最終更新日 2025-10-08

大多喜城改修(1590)

天正18年、家康の関東移封に伴い、本多忠勝が対里見氏の要衝として大多喜城へ。城を近世城郭へ大改修し、徳川の支配を房総半島に確立した。
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天正十八年の地殻変動と大多喜城の新生:徳川家康の関東支配戦略における一考察

序章:天正十八年、天下統一の奔流

天正十八年(1590年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。天下統一事業の最終段階にあった関白・豊臣秀吉は、その権威を全国に行き渡らせるべく、大名間の私的な戦闘を禁じる「惣無事令」を発令していた 1 。この新たな秩序に最後まで公然と服従しなかったのが、関東に広大な領国を築き、百年にわたり覇を唱えてきた後北条氏であった。秀吉は、北条氏家臣による真田領・名胡桃城の奪取という惣無事令違反を口実に、全国の大名を動員した後北条氏討伐の軍を発する 2 。これは単なる一勢力の討伐ではなく、秀吉が構築しようとする中央集権的な「公儀」の秩序に、戦国的な独立性を維持しようとする旧来の勢力が最終的に組み伏せられる、時代の分水嶺となる戦いであった。

この歴史的事業において、豊臣政権下で最大の実力者であった徳川家康は、極めて重要な、そして複雑な立場に置かれていた。秀吉に臣従し、東海地方に広大な領地を持つ家康は、小田原征伐において豊臣軍の先鋒という重責を担う 1 。しかしその一方で、秀吉は家康の強大な力を常に警戒しており、両者の間には見えざる緊張関係が存在していた 3 。かくして、1590年の関東は、天下統一の奔流が渦巻く巨大な舞台となり、その後の日本の運命を決定づける地殻変動が始まろうとしていた。本報告書で詳述する「大多喜城改修」は、この巨大な歴史のうねりの中で、必然的に生起した一つの象徴的な事象なのである。

第一章:小田原征伐と関東の地殻変動(1590年2月~8月)

豊臣軍の進撃と包囲網の完成

天正十八年(1590年)2月、秀吉の号令一下、総勢20万を超えるとも言われる大軍勢が、後北条氏の本拠地・小田原城を目指して進撃を開始した 1 。徳川家康率いる軍勢もその一翼を担い、東海道を進む主力軍として北条方の支城攻略に戦功を重ねていく。3月27日、秀吉自身が沼津三枚橋城に着陣すると、29日には徳川・豊臣秀次軍が箱根の要衝・山中城を、織田信雄軍が韮山城を攻撃し、北条氏の防衛線を次々と突破していった 5

4月に入ると、豊臣軍本隊と徳川家康軍は小田原城を完全に包囲するに至る 2 。秀吉は、小田原城を見下ろす石垣山に城を築き、長期戦の構えを明確に示す。時を同じくして、北陸道から関東入りした前田利家・上杉景勝らの北方隊も、上野国や武蔵国の北条方支城を攻略。6月23日には、北条氏照の居城であった八王子城を一日で陥落させ、北条氏の支配網を根底から解体していった 2 。小田原城は完全に孤立し、城内では「小田原評定」と揶揄される無益な議論が繰り返されるのみであった 6

徳川家康への関東移封内示

この小田原城包囲の最中である5月27日、秀吉は家康に対し、戦後の論功行賞として、後北条氏の旧領である関八州を与えるという内示を下したとされる 1 。これは、家康の多大な戦功を賞するという表向きの理由とは裏腹に、彼を豊臣政権の中枢である京・大坂から遠ざけ、その強大な軍事力と経済力を削ごうとする秀吉の深謀遠慮があった 7 。東海五カ国という先祖伝来の地を離れ、旧敵の領地であった未開の関東へ移ることは、家康にとって決して手放しで喜べるものではなかったが、秀吉の圧倒的な権威の前には、これを受け入れざるを得なかった。

後北条氏の滅亡と関東の権力空白

三ヶ月にわたる籠城の末、ついに後北条氏は降伏を決断する。7月5日、当主の北条氏直が降伏し、小田原城は開城。父の氏政と叔父の氏照は、7月11日に切腹を命じられ、ここに戦国大名・後北条氏は滅亡した 1 。これにより、約百年にわたり関東に君臨した巨大な権力は消滅し、この地域に広大な権力の空白地帯が生まれた。

