安土城焼失(1582)
天正十年、信長の夢安土城は本能寺の変後、炎上。明智秀満、織田信雄、野盗など諸説あるが、信雄放火説が有力。信長の権威を象徴した巨城は、その役割を終え、今や文化遺産として語り継がれる。
「Perplexity」で事変の概要や画像を参照
安土城焼失(1582年):天下布武の象徴、灰燼に帰す
序章:天下布武の象徴、安土城
天正10年(1582年)6月、織田信長の天下統一事業の象徴であった安土城が炎上し、その壮麗な天主が灰燼に帰した。この出来事は、単に一つの城が失われたという事実にとどまらず、信長が築き上げようとした新たな時代の秩序、その構想そのものが崩壊したことを天下に示す、極めて象徴的な事件であった。安土城焼失の真相に迫るためには、まずこの城が戦国時代においていかに特異で、革新的な存在であったかを理解する必要がある。
第一節:城郭概念の革命 ― 「戦う城」から「見せる城」へ
戦国時代の城郭は、本来、敵の侵攻を防ぐための軍事拠点、すなわち「戦うための要塞」であった 1 。山や川といった自然の地形を利用し、道は敵の侵入を阻むために細く曲がりくねらせ、堅牢な防御設備を備えるのが常識であった。しかし、織田信長はこの常識を覆す。彼は、城に「支配権の確立を領民に知らしめる」という新たな政治的役割を与えたのである 2 。その思想の萌芽は小牧山城に見られ、安土城において究極の形で結実した。
安土城の構造は、その設計思想が防衛よりも「見せる」こと、すなわち権威の誇示にあったことを雄弁に物語る。大手門から山頂の本丸へと続く大手道は、幅約6メートル、長さ約180メートルにも及ぶ壮大な石段の直線道路として整備されていた 3 。これは防衛上の観点からは極めて不利な構造であり、来訪する諸大名や公家、宣教師たちに、信長を中心とする絶対的な政治秩序を体感させるための壮大な演出装置であった 5 。大手道の両脇には、羽柴秀吉や前田利家、徳川家康といった重臣たちの屋敷が計画的に配置され、来訪者は信長へと至る道程で、織田政権の揺るぎない序列を視覚的に認識させられたのである 4 。
さらに、籠城に不可欠な井戸や、石落とし、武者走りといった防衛設備が著しく少ないことも、この城が従来の軍事拠点とは一線を画す存在であったことを示している 3 。安土城は、もはや戦乱が終結し、信長による泰平の世が到来したことを宣言する「治世の城」だったのである 2 。
第二節:新時代の首都 ― 政治・経済・文化の中心
信長は、安土を単なる居城ではなく、新たな日本の首都として構想していた。彼は安土城を中心に政務を執り行い、城下町には楽市楽座や徳政・諸役免除といった当時としては革新的な経済政策を導入した 1 。これにより、旧来の寺社勢力が持っていた特権は剥奪され、自由な商業活動が保障された結果、安土は多様な人々が集まる活気あふれる経済都市へと発展した 2 。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、城下町には約7,000人の商人が住んでいたとされ、その繁栄ぶりがうかがえる 4 。
また、家臣団を城下に集住させる政策は、権力の一元管理を徹底すると同時に、武士と町人が共存する近世都市の原型を形成した 7 。地理的にも、安土は京都に近く、琵琶湖の水運と中山道・北国街道といった主要陸路が交差する交通の要衝に位置していた 4 。これにより、政治・経済の中心地としての機能に加え、北陸方面の上杉謙信や一向一揆勢力に対する戦略的拠点としての役割も果たしていたのである 4 。
第三節:神格化される信長 ― 天主の思想
安土城の異質性を最も象徴するのが、地下1階、地上6階建て、高さ約32メートルを誇った壮麗な天主である 4 。信長は、それまで誰も行わなかった天主での居住を実践した 2 。これは、自らを俗世から隔絶された超越的な存在として位置づけ、その権威を神格化しようとする明確な意図の表れであった 1 。
