宇喜多家家中騒動収束(1598)
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宇喜多家家中騒動の真相:関ヶ原前夜、豊臣政権を揺るがした内紛の時系列分析
序章:巨星墜つ―豊臣政権の黄昏と宇喜多家の岐路
慶長3年(1598年)8月、天下を統一した巨星、豊臣秀吉がその生涯を閉じた。この出来事は、日本の政治情勢に巨大な権力の真空を生み出し、諸大名間の微妙な均衡を根底から揺るがした。秀吉という絶対的な権威と抑止力が失われたことで、それまで水面下で燻っていた対立や不満が、堰を切ったように噴出する時代の幕開けであった。
この激動の時代、豊臣政権の中枢で極めて重要な位置を占めていたのが、五大老の一角を担う備前岡山57万石の大名、宇喜多秀家である 1 。秀吉の猶子として我が子同然に育てられ、前田利家の娘・豪姫を正室に迎えるなど、豊臣一門に準ずる破格の待遇を受けていた 2 。若くして(当時27歳)政権の中枢に名を連ね、文禄・慶長の役では総大将を務めるなど、その武勇と将来を嘱望された、まさに「秀吉の秘蔵っ子」であった 3 。
しかし、その若さと実直な性格は、父・宇喜多直家のような謀略に長けた梟雄とは対照的であり、老獪な大名たちが権謀術数を巡らす新たな政治の舞台では、むしろ脆弱性となり得た 4 。秀吉存命中、その絶大な権威は秀家にとって家臣団を統制するための強力な「後ろ盾」であった。譜代の重臣たちも、秀吉に直結する若き主君の命令に公然と異を唱えることは困難であった。だが、秀吉の死はこの状況を一変させる。秀家の権威は「五大老」という制度的なものへと相対化され、他の大老、とりわけ徳川家康との力関係の中に置かれることになった。家臣団の視点から見れば、もはや秀家は絶対的な存在ではなく、その統治に異議を申し立て、場合によっては他の権力者(家康)に調停を求めるという選択肢が生まれたのである。
本稿で詳述する「宇喜多家家中騒動」は、秀吉が没した慶長3年(1598年)にその根が育まれ、慶長4年(1599年)末から翌5年(1600年)初頭にかけて激化・収束した一連の内紛である 7 。これは単なる家中の後継者争いや権力闘争に留まらない。秀吉亡き後の豊臣政権が抱える構造的欠陥、そして徳川家康による天下掌握への深謀遠慮が複雑に絡み合った、関ヶ原の戦いの「序曲」とも言うべき重大事件であった。
第一部:騒動の胎動―宇喜多家に燻る不和の火種
宇喜多家の内紛は、単一の原因によって引き起こされたものではない。「統治機構の近代化」「財政危機」「宗教的緊張」「個人的確執」という四つの構造的な問題が、秀吉の死という巨大な地殻変動を機に相互に作用し合い、破局的な騒動へと発展した複合災害であった。
第一節:統治体制の変革と摩擦―中央集権化の試み
騒動の根底には、宇喜多家の統治体制を巡る深刻な路線対立があった。父・直家の時代、宇喜多家は戸川氏、岡氏、長船氏といった国人領主上がりの譜代重臣たちによる合議制的な統治に支えられていた。しかし、秀吉の下で近世大名として成長した秀家は、当主の権力を強化し、より効率的な領国経営を目指す中央集権体制への移行を試みた 2 。
これは、戦国時代の豪族連合体から近世的な大名権力へと脱皮する過程で、毛利家など他の多くの大名家でも見られた必然的な摩擦であった 8 。秀家は、自らが信任する中村次郎兵衛のような新参の吏僚(テクノクラート)を側近として重用し、国政の中枢に据えた。その一方で、宇喜多軍の主力として数々の戦功を挙げてきた譜代の重臣、戸川達安らを国政の座から遠ざけた 9 。文禄3年(1594年)、達安が国政担当の地位を解任され、秀家が寵愛する長船紀伊守にその座が与えられた人事は、この路線対立を象徴する出来事であった 9 。父祖代々家を支えてきたという自負を持つ譜代家臣たちにとって、この人事は自らの存在価値を否定されるに等しい屈辱であり、秀家やその側近たちに対する根深い不信感と敵意を育む決定的な要因となった。
第二節:財政逼迫と領国経営―奢侈と増税の代償
