大坂町奉行職設置(1615)
1615年大坂夏の陣で豊臣家滅亡後、大坂は焦土と化す。徳川幕府は松平忠明による暫定統治を経て、1619年に大坂城代と町奉行を設置し、直轄地として再建・支配。
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灰燼からの再生と支配の確立 ― 大坂町奉行職設置に至る激動の軌跡(1615-1619)
序章:落城 ― 豊臣大坂の終焉
慶長20年(1615年)5月7日の夜、かつて天下にその威容を誇った大坂城は、燃え盛る炎にその身を包まれていた。徳川軍の内通者が本丸台所で放った火は、瞬く間に城内の建造物を舐め尽くし、豊臣秀吉が築いた壮麗な天守閣をも紅蓮の焔へと変えていた 1 。城内の籾蔵では、もはやこれまでと覚悟を決めた豊臣秀頼が、母・淀殿らと共に自害して果てた 2 。ここに豊臣宗家は滅亡し、秀吉が一代で築き上げた巨大都市・大坂は、その象徴たる城と共に物理的にも精神的にも終焉を迎えたのである。
この焼け野原から、いかにして後に「天下の台所」と称される近世最大の経済都市が再生したのか。そして、その新たな支配体制はどのようにして構築されたのか。一般に「大坂町奉行職設置(1615年)」として知られる事象は、この灰燼からの再生と新たな支配体制確立という激動のプロセスの中で、果たしてどのような意味を持つのであろうか。本報告書は、豊臣大坂の落日から徳川による新体制の確立に至るまでの日々を時系列に沿って詳細に追跡し、大坂町奉行設置の真の歴史的意義を解き明かすものである。その過程で、設置年が通説の1615年ではなく、4年後の1619年であったという事実が、この変革の本質を理解する上で極めて重要な鍵となることを明らかにしていく。
第一部:戦乱前夜の大坂
第一章:豊臣秀吉が築いた巨大城塞都市
豊臣秀吉による大坂の都市建設は、単なる城造りに留まらなかった。それは、来るべき統一国家の中心地を創造するという壮大な構想に基づいていた。織田信長を10年にわたり苦しめた石山本願寺の跡地という戦略的要衝に、秀吉は1583年(天正11年)より築城を開始した 5 。この地は、淀川水系と瀬戸内海航路の結節点であり、日本の物流を扼する絶好の立地であった 8 。秀吉の構想は、この地を軍事拠点であると同時に、政治・経済の中心地とすることにあった 9 。
その構想を具現化したのが、城下町全体を巨大な堀と土塁で囲い込む「惣構(そうがまえ)」の建設である 10 。これにより、大坂は城と町が一体となった巨大な要塞都市と化した。惣構の内部では、武家地と町人地が一体的に設計され、計画的な都市開発が進められた 10 。特筆すべきは、碁盤の目状に整備された街路や、建物の背中合わせに設けられた下水溝「背割下水(太閤下水)」といった、当時としては極めて先進的な都市インフラが整備された点である 9 。
秀吉は、ハード面の整備に留まらず、ソフト面でも大坂の繁栄を企図した。彼は、当時すでに経済都市として栄えていた堺や京都の豪商たちを大坂に積極的に移住させ、地子(土地税)を免除するなどの重商政策を展開した 12 。これにより、大坂には全国から商工業者が集まり、経済活動が活発化した。秀吉という絶対的な権力者の下で、町衆は経済活動の主たる担い手として、ある程度の自治を享受していた。この気風は「天下の町人」という言葉にも表れており、後の徳川幕府による上意下達の統治体制とは対照的な都市の姿を形成していた 9 。
しかし、この繁栄は秀吉個人の強力なリーダーシップに依存するものであった 16 。彼の死後、幼い秀頼を戴く豊臣政権は、大野治長ら一部の側近と、全国に散らばる豊臣恩顧の大名という、結束の弱い基盤の上に成り立っていた 17 。この脆弱性が、やがて来る徳川との最終対決において、豊臣方の運命を決定づけることになる。
第二章:徳川の天下と大坂の存在
1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦いにおける徳川家康の勝利は、日本の権力構造を決定的に変えた。西軍の総大将であった毛利輝元が庇護していた豊臣秀頼は、戦後、摂津・河内・和泉の約65万石を領する一大名の地位に転落させられた 17 。しかし、依然として秀頼は秀吉の遺児であり、家康にとっては主筋にあたる存在として、その権威は無視できないものであった 19 。
