大津町割整備(1590)
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天下統一の礎石:天正十八年「大津町割整備」のリアルタイム・アナリシス
序章:天正十八年、天下人の視線
天正十八年(1590年)。この年は、日本の歴史において画期的な転換点として記憶される。長きにわたる戦乱の時代が終わりを告げ、統一国家への道筋が確固たるものとなった年である。この年の夏、豊臣秀吉は数十万の大軍を率いて関東の雄、後北条氏を小田原城に屈服させ、間髪を入れず奥州仕置を断行し、東北地方をも平定した 1 。これにより、名実ともに天下統一事業は完成し、秀吉の視線は必然的に、武力による「征服」から、国家の「経営」へと移行した。この統治パラダイムの劇的なシフトを象徴する事業こそ、本報告書が主題とする「大津町割整備」である。
天下が静謐(せいひつ)となったまさにその瞬間、秀吉が近江国大津という一都市の大規模な再開発を命じたという事実は、極めて示唆に富む。これは、戦後復興のような場当たり的な対応ではなく、統一国家のグランドデザインの一部として周到に計画された、戦略的なインフラ投資であった。大津は、政治経済の中枢である京都・大坂と、平定されたばかりの東国・北国とを結ぶ、物流と交通の結節点という地政学的な要衝に位置していた 2 。その価値は、天下統一が完成した瞬間にこそ最大化される。
したがって、大津町割整備は、軍事行動の終結と同時に発せられた「国家改造」の号砲であったと言える。それは、物理的なインフラ整備を通じて、新しい政治経済秩序を全国に浸透させるための布石であり、秀吉の関心がもはや個別の敵対勢力ではなく、国家全体の構造へと向けられていたことを物語っている。本報告書は、この一都市計画を多角的に解剖することにより、豊臣政権が構想した国家の姿そのものを照射する試みである。
第一章:琵琶湖の覇権 ― 町割以前の大津とその地政学的価値
豊臣政権による大規模な町割が行われる以前から、大津は琵琶湖の南端に位置する重要な都市であった。その性格は複合的であり、第一に、日本最大の湖である琵琶湖の水運を担う「港町」としての顔を持つ 3 。北国からの物資は敦賀で陸揚げされた後、琵琶湖の水運を利用して大津に集積され、そこから京の都へと運ばれた。第二に、京と東国を結ぶ大動脈、東海道の「宿場町」としての機能も有していた 3 。そして第三に、天台寺門宗の総本山である三井寺(園城寺)の「門前町」としても発展していた 7 。
しかし、戦国期において琵琶湖西岸の覇権を握っていたのは、大津ではなく、その北に位置する坂本であった。坂本は、比叡山延暦寺の門前町・港町として絶大な権勢を誇り、湖上交通の関を掌握し、陸運を担う馬借が組織されるなど、一大経済拠点として繁栄していた 4 。ところが、元亀二年(1571年)、織田信長による比叡山焼討ちによって、この旧来の権威と経済構造は物理的に破壊される。その後、この地を与えられた明智光秀は坂本城を築城し、城下町を復興させるが、それは「明智の城下町」という色合いを強く帯びることとなった。
本能寺の変を経て天下人となった秀吉にとって、坂本は「謀反人・明智光秀」の記憶と分かちがたく結びついた土地であった。また、依然として比叡山の宗教的影響力も無視できない存在であった。そこで秀吉は、坂本の既存のインフラやコミュニティを継承するのではなく、近接する大津に全く新しい城(大津城)と城下町をゼロから建設する道を選択した 6 。天正十四年(1586年)頃に始まるこの動きは、単なる都市機能の移転に留まらない。それは、坂本の持つ地政学的・経済的機能を吸収・無力化しつつ、光秀の痕跡を抹消し、純粋な「豊臣の都市」を創り上げるという、強い政治的意図に基づいていた。物理的な都市開発であると同時に、前時代の記憶を意図的に上書きする、新時代の到来を天下に示す象徴的な行為だったのである。
第二章:国家改造の設計図 ― 豊臣政権の都市政策と経済戦略
大津町割整備は、単独の都市計画としてではなく、豊臣政権が推進した一連の国家改造政策の集大成として理解されなければならない。秀吉は、織田信長が着手した革新的な政策、すなわち商工業の自由化を目指した楽市・楽座 9 や、恒久的な政庁として礎石の上に築かれ瓦で葺かれた城郭都市の建設 10 といった思想を継承し、さらにそれを全国規模で体系的に発展させた。
秀吉が独自に展開した政策群は、相互に連動し、中央集権的な国家システムを構築するものであった。その根幹をなすのが「太閤検地」である。これは、それまで自己申告制であった土地の面積や収穫量を、検地役人が統一された基準(度量衡の統一)の下で実測し、石高という客観的な生産力指標に換算するものであった 11 。これにより、全国の富が中央政権によって一元的に把握され、年貢や軍役の賦課が体系化された。