秀吉は直ちに戦後処理、すなわち「関東仕置」に着手する。家康の関東移封が正式に発表され、駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の旧領に代わり、伊豆・相模・武蔵・上総・下総・上野の六カ国が与えられた 6 。この決定が、房総半島の運命、そして大多喜城の未来を大きく左右することになる。

第二章:房総の雄、里見氏の蹉跌(1590年4月~8月)

大多喜城の旧支配者であった里見氏は、この小田原征伐という時代の奔流の中で、大きな蹉跌を経験することになる。これが、本多忠勝が大多喜城へ入城する直接的な契機となった。

小田原征伐への参陣と独自の軍事行動

安房国を本拠とする里見氏当主・里見義康も、秀吉の動員令に応じ、豊臣方として小田原征伐に参陣した 2 。しかし、義康は秀吉軍に合流する過程で、戦国大名としての旧来の慣習に従い、独自の軍事行動を展開する。天正十八年(1590年)4月初旬、北条方の支配下にあった下総国や相模国三浦郡へ侵攻したのである 2 。さらに、北条領であった上総国富田郷などに対し、里見氏の名において軍勢による乱暴狼藉を禁じ、その地域を保護することを約束する独自の禁制(証文)を発給した 10

惣無事令違反の認定と上総国の没収

この里見氏の行動は、秀吉が定めた惣無事令に真っ向から違反するものであった。里見氏の行動の背景には、単なる領土拡大欲だけでなく、長年の宿敵であった北条氏が滅亡するこの機に乗じて、房総半島における自勢力の優位性を既成事実化しようとする、戦国大名としての伝統的な思考に基づく戦略があったと考えられる。独自の禁制発給は、自らがこの地域の新たな支配者であることを宣言する行為に他ならなかった。

しかし、彼らは秀吉が構築しようとしていた新しい時代の秩序を理解していなかった。惣無事令は、各大名が私的に領土の境界を変更することを一切認めず、全ての裁定権を秀吉という「公儀」に集中させることを目的としていた 1 。したがって、里見氏の行動は、秀吉の定めたルールを無視し、その権威に挑戦する行為と見なされた。結果として、秀吉の代理人であった浅野長政らによってその罪を厳しく追及され、惣無事令違反が認定された 10

その処罰として、里見氏は先祖伝来の地であり、房総半島における勢力基盤であった上総国を没収され、安房一国へと減封されることとなった 9 。これにより、大多喜城を含む上総国は主を失い、新たな支配者を待つ土地となったのである。里見氏は、旧時代の論理に固執したために新時代の秩序に適応できず、その勢力を大きく削がれる結果となった。これは、戦国時代の終焉を象徴する出来事の一つであった。

第三章:徳川家康の関東入府と房総半島戦略(1590年8月~)

天正十八年(1590年)8月1日、徳川家康は新たな領国の中心地として江戸城に入った 6 。広大な関八州を与えられたものの、その統治は決して容易ではなかった。当時の江戸は湿地帯が広がる寂れた土地であり 6 、領内には北条氏の旧臣や土着の国人衆がいまだ多数存在し、一揆の危険性もはらんでいた 7 。さらに、北には奥州の雄・伊達政宗が控え 11 、南の房総半島には、牙を抜かれたとはいえ、依然として安房一国を領する里見氏が勢力を保っていた 12

戦略的家臣配置による支配体制の構築

家康は、この広大で不安定な新領国を安定させるため、権力の空白を埋めるべく直ちに知行割(家臣の配置)に着手した 14 。その配置は、江戸を中心とした防衛ネットワークを構築するという、極めて戦略的な意図に基づいていた。特に、旧領国との境界や、他の大大名と接する戦略的要衝には、最も信頼の厚い譜代の重臣たちを配置したのである 2

