最終更新日 2025-09-15

宇喜多家粛清(1570年代)

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備前下剋上 ― 宇喜多直家による権力掌握と浦上氏の終焉(1570年代)

第一章:事変前夜 ― 権謀の種子、備前の土壌に芽吹く

1570年代の備前国(現在の岡山県南東部)を揺るがした宇喜多直家による一連の権力掌握劇は、単なる「反対派の排除」や「粛清」という言葉だけでは語り尽くせない、戦国時代の下剋上を象徴する一大権力移行でした。この事変を深く理解するためには、まずその主役である宇喜多直家という人物の成り立ちと、彼が台頭した当時の備前国が置かれていた複雑な政治的土壌を解き明かす必要があります。事変は突発的に起きたのではなく、長年にわたって周到に張り巡らされた伏線の上に、必然として成り立ったのです。

1.1 没落からの再起:宇喜多直家の野望の原点

宇喜多直家は享禄2年(1529年)、浦上氏の被官であった宇喜多興家の子として生を受けたとされます 1 。しかし、彼の幼少期は安寧とは程遠いものでした。天文3年(1534年)、祖父である宇喜多能家が主君・浦上宗景に疎まれ、同じく浦上氏の家臣であった島村氏の襲撃を受けて自害に追い込まれます 2 。これにより宇喜多家は没落し、幼い直家は父・興家と共に居城の砥石城を追われ、流浪の生活を余儀なくされました 1 。一説には、見知らぬ土地で牛飼いのようなことまでして糊口をしのいだと伝えられており、この困窮と屈辱の日々は、彼の精神に深く刻み込まれました 3

こうした過酷な原体験は、力なき者は強者に蹂躙されるという戦国の冷徹な掟を、直家の骨身に染み込ませました。彼が後に駆使する権謀術数の数々は、単なる悪辣さの発露というよりも、生き残るために体得せざるを得なかった唯一の生存戦略であったと理解することができます。

やがて成長した直家は、母が浦上宗景の奥女中を務めていた縁もあり、天文12年(1543年)に再び宗景に仕官する機会を得ます 2 。『古今武家盛衰記』によれば、直家は眉目秀麗で才知に優れていたため、宗景の寵愛を受け、重用されたといいます 1 。しかし、主君の庇護の下で安穏と過ごす道を選ばず、彼の胸中では常に、没落した宇喜多家の再興という熱い野望の炎が燃え続けていました。

1.2 備前の支配者・浦上宗景:その栄光と内憂

直家が仕えた浦上宗景は、決して凡庸な主君ではありませんでした。室町時代以来、備前・播磨・美作の守護であった赤松氏の守護代を務めた浦上氏は、宗景の父・村宗の代に主家を凌ぐ勢力を持ちましたが、村宗の死後、家督を巡って宗景とその兄・政宗が対立します 5 。宗景は天神山城(現在の岡山県和気町)を本拠とし、兄との抗争を制して備前・美作に勢力を拡大した、実力のある戦国大名でした 5

しかし、その支配基盤は決して盤石なものではありませんでした。宗景の権力は、強力な中央集権体制に支えられていたわけではなく、備前・美作の国衆(在地領主)たちを束ねる盟主という性格が強いものでした。宇喜多氏もまた、完全な被官というよりは、浦上氏の傘下で勢力を持つ従属的な同盟者、あるいは有力な国衆の一人に過ぎなかったのです 7 。この支配構造の脆弱性こそが、後の下剋上の温床となりました。有力な国衆である直家が離反した際、他の国衆たちも自らの利害を天秤にかけ、雪崩を打って同調しやすいという構造的欠陥を、宗景の体制は当初から内包していたのです。

1.3 主家を蝕む臣:直家の勢力拡大と謀略の数々

浦上宗景の家臣として、直家は表向き忠勤に励み、数々の戦功を挙げて頭角を現していきます。しかしその裏で、彼は着々と自らの勢力を拡大し、邪魔者を排除するための非情な謀略を次々と実行していきました。