統治体制の変革を急いだ背景には、宇喜多家の深刻な財政危機があった。文禄・慶長の役において、秀家は日本軍の総大将として莫大な軍役負担を強いられた 2 。加えて、豊臣政権下での大名間の交際費や、秀家個人の鷹狩りや猿楽といった趣味への奢侈な出費が、家の財政を著しく圧迫していた 10 。
この財政難を打開するため、秀家の側近である長船紀伊守や中村次郎兵衛が主導し、文禄3年(1594年)から翌年にかけて、領内全域で厳格な「惣国検地(太閤検地)」が強行された 10 。この検地は、年貢徴収を徹底するだけでなく、多くの家臣や寺社の所領を没収し、家の直轄領を増やすことを目的としていた 12 。『備前軍記』によれば、この検地によって合計二十万石余りが捻出された一方で、家臣団や領民の間に深刻な不満が鬱積したとされる 10 。譜代家臣から見れば、新参の吏僚たちが自分たちの既得権益を奪い、領国を疲弊させていると映った。財政再建という合理的な目的も、その強引な手法によって、既存の秩序を破壊する暴政として受け止められたのである 11 。
第三節:宗教という名の亀裂―日蓮宗とキリシタンの対立
宇喜多家の本拠地である備前国は、伝統的に日蓮宗(法華宗)の信仰が非常に強い地域であった 14 。戸川達安、岡家利、花房正成といった譜代重臣の多くも、熱心な日蓮宗徒であった 15 。これに対し、秀家自身はキリシタンに強い関心を示し、一説には改宗したとも言われ、家臣にも改宗を迫ったとされる 9 。
この状況は、家中に対立の新たな火種を投じた。『備前軍記』などの後世の編纂物では、この騒動は中村次郎兵衛や長船紀伊守ら側近を中心とする「キリシタン派」と、戸川達安ら譜代重臣を中心とする「日蓮宗派」の宗教戦争として描かれることが多い 10 。しかし、史実を詳細に検討すると、この単純な二項対立の図式は必ずしも正確ではない。
事実、反秀家派の中心人物の一人であり、秀家の従兄弟でもある宇喜多詮家(左京亮)は、パウロという洗礼名を持つキリシタンであった 15 。また、騒動に際して中立を保ち、後に家中の再建を託される明石全登(掃部)も、ジョアンという洗礼名を持つ熱心なキリシタンであった 18 。これらの事実から、対立の本質は純粋な宗教的信条の違いではなく、むしろ政治的・経済的な権力闘争の構図に、宗教というイデオロギーが「旗印」として利用された側面が強いと考えられる。
第四節:人間関係の相克―武功派と吏僚派の対立
結局のところ、騒動の核心にあったのは、宇喜多家を構成する二つの異なるタイプの家臣団間の、埋めがたい価値観の対立と権力闘争であった。
一方には、戸川達安に代表される「武功派」の譜代家臣たちがいた。達安は父・秀安の代から宇喜多家第一の重臣として仕え、13歳の初陣以来、数々の合戦で宇喜多軍の主力を担い、武勇を轟かせた歴戦の猛将である 9 。秀家の従兄弟である宇喜多詮家も、宇喜多一門衆という血縁的権威を背景に持つ重鎮であった 20 。彼らは、自らの槍働きによって家の礎を築き、領地を勝ち取ってきたという強烈な自負心を持つ集団であった。
対するは、中村次郎兵衛に代表される「吏僚派」の新参家臣たちである。中村は経理や土木技術に明るい能力主義のテクノクラートであり、秀家によって大坂屋敷の家老に抜擢され、財政再建や領国経営の実務を担った 11 。『乙夜之書物』の記述によれば、騒動の一因は、中村が一部の重臣に偏っていた知行地を、より公平に割り替えようとしたことにあったとされ、彼なりの道理があったことが示唆されている 7 。
しかし、武功派の譜代家臣たちにとって、中村の合理的な政策は、伝統や家格を無視した「専横」と映った。血と汗で得た所領を、算盤勘定で取り上げられることは耐え難い侮辱であった。この武功派と吏僚派の対立こそが、統治、財政、宗教といった他の要因を巻き込みながら、宇喜多家を破滅的な内紛へと導いた根本的な亀裂だったのである。
第二部:慶長四年の激震―対立の表面化から大坂屋敷籠城まで(時系列解説)
慶長4年(1599年)秋、それまで水面下で燻っていた対立は、ついに物理的な衝突という形で火を噴いた。事態は雪崩を打って悪化し、和解不可能な破局へと突き進んでいく。