家康は、征夷大将軍となり江戸に幕府を開いた後も、大坂に対する警戒を緩めなかった。1611年(慶長16年)には京都の二条城で秀頼との会見を実現させ、徳川の権威を内外に示威した 3 。その一方で、伊賀上野城の藤堂高虎など、信頼の置ける譜代大名を大坂周辺に配置し、物理的な包囲網を着々と築き上げていった 21 。さらに、豊臣家にとって最後の支えともいえる加藤清正、浅野長政といった豊臣恩顧の大名が次々と世を去ったことで、大坂は政治的にますます孤立を深めていった 3 。
そして1614年(慶長19年)、家康は大坂との決着をつけるための口実を探し始める。その標的とされたのが、豊臣家が再建した京都・方広寺の大仏殿の鐘に刻まれた銘文であった。家康は「国家安康」「君臣豊楽」の文字に難癖をつけ、これを徳川家に対する呪詛であると断じた 22 。そして和解の条件として、秀頼の江戸参勤や国替えなど、豊臣方には到底受け入れがたい要求を突きつけた 22 。これにより、豊臣方は徳川との軍事対決以外の選択肢を失い、全国から浪人を集めて籠城の準備を始める。大坂の陣は、徳川による豊臣家殲滅を目的とした、周到に計画された戦争だったのである。
第二部:大坂、灰燼に帰す
豊臣大坂の終焉と、徳川による新体制構築への道筋は、1614年の開戦から1619年の町奉行設置に至るまでの約5年間に凝縮されている。この間の出来事を時系列で把握することは、一連の変革を理解する上で不可欠である。
年月 |
主要な出来事 |
概要 |
慶長19年 (1614) |
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10月 |
徳川家康、大坂への出陣を命令 |
方広寺鐘銘事件を口実に、諸大名に動員令を発する。 |
11月 |
大坂冬の陣 開戦 |
徳川方約20万の軍勢が大坂城を包囲 24 。 |
12月 |
真田丸の攻防 |
豊臣方の真田信繁(幸村)が築いた出城「真田丸」で徳川方が大敗 3 。 |
12月 |
和議成立 |
家康は力攻めを断念し、大砲による心理戦の末、和議を締結 3 。 |
慶長20年/元和元年 (1615) |
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1月 |
堀の埋め立て |
徳川方は和議の条件を拡大解釈し、外堀のみならず内堀まで埋め立て、大坂城を無力化 19 。 |
4月 |
大坂夏の陣 開戦 |
豊臣方が浪人の再雇用や堀の掘り返しを始めたことを口実に、徳川方が再度出兵 24 。 |
5月6日 |
道明寺・八尾若江の戦い |
豊臣方の後藤基次、木村重成らが討死 1 。 |
5月7日 |
天王寺・岡山口の戦い、 大坂城落城 |
真田信繁が家康本陣に突撃し討死。城は炎上し、秀頼・淀殿が自害、豊臣家滅亡 1 。 |
5月 |
論功行賞と松平忠明の入封 |
家康は戦後処理を行い、戦功第一とされた松平忠明を摂津大坂10万石の藩主とし、復興を命じる 26 。 |
7月 |
元和偃武 、一国一城令、武家諸法度 |
幕府は年号を「元和」と改め、泰平の世の到来を宣言。大名統制策を矢継ぎ早に発布 22 。 |
元和2年 (1616) |
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4月 |
徳川家康、死去 |
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元和3年 (1617) |
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- |
堀川開削、都市復興の本格化 |
松平忠明の主導で、道頓堀、京町堀、江戸堀などの開削が進む 26 。東照宮も建立される 30 。 |
元和5年 (1619) |
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8月 |
松平忠明、大和郡山へ移封 |
大坂藩は廃止され、大坂は幕府直轄地(天領)となる 26 。 |
8月 |
