最終更新日 2025-09-12

天下布武印開始(1567)

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永禄十年(1567年)の転回点:織田信長「天下布武」印開始の歴史的深層

序章:尾張の一大名から天下人へ

本報告書は、永禄10年(1567年)に織田信長が開始した「天下布武」印の使用を、単なる印章の変更という事象に留めず、美濃平定という軍事的成功と、それに続く政治的・思想的宣言が一体となった、信長のキャリアにおける画期的な転換点として位置づけるものである。「事変中のリアルタイムな状態が時系列でわかる形」という要請に応えるため、永禄10年という一点に焦点を絞りつつ、その前後の文脈を重層的に解き明かすことを目的とする。

尾張統一を成し遂げた信長にとって、隣国美濃は父・信秀の代からの因縁の地であり、斎藤道三亡き後には長年の宿敵となっていた 1 。それだけでなく、美濃国は京都へ至る主要街道を押さえる戦略的要衝であり、この地を制圧することは、信長が地方の有力大名という立場から脱却し、中央政界へ進出するための絶対条件であった 2 。この難関であった美濃の攻略を完了したことこそが、信長の視座を尾張・美濃という地域権力から、初めて「天下」へと飛躍させる物理的、そして心理的な基盤となった。永禄10年の一連の出来事は、この飛躍が如何にして成し遂げられたのかを解き明かす鍵となる。

第一章:永禄十年への道程:長期化する美濃攻略戦(1560年~1566年)

「天下布武」の宣言は、美濃平定という確固たる軍事的成果なくしてはあり得なかった。しかし、その道のりは決して平坦なものではなく、7年以上にわたる粘り強い軍事行動と、敵である斎藤家の内部崩壊という二つの要因が複雑に絡み合い、永禄10年の最終局面へと繋がっていったのである。

1. 桶狭間以降の攻防と斎藤義龍の壁(1560年~1561年)

永禄3年(1560年)5月、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った信長は、その勢いを駆って翌6月には早速、西美濃への侵攻を開始した 1 。しかし、亡き斎藤道三から実力で国を奪った斎藤義龍は稀代の驍将であり、その防衛戦略は巧みであった。信長の侵攻はことごとく阻まれ、戦況は一進一退を繰り返す 1 。この時点での信長は、まだ美濃の国人衆を完全に切り崩すには至っておらず、義龍という大きな壁に直面していた。

この膠着状態を打破する最初の、そして最大の転機が訪れたのは、永禄4年(1561年)5月のことであった。斎藤義龍が33歳の若さで急死したのである 4 。後を継いだのは、わずか14歳の嫡男・龍興であり、この代替わりによって斎藤家の統率力に明らかな動揺が生じ始めた 1 。信長はこの千載一遇の好機を逃さなかった。義龍の死からわずか3日後には美濃へ再侵攻し、森部の戦いで大勝を収める 4 。これにより、美濃攻略の主導権は初めて信長の手へと傾き始めた。

2. 小牧山城への拠点移転と戦略の転換(1563年)

美濃攻略を本格化させるため、信長は永禄6年(1563年)、本拠地をそれまでの清洲城から、美濃国境に近い小牧山に新たに築いた城へと移転した 4 。この小牧山城への拠点移転は、単なる前線基地の構築に留まらない、多大な戦略的意味を持っていた。

第一に、これは美濃攻略に対する信長の恒久的かつ断固たる意志を内外に示すものであった。第二に、信長は城の建設と同時に、新たな城下町の形成にも着手しており、これは軍事力の維持と国力増強を一体で進める先進的な戦略思想の表れであった 2 。小牧山城は、後の安土城にも通じる、信長の天下取りの拠点となる城郭都市の原型とも言える。ここを拠点とすることで、信長の美濃への圧力は、断続的な侵攻から持続的なものへと質的に変化したのである。

3. 斎藤家の内訌:竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取り(1564年)

