最終更新日 2025-09-18

安土セミナリヨ設置(1579)

1579年、織田信長の庇護のもと安土にセミナリヨが設置。ヴァリニャーノの適応主義に基づき日本人聖職者育成を目指すも、本能寺の変で信長が倒れ、わずか2年で焼失。その精神は後のキリシタンに受け継がれた。
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安土セミナリヨ設置の真相:織田信長の天下布武とイエズス会の世界戦略が交差した瞬間

序章:天正七年、安土の空 ― 新時代の到来と異邦の使者

天正7年(1579年)、日本の歴史は大きな転換点を迎えようとしていた。織田信長による天下統一事業は最終局面に入り、その権勢は揺るぎないものとなりつつあった。長篠の戦いで宿敵・武田氏の騎馬軍団を打ち破り、10年にも及んだ石山本願寺との死闘も、終結の兆しが見え始めていた 1 。この時期、琵琶湖の東岸に忽然と姿を現した安土城は、単なる軍事拠点ではなかった。それは、信長が構想する新しい時代の政治、経済、そして文化の中心地そのものであり、楽市楽座の推進によって全国から人、物、情報が集まる国際都市を目指していた 1

まさにその年、天正7年7月25日、一人の異邦人が日本の土を踏んだ。イタリア出身のイエズス会士、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ。東インド管区巡察師という重責を担う彼の来日は、日本のキリスト教布教史における、そして信長の運命における、新たな一章の幕開けを告げるものであった 2

本報告書は、この歴史的背景の下で実現した「安土セミナリヨ」の設置について、その設立の経緯、関係者の思惑、そしてわずか2年という短い期間で歴史の舞台から姿を消すまでの軌跡を、時系列に沿って徹底的に解明するものである。

なお、本報告書で扱う「セミナリヨ」とは、戦国時代に設立されたキリスト教の教育機関であり、その跡地は現在「セミナリヨ跡」として史跡公園となっている 4 。これは、現代の滋賀県近江八幡市に存在するパイプオルガンを備えた文化ホール「文芸セミナリヨ」とは、その名称において類似性を持つものの、歴史的連続性のない全く別の施設である 7 。読者の混乱を避けるため、ここに明確に記しておく。

第一章:なぜ安土だったのか ― 信長のグランドデザインと宗教戦略

安土という「舞台装置」

信長がセミナリヨの設置を許可した場所は、伝統的な宗教・政治の中心地であった京都ではなかった。彼が選んだのは、自らがゼロから築き上げた新興都市、安土であった。この選択には、信長の深遠な政治的意図が隠されている。安土は、旧来の権威から脱却し、信長自身の絶対的な権力を天下に示すための巨大な「劇場型都市」であった。琵琶湖に面した壮麗な城と、広く真直ぐに整備された城下町は、訪れる者に新時代の到来を強烈に印象づけた 10 。この壮大な舞台装置の中に、異国の最先端の学問を教えるセミナリヨを組み込むことは、安土が国際的な文化都市であることを内外にアピールする上で、極めて効果的な演出であった。

信長の宗教政策:破壊と保護の二元論

信長の宗教政策は、破壊と保護という、一見矛盾した二つの側面を持っていた。比叡山延暦寺の焼き討ちや、石山本願寺との長期にわたる抗争に代表されるように、彼は自らの支配に抵抗し、武装して政治に介入する既存の仏教勢力に対しては、容赦のない徹底した弾圧を行った 12 。彼らにとって、信長はまさに「仏敵」であった。

その一方で、信長はキリスト教に対しては驚くほど寛容であり、保護的な態度を取った。ポルトガル人宣教師ルイス・フロイスと親しく語らい、その活動を積極的に後援したことは、後にキリスト教を弾圧した豊臣秀吉や江戸幕府の政策とは明確な対照をなしている 13 。この二元的な政策は、決して気まぐれなものではなく、信長ならではの合理的な計算に基づいていた。