並行して進められたのが、「刀狩」と「人掃令(身分統制令)」である。これらは、農民から武器を没収し、武士、町人、農民といった身分間の移動を原則として禁止することで、いわゆる「兵農分離」を確立した 11 。武士は城下町に集住して統治に専念し、農民は農村に縛り付けられて生産を担う。そして、経済活動を専門とする商工業者もまた、城下町に居住することが定められた。さらに、海賊禁止令を発して瀬戸内海などの海上交通路を国家管理下に置き、自由で安全な交易を保証したことも、物流の活性化に大きく貢献した 13 。
これらの政策群の中に大津町割を位置づけると、その真の意義が明らかになる。それは、「太閤検地」の都市版応用であり、兵農分離政策の受け皿となる空間の創出であった。すなわち、農村において検地によって土地と農民を直接把握したのと同様に、都市において商工業者とその経済活動を直接把握・管理するための物理的インフラこそが「町割」だったのである。無秩序な都市空間を、①身分ごとに居住区を明確に分離し(統制)、②商業活動に適した区画を計画的に配置し(促進)、③物流の動脈となる道路や水路を整備する(基盤整備)ことで、都市そのものを巨大な経済装置へと作り変える。大津町割は、まさにこの豊臣国家システムの都市的表現であった。
表1:豊臣政権下の主要政策と大津町割整備の位置づけ
政策名 |
開始年(目安) |
目的 |
大津町割整備との関連性 |
太閤検地 |
天正10年 (1582) |
全国の土地と生産力を石高で統一的に把握し、年貢・軍役を賦課する |
農村における土地・農民支配の確立。町割は都市における商工業者支配の基盤となる。 |
刀狩令 |
天正16年 (1588) |
農民から武器を没収し、一揆を防止する |
兵農分離の徹底。武士と非武士の身分を明確化し、町割による身分別居住区の正当性を担保する。 |
人掃令(身分統制令) |
天正19年 (1591) |
武士・町人・農民間の身分移動を禁止し、社会構造を固定化する |
商工業者を都市に縛り付け、専門集団として経済活動に専念させる。町割はそのための空間を提供する。 |
海賊禁止令 |
天正16年 (1588) |
海上交通の私的支配を禁じ、航行の安全を国家が保証する |
琵琶湖水運の活性化に不可欠。大津のような港町の機能を国家管理下に置く前提条件となる。 |
大津町割整備 |
天正18年 (1590) |
物流拠点を整備し、商工業者を集住・管理し、経済活動を最大化する |
上記諸政策の都市空間における集大成。統一国家の経済的基盤を物理的に構築する事業。 |
第三章:秀吉の右腕 ― 行政官僚・浅野長政の肖像
この国家的な大事業の実行責任者として白羽の矢が立てられたのが、浅野長政(当時は長吉)であった。長政は、秀吉の正室・ねね(北政所)の養父・浅野長勝の養子であり、ねねの妹・ややを妻としていたため、秀吉とは極めて近しい姻戚関係にあった 1 。しかし、彼の登用は単なる縁故によるものではない。賤ヶ岳の戦いなどで武功を挙げた武将であると同時に 1 、それ以上に卓越した行政手腕を持つ実務官僚として、秀吉の厚い信頼を勝ち得ていた。
長政の経歴は、大津町割という複雑な事業を遂行する上で、まさに最適任者であったことを示している。彼は京都奉行を務めた経験を持ち 1 、豊臣政権による京都の都市改造、いわゆる「天正地割」にも関与した可能性が指摘されている 15 。そして何よりも、全国規模で実施された太閤検地を実質的に指揮した実績は決定的であった 14 。太閤検地は、全国の土地を測量し、等級を定め、所有者を確定するという、膨大なデータ処理と複雑な利害調整を伴う巨大プロジェクトであった。この経験で培われたノウハウは、都市の区画を再編し、住民を移転させ、新たな都市機能を割り当てる「町割」と、その手法において極めて高い親和性を持つ。
さらに、長政は後に石田三成らと共に豊臣政権の最高実務機関である五奉行の一員となり、主に司法を担当した 16 。法と実務に基づき、整然と事を進める能力に長けていたのである。また、天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いの功により、近江国大津に二万石を与えられており、現地の事情にも精通していた 1 。
戦国時代の城下町建設は、多くの場合、その地を支配する大名自身のリーダーシップで行われる軍事主導の事業であった。しかし、秀吉が長政を任命したことは、大津町割が、単なる一城主による領地経営ではなく、中央政権の統一的な都市政策の一環として、法と実務に基づいて整然と執行される、いわば近代的・官僚的なプロジェクトとして構想されていたことを示している。長政は、戦国的な武将というよりも、秀吉の国家構想を、図面と帳簿と命令によって現地に実現させるための、豊臣政権という中央政府から派遣された最高の「執行官(テクノクラート)」だったのである。