その手始めとされるのが、永禄2年(1559年)の舅・中山勝政の謀殺です。直家は勝政の娘を娶りながらも、彼を殺害してその居城と領地を奪い、祖父の旧領回復への足がかりとしました 8 。さらに、龍ノ口城主・穝所元常に対しては、元常が男色家であることを見抜き、美少年・岡清三郎を刺客として送り込み、閨房で暗殺させるという、常軌を逸した策でその城を奪取したと伝えられています 3

極めつけは、永禄9年(1566年)、備中(現在の岡山県西部)から美作へ侵攻してきた覇者・三村家親の暗殺です 2 。直家は、当時まだ普及していなかった鉄砲を用い、遠藤兄弟という狙撃手に依頼して家親を射殺させました 1 。これにより、宇喜多氏は西からの脅威を未然に防ぐことに成功します。

これらの謀殺は、いずれも感情的なものではなく、要衝の獲得、敵対勢力の無力化、自領の安全確保といった、極めて合理的な戦略目標に基づいていました。直家の行動は、備前国内における軍事的・経済的な要衝を一つずつ押さえ、自らに有利な戦略的配置へと再構築していく、長期的な計画の一部であったと見ることができます。ただし、これらの逸話の多くは江戸時代に編纂された軍記物に依拠しており、後世の脚色が含まれている可能性も指摘されている点には留意が必要です 8

1.4 迫りくる巨人の影:織田と毛利の対立構造

1570年代に入ると、日本の政治情勢は大きく変動します。畿内を制圧し、天下統一への道を突き進む織田信長と、中国地方一帯に覇を唱える毛利輝元の二大勢力が、いよいよ本格的な対立の時を迎えようとしていました。そして、その勢力圏の境界線上に位置していたのが、備前国でした。

この巨大な地政学的変動は、備前の勢力図にも決定的な影響を及ぼします。主君である浦上宗景は、西の毛利氏の圧力を警戒し、東の新興勢力である織田信長との連携を深めていきました 12 。一方で、着実に実力を蓄えていた宇喜多直家は、主君とは逆に、毛利氏へと接近します 13 。こうして、備前国内の浦上・宇喜多の対立は、織田・毛利の代理戦争という様相を帯びていくのです 14

直家にとって、主君・宗景を打倒する好機が訪れました。彼個人の野心だけでなく、毛利という巨大な後ろ盾を得られるという外部環境が整ったのです。毛利は織田の東進を食い止めるための防波堤として直家を必要とし、直家は下剋上を成し遂げるための大義名分と軍事力として毛利を必要としました。両者の利害が完全に一致した瞬間、備前の歴史を塗り替える壮大な粛清劇の幕が上がったのです。

第二章:天神山城の戦い ― 粛清と下剋上のリアルタイム詳解

宇喜多直家による権力掌握のクライマックスは、天正2年(1574年)から天正3年(1575年)にかけての約1年半にわたって繰り広げられた「天神山城の戦い」です 15 。これは、天神山城を巡る攻防戦のみならず、備前・美作全域を舞台とした、調略と武力が複雑に絡み合った一大決戦でした。その経過を時系列で追うことで、直家がいかにして二百年の名門・浦上氏を滅亡に追い込んだのか、そのリアルタイムな実像に迫ります。

2.1 叛旗(1574年4月~):毛利との結託と宗景への決別

天正2年(1574年)4月、宇喜多直家は、西の巨人・毛利氏との連携を確固たるものとし、ついに主君・浦上宗景に対して公然と反旗を翻しました 15 。しかし、直家は単なる謀反人として兵を挙げる愚を犯しませんでした。彼は、かつて宗景との家督争いに敗れた兄・政宗の孫にあたる浦上久松丸を播磨から迎え入れ、浦上家の「正統な後継者」として擁立したのです 16 。これにより、自らの挙兵を「君側の奸(くんそくのかん)である宗景を討ち、正統な主君を立てるための義挙」であると内外に喧伝し、大義名分を確保しました。この巧みな政治工作は、浦上家中の国衆や家臣たちの動揺を誘い、宗景の求心力を著しく低下させる効果がありました。