キリスト教を「利用」した深謀

信長がキリスト教を保護した背景には、複数の戦略的な動機が存在した。

第一に、それは 政治的な意図 であった。当時、強大な経済力と武力を有していた仏教勢力は、信長の天下統一事業における最大の障害の一つであった。信長は、キリスト教を保護することで、これらの旧来の宗教的権威を牽制し、その影響力を相対的に低下させることを狙った。宣教師たち自身も、信長が仏教勢力を排除してくれたことで、布教の見通しが立ったと認識していた 16 。安土セミナリヨの存在は、旧勢力に対する信長の挑戦状であり、新しい価値観の象徴でもあった 3

第二に、 文化的・経済的な関心 が挙げられる。信長は、宣教師たちがもたらす南蛮の珍しい文物や知識に対して、極めて強い好奇心を抱いていた。地球儀、時計、眼鏡、そして金平糖に代表される南蛮菓子など、それまでの日本にはなかった品々は、信長の知的好奇心を大いに刺激した 15 。また、宣教師たちは南蛮貿易の仲介者でもあり、彼らとの良好な関係は、火薬や鉛などの軍事物資を含む交易上の利益を確保する上でも不可欠であった。セミナリヨの設置許可は、これらの文化的・経済的利益を継続的に享受するための、いわば「対価」としての側面も持っていたのである 15

信長にとってセミナリヨは、単なる宣教師の学校ではなかった。それは、自らが創造する国際都市・安土の先進性を象徴する文化的モニュメントであった。信長が宣教師に安土城に隣接する「これ以上良好な場所はないと思われる地所」を与え 11 、さらにその屋根に安土城と同じ青い瓦の使用を命じたという事実は 20 、彼がセミナリヨを自身の権威の象徴である安土城と一体のものと見なしていたことの何よりの証拠である。この一連の行動は、信長がセミナリヨの設置を、自らの都市計画に能動的に組み込んでいたことを示している。それは、伝統的な仏教寺院が林立する京都への、強烈な対抗意識の表れでもあったのだ。

第二章:二人の宣教師 ― ヴァリニャーノの構想とオルガンティノの実行

ヴァリニャーノの布教革命:「適応主義」の提唱

アレッサンドロ・ヴァリニャーノが日本に到着した当時、イエズス会の布教活動は大きな壁に突き当たっていた。彼の前任者であった準管区長フランシスコ・カブラルは、ヨーロッパの文化や習慣を絶対視し、日本の風習を軽んじる姿勢を隠さなかった 2 。このアジア人蔑視ともいえる態度は、日本人信徒との間に深刻な溝を生み、布教の大きな妨げとなっていた。

この状況を目の当たりにしたヴァリニャーノは、布教方針の抜本的な改革を断行する。彼が打ち出したのが、後に「適応主義(Accommodation)」と呼ばれる画期的な戦略であった。これは、ヨーロッパのやり方を一方的に押し付けるのではなく、日本の文化、言語、習慣を深く理解し、尊重した上で、キリスト教の教えを根付かせていこうとするものであった 2 。ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価し、日本文化の豊かさに深い鑑識眼を持っていた 22 。この適応主義こそが、安土セミナリヨ設立の思想的根幹をなすものであった。

日本人聖職者養成という核心的戦略

ヴァリニャーノが提唱した「適応主義」の核心は、日本人自身の手による布教活動、すなわち日本人聖職者の育成にあった 2 。外国人宣教師による布教には、言語や文化の壁が常に付きまとう。日本の隅々にまで福音を届けるためには、日本人の中から指導者を育て上げることが不可欠であると、ヴァリニャーノは喝破したのである 23

この壮大な構想を実現するための具体的な器が、教育機関の設立であった。彼は、初等教育を担う「セミナリヨ」と、神学や哲学を教える高等教育機関「コレジオ」を、日本の主要な布教拠点にそれぞれ設置する計画を立てた 24 。安土セミナリヨは、九州の有馬(長崎県南島原市)に設立されたセミナリヨと並び、この国家規模の教育プロジェクトにおける最重要拠点の一つとして位置づけられていた。

