最終更新日 2025-09-18

天文地震(1542)

天文十一年、戦国日本を複合災害が襲う。京都で激震、東海に津波、甲斐に大洪水。若き武田信玄はこれを機に信玄堤を築き、領国を強化。乱世の災害が新たな統治を生んだ。
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天文十一年大地震の衝撃 ― 戦国社会を揺るがした複合災害の実像と政治的帰結

序章:天文十一年、乱世の日本 ― 大災害前夜の政治情勢

天文十一年(1542年)、日本は戦国の動乱の只中にあった。京都に座す室町幕府の権威は地に墜ち、将軍足利義晴は管領・細川晴元ら畿内の有力大名間の抗争に翻弄され、統治能力をほぼ喪失していた 1 。その無力さは、わずか二年前の天文九年(1540年)に発生した「天文の大飢饉」への対応にも顕著であった。幕府が有効な救済策を打ち出せず、施餓鬼を行うに留まった事実は、中央権力がもはや民の安寧を保障する機能を失っていたことを天下に示していた 2

このような中央の政治的空白を背景に、地方では実力を持つ戦国大名が領国経営にしのぎを削り、独自の勢力圏を確立しつつあった。特に、後に日本の歴史を大きく動かすことになる東海地方では、新たな時代の胎動が始まっていた。

駿河・遠江を支配する今川義元は、父・氏親が制定した分国法「今川仮名目録」を継承・発展させ、高度な文書行政システムによる安定した領国支配を築き上げていた 3 。その統治は、後の「海道一の弓取り」と称される強大な軍事力の基盤となるものであり、一つの完成された戦国大名領国の姿を示していた。

その東隣、甲斐国では、前年の天文十年(1541年)に父・信虎を駿河へ追放した若き武田晴信(後の信玄)が、二十一歳で国主の座に就いたばかりであった 4 。晴信は家督を継承するや否や、信濃への侵攻を開始し、その野心と力量を内外に示し始めていたが、甲斐国内の統治基盤はまだ盤石とは言えず、その手腕は未知数であった。

尾張では織田信秀が勢力を伸張し、三河の松平氏との間で激しい抗争を繰り広げていた。このように、中央の統制が及ばぬ中で、各国の領主が自らの才覚と実力のみを頼りに領国の存亡を賭けていた時代、それが天文十一年の日本の姿であった。

この政治状況は、大規模な自然災害が発生した際の対応が、完全に各領主の裁量に委ねられることを意味していた。中央政府による広域的な救済や復興は期待できず、災害への対応能力そのものが、戦国大名の統治者としての資質、そして領国経営の成熟度を測る過酷な試金石となる。天文十一年に列島を襲った未曾有の大災害は、まさにこの乱世の日本の実情を白日の下に晒し、いくつかの大名の運命を大きく左右する転換点となるのであった。

第一部:その日、大地は揺れた ― 京都における激震のリアルタイム記録

発生の刻(天文十一年閏七月十三日、子ノ刻)

天文十一年閏七月十三日(西暦1542年8月24日)、人々が寝静まった子ノ刻(午前0時頃)、京都を凄まじい揺れが襲った。この時の衝撃を、当代一流の文化人であり公家であった山科言経は、自身の日記『言経卿記』に生々しく書き留めている。「大地震、近代是程事無之(近代これほどのことはこれ無し)」 5 。古老さえも経験したことのない、前代未聞の激震であった。

揺れは一度では終わらず、夜通し小刻みな余震が続いた。「小動不止、昼夜不知数了(小動止まず、昼夜数をしらず)」と記される通り、人々は絶え間ない揺れの恐怖に苛まれた 5 。言経自身も倒壊の危険を感じたのであろう、「私宅ユカミ了(私宅歪み了)、庭上ニ出テ夜ヲ明了(庭上に出て夜を明かし了)」と、邸宅の歪みを認め、家族と共に庭へ避難して不安な一夜を過ごした 5 。京の町々の多くの人々が、彼と同じように屋外で身を寄せ合い、恐怖に震えながら夜が明けるのを待つしかなかった。