大坂城代・大坂町奉行の設置 |
初代城代に内藤信正、初代東西町奉行に久貝正俊・嶋田直時が任命される 31 。 |
第三章:大坂の陣 ― 二つの戦役の時系列
大坂の陣は、冬と夏の二つの戦役に分けられる。慶長19年(1614年)11月に始まった冬の陣では、家康率いる約20万の大軍が大坂城を完全包囲した 24 。徳川方は圧倒的な兵力差を恃み総攻撃を仕掛けるが、城の南側に築かれた出城「真田丸」で、真田信繁(幸村)率いる豊臣方の決死の抵抗にあい、甚大な被害を出して敗退する 3 。この敗北により、家康は難攻不落の大坂城を力攻めで落とすことを断念。戦術を転換し、イギリスやオランダから購入した最新鋭の大砲を用いて、昼夜を問わず城内へ砲撃を加え続けた 3 。この砲撃は豊臣方の戦意を削ぎ、特に本丸に着弾し淀殿の侍女が死亡したことで、強硬派であった淀殿の心を折り、和議へと傾かせた 3 。
12月に成立した和議の条件は、本丸を残して二の丸・三の丸を破壊し、惣構の堀を埋めるというものであった 3 。しかし、徳川方はこの約束を反故にする。豊臣方が担当する堀の埋め立てが遅々として進まないのを尻目に、徳川方は担当区域の外堀を驚異的な速度で埋め立てると、そのまま豊臣方の担当区域にまで侵入し、抗議を無視して内堀までも埋め尽くしてしまった 19 。これにより、大坂城は堀という最大の防御機能を失い、裸同然の無防備な城と化したのである。
翌慶長20年(1615年)4月、徳川方は豊臣方が堀を掘り返し始めたことを口実に和議の破棄を宣言し、夏の陣が勃発する。堀を失った豊臣方は城外での決戦を余儀なくされた 22 。しかし、兵力で劣る豊臣方は各地で敗北を重ねる。5月6日の道明寺の戦いでは後藤基次が、八尾・若江の戦いでは木村重成が奮戦の末に討死した 1 。翌7日、最後の決戦となった天王寺・岡山口の戦いでは、真田信繁が徳川家康の本陣に三度にわたる壮絶な突撃を敢行し、家康をあと一歩のところまで追い詰めるも、力尽き討ち取られた 1 。信繁の死によって豊臣方の組織的抵抗は終わりを告げ、徳川軍は城内へとなだれ込んだ。秀頼の正室であり家康の孫娘である千姫による助命嘆願も空しく、秀頼と淀殿は燃え盛る城内で自害。ここに豊臣家は完全に滅亡した 3 。
第四章:焦土と化した都市
大坂夏の陣は、豊臣家の滅亡のみならず、大坂という都市そのものを物理的に破壊し尽くした。戦闘は城内だけに留まらなかった。豊臣方の大野治房は、徳川方の兵站基地となっていた堺の町を焼き討ちにし、繁栄を極めた自治都市は灰燼に帰した 1 。また、大坂市街地でも激しい戦闘が繰り広げられ、天満や船場といった町人地も戦火に焼かれた 25 。
大坂城も例外ではなかった。豊臣の栄華を象徴した壮大な天守閣をはじめ、城内のほとんどの建造物がこの戦いで焼失した 1 。戦いが終わった時、そこに残されたのは、黒焦げになった建物の残骸と、累々と横たわる死体だけであった。戦火を逃れた町人たちは四散し、都市機能は完全に麻痺状態に陥った 22 。徳川幕府は、この戦いの終結をもって元号を「元和」と改め、150年近く続いた戦乱の世の終わりを告げる「元和偃武」を宣言した 22 。しかし、その平和の礎となった大坂は、文字通りゼロからの、いやマイナスからの再出発を余儀なくされたのである。
第三部:復興と新体制への移行
第五章:暫定統治者・松平忠明の登場(1615-1619年)
大坂落城後、徳川家康は直ちに戦後処理に着手した。京都二条城で行われた論功行賞において、夏の陣での戦功第一と評価されたのは、家康の外孫にあたる松平忠明であった 26 。家康は忠明の才幹を高く評価しており、彼に摂津・河内などで10万石を与え、大坂城主として入封させた 26 。ここに、徳川幕府の直轄地(天領)ではなく、一時的に譜代大名(親藩格)が統治する「大坂藩」が成立した。これは、荒廃しきった大坂の復興という未曾有の大事業を、強力な権限を持つ一人の指揮官に委ねるという、戦時体制の延長線上にある暫定的な措置であった 26 。
忠明に与えられた使命は、大坂の再生であった。彼は、徳川幕府によって後に再建される大坂城の普請よりも、戦火で破壊された市街地と農村地帯の復興を最優先課題とした 26 。その手腕は驚くべきものであった。
