多聞山城御殿整備(1565)
永禄八年、松永久秀は多聞山城に壮麗な御殿を完成させ権勢を誇示した。しかし、将軍暗殺や大仏殿炎上の動乱を経て、城は信長に明け渡され破却。その部材は新たな城の礎として転用された。
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多聞山城御殿整備(1565年)に見る松永久秀の権勢と畿内動乱の真相
序章:権勢の頂点、永禄八年
永禄八年(1565年)。この年は、日本の歴史が大きく動いた激動の一年として記憶される。戦国の梟雄、松永久秀がその権勢の頂点を迎え、大和国(現在の奈良県)に築いた多聞山城に壮麗な御殿を完成させた年である 1 。しかし、この絢爛たる「創造」の輝きは、深い影を伴っていた。同年五月、室町幕府十三代将軍・足利義輝が非業の死を遂げる「永禄の変」が勃発し、畿内は混沌の渦へと叩き込まれたのである 2 。
本報告書は、「多聞山城御殿整備」という事象を、単なる一武将による建築事業としてではなく、畿内の覇権を賭した壮大な政治的デモンストレーションとして捉え直すことを目的とする。御殿の完成と将軍暗殺という、創造と破壊が同時に進行したこの特異な年を軸に、その背景にある権力構造の変動、松永久秀という人物の戦略、そしてそれがもたらした帰結を、時系列に沿って徹底的に解明する。
この二つの大事件は、決して無関係ではない。両者の根底には、畿内に絶対的な権力者として君臨した三好長慶の死によって生じた、巨大な権力の真空状態が存在した。久秀による御殿の整備は、文化と建築の力、すなわちソフトパワーによって新たな秩序の中心を自らの下に築こうとする野心的な試みであった。一方で、三好三人衆らが引き起こした将軍暗殺は、旧来の権威を物理的に排除する、いわばハードパワーによる秩序破壊であった。永禄八年という年は、来るべき新時代を誰が主導するのか、異なる思想を持つ勢力がそれぞれの描く未来像を賭けて激突した、まさに分水嶺だったのである。
以下の年表は、本報告書で詳述する出来事の全体像を把握するための一助となるであろう。多聞山城の築城から廃城に至るまでの流れと、それと並行して進行した畿内の激動を対比することで、御殿整備という事象が持つ多層的な意味が浮かび上がってくる。
多聞山城御殿整備を巡る主要動向年表
年月 (西暦) |
畿内・中央の動向 |
松永久秀の動向 |
多聞山城関連 |
永禄2年 (1559) |
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大和へ侵攻、筒井氏ら在地勢力と抗争開始 |
築城開始 4 |
永禄4年 (1561) |
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未完成の多聞山城へ移り住む |
屋敷群が完成 7 |
永禄7年 (1564) |
7月、三好長慶が死去。三好政権に動揺 |
三好義継の後見役として権勢を振るう |
城郭部がほぼ完成 8 |
永禄8年 (1565) |
5月19日、永禄の変(足利義輝殺害) |
権勢が頂点に。三好三人衆との対立が決定的になる |
壮麗な御殿が完成 。アルメイダが来訪 1 |
永禄9年 (1566) |
三好三人衆が畿内を掌握 |
筒井順慶に筒井城を奪還されるなど、一時的に劣勢 |
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永禄10年 (1567) |
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三好義継が三人衆から離反し、久秀方に付く |
4月〜、三好・筒井連合軍に包囲される。10月、東大寺大仏殿の戦い 10 |
天正元年 (1573) |
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信長に反旗を翻すも降伏 |
城を信長に明け渡す 1 |
天正4年 (1576) |
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信長の命により、筒井順慶が城を破却 1 |
第一部:動乱の序曲 ― 畿内情勢と松永久秀の台頭(1564年以前)
第一章:巨星墜つ