現場責任者オルガンティノの役割

このヴァリニャーノの壮大な構想を、安土という日本の政治の中心地で実現させるという困難な任務を託されたのが、イタリア人宣教師グネッキ・ソルディ・オルガンティノであった 19 。彼は1570年に来日して以来、主に京都で布教活動を行い、信長と直接対話できる数少ない宣教師の一人であった 25 。長年にわたる真摯な活動を通じて、オルガンティノは信長の深い信任を勝ち得ており、その個人的な関係こそが、安土の一等地へのセミナリヨ設置という破格の待遇を引き出す上で決定的な役割を果たしたのである 26

安土セミナリヨは、単に畿内における神学校という位置づけに留まらない。それは、ヴァリニャーノが描いた世界戦略「適応主義」を、日本の最高権力者の膝元で具現化するための、極めて象徴的なフラッグシップ・プロジェクトであった。九州の有馬セミナリヨが、すでにキリスト教を信仰する大名の庇護下にあったのに対し、安土は非キリシタンである天下人・信長の下で、ゼロから布教の未来を築く場所であった。ここでの成功は、ヴァリニャーノの新戦略が日本の頂点においても通用することを証明する試金石であり、彼の構想全体の成否を占う、戦略的に極めて重要な一手だったのである。

第三章:天正八年から九年の記録 ― セミナリヨ設立のリアルタイム・クロニクル

安土セミナリヨの設立は、ヴァリニャーノの来日からわずか2年足らずの間に、目まぐるしい速さで進行した。以下に、その主要な出来事を時系列で示し、当時のリアルタイムな状況を再現する。

年月(西暦/和暦)

主要な出来事

関係者

備考(史料出典など)

1579年7月 (天正7年)

ヴァリニャーノ、日本(口之津)に到着。

アレッサンドロ・ヴァリニャーノ

日本の布教状況を視察し、「適応主義」方針を固める 2

1580年 (天正8年)

九州・有馬にセミナリヨが開校。

ヴァリニャーノ、有馬晴信

安土に先立ち、キリシタン大名領で計画が実行に移される 3

1580年5月21日 (天正8年)

信長、オルガンチノに安土の土地を下付。

織田信長、グネッキ・ソルディ・オルガンティノ

フロイス『日本史』に「これ以上良好な場所はない」との記述 11

1580年~1581年

セミナリヨの建設工事。

オルガンティノ、日本の信者たち

純和風三階建て。信長が青瓦の使用を命じる 20

1581年2月 (天正9年)

ヴァリニャーノ、安土で信長に公式謁見。

ヴァリニャーノ、信長、オルガンティノ

黒人奴隷(後の弥助)を献上。安土城図屏風を贈られる 2

1581年 (天正9年)

安土セミナリヨ、正式に開校。

オルガンティノ、高山右近、パウロ三木

当初は高山右近の家臣の子弟ら8名が入学 20

1580年(天正8年):運命の土地下付

ヴァリニャーノが日本全体の布教改革を進める中、現場の責任者オルガンチノは、信長との直接交渉に臨んだ。彼は信長に謁見した際、イエズス会士の住居と、将来の日本人聖職者を育成するための学校用地を下付されるよう願い出た 10 。安土は信長の新しい城下町であり、土地は極めて限られていたが、信長の決断は迅速かつ破格のものであった。

天正8年5月21日、信長はオルガンチノに対し、安土城のすぐ麓にあり、城下町全体を見渡せる絶好の場所を与えた。ルイス・フロイスはその著書『日本史』の中で、この土地を「これ以上良好な場所はないと思われる地所」と記している 11 。この場所はもともと沼地であったが、信長はわずか20日間で埋め立て工事を完了させ、宣教師たちに引き渡したという 19 。この異例の厚遇は、信長がセミナリヨの建設をいかに重要視していたかを物語っている。

