最終更新日 2025-10-01

天草代官所設置(1604)

慶長九年、寺沢広高は天草に代官所を設置。小西行長時代のキリシタン文化は終わり、過酷な年貢と禁教により島原・天草一揆を招いた。後に天領となり、鈴木重成の善政で復興した。
Perplexity」で事変の概要や画像を参照

天草代官所設置(1604年)の歴史的深層:戦国期の終焉から徳川支配体制の確立まで

序章:乱世の海に浮かぶ群島、天草

肥後国(現在の熊本県)の西、有明海と八代海、そして東シナ海に抱かれるように浮かぶ大小120余の島々、それが天草諸島である。戦国時代、この群島は九州本土の激しい動乱から一定の距離を保ちつつ、独自の歴史を紡いでいた。当時、天草と本土を結ぶ橋梁はもちろん存在せず、交通は完全に海上交通に依存していた 1 。しかし、この地理的隔絶は孤立を意味しなかった。むしろ、八代海や有明海を介した船の往来は活発であり、天草は大陸や南方との交易、文化交流の重要な中継地としての役割を担っていた 1

この地理的・地政学的な特異性は、天草の政治構造にも色濃く反映された。強力な単一権力による統治が及ばず、在地領主たちが群雄割拠する状態が長く続いたのである。彼らは中央の権力闘争とは異なる力学の中で、時に協力し、時に激しく敵対しながら、海の領主としてその勢力を維持していた。

本報告書は、慶長9年(1604年)の「天草代官所設置」という事変を、単なる江戸幕府初期の一行政措置としてではなく、戦国時代から続く天草の歴史的文脈の中に位置づけ、その多面的な意義を徹底的に解明することを目的とする。在地領主「天草五人衆」が割拠した時代から、豊臣政権による中央集権化の波、関ヶ原の戦いを経て徳川幕藩体制が確立されるまでのダイナミックな権力移行の最終的な帰結として、この代官所設置が何を意味したのか。本報告は、そのリアルタイムな変遷を時系列で追いながら、天草が経験した栄光と悲劇、そして再生への道のりを詳述するものである。

【表1:天草統治体制の変遷年表(1566年~1659年)】

西暦(年)

和暦

主要な出来事

統治者/関連人物

統治政策の要点

1566

永禄9

キリスト教伝来

志岐麟泉、ルイス・デ・アルメイダ

志岐氏がアルメイダを招き、天草での布教が開始される。

1587

天正15

豊臣秀吉の九州平定

天草五人衆、豊臣秀吉、小西行長

五人衆は秀吉に臣従し所領を安堵されるが、小西行長の与力となる。

1589

天正17

天草国人一揆(天正の天草合戦)

天草五人衆、小西行長、加藤清正

小西行長の宇土城普請要求に対し五人衆が反乱。小西・加藤連合軍により鎮圧。

1591

天正19

天草コレジヨ移転

小西行長

宣教師養成学校コレジヨが天草に移転。キリシタン文化が繁栄。

1600

慶長5

関ヶ原の戦い

小西行長、徳川家康、寺沢広高

西軍の小西行長が敗死・改易。戦功により寺沢広高が天草を拝領。

1602

慶長7

富岡城築城開始

寺沢広高

天草統治の拠点として富岡城の建設に着手。

1604

慶長9

天草代官所、機能開始

寺沢広高

富岡城内に統治拠点を設置。過大な石高に基づく統治を開始。

1614

慶長19

全国禁教令

徳川幕府、寺沢広高

幕府の禁教令を受け、天草でもキリシタン弾圧が本格化。

1637

寛永14

島原・天草一揆勃発

天草四郎、寺沢堅高

過酷な年貢とキリシタン弾圧に耐えかねた領民が蜂起。

1641

寛永18

天領化、初代代官着任

徳川幕府、鈴木重成

一揆の責任を問い寺沢領を没収。幕府直轄地とし、鈴木重成が復興統治を開始。

1659

万治2

石高半減の実現

鈴木重辰(二代目代官)

鈴木重成の遺志が実り、天草の石高が実態に即した2万1千石に是正される。


第一章:天草五人衆の時代 ― 割拠と競合、そしてキリスト教の受容

1-1. 天草五人衆の割拠体制

16世紀半ば、戦国時代の天草は、「天草五人衆」と総称される五つの国人領主(土豪)によって分割統治されていた 1 。具体的には、本渡・河浦地域を支配する天草氏、苓北地域の志岐氏、大矢野島を中心とする大矢野氏、栖本地域の栖本氏、そして有明地域の上津浦氏である 2 。彼らはそれぞれが城砦を構え、独立した領主として君臨していたが、その関係は決して安定したものではなかった。「敵対したり協力したりしながら争っていた」と記録されるように、領地を巡る小競り合いや、合従連衡が繰り返される日常であった 1