第一に、彼は後の「水の都・大坂」の基盤となる堀川の開削を精力的に推進した。大坂の陣で中断していた道頓堀の工事を再開・完成させ、戦死した町人・成安道頓の功績を称えてその名を冠した逸話は、彼の為政者としての度量を示している 29。さらに、京町堀や江戸堀といった新たな水路も次々と開削し、水運ネットワークの再構築を図った 26。
第二に、彼は大胆な都市計画を実施した。市中に散在していた寺社を郊外の特定地域(現在の天王寺区下寺町など)に移転させて広大な土地を確保し、新たな町割りを行った 26。また、京都の伏見から町人を集団移住させるなど、都市の再活性化にも努めた。現在も大阪の地名に残る、南北の道を「筋」、東西の道を「通」と命名したのも忠明の功績である 9。
これらの物理的な復興と並行して、忠明は人心の掌握にも意を砕いた。大坂の民衆に残る豊臣家への思慕の念を払拭し、徳川の治世を浸透させるため、元和3年(1617年)には徳川家康を祀る「東照宮」を天満の地に建立した 30 。松平忠明による4年間の統治は、単なる復旧作業に留まらず、豊臣の色を消し去り、徳川の支配を受け入れるための新たな都市基盤と社会秩序を創造する、極めて重要な移行期間だったのである。
第六章:幕府直轄地への道
元和5年(1619年)、大坂の復興に目覚ましい功績を挙げた松平忠明は、突如として大和郡山12万石への加増移封を命じられた 26 。これにより、わずか4年間で「大坂藩」は消滅し、大坂は徳川幕府の直轄地(天領)へと移行することになった。この決定の背後には、大坂という都市の戦略的重要性を熟知した幕府の深謀遠慮があった。
幕府が大坂藩を存続させなかった理由は、主に三点考えられる。
第一に、経済的掌握の必要性である。松平忠明の復興事業により、大坂は再び全国経済の中心地として蘇る兆しを見せていた。この巨大な富の源泉を、一介の大名ではなく幕府が直接管理下に置くことで、全国の物流と財政をコントロールしようという狙いがあった 10。
第二に、軍事的要衝としての価値である。西国には、関ヶ原で敵対した毛利氏や島津氏など、依然として有力な外様大名が多数存在していた。彼らを監視し、有事の際には迅速に対応するための軍事拠点として、将軍直轄の堅固な大坂城を維持する必要があった 43。
第三に、中央集権体制の徹底である。大坂は、豊臣家の旧本拠地という極めて象徴的な土地である。この地に将軍家以外の強力な権力者が存在することは、幕府の権威を相対化させかねない。大坂を天領とすることで、徳川による一元的な支配体制を盤石にする意図があったと考えられる。
松平忠明の統治は、戦国的な武将の強力なリーダーシップによって荒廃した都市を再生させるという役割を担っていた。しかし、彼が整備した碁盤の目状の町割りや機能的な水路網は、結果として、その後の幕府官僚による効率的な都市管理を可能にするためのインフラとなった。彼の仕事は、更地になった土地に、徳川幕府という新しい統治システムが円滑に導入されるための下準備であったと評価できる。大坂藩の廃止と天領化は、戦国的な「個人の力量に依存する統治」から、近世的な「システムと制度による統治」へと、都市支配のあり方が決定的に転換した瞬間であった。
第四部:大坂町奉行の誕生
豊臣時代と徳川時代では、大坂の統治体制はその根幹から異なっていた。その変革の象徴こそが、大坂町奉行の設置であった。両時代の統治構造を比較することで、この制度が持つ歴史的な意義がより鮮明になる。
比較項目 |
豊臣秀吉時代 (~1615年) |
徳川幕府初期 (1619年~) |
最高統治機関 |
豊臣家(秀吉個人に権力が集中) |
江戸幕府(老中) |
大坂における統治主体 |
(明確な役職なし) 秀吉の直轄支配 |
大坂城代(軍事・監察) 大坂町奉行(民政・経済) |
都市運営の仕組み |
町衆との協調・連携による運営 |
幕府役人による上意下達(トップダウン) |
町衆の位置づけ |
自治的な経済活動のパートナー |
支配・管理の対象(被治者) |
警察・司法権 |
不明確(惣構による自衛・自警が主体) |
大坂町奉行所が一元的に掌握 |
経済政策 |
自由経済的(地子免除、商人の誘致) |
統制経済的(株仲間公認、運上金徴収など) |
第七章:元和五年(1619年)、新時代の統治機関