若年の斎藤龍興は政務を顧みず、一部の寵臣を重用したため、斎藤家臣団の不満は日増しに高まっていた 2 。その不満が爆発し、斎藤家の権威失墜を決定づけたのが、永禄7年(1564年)に発生した竹中半兵衛(重治)による稲葉山城乗っ取り事件である 7

半兵衛は舅である安藤守就らと共謀し、わずか十数名の手勢で、難攻不落とされた斎藤氏の本拠・稲葉山城を占拠するという前代未聞の挙に出た 8 。この事件の動機は、主君・龍興の愚行を諫めるためであったと伝えられているが 9 、その結果として斎藤家の権威は完全に地に落ち、美濃三人衆をはじめとする有力国衆の離反を加速させる決定的な要因となった。信長はこの機に、半兵衛に対して城の明け渡しを打診したが、半兵衛は「美濃の城を他国の人間に渡すのは本意ではない」としてこれを拒否したと伝えられる 7 。この逸話は半兵衛の気骨を示すものであるが、その裏で斎藤家の内部崩壊はもはや誰の目にも明らかとなっていた。

4. 最後の抵抗:河野島の戦い(1566年)

美濃攻略が最終段階に入る直前の永禄9年(1566年)閏8月、信長は思わぬ形で手痛い敗北を喫する。木曽川の中洲である河野島に進軍した際、予期せぬ川の増水に見舞われ、斎藤軍の追撃を受けて多数の溺死者を出すという大敗を喫したのである 5 。この「河野島の戦い」は、斎藤龍興にとって最後の勝利となった 7

この敗北は、斎藤氏にまだ一定の抵抗力が残っていたことを示すと同時に、信長に重要な教訓を与えた可能性がある。それは、稲葉山城のような堅城を力押しだけで攻略することの困難さであり、もはや決定的な勝利のためには、軍事行動と並行して、敵内部の切り崩し、すなわち調略こそが不可欠であるという認識であった。この敗戦の経験が、翌年の美濃三人衆への働きかけを加速させ、電光石火の最終攻略へと繋がっていったと考えられる。

美濃攻略の成功は、単一の軍事的勝利によってもたらされたものではない。それは、7年以上にわたる持続的な軍事圧力と、敵内部の自壊作用、すなわち義龍の死、龍興の器量不足、そして半兵衛の事件といった要素を巧みに利用した調略との組み合わせによって初めて達成されたものであった。特に、竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りは、物理的な戦果以上に、斎藤家家臣団の心理的な結束を破壊し、後の美濃三人衆の寝返りを準備した点で、極めて重要な伏線となっていたのである。

第二章:激動の永禄十年(1567年)- 美濃平定と天下への胎動

永禄10年は、織田信長の生涯において、そして日本の歴史において画期的な一年となった。この年、信長は長年の懸案であった美濃平定を成し遂げるだけでなく、その後の行動を通じて、自らの政治的立場と目標を根本的に変革する。軍事行動、政治的宣言、都市政策が短期間に連動して展開される様は、信長の類稀な構想力と実行速度を物語っている。

【表1】美濃攻略戦と「天下布武」宣言に至る詳細年表(永禄3年~永禄11年)

年月

織田信長の動向

斎藤氏の動向

周辺勢力(足利義昭、武田信玄等)の動向

永禄3年 (1560)

5月 桶狭間の戦いで今川義元を討つ。6月 西美濃へ侵攻するも斎藤義龍に阻まれる 1

斎藤義龍、信長の侵攻を撃退。南近江の六角氏と同盟 4

永禄4年 (1561)

5月 義龍の急死直後に美濃へ侵攻し、森部の戦いで勝利 4

5月11日 斎藤義龍が急死。14歳の龍興が後を継ぐ 4

永禄6年 (1563)

7月 美濃攻略の拠点として小牧山城を築き、本拠を移転 4

徳川家康と清洲同盟を締結(永禄5年説あり) 6

永禄7年 (1564)

竹中半兵衛、主君・龍興を諫めるため稲葉山城を一時占拠 7

永禄9年 (1566)