恐怖の一夜と白日の下の惨状

夜が明け、白日の下に晒された京都の姿は、まさに地獄絵図であった。言経が住まう本願寺寺内町では、本願寺と興正寺の御堂が倒壊し、2、3名の死者が出た 5 。さらに町全体を見渡せば、「寺内家悉ク大略崩了、死人三百人ニ相及了、全キ家一間モ無之(寺内の家ことごとく大略崩れ了、死人三百人に相及び了、全き家一間もこれ無し)」という壊滅的な状況であった 5 。火災の発生記録がないにもかかわらず、建物の倒壊だけでこれほど多くの犠牲者が出た事実は、応仁の乱以降の復興期に建てられた京の町屋が、巨大な地震動に対して極めて脆弱な構造であったことを物語っている。

被害は寺内町に留まらなかった。京都の象徴ともいえる数々の寺社仏閣も甚大な被害を受けた。東寺では、五重塔、鎮守八幡社、大師堂など七つの建造物が倒壊 5 。方広寺の大仏(京の大仏)は、仏殿こそ無事だったものの、巨大な柱が地面に二寸(約6cm)もめり込み、大仏本体も胸から下が損傷した 5 。三十三間堂(蓮華王院本堂)も歪みを生じたと記録されている。一方で、興味深いことに東福寺の本堂は、もともと東に傾いていたものが、この地震によって逆に西へ揺り戻され、歪みが直ったという。「奇特了」という言経の記述は、人知を超えた現象に対する当時の人々の畏怖の念を伝えている 5


表1:『言経卿記』に見る京都および周辺地域の被害状況

所在地

施設・対象

被害状況

史料からの引用(原文)

京都市内

山科言経邸

歪み、庭で夜を明かす

「私宅ユカミ了、庭上ニ出テ夜ヲ明了」 5

本願寺寺内町

ほぼ全ての家屋が倒壊、死者300人

「全キ家一間モ無之」「死人三百人ニ相及了」 5

本願寺・興正寺

御堂が倒壊、死者2、3人

「門跡御堂・興門御堂等顛倒了」 5

下京(四条町)

特に被害甚大、死者280人以上

「下京ハ四条町事外相損了、以上二百八十余人死也」 6

東寺

五重塔、鎮守八幡社、大師堂など7棟が倒壊

「東寺ハ塔、鎮守八幡社、大師堂、此外七ツ崩了」 5

方広寺大仏殿

柱が二寸沈下、大仏の胸から下が損傷

「柱ヲ二寸程土ヘ入了、御仏ハ御胸ヨリ下少々損了」 5

三十三間堂

建物が少し歪む

「三十三間ハ少ユカミ了」 5

伏見

伏見城

天守が崩壊

「伏見御城ハテンシユ崩了」 6

伏見市街

町屋が崩壊、死者1000人以上

「町々衆家崩之間、死人千ニアマリ了」 6

その他畿内

山崎・八幡

家屋がことごとく倒壊

「山崎事外相損、家悉崩了」「八幡在所是又悉家崩了」 5

兵庫

家屋倒壊後、火災が発生し全焼、死者多数

「兵庫在所崩了、折節火事出来候、悉焼了」 5

和泉堺

被害甚大、死者多数

「和泉堺、事外相損、死人余多有之」 5

大坂

大坂城は無事、しかし町屋はほぼ倒壊

「大坂ニハ御城不苦了、町屋共大略崩了」 5


広域被害の第一報

地震の被害は京都盆地に限定されなかった。日を追うごとに、周辺地域からの悲報が言経のもとへもたらされる。伏見では城の天守が崩れ、町屋の倒壊による死者は千人を超えた 6 。交通の要衝である山崎や石清水八幡宮の門前町である八幡、そして経済の中心地である和泉堺や大坂でも、家屋はことごとく倒壊し、数知れぬ死者が出た 5 。特に兵庫では、家屋倒壊に続いて火災が発生し、町が焼き尽くされるという二次災害も起きていた。

一方で、「近江国ヨリ関東ハ、地動無之云々(近江国より関東は、地動これ無しと云々)」という情報も記録されている 5 。この記述は、揺れの強かった範囲が畿内から西日本、そして東海地方に偏っていたことを示唆しており、後の震源域推定において重要な手がかりとなる。