第四章:ドキュメント・大津町割 ― 計画から完成までの時系列再現
利用者からの「リアルタイムな状態がわかる形」という要望に応えるべく、ここでは同時代の類例なども参考にしながら、事業のプロセスを時系列に沿って再構成する。
表2:「大津町割整備」の時系列進行表(推定含む)
時期 |
主要な出来事 |
担当者・関連人物 |
背景・意義 |
天正14年 (1586)頃 |
大津城築城開始。 |
浅野長政 |
坂本からの機能移転の開始。新たな政治・軍事拠点の建設。 |
天正14-17年 |
坂本などからの住民・商人の段階的な移住。城下町の原型形成。 |
浅野長政 |
新都市への人口集積の第一段階。 |
天正18年 (1590) |
小田原征伐・奥州仕置完了。秀吉から長政へ正式な「町割整備」命令下る。 |
豊臣秀吉、浅野長政 |
天下統一の完成。国家インフラ整備計画の本格始動。 |
天正18年後半 |
**計画策定。**京都の天正地割を参考に、碁盤目状の街路、身分別居住区、舟入の設計。 |
浅野長政、配下の奉行衆 |
豊臣流都市計画思想の適用。経済効率の最大化を目指す。 |
天正18-19年 |
**実行段階。**①検地竿による測量と縄張り ②既存家屋の強制移転・解体 ③街路・水路の掘削・造成 ④新たな区画への住民再配置。 |
浅野長政、現場の役人 |
絶大な権力によるトップダウンの都市改造。住民の混乱と新秩序への期待が交錯。 |
天正19年以降 |
新しい町並みの完成。「大津百町」の基礎が固まる。商業活動の本格化。 |
大津の町衆 |
新生都市の始動。物流拠点としての機能が発揮され始める。 |
文禄年間 (1592-) |
大津百艘船の組織化が進む。琵琶湖水運の独占的支配体制が確立。 |
豊臣政権、大津の有力商人 |
町割というハード整備が、水運ギルドというソフト整備へと結実。 |
前史から発令へ(天正14年~18年)
事業の萌芽は、天正十四年(1586年)頃の大津城築城に遡る 6 。この城は単なる軍事拠点ではなく、来るべき城下町の核として、当初から計画的に配置された。この築城と並行して、旧来の拠点であった坂本などから商人や職人が段階的に移住し始め、新たな都市の胎動が始まった。そして天正十八年(1590年)、天下統一が完成する。小田原城を包囲する陣中か、あるいは凱旋後の聚楽第か大坂城で、秀吉は長政に直接、大津の全面的な都市改造を命じたと推察される。国家構想の一部として、大津の戦略的重要性が再確認され、本格的な町割のゴーサインが出された瞬間である。
計画と実行(天正18年後半~19年)
命令を受けた長政と彼の配下の奉行たちは、まず都市の青写真を描く計画段階に入る。彼らが参考にしたのは、間違いなく当時進行中であった京都の都市改造「天正地割」 17 や、秀吉の政庁兼邸宅であった聚楽第の造成計画であったろう 18 。京都では、正方形の街区の中央に新たな通りを設けることで、区画内部の土地も通りに面するようにし、土地利用の効率化を図る手法が用いられた 20 。このような先進的な都市計画思想が、大津の設計にも応用されたと考えられる。
計画が固まると、いよいよ実行段階に移る。現場では、まず太閤検地で用いられたのと同じ検地竿を持った役人たちが土地を測量し、新たな街路や区画の境界線に縄を張る「縄張り」が行われた。次に、既存の家屋に住む住民に対しては、有無を言わさぬ強制移転命令が下される。住民たちは古い家を取り壊し、指定された新しい区画へと移っていく。その跡地では、大規模な土木工事が開始され、道がまっすぐに付け替えられ、後述する「舟入」(運河)が掘削される。このプロセスは、住民にとっては多大な負担と混乱を伴うものであったが、天下人の絶対的な権力を背景にしたトップダウンの事業であり、異を唱えることは許されなかった。
完成と始動(天正19年以降)
数年にわたる工事の末、整然と区画された新しい町並みが大津に出現する。商人や職人はそれぞれの町に集住させられ、都市には新たな活気が生まれ始めた。特に、整備された港と町中に引き込まれた水路は、琵琶湖中の物資を吸い寄せる強力な磁石となった。この優れた物流インフラを背景に、やがて「大津百艘船」と呼ばれる、琵琶湖水運を独占的に支配する強力な水運ギルドが組織化されていく 21 。ハードウェアとしての町割が、ソフトウェアとしての経済システムを生み出し、新生・大津が本格的に始動した瞬間であった。
第五章:新生都市・大津の構造 ― 新たな物流拠点の機能美
町割によって誕生した新生・大津の都市構造は、機能性と合理性に貫かれた、まさに「機能美」と呼ぶにふさわしいものであった。その最大の特色は、大津城の堀を防衛施設としてだけでなく、物資荷揚げ用の商業運河、すなわち「舟入」へと転用・再整備した点にある 6 。