永禄七年(1564年)七月、畿内に君臨した「天下人」三好長慶が、飯盛山城にてその生涯を閉じた 8 。主君である管領・細川晴元を圧倒し、将軍・足利義輝を傀儡とすることで、事実上の「三好政権」を樹立した長慶の死は、畿内の権力構造に巨大な地殻変動を引き起こすものであった。しかし、その死は直ちには公表されなかった。政権の脆弱性を露呈することを恐れた重臣たちにより、二年近くも秘匿されるという異例の措置が取られたのである 8 。
長慶には、将来を嘱望された嫡男・義興がいたが、前年に早世していた 15 。そのため、長慶の弟・十河一存の子である三好義継が養子として跡を継ぐこととなった 16 。しかし、若年の義継に長慶ほどの求心力はなく、政権運営は実質的に重臣たちによる集団指導体制へと移行した。その中核を担ったのが、三好一門の長老格である三好長逸、三好政康(宗渭)、そして譜代の重臣である岩成友通から成る「三好三人衆」と、長慶の側近として異例の出世を遂げた松永久秀であった 2 。
この集団指導体制は、一見すると政権の安定を維持するための協力関係に見える。しかしその実態は、いつ爆発してもおかしくない権力闘争の序章に過ぎなかった。三好三人衆が、三好家の伝統と秩序を重んじる譜代の代表であるのに対し、松永久秀は出自すら定かではない外様からの成り上がりであった 18 。両者の間には、その成り立ちからして埋めがたい亀裂が存在した。絶対的な権威者であった長慶という重石がなくなった今、彼らの利害が衝突するのは時間の問題であった。長慶の死の秘匿は、この内部対立が表面化することへの恐怖の表れであり、集団指導体制が決して一枚岩ではなく、互いに牽制し合う緊張関係、いわば時限爆弾のような状態であったことを如実に物語っている。
第二章:大和制圧
松永久秀が三好政権内でその地位を不動のものとする以前から、彼は着々と自身の地盤を固めるための布石を打っていた。その最大の標的が、大和国であった。永禄二年(1559年)、久秀は主君・長慶の命を奉じ、大和への軍事侵攻を開始する 4 。
当時の大和は、守護を興福寺が務めるなど、強力な寺社勢力が根を張る特殊な地域であった。興福寺の権威の下で、筒井順慶をはじめとする在地国人衆が群雄割拠する状態が続いていた 6 。久秀の目的は、単に軍事的に勝利することではなく、この旧来の支配構造を根本から覆し、大和国を完全に統治下に置くことであった。彼はまず、信貴山城を拠点として筒井氏らを武力で圧倒し、その勢力を削いでいった 19 。
そして、大和支配を決定づけるための次の一手こそが、多聞山城の築城であった。久秀が築城の地に選んだのは、奈良の市街と、大和国の象徴ともいえる興福寺や東大寺を見下ろす佐保山(眉間寺山)であった 1 。この立地選定は、単なる軍事的な合理性だけで説明できるものではない。それは、中世を通じて大和を支配してきた宗教的権威を物理的に「見下ろす」場所に新たな権力の拠点を構えることで、時代の支配者が寺社から武家へ、そして自分へと移ったことを視覚的に宣言する、極めて高度な政治的パフォーマンスであった。城は戦うためだけではなく、「見せる」ための装置であり、築城そのものが旧権威に対する挑戦状であり、新時代の到来を告げるプロパガンダだったのである 7 。
第二部:壮麗なる城郭 ― 多聞山城の誕生と御殿の完成(1559年~1565年)
第三章:天守の先駆け
永禄二年(1559年)に開始された多聞山城の築城は、数年の歳月をかけて進行し、永禄七年(1564年)頃にはその威容をほぼ完成させた 6 。この城は、それまでの戦国期の山城とは一線を画す、数々の革新的な特徴を備えていた。それは、後の織田信長による安土城へと繋がる「近世城郭」の嚆矢と評価されるべきものであり、久秀の先進的な思考を物語っている。
第一に、高層建築の導入である。興福寺の僧侶・多聞院英俊が記した当代随一の一次史料『多聞院日記』には、城内に「四階ヤグラ」が存在したことが記されている 6 。これは、単なる物見櫓ではなく、城主の権威を象徴する建造物であり、後の天守の先駆けと見なされている 21 。
第二に、防御と居住を一体化させた新しい構造の採用である。城の塁(土塁や石垣)の上に長屋造りの建物を連続して建て並べた櫓は、防御施設であると同時に兵の居住空間や倉庫としても機能した。この形式の櫓は、この城の名にちなんで「多聞櫓(多門櫓)」と呼ばれるようになり、日本の城郭建築における標準的な要素として後世に受け継がれていく 1 。