閏8月 河野島の戦いで木曽川の増水により斎藤龍興に敗北 7

斎藤龍興、信長軍を撃退し最後の勝利を挙げる 7

足利義昭、信長に上洛を要請するも、美濃未平定のため実現せず 13

永禄10年 (1567)

8月1日 美濃三人衆の寝返りを受け、即日出陣 2

8月15日 稲葉山城を陥落させ、美濃を平定 7

9月 本拠を岐阜城へ移し、「岐阜」と改名 14

10月 岐阜で楽市楽座令を発布 15

11月 「天下布武」印の使用を開始 16

8月1日 美濃三人衆(稲葉、氏家、安藤)が信長に内通 2

8月15日 斎藤龍興、城を脱出し伊勢長島へ逃亡 7

11月 足利義昭、越前一乗谷へ移るも朝倉義景は動かず 18 。武田信玄、信長の嫡男・信忠と五女・松姫の婚約を成立させ同盟強化 20

永禄11年 (1568)

7月 足利義昭を岐阜に迎える 21 。9月 義昭を奉じて上洛を開始 22

7月 足利義昭、朝倉氏を見限り信長を頼る 22 。10月 信長に奉じられ上洛、第15代将軍に就任 21

1. 最終局面への布石(1月~7月)

年が明けて永禄10年、信長は前年の河野島での敗北を教訓とし、武力による正面攻撃ではなく、調略による内部からの切り崩しに全力を注いでいた。その最大の標的が、西美濃に大きな影響力を持つ「美濃三人衆」—稲葉一鉄、氏家卜全、そして安藤守就であった 2 。彼らは斎藤道三、義龍の代からの宿老であったが、龍興の器量に見切りをつけており、信長との間で水面下の交渉が続けられていた。この間、斎藤龍興は有力家臣の離反により、稲葉山城で急速に孤立を深めていった。

2. 電光石火の稲葉山城陥落(8月)

夏になり、ついにその時は訪れた。

  • 8月1日: 美濃三人衆は、信長に人質を送り、恭順の意を正式に示した 2 。この報せを受けた信長の行動は驚異的であった。彼は人質が自軍の陣営に到着するのを待つことなく、即座に全軍に出陣を命じたのである。この常識外れの決断速度が、斎藤方の対応を完全に後手に回らせる最大の要因となった。
  • 8月初旬: 信長軍は稲葉山城と尾根続きの瑞竜寺山を瞬く間に占拠。山上に突如として現れた織田軍の旗を見た斎藤方は、「あれは敵か味方か」と戸惑い、混乱に陥った 2 。信長はその隙を逃さず、城下の井ノ口の町に一斉に火を放った。折からの強風に煽られ、火は瞬く間に燃え広がり、稲葉山城は防御の要である城下町を失い、文字通り「裸城」と化した 2
  • 8月14日: 信長はさらに城の周囲に鹿垣(防御用の柵)を巡らせ、完全に包囲網を完成させた 2 。『信長公記』によれば、この頃に戦場へ駆けつけた美濃三人衆も、織田軍のあまりの仕事の速さに驚愕したと記されている 2
  • 8月15日: もはや抵抗する術も意志も失った城兵は降伏。城主・斎藤龍興は、数人の供とともに舟で長良川を下り、伊勢長島へと落ち延びていった 2 。こうして信長は、父・信秀の代からの悲願であった美濃平定を、三人衆の寝返りからわずか半月という驚異的な速さで達成したのである。

3. 新時代の幕開け-「岐阜」誕生と政策転換(8月~10月)

