最終更新日 2025-09-11

天文法華の乱(1536)

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天文法華の乱(1536年):戦国期京都における宗教、経済、自治を巡る大抗争の全貌

序章:戦国京都、信仰と自治の坩堝

応仁・文明の乱(1467年-1477年)は、室町幕府の権威を失墜させ、京都を灰燼に帰せしめた。しかし、その焦土の中から新たな社会の担い手が登場する。経済力を蓄えた商工業者を中心とする「町衆」である 1 。彼らは荒廃した都市の復興を主導する過程で、自らの町は自らで守り、治めるという強固な自治と自衛の意識を育んでいった 2 。この町衆の精神的支柱となり、彼らの結束を強固なものにしたのが、日蓮宗(法華宗)であった。

鎌倉時代、日像によって京都にもたらされた法華宗は、その明快かつ時に排他的な教義をもって、特に下京の庶民層に深く浸透していった 3 。室町時代を通じてその勢力は拡大し、天文年間に至る頃には、京都は「法華の町」と称されるほど、二十一ヶ寺もの本山が甍を連ねる一大拠点となっていた 5 。この信仰は個人の内面にとどまらず、社会的なネットワークの中核を形成していた。刀剣鑑定の本阿弥家、画壇の狩野家、豪商の茶屋家といった有力町衆が一族を挙げて帰依していた事実は、法華宗が経済的・文化的な上層町衆の生活と不可分に結びついていたことを物語っている 7

法華宗の教義は、他宗派の教えを誤りと断じ、積極的に論破しようとする「折伏」の精神を特徴とする 8 。この姿勢は、信徒間に強烈な連帯感と選民意識を醸成する一方で、必然的に他宗派との深刻な軋轢を生む土壌を育んでいた 3 。応仁の乱によって既存の権威、すなわち幕府、公家、そして比叡山延暦寺に代表される旧仏教勢力が軒並みその力を弱める中、町衆の経済力と自治意識、そして法華宗の宗教的結束力は完全に同期し、増幅しあう関係にあった。法華宗は、混沌とする戦国期の京都において、新たな時代を担おうとする町衆のエネルギーを吸収し、それを組織化するイデオロギー的装置として機能したのである。こうして、単なる信仰共同体は、やがて京都の政治地図を塗り替えるほどの力を持つ武装集団、「法華一揆」へと変貌を遂げていくことになる。

第一章:法華一揆の勃興 ― 町衆の武装と自治

法華宗徒の集団は、他宗派からの度重なる弾圧や、戦乱が日常と化した社会情勢に対応するため、次第に武装化の道を歩み始める 6 。彼らは自衛のために寺院の周囲に堀や土塁を巡らせ、さながら城郭のような防衛施設を構築した 6 。こうして信仰で結ばれた共同体は、政治的・軍事的な要求を掲げて実力行使も辞さない「法華一揆」へとその性格を変貌させていった 10

この法華一揆の活動を末端で支えたのが、京都の自治組織の原型となった「町組」である 1 。町組は、生活共同体である「町」が複数集まって形成された連合組織であり、法華一揆の隆盛と共にその組織力を強化していった 11 。彼らは、京都内外を武装して巡回警備する「打ち廻り」を行って治安維持を担い、さらには領主に対して地子銭(土地税)の減免を求める集団交渉を行うなど、具体的な自治機能を果たしていた 3 。その影響力は、幕府に対して周辺農村の徴税請負権(代官請)を要求するまでに至った記録からも窺える 13 。これは、単なる自衛組織の枠を超え、既存の支配権力に取って代わろうとする統治主体への変貌を目指していたことを示唆している。

ただし、「法華一揆」と「町衆」は完全に同一の存在ではなかった。法華一揆の構成員は、熱心な法華宗信徒を中核としつつも、宗派を問わず自治を志向する京都の町衆、さらには細川政権などから報酬を得ることを目的とした野武士や地侍なども含まれる、複合的な集団であったと考えられる 11 。法華宗の強固な結束力は、町衆が希求する自治のエネルギーを増幅させる「エンジン」の役割を果たし、その影響力は一宗派の枠を超えて、京都の統治構造そのものを変質させるほどの力を持つに至ったのである。