第三に、防火・防弾性能の向上である。当時の城郭は板葺きが主流であったが、多聞山城は火矢による攻撃を防ぐため、本格的な瓦葺きを採用した。発掘調査では、この城のために専門に焼かれた「城郭専用瓦」が出土しており、これは日本最古級の例とされる 1 。また、壁は鉄砲の攻撃に備えて厚く漆喰で塗り固められていた 1 。
これらの技術的革新は、城の役割が、合戦のための一時的な軍事拠点から、恒久的な政治・経済・生活の中心地へと変貌しつつあった時代の流れを的確に捉えたものであった。多聞山城は、久秀が単なる武将ではなく、城郭建築史における革命家であったことを示す、記念碑的な作品だったのである。
第四章:現出せし天国
永禄八年(1565年)、多聞山城内に整備された御殿は、その壮麗さの極致に達した。同年、城に招かれたイエズス会の宣教師ルイス・デ・アルメイダは、その様子を驚嘆をもって本国に報告している。彼の記録は、在りし日の御殿の姿を我々に鮮やかに伝えてくれる 1 。
アルメイダは、城壁を「基督教国に於て見たること無き甚だ白く光沢ある壁」と称賛し、屋根を覆う瓦を「予が嘗て見たる中の最も良き瓦」「真黒なるもの」と記述している 22 。これは、白漆喰の壁と黒瓦が織りなす、壮麗かつ引き締まった外観を活写したものである。
一歩御殿の内部に足を踏み入れると、そこはまさに別世界であった。アルメイダは「天国に入りたるの感あり」「人の造りたる物とは思はれず」とその感動を記している 22 。御殿は良質の杉材で建てられ、その香りが訪れる者を喜ばせたという。そして壁面は、「悉く昔の歴史を写し、絵を除き地は悉く金なり」と描写されている 22 。これは、金箔地に極彩色の絵画が描かれた、いわゆる金碧障壁画で飾られていたことを示唆する。柱は上下を真鍮で飾り、金で塗られ、精緻な彫刻が施されていた。その美しさは、当代随一の絵師集団であった狩野派、おそらくは総帥・狩野永徳らの手によるものであった可能性が極めて高い 23 。
さらにアルメイダは、庭園の美しさにも心を奪われている。「庭園及び宮庭の樹木は甚だ美麗なりといふの外なし」「世界中此城の如く善且美なるものはあらざるべし」と、最大限の賛辞を贈った 22 。
この御殿の壮麗さは、単に久秀個人の贅沢趣味の現れではない。それは、茶の湯や絵画、庭園といった当時最先端の文化資本を独占し、それを壮大なスケールで可視化することによって、自らの権威を武力とは異なる次元で確立しようとする高度な政治戦略であった。事実、アルメイダは「日本全国より只之を見んが為来る者多し」と記している 22 。この一文は、久秀の戦略が成功し、多聞山城が軍事拠点であると同時に、人々を魅了する新たな文化・政治の中心地として広く認識されていたことを証明している。それは、武力(ハードパワー)を背景としつつも、文化(ソフトパワー)によって支配の正当性を認めさせるという、極めて洗練された統治術の実践であった。
第三部:激動の刻 ― 永禄の変と内戦の勃発(1565年~1567年)
第五章:将軍暗殺
多聞山城の御殿が完成し、松永久秀がその権勢の絶頂を謳歌していた永禄八年(1565年)五月十九日、京の都は震撼した。三好義継、三好三人衆、そして松永久秀の嫡男・松永久通らが率いる一万の軍勢が、将軍・足利義輝の居所である二条御所を包囲、襲撃したのである 2 。剣豪としても知られた義輝は、自ら刀を振るって奮戦したものの衆寡敵せず、壮絶な最期を遂げた。室町幕府将軍が現職のまま殺害されるという、前代未聞の事件「永禄の変」であった。
この事件における松永久秀本人の役割は、今日に至るまで議論の的となっている。史料によれば、事件当日、久秀自身は大和の多聞山城におり、襲撃には直接加わっていなかったとされる 15 。しかし、嫡男の久通が軍勢の中核にいたこと、そして事件後の政治的利益を最も享受した一人であったことから、彼が事件の黒幕であったとする見方は根強い 3 。