例えば、天文元年(1532年)には、天草氏、栖本氏、大矢野氏、志岐氏、そして長島氏が連合して上津浦氏の居城を攻めるという事件が起きている 1 。この時、孤立した上津浦氏を救ったのが、九州本土の戦国大名である相良氏であった。相良氏は4度にわたって援軍を派兵しており、この事実は天草内部の紛争が、しばしば外部勢力の介入を招く構造にあったことを示している 1

1-2. 周辺大名との従属関係の変遷

天草五人衆の統治は、完全な独立を意味するものではなかった。彼らの存在は、常に九州本土の有力大名の勢力均衡の上に成り立つ、極めて脆弱なものであった。当初、彼らは八代に進出した人吉の相良氏と主従関係を結び、事あるごとに八代へ使者を送っていた 1 。その後、九州北部に覇を唱えた大友氏の勢力が伸長すると、相良氏を介して間接的に大友氏に従属する姿勢をとるようになる 4

しかし、天正6年(1578年)の日向耳川の合戦で大友氏が薩摩の島津氏に歴史的な大敗を喫すると、五人衆は機敏にその風向きを読む。彼らは急速に島津氏へと接近し、翌年にはその幕下に入った 4 。天正15年(1587年)には、島津氏の軍勢として大友氏と戦うまでに至っている 7 。このように、時勢に応じて従属先を乗り換えることは、彼らにとって乱世を生き抜くための現実的な生存戦略であった。しかし、それは同時に、彼らが自立した政治力・軍事力に欠け、外部からの介入を容易に受け入れる土壌を持っていたことの証左でもあった。この脆弱な分断統治体制こそが、後の豊臣政権による天草平定を極めて容易にした根本的な要因となったのである。

1-3. キリスト教の伝来と浸透

天草の歴史を語る上で欠かすことのできない要素が、キリスト教の受容である。永禄9年(1566年)、五人衆の一人であった志岐の領主、志岐麟泉(鎮経)が、ポルトガル人修道士ルイス・デ・アルメイダを招いたことが、天草におけるキリスト教布教の始まりであった 8

麟泉の動機は、純粋な信仰心というよりは、南蛮貿易がもたらす経済的利益への期待が大きかったと考えられている 8 。当時の宣教師たちは貿易商人と一体となって活動しており、布教を許可することは、ポルトガル船の来航を促し、鉄砲や火薬といった最新の軍事物資や珍しい文物を手に入れる機会に繋がった。この動きに他の領主たちも追随し、天草氏なども宣教師を領内に招き入れ、布教活動を許容した 8

領主層の受容は、領民への布教を加速させた。天草氏の15代当主であった天草久種は、元亀2年(1571年)に妻と共に洗礼を受けている 10 。こうした領主自らの入信は、領内のキリスト教化に大きな影響を与えた。統一された国家意思ではなく、各領主の個別判断によって進められたキリスト教の受容は、天草の地に深く根を下ろし、後の文化的繁栄の礎となると同時に、やがて訪れる弾圧の時代における悲劇の伏線ともなっていくのである。

第二章:天下統一の波と小西行長の支配

2-1. 豊臣秀吉の九州平定と小西行長の入部

天正15年(1587年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉が、島津氏を討伐すべく九州へ大軍を進めた(九州平定)。この圧倒的な中央権力の前に、天草五人衆は抵抗する術を持たなかった。彼らは筑前秋月(現在の福岡県朝倉市)にあった秀吉の本陣に出頭し、臣従を誓った 6 。秀吉は彼らの所領を一度は安堵したが、それは旧来の独立性を認めるものではなかった 10

九州平定後、秀吉は肥後国を二つに分割し、北半国を加藤清正に、南半国を小西行長に与えた 2 。天草諸島は南半国に含まれ、これにより五人衆は小西行長の「与力」、すなわち配下の武将という立場に組み込まれることになった 2 。これは、事実上、戦国時代から続いた彼らの独立領主としての地位が終焉し、豊臣政権の集権的な支配体制下に置かれたことを意味していた。

2-2. 天草国人一揆(天正の天草合戦)の勃発 (1589年)

