大津城築城(1586)
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大津城築城(1586年):豊臣政権の経済戦略と近江支配の転換点
序章:天正14年、天下人の新たな構想
天正14年(1586年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えていた。本能寺の変にて織田信長が斃れてからわずか4年、羽柴秀吉は賎ヶ岳の戦いや小牧・長久手の戦いを経て国内の対抗勢力を次々と屈服させ、前年には関白、そしてこの年には太政大臣に叙任され、名実ともに天下人としての地位を盤石のものとしていた 1 。この時点において、秀吉の視線はもはや国内の敵対勢力を武力で鎮圧することから、統一された国家の恒久的な統治体制と、その根幹をなす経済基盤の構築へと明確に移りつつあった。
この壮大な国家構想の中心に据えられたのが、天正11年(1583年)より築城が開始された大坂城である。秀吉はこの城を単なる軍事拠点としてではなく、日本の新たな政治・経済の中心地と位置づけ、全国的な物流網の再編に乗り出した 3 。本報告で詳述する大津城の築城は、この秀吉のグランドデザインを具現化するための重要な一翼を担うものであった。それは単なる一城郭の建設に留まらず、来るべき統一国家の動脈を整備する国家的なインフラプロジェクトであり、豊臣政権の統治思想そのものを体現する事変だったのである。
第一章:坂本の黄昏、大津の黎明 ― なぜ拠点は移されたのか
1. 明智光秀の坂本城:その栄光と戦略的価値
大津城築城の背景を理解するためには、まずその前身であった坂本城の役割を紐解く必要がある。坂本城は、元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちの後、織田信長がその腹心であった明智光秀に命じて築かせた城である 5 。その主たる目的は、第一に反抗勢力の牙城であった比叡山延暦寺を恒久的に監視・封鎖すること、そして第二に琵琶湖西岸の制海権を掌握し、湖上交通を支配下に置くことにあった 5 。
イエズス会宣教師ルイス・フロイスが「安土城に次いで豪壮華麗」と記したように、坂本城は大小の天守を持つ壮麗な水城であったと伝えられている 5 。しかし、その栄華は長くは続かなかった。天正10年(1582年)、城主の光秀が本能寺の変を引き起こすと、山崎の戦いで秀吉に敗れた光秀の一族郎党はこの城に立て籠もり、壮絶な最期を遂げた 7 。坂本城は、信長の近江支配を象徴する城であると同時に、明智一族滅亡の悲劇の舞台ともなったのである。
2. 秀吉政権下における近江支配の変化と坂本城の役割低下
本能寺の変の後、焼け落ちた坂本城は秀吉の命により丹羽長秀らによって再建され、その後、杉原家次、そして浅野長政(当時は長吉)が城主として入った 8 。しかし、時代は大きく変わっていた。秀吉が近江一国を完全に掌握し、情勢が安定すると、かつて脅威であった比叡山はむしろ保護の対象へと変化した 3 。これにより、延暦寺を監視するという坂本城の最大の軍事的価値は、根本から失われることになったのである 10 。
3. 「大坂」を起点とする新物流網と、結節点「大津」の発見
坂本城の戦略的価値が低下したもう一つの、そしてより決定的な要因は、豊臣政権の重心が「大坂」へと移行したことにあった。秀吉が大坂城を本拠と定めたことで、日本の物流の力学は劇的に変化した 3 。特に、若狭や越前といった北陸地方の豊富な物産を、琵琶湖の水運を利用して効率的に大坂へ輸送することが、政権の経済基盤を支える上で極めて重要な課題となったのである 4 。
ここで、坂本と大津の地政学的な差異が浮かび上がる。坂本は京都へのアクセスには優れていたが、大坂へ物資を運ぶには一度京都を経由する必要があり、非効率であった。それに対し、大津は目前に逢坂関を控え、この峠を越えれば直接淀川水系へと接続し、京都を経由することなく大坂まで物資を直送することが可能であった 4 。この物流効率における圧倒的な優位性こそ、秀吉が坂本を廃し、大津に新たな拠点を築くことを決断した最大の理由であった。
坂本城の廃城と大津城の築城は、単なる拠点の地理的な移動ではない。それは、豊臣政権の近江支配における基本戦略が、織田信長時代の「軍事的監視と制圧」から、「経済と物流の掌握」へと質的に転換したことを示す、象徴的な出来事であった。信長にとって坂本は「反乱分子を封じ込めるための蓋」であったが、秀吉にとって大津は「天下の富を大坂に流し込むための漏斗」だったのである。この戦略思想のパラダイムシフトこそが、大津城誕生の根源に流れる思想であった。