久秀ほどの策略家が、これほどの大事件を事前に知らなかったとは考えにくい。彼の不在は、意図的な政治的判断であった可能性が高い。すなわち、将軍殺害という最大の汚名を三人衆らに着せつつ、自身はその直接的な非難をかわし、事件後の混乱の中で漁夫の利を得るという、計算され尽くした戦略である。三好長慶の死後、権威回復の動きを見せていた将軍義輝は、久秀にとっても三人衆にとっても共通の脅威であった。その脅威が排除された今、三好政権内の権力闘争はもはや隠しようがなくなり、久秀と三人衆が直接対決する舞台が整えられた。永禄の変は、久秀にとって、対三人衆戦争の事実上の号砲となったのである。
第六章:決裂
永禄の変は、三好政権内の亀裂を決定的なものにした。これまで水面下で進行していた松永久秀と三好三人衆の対立は、共通の敵を失ったことで一気に表面化し、畿内を二分する全面的な武力抗争へと発展していく。
当初、三好家の若き当主・三好義継は三人衆によって擁立され、行動を共にしていた 2 。しかし、三人衆が義継を傀儡として扱い、実権を掌握しようとする動きを強めるにつれ、両者の間には不協和音が生じ始める。この対立の鍵を握っていたのは、まさに当主義継の存在であった。長慶の正統な後継者である義継をどちらが確保するかが、自らの行動を正当化する「大義名分」を得る上で決定的に重要だったのである。
この状況を巧みに利用したのが久秀であった。彼は三人衆の支配に不満を募らせる義継に接近し、その心を掴んでいく。そして永禄十年(1567年)二月、ついに義継は三人衆のもとを離反し、松永久秀のいる信貴山城へと身を寄せた 2 。これは、三人衆にとって政治的な大打撃であった。彼らは三好家当主から叛逆者と見なされる立場となり、久秀は逆に「主君を保護する忠臣」という大義名分を手に入れた。この若き当主を巡る争奪戦に勝利したことで、久秀は戦いの主導権を握ったのである。
第七章:多聞山城攻防
三好義継を失った三好三人衆は、もはや武力によって松永久秀を打倒する以外に道はなかった。彼らは、久秀によって大和を追われていた筒井順慶と手を結び、連合軍を結成する。永禄十年(1567年)四月、総勢一万とも二万ともいわれる大軍が奈良へと進軍し、久秀の本拠地・多聞山城を包囲した 10 。
連合軍は、多聞山城の南に位置する興福寺の塔頭・大乗院山や、白毫寺などに陣を構えた 10 。対する松永軍は、久秀と義継が籠る多聞山城から出撃し、東大寺の戒壇院や転害門といった要所に兵を配置した 10 。両軍は、日本仏教の総本山である東大寺の境内を挟んで対峙するという、前代未聞の布陣を敷いたのである。
四月二十四日の夕刻、戦端は開かれた。東大寺南大門周辺で激しい銃撃戦が繰り広げられ、その銃声は真夜中になっても鳴り止まなかったという。当時の記録は、その激しさを「昼夜ただ雷電の如し」と伝えている 11 。五月に入ると、連合軍の岩成友通隊は東大寺の許可を得て、大仏殿の回廊や二月堂にまで陣を進めた 10 。国家鎮護の象徴であるべき神聖な空間が、躊躇なく軍事拠点として利用されたこの事実は、もはや伝統的な権威や禁忌が通用しない、剥き出しの実力主義の時代が到来したことを象徴していた。『多聞院日記』の筆者・英俊が、この惨状を「大天魔の所為と見たり」と嘆いた言葉は、当時の人々の衝撃と絶望を物語っている 10 。
第八章:大仏殿炎上
半年以上にわたり、多聞山城と東大寺周辺では一進一退の攻防が続いた。そして永禄十年十月十日の夜、戦局は突如としてクライマックスを迎える。膠着状態を打破すべく、松永久秀が動いたのである。
その夜の亥の刻(午後十時頃)、久秀は多聞山城から精鋭を率いて出撃し、大仏殿に陣取る三好勢に電撃的な夜襲を敢行した 11 。長期間の対陣で油断していた三好勢は、この不意の攻撃に浮き足立ち、たちまち崩壊した 11 。戦闘は松永軍の一方的な勝利に終わったが、その代償はあまりにも大きかった。
激しい戦闘の最中、どこからか火の手が上がった。『多聞院日記』によれば、穀屋から出た火が強風に煽られて法華堂(三月堂)に燃え移り、そこから大仏殿の回廊へと延焼、日付が変わった十一日の丑の刻(午前二時頃)には、創建以来八百年以上の歴史を誇る大仏殿が業火に包まれたという 10 。炎は天を焦がし、巨大な盧舎那仏(奈良の大仏)は高熱で首から上が溶け落ち、無残な姿を晒した 27 。
この大仏殿焼失の原因については、後世まで様々な説が唱えられている。夜襲を仕掛けた松永軍による放火説が最も有名であるが、三好・筒井方が敗走の際に火を放ったとする説や、どちらとも断定できない偶発的な失火であったとする説も存在する 7 。しかし、真相がどうであれ、この戦いの最終的な勝者であり、夜襲の実行者であった松永久秀が、その歴史的な責任を一身に背負うことになった。この事件は、「将軍殺し」「主家乗っ取り」と並ぶ久秀の「三悪」の一つとして語り継がれ、「梟雄」という彼のパブリックイメージを決定的にしたのである。