新たな支配者となった小西行長と、旧来の在地領主である五人衆との間には、当初から深刻な認識の齟齬が存在した。その亀裂が表面化したのが、天正17年(1589年)に勃発した「天草国人一揆」である 10

事件の直接的な引き金は、行長が自身の新たな居城である宇土城(熊本県宇土市)の普請(建設工事)にあたり、五人衆に人夫の供出を命じたことであった 2 。志岐麟泉を筆頭に、五人衆はこの命令を断固として拒否した 11 。彼らの主張は、「秀吉公には服属するが、行長とは与力という対等な立場であり、彼の私的な城の普請を手伝う義務はない」というものであった 3

この反発は、単なる労役の拒否ではなかった。それは、戦国時代的な「分権的・並列的な主従関係」の価値観を持つ在地領主と、豊臣政権が目指した「集権的・階層的な近世支配体制」との間の、根本的な思想的衝突であった。五人衆は行長を「同僚」と見なしていたが、行長は彼らを紛れもない「部下」と見なしていた。この埋めがたい認識のズレが、やがて武装蜂起へと発展し、天草全土を巻き込む大規模な反乱となったのである。

2-3. 一揆の鎮圧と小西支配の確立

五人衆の反乱に対し、小西行長は断固たる措置をとった。彼は肥後北半国の領主であり、ライバルでもあった加藤清正に援軍を要請。小西・加藤連合軍が天草へと進軍した 2 。この圧倒的な兵力の前に、五人衆の抵抗は脆くも崩れ去った。志岐氏の居城に始まり、天草氏が籠城する本渡城も、有馬氏や大村氏の軍勢も加わった総攻撃の前に陥落した 2

この一揆の鎮圧により、天草五人衆は滅亡、あるいは完全に小西行長への服属を余儀なくされた。戦国時代から続いた在地領主による割拠体制は、ここに名実ともに終焉を迎えたのである。しかし、行長の統治は単なる武力による弾圧に終わらなかった。彼は一揆後、反乱に加わった天草久種を本渡の代官に任命するなど、旧領主の一部を新たな統治機構に取り込むことで、支配の安定化を図るという柔軟な一面も見せた 10

2-4. キリシタン文化の黄金期

小西行長は、堺の薬種商の家に生まれ、商人から武将へと駆け上がった異色の経歴を持つ人物であると同時に、敬虔なキリシタン大名(洗礼名アウグスティヌス)でもあった 12 。彼の統治下で、天草はそれまでとは比較にならないほどのキリシタン文化の繁栄期、いわば「黄金時代」を迎えることとなる。

行長の強力な庇護のもと、天草は南蛮文化の一大中心地へと変貌した 8 。その象徴が、天正19年(1591年)に島原半島から移転してきたイエズス会の最高学府「コレジヨ(大学)」である 9 。ここでは神学、哲学、ラテン語、音楽、天文学など、ヨーロッパの大学と同水準の高度な教育が行われ、かつてローマへ派遣された天正遣欧少年使節の4人もここで学んだとされている 14

さらに、このコレジヨには、天正遣欧少年使節が持ち帰った日本初のグーテンベルク式金属活字印刷機が設置された 17 。この印刷機を用いて、布教用の宗教書や、宣教師の日本語学習のための教材が次々と出版された。これらは「天草版」と総称され、当時の日本語の口語体をローマ字で記録した『平家物語』や、翻訳文学の傑作『伊曽保物語(イソップ物語)』などが含まれる 10 。当時のヨーロッパの印刷部数が数百部程度であったのに対し、天草では1500部以上を出版したとされ、天草は世界有数の出版拠点となっていた 22

行長の統治は、まさに「飴と鞭」の二面性を持っていた。彼は国人一揆を武力で徹底的に粉砕し(鞭)、戦国以来の在地支配を終わらせた。その一方で、キリスト教を手厚く保護し、コレジヨや印刷事業を誘致することで、天草に前例のない文化的・経済的繁栄をもたらした(飴)。この統治戦略は、天草の地域アイデンティティを、五人衆という領主への帰属意識から、キリスト教信仰へと大きく転換させる決定的な要因となった。そしてそれは、皮肉にも、後の寺沢氏による過酷な弾圧に対する、より強固な精神的抵抗の土壌を醸成することにも繋がったのである。