美濃平定後、信長の行動はさらに加速する。彼は単に一国を征服した領主として振る舞うのではなく、これを機に新たな国家構想を次々と打ち出していった。

  • 8月下旬~9月: 信長は本拠地を小牧山城から、陥落させたばかりの稲葉山城へと移した。そして、この地を新たな名で呼ぶことを宣言する。城は「岐阜城」へ、城下町は「井ノ口」から「岐阜」へと改名された 2 。この命名は、信長の教育係でもあった臨済宗の僧・沢彦宗恩の進言によるものとされ、その由来は中国古代史にあった 6 。周の文王が「岐山」の麓から起こり、やがて天下を平定して平和な世を築いたという故事に倣ったのである 23 。この改名は、信長が自らの事業を単なる領土拡大ではなく、天下に平和と秩序をもたらす歴史的偉業と位置づけたことを示す、極めて重要な思想的表明であった。
  • 10月: 新たな本拠地・岐阜において、信長は商業の活性化を目指す画期的な経済政策を打ち出す。城下に高札を掲げ、座(同業者組合)の特権を廃し、誰もが自由に商売できる「楽市楽座」を宣言したのである 15 。これは、軍事拠点であると同時に、経済の中心地として岐阜を発展させようとする信長の先進的な都市政策であり、後に詳述する「天下布武」が目指す理念の具体的な実践でもあった。

4. 「天下布武」印の登場(11月)

軍事、思想、経済の各分野で矢継ぎ早に新政策を打ち出した信長は、その総仕上げとして、自らの政治方針を刻印した新たなシンボルを導入する。

  • 11月: この月に発給された複数の文書、例えば山田七郎五郎に宛てた朱印状や、美濃国円鏡寺に与えた安堵状などにおいて、「天下布武」と刻まれた朱印の使用が初めて確認される 16 。これは、花押(サイン)に代わる、信長の新たな公式の印章であった。

この「天下布武」印の使用開始は、美濃平定という軍事的成功、岐阜命名という思想的表明、楽市楽座という経済政策に続く、一連の行動の集大成であった。信長が自らの新たな政治スローガンを、公式に内外へ宣言した歴史的瞬間だったのである。

永禄10年8月から11月にかけての信長の行動は、軍事(稲葉山城陥落)、地政学・思想(岐阜命名)、経済(楽市楽座)、そして政治的宣言(天下布武印)が、わずか4ヶ月の間に連動して実行された、極めて計画的かつ統合的な戦略であった。これらは個別の事象ではなく、信長が提示した「新たな国家構想のパッケージ」と見なすべきである。岐阜命名で「なぜ戦うのか」という歴史的正当性を示し、楽市楽座で「どのような国を作るのか」というビジョンを示し、最後に「天下布武」印でその全てを包括するスローガンを刻印した。この一連の鮮やかな流れは、信長の類稀な構想力と実行速度を如実に物語っている。

第三章:「天下布武」の多角的分析:印章に込められた信長の国家構想

永禄10年11月、歴史の表舞台に初めて姿を現した「天下布武」の四文字。この言葉に込められた真意は何か。それは単なる武力による支配宣言だったのか、それともより高度な政治理念の表明だったのか。印章というメディアの特性、言葉の解釈をめぐる研究史、そして信長の具体的な政策との関連から、その多層的な意味を深く掘り下げる。

1. 印章という新たな政治的メディア

戦国時代、文書の真正性を示すためには、自署の上に描く記号である「花押」を用いるのが一般的であった 32 。しかし、信長と同時代の東国の戦国大名、例えば後北条氏や武田氏の間では、花押に代わって権威の象徴としての印章を用いる動きが広まりつつあった 32

信長がこの新しい形式である印章、特に朱肉を用いる「朱印状」というスタイルを全面的に採用したこと自体が、重要な意味を持つ。花押が個人的な署名であるのに対し、印章は組織の公的な権威を示す。信長が「天下布武」というスローガンを刻んだ印章を自らの発給文書に捺すことは、その命令が織田信長という一個人の意志に留まらず、「天下布武」という公的な理念に基づくものであることを宣言する行為であった。それは、自身の命令の絶対性と文書の画一的な真正性を保証する、近代的・合理的な統治システムへの志向を示すものであった。