2.2 孤立化工作:調略による浦上家臣団の切り崩し

直家の真骨頂は、武力による正面衝突の前に、徹底した調略によって敵の内部から崩壊させる点にありました。天神山城の戦いの勝敗は、実際の戦闘が始まる前の、この調略戦の段階でほぼ決していたと言っても過言ではありません。

直家は、浦上家中の人間関係、各武将が抱える不満や将来への不安を的確に突き、領地の安堵や新たな恩賞を約束することで、次々と寝返りを誘いました。特に大きかったのは、浦上氏の重臣であった明石行雄(景親)や、美作における有力国衆であった岡本氏秀といった人物が、相次いで直家方へと与したことです 18 。譜代の重臣や有力者の離反は、他の家臣たちの心理に絶大な影響を与え、浦上方の結束は急速に瓦解していきました。

直家の戦略は、物理的に城を包囲する前に、まず情報戦と心理戦によって敵の戦意と結束を奪い、城の守り手をなくすことに主眼が置かれていました。宗景は、気づいた時には味方であるはずの家臣たちによって四方を固められ、情報網も兵力供給源も断たれた、まさに裸の王様となっていたのです 12

2.3 攻防の激化:備前・美作各地での戦闘

調略による切り崩しと並行して、宇喜多・毛利連合軍は、浦上方に残った諸城への攻撃を開始しました。備前・美作の各地で激しい戦闘が繰り広げられます。浦上方も、忠誠を尽くす花房氏や石川氏といった家臣たちの奮戦により、美作豊田の戦いや備前鳥取の戦いなどで局地的な勝利を収める場面もありました 15

しかし、大局は動きませんでした。次々と味方が寝返り、支城が陥落していく中で、浦上宗景が立て籠もる本拠・天神山城は外部との連絡を完全に遮断され、巨大な陸の孤島と化していきました。

2.4 落城(1575年9月):宗景の敗走と二百年の名門・浦上氏の終焉

一年半にわたる抵抗も、ついに限界に達します。天正3年(1575年)9月、もはやこれまでと悟った浦上宗景は、宇喜多軍の厳重な包囲網を掻い潜り、少数の供回りとともに天神山城を脱出しました 15 。彼は播磨の有力大名・小寺政職のもとへと落ち延び、再起を図ることになります 18

主を失った天神山城は陥落し、ここに室町時代以来、約二世紀にわたって備前国に君臨した名門・浦上氏は、戦国大名として事実上滅亡しました 16 。一連の戦いの後、直家は天神山城を廃城とし、備前の新たな中心地として岡山城の整備を本格化させていきます 22

この約1年半にわたる複雑な戦況の推移を、以下の年表にまとめます。

【表1:天神山城の戦い 詳細年表(1574年~1575年)】

年月

宇喜多方(毛利方と連携)の動向

浦上方の動向

外部勢力(毛利・織田)の動向

天正2年 (1574)

4月

浦上久松丸を擁立し、公然と宗景に反旗を翻す。

宇喜多方の離反を認識し、迎撃態勢を整える。

毛利氏が宇喜多直家を全面的に支援。

6月

重臣・明石行雄(景親)を調略し、寝返らせることに成功。

重臣の離反により、家臣団に深刻な動揺が走る。

7月

美作の浦上方の拠点、岩屋城を攻撃。

岩屋城主・垪和氏らが抵抗するも、苦戦。

10月

美作豊田の戦い、備前鳥取の戦いで浦上方に敗北。

花房氏、石川氏らの奮戦により、宇喜多軍を撃退。

11月

浦上方の有力国衆・伊賀氏を調略。

天神山城周辺の支城が徐々に孤立していく。

天正3年 (1575)