第四部:落日の梟雄 ― 城の終焉と歴史的遺産
第九章:信長の影
東大寺大仏殿の戦いに勝利し、三好三人衆を畿内から駆逐した松永久秀であったが、その権勢は長くは続かなかった。永禄十一年(1568年)、尾張の織田信長が足利義昭(義輝の弟)を奉じて上洛するという、新たな時代の奔流が畿内に押し寄せたのである。
時勢を敏感に察知した久秀は、信長に敵対することの不利を悟り、いち早く恭順の意を示した。彼は自慢のコレクションであった名物茶器「九十九髪茄子」を信長に献上し、その軍門に降った 7 。信長もまた、畿内の複雑な情勢に精通した久秀を利用する価値を認め、大和一国の支配を安堵した。
しかし、両者の関係は常に緊張をはらんだものであった。天正元年(1573年)、久秀は将軍義昭や武田信玄らが結成した「信長包囲網」に呼応して反旗を翻す。だが、信玄の急死により包囲網は瓦解し、久秀は佐久間信盛率いる織田軍に多聞山城を包囲され、降伏を余儀なくされた 7 。この時、久秀は一命こそ助けられたものの、多聞山城は没収されることとなった 1 。
翌天正二年(1574年)、信長は自ら多聞山城を訪れ、この城を舞台にある歴史的なパフォーマンスを演じた。東大寺正倉院に納められていた、歴代天皇の勅許なくしては開封できないとされる伝説の名香「蘭奢待」を、強権をもって切り取らせたのである 1 。この行為の舞台として、あえて久秀が築いた権威の象徴である多聞山城を選んだことには、深い政治的意図があった。それは、久秀が旧来の権威(寺社勢力)に対して行ったのと同じように、信長が久秀の築き上げた権威と文化資本を「乗っ取り」、自らが新たな最高権力者であることを天下に示すための、計算され尽くした政治劇であった。
第十章:解体と転用
信長の手に渡った多聞山城は、もはや久秀の権勢の象徴としての役割を終えた。天正四年(1576年)、信長は新たに大和の支配者となった筒井順慶に対し、多聞山城の破却を命じた 1 。築城からわずか16年余り、壮麗を極めた名城は、その歴史に幕を閉じることとなったのである。
しかし、城の部材は単に廃棄されたわけではなかった。それらは新たな支配者たちの城を構築するための資材として、各地へと転用されていった。この事実は、松永久秀という存在の政治的・文化的遺産が、織田・豊臣という新たな統一権力の中に吸収・再利用されていく過程を象徴している。
記録によれば、壮麗であった御殿の主殿は、信長が京都に建設中であった新たな拠点「二条御新造」へ移築された 7 。天守の先駆けであった四階櫓も解体され、一説には信長が天下布武の拠点として築いていた安土城へ移されたとも言われる 7 。また、石垣などに使われていた石材は、筒井順慶が本拠地として拡張工事を進めていた郡山城の築城に利用された 14 。近年の発掘調査では、京都の二条殿跡から多聞山城で使われていたものと同じ鋳型で造られた瓦(同笵瓦)が出土しており、建物が瓦ごと移築されたという史料の記述を考古学的に裏付けている 5 。久秀の革新的な城郭思想や建築美は、彼の死後も新たな城の一部として生き続け、近世城郭の発展に貢献したのである。
第十一章:土に眠る記憶
かつて壮麗な御殿や四階櫓がそびえていた多聞山城の跡地は、現在、奈良市立若草中学校の敷地となっており、往時の姿を偲ばせる遺構はほとんど残っていない 1 。中学校の建設が、文化財保護法が制定される以前の昭和二十二年(1948年)に行われたため、大規模な学術的発掘調査が行われることなく、多くの遺構が失われてしまったのである 6 。その意味で、多聞山城は文献記録の中にその栄華を留める「幻の城」といえる。
しかし、その後数度にわたって行われた限定的な発掘調査は、この幻の城の実像に迫るいくつかの重要な手がかりをもたらした。調査では、井戸の跡や、墓石などの石造物を転用して作られた石組の溝などが発見されている 5 。