天主の内部は、当代随一の絵師であった狩野永徳が手掛けた水墨画や金碧障壁画で飾られ、最上階は内外ともに金箔が施されるなど、まさに豪華絢爛を極めていた 10 。これは信長の絶大な権力と富を誇示すると同時に、日本の宗教・思想を統一する「天道思想」を具現化した空間であったとも言われる 12 。
さらに注目すべきは、本丸御殿に天皇の行幸を迎えるための「御幸の間」が設けられていたことである 2 。しかもその御殿は、天主から見下ろす位置に設計されていた 2 。これは、信長が従来の朝廷の権威を否定するのではなく、むしろそれを自らの統制下に置き、実質的な「日本国王」として君臨しようとした壮大な構想の証左と解釈されている 2 。
このように、安土城は物理的な建造物であると同時に、信長の政治思想、世界観、そして野望そのものを具現化した巨大なメディアであった。この城を失うことは、単に拠点を失うことではなく、信長が創り出した新しい時代の秩序と、その未来への展望が、音を立てて崩れ去ることを意味していたのである。
第一章:激震、本能寺の変 ― 1582年6月2日
天正10年(1582年)6月2日未明、京都で放たれた一本の矢が、約50キロメートル離れた安土城の運命を、そして日本の歴史を大きく揺るがすことになる。
未明〜早朝(京都):本能寺炎上
その日、織田信長は備中高松城で毛利輝元と対峙する羽柴秀吉への援軍として出陣するため、わずかな手勢を率いて京都の本能寺に滞在していた 14 。6月2日未明、暗闇と静寂を破り、信長の家臣であるはずの明智光秀率いる1万3千の軍勢が本能寺を完全に包囲した 15 。謀反である。衆寡敵せず、信長は炎上する本堂の奥で自刃を遂げた。
時を同じくして、信長の嫡男で織田家の後継者であった織田信忠も、宿所としていた妙覚寺から二条新御所へ移り、明智軍を相手に奮戦したが、父の後を追うように自害した 14 。これにより、織田政権は一日にしてその頂点と後継者を同時に失うという、未曾有の事態に陥ったのである。
午前〜午後(安土):凶報来たる
京都での惨劇の報は、驚くべき速さで安土城にもたらされた。城内は瞬く間に極度の混乱と恐怖に包まれたであろう。当時、信長は徳川家康の饗応を終え、中国地方への出陣準備を進めており、城の主だった武将の多くはそれぞれの持ち場へと向かっていた 14 。安土城の留守居役として二の丸の守備を任されていたのは、近江日野城主・蒲生賢秀であった 17 。
賢秀は、主君信長とその後継者である信忠の同時死亡という、にわかには信じがたい報に接し、絶望的な状況下で極めて重大な決断を迫られることとなる。城内には、信長の妻子や女房衆など、多くの女性たちが残されていた 17 。明智の大軍がいつ安土に押し寄せてきてもおかしくない状況であった。
午後〜夜(安土):賢秀の決断と城からの脱出
蒲生賢秀が下した決断は、籠城でも降伏でもなく、信長の血脈を保護して城を退去することであった。彼は、物理的な拠点である安土城よりも、織田家の血筋という無形の遺産を守ることを最優先したのである 19 。
一部の者からは、明智の手に渡るくらいなら城に火を放つべきだという意見も出たとされるが、賢秀は「信長公が築かれた城を、留守居の身で焼くことはできない」として、これを退けたという 21 。この判断が、結果的に安土城のその後の運命を大きく左右することになる。
賢秀は直ちに息子の蒲生氏郷と連携を取り、信長の妻子や女房衆を伴って、夜陰に乗じて安土城を脱出。自らの居城である日野城へと一行を匿った 17 。賢秀らの退去により、天下布武の象徴であった壮大な安土城は、一夜にして指導者と守備兵力を失い、主のいない「空の玉座」として、静まり返った闇の中に残されたのである 19 。この賢秀の「焼かずに退去した」という決断が、明智光秀による無血占領と、その後に続く複雑な焼失原因の謎を生み出す直接の引き金となった。
第二章:主を失った巨城の十数日 ― 6月2日〜14日
信長の死から炎上までの約13日間、安土城は天下の覇権をめぐる激しい政治闘争の舞台となった。この期間、城の主がめまぐるしく変わる様は、そのまま時代の激動を象徴していた。