第二章:激動の天正14年 ― 築城の政治的背景
大津城の築城が開始された天正14年(1586年)は、秀吉の天下統一事業が最終段階へと突入した、まさに激動の年であった。この年に起きた一連の政治的・軍事的出来事は、大津城築城というプロジェクトが、いかに盤石な権力基盤の上で、そしてどのような国家戦略の一環として推進されたかを物語っている。
1. 徳川家康、大坂に臣従す:東国平定の完了
この年、最も象徴的な出来事は、長年にわたり秀吉の最大の対抗勢力であった徳川家康の臣従である。5月には秀吉の妹・朝日姫が家康に嫁ぎ、10月には家康自身が大坂城へ上洛して秀吉に謁見、臣従を誓った 7 。これにより、秀吉は東国における最大の脅威を取り除き、名実ともに日本の支配者としての地位を確立した。この政治的安定は、秀吉が大津城の建設のような大規模な国内インフラ投資に、安心して資源を投入することを可能にしたのである。
2. 聚楽第の造営と九州征伐の号令:盤石な権力基盤
秀吉の権力の大きさは、この年に同時並行で進められた他の巨大プロジェクトからも窺い知ることができる。2月には、京都に新たな政庁兼邸宅である聚楽第の造営を開始 7 。さらに8月には、九州で勢力を拡大する島津氏を討伐するため、毛利輝元らを先鋒とする九州征伐軍を派兵している 13 。関白の権威を示す壮麗な宮殿の建設と、大規模な軍事遠征の準備を同時に進められるほどの圧倒的な動員力と経済力。大津城の築城もまた、これらの国家事業と肩を並べる、秀吉の天下人としての権威を示すプロジェクトの一つとして位置づけられていた。
3. 吉田兼見の日記に見る、秀吉の大津への視察
この重要なプロジェクトに対する秀吉自身の並々ならぬ関心は、当時の一次史料からも読み取れる。京都吉田神社の神官であった吉田兼見が記した日記『兼見卿記』には、天正14年の2月から4月にかけて、秀吉自身が頻繁に大津へ足を運び、現地の様子を視察していたことが記録されている 3 。これは、秀吉が築城計画の立案に深く関与し、自らの目で地勢や港湾機能を確認した上で、直接指示を下していたことを示唆している。大津城は、単に家臣に命じて作らせた城ではなく、秀吉の国家構想が色濃く反映された、天下人直轄のプロジェクトだったのである。
時期(西暦) |
主要な出来事 |
備考 |
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2月21日 (4月9日) |
豊臣秀吉、京都に聚楽第の造営を開始 7 。 |
天皇の行幸を想定した壮麗な政庁兼邸宅。 |
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2月頃 |
秀吉、頻繁に大津へ下向(視察) 3 。 |
『兼見卿記』に記載。大津城築城計画の具体化か。 |
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5月14日 (6月30日) |
徳川家康と秀吉の妹・朝日姫が浜松で婚儀 7 。 |
豊臣・徳川間の和睦の象徴。 |
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8月頃 |
秀吉、九州征伐の先鋒隊を派遣 13 。 |
島津氏討伐に向けた軍事行動を開始。 |
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10月27日 (12月7日) |
徳川家康、大坂城にて秀吉に謁見し臣従 7 。 |
天下統一が事実上完成。 |
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12月25日 (1587年2月1日) |
秀吉、太政大臣に叙任 13 。 |
武家として最高位に到達。 |
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通年 |
大津城の築城が開始される 15 。 |
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浅野長政を奉行とし、坂本城を解体して資材を転用。 |
表1:天正14年(1586年)主要関連年表
この年表が示すように、大津城の築城は、秀吉の権力が頂点に達し、日本の政治秩序が再編される歴史の大きなうねりの中で行われた。それは、来るべき統一政権の経済的基盤を固めるための、計算され尽くした戦略的投資であった。
第三章:築城の指揮官 ― 浅野長政という男
これほど重要な国家プロジェクトである大津城の築城と、その後の都市経営を、秀吉は誰に託したのか。その人物こそ、初代城主であり築城の総責任者を務めた浅野長政(当時は長吉)であった。秀吉が彼をこの大役に抜擢した人選そのものに、大津城に込められた真の目的が隠されている。