社会心理の動揺 ― 噂、祈り、そして日常の回復

未曾有の災害は、京の人々の心に深い動揺をもたらした。閏七月十五日の記録には、「又大地動可有之間沙汰有之(また大地震あるべきのあいだ沙汰これあり)」とあり、さらなる大地震が来るとの流言飛語が蔓延していた様子がうかがえる 5 。人々は恐怖のあまり夜も眠れず、混乱に乗じた盗人への警戒を強めるなど、社会不安は極度に高まった 6 。この噂は市井に留まらず、権威の中枢であるはずの内裏にまで届き、宮中では噂を信じて早朝から門の格子を上げて備えるほどの騒ぎとなった 6 。最高権威である朝廷までもが根拠のない情報に振り回される姿は、社会全体を安定させる情報統制能力や求心力が、幕府だけでなく朝廷からも失われていた当時の政治状況を象徴している。

科学的な知識を持たない人々は、神仏への祈りに救いを求めた。地震発生の十三日から、京の町々では誰が始めたともなく、門に松竹の葉を挿し、災厄を祓う和歌を貼り出す風習が広まった 5 。それは、人知を超えた天災に対し、人々が藁にもすがる思いで超自然的な力に平穏を祈った、切実な心情の表れであった。

しかし、そのような混乱と不安の中にあっても、人々の社会的な繋がりは失われてはいなかった。言経の記録には、連日、方々から見舞いの使者が訪れたことが記されている 5 。互いの安否を確認し、見舞いの品を交換する行為は、恐怖に満ちた非日常の中で、共同体の絆を再確認し、日常を取り戻そうとする人々の強靭な精神を示している。

第二部:広がる災禍 ― 東海・甲斐を襲った複合災害

京都での激震の記録が詳細に残る一方で、震源域により近いと推定される東海地方や、隣接する甲斐国からも、断片的ではあるが甚大な被害の記録が伝えられている。それらを繋ぎ合わせると、天文十一年の災害が、単一の地震動による被害に留まらず、津波、山崩れ、河道閉塞、そして大規模な洪水といった、多様な災害が連鎖的に発生した「複合災害」であった実像が浮かび上がってくる。


表2:天文十一年大地震 各地の被害状況と根拠史料

地域

災害種別

被害概要

主要な根拠史料・伝承

畿内 (京都、伏見、堺など)

地震動

家屋の広範囲な倒壊、寺社仏閣の損壊、多数の死者

『言経卿記』 5

駿河

津波

沿岸部で社寺・家屋400棟余りが流失

『静岡県史』等に引用される記録 7

津波

焼津市小川にあった林叟院が津波により海没

『林叟院古文書』 8

遠江

津波

沿岸部で大津波が発生

『松堂禅師語録』 10

山崩れ・洪水

山崩れが天竜川を堰き止め、決壊後に下流域で家屋170棟余りが水没

『静岡県史』等に引用される記録 7

甲斐

洪水

釜無川の大洪水により甲府盆地一円が浸水、甚大な被害

『高白斎記』、『甲陽軍鑑』 2

三河・尾張

不明

具体的な被害記録は確認されていない

-


東海道を呑み込む津波 ― 今川氏の拠点への直撃

震源は、南海トラフ沿いの東海沖であったと推定されている。その証拠に、駿河から遠江にかけての沿岸部を巨大な津波が襲った。史料には「駿河で社寺・家屋流失400棟余」という甚大な被害が記録されている 7 。また、焼津市には、当時小川という地にあった林叟院がこの津波によって海に没し、移転を余儀なくされたという伝承が古文書と共に残っている 8 。遠江国、現在の浜松市にあった龍禅寺の僧、松堂の語録にも「大津波」があったと記されており 10 、広範囲にわたって津波被害が発生したことは間違いない。

これらの被災地は、今川氏の本拠地である駿府の目と鼻の先に位置していた。駿府の港湾機能や沿岸部の製塩業、そして肥沃な田畑は、今川氏の経済力を支えるまさに中枢であった。この心臓部が津波によって直接的な打撃を受けたことは、今川氏の領国経営にとって深刻な事態であったと推察される。