  • 井伊直政 には上野国箕輪城12万石を与え、北関東の要として、真田氏や上杉氏、さらには信濃方面への備えとした。
  • 榊原康政 には上野国館林城10万石を与え、常陸国の佐竹氏や下野国の宇都宮氏、ひいては東北方面への警戒を担わせた。
  • そして、徳川四天王随一の猛将と謳われた 本多忠勝 には、上総国大多喜城10万石という破格の待遇を与え、対里見氏の最前線に配置したのである 2

房総半島戦略の要石としての大多喜城

家康は、房総半島が江戸湾の入り口を扼する、軍事的にも海上交通上も極めて重要な地であることを見抜いていた 13 。里見氏を安房一国に封じ込め、彼らが江戸湾へ影響力を行使することを防ぐことが、江戸の安全保障にとって不可欠の課題であった 11 。本多忠勝を大多喜に配置したことには、この房総戦略の核心ともいえる、多重的な意味が込められていた。

第一に、それは 徳川軍団最強の武威による示威行動 であった。「家康に過ぎたるもの」と敵将にまで賞賛された忠勝の武名は、天下に轟いていた 17 。彼を里見氏の喉元に配置すること自体が、里見氏や上総の国人衆に対する「徳川に逆らうことは許さない」という強力な政治的メッセージとなった。

第二に、それは 房総半島の軍事・政治的再編の拠点確保 を意味した。里見氏から没収された上総国は、新たな支配秩序を迅速に構築する必要があった。ここに10万石という大領を与えられた忠勝が入ることで、この地域を軍事的・行政的に掌握し、徳川の領国として完全に統合する核となることが期待されたのである 18

第三に、それは 江戸湾東岸の制海権確保 という、より広範な戦略の一環であった。大多喜は内陸に位置するが、ここを拠点として上総の沿岸部を支配下に置くことで、里見氏の水軍が江戸湾へ侵入するのを陸上から牽制・阻止することが可能となる。これは、家康が後に進める利根川東遷事業とも連動し、江戸を中心とした水運ネットワークを防衛する上で、極めて重要な布石であった 11

このように、本多忠勝の大多喜配置は、単なる「里見氏への監視役」という一面的な役割を超え、徳川の関東経営における軍事・政治・経済の要石として、極めて重要な意味を持っていたのである。


表1:徳川家康関東入府時における主要家臣配置表

家臣名

配置場所(城)

石高

戦略的役割・目的

本多忠勝

上総国 大多喜城

10万石

対里見氏の最前線。房総半島の監視と江戸湾東岸の安定化。

榊原康政

上野国 館林城

10万石

北関東の要。対佐竹氏・宇都宮氏への備えと東北方面への警戒。

井伊直政

上野国 箕輪城

12万石

西関東の要。対真田氏・上杉氏への備えと信濃方面への警戒。

酒井家次

下総国 臼井城

3万7千石

印旛沼周辺の支配。対佐竹氏の第二防衛線。

鳥居元忠

下総国 矢作城

4万石

下総中部の支配。江戸への東からの侵攻路の確保。

大久保忠世

相模国 小田原城

4万5千石

旧北条氏本拠地の鎮撫。箱根の関の守り。


第四章:本多忠勝の入城と大多喜城改修(1590年秋~)

本報告書の核心である大多喜城の改修は、本多忠勝がこの地に足を踏み入れた瞬間から始まった。それは、単なる城の修繕ではなく、時代の要請に応じた質的な変革事業であった。

入城当時の大多喜城(小田喜城)

天正十八年(1590年)秋頃、本多忠勝は上総国に入り、当初は万喜城に拠った後、ほどなくして大多喜城へ移ったとされる 2 。忠勝が目にしたであろう当時の城は、「小田喜(おだき)城」あるいは「小滝城」と呼ばれ、石垣を用いず、土塁や切岸、空堀で構成された典型的な中世山城であった 22

この城は、大永元年(1521年)に上総武田氏の一族である真里谷信清によって築かれたのが始まりとされる 22 。その後、房総半島で勢力を拡大した里見氏の重臣・正木氏の拠点となり、対北条氏の最前線として幾多の攻防の舞台となった 22 。天正9年(1581年)に正木氏が謀殺されて以降は、里見氏の直轄地となっていた 22 。夷隅川の蛇行を天然の堀として利用した要害であり、二つの尾根全体を城域とする広大なものではあったが、その構造はあくまで戦時に立てこもるための「砦」としての性格が強く、恒久的な支配拠点としての機能は不十分であった 18