1月~8月

天神山城への包囲網を強化。兵糧攻めと調略を継続。

天神山城に籠城。城内では兵糧が欠乏し、士気が低下。

織田信長は長篠の戦いなどで多忙であり、宗景への有効な支援は行えず。

9月

天神山城への総攻撃準備を完了。

浦上宗景、城からの脱出を決意。

9月11日

宗景、天神山城を脱出し、播磨へ敗走。

9月下旬

天神山城を接収。備前・美作の主要部を完全に掌握。

大名としての浦上氏が滅亡。

毛利氏の勢力圏が東へ拡大。

第三章:新時代の幕開け ― 備前・美作の新支配者

浦上宗景を追放し、長年の宿願であった下剋上を成し遂げた宇喜多直家は、備前・美作を手中に収めた新たな支配者として君臨します。しかし、それは彼の戦いの終わりを意味するものではありませんでした。領国の安定化、そして東の織田、西の毛利という二大勢力に挟まれた中で、宇喜多家が生き残るための、次なる過酷な戦いの始まりだったのです。

3.1 権力の掌握と領国経営:岡山城の築城と城下町の整備

浦上氏を滅ぼした直家は、その本拠であった天神山城を廃し、新たな時代の中心地として岡山城(当時は石山城と呼ばれた砦を改修)の本格的な築城に着手します 22 。この地は、陸路と水運の結節点であり、領国経営の拠点として最適でした。直家は、重臣の岡家利らに普請を命じ、城の拡張と防御機能の強化を進めると同時に、城下に商人や職人を呼び寄せて城下町の整備にも力を注ぎました 8

それまで備前の商業の中心は西大寺や福岡といった東部地域にありましたが、直家と後の秀家の二代にわたる都市計画により、岡山は備前の新たな政治・経済の中心地として発展していくことになります 8 。これは、直家が単なる謀略家や破壊者ではなく、新たな秩序を創造する優れた統治者としての一面も持ち合わせていたことを示しています。

3.2 旧勢力の掃討:浦上残党との戦い

宗景の追放後も、備前・美作の全てが直ちに直家に服したわけではありませんでした。美作の三星城に籠る後藤勝基をはじめ、浦上氏に恩義を感じる旧臣たちは各地で抵抗を続けました 5

直家は、これらの残党勢力に対して容赦ない掃討作戦を展開します。天正7年(1579年)には、家臣の花房氏らに命じて三星城を攻撃させ、激しい戦いの末に後藤勝基を討ち取りました 25 。こうした一連の戦いを通じて、直家は反対勢力を物理的に排除し、備前・美作における支配体制を盤石なものとしていきました。主君追放後も続いたこれらの戦いは、まさに「粛清」の総仕上げであったと言えるでしょう。

3.3 大勢力間の綱渡り:毛利への臣従から織田への帰順へ

領国を統一した直家が直面した最大の課題は、織田と毛利という二大勢力との関係でした。当初、直家は浦上氏打倒の際に支援を受けた毛利氏に臣従し、織田信長の命を受けて中国地方へ侵攻してきた羽柴秀吉の軍勢と対峙しました 5

しかし、戦況は次第に織田方優位に傾いていきます。秀吉の巧みな調略と圧倒的な物量の前に、播磨の諸将が次々と降伏。織田軍の脅威が備前の目前に迫ると、直家は驚くべき決断を下します。天正7年(1579年)、彼は毛利氏を裏切り、羽柴秀吉を通じて織田方へと寝返ったのです 8