第二章:前哨戦 ― 山科本願寺炎上(天文元年、1532年)

法華一揆が京都における一大軍事勢力としてその名を轟かせた決定的な出来事が、天文元年(1532年)の山科本願寺焼き討ちである。この事件は、管領・細川晴元とその重臣・三好元長の対立を発端とする畿内の広範な戦乱、いわゆる「享禄・天文の乱」の過程で発生した 14

当時、畿内で一大勢力を誇っていた浄土真宗本願寺教団(一向一揆)は、細川晴元と対立する勢力と結び、その脅威は京都にも及びつつあった。追い詰められた晴元は、京都の町衆が組織する法華一揆に救援を要請する 16 。これに応じた法華一揆は、近江守護の六角定頼軍と連合し、一向一揆の拠点であった山科本願寺へ進軍した 10

天文元年8月23日、法華一揆を主力とする数万の軍勢は山科本願寺を四方から完全に包囲した 16 。翌24日早朝に総攻撃が開始されると、堅固を誇った寺内町はわずか数時間で炎に包まれ、壮麗な伽藍はことごとく灰燼に帰した 16 。この戦いにおける法華一揆の組織力と戦闘能力の高さは、畿内の諸勢力を驚愕させた。

この勝利は、法華一揆の運命を大きく左右する転換点となった。戦後、彼らはその功績を背景に、幕府から京都市中の警護権を公式に獲得し、以後約5年間にわたり、事実上の自治、すなわち「法華の治世」を現出させたのである 3 。この成功体験は、彼らの自信を増大させ、その勢力を絶頂にまで高めた。しかし、この輝かしい勝利の瞬間こそ、彼らの破滅への序曲でもあった。山科本願寺焼き討ちは、法華一揆が既存のいかなる権力者の統制も受け付けない、独立した強大な勢力であることを天下に証明してしまった。彼らを「傭兵」として利用した細川晴元にとっても、京都に伝統的な権益を持つ比叡山延暦寺にとっても、法華一揆はもはや制御不能な脅威と映ったのである。この勝利が招いた驕りと周囲の警戒感こそが、わずか4年後の悲劇、天文法華の乱の遠因を形成していくことになる 18

第三章:衝突への導火線

法華一揆の台頭は、京都における旧来の権威、とりわけ比叡山延暦寺の存立基盤を根底から揺るがした。両者の対立は、単なる宗派間の教義論争に留まらず、経済的利権と政治的権威を巡る深刻な闘争であった。

旧権威の焦燥 ― 比叡山延暦寺

延暦寺の危機感は、第一に経済的なものであった。古来、延暦寺は京都の金融業(土倉)を支配し、莫大な利益を上げていた 19 。しかし、法華宗徒である柳酒屋に代表される新興商工業者の経済活動が活発化するにつれ、延暦寺の既得権益は深刻な打撃を受けることになった 3 。法華宗徒による地子銭の不払い運動なども、延暦寺の経済基盤を直接的に脅かすものであった 3

第二に、権威の失墜である。先の「享禄・天文の乱」において、延暦寺は山に籠り事態を静観するのみで、首都防衛に何ら有効な手を打たなかった 19 。その一方で、法華一揆は自らの力で一向一揆の脅威から京都を守り抜いた。この対照的な行動は、町衆の目から見た延暦寺の権威を著しく低下させ、相対的に法華一揆の存在感を高める結果を招いたのである 19

引き金 ― 「松本問答」の衝撃

積年の対立感情が沸点に達する直接的なきっかけとなったのが、天文5年(1536年)2月(あるいは3月)に発生した「松本問答」である 6 。京都の一条烏丸で辻説法を行っていた延暦寺西塔の僧・華王房に対し、法華宗徒の松本久吉が宗論を挑んだ。大勢の聴衆が見守る中、華王房はことごとく論破され、激昂した久吉によって高座から引きずり下ろされ、あろうことか袈裟衣まで剥ぎ取られるという前代未聞の事態に至った 20