山崩れと河道閉塞 ― 天竜川の二次災害

地震の被害は沿岸部だけに留まらなかった。遠江の山間部では、激しい揺れによって大規模な山崩れが発生した。その結果、「山崩れが天竜川を塞ぎ、数十日を経て決壊し、敷智、長下、石田の三郡住家170棟余没す」という記録が残っている 7

これは、地震動によって崩壊した大量の土砂が川を堰き止め、上流に巨大な「天然ダム(土砂ダム)」を形成したことを示している。天然ダムは数十日にわたって水を溜め込んだ後、貯まった水の圧力に耐えきれずに一気に決壊し、下流域に大規模な土石流と洪水を引き起こした。これは、地震発生から時間差を置いて発生する典型的な二次災害であり、被災地に二重の苦しみをもたらした 13 。沿岸部では津波からの即時避難が求められる一方、内陸の河川流域では、いつ起こるか分からないダム決壊の恐怖に長期間苛まれることになった。

甲斐国を襲った大洪水 ― 地震との連関

天文十一年八月、京都での地震から約一ヶ月後、甲斐国では釜無川が未曾有の大洪水を引き起こし、「甲府盆地一円が泥砂の海と化した」と記録されている 2 。この洪水は、従来、単独の気象災害として語られることが多かった。しかし、閏七月の巨大地震との時間的な近接性を考慮すると、両者の間には強い因果関係があったと考えるのが自然である。

巨大地震の強い揺れは、甲斐の山々の地盤を著しく脆弱化させた。その状態で八月の台風シーズンを迎え、まとまった降雨があったことで、山間部で大規模な土石流が多発し、それが釜無川に一気に流れ込んだ。その結果、通常の洪水をはるかに超える破壊力を持つ「土砂災害型の洪水」となり、甲府盆地に壊滅的な被害をもたらしたのである。国主となったばかりの若き武田晴信が直面したこの大災害は、単なる水害ではなく、巨大地震が引き起こした複合災害の帰結であった。この過酷な経験が、後の彼の治水事業への執念に繋がっていくことになる 4

記録の空白地帯 ― 三河・尾張の謎

本報告の依頼者が当初把握していた「三河国」での被害については、驚くべきことに、天文十一年の地震に関する具体的な被害記録がほとんど見当たらない。これは、同じ東海地方にありながら、後の天正十三年(1586年)に発生した天正地震では、三河の武将・松平家忠が詳細な揺れの記録を『家忠日記』に残し 15 、尾張の清洲城下では液状化の痕跡が発掘調査で確認されるなど 15 、豊富な記録が残っていることと好対照を成している。

この「記録の不在」は、何を意味するのか。一つには、地震の被害が駿河・遠江に比べて軽微であった可能性が考えられる。しかし、より重要なのは、当時の三河・尾張の政治状況であろう。今川氏や武田氏のように領国を一円的に支配する強力な権力がまだ確立されておらず、松平氏や織田氏をはじめとする中小の領主が群雄割拠している状態であった。そのため、領内全域の被害状況を体系的に調査し、公式な記録として作成・保存するだけの統治機構が未熟だった可能性が高い。記録がないこと自体が、この地域の政治的な発展段階を示す一つの歴史的証拠となっているのである。

第三部:災禍は人事を尽くさしむ ― 戦国大名の対応と領国経営への影響

未曾有の複合災害は、戦国大名たちに為政者としての真価を問う過酷な試練を突きつけた。特に、領国が甚大な被害を受けた武田晴信と今川義元は、この危機にどう向き合ったのか。彼らの対応は、その後の領国経営、ひいては戦国史の展開に大きな影響を与えることになった。

武田信玄の治水事業への転換 ― 危機を好機に

甲府盆地を泥砂の海に変えた釜無川の大洪水は、若き国主・武田晴信にとって、まさに国家存亡の危機であった。しかし、彼はこの絶望的な状況を、新たな国造りの好機へと転換させる。この大洪水を直接の契機として、晴信は甲斐の治水の歴史を塗り替える壮大な事業、「信玄堤」の築堤に着手したのである 11