近世城郭への大改修

忠勝は、この中世山城が、10万石の領国を治める新たな支配拠点として、また、いまだ勢力を保つ里見氏への示威の象徴として不十分であると判断し、直ちに近世城郭への大改修に着手した 17

  • 名称の変更 : まず、城の名を旧来の「小田喜」から「大多喜」へと改めたとされる 21 。これは、新たな支配者の到来を領内に広く知らしめる、象徴的な行為であった。
  • 縄張りの再編 : 忠勝は、城の構造を根本から見直した。標高73mの丘陵頂部を本丸とし、山麓に藩主の居館である御殿を置く二の丸を、さらにその外側に三の丸を配置するという、政治と居住の空間を明確に分離した近世的な階層構造の縄張り(城の設計)を計画した 17
  • 天守の建造 : 城の新たな核として、本丸には三層三階(一説に三層四階)の望楼型天守が築かれたとされる 22 。瓦葺きの白亜の天守は、徳川の権威と忠勝の威光を可視化する象徴であり、遠方からもその威容を望むことができた。この天守は、後の天保十三年(1842年)に火災で焼失している 17
  • 防御施設の近代化 : 中世以来の土塁や切岸も、より高く、より急峻に造成し直され、防御力は格段に向上した 17 。現在も本丸跡を囲むように残る土塁は、当時の改修の痕跡を伝える貴重な遺構である 17
  • 兵站機能の確保 : 大軍が長期間籠城することを想定し、兵站機能の確保にも万全が期された。特に、二の丸には巨大な井戸が掘削された。この井戸は周囲約17m、深さ20mにも及び、水が尽きることがなかったことから「底知れずの井戸」と呼ばれた 17 。これは、忠勝の実戦経験に裏打ちされた、極めて実用的な改修であった。
  • 御殿と門の建設 : 二の丸には、藩主の政務と生活の場である御殿が建てられた。その正門として薬医門が設置され、城の格式を高めた(現在、大多喜高校敷地内に移築されている門は、天保年間の火災後に再建されたものである) 17

この一連の改修により、大多喜城は単なる軍事拠点から、政治・経済・軍事を統括する、近世大名の居城にふさわしい姿へと生まれ変わったのである。


表2:大多喜城 改修前後比較表(構造・機能)

比較項目

改修前(里見氏時代:小田喜城)

改修後(本多忠勝時代:大多喜城)

変化の意義

性格

中世城郭(戦闘拠点)

近世城郭(政治・軍事・経済拠点)

支配の質的転換(軍事支配から領国経営へ)

主要構造材

土、木(土塁、切岸、空堀)

土、木、瓦(天守、御殿、石垣は限定的)

恒久的な支配拠点としての建築様式の導入

権威の象徴

なし(巨大な山城であること自体が権威)

天守(視覚的な権威の象徴)

「見せる」ことで支配を正当化する思想の導入

居住空間

限定的(戦時の詰の城)

二の丸御殿(藩主の恒常的な居館)

政治・行政の中心地としての機能が付与された

兵站機能

小規模な井戸群

大井戸(底知れずの井戸)

長期籠城を可能にする兵站能力の飛躍的向上

城下町

未発達

計画的な城下町の整備

軍事拠点から藩の中心都市への発展


第五章:近世城郭「大多喜城」の誕生とその戦略的意義

本多忠勝によって新生した大多喜城は、徳川家康の関東支配戦略において、多岐にわたる重要な役割を果たした。それは、単に堅固な要塞であるに留まらず、新たな時代の支配秩序を体現する装置でもあった。

「見せる城」と「戦う城」の融合

新たに築かれた天守をいただく大多喜城は、まず何よりも「見せる城」としての役割を担っていた。その壮麗な姿は、安房一国に押し込められた里見氏に対する無言の圧力であり、徳川の圧倒的な国力と権威を見せつけるための視覚的な装置であった。後年、この地を訪れたスペインの使節ドン・ロドリゴが、その著書『日本見聞録』の中で、城の内部が金銀で美しく彩られていたと記していることからも、その絢爛さが窺える 17