第三章:関ヶ原、落日の小西家と権力の空白

3-1. 小西行長の敗死

天草に黄金時代をもたらした小西行長の支配は、長くは続かなかった。慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。豊臣政権の奉行として石田三成と近い立場にあった行長は、西軍の主力として参戦し、東軍の田中吉政や筒井定次らの部隊と激戦を繰り広げた 23 。しかし、小早川秀秋の裏切りによって西軍は総崩れとなり、行長は伊吹山中へと敗走した 24

数日後、行長は捕縛され、石田三成、安国寺恵瓊らと共に京都へ送られた。キリシタンであった行長は、教義で禁じられている自害(切腹)を拒否し、10月1日、京都の六条河原において斬首された 12 。その死は遠くローマ教皇の耳にも届き、その死を惜しんだと伝えられている 24

3-2. 天草の混乱と権力構造の崩壊

小西行長の死と、それに伴う小西家の改易は、天草に巨大な権力の空白を生み出した。統治者を失っただけでなく、天草の繁栄を支えていた「キリスト教信仰の保護者」という精神的な支柱が、一夜にして失われたのである。これは、地域全体のアイデンティティの危機であった。

行長に仕えていた多くの武士たちは主家を失い、浪人となった 26 。庇護者を失ったキリシタンたちは、新たな支配者である徳川家康がキリスト教に対して厳しい姿勢をとるであろうことを予期し、大きな不安と混乱に陥った。この時に生まれた多数の浪人たちは、生活の糧を失い、旧体制への強い思慕を抱き続けた。彼らが、約37年後に勃発する島原・天草一揆において、農民たちを組織し、戦いを指導する中核的な戦闘員となったことは想像に難くない。

3-3. 戦後処理と加藤清正の一時的な関与

関ヶ原の戦いの最中、東軍に与した加藤清正は、小西行長が出陣して留守となっていた本拠地・宇土城を攻撃し、これを降伏させていた 12 。戦後、徳川家康は戦後処理の一環として、天草を含む小西の旧領を一時的に加藤清正の管理下に置いたとみられる 27 。これは、家康が天草の新たな統治者を正式に決定するまでの、暫定的な措置であった。

1600年の関ヶ原の戦いは、天草にとって「黄金時代」の終わりと、長く続く「受難の時代」の始まりを告げる、決定的な転換点であった。この時点で、後の大一揆という悲劇へと至る道筋は、事実上、不可逆的に敷かれてしまったと言える。そして、この新しい時代の統治体制を物理的に具現化する最初のステップこそが、慶長9年(1604年)の「天草代官所設置」に他ならなかったのである。

第四章:新時代の統治拠点 ― 寺沢広高の入部と天草代官所設置(1604年)

4-1. 寺沢広高の天草拝領

関ヶ原の戦いが徳川方の勝利に終わると、論功行賞が行われた。天草4万石は、東軍として戦功を挙げた肥前唐津藩主・寺沢広高に加増という形で与えられた 27 。これにより広高は、唐津8万石と合わせて12万石余を領する大名となった。

寺沢広高にとって、天草の領有は単なる石高の増加以上の意味を持っていた。それは、徳川政権内における自らの地位を向上させるための重要な政治的資産であった 27 。辺境の離島とはいえ、一国に匹敵する石高を持つ領地を支配することは、幕府内での発言力を高める上で極めて有効だったのである。

4-2. 富岡城の築城と代官所の機能

新たな領主となった広高が最初に着手したのが、天草統治の拠点となる新たな城の建設であった 27 。彼は、唐津から海路で最も近く、防衛にも適した天草下島の富岡半島を建設地に選定した。慶長7年(1602年)、富岡城(別名、臥竜城)の築城が開始される 31 。この城は三方を海に囲まれ、陸とは細い砂州で繋がるだけの天然の要害であり、その立地は明確な軍事的意図を示していた 35

本報告の核心である慶長9年(1604年)の「天草代官所設置」とは、この富岡城の建設がある程度進み、天草統治のための中核施設として本格的に機能を開始した時点を指すものと解釈される 35 。この「代官所」は、単なる行政窓口ではなかった。それは、広高が任命した城代(後に三宅藤兵衛などが務める)が駐在し、徴税、民政、治安維持、そして何よりも旧小西領のキリシタンを監視・統制するという、統治のあらゆる機能を担う「城塞型統治拠点」であった 32

4-3. 新統治体制の意図

富岡城(代官所)の建設目的は、極めて明確であった。第一に、小西家改易によって生まれた多数の浪人や、戦国以来の気風を持つ在地勢力の残党を軍事的に威圧し、一揆の再発を未然に防ぐこと 27 。第二に、唐津本土との連携を密にし、効率的な支配と徴税を実現することであった 33

