列挙した弾劾状、通称「内府ちかひの条々」を作成し、全国の諸大名に送付した。これは、家康討伐の正当性を天下に示すための檄文であった。この歴史的な文書に、増田長盛は前田玄以、長束正家と共に署名している 2 。この連署によって、長盛は公式に「西軍」の一員となり、家康と敵対する立場を明確に表明した。この時点において、彼は豊臣政権の奉行として、家康の専横を正すという大義名分に従ったのである。

西軍結成と長盛の初期動向

「内府ちかひの条々」の送付と時を同じくして、西軍の体制は急速に固められた。五大老の一人である毛利輝元が総大将として大坂城に入り 2 、宇喜多秀家、小西行長らが主力として集結した。増田長盛は、五奉行としてこの西軍の結成と初期の意思決定に深く関与していた。

しかし、その公式な行動の裏で、長盛はすでに別の動きを見せ始めていた。彼の二股的な行動は、西軍が結成されたまさにその時から始まっていたのである。公式には反家康の旗幟を鮮明にしながら、水面下では東軍との接触を模索する。この矛盾した行動こそが、彼の改易へと繋がる運命の序章であった。

第三章:【核心】増田長盛、関ヶ原合戦における動向の時系列分析

慶長五年七月から九月にかけての増田長盛の動向は、彼の立場と意図を理解する上で最も重要である。公式には西軍の中枢として行動しながら、同時に東軍へ情報を流し続けるという、その二面的な行動を時系列で詳細に追うことで、彼の真意に迫ることができる。

以下の時系列表は、長盛の行動の矛盾を可視化し、その背景にある彼の戦略的思考を分析するためのものである。

日付(慶長5年)

西軍としての公式行動

東軍への内通・協調行動

関連史料・典拠

考察

7月12日

(西軍挙兵計画に参画)

徳川家臣・永井直勝へ書状を送付。石田三成らの挙兵計画に関する情報を漏洩。

『慶長年中卜斎記』 13

西軍の公式な挙兵宣言(17日)以前からの内通であり、当初から両天秤にかけていたことを示す。

7月17日

「内府ちかひの条々」に前田玄以、長束正家と共に連署。公式に反家康の立場を表明。

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表向きは西軍に与するという立場を明確にし、豊臣奉行としての責務を果たす姿勢を見せた。

7月19日

西軍総大将・毛利輝元を大坂城に迎え入れる。

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『義演准后日記』 14

西軍の中枢として、総大将の入城を差配。大坂城における西軍の拠点化に協力した。

8月1日

伏見城攻めに自軍の兵を派遣し、城の攻略に貢献。

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2

西軍の一員として明確な軍事行動に参加。これにより、単なる日和見ではなく、西軍に加担しているという事実を内外に示した。

8月~9月

毛利輝元と共に大坂城に留まり、「豊臣秀頼の警護」を名目とする。

大坂城内の西軍の動向や意思決定に関する情報を、間者を通じて徳川家康に継続的に伝達。

4

本戦への不参加。大坂城という政治的中枢を抑え、戦後の主導権争いを見据えた戦略的行動。

9月15日

(大坂城にて関ヶ原の戦況を注視)

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-

西軍敗北の報を受け、速やかに徳川方への恭順を示す準備を開始。

7月:反家康の狼煙と内通の兆候

長盛の行動における最初の、そして最も決定的な矛盾は7月12日に現れる。この日、彼は徳川家康の家臣である永井直勝に書状を送り、「大谷吉継が病と称して垂井に滞陣し、石田三成が出陣するとの噂がある」という、西軍の最高機密に属する情報を伝えている 13 。これは、彼が公式に西軍に与することを表明する5日も前の出来事であり、三成らの挙兵計画の初期段階から、すでに家康方と通じていたことを示す動かぬ証拠である。

にもかかわらず、7月17日には「内府ちかひの条々」に署名し、19日には総大将の毛利輝元を大坂城に迎え入れるなど、表向きは西軍の中枢メンバーとして忠実にその役割を果たしている 14 。この時点で、彼はすでに二つの仮面を使い分けるという、極めて危険な綱渡りを始めていた。