松平忠明が去り、大坂が天領となった元和5年(1619年)8月、徳川幕府は新たな統治機構を設置した。それが「大坂城代」と「大坂町奉行」である 26 。この二つの重職が同時に設置されたことは、幕府の大坂支配戦略を理解する上で極めて重要である。
初代大坂城代には、伏見城代から転任する形で内藤信正が就任した 33 。大坂城代の主たる任務は、再建された大坂城の守衛と管理、そして西国に睨みを利かせ、諸大名の動向を監視することであった 33 。この職には、5万石以上の譜代大名が任命されるのが通例であり、幕府の軍事・監察における西日本の最高責任者であった。
一方で、大坂町奉行は、大坂市中の民政全般を担う実務のトップとして設置された。こちらは旗本から任命される役職であり、東西の二つの奉行所が置かれた 31 。この城代と町奉行の並立は、幕府の大坂に対する二元的な認識、すなわち「潜在的な脅威の源泉」と「莫大な利益の源泉」という認識の表れであった。大坂城代は、豊臣の旧都という土地が持つ政治的・軍事的リスクを封じ込めるための「蓋」であり、大坂町奉行は、全国経済の中心地から生まれる富を効率的に吸い上げ、秩序を維持するための「ポンプ」であった。この軍事力による威圧を背景とすることで、町奉行はその強力な統治権を初めて十全に行使することができた。この「軍事監視」と「経済管理」の二重支配体制こそが、徳川流大坂統治の本質だったのである。
第八章:町奉行の権限と職務
初代大坂町奉行には、東町奉行に久貝正俊(くがい まさとし)、西町奉行に嶋田直時(しまだ なおとき)が任命された 31 。
久貝正俊は、徳川秀忠の小姓としてキャリアをスタートさせ、関ヶ原の戦いや大坂の陣で武功を挙げた歴戦の武将であった 49 。町奉行就任に伴い加増を受け、最終的には5000石を超える大身旗本となり、1648年に亡くなるまで約30年間にわたりその職を務め上げた 31 。嶋田直時もまた、大坂の陣に従軍した旗本であり、後に堺奉行を兼任するなど、幕府の信頼が厚い人物であった 52 。
彼らに与えられた職務と権限は、極めて広範かつ強力なものであった。
第一に、北組・南組・天満組からなる「大坂三郷」と総称された市街地の民政全般を支配した 8。これには、行政事務はもちろんのこと、治安維持、犯罪捜査、裁判(公事方)、そして消防の指揮といった、現代でいう警察、裁判所、消防、市役所の機能をすべて包含していた 53。
第二に、その管轄範囲は大坂市中に留まらなかった。摂津・河内・和泉・播磨の4カ国に散在する幕府領における訴訟の取り扱いや、淀川水系の河川管理、さらには畿内・西国の寺社支配に至るまで、広域にわたる権限を有していた 53。
第三に、経済監督権も重要であった。時代が下るにつれて、全国の藩が年貢米や特産物を換金するために設置した蔵屋敷の監督や、糸割符仲間といった特権商人の統制など、大坂経済全体に関わる業務が職務に加えられていった 53。
彼らは「町触(まちぶれ)」と呼ばれる法令を発布し、都市の隅々にまで幕府の統制を及ぼしていった 58 。その内容は、商業活動のルールから、住民の日常生活の細かな作法に至るまで多岐にわたった 59 。こうして、豊臣時代に育まれた町衆の自治的な気風は、奉行所による厳格な管理体制の下へと組み込まれていったのである。
結論:戦国から泰平へ ― 大坂統治の変革が意味するもの
大坂町奉行職の設置は、1615年の大坂落城という物理的破壊から始まった、4年間にわたる都市再生と支配体制再構築のプロセスの最終到達点であった。それは単なる一役職の設置に留まらず、日本の歴史が戦国という時代を完全に終え、泰平の世へと移行したことを象徴する画期的な出来事であった。
この一連の変革は、豊臣秀吉が体現した個人的な武威とカリスマによる統治から、徳川幕府が確立した法と官僚機構によるシステム統治への、決定的なパラダイムシフトを意味していた。松平忠明による暫定統治は、その移行を円滑に進めるための重要な緩衝期間であり、物理的な復興と社会秩序の再編を通じて、新たな支配体制の土台を築いた。そして1619年、大坂城代という軍事的な重石と、大坂町奉行という行政的な統制網が同時に導入されることで、徳川による大坂支配は盤石のものとなった。