1580年~1581年(天正8年~9年):壮麗なる学び舎の建設

土地の下付を受けると、オルガンチノは直ちに建設に取り掛かった。高山右近をはじめとする近在のキリシタンたちの熱心な援助もあり、工事は順調に進んだ 30 。完成した建物は、当時の城下では他に類を見ない、壮麗な三階建ての純和風建築であった 20

特筆すべきは、その屋根である。信長は自らの命令で、セミナリヨの屋根に、自身の居城である安土城の天主と同じ青い瓦を使用することを許可した 3 。瓦葺きの建物は、当時、城郭や寺社などごく一部の建造物に限られており、これを宣教師の住院に許したことは、信長の彼らに対する特別な配慮と、セミナリヨを自らの権威の延長線上に位置づけていたことを明確に示している。イエズス会の宣教師たちは、この計らいに深く感謝したと記録されている 20

1581年(天正9年):最高権力者との謁見と開校

セミナリヨの完成が間近に迫った天正9年2月、巡察師ヴァリニャーノは満を持して安土を訪れ、信長との公式謁見に臨んだ 2 。この歴史的な会見の場で、一つの有名な逸話が生まれる。ヴァリニャーノが従者として連れてきたアフリカ出身の黒人男性に、信長が強い興味を示したのである。信長はその肌が本当に黒いのか確かめるために体を洗わせたという。彼の存在を大いに気に入った信長は、ヴァリニャーノからこの男性を譲り受け、「弥助」と名付けて近習として召し抱えた 2 。この出来事は、信長の異文化への尽きない好奇心を示す象徴的なエピソードとして知られている。

壮麗な校舎は完成したものの、肝心の生徒を集めることは容易ではなかった。そこでオルガンチノが頼ったのが、熱心なキリシタン大名であった高槻城主・高山右近であった 20 。右近はオルガンチノの依頼に応え、自らの家臣の子弟の中から8名の少年を選び出し、彼らの両親を説得して安土へと送り出した 26 。この8名が、安土セミナリヨの第一期生となった。

こうして、天正9年(1581年)、安土セミナリヨはついに開校の日を迎えた。当初は10数名の生徒で始まったこの学び舎は 11 、やがて諸国から優秀な若者が集まり、総勢20数名で授業が行われるようになった 24 。信長の城下で、日本の未来を担う若者たちによる、西洋の学問の探求が始まったのである。

第四章:学び舎の情景 ― 安土セミナリヨの建築、教育、そして信長の訪問

和洋折衷の先進的空間

安土セミナリヨの建物は、単なる西洋式の学校ではなく、日本の文化に深く配慮した和洋折衷の空間であった。その構造は三階建てで、一階には来客をもてなすための茶室を備えた座敷が設けられていた 19 。これは、日本の武士階級の礼法や社交文化を尊重する、ヴァリニャーノの「適応主義」が建築様式にも明確に反映された例である。二階は宣教師たちの居室、そして最上階の三階が教室と生徒たちの寮として使用されていた 19 。三方は石垣で囲まれ、信長の城下における重要な施設としての威容を誇っていた 19

響き渡るラテン語とオルガンの音色

セミナリヨで行われていた教育は、当時の日本においては最先端のものであった。その内容は、ヨーロッパのルネサンス期における人文主義教育(ヒューマニズム教育)を基礎としており、多岐にわたっていた。生徒たちは、神学や哲学を学ぶための基礎として、ラテン語の読み書きを徹底的に学んだ 23 。その他にも、日本語、キリスト教教理、数学、修辞学、さらには仏教の教義についても学び、他宗教との対論に備えていた 10

中でも特筆すべきは、音楽教育の重視である。セミナリヨには、日本で最初期に輸入されたパイプオルガンが設置されており、その荘厳な音色が日常的に奏でられていた 33 。この情操教育は、生徒たちの感性を育むとともに、キリスト教の典礼に不可欠な聖歌隊を育成する目的も持っていた。ルイス・フロイスの記録によれば、信長自身もしばしばこのセミナリヨを訪れ、珍しいオルガンの音色に熱心に耳を傾けたと伝えられている 19 。ラテン語の響きとオルガンの調べが満ちる学び舎は、信長と宣教師たちの文化的な交流を象徴する場でもあった。