慶長4年(1599年)秋~冬:発火
騒動の直接的な引き金となったのは、一件の暗殺事件であった。『備前軍記』によれば、戸川達安ら反秀家派の武将たちが、中村次郎兵衛派によって取り立てられた用人を殺害した 10 。これは、もはや言論による抗議の段階を越え、実力行使も辞さないという彼らの固い決意を示すものであった。
勢いづいた反秀家派は、続いて対立の元凶である中村次郎兵衛自身の襲撃を計画する。しかし、この計画は事前に露見し、中村は辛くも難を逃れ、秀家の正室・豪姫の実家である前田家へと逃げ込んだ 7 。標的を逃した反秀家派の怒りと焦りは、頂点に達した。
慶長4年(1599年)末:直訴と決裂
事態を打開すべく、戸川達安ら6人の重臣は、大坂の宇喜多屋敷にいる秀家のもとへ乗り込み、中村次郎兵衛の非を鳴らし、その断罪を求める最後の直訴に及んだ 10 。しかし、若き当主・秀家の対応は、彼らの期待とは真逆のものであった。
秀家は、重臣たちの行動を忠義からの諫言ではなく、自らの権威に対する許しがたい反逆と受け取った。彼は激怒し、和解の道を探るどころか、逆に騒動の首謀者である戸川達安を、豊臣家奉行である大谷吉継の屋敷に誘き出して謀殺するという、あまりにも短慮な計画を立てる 7 。この秀家の決断は、宇喜多家中の亀裂を決定的なものとし、和解の可能性を完全に断ち切った。この謀殺計画は、達安と同じく反秀家派に身を投じていた宇喜多詮家(左京亮)を通じて事前に達安の知るところとなり、彼はかろうじて死地を脱した 7 。
慶長5年(1600年)正月5日頃:籠城
主君に命を狙われた戸川達安は、宇喜多詮家の屋敷に合流。岡貞綱、花房正成らもこれに加わり、もはや後には引けないことを示すため、全員が剃髪して徹底抗戦の意志を表明した。そして、大坂玉造の屋敷に立て籠もり、事実上のクーデター状態に突入した 7 。
この籠城に加わった人数は250名余りにのぼった 10 。当時の宇喜多家の総家臣数は約1400名と推定されており、家臣団の実に2割近くが公然と主君に反旗を翻した計算になる 10 。これは単なる一部の不満分子による反乱ではなく、家中を二分する深刻な内戦であったことを物語っている。この異常事態はたちまち京の都にも伝わり、公家の日記である『鹿苑日録』の正月5日の条には、「宇喜多家中にて中村次郎兵衛が殺害され、70人ほどの家臣が逃散した」という、事実とは異なる情報が錯綜して記録されている 7 。この記述は、当時の人々が固唾をのんでこの大名家の内紛の行方を見守っていた様子を如実に示している。
第三部:巨魁の仲裁―大谷吉継、榊原康政、そして徳川家康
宇喜多家内部で始まった騒動は、もはや一家の問題では収まらなかった。豊臣政権の中枢を担う大老の家で起きた大規模な内紛は、天下の安定を揺るがす政治問題へと発展し、政権の実力者たちを否応なく巻き込んでいった。
第一節:第一次調停の失敗
事態の深刻さを憂慮した豊臣政権は、奉行の大谷吉継、徳川家康の重臣である榊原康政、そして津田正秀(秀政)を仲裁役として派遣した 7 。吉継は豊臣家の、康政は徳川家の代表として、政権の二大勢力が協調して問題解決にあたるという体裁であった。
しかし、この第一次調停は完全な失敗に終わる。籠城した反秀家派の態度は極めて強硬であり、彼らの要求は到底受け入れられるものではなかった 25 。一方で秀家も、自らに反旗を翻した家臣たちを許すことはできなかった。問題の根はあまりにも深く、双方の主張の隔たりは埋めがたいものがあった。この調停に深く関与した榊原康政は、宇喜多家の問題に深入りしすぎた結果、主君の家康から叱責を受けたという逸話も残っており、その困難さを物語っている 26 。
第二節:徳川家康の介入とその思惑
第一次調停が暗礁に乗り上げる中、満を持して仲裁役として前面に乗り出してきたのが、五大老筆頭の徳川家康であった。しかし、彼の介入は、単に騒動を収拾するための善意からではなかった。それは、豊臣恩顧の巨大大名である宇喜多家を内部から弱体化させ、来るべき天下分け目の決戦に向けて自陣営を強化するための、極めて高度な政治的判断に基づくものであった 23 。