1604年の「代官所設置」は、単に役所が開かれたという出来事ではない。それは、天草の統治理念が根本から転換したことを象徴する出来事であった。小西行長時代、天草はキリスト教文化が花開く文化的中心地であった。しかし、寺沢広高が築いた富岡の代官所は、①軍事的威圧、②経済的搾取、③宗教的統制という三つの機能を一体化させた、近世的な支配システムそのものであり、天草が幕藩体制下の被支配地へと質的に変化したことを明確に示すものであった。

さらに深く考察すれば、寺沢広高が後に天草に課した過酷な政策と、この堅牢な城塞型代官所の建設は、表裏一体の関係にあった。彼の政治的野心を満たすためには、領地の石高を実態よりも大きく見せ、それに見合う年貢を徴収する必要があった。そして、その過酷な徴収が必然的にもたらすであろう領民の不満や抵抗を力で抑え込むための物理的な装置が、富岡城だったのである。つまり、1604年の代官所設置は、その計画段階から、後の圧政を前提としていた可能性が極めて高いと言えるのである。

第五章:代官所下の呻吟 ― 過酷な石高と禁教の嵐

5-1. 石高倍増という圧政

寺沢広高が天草統治で実行した最も過酷な政策は、石高の過大評価であった。太閤検地に基づく天草の実際の石高(米の生産力)は約2万1千石程度であったにもかかわらず、広高はこれを4万2千石、すなわち実態のほぼ倍に設定した 27

この架空の石高を基準に年貢が課されたため、天草の領民は収穫物の大半を、時には全てを奪われるという筆舌に尽くしがたい状況に追い込まれた 27 。富岡の代官所は、この収奪を組織的かつ強制的に実行する最前線基地となった。この経済的搾取こそが、領民の生活基盤を根底から破壊し、後の島原・天草一揆へと至る最大の要因となったのである 38

5-2. 禁教令とキリシタン弾圧の強化

統治当初、広高はキリシタンに対して比較的寛容な姿勢をとっていたが、慶長19年(1614年)に徳川幕府が全国に禁教令を発布すると、その方針を転換。幕府の意向に従い、天草でも厳しいキリシタン弾圧を開始した 40

棄教を拒む者に対しては、拷問を含む残虐な手法が用いられ、多くの信者が殉教した 40 。小西行長時代に信仰の自由と文化的繁栄を享受した天草のキリシタンにとって、この弾圧は耐え難い苦痛であった。経済的な困窮に加え、精神的な支柱である信仰までもが脅かされ、領民の不満と絶望は限界点に達しつつあった。

5-3. 島原・天草一揆(1637-1638年)への道

寛永14年(1637年)、長年の経済的搾取と宗教的弾圧、そして追い打ちをかけるような飢饉 42 が引き金となり、ついに領民の不満が爆発した。天草の少年、益田時貞(天草四郎)をカリスマ的な指導者として担ぎ上げ、隣接する島原藩の圧政に苦しむ領民と呼応する形で、大規模な一揆が勃発した。

一揆勢は、富岡城の城代であった三宅藤兵衛を本渡での戦いで討ち取るという戦果を挙げた 33 。勢いに乗った一揆軍は富岡城(代官所)に総攻撃をかけたが、城兵の頑強な抵抗の前に攻め落とすことができず、撤退を余儀なくされた 32 。これは、1604年に設置された代官所が、支配の道具としてだけでなく、軍事拠点としても有効に機能したことを示している。その後、天草の一揆勢は島原へと渡り、原城に立て籠もって幕府軍と壮絶な戦いを繰り広げた末、全滅するという悲劇的な結末を迎えた。

島原・天草一揆は、単なる「キリシタンの宗教戦争」でも、単なる「農民一揆」でもない。それは、寺沢氏の統治下で進行した経済的収奪、宗教的迫害、そして人間としての尊厳の破壊という複合的な要因が絡み合って発生した、必然的な社会崩壊であった。そして富岡の代官所は、この圧政を執行する最前線基地として、領民の憎悪の象徴となったのである。

終章:天領への道 ― 代官所の変質と鈴木重成の復興事業

6-1. 寺沢家の改易と天領化

島原・天草一揆という未曾有の大乱を鎮圧した後、徳川幕府はその原因究明と責任追及に乗り出した。一揆を惹起した最大の責任は、島原藩主・松倉勝家と天草領主・寺沢堅高(広高の子)の苛政にあると断罪された。松倉勝家は斬首という、大名としては前代未聞の極刑に処された 39 。寺沢堅高もその責任を厳しく問われ、天草4万石の領地を没収された 39 。失意の堅高は後に自害し、寺沢家は断絶した 47