なお、「天下布武」の印章そのものは現存しないが 33 、各地に残る朱印状から、その形状は複数あったことが確認されている。永禄10年から使用が始まった初期のものは楕円形であり、その後、馬蹄形、さらには二匹の龍が印文を囲む双龍形といった、より装飾的なものも登場する 17 。朱印(朱色)と黒印(黒色)の使い分けについては、現在のところ明確な定説はない 33

2. 「天下布武」の解釈をめぐる研究史

「天下布武」の解釈は、歴史研究の進展とともに大きく変化してきた。

従来説(武力統治説)

長らく通説とされてきたのは、「武を以て天下に布(し)く」、すなわち「武力によって天下を統一し、支配する」という、信長の覇道を直接的に表現したものとする解釈である 32 。この解釈は、旧来の権威を躊躇なく破壊した比叡山焼き討ちや、敵対勢力に対する苛烈な殲滅戦といった信長の行動と非常に整合性が高く、彼の「革命児」「破壊者」としてのイメージを補強するものとして広く受け入れられてきた。

新説(七徳の武説)

しかし近年、この解釈に一石を投じる新たな説が有力となっている。それは、信長の思想的支柱であったとされる僧・沢彦宗恩の存在に着目し、「天下布武」の出典を中国の古典『春秋左氏伝』宣公十二年の故事に求めるものである 6

この故事によれば、真の「武」とは、単なる暴力ではなく、七つの徳を備えたものであるとされる。これを「七徳の武」と呼ぶ 40 。その七徳とは、「暴を禁じ(暴力的な争いを禁じる)、戦を止め(戦争を終結させる)、大を保ち(大国としての安定を保つ)、功を定め(功績を正しく評価する)、民を安んじ(人民の生活を安定させる)、衆を和し(人々を協調させる)、財を豊かにする(経済を繁栄させる)」ことである 42

また、「武」という漢字の成り立ち自体が、「戈(ほこ)」という武器を「止める」という二つの部分から構成されており、本来は争いを収める平和的な意味合いを持つという指摘も、この説を補強する 44 。この解釈に従えば、「天下布武」とは、武力による平和の創出、すなわち武家による安定した政治秩序を天下に確立し、民が安心して暮らせる豊かな社会を実現するという、より高度で包括的な国家建設の理念であったということになる。

【表2】「天下布武」の解釈比較

項目

従来説(武力統治説)

新説(七徳の武説)

解釈の要約

武力によって天下を統一し、支配するという覇道の宣言。

「七徳の武」に基づき、武力を用いて戦乱を終結させ、平和で豊かな社会を天下に確立するという政治理念。

思想的背景

特になし(信長個人の野心と解釈)。

中国の古典『春秋左氏伝』宣公十二年の故事。

提唱者/支持者

従来の歴史学における一般的見解。

近年の研究者(沢彦宗恩の役割を重視)。

根拠となる事象

比叡山焼き討ち、長島一向一揆の根絶やしなど、敵対勢力への苛烈な対応 46

岐阜命名の故事、楽市楽座などの経済政策、沢彦宗恩との深い関係 6

現代における評価

信長の破壊的な側面を強調する解釈。

信長の統治者・為政者としての建設的な側面を評価する解釈。

3. 「天下」の射程と信長の政権構想

「天下布武」を掲げた当初、信長が意図した「天下」の範囲はどこまでだったのか。これもまた、重要な論点である。

現代的な感覚では「天下」=日本全国と捉えがちだが、当時の武将にとっての「天下」とは、まず何よりも室町幕府の将軍の権威が及ぶべき領域、すなわち京都を中心とする山城・大和・河内・和泉・摂津の「五畿内」を指すという説が有力である 6

永禄10年当時、信長は流浪の身であった足利義昭から、自らを将軍の位に就けるための上洛を要請されていた 48 。この文脈で考えれば、「天下布武」とは、まず第一に、義昭を奉じて京都へ上り、三好三人衆などの敵対勢力を武力で平定し、将軍の権威のもとに畿内の秩序を回復するという、当面の政治目標を宣言したものであったと解釈できる 17