この事業は、単なる災害復旧工事ではなかった。記録によれば、その完成は永禄三年(1560年)とされ、実に二十年近い歳月を要した国家的な大プロジェクトであった 18 。信玄は、急流である御勅使川の流れを、強固な堤防で直接受け止めるのではなく、「霞堤」と呼ばれる不連続な堤防で勢いを削ぎ、さらに「聖牛」と呼ばれる水制(水の流れを制御する工作物)を巧みに配置することで、洪水のエネルギーを巧みに分散・制御する、当時としては極めて先進的な治水システムを構築した。

この事業の目的は、単に水害を防ぐことに留まらなかった。荒れ地であった甲府盆地西部を安定した穀倉地帯へと変貌させ、武田氏の経済的基盤を盤石にすることにあった。それは、来るべき信濃、そして天下への覇業を支えるための、富国強兵策そのものであった。信玄は、この大事業を成し遂げることで、「自然の猛威から民の生活を守ることこそが領主の責務である」という新しい時代の統治イデオロギーを実践し、領民の絶対的な信頼を勝ち得た。災害という危機は、彼が甲斐国における絶対的な支配者としての正統性を確立するための、最大の機会となったのである。

今川氏の試練 ― 領国中枢の打撃と対応の推察

一方、領国の中枢である駿河・遠江の沿岸部を津波に襲われた今川義元の対応については、武田信玄ほど明確な記録は残されていない。しかし、記録が少ないからといって、彼らが無策であったと結論づけるのは早計である。

今川氏は、分国法「今川仮名目録」に象徴されるように、戦国大名の中でも屈指の高度な官僚機構と文書行政システムを確立していた 3 。この優れた統治システムを駆使し、組織的な復旧作業が進められたと考えるのが妥当であろう。具体的には、被災地の検地(測量)をやり直し、被害の程度に応じて年貢の減免措置を講じるといった、きめ細やかな行政対応が行われた可能性が高い。むしろ、こうした復旧作業が「日常業務」の一環として、整然とした官僚機構を通じて淡々と処理されたため、信玄堤のような英雄的な事業として、特別な記録に残りにくかったのかもしれない。

しかし、港湾機能の麻痺、製塩業や漁業への打撃、田畑の塩害など、領国の経済基盤が受けた損害は深刻であったはずだ。この経済的打撃からの復興には、相当な時間と資源を要したであろう。この災害が、その後の今川氏の三河侵攻戦略や、桶狭間の戦いに至るまでの国力に、何らかの目に見えない制約として影響した可能性は否定できない。災害への向き合い方において、危機を領国強化のバネとした新興の武田氏と、完成された統治システムで損害を吸収しようとした名門・今川氏の間に、その後の両者の命運を暗示するような対照的な姿を見出すことができる。

中央権力の不在と地方の自立

この大災害において、被災の中心地の一つであった京都の為政者、すなわち室町幕府や朝廷が、有効な救済策や復興計画を主導したという記録は皆無である。公家である山科言経の日記にさえ、幕府の動向に関する記述は見られない。この事実は、災害対応という国家の根幹をなす機能においても、中央権力が完全に形骸化していたことを示している。領国の安寧は、もはや地方領主の双肩にのみかかっているという冷徹な現実が、この災害によって改めて天下に示されたのであった。

結論:歴史に埋もれた大災害の再評価

本報告書で詳述してきた通り、天文十一年(1542年)に発生した大地震は、単に「東海で大地震、諸国で被害と混乱」と要約される事象では決してない。それは、京都での激しい地震動、東海沿岸を襲った津波、山間部での地滑りとそれに続く河道閉塞、そして甲斐国での土砂災害型洪水といった、多様な災害が広範囲にわたって連鎖的に発生した、まぎれもない「広域複合災害」であった。

この大災害は、戦国時代の歴史、特に東国における勢力図の形成に、決して小さくない影響を与えた。とりわけ、若き武田信玄にとっては、その統治者としてのキャリアの原点ともいえる決定的な出来事であった。彼は、国家存亡の危機を、革新的な治水事業によって領国強化の絶好の機会へと転換させた。信玄堤の建設によって安定した経済基盤を築いたことが、その後の信濃平定、そして上杉謙信や織田信長といった強敵と渡り合うことを可能にした礎となったのである。この意味で、天文地震は、単なる破壊の記録ではなく、新たな社会システムや統治技術を生み出す触媒となり得ることを示す、歴史の好例と言える。