1. 秀吉が最も信頼した行政官僚
浅野長政は、秀吉の正室である北政所(ねね)の義理の兄弟(長政の妻・ややが、ねねの妹)という極めて近い姻戚関係にあった 17 。織田信長に仕えていた時代から秀吉の与力として活動しており、秀吉にとっては最も信頼のおける古参の腹心の一人であった 18 。
賤ヶ岳の戦いなどで武功も立てているが、長政の本領は戦場での勇猛さよりも、むしろ卓越した行政手腕にあった 18 。彼は秀吉政権下で、全国の田畑を測量し石高を確定させるという国家の根幹をなす大事業「太閤検地」を成功に導いた立役者であり、その実務能力は高く評価されていた 18 。後年、豊臣政権の最高執行機関である五奉行が制度化されると、その筆頭格として司法を担当するなど、秀吉政権の中枢を担う最高のテクノクラート(実務官僚)であった 20 。
2. 坂本城主から大津城主へ:継続性と革新性
長政は、廃城となる坂本城の最後の城主であり、そのまま地続きで大津城の初代城主へと横滑りした 3 。この人事は、近江国湖南地域の支配権と、琵琶湖水運の管理権が、断絶することなくスムーズに新拠点へと移行したことを示している。旧体制を整理し、新体制を構築するという一連のプロセスを、同一人物に一貫して担当させることで、秀吉は混乱なき拠点移転を実現しようとしたのである。
3. 長政に託された使命:城づくりにあらず、都市創造なり
秀吉が加藤清正や福島正則のような築城や武勇に優れた猛将ではなく、行政官僚である長政をこの任に当てたことの意味は大きい。それは、秀吉が長政に求めたものが、単に物理的な「城」を建設する能力だけではなかったことを物語っている。秀吉が見据えていたのは、城の建設と、それに付随する城下町の整備、そして新たな物流システム(後の「大津百艘船」)の構築までを一体的に推進する、複合的な都市開発事業であった。
このプロジェクトは、軍事的な知見よりも、経済政策を立案し、利害関係を調整し、新たな制度を設計・運用する高度な行政能力を必要とした。その点で、太閤検地を差配した実績を持つ浅野長政こそ、この「経済特区を伴う新物流拠点の創造」という壮大なミッションを遂行する上で、まさに最適任者だったのである。この人選は、大津城が軍事要塞である以上に、経済都市の核として構想されていたことを雄弁に物語っている。
第四章:湖上の要塞、誕生の記録 ― 築城プロセスの時系列再現
天正14年(1586年)、浅野長政の指揮のもと、大津の琵琶湖畔で壮大な築城工事が開始された。それは、旧来の城を解体し、その資材を再利用して新たな城を築くという、当時の技術と労働力を結集した一大事業であった。
1. 坂本城の解体と資材運搬:「城の引越し」
大津城の建設にあたり、まず行われたのは、役割を終えた坂本城の解体であった。石垣を構成する巨石や、天守・櫓に使われていた建材は、当時の貴重な資源であり、これらを再利用することは極めて合理的であった 8 。坂本城から解体された資材は、船を使って湖上を輸送され、数キロメートル南の大津の築城現場へと運ばれたと考えられている 9 。これはまさに、城を丸ごと移動させるかのような「城の引越し」であり、琵琶湖の水運を巧みに利用した効率的な工法であった。近年、琵琶湖の水位が異常低下した際に、湖底から坂本城の石垣の一部が姿を現すことがあるが、それはこの時に運び出されなかった城の痕跡であり、往時の壮大な工事を偲ばせている 5 。
2. 縄張りと普請:琵琶湖に挑む築城技術
大津城の縄張り(設計)は、琵琶湖の特性を最大限に活かした典型的な水城(みずじろ)であった。現在の京阪びわ湖浜大津駅周辺が本丸にあたり、この本丸を半島のように琵琶湖へ突出させ、その陸側に二の丸、三の丸を階段状に配置。そして、これらの曲輪全体を三重の広大な水堀で囲むという堅固な構造をしていた 10 。
湖中の軟弱な地盤に石垣を築くためには、高度な土木技術が要求された。坂本城の水中遺構でも確認されているように、湖底に「胴木」と呼ばれる丸太を井桁状に組んで基礎とし、その上に石垣を積むことで、石の重みを分散させ、沈下を防ぐ工法が用いられたと推測される 5 。このような当時の最先端技術を駆使して、湖上の要塞は形作られていった。
3. 望楼型四重五階の天守閣:その威容
城の中心には、四重五階の壮麗な望楼型天守がそびえ立っていたと伝えられている 24 。この天守は、有事の際の司令塔という軍事的な機能はもちろんのこと、それ以上に、琵琶湖を航行する無数の船々に対して豊臣政権の威光を誇示し、この湖が天下人の支配下にあることを知らしめる、政治的な象徴としての役割を担っていた。湖面にその威容を映す天守閣は、新たな時代の到来を告げるモニュメントであった。