最も重要な発見は、多量の瓦の出土である。その中には、寺社の瓦を流用するのではなく、多聞山城のためだけに専門に焼かれた「城郭専用瓦」が含まれていた 6 。これは、城郭建築のために瓦を大量生産した日本最古級の例であり、久秀がこの城にいかに並外れた熱意と先進的な計画性をもって臨んでいたかを物語る、動かぬ物証である。これらの考古学的発見は、アルメイダが残した記録の信憑性を裏付けると共に、文献だけでは知り得なかった城の具体的な姿を我々に示してくれる。我々は、失われた部分の大きさを認識しつつも、残された文献と物証という二つの異なる種類の「断片」を丹念に再構成していくことでしか、その全体像に迫ることはできないのである。
結論:幻の名城が語るもの
永禄八年(1565年)の「多聞山城御殿整備」は、単なる一城郭の完成を意味する出来事ではなかった。それは、松永久秀という稀代の梟雄が描いた天下への野心、そして戦国時代という大きな転換期そのものを象徴する、光と影のモニュメントであった。
第一に、多聞山城は、城の機能が純粋な軍事拠点から、政治・経済・文化を統べる「首都」へと変貌する、歴史的な転換点を印すものであった。寺社勢力を見下ろす立地、天守や多聞櫓といった革新的な構造、そして宣教師が「天国」と称した壮麗な御殿は、武力だけでなく文化的な権威によって人々を支配しようとする、新たな統治の形を提示した。
第二に、この城の栄華と悲劇は、松永久秀という人物の二面性を凝縮している。当代最高の文化と技術を結集して絢爛たる御殿を築き上げた創造者としての顔と、そのわずか二年後に、日本仏教の至宝である東大寺大仏殿を戦火に巻き込む結果を招いた破壊者としての顔。この両極端なイメージこそが、下克上の時代を全力で駆け抜けた彼の本質であったのかもしれない。
物理的には地上から姿を消した幻の名城、多聞山城。しかし、その革新的な思想は織田信長の安土城に受け継がれ、日本の近世城郭の発展の礎となった。松永久秀が築き、そして失ったこの城は、一人の武将の栄枯盛衰の物語を超えて、戦国の世が終わり、新たな統一国家が生まれ出るための、重要な産みの苦しみを内包していた。その歴史的意義は、今なお色褪せることはない。
引用文献
- 【奈良県】多聞山城の歴史 大和国支配のために松永久秀が築城、のちの近世城郭の先がけとなった! | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/749
- 戦国の天下人 三好長慶と阿波三好家 https://ailand.or.jp/wp-content/uploads/2023/03/1521b7be191e0a21ebc56d430720998f.pdf
- 永禄の変 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E7%A6%84%E3%81%AE%E5%A4%89
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- [合戦解説] 10分でわかる東大寺の戦い 「大仏殿炎上!松永久秀と三好三人衆が激突」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=5y8Oh_pTX5M
- 松永久秀はなぜ、織田信長に裏切りの罪を許されたのか? - WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/7738
- [多聞山城] - 城びと https://shirobito.jp/castle/2113
- 『麒麟がくる』でようやく汚名を晴らせるか 松永弾正久秀「三大悪行」の誤解 - note https://note.com/maruyomi4049/n/n83f1b481045f
- 丹波戦国史 第三章 ~三好家の衰退と荻野直正の台頭~ https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanbasengoku3.html
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- 大仏炎上と信長の上洛。松永久秀(6) - 大和徒然草子 https://www.yamatotsurezure.com/entry/hisahide06
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