未来の殉教者、パウロ三木

安土セミナリヨが輩出した多くの人材の中で、その名を歴史に深く刻んだ人物がいる。パウロ三木である 19 。阿波国の武士、三木半太夫の子として生まれた彼は、安土セミナリヨの第一期生として入学し、ここで学問と信仰を深めた 30

セミナリヨ卒業後、彼はイエズス会に入会し、布教活動にその身を捧げた 34 。しかし、豊臣秀吉によるキリスト教弾圧が始まると、彼は大阪で捕らえられ、他の25名の信徒と共に長崎へと送られる。そして1597年2月5日、西坂の丘で十字架にかけられ、殉教を遂げた。後に彼は「日本二十六聖人」の一人としてカトリック教会で聖人の列に加えられ、その名は世界中に知られることとなった 34 。パウロ三木の存在は、安土セミナリヨが単に西洋の知識を教える場であっただけでなく、後の日本のキリスト教史を支え、殉教をも厭わない強固な信仰者を育む揺りかごであったことを、何よりも雄弁に物語っている。

第五章:本能寺の変と灰燼 ― わずか二年での終焉

1582年6月2日、激震

天正10年(1582年)6月2日、早朝。京都・本能寺に滞在していた織田信長が、家臣の明智光秀の謀反によって討たれるという、日本史上未曾有の事件が勃発した。この一報は、安土の城下にも大きな衝撃と混乱をもたらした。信長という絶対的な庇護者を一夜にして失ったことは、安土セミナリヨの運命が根底から覆されることを意味していた。彼らの栄華は、信長という一個人の権力と好意の上に成り立っていた極めて脆弱なものであり、その土台が崩れ去った瞬間であった。

安土城焼失の謎とセミナリヨの運命

信長の死後、安土は権力の空白地帯と化した。そして本能寺の変から13日後の6月15日、信長の権威の象徴であった安土城の天主と本丸、そして城下町の一部は、原因不明の火災によって灰燼に帰した 28 。この火災により、セミナリヨもまた、その壮麗な建物を焼失したとされている 4 。安土城焼失の原因については、現在に至るまで確定的な説はなく、いくつかの説が対立している。

  • 明智秀満放火説: 山崎の戦いで主君・光秀が敗れたことを知った安土城の守将・明智秀満が、敗走の際に火を放ったとする説 28 。しかし、秀満が安土を離れた日時と出火日時に矛盾があることなどから、信憑性は低いと見なされている 36 。フロイスの記録でも、明智軍は安土に放火することなく退却したと記されている 38
  • 織田信雄放火説: 信長の次男・信雄が、父の死後の混乱の中、暗愚さゆえに、あるいは明智方の残党を炙り出すという名目で城下に放火した火が、天主に燃え移ったとする説 36 。これは、ルイス・フロイスがその著作の中で強く示唆している説であり、当時の宣教師たちの間では広く信じられていたようである。信雄が後の清洲会議で後継者争いから脱落した一因として、安土城を焼いた責任を問われたため、とも言われている 36
  • 野盗・土民放火説: 統治者を失った無秩序状態に乗じて城内に侵入した野盗や土民が、略奪の際に失火した、あるいは放火したとする説 36 。これもまた、混乱期の状況を考えれば十分にあり得るシナリオである。

いずれの説が真実であれ、開校からわずか2年、安土セミナリヨは信長の夢の城と共に、炎の中に消え去った 3 。ルイス・フロイスは、この悲劇的な結末を「デウスは、信長があれほど自慢にしていた建物の思い出を残さぬため、敵が許したものを火に委ねられた」と、神の深遠な摂理として記述している 39 。この一文は、絶対的な権力者の庇護という「光」を頼りに築かれたものが、その庇護が失われた瞬間に「影」へと転落する、戦国時代におけるキリスト教布教の危うさそのものを象徴している。安土セミナリヨの栄華と悲劇は、有力大名との個人的な関係に依存する布教活動が、いかに諸刃の剣であったかを如実に物語る歴史的ケーススタディなのである。