この事件は、単に一人の僧侶が辱めを受けたというレベルの問題ではなかった。延暦寺にとって、それは自らの教義の正当性と宗教的権威そのものが、満座の中で一介の信徒によって否定されたことを意味し、「一山の恥辱」として受け止められた 19 。蓄積されていた法華宗への敵意は、この事件を口実に一気に爆発し、延暦寺は武力による報復を決意する。

外交戦と「反法華連合」の形成

しかし、延暦寺の行動は衝動的なものではなく、周到な準備に基づいていた。まず彼らは、幕府に対して「法華宗」という宗号の使用を停止させるよう訴え出た。これは自らの行動に大義名分を与えるための政治的布石であったが、幕府は後醍醐天皇による勅許を根拠に法華宗側の勝訴とした 20 。一部には、幕府が意図的に両者の対立を煽ったとする見方もある 20

法的な手段に失敗した延暦寺は、武力行使へと完全に舵を切る。彼らは越前の朝倉氏といった大名、さらにはかつて敵対した本願寺や興福寺、東寺など畿内近国の主要寺社にまで檄文を送り、法華宗討伐への協力を要請した 19 。多くの寺社は直接の出兵こそしなかったものの、中立を約束した。これにより、法華宗は外交的に完全に孤立させられたのである。

決定打となったのは、近江守護・六角定頼の動向であった。かつて山科本願寺を共に攻めた同盟者である定頼は、当初こそ両者の仲裁を試みたが、法華宗の増長と延暦寺からの強い働きかけを受け、最終的に延暦寺側への加担を決断する 18 。さらに、法華一揆をかつて利用した細川晴元に至っては、もはや制御不能となった彼らを「用済み」と判断し、静観の構えをとった 19 。こうして、京都を舞台に、法華宗に対する巨大な包囲網が完成した。天文法華の乱は、延暦寺が自らの存亡をかけて仕掛けた、周到に準備された「予防戦争」だったのである。

第四章:京都炎上 ― 天文法華の乱・五日間の記録

天文5年(1536年)7月、法華宗を殲滅すべく形成された「反法華連合」は、ついに軍事行動を開始した。京都は、応仁の乱を上回るとも言われる未曾有の戦火に見舞われることになる。以下に、戦闘が最も激化した7月22日から27日にかけての経過を時系列で詳述する。

開戦前夜(7月20日頃)

決戦を前に、両軍は京都周辺に集結した。延暦寺は諸国の末寺から僧兵を動員し、その数は数万にのぼった。これに六角定頼・義賢父子が率いる近江勢3万、そして園城寺(三井寺)の兵3千騎などが加わり、連合軍の総兵力は、『厳助往年記』によれば6万、『祐雑記』では15万とも記録される巨大な軍勢となった 18 。彼らは京都の東山山麓から北にかけて布陣し、都を完全に包囲する態勢を整えた。

対する法華宗側も、洛中洛外の二十一本山を拠点に防衛網を敷き、2万から3万の信徒や町衆を動員した 20 。寺院はかねてより堀や土塁で要塞化されており、彼らは絶望的な兵力差の中、籠城戦を覚悟して連合軍を待ち受けた 6

7月22日:戦端、松ヶ崎にて開く

7月22日早朝、連合軍は京都洛外の北方に位置する法華宗の拠点、松ヶ崎への攻撃を開始した。この地は村全体が法華宗に改宗した要衝であり、妙泉寺を中心とした松ヶ崎城は洛中防衛の最前線であった 6 。連合軍はまずこの洛外拠点を叩くことで、法華宗の防衛網に楔を打ち込み、洛中への圧力を高める戦略をとった 6

どちらが先に攻撃を仕掛けたかについては諸説あるが 20 、戦闘は熾烈を極めた。松ヶ崎の法華宗徒は果敢に抵抗したが、大軍の前に衆寡敵せず、激戦の末に松ヶ崎城は陥落。妙泉寺をはじめとする堂宇はことごとく焼き払われた 6 。洛中防衛の第一線が、戦闘開始初日にして破られたのである。