8月:伏見城攻めへの参画と大坂城での役割

8月に入り、西軍が最初の軍事行動として伏見城攻めを開始すると、長盛もこれに自軍を派遣し、城の陥落に貢献した 2 。この行動は、彼の立場をさらに複雑にする。もし彼が単に東軍への内通を目的としていたならば、軍事行動への参加は避けるか、形式的なものに留めることもできたはずである。しかし、彼は積極的にこれに関与することで、西軍内部での自身の立場を維持し、より深い情報を得ようとした可能性がある。

一方で、関ヶ原での本戦が近づくと、長盛は毛利輝元と共に「豊臣秀頼の警護」を名目に大坂城に留まり、前線には赴かなかった 4 。この「大坂城留守居」という選択は、彼の行動原理を読み解く上で極めて重要である。当時の大坂城には、豊臣政権の正統性の源泉である幼主・秀頼が存在した。この場所を物理的に抑えることは、戦後の政治的イニシアチブを握る上で決定的な意味を持っていた。長盛は、西軍の総大将である輝元と行動を共にすることで彼を牽制しつつ 17 、水面下では家康に城内の情報を流し、来るべき政権移行を円滑に進めるための「内部工作員」としての役割を担っていたと考えられる。彼の行動は、戦場の勝敗のみならず、戦後の秩序形成までを見据えた、高度な政治的判断に基づいていた。

9月:関ヶ原決戦当日の動静と西軍敗北

9月15日、関ヶ原で天下分け目の決戦が繰り広げられている間、長盛は大坂城でその戦況を固唾をのんで見守っていた。この間も、彼は徳川方への情報提供を続けていたとされ 5 、西軍の敗北という結果を冷静に受け止めた。敗報が大坂に届くと、彼は即座にこれまでの西軍としての立場を清算し、家康への恭順を示すべく行動を開始する。彼の迅速な態度の転換は、この結末を予期し、周到に準備を進めていたことの証左であった。

第四章:改易 ― 大和郡山二十万石の没収と失脚

関ヶ原の戦いは、わずか一日で東軍の圧勝に終わった。この結果を受け、増田長盛は自らの内通の功績が評価され、少なくとも所領は安堵されるものと考えていたかもしれない。しかし、徳川家康が下した沙汰は、彼の予測を遥かに超える厳しいものであった。

戦後処理の開始:9月25日の出家と謝罪

西軍敗北の報が確実になると、長盛は速やかに敗将としての手続きを踏んだ。慶長五年九月二十五日、彼は自ら剃髪して出家し、家康に対して謝罪の意を示した 4 。これは、当時の武将が合戦に敗れた際に、恭順の意を示し助命を乞うための常套手段であった。彼は、これまでの内通の事実を訴え、寛大な処分を期待したであろう。

9月27日、大坂城西の丸における沙汰:改易処分の確定

しかし、家康の判断は冷徹であった。二日後の九月二十七日、大坂城西の丸において長盛への沙汰が申し渡された。その内容は、所領である大和郡山二十万石余の完全没収、すなわち「改易」であった 7 。大名としての地位と全ての財産を剥奪されるという、死罪に次ぐ重罰である。

一説には、金千九百枚と銀五千枚という莫大な私財を差し出すことで、かろうじて死罪だけは免れたとされる 7 。これは、彼の内通という功績が全く無視されたわけではないことを示唆するが、結果として彼は大名の座から完全に追われることになった。関ヶ原の戦後処理において、西軍に与した大名のうち88家が改易され、その所領は合計で416万石に及んだ 19 。長盛の改易も、この徳川による新たな秩序構築のための、大規模な大名再編策の一環として断行されたのである。