戦国時代の城郭において、堀は敵の侵入を防ぐための最も重要な防御施設であった。しかし、天下が統一され、大規模な戦争の可能性が遠のいた時代において、城を取り巻く広大な水堀は、軍事的には過剰な設備となりうる。浅野長政と秀吉は、この「遊休資産」ともいえる堀を、全く新しい価値を持つ経済インフラへと転用することを着想した。琵琶湖と直結させ、湖上を往来する荷船(丸子船など)が、直接町の中心部まで乗り入れ、蔵屋敷や商家のすぐそばで荷を降ろすことを可能にしたのである。
これにより、沖合で荷をはしけ船に積み替える手間が省け、荷揚げ、保管、そして陸上輸送への接続にかかる時間とコストが劇的に削減された。これは、現代のコンテナターミナルが港湾と陸運(鉄道・トラック)を直結させる思想にも通じる、当時としては極めて先進的なロジスティクス設計であった。
さらに、この舟入という「点」から、碁盤目状に整備された街路という「線」が効率的に伸びていた。舟入で荷揚げされた物資は、これらの街路を通じて、陸路で京の都や他の地域へ迅速に輸送された。そして、街路に面しては、商人町や職人町といった区画、すなわち「面」が機能的に配置されていた。港湾機能(舟入)、陸上輸送網(街路)、そして商工業者の集住区(町)が、一つのシステムとして有機的に結合した、効率的な物流都市が完成したのである。
後に「大津百町」と称されるほどの目覚ましい繁栄 5 は、決して偶然の産物ではない。それは、この優れた都市設計がもたらした必然的な帰結であった。軍事施設の経済施設へのコンバージョン(用途転換)は、戦国乱世の終焉と、経済が国家経営の中心となる近世の到来を、都市の物理的構造そのものが雄弁に物語る稀有な事例と言えよう。
第六章:歴史的遺産としての大津町割 ― その後への影響と現代的意義
天正十八年の町割がもたらした影響は、豊臣政権の時代に留まらず、長期にわたって大津の運命を決定づけた。その歴史的意義は、まず直後の歴史的事件において証明される。慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいて、東軍に与した京極高次が籠る大津城は、立花宗茂らが率いる西軍の大軍勢を十日以上にわたって足止めした。この攻防戦は、結果として関ヶ原の本戦への西軍主力の到着を遅らせ、東軍の勝利に間接的に貢献した 21 。町割と一体で整備された城郭が、最後の戦国的大規模戦闘において重要な戦略的役割を果たしたのである。
しかし、大津の真価は、その軍事拠点を失った後にこそ発揮される。関ヶ原の戦いの後、豊臣政権は終焉し、大津城も慶長六年(1601年)に廃城とされ、その天守は彦根城へ、城の機能は新たに築かれた膳所城などに移された 22 。政治的・軍事的な中心としての役割は、わずか15年ほどで終わりを告げた。通常、城を失った城下町は衰退の道をたどることが多い。
ところが、大津はそうならなかった。なぜなら、その繁栄の基盤は、城主の権威以上に、町割によって最適化された「物流ハブ」としての強靭な経済機能にあったからである。江戸幕府もその経済的重要性を高く評価し、大津を幕府の直接支配地(天領)として代官の管理下に置いた 22 。これは、大津の経済力がもはや一藩の枠を超え、国家的な重要性を持つと判断されたことを意味する。
城主という政治的支配者が不在となった後、大津の運営は、十数カ町ずつ七組に分けられた各組の代表者である組惣代や、各町の町年寄といった町衆自身による自治的な組織に委ねられていく 22 。この高度な自治を可能にしたのも、町割によって明確に区画され、機能分化されたコミュニティが、その基盤として存在したからに他ならない。
結論として、浅野長政が実行した町割は、政治体制の激変という巨大なリスクを乗り越え、都市を存続・発展させるほどの強固な「OS(オペレーティングシステム)」を大津に導入する事業であった。城という「ハードウェア」が失われた後も、町割によって構築された経済と社会のシステムという「ソフトウェア」が、自律的に生き続けたのである。それは、戦国末期の都市計画が、いかに長期的視点に立った持続可能なものであったかを示す、一級の歴史的事例と言えるだろう。
結論:ミクロに宿るマクロ ― 大津町割が映し出す豊臣国家
本報告書は、「大津町割整備」という天正十八年の一地方都市における再開発事業を、その背景、実行者、プロセス、構造、そして歴史的遺産という多角的な視点から徹底的に分析してきた。このミクロな事象を深く掘り下げることで、結果として、豊臣政権が構想した国家像というマクロなビジョンが、鮮明に浮かび上がってきた。
そのビジョンとは、第一に、強力な中央集権の下で、国土と人民を直接的に支配すること。第二に、太閤検地や度量衡の統一に象徴されるように、全国の富と人を統一された客観的な基準で管理すること。そして第三に、武力による支配から一歩進んで、経済、特に物流の動脈を国家が掌握することによって天下を統治するという、極めて合理的かつ近代的な国家観である。