事実、信長は翌永禄11年に上洛を成功させ、義昭を第15代将軍に就任させることで、この目標を一旦は達成する 6 。しかし、その後、将軍義昭との関係が悪化し、元亀4年(1573年)に義昭を京都から追放するに至って、信長は室町幕府という既存の権威に代わり、自らが「天下」の秩序に責任を負う立場とならざるを得なくなった 50 。この過程で、「天下布武」が意味する「天下」の範囲も、畿内から日本全国へと拡大し、その理念も幕府の再興から、信長自身による新たな統一政権の樹立へと変質・発展していったと考えられる 52

「武力統治説」と「七徳の武説」は、必ずしも対立するものではなく、むしろ表裏一体の関係にあると捉えるべきである。「七徳の武」が掲げるような平和で安定した秩序(理念・目的)を、群雄が割拠する戦国の世で実現するためには、その秩序構築に反する勢力、すなわち「暴」を、圧倒的な「武力」(手段)によって禁じる必要があった。したがって、「天下布武」とは、「武力を用いて戦乱を終結させ、七徳に基づく新たな武家政権による平和秩序を天下に確立する」という、極めて現実的かつ壮大な政治綱領であったと結論付けられる。信長の苛烈な行動は、彼自身の理念を貫徹するための、彼なりの論理的帰結であったと解釈することで、一見矛盾する信長の行動に一貫した論理を見出すことが可能となる。

第四章:永禄十年(1567年)の天下情勢:信長を取り巻く大名たちの動向

織田信長が美濃を平定し、「天下布武」を高らかに宣言した永禄10年(1567年)。この歴史的な行動がなぜ可能であったのかを理解するためには、信長個人の能力や戦略だけでなく、彼を取り巻く天下の情勢、すなわち他の有力大名たちがどのような状況に置かれていたのかを分析することが不可欠である。結論から言えば、この年は信長にとって、主要なライバルたちがそれぞれ別の問題に直面し、中央政界に権力の空白が生じるという、千載一遇の好機であった。

1. 逼塞する将軍候補・足利義昭

永禄8年(1565年)に兄である第13代将軍・足利義輝を三好三人衆らに殺害され、流浪の身となっていた足利義昭(当時は義秋)は、この頃、越前国の朝倉義景のもとに身を寄せていた 18 。彼は義景の軍事力を頼りに上洛し、将軍職を継ぐことを悲願としていたが、義景は一向に動こうとしなかった 19

永禄10年11月、義昭は滞在先を敦賀から一乗谷の安養寺へと移し、自ら朝倉氏と敵対していた加賀一向一揆との和睦を斡旋するなど、事態を打開しようと奔走する 18 。しかし、状況は好転せず、彼の焦燥感は募るばかりであった。このような八方塞がりの状況下で伝えられた信長の美濃平定という報は、義昭と、彼に付き従う細川藤孝、そして当時彼らに仕えていた明智光秀らにとって、まさに暗闇に差し込んだ一筋の光明であった 22 。信長こそが、自らの上洛を実現してくれる唯一の存在であると、彼らが確信するに至ったのである。

2. 東方の安定:武田信玄との同盟

東方に目を転じれば、甲斐の武田信玄は大きな国内問題と外交方針の転換に直面していた。永禄8年に発覚した嫡男・義信の謀反事件は、今川義元の娘を妻とする義信を中心とした親今川派と、信長との同盟を推進する信玄との対立が背景にあったとされる 20 。この事件を経て、永禄10年10月に義信が死去したことで、今川氏との婚姻同盟(甲相駿三国同盟)は事実上崩壊 20 。信玄の戦略目標は、北の上杉氏から南の今川領・駿河へと大きく転換しつつあった 60

この駿河侵攻計画を遂行する上で、背後を固めることは信玄にとって最重要課題であった。そのため、信長との同盟関係は極めて重要であり、永禄10年には信玄の五女・松姫と信長の嫡男・信忠との婚約を成立させ、関係をさらに強化している 20 。この結果、信長にとって東からの脅威は完全に払拭され、彼は美濃攻略とそれに続く上洛計画に全戦力を集中することが可能となった。