家康の深謀を窺わせる貴重な記録が、『当代記』に残されている。それによれば、騒動の詮議において、大谷吉継が「秀家に理あり」と述べ、当主としての秀家の権威と統治の正当性を重んじる立場を取ったのに対し、家康は「家老之衆を弁護」し、反乱を起こした譜代家臣たちの言い分に理があるという姿勢を示した 23 。この態度の違いは決定的であった。吉継が豊臣政権の秩序維持を最優先したのに対し、家康は秩序を揺るがすことで自らの利益を最大化しようとしていた。大谷吉継がこの一件を機に家康への不信感を決定的にしたという見方があるが 23 、それはこの家康の裁定が、単なる仲裁ではなく、関ヶ原へ向けた巧妙な布石であったことを見抜いていたからに他ならない。
第三節:裁定―家康による「解決」
慶長5年(1600年)の正月、ないし2月、家康による最終裁定が下された 23 。その内容は、一見すると騒動を平穏に収めたかのように見えた。
裁定は、首謀者である戸川達安、宇喜多詮家、花房正成らを宇喜多家から追放するものの、彼らに切腹や改易といった厳しい処分を科すのではなく、家康自身が身柄を預かるというものであった 7 。具体的には、戸川は家康の領国である武蔵国へ、花房は豊臣家奉行の増田長盛預かりとなるなど、彼らは宇喜多家から物理的に引き離された 10 。また、宇喜多詮家や岡貞綱らは一度は領国備前へ戻ることを許されたが、結局同年5月から6月にかけて再び出奔し、最終的に彼らの多くが家康の麾下へと吸収されていった 7 。
この裁定の本質は、公平な仲裁などではなかった。それは、戦国の常識では厳罰に処されるべき反乱者たちを罰するどころか、事実上保護し、彼らの主張を認めることで、主君である秀家の統治能力の欠如を天下に晒すものであった。そして何よりも、宇喜多家が誇る最も戦闘経験豊富な武将たちを、合法的に自らの手中に収めるという、極めて巧妙な「政治的解体工作」だったのである。家康は、宇喜多家の「人事問題」を、自らの「天下獲り」の駒として完璧に利用しきったのだ。
第四部:断絶と離散―騒動の収束と宇喜多家の人的損失
家康の裁定によって騒動は一応の「収束」を見たが、その代償は宇喜多家にとってあまりにも大きかった。それは、回復不可能なほどの人材流出と、軍事的中核の崩壊を意味した。
第一節:主要家臣の出奔
この騒動で宇喜多家を去ったのは、いずれも一家の屋台骨を支えてきた宿老たちであった。
- 戸川達安 : 知行2万5600石。父の代から仕える譜代筆頭で、数々の戦で宇喜多軍の主力を担った猛将 9 。
- 宇喜多詮家 : 知行2万4000石。秀家の従兄弟であり、宇喜多一門衆の重鎮 21 。
- 花房正成 : 知行3万1000石。備中高松城の戦いなどで活躍した家老 20 。
- 岡貞綱(越前守) : 譜代の重臣であり、騒動の中心人物の一人 8 。
彼らは単なる高禄の家臣ではない。それぞれが一軍を率いる能力と経験を持つ、方面軍司令官クラスの武将であった。彼らの離脱は、宇喜多軍から頭脳と背骨を同時に抜き去るに等しい行為だった。
第二節:人材流出の規模
彼ら四家老の出奔に追随し、70人以上の有力な家臣たちが宇喜多家を去ったと記録されている 15 。これは、宇喜多家の重臣格の半数以上が一挙に失われたことを意味し 26 、軍事的な中核戦力だけでなく、長年の経験に裏打ちされた領国経営のノウハウも同時に喪失したことを示している。宇喜多家は、一夜にしてその組織力を根底から蝕まれたのである。
第三節:家中再編の試みとその限界
大黒柱となる重臣たちを失った秀家は、騒動に際して中立を保っていた姉婿の明石全登(掃部)に家中の立て直しを託した 29 。全登は3万3000石を領する大身であり、優れた武将でもあったが、残された時間はあまりにも短かった 14 。
全登は新たな人材登用などの再編策に着手するが、その施策が十分に成果を上げる前に、天下の情勢は関ヶ原の戦いへと急展開していく 29 。宇喜多家は、いわば大手術を終えた直後の満身創痍の状態で、日本の歴史を二分する天下分け目の決戦に臨むことを余儀なくされたのである。