寛永18年(1641年)、幕府は天草を大名に任せることをやめ、幕府の直接支配地、すなわち「天領」とすることを決定した 43 。これは、天草がキリシタン問題や対外防衛の観点から、一介の大名に統治させるにはあまりに重要かつ危険な地域であると幕府が判断したためであった 40

6-2. 初代代官・鈴木重成の着任と復興政策

天領となった天草の初代代官として富岡に赴任したのは、旗本の鈴木重成であった 51 。彼は島原の乱に幕府軍として従軍し、現地の惨状を目の当たりにしていた。彼の使命は、寺沢時代の圧政とは180度異なり、一揆によって焦土と化した天草を復興させ、疲弊した民心を安定させることであった。

重成は直ちに着手した。一揆で激減した人口を回復させるため、九州各地からの移民を奨励 55 。医療施設を整備し、病人の救済にあたった 55 。また、キリシタン信仰が根強い土地柄を考慮し、弾圧一辺倒ではなく、兄である禅僧・鈴木正三を招いて仏教の教えを広め、寺社を再建することで、穏やかな形での改宗を促した 52

6-3. 石高半減の実現と代官所の役割の変質

数々の復興政策を進める中で、重成は天草困窮の根本原因が、寺沢氏によって設定された実態とかけ離れた過大な石高にあることを看破した。彼は幕府に対し、天草の石高を実態に即した2万1千石に半減するよう、再三にわたって嘆願書を提出した 37

伝承によれば、重成はこの願いが聞き入れられないことに抗議し、自刃してその信義を訴えたとされるが、近年の研究では病死であったとの説が有力である 52 。しかし、彼の強い意志は、養子で二代目代官となった鈴木重辰に引き継がれた。そして万治2年(1659年)、ついに幕府は石高の半減を承認し、天草の石高は2万1千石へと是正されたのである 33

この石高半減の実現により、慶長9年(1604年)に寺沢広高によって設置された富岡の「代官所」は、その役割を劇的に変質させた。当初の「搾取と威圧の拠点」から、幕府の仁政を敷き、地域の復興と安定を図る「行政サービスと民政の拠点」へと生まれ変わったのである。物理的な統治機構は継続して使用されながらも、その目的と機能は完全に転換した。

「天草代官所設置(1604年)」という事変の真の歴史的意義は、単に統治拠点ができたという事実以上に、①戦国時代から続いた地方分権的な在地支配の完全な終焉、②近世的な中央集権支配の始まり、そして③その支配の破綻が引き起こした大乱を経て、④幕府による直接統治(天領)へと至る道筋をつけた、という点にある。寺沢の代官所は圧政の象徴であったが、その存在があったからこそ、幕府は乱後にその統治機構を即座に接収し、鈴木重成による迅速な復興事業に着手できた。1604年の設置は、意図せずして、後の天草再生の礎を築いたとも言えるのである。

【表2:統治者別・天草統治政策の比較】

統治主体

統治構造

経済政策/石高

宗教政策

軍事/拠点

天草五人衆

在地領主による分割統治、周辺大名に従属

各領主による不統一な徴税

各領主の判断でキリスト教を受容

各自の居城(本渡城、志岐城など)

小西行長

豊臣政権下の直轄化(一部旧領主を代官に登用)

太閤検地に基づく石高

キリスト教の保護・奨励(コレジヨ誘致)

国人一揆を鎮圧、本拠は宇土城

寺沢広高

唐津藩の飛地として代官統治

実態の倍の石高(4万2千石)を設定、重税

禁教令(1614年)以降、弾圧を強化

富岡城(代官所)を新設、統治と威圧の拠点

幕府/鈴木重成

幕府直轄地(天領)として代官統治

石高半減(2万1千石)を実現、復興事業

仏教への改宗を奨励(寺社再建)

富岡城を復興・民政の拠点として活用

引用文献

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  57. 天草を救った「鈴木重成」2時間コース | 熊本のタクシー観光を楽しむなら「タクタビ」| TaKuRoo https://www.takutabi.com/course/detail?id=2281
  58. 天草島原一揆後を治めた代官鈴木重成 | 図書出版 弦書房 https://genshobo.com/archives/8191
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