7月23日~26日:洛中市街戦 ― 二十一本山の攻防

松ヶ崎の陥落を受け、連合軍の主力は洛中へと雪崩れ込んだ。ここから、京都の市街地を舞台とした凄惨な殲滅戦が始まる 23 。法華宗側は、本能寺や妙覚寺といった二十一本山をそれぞれの拠点として、必死の抵抗を試みた。特に本能寺は、約2万の兵をもって四条口の守りを固めたが、押し寄せる大軍の前に防衛線は突破された 6

戦いは各寺院での籠城戦、そして入り組んだ町中での市街戦の様相を呈した。連合軍は法華宗の拠点寺院を一つずつ攻め潰し、抵抗する者たちを殺戮し、そして火を放った。本国寺、妙覚寺、妙蓮寺など、京都の繁栄を象徴した法華宗の大本山が、次々と攻め落とされ、炎上していく 6 。連合軍が放った火は、折からの風にあおられて瞬く間に燃え広がり、一大火災となった。この戦火によって、商工業の中心地であった下京は全域が、上京もその3分の1が焼き尽くされたと記録されている 9 。その被害規模は、京都を荒廃させた応仁の乱をも上回るものであったと伝えられる 3

7月27日:壊滅と都落ち

5日間にわたる戦闘の末、7月27日には法華一揆の組織的抵抗は完全に終息した 20 。隆盛を誇った京都の法華勢力は、文字通り壊滅したのである。この戦いによる法華宗側の死者は、記録によって差があるものの、3千から1万人ともいわれ、その中には数百人の女性や子供も含まれていたという 20 。これはもはや宗派間の紛争ではなく、一方的な殲滅を目的とした「戦争」であった。

生き残った僧侶や信徒たちは、炎上する京都を後にして、南へと逃れた。その多くは、当時自治都市として繁栄していた和泉国の堺にある末寺などを頼り、落ち延びていった 3 。かつて「法華の町」と謳われた都は、無残な焦土と化した。

日付

場所

連合軍(延暦寺・六角等)の動き

法華一揆の動き

結果・特記事項

7月22日

洛外・松ヶ崎

松ヶ崎城へ総攻撃を開始。

妙泉寺を中心に籠城し、徹底抗戦。

激戦の末、松ヶ崎城は陥落。妙泉寺は焼失し、洛中への進撃路が開かれる 6

7月23日

洛中・四条口

主力部隊が洛中へ侵攻を開始。

本能寺などが主力となり、約2万の兵で防衛線を形成 6

圧倒的な兵力差により防衛線が突破される。本格的な洛中市街戦へ移行。

7月24日-26日

洛中各所

二十一本山への各個撃破を敢行。拠点寺院に次々と放火。

各寺院で籠城戦を展開するも、連携を断たれ孤立。

本国寺、妙覚寺などが次々と陥落・炎上 24 。火災は下京全域、上京の3分の1にまで拡大し、被害は甚大を極める 9

7月27日

洛中全域

市街の残敵掃討と制圧を完了。

組織的抵抗が終焉。生存者は堺などへ脱出。

法華一揆は壊滅。死者は数千人にのぼる 20 。戦闘は終結し、京都は焦土と化す。

第五章:焦土からの離散と再生

天文法華の乱が残した爪痕は、京都の歴史上でも類を見ないほど深く、甚大であった。応仁の乱を上回るとされる物理的な破壊は、下京全域を更地にし、上京の繁栄にも大きな打撃を与えた 25 。しかし、それ以上に深刻だったのは、人的被害とコミュニティの崩壊である。数千から一万人に及ぶ死者を出したこの事件は、法華宗の側からはまさしく「天文法難」と呼ばれるべき大虐殺であった 20

乱の後、京都は延暦寺と幕府の支配下に置かれた。生き残った法華宗徒の多くは、自治都市・堺の顕本寺などを頼って避難生活を送った 6 。彼らに対し、かつての同盟者であった細川晴元は追い打ちをかけるように3ヶ条からなる禁令を発布する。これにより、法華宗の僧侶は京都内外を徘徊すること、還俗して他宗へ移ること、そして焼失した寺院を再興することが固く禁じられた 20 。以後、天文11年(1542年)までの6年間、かつて都の半数を占めた法華宗は、京都において禁教という屈辱的な状態に置かれたのである 27