高野山への追放:政治生命の完全な終焉

改易を言い渡された長盛の身柄は、高野山に送られ、蟄居を命じられた 2 。これにより、豊臣政権の中枢を担った五奉行の一人、増田長盛の政治生命は完全に絶たれた。

内通者であったにもかかわらず、なぜ長盛はこれほど厳しい処分を受けたのか。その理由は、彼の個人的な行動の評価以上に、彼の所領が持つ地政学的な重要性にあったと考えられる。大和郡山は、豊臣家の本拠地である大坂城に隣接し、畿内を抑える上で極めて重要な戦略拠点であった 2 。家康は、来るべき豊臣家との最終対決を見据え、大坂を包囲・封じ込めるために、その周辺地域を信頼できる譜代大名で固める必要があった。元豊臣政権の最高幹部である長盛は、たとえ内通者であったとしても、この地に置いておくにはあまりにも潜在的なリスクが大きい存在と見なされたのである。彼の改易は、単なる懲罰ではなく、徳川による新たな支配体制を盤石にするための、計算され尽くした戦略的判断であった。事実、長盛が去った後の郡山には、水野勝成、松平忠明、本多政勝といった、徳川譜代の有力大名が次々と配置されていくこととなる 20

第五章:蟄居から最期へ ― 豊臣への忠義と増田家の終焉

改易によって政治の表舞台から姿を消した増田長盛であったが、彼の人生はまだ終わらなかった。その晩年は、関ヶ原での彼の選択が、豊臣家への裏切りではなく、彼なりの忠誠の形であったことを示唆するような、静かな、しかし毅然としたものであった。

武蔵岩槻での蟄居生活

高野山での蟄居生活の後、長盛の身柄は武蔵国岩槻城主・高力清長の元に預けられることになった 7 。これは、彼が畿内から引き離され、徳川幕府の膝元である関東の地で、厳重な監視下に置かれたことを意味する。かつて豊臣政権の中枢で権勢を振るった男は、静かな隠遁生活を余儀なくされた。

大坂の陣における幕府からの協力要請の拒絶

慶長十九年(1614年)、徳川家康が豊臣家を滅ぼすべく、最後の大戦である大坂の陣を引き起こすと、長盛の元に幕府からの使者が訪れる。家康は、豊臣家の内情に詳しい長盛に対し、豊臣方との和睦の仲介役を務めるか、あるいは間諜となって内部情報を伝えるよう協力を要請した 4

関ヶ原での行動を考えれば、ここで幕府に協力することは、自身の家の再興に繋がる最後の機会であったかもしれない。しかし、長盛はこの要請を敢然と断ったと伝えられている 9 。この拒絶は、彼の行動原理を理解する上で極めて重要である。彼の忠誠の対象は、石田三成が率いた「西軍」ではなく、あくまで「豊臣家」そのものであった。関ヶ原の時点では、三成の挙兵こそが豊臣家を危うくすると判断し、家康の下で豊臣家を存続させる道を選んだ。しかし、今や家康が豊臣家そのものを根絶やしにしようとしている。この状況下で、旧主を裏切る行為に加担することは、彼の信条が許さなかったのである。

息子・盛次の豊臣方への参陣と、それに連座した自害

長盛の最後の忠義は、息子・盛次の行動によって示される。盛次は父の改易後、尾張藩主・徳川義直に仕官し、大坂冬の陣では徳川方として戦っていた 4 。しかし、翌年の大坂夏の陣を前に、盛次は父・長盛と相談の上、驚くべき決断を下す。彼は尾張家を出奔して大坂城に入り、豊臣方として徳川軍と戦う道を選んだのである 2

盛次は夏の陣において、長宗我部盛親の隊に属して奮戦し、八尾・若江の戦いで壮絶な討死を遂げた 4 。豊臣家の滅亡後、幕府はこの盛次の「裏切り」を問題視し、その監督責任を父である長盛に問うた。元和元年(1615年)五月二十七日、増田長盛は自害を命じられ、七十一年の生涯に幕を下ろした 7

関ヶ原での内通と、大坂の陣での非協力および息子の殉死。この一見矛盾した二つの行動は、「豊臣家の存続」という一貫した目的の下にあったと解釈することで、一つの線として繋がる。彼の生涯は、豊臣政権の能吏として始まり、豊臣家の滅亡と共に終わった。その意味で、彼は最後まで「豊臣の臣」であり続けたと言えるのかもしれない。