大津町割は、この壮大なビジョンが、都市空間というキャンバスに見事に描き出された実験であった。それは、浅野長政という優れた行政官僚の手によって、戦国的な混沌から近世的な秩序へと都市を再編成する試みであり、軍事のための空間を経済のための空間へと転換させる、時代のパラダイムシフトそのものであった。
この事業は、中世的な荘園制や座といった旧来の経済システムが解体され、統一された近世国家が誕生する、歴史の大きな転換点を象徴するモニュメントである。一都市の町並みの形成史は、それを超えて、一つの時代が終わり、新しい時代が始まる瞬間のダイナミズムを、我々に力強く伝えているのである。
引用文献
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- 大津の古い町並み - 一路一会 http://www.ichiro-ichie.com/05kinlki/shiga/ootsu/ootsu01.html
- 中世の運送業者・馬借と車借~その② 坂本の馬借 その前身は「馬の衆」か - 根来戦記の世界 https://negorosenki.hatenablog.com/entry/2023/10/23/104311
- 大津百町 江戸時代(1603〜1867 年)を通して https://www.mlit.go.jp/tagengo-db/common/001557507.pdf
- 大津百町とは https://otsu-hyakucho-days.jp/about
- 第103回ミニ企画展 大津の古文書6 大津百町の誕生 - 大津市歴史博物館 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/news/1209.html
- 坂本 - まちあるきの考古学 http://www2.koutaro.name/machi/sakamoto.htm
- 近代の道筋をつけた織豊政権 https://kokushikan.repo.nii.ac.jp/record/11386/files/1884_6963_008_07.pdf
- 家康と対峙する一方で着々と進んでいた「秀吉の政権都市構想」を奈良の都で考える【どうする家康 満喫リポート】戦国秘史秘伝編 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1150290
- 豊臣秀吉が行った政策とは?太閤検地や刀狩を理解しよう! | 学びの日本史 https://kamitu.jp/2023/08/31/hideyoshi-toyotomi/
- 全国統一を成し遂げた豊臣秀吉:社会安定化のために構造改革 | nippon.com https://www.nippon.com/ja/japan-topics/b06906/
- 天下統一後に行ったビジネスの円滑化 |金儲けの天才・豊臣秀吉の経済政策とは【経済でわかる日本史】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1101501
- 浅野長政の歴史 /ホームメイト - 戦国武将一覧 - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38337/
- 聚楽第関連の町名再考 http://kenkaku.la.coocan.jp/juraku/nankai.htm
- (浅野長政と城一覧) - /ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/10495_castle/busyo/28/
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- 1.平安宮跡・聚楽第跡発掘調査報告 - 京都府埋蔵文化財調査研究センター http://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/kankou/kankou-pdf/2013/G156/G156-1.pdf
- 解説「京都の町割りの変遷」 - 一般社団法人京学ラボ https://kyo-gaku.jp/prework-ex-sample/sa_p4-1/
- 大津市 穴太衆と大津城決戦ゆかりの地 https://otsu.or.jp/wp/wp-content/uploads/2022/07/61543528910632dc41b0d274a43ced76.pdf
- 大津百町|テーマ展示|常設展示室 - 大津市歴史博物館 https://www.rekihaku.otsu.shiga.jp/event/jyousetsu/theme_3.html