しかし、法華宗徒は信仰を捨てなかった。堺などの避難先から、彼らは粘り強く京都への帰還を求める運動を続けた 6 。この動きが実を結んだ背景には、単なる信仰の力だけではない、より現実的な力学が作用していた。法華宗徒の中核をなしていたのは、京都の経済を支える有力な商工業者たちであった 7 。彼らの不在は、戦災からの復興を目指す京都にとって、経済的に大きな損失であったことは想像に難くない。為政者側にとっても、彼らの持つ財力と経済活動のノウハウは、都市復興のために不可欠なものであった。

こうした状況の変化と、畿内における三好長慶(父・元長は熱心な法華宗徒であった)の台頭という政治情勢も追い風となり、天文11年(1542年)、ついに朝廷から法華宗の京都帰還を認める勅許が下された 6 。さらに天文16年(1547年)には、六角定頼の仲介によって、宿敵であった延暦寺との間に和議が成立する 3 。これにより、追放されていた法華宗徒は晴れて京都の土を踏むことが許された。焼失した二十一本山の内、本能寺や妙覚寺など十五の寺院が旧地に再建され、京都の町に再び槌音と読経の声が響き始めたのである 3 。法華宗は武力によって一度は都から排除されたが、その経済的・社会的重要性によって、再び京都に「呼び戻された」のであった。

終章:天文法華の乱の歴史的意義

天文法華の乱は、単に戦国時代に京都で発生した大規模な宗教紛争というだけでは終わらない。それは、日本の中世から近世へと移行する時代の画期をなす、極めて重要な歴史的事件であった。

第一に、本件は日本史上最大級の「宗教戦争」であったと位置づけられる 26 。その動機は、教義上の対立に留まらず、京都という都市の経済的利権、自治権の掌握、そして政治的覇権を巡る、極めて複合的かつ世俗的な闘争であった 30 。信仰が、経済力と結びつき、武装した市民による自治を志向した時、それは既存の封建的権威といかに激しく衝突するかを、本件は白日の下に晒した。法華一揆の試みは、宗教勢力が都市の完全な自治を達成しようとした運動の頂点であり、その壮絶な挫折は、宗教勢力が単独で世俗権力と対峙する時代の限界を露呈させた 2

第二に、この乱は、戦国時代における「権力と宗教」の関係性を根底から問い直す転換点となった。延暦寺は、自らの権益を守るためならば、首都を火の海にすることも厭わない強大な「軍事勢力」であることを天下に示した 35 。この勝利によって、彼らは一時的に京都における権威を回復したかもしれない。しかし、この過激な武力行使は、宗教団体が治外法権的な武装勢力として存在することの危険性を、後の天下人たちに強烈に印象付けた。

そして、このことは35年後の歴史に、皮肉な形で直結する。元亀2年(1571年)、織田信長は比叡山延暦寺を焼き討ちにする。信長が、宗教の名の下に武装し、天下統一の障害となる勢力を徹底的に排除しようとしたことはよく知られている 36 。信長のこの非情な決断の背景には、天文法華の乱という重要な前例が存在した。延暦寺自身が、かつて同じ京都で、同じように敵対宗派の寺院をことごとく焼き払い、数千人規模の殺戮を行ったという事実 9 は、信長が自らの行為を(少なくとも信長の論理において)正当化する格好の材料となったであろう。

すなわち、天文法華の乱における延暦寺の勝利は、長期的視点で見れば、自らの存在そのものを否定する論理を、より強大な世俗権力者である織田信長に提供してしまうという、致命的な結果を招いたのである。延暦寺が法華宗に放った炎は、時を経て、自らを焼き尽くす業火となって返ってきた。天文法華の乱は、中世的な宗教権威がその終焉を自ら早めた、時代の分水嶺だったのである。

引用文献

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