3. 北方の膠着:上杉謙信の関東遠征

信長のもう一人の潜在的なライバル、越後の上杉謙信は、この時期、関東における宿敵・北条氏康との覇権争いに忙殺されていた。関東管領としての「義」を掲げ、頻繁に関東へ出兵し、北条方の諸城を攻撃していたのである 63 。永禄10年にも、佐野昌綱が籠る唐沢山城を攻撃するなど、その軍事行動の主軸は完全に関東に向けられていた 64 。信長が美濃で勢力を拡大している間、謙信が西に目を向ける戦略的余裕は全くなかった。

4. 畿内の権力闘争と朝廷の期待

そして、信長が目指す中央・京都では、将軍義輝を殺害した三好三人衆と、彼らと対立する松永久秀との間で抗争が続き、政治的混乱が極まっていた 20 。室町幕府は完全に機能を停止し、畿内に秩序をもたらすことのできる強力な武家の登場が、正親町天皇をはじめとする朝廷からも切望されていた 53

永禄10年という年は、信長にとって「権力の真空」と「好都合な周辺情勢」が奇跡的に重なった「戦略的機会の窓」であったと言える。東の武田は同盟国として南を向き、北の上杉は関東に釘付けにされ、西の畿内は混乱し、自らの行動を正当化してくれる最高の権威(足利義昭)は、まさに助けを求めている。旧来の有力者(朝倉義景)がその期待に応えられないでいる中、信長が美濃平定という圧倒的な実力を示したことの価値は、飛躍的に高まった。「天下布武」の宣言は、この千載一遇の好機を逃さず、天下に名乗りを上げるために放たれた、まさに絶好のタイミングの号砲だったのである。信長の成功は、彼自身の能力だけでなく、時代の潮流を正確に読み解く戦略眼にあったことが、この情勢分析から浮き彫りになる。

終章:「天下布武」印開始の歴史的意義とその後

永禄10年(1567年)の一連の出来事、すなわち美濃平定、岐阜への改名と本拠移転、そして「天下布武」印の使用開始は、織田信長の生涯における、そして戦国時代の歴史における決定的な転換点であった。この年を境に、信長は尾張・美濃の二ヶ国を領する有力な地方領主から、「天下」の秩序形成に責任を負う中央政界の主要人物へと、その政治的立場を質的に変貌させたのである。

「天下布武」の宣言は、単なるスローガンに留まらなかった。それは、翌永禄11年(1568年)に敢行される足利義昭を奉じての上洛を、内外に予告するものであった 22 。美濃平定が上洛の物理的・地理的条件を整えたとすれば、「天下布武」はその軍事行動に「将軍家を再興し、天下の静謐を取り戻す」という大義名分と、明確な理念的根拠を与えた。これにより、信長は単なる侵略者ではなく、中央の秩序回復者として京都へ進むことが可能となったのである。

しかし、歴史が示すように、「天下布武」の理念は固定されたものではなかった。当初は足利義昭を頂点とする室町幕府の再興を掲げたものであったが、やがて将軍としての権威を取り戻そうとする義昭と、実質的な統治権を掌握しようとする信長との間には深刻な対立が生じる 6 。この対立は、元亀4年(1573年)の義昭追放という形で決着し、室町幕府は事実上滅亡する 50

この瞬間、「天下布武」の担い手は、幕府の後見人たる信長から、信長自身へと完全に移行した。彼は幕府という既存の権威に代わる、新たな統治体制を自らの手で構築するという、より壮大で困難な課題に直面することになる 53 。その後の安土城の築城や、朝廷との関係構築の模索は、すべてこの新たな段階に入った「天下布武」の実現に向けた試みであった。