この絶妙なタイミングでの鞍替えは、直家の政治的嗅覚と生存本能の高さを物語っています。彼にとっての主君とは、特定の家や人物への忠誠心ではなく、常に「時代の流れ」、すなわち最も勢いのある強大な力そのものでした。浦上宗景を見限ったのも、毛利輝元を裏切ったのも、彼の中では「弱きを捨てて強きに付く」という、戦国乱世を生き抜くための一貫した論理に基づいていたのです。この「裏切り」は、中国地方における毛利・織田間のパワーバランスに決定的な影響を与え、戦局を大きく織田方有利へと傾けました 8

3.4 梟雄の最期と次代への継承

織田方へと転じた直家は、今度は毛利軍を相手に備前・美作で激しい攻防を繰り広げます。しかし、長年の心労と戦いが彼の体を蝕んでいました。天正9年(1581年)あるいは天正10年(1582年)、宇喜多直家は岡山城にて病没しました 2 。享年53。

流浪の身から成り上がり、謀略の限りを尽くして備前・美作の国主へと上り詰めた梟雄は、その最期にあたって、次代への布石を打つことを忘れませんでした。彼は、まだ幼い嫡男・八郎(後の秀家)の将来を、織田軍団の中で最も勢いのあった羽柴秀吉に託しました 28 。この最後の深慮により、宇喜多家は直家の死後もその勢力を保ち、秀家の代には豊臣政権下で五大老の一角を占める大大名へと飛躍することになるのです。

第四章:総括 ― 「宇喜多家粛清」の歴史的意義

宇喜多直家が1570年代に断行した一連の権力掌握劇は、備前国という一地方の歴史を塗り替えただけでなく、戦国時代という時代の本質を映し出す象徴的な出来事でした。その歴史的意義を多角的に考察することで、この事変の全体像を締めくくります。

4.1 「粛清」から「下剋上」へ:事変の本質の再定義

当初の「宇喜多家粛清」という言葉は、直家が反対派を排除したという側面を的確に捉えています。しかし、その過程と結果を詳細に見ていくと、この事変の本質は、単なる内部の粛清に留まらない、より大きな構造転換であったことが明らかになります。

それは、守護代という室町時代以来の古い権威を持つ主君(浦上宗景)を、その家臣であり、実力を持つ新興勢力(宇喜多直家)が武力と謀略によって打倒し、その地位と領国を完全に奪い取るという、まさに「下剋上」の典型例でした。これは、備前国における統治権が、血筋や家格といった旧来の価値観から、純粋な「実力」本位へと移行した決定的瞬間であり、戦国乱世のダイナミズムを凝縮した出来事であったと言えます。

4.2 謀略家か、時代の先駆者か:宇喜多直家の多角的評価

宇喜多直家という人物は、その手段の非情さから、しばしば斎藤道三や松永久秀と並び「戦国三大梟雄」の一人に数えられます 30 。舅や娘婿すら手にかける冷徹さ 3 は、同時代人にも恐れられ、弟の忠家でさえ、兄に会う際には鎖帷子を身に着けていたという逸話が残るほどです 3

しかし、その一方で、彼は裸一貫から一代で備前・美作二カ国を領する大大名にのし上がった、類稀なる能力の持ち主でもありました 31 。また、岡山城と城下町を整備し、現代に続く大都市・岡山の礎を築いた統治者としての功績も無視できません 32 。近年の研究では、彼の「梟雄」としてのイメージは、江戸時代に成立した軍記物語によって誇張された側面が強く、むしろ苦労を共にした家臣団との絆を大切にし、時代の変化を的確に読んで生き抜いた英雄、あるいは時代の先駆者として再評価する動きも見られます 11 。彼は、善悪二元論では到底測ることのできない、複雑で多面的な魅力を持つ人物だったのです。

4.3 戦国乱世における権力移行の一典型

最終的に、宇喜多直家による浦上氏の打倒は、戦国時代という社会変動の縮図でした。それは、室町幕府が作り上げた守護・守護代体制という古い秩序が、各地で勃興した国衆や家臣といった新たな実力者たちによって解体されていく過程の一例です。