表1:宇喜多家中騒動 主要人物の動向一覧
本騒動に関わった主要人物の動向と最終的な運命を以下に一覧化する。この表は、騒動における各人の立場が、関ヶ原の戦いにおける所属、ひいてはその後の人生をいかに決定づけたかを明確に示している。「反秀家派」がことごとく東軍(徳川方)に参加している事実は、この騒動が単なる内紛ではなく、関ヶ原の前哨戦であったことを雄弁に物語っている。
人物名 |
騒動における立場 |
騒動後の処遇 |
関ヶ原の戦いでの所属 |
最終的な結末 |
典拠 |
宇喜多秀家 |
当主(秀家派) |
家中分裂、軍事力低下 |
西軍(副大将) |
敗戦後、八丈島へ流罪 |
4 |
中村次郎兵衛 |
側近(秀家派) |
前田家へ逃亡 |
(不参加) |
加賀藩士となる |
11 |
戸川達安 |
譜代重臣(反秀家派) |
宇喜多家を退去、家康預かり |
東軍 |
備中庭瀬藩主となる |
9 |
宇喜多詮家 |
一門衆(反秀家派) |
宇喜多家を退去、家康預かり |
東軍 |
石見津和野藩主となる(坂崎直盛に改名) |
20 |
花房正成 |
譜代重臣(反秀家派) |
宇喜多家を退去、増田長盛預かり |
東軍 |
徳川家旗本となる |
8 |
岡貞綱(越前守) |
譜代重臣(反秀家派) |
一度帰参後、再出奔 |
東軍 |
徳川家家臣となる |
8 |
明石全登(掃部) |
重臣(中立) |
騒動後、家宰として家中再編を担う |
西軍 |
大坂の陣で豊臣方として奮戦後、行方不明 |
20 |
徳川家康 |
調停者 |
騒動を裁定、反秀家派を麾下に収める |
東軍(総大将) |
江戸幕府を開く |
8 |
大谷吉継 |
調停者 |
第一次調停に関与(秀家派の立場) |
西軍 |
関ヶ原で自刃 |
23 |
終章:関ヶ原への序曲―騒動が残した致命的な爪痕
宇喜多家家中騒動は、単なる一地方大名の内紛に終わらなかった。それは宇喜多家の運命を決定づけ、ひいては関ヶ原の戦いの勝敗、さらには日本の歴史の行方にまで、致命的ともいえる深い爪痕を残したのである。
第一節:軍事力の低下―骨抜きにされた西軍最大勢力
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原。宇喜多秀家は1万7000という、西軍の中では最大級の兵力を率いて戦場に臨んだ 13 。数だけを見れば、その戦力は依然として強大であった。事実、宇喜多隊は東軍の先鋒である福島正則隊と互角以上の激戦を繰り広げ、その勇猛さを示している 13 。
しかし、この軍団は深刻な欠陥を抱えていた。戸川達安や宇喜多詮家といった、幾多の修羅場を潜り抜けてきた歴戦の指揮官たちを欠いていたのである。軍の「量」は維持されても、その指揮系統や戦術遂行能力といった「質」は決定的に低下していた。その脆弱性は、西軍の小早川秀秋が裏切り、宇喜多隊の側面に突撃してきた瞬間に露呈する。予期せぬ攻撃に宇喜多隊は大混乱に陥り、組織的な抵抗力を失って崩壊した。もし、経験豊富な宿老たちが健在であったならば、この混乱を収拾し、戦線を維持、あるいは立て直すことができたかもしれない。家中騒動は、関ヶ原における西軍最大の戦力を、最も重要な局面で機能不全に陥らせる、時限爆弾を仕掛けていたのである。
第二節:家康の深謀―天下掌握への布石
徳川家康の視点から見れば、この騒動への介入は、関ヶ原の勝利に向けた極めて重要な戦略的成功であった。それは、「敵の戦力を削ぎ、味方の戦力を増やす」という孫子の兵法の要諦を、戦わずして実現した完璧な実例であった。
家康は、豊臣政権の屋台骨である五大老の一角を内部から切り崩し、その軍事的中核を麻痺させた。それだけではない。宇喜多家から引き抜いた戸川達安や宇喜多詮家(坂崎直盛)といった猛将たちを自軍に組み込み、彼らは関ヶ原で東軍の勝利に貢献した 9 。これは、豊臣恩顧の大名たちに対し、「主家と対立しても家康を頼れば安泰である」という強烈なメッセージとなり、他の大名家の内部切り崩しを容易にする効果ももたらした。会津の上杉征伐が表の軍事行動であるとすれば、この宇喜多騒動への介入は、水面下で進められた見事な政治工作であり、家康の天下掌握戦略における決定的な布石の一つであったと言える。