終章:安土以後 ― 受け継がれる精神と史跡としての現在

流転する学び舎

安土を灰燼の中に見送ったオルガンチノと生徒たちは、その学びの灯を消すことはなかった。彼らはまず、かねてよりイエズス会を熱心に支援していたキリシタン大名・高山右近を頼り、その居城である高槻へと移った 40 。安土セミナリヨの機能は、高槻の城下で再開されたのである。その後、1585年には大坂へと移転するが、安住の地は長くは続かなかった 41

1587年(天正15年)、天下統一を目前にした豊臣秀吉は、突如として「バテレン追放令」を発布する。信長の保護政策から一転、キリスト教は禁教の対象となった 42 。これにより、畿内での活動が困難になったセミナリヨは、九州への移転を余儀なくされる。最終的に、安土と時を同じくして設立された肥前有馬のセミナリヨに吸収合併される形で、その流転の歴史を辿った 19 。そして、徳川幕府による全国的な禁教令(1614年)によって、セミナリヨという教育システムそのものが、日本の地から完全に姿を消すことになった 32

安土セミナリヨが残した遺産

活動期間はわずか2年余りという、あまりにも短いものであった。しかし、安土セミナリヨが日本のキリシタン史、ひいては東西文化交流史に残した影響は計り知れない。それは、ヴァリニャーノが提唱した「適応主義」という新しい布教戦略を、日本の政治の中心地で実践した最初のモデルケースであった。また、パウロ三木に代表される、強固な信仰と高い知性を兼ね備えた日本人指導者を育成した揺りかごでもあった。ここで培われた教育理念や知の潮流は、後にローマへ派遣された天正遣欧少年使節の精神的基盤にも繋がっていくものであった 44

現代に佇む史跡

かつて壮麗な学び舎が建っていた場所は、現在「セミナリヨ跡」として史跡公園に整備され、静かに時を刻んでいる 4 。公園の入口には、その歴史を伝える石碑が建てられ、奥には聖パウロ三木の顕彰碑が佇む 45 。この顕彰碑は1981年に建立されたもので、その際には長崎の日本二十六聖人記念館からパウロ三木の聖遺骨の一部が分骨され、この地に迎えられたという歴史を持つ 30

信長が夢見た天下布武の拠点、そしてヴァリニャーノとオルガンチノが情熱を注いだ日本人聖職者育成の拠点。二つの壮大な夢が交差し、そして儚く消え去った安土の地には、今もなお、戦国の世を生きた人々の情熱と苦難の記憶が、静かに眠っているのである。

引用文献

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  37. 安土城跡(後編) | 鉄道で行く旅 https://ameblo.jp/tetsudotabi/entry-12346021630.html
  38. 令和5年度 特別史跡安土城跡発掘調査成果報告会 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5456533.pdf
  39. 7. 安土城(天下布武の夢の跡) | 須賀谷温泉のブログ https://www.sugatani.co.jp/blog/?p=1340
  40. キリシタン大名・高山右近/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/97041/
  41. 高槻セミナリオ跡 - キリシタンゆかりの地をたずねて https://www.pauline.or.jp/kirishitanland/20140602_seminario.php
  42. 【高校日本史B】「織豊政権4 豊臣秀吉1」(練習編) | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12757/lessons-12782/practice-4/
  43. セミナリヨ跡 | 安土城のガイド - 攻城団 https://kojodan.jp/castle/19/memo/1233.html
  44. 有馬のセミナリヨ跡推定地 | 「おらしょ-こころ旅」(長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産) https://oratio.jp/p_resource/arima-seminariyo
  45. 京都教区時報 https://www.cbcj.catholic.jp/wp-content/uploads/2023/08/kyoto548.pdf
  46. 西坂二十六聖人殉教地 戦国の長崎市を歩く⑤ - ライブドアブログ http://blog.livedoor.jp/sengokuaruko/archives/26126987.html