第五章:城が町を生む ― 大津城の機能と経済的インパクト
完成した大津城は、単なる軍事施設ではなかった。それは、琵琶湖水運を掌握し、新たな経済圏を創出するための多機能複合拠点であった。その構造と、浅野長政によって導入された革新的な経済政策は、その後の大津の町の運命を決定づけることになる。
1. 構造分析:水城としての設計思想と、その戦略的弱点
大津城の構造は、同じく琵琶湖に面した坂本城や、後に関ヶ原の戦いの後に徳川家康が築く膳所城と比較すると、その設計思想がより明確になる 27 。これら三城は、いずれも湖の水を防御に利用し、湖上交通の結節点を押さえるという共通の目的を持つ水城である。しかし、大津城は特に港湾としての機能を重視して設計されており、本丸が直接港の役割を担っていた 25 。
一方で、この設計には軍事的な弱点も内包されていた。港湾機能を優先した平城であったため、全体の防御力、特に石垣の高さは比較的低かったと指摘されている 26 。そして、この低地に築かれたという立地が、皮肉にも後の「大津城の戦い」において、背後にそびえる長等山からの大砲による砲撃に対して極めて脆弱であるという欠陥を露呈することになる 11 。
城郭名 |
築城年(主な改修年) |
築城主(勢力) |
主な目的 |
坂本城 |
元亀2年(1571年) |
織田信長(明智光秀) |
比叡山の監視、琵琶湖西岸の軍事的制圧 |
大津城 |
天正14年(1586年) |
豊臣秀吉(浅野長政) |
琵琶湖水運の掌握、大坂への物流拠点 |
膳所城 |
慶長6年(1601年) |
徳川家康(藤堂高虎) |
京都・大坂防衛、東海道の要衝監視 |
表2:近江南部における主要三城の比較
この比較が示すように、近江湖南という同一地域における拠点の役割は、支配者の交代とともに、軍事から経済、そして再び徳川体制下での軍事的重要拠点へと変遷していった。大津城は、その中で経済的機能を最も重視された城であった。
2. 「大津百艘船」の創設:琵琶湖水運の独占と支配
大津城の経済拠点としての価値を決定づけたのが、初代城主・浅野長政が創設した「大津百艘船」という画期的な制度であった 3 。これは、大津に拠点を置く特定の船主たちで構成される組合(船持仲間)に対し、あらゆる課役を免除するという特権を与える見返りに、大津港を発着するすべての荷物や旅客の輸送を独占させるというものであった 3 。
この政策により、琵琶湖の浦々に分散していた物流機能は、強制的に大津一港へと集約された。秀吉政権は、この特権組合を支配下に置くことで、琵琶湖全体の水運を完全に掌握し、北国からの物資の流れをコントロールすることに成功したのである。これは、武力によらない、経済システムを用いた巧みな領域支配であった。
3. 城下町「大津百町」の誕生:商業都市への第一歩
大津城の築城と、それに伴う城下町の整備は、近世から近代にかけて繁栄を極める商業都市「大津百町」の直接的な起源となった 28 。城が廃された後も、城下町として整備された町割や、物資の荷揚げ用に転用された内堀や外堀は、そのまま商業活動の基盤として活用された 29 。やがて大津は、東海道五十三次の中でも屈指の人口を誇る宿場町・港町として発展し、大津絵や大津算盤といった名産品を生み出すに至る 29 。わずか15年でその役目を終えた大津城であったが、その築城が江戸時代における大津の繁栄の礎を築いたことは間違いない。
第六章:わずか14年の栄光と終焉 ― 関ヶ原の戦いと大津城
経済拠点として輝かしいスタートを切った大津城であったが、その歴史は豊臣政権の終焉とともに、あまりにも早く、そして劇的な形で幕を閉じることとなる。築城からわずか14年後、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいて、大津城は歴史の表舞台で最後の、そして最大の役割を演じることになった。
1. 歴代城主の変遷:浅野長政から京極高次へ
初代城主・浅野長政の後、大津城は同じく五奉行の一人である増田長盛、そして新庄直頼へと引き継がれた 16 。そして文禄4年(1595年)、城主となったのが京極高次である 31 。高次は近江の名門・佐々木氏の血を引くが、その出世は妹の松の丸が秀吉の側室となり、妻が浅井三姉妹の次女・初であったことによる閨閥の力が大きいとされ、陰では「蛍大名」と揶揄されることもあった 32 。しかし、この高次が、後に天下の形勢を左右する重要な決断を下すことになる。
城主名 |
在任期間 |
石高(京極高次時点) |
主要な事績・備考 |
浅野長政 |