結論として、永禄10年の「天下布武」印の開始は、信長による新たな時代創造の、まさに第一歩であった。それは、戦乱の世を武力によって終結させ、新たな政治秩序を打ち立てるという壮大な意志の表明であり、その後の彼のすべての行動を方向づける基本理念となった。この印が押された一枚の文書から、日本の歴史は新たな局面へと大きく舵を切ったのである。

引用文献

  1. 織田信長の美濃侵攻 前半 - よしもと新聞舗:岐阜県瑞穂市情報お届けサイト http://www.yoshimoto-shinbun.com/history/%E7%B9%94%E7%94%B0%E4%BF%A1%E9%95%B7%E3%81%AE%E7%BE%8E%E6%BF%83%E4%BE%B5%E6%94%BB/
  2. 【解説:信長の戦い】稲葉山城の戦い(1567、岐阜県岐阜市金 ... https://sengoku-his.com/485
  3. 戦国・安土桃山時代の戦国大名(1534~1582)。幼名・吉法師 ... https://www.forest.minokamo.gifu.jp/m_dictionary/details.cfm?id=510&indekkusu=5
  4. 第81回 信長の美濃攻め、まとめ年表を作ってみました | 若き信長 桶 ... https://nobunaga.blog/?p=207
  5. 品野城・河野島・明知城…織田軍はこんなにも敗北を喫していた | WEB歴史街道 https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8241
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  52. 「天下布武」を掲げて天下統一を目指した織田信長!でも「天下」が何を指していたかと言えば…。最新の「日本史」に楽しくアップデート! - 婦人公論 https://fujinkoron.jp/articles/-/8974?page=2
  53. 信長見聞録 天下人の実像 ~第十三章 足利義昭〜 | GOETHE https://goetheweb.jp/lifestyle/more/20200103-nobunaga13
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  58. 「信長の天下統一を邪魔した卑怯者」?ナゾ多き反逆者・明智光秀、実は地元で「神」としてまつられる名君だった【偉人研究家が解説】 - THE GOLD ONLINE https://gentosha-go.com/articles/-/62117
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  60. 長野市「信州・風林火山」特設サイト 川中島の戦い[戦いを知る] https://www.nagano-cvb.or.jp/furinkazan/tatakai/jinbutsu4.php.html
  61. 武田信玄は何をした人?「戦国最強の甲斐の虎と呼ばれ風林火山の旗をなびかせた」ハナシ|どんな人?性格がわかるエピソードや逸話・詳しい年表 https://busho.fun/person/shingen-takeda
  62. 『真田丸』『風林火山』…大河ドラマで話題の戦国武将を深掘り!武田信玄・上杉謙信・真田幸村・伊達政宗の生涯と人物像 - FUN! JAPAN https://www.fun-japan.jp/jp/articles/14118
  63. 知略に富み、義を重んじた戦国武将・上杉謙信公 kensinyukarinochijoetsu - 上越観光Navi https://joetsukankonavi.jp/kensinyukarinochijoetsu/
  64. 上杉謙信は何をした人?「最強・無敗の毘沙門天の化身は正義の ... https://busho.fun/person/kenshin-uesugi
  65. 山科言継(やましな ときつぐ) 拙者の履歴書 Vol.332~朝廷と戦国の狭間に生きて - note https://note.com/digitaljokers/n/n0f5b77fc1519
  66. 仲良し?対立?信長と朝廷の関係構築!【織田信長シリーズ③】 - 塾講師ステーション https://www.juku.st/info/entry/1334
  67. 結構キツイ?信長が将軍足利義昭に宛てた「五カ条の条書(1570年)」とは | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/823
  68. 織田信長と足利義昭の微妙な政治関係 「殿中掟九ヵ条」が示す信長の幕府観 | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2925
  69. なぜ織田信長は足利義昭を推戴して上洛し、室町幕府を再興したのか? | 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/2885
  70. 【畿内戦国史】[10/10]織田信長と足利義昭、幕府最後の光芒~室町幕府滅亡~ - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=jpdZhIJ68DU