結論:増田長盛改易が戦国史に刻んだ意味

増田長盛の改易と、その後の生涯は、戦国時代から江戸時代へと移行する時代の大きなうねりの中で、大名たちが直面した過酷な現実と処世術の限界を象徴している。彼の行動と運命を多角的に分析することで、この歴史的事件が持つ深い意味が浮かび上がってくる。

「裏切り者」か「豊臣家存続を模索した現実主義者」か:長盛の行動原理の再評価

本報告書で詳述した通り、増田長盛の関ヶ原における行動は、単なる「裏切り者」という言葉で片付けられるものではない。彼は、卓越した実務能力を持つがゆえに、豊臣政権の崩壊という不可逆的な流れを冷静に分析していた「官僚的現実主義者」であった。彼にとって、石田三成の挙兵は、豊臣家を救うどころか、徳川家康に滅亡の口実を与えるだけの無謀な賭けに映ったであろう。

彼の選択、すなわち西軍に籍を置きつつ家康に内通するという行動は、どちらが勝利しても豊臣家が存続できる道を模索した、彼なりのリスクヘッジであったと解釈できる。結果的にその選択は失敗に終わり、自らの改易と豊臣家の滅亡を招いたが、それは彼の個人的な資質の問題というよりは、絶対的な権力者(家康)の前では、いかなる現実主義的な処世術も通用しなかったという、政権移行期の非情さを示している。

他の奉行との比較分析:なぜ前田玄以は許され、長盛は罰せられたのか

長盛の処分の妥当性を評価する上で、同じ五奉行の動向と比較することは不可欠である。特に、長盛と同様に西軍に属しながら家康に内通し、戦後に所領を安堵された前田玄以との比較は、家康の戦後処理の本質を明らかにする。

氏名

関ヶ原での立場・行動

戦後の処分

処分の背景・理由(考察)

浅野長政

東軍に参加(息子・幸長が主力)

隠居(所領は幸長が継承し安堵)

家康との姻戚関係もあり、早くから東軍としての立場を明確にしていた。

前田玄以

西軍に連署しつつ、家康に内通。大坂城に留まる。

所領安堵 (丹波亀山5万石)

京都所司代として朝廷との強力なパイプを持ち、家康が新幕府を創設する上で不可欠な「利用価値」があった 24

石田三成

西軍を主導。関ヶ原で敗走後、捕縛される。

斬首・改易

西軍の首謀者として、処刑は免れなかった。

長束正家

西軍に積極的に参加。居城・水口岡山城で自害。

自害・改易

三成に忠実に行動し、西軍の敗北と共に自決した。

増田長盛

西軍に連署しつつ、家康に内通。大坂城に留まる。

改易 (大和郡山20万石)

所領(大和郡山)が対大坂の戦略的要衝であり、元豊臣政権幹部を配置しておくリスクが高かった。行政能力は代替可能と判断された。

この比較から明らかなように、関ヶ原の戦後処理は、単純な論功行賞や懲罰ではなく、徳川による新秩序構築のための冷徹な政治的計算に基づいていた。前田玄以は、京都所司代として朝廷との交渉に長けており、家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府を開く上でその政治的手腕は不可欠であった 24 。彼には、長盛にはない「戦後の利用価値」があったのである。

対照的に、長盛の持つ検地や普請といった行政能力は、徳川政権下では他の人材で代替可能であった。そして何より、彼の所領である大和郡山は、豊臣家の本拠地・大坂を監視・封鎖するための最重要拠点であり、家康が手放すはずがなかった。長盛と玄以の運命を分けたのは、内通の質や忠誠心の有無ではなく、徳川の新時代における「有用性」と「危険性」の天秤だったのである。