しかし同時に、大多喜城は徹底して「戦う城」でもあった。堅固な縄張り、強化された土塁と切岸、そして「底知れずの井戸」に象徴される充実した兵站機能は、万が一の里見氏の蜂起や、他の勢力による侵攻を想定した、極めて実戦的な要塞であった。特に、大多喜が房総半島の内陸交通の結節点に位置することから、有事の際にはここを前線基地として軍を展開し、房総半島全域を制圧する戦略的拠点としての機能が期待されていた。

城下町の整備と領国経営の拠点化

忠勝の事業は、城の改修だけに留まらなかった。彼は城の改修と並行して、城の麓に武家屋敷や町人地を計画的に配置した城下町を整備した 28 。これにより、大多喜は単なる軍事拠点から、上総国における政治・経済の中心地へと発展し、大多喜藩10万石の領国経営が軌道に乗ることになる。現在も残る国指定重要文化財の渡辺家住宅など、江戸時代の商家は、忠勝が築いた城下町の繁栄を今に伝えている 27

この城と城下町の一体的な整備は、軍事力による威圧(ハードパワー)と、経済的繁栄による領民の懐柔(ソフトパワー)を組み合わせた、高度な領国経営術であったと言える。城は徳川の武威と権威の象徴として君臨し、城下町は商業の中心地として領民に経済的な利益をもたらす。領民は、新たな支配者がもたらす安定と繁栄を享受することで、旧領主である里見氏への忠誠心よりも、新体制への服従を自発的に選択しやすくなる。このように、大多喜城改修とそれに続く城下町整備は、単なるインフラ整備ではなく、人心掌握を含む包括的な支配体制構築プロジェクトだったのである。

終章:大多喜城改修が映し出す戦国時代の終焉

天正十八年(1590年)に行われた「大多喜城改修」は、単なる一地方における城の改築事業ではない。それは、豊臣秀吉による天下統一の完成、徳川家康による関東経営の始動、そして房総の雄・里見氏の衰退という、三つの巨大な歴史のベクトルが交差する点において発生した、新時代の到来を告げる極めて象徴的な事業であった。

小田原征伐とそれに続く徳川の関東移封は、戦国乱世の終わりと、近世的な統一権力による支配体制の始まりを決定づけた。この大きな時代の転換点において、大多喜城は、城郭そのものの役割が変化していく過渡期の姿を如実に示している。すなわち、武将個人の武勇に頼り、戦時にのみ機能する一時的な戦闘拠点(中世城郭)から、恒久的な行政機構を備え、領国経営の中心となる政治拠点(近世城郭)への質的な転換である。

本多忠勝は、この大多喜城を拠点として関ヶ原の戦いでも武功を挙げ、その功により慶長六年(1601年)に伊勢国桑名へ移封される 19 。大多喜城はその後、忠勝の次男・忠朝が継ぎ、阿部氏、大河内松平氏といった徳川譜代の大名の居城として、房総における徳川支配の拠点であり続け、明治維新を迎えた 17

結論として、1590年の大多喜城改修は、徳川家康の周到な関東支配戦略の一翼を担い、新たな支配秩序を房総の地に可視化し、定着させるための重要な一手であった。それは、戦国という時代が終わりを告げ、江戸という新たな時代が幕を開ける、その黎明期を象徴する歴史的建造物だったのである。

引用文献

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  6. 関東地方の有名な武将をわかりやすく紹介!勢力図もあるよ https://busho.fun/column/kanto-person
  7. 徳川家康はなぜ関東移封されたのか /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/102450/
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  10. さとみ物語・要約版 5章-1 https://www.city.tateyama.chiba.jp/satomi/youyaku/5shou/5shou_1/5shou_1.html
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  22. 【千葉県】大多喜城の歴史 中世と近世が渾然一体となった房総随一 ... https://sengoku-his.com/1985
  23. 大多喜城 | 場所と地図 - 歴史のあと https://rekishidou.com/otakijo/
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  31. 大多喜町の定番モデルコース!自然と歴史も楽しめます - ちば観光ナビ https://maruchiba.jp/course/detail_145.html