第三節:悲運の若武者―宇喜多秀家の評価
豊臣秀吉の寵愛を一身に受け、若くして大国の主となり、武勇にも恵まれながら、宇喜多秀家は時代の大きな奔流の中で悲運の道を辿った 3 。彼が目指した当主中心の中央集権化は、大名権力の近代化という時代の流れに沿ったものであり、認識としては正しかったのかもしれない 8 。しかし、その手法はあまりに拙速であり、父・直家が巧みに操ったであろう、家臣たちの感情やプライドといった人間心理の機微を軽視していた 6 。
歴戦の譜代家臣たちの諫言に耳を傾けず、逆にその首謀者の謀殺を企てるという短慮は、彼らを完全に敵に回し、家康に介入の口実を与えてしまった。この家中騒動を自らの力で収拾できなかった政治的未熟さこそが、彼の、そして彼が忠誠を誓った豊臣家の運命を決定づける一因となった。関ヶ原で最強の家臣団を失ったまま戦い、敗れ、八丈島での長い流人生活を送ることになる若き大名の姿は、戦国乱世の終焉期における、一つの時代の悲劇を象徴している。
引用文献
- 【関ヶ原の舞台をゆく①】関ヶ原の戦いに至るまで~2年前から始まっていた関ヶ原・前哨戦 - 城びと https://shirobito.jp/article/484
- 家康が介入するほどに激化した宇喜多秀家の「人事」 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/32939
- 宇喜多秀家は「秀吉の秘蔵っ子でありながら関ヶ原の敗将として世を去った男」ではなく「84歳まで凛として生きた最後の武将」【イメチェン!シン・戦国武将像】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/36409
- 最年少27歳で五大老に就任、宇喜多秀家が辿った生涯|関ヶ原の戦いに敗れ、八丈島へ50年流刑された悲運の勇将【日本史人物伝】 | サライ.jp https://serai.jp/hobby/1156414/2
- 【岡山の歴史】(2)戦国宇喜多の再評価・・・宇喜多直家は、本当はどんな人物だったのか | 岡山市 https://www.city.okayama.jp/0000071248.html
- 宇喜多秀家(うきた ひでいえ) 拙者の履歴書 Vol.44〜戦国の嵐と島の静寂 - note https://note.com/digitaljokers/n/n8510d442e4d3
- 宇喜多騒動 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E9%A8%92%E5%8B%95
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- 宇喜多秀家の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38338/
- 「宇喜多秀家」戦国屈指のイケメン武将! 異例の出世を遂げるも、関ケ原の敗戦で島流し https://sengoku-his.com/677
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- 宇喜多秀家後編[関ヶ原合戦] - 備後 歴史 雑学 - FC2 http://rekisizatugaku.web.fc2.com/page026.html
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- 明石掃部とはいかなる人物だったのか?【前編】 - 歴史人 https://www.rekishijin.com/10033
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- 中村家正 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%AE%B6%E6%AD%A3