1586年 – 1589年 |
(2万石余) |
初代城主。大津城を築城。「大津百艘船」を創設。 |
増田長盛 |
1589年 – 1591年 |
(不明) |
豊臣五奉行の一人。 |
新庄直頼 |
1591年 – 1595年 |
(不明) |
|
京極高次 |
1595年 – 1600年 |
6万石 |
関ヶ原の戦いで東軍に属し、大津城に籠城。 |
戸田一西 |
1600年 – 1601年 |
(不明) |
徳川家譜代。最後の城主。膳所城へ移る。 |
表3:大津城 歴代城主一覧
2. 慶長5年9月、運命の籠城戦:猛将・立花宗茂を足止めした7日間
慶長5年(1600年)、徳川家康の会津征伐を機に石田三成が挙兵し、関ヶ原の戦いが勃発する。当初、西軍に与していた京極高次は、突如として東軍への寝返りを表明し、わずか3,000の手勢とともに大津城に籠城した 32 。
交通の要衝である大津城を失うことは、西軍にとって致命的であった。直ちに毛利元康を総大将とし、九州の猛将・立花宗茂、小早川秀包ら総勢1万5,000(一説には3万7,000とも)の大軍が大津城を包囲した 12 。9月7日に始まった攻城戦は熾烈を極めた。高次と城兵は寡兵ながらも夜襲をかけるなど果敢に抵抗したが、西軍の猛攻、特に9月13日から始まった長等山からの大砲による砲撃は城に致命的な損害を与えた 11 。天守にも砲弾が命中し、城内は混乱に陥った。
3. 廃城、そして解体移築:彦根城天守として生き続ける遺産
もはやこれまでと悟った高次は、降伏勧告を受け入れ、開城を決意する。高次が剃髪して城を明け渡したのは、慶長5年9月15日のことであった 35 。しかし、この日付こそが歴史の奇跡であった。まさにその日、美濃国関ヶ原では、徳川家康率いる東軍と石田三成率いる西軍の本隊が激突していたのである。
結果として、京極高次の7日間にわたる籠城戦は、立花宗茂をはじめとする西軍の精鋭1万5,000を大津の地に釘付けにし、関ヶ原の本戦に参加させないという、東軍の勝利に対する計り知れない貢献を果たした 34 。戦後、家康はこの功を高く評価し、敗軍の将であるはずの高次を若狭小浜8万5,000石へと大加増した 12 。
しかし、徳川の世において、大津城の戦略的価値は見直された。家康は、より防衛に適した対岸の膳所崎に新たに膳所城を築くことを決定し、大津城は慶長6年(1601年)に廃城となった 3 。その短い生涯を閉じた大津城であったが、その遺産は失われなかった。壮麗であった天守は解体・移築され、徳川四天王・井伊直政の居城である彦根城の天守として、今なお琵琶湖のほとりにその姿を留めている 3 。
終章:大津城が歴史に残した意味
天正14年(1586年)に築かれた大津城は、単なる一つの城郭ではなかった。それは、豊臣秀吉の天下統一事業が、武力による「征服」の時代から、経済と統治による「経営」の時代へと移行したことを示す、画期的なプロジェクトであった。坂本城という軍事監視拠点を廃し、大津という物流拠点に新たな城を築いたことは、秀吉の国家構想の転換を象徴している。
浅野長政という当代随一の行政官僚を責任者に据え、「大津百艘船」という経済システムを導入した事実は、この城が軍事要塞である以上に、来るべき統一国家の経済的動脈を担うべく構想されたことを明確に示している。その築城は、近世商業都市「大津百町」の直接的な揺り籠となり、その後の地域の繁栄を決定づけた。
そして、わずか14年という短い生涯の最期に、関ヶ原の戦いの前哨戦という形で演じた籠城戦は、図らずも日本の歴史を大きく左右する一因となった。その存在自体が豊臣政権の経済戦略の象徴であり、その最期が徳川の世の到来を決定づける一助となったのである。
今日、城そのものの遺構はほとんど残されていない。しかし、その天守は国宝・彦根城として生き続け、その城下町は現代の大津市の礎となっている。大津城は、戦国末期の激動の中で生まれ、そして消えていったが、その歴史的意義と遺産は、形を変えて今なお我々の前に生き続けているのである。
引用文献
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- 豊臣秀吉 http://yamatoji.nara-kankou.or.jp/artifact/0000000083
- 戦国史跡のスポット | 【公式】びわ湖大津・光秀大博覧会 https://otsu.or.jp/mitsuhide/sengoku/
- 【滋賀県】大津城の歴史 たった15年しか存在しなかった豊臣の城 - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2017