また、本災害の研究は、歴史史料の重要性とその偏在性を我々に教えてくれる。『言経卿記』のような奇跡的に詳細な一次史料が存在する一方で、今川氏の領国や三河・尾張のように、記録が断片的、あるいは皆無に近い地域もある。この記録の濃淡を丹念に読み解くことによって、当時の政治状況や社会の成熟度といった、災害そのものの被害を超えた歴史的文脈を浮かび上がらせることが可能となる。

歴史に埋もれがちであった天文十一年大地震は、武将たちの華々しい合戦の物語だけでは決して見えてこない、もう一つの戦国のリアルな姿を我々に突きつける。それは、抗いがたい自然の猛威と、それに屈することなく、あるいは巧みに適応しながら、自らの未来を切り拓こうとした人間の営みが交錯する、ダイナミックな歴史の舞台なのである。そして、その記録は、数百年後の現代に生きる我々が、未来の災害に備える上でも、示唆に富んだ貴重な教訓を内包している 20

引用文献

  1. 畿内・近国の戦国時代 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%BF%E5%86%85%E3%83%BB%E8%BF%91%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3
  2. 日本の災害・防災年表「気象災害/古代から江戸時代まで(中世・江戸時代編)」 https://www.bosaijoho.net/2025/08/24/bosai-chronicle_weather-diz-1/
  3. 今川氏~駿河に君臨した名家 - 静岡市 https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/p009495.html
  4. 名治水家だった武田信玄 緒方英樹 連載4 https://socialaction.mainichi.jp/2020/04/09/1042.html
  5. 『言経卿記』原本の慶長地震の記事 - 東京大学史料編纂所 https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/personal/fujiwara/tokitune.jishin.html
  6. 『言経卿記』に見る文禄五年伏見地震での震災対応 -特に「和歌を押す」行為について- http://www.histeq.jp/kaishi_21/P153-164.pdf
  7. 静岡県の地震活動の特徴 https://www.jishin.go.jp/regional_seismicity/rs_chubu/p22_shizuoka/
  8. 過去5000年間の南海・駿河トラフ巨大地震による駿河湾の津波と海底地すべり - 静岡大学 https://www.shizuoka.ac.jp/news/detail.html?CN=6568
  9. 過去5000年間の南海・駿河 トラフ巨大地震による駿河 湾の津波と海底地すべり - 北村晃寿 http://akihisakitamura.la.coocan.jp/QSR2020.pdf
  10. 1336年~1603年(南北朝、室町、安土桃山) - 旧浜松 | 浜松情報BOOK http://www.hamamatsu-books.jp/chronology/hamamatsu/2.html
  11. 現在までに語り継がれる『災害』について https://www.fdma.go.jp/publication/database/item/database009_01_01.pdf
  12. 「信玄堤」と「万力林」は治水の礎!武田信玄が駆使したハイテク技術とは - まっぷるウェブ https://articles.mapple.net/bk/19135/
  13. 過去の災害に学ぶ 34 - 内閣府防災情報 https://www.bousai.go.jp/kohou/kouhoubousai/h24/68/past.html
  14. 白州出張所 | 富士川砂防事務所 - 関東地方整備局 - 国土交通省 https://www.ktr.mlit.go.jp/fujikawa/fujikawa00024.html
  15. 天正地震 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E6%AD%A3%E5%9C%B0%E9%9C%87
  16. 歴史地震記録に学ぶ 防災・減災サイト - 愛知県 https://www.pref.aichi.jp/bousai/densho/owari/index.html
  17. 河川工事年表 - 国土交通省 https://www.mlit.go.jp/river/pamphlet_jirei/kasen/rekishibunka/kasengijutsu16.html
  18. 20年の歳月をかけた壮大な治水事業 | 甲府河川国道事務所 - 関東地方整備局 https://www.ktr.mlit.go.jp/koufu/koufu00144.html
  19. 戦国武将・武田信玄は治水事業に長けていた - トプコン https://www.topcon.co.jp/media/infrastructure/civil_engineering_takeda_shingen/
  20. 見てみよう!歴史災害記録と旬のあいち発! https://www.gensai.nagoya-u.ac.jp/rekishijishin/common/pdf/2022/vol103.pdf