豊臣時代の自由闊達な「自治都市」は、徳川の治世下で厳格に管理された「経済拠点」へとその性格を変貌させた。しかし、この安定した統治基盤と、松平忠明が築いた優れた都市インフラがあったからこそ、大坂はその後「天下の台所」として未曾有の経済的繁栄を遂げることができたのである。大坂町奉行所は、その巨大な経済都市を250年以上にわたって支え続け、幕藩体制の根幹をなす重要な柱の一つとなった。灰燼の中から再生し、新たな支配の下で発展を遂げた大坂の物語は、戦乱の終焉と近世社会の幕開けを、何よりも雄弁に物語っている。
引用文献
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- 大阪冬の陣・夏の陣をわかりやすく解説!徳川家康は豊臣を滅ぼす気はなかった!? https://sengokubanashi.net/history/osakanojin/
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- 「大坂の陣(夏の陣/冬の陣)」豊臣 VS 徳川の大決戦をまとめてみました | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/527
- 大阪の今を紹介! OSAKA 文化力 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/050.html
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- 大坂冬の陣/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/59640/
- 太平の世へ!「徳川家康」の国家戦略 https://id.sankei.jp/wave/resume/%E5%A4%AA%E5%B9%B3%E3%81%AE%E4%B8%96%E3%81%B8%EF%BC%81%E3%80%8C%E5%BE%B3%E5%B7%9D%E5%AE%B6%E5%BA%B7%E3%80%8D%E3%81%AE%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E6%88%A6%E7%95%A5.pdf
- 関ヶ原後に「大坂」包囲網を築いた家康の知略 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/22951
- 大坂の陣|国史大辞典・世界大百科事典・日本国語大辞典 - ジャパンナレッジ https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=63
- 戦国時代最後の戦い「大坂の陣」とは ①開戦へ - 城びと https://shirobito.jp/article/949
- 「大坂冬の陣・夏の陣」とは?|秀頼や茶々を自害に追い込み、豊臣家を滅亡させた、家康の「大坂の陣」【日本史事件録】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト - Part 2 https://serai.jp/hobby/1164184/2
- 大坂の陣 https://www.asahi.co.jp/rekishi/04-09-04/01.htm
- 豊臣家の滅亡後、大坂を任された家康の外孫「松平忠明」 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/172
- 第48話 〜松平忠明 - ここまで知らなかった!なにわ大坂をつくった100人=足跡を訪ねて=|関西・大阪21世紀協会 https://www.osaka21.or.jp/web_magazine/osaka100/048.html
- 【高校日本史B】「家康と秀忠の大名統制」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12805/point-2/
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