- 琵琶湖に面する水城・坂本城 水中考古学 Vol.33 | ダイビングならDiver Online https://diver-online.com/archives/go_to_diving/5985
- 近世|歴史年表展示|常設展示室 - 大津市歴史博物館 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/event/jyousetsu/rekishi_4.html
- 完全戦国年表1582-1590 - Merkmark Timelines https://www.merkmark.com/sengoku/nenpyo/ksnx_14.html
- 古城の歴史 大津城 https://takayama.tonosama.jp/html/otsu.html
- 古城の歴史 坂本城 https://takayama.tonosama.jp/html/sakamoto.html
- 大津城 : かつて琵琶湖の水運の拠点だった水城も今は面影無し。 https://akiou.wordpress.com/2013/10/14/ohtsu-jo/
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- 大津城 - お城散歩 https://kahoo0516.blog.fc2.com/blog-entry-350.html
- 第9回 大津城の復元|学芸員のノートから - 大津市歴史博物館 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/museum/note/note09.html
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- 豊臣秀吉の朝鮮行きを止めた男・浅野長政。命懸けで伝えたかったメッセージとは? - 和樂web https://intojapanwaraku.com/rock/culture-rock/167422/
- 家康が欲した浅野長政の貴重な「立場」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/40216
- 五大老と五奉行とは?役割の違いとメンバーの序列、なにが目的? - 戦国武将のハナシ https://busho.fun/column/5elders5magistrate
- 光秀の生涯にわたる本拠・坂本城から見た琵琶湖の景観 坂本城址|滋賀県 - たびよみ https://tabiyomi.yomiuri-ryokou.co.jp/article/000878.html
- 琵琶湖の水底から姿を現した「幻の城」坂本城の石垣 | 一般社団法人・東京滋賀県人会 https://imashiga.jp/blog/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E3%81%AE%E6%B0%B4%E5%BA%95%E3%81%8B%E3%82%89%E5%A7%BF%E3%82%92%E7%8F%BE%E3%81%97%E3%81%9F%E3%80%8C%E5%B9%BB%E3%81%AE%E5%9F%8E%E3%80%8D%E5%9D%82%E6%9C%AC%E5%9F%8E%E3%81%AE/
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- [合戦解説] 13分でわかる大津城の戦い 「徳川家康も高評価!西軍を釘付けにした京極高次の籠城戦」 /RE:戦国覇王 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=2TDEOcon4FQ
- 大津城の戦い ~京極高次の関ヶ原~ http://www.m-network.com/sengoku/sekigahara/otsu.html
- 関ヶ原前哨戦「大津城の戦い」!京極高次、懸命の籠城戦…猛将・立花宗茂を足止めす! https://favoriteslibrary-castletour.com/shiga-otsujo/
- 【関ヶ原の舞台をゆく④】本戦と連動して発生した攻城戦~決戦にも強い影響を及ぼした名城三合戦 https://shirobito.jp/article/518
- 大津城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%B4%A5%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84