豊臣から徳川へ:政権移行期における大名の処世術とその限界

増田長盛の改易は、豊臣政権を支えた官僚機構の解体を決定づけ、徳川による新たな支配体制が確立される過程における一つの画期をなす事件であった。彼の悲劇は、一個人のものではなく、秀吉が作り上げた一つの時代が終わり、家康による新しい時代が始まる、その巨大な地殻変動の象徴であった。彼の苦渋に満ちた選択とその結末は、絶対的な権力の前で個人の知略や処世術がいかに無力であるか、そして歴史の転換期を生きることの困難さを、我々に静かに物語っている。

引用文献

  1. 考察・関ヶ原の合戦 其の二十五 奉行衆の主な三つの権能 https://koueorihotaru.hatenadiary.com/entry/2017/12/18/065252
  2. (増田長盛と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/47/
  3. 三成VS家康~天下分け目の関ヶ原 | 長浜・米原・奥びわ湖を楽しむ観光情報サイト https://kitabiwako.jp/en/spot/spot_13985
  4. 文武両道で活躍した五奉行「増田長盛」の生涯 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/563
  5. 増田長盛の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38368/
  6. note.com https://note.com/digitaljokers/n/n170dc0f9675c#:~:text=%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%9B%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E4%BA%BA%E7%89%A9,%E9%95%B7%E3%81%91%E3%81%A6%E3%81%84%E3%81%9F%E3%81%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%82%8B%E3%80%82
  7. 増田長盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%9B
  8. 算盤と法で天下を律した奉行、増田長盛が見つめた豊臣の夢とその終焉 https://kenplanning.sakura.ne.jp/www/2025/05/25/%E7%AE%97%E7%9B%A4%E3%81%A8%E6%B3%95%E3%81%A7%E5%A4%A9%E4%B8%8B%E3%82%92%E5%BE%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E5%A5%89%E8%A1%8C%E3%80%81%E5%A2%97%E7%94%B0%E9%95%B7%E7%9B%9B%E3%81%8C%E8%A6%8B%E3%81%A4%E3%82%81/
  9. 増田長盛 https://www.city.yamatokoriyama.lg.jp/section/rekisi/src/history_data/h_033.html
  10. 五奉行 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%94%E5%A5%89%E8%A1%8C
  11. 五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的? - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/5elders5magistrate
  12. 自害した増田長盛が示した豊臣家への「忠勤」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/33996
  13. 1600年 関ヶ原の戦いまでの流れ (前半) | 戦国時代勢力図と各大名の動向 https://sengokumap.net/history/1600-1/
  14. 関ヶ原直前に見せた増田長盛の「転身」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/32514/2
  15. 自害した増田長盛が示した豊臣家への「忠勤」 | 歴史人 https://www.rekishijin.com/33996/2
  16. 政務に精通した「五奉行」増田長盛の生涯|「関ケ原の戦い」では西軍に与し、大坂城の留守居を務めた武将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1151327/2
  17. そこで間違えなければ、徳川家康を討てたかもしれない…関ヶ原の戦いで惨敗した石田三成の「歴史的な判断ミス」 西軍総大将・毛利輝元はなぜ動かなかったのか (3ページ目) - プレジデントオンライン https://president.jp/articles/-/92247?page=3
  18. 関ヶ原戦後処理の一断片|栄村顕久 - note https://note.com/super_mink2656/n/n16fcf7a8fb04
  19. [歴史解説] 関ヶ原の戦いの戦後処理と論功行賞 Part2「家康絶対的な存在へ!大規模な論功行賞」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=xdaR_XhukUw
  20. 大和郡山藩:奈良県/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/edo-domain100/yamatokooriyama/
  21. 郡山藩 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%A1%E5%B1%B1%E8%97%A9
  22. 江戸時代の奈良の殿様 | 奈良県歴史文化資源データベース「いかす・なら」 https://www.pref.nara.jp/miryoku/ikasu-nara/tonosama/
  23. 増田長盛の武将年表/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/64768/
  24. 「前田玄以」京都奉行職も務めた五奉行の1人 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/606
  25. 前田玄以(まえだ げんい) 拙者の履歴書 Vol.103~僧から武へ 天下を支えし縁の下 - note https://note.com/digitaljokers/n/n74a9a59e4162
  26. 前田玄以の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38353/