さらに、この下剋上の帰趨が、宇喜多・浦上両者の力関係だけでなく、織田と毛利という二大勢力の動向によって決定づけられた点は、戦国時代後期の権力闘争の特質を明確に示しています。もはや一地方の紛争は、それ単独では完結し得ず、天下の情勢というより大きな枠組みの中でその運命が左右される時代になっていたのです。宇喜多直家は、その大きな時代のうねりを誰よりも敏感に感じ取り、巧みに乗りこなすことで、自らの野望を成就させたのでした。彼が備前の地に刻んだ権力闘争の軌跡は、戦国乱世の厳しさと、そこに生きた人間の底知れぬ可能性を、今なお我々に強く語りかけています。

引用文献

  1. 「宇喜多直家」稀代の梟雄と評される武将は実はかなりの苦労人!? - 戦国ヒストリー https://sengoku-his.com/516
  2. 宇喜多直家とは 主家浦上氏に倣い主家を滅ぼす - 戦国未満 https://sengokumiman.com/ukitanaoie.html
  3. 宇喜多直家 暗殺・裏切り何でもありの鬼畜の所業 /ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/17905/
  4. 残忍で勇猛!戦国時代の武将・宇喜多直家の戦歴と荒々しすぎる所業がすさまじい - Japaaan https://mag.japaaan.com/archives/164348
  5. 備前・備中・美作戦国史-戦国通史 http://www2.harimaya.com/sengoku/sengokusi/bimu_01.html
  6. 『歴史の時々変遷』(全361回)186”天神山城の戦い“「天神山城の戦い」天正2年(1574)4月から天正3年(1575)9月にかけての期間行われた浦上宗景・三浦貞広と宇喜多直家との間の戦い。最終 http://hikosann.blog.fc2.com/blog-entry-1634.html?
  7. [PDFあり]戦国初期の宇喜多氏について : 文明~大永年間における浦上氏との関係を中心に / 渡邊大門 - 佛教大学 https://bukkyo.alma.exlibrisgroup.com/discovery/fulldisplay/alma991006875141106201/81BU_INST:Services
  8. 宇喜多直家 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%96%9C%E5%A4%9A%E7%9B%B4%E5%AE%B6
  9. 祖父の旧領地も奪回する。同時に仇敵 島村盛実を謀殺。以後、亀山城(沼城)を居城とし領地の拡張に努め - 宇喜多直家公の足跡を巡る https://ukita.e-setouchi.info/naoie.html
  10. 中山勝政 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%B1%B1%E5%8B%9D%E6%94%BF
  11. 戦国の「梟雄」宇喜多直家は、幼い頃にアホのフリをし、死に際して家臣に殉死を求めたというのは事実か? - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=ekVtSFnQxEg
  12. 天神山城の戦い(岡山県和気郡和気町) | どこいっきょん? - FC2 http://jaimelamusique.blog.fc2.com/blog-entry-122.html
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  28. 宇喜多直家(うきた なおいえ) 拙者の履歴書 Vol.43 ~謀略と外交の果てに - note https://note.com/digitaljokers/n/nb36565c729fd
  29. 宇喜多秀家の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/38338/
  30. 【読者投稿欄】戦国時代の梟雄といえば誰を思い浮かべますか? - 攻城団 https://kojodan.jp/enq/ReadersColumn/59
  31. 宇喜多直家・宇喜多秀家― | さぁ、大河ドラマ実現へ - 岡山城 https://okayama-castle.jp/ukita-taiga/
  32. あらゆる手段で戦国乱世を勝ち抜いた豪勇の士・宇喜多直家とは⁈ - 歴史人 https://www.rekishijin.com/28273
  33. 【岡山の歴史】(2)戦国宇喜多の再評価・・・宇喜多直家は、本当はどんな人物だったのか | 岡山市 https://www.city.okayama.jp/0000071248.html