6月2日午後〜4日:空白の期間と光秀の誤算
信長・信忠父子を討ち取った明智光秀は、その日のうちに安土城の接収を目指し、軍を進めた 15 。安土城を掌握することは、信長の権威と財産を継承し、自らが新たな天下人であることを宣言する上で不可欠な行為であった。しかし、彼の前進は瀬田の唐橋で阻まれる。瀬田城主であった山岡景隆は光秀への同心を拒絶し、橋を焼き落として抵抗したのである 15 。
この予期せぬ抵抗により、光秀の安土城入りは数日間遅れることとなった。この遅滞は、蒲生賢秀らが信長の家族を連れて脱出するための貴重な時間的猶予を与えた。一方で、安土城は数日間にわたり支配者不在のまま放置され、近隣の情勢は緊迫の度を増していった。
6月5日:明智光秀、安土城に入城
ようやく修復された橋を渡り、6月5日、明智光秀はついに安土城に入城を果たした 23 。これは、単なる軍事的な占領ではなく、信長の後継者としての地位を内外に誇示するための、極めて重要な政治的パフォーマンスであった。光秀は、信長が蓄えた金銀財宝を接収し、それらを自軍の将兵に気前よく分け与えたとされる。これは、謀反に加担した者たちへの論功行賞であると同時に、信長の富と権力が完全に自らに移ったことを可視化する行為であった。
6月7日:朝廷の承認、光秀権力の頂点
光秀の権力掌握を決定づけたのが、6月7日の出来事である。朝廷は、光秀の支配を事実上追認し、勅使として吉田兼見を安土城へ派遣した 23 。天下統一の拠点であった安土城において、新たな支配者が朝廷からの公式な使者を迎える。この儀式は、光秀が信長に代わる「天皇・朝廷の守護者」としての地位を公的に認められたことを意味し、彼の権力が頂点に達した瞬間であった 23 。皮肉にも、信長が天皇を迎えるために用意した城で、信長を討った光秀がその権威を継承する儀式を行ったのである。
6月8日〜13日:決戦へ
畿内をほぼ掌握した光秀であったが、最大の脅威は西から迫っていた。備中高松城で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉が、信長の死を知るや否や毛利と和睦し、驚異的な速度で京へと軍を返す「中国大返し」を敢行したのである。
事態の急変を受け、光秀は決戦を決意。6月8日、甥であり重臣の明智秀満に安土城の守備を託し、自らは秀吉軍を迎撃すべく坂本城を経て山崎へと向かった 25 。そして6月13日、天王山麓で行われた山崎の合戦において、兵力と士気で勝る秀吉軍の前に明智軍は総崩れとなり、大敗を喫する。光秀自身も、敗走の途中で落ち武者狩りに遭い、その天下はわずか十数日で終わりを告げた 25 。
この十数日間、安土城は光秀にとって、軍事拠点として以上に「権力継承の儀式」を執り行うための聖地としての意味を持っていた。彼が安土城の占領と、そこでの政治的パフォーマンスにこだわったことこそ、この城が持つ象徴的な価値の大きさを物語っている。
第三章:炎上 ― 天主、灰燼に帰す ― 6月14日〜15日
山崎での主君の敗死は、安土城に残された明智秀満らを絶望的な状況に追い込んだ。そして、本能寺の変からわずか13日後、信長の夢の結晶であった巨城は、紅蓮の炎に包まれることとなる。
以下の表は、本能寺の変が勃発した6月2日から、安土城が炎上するまでの主要な出来事を時系列で整理したものである。各所で同時並行的に進む事態の連関を把握することで、炎上に至るまでの緊迫した状況をより深く理解することができる。
日付 (天正10年) |
時間帯 |
場所 |
主要人物 |
出来事 |
6月2日 |
未明〜早朝 |
京都・本能寺 |
織田信長, 明智光秀 |
本能寺の変。信長自刃。信忠も二条新御所で自害 14 。 |
|
午前〜午後 |
安土城 |
蒲生賢秀 |
本能寺の変の報が届き、城内は混乱。賢秀が決断を迫られる 17 。 |
|
午後 |
瀬田 |
明智光秀, 山岡景隆 |
光秀、安土城を目指すも、山岡景隆が瀬田の唐橋を焼き落とし抵抗 15 。 |
|
夜 |
安土城 |
蒲生賢秀 |
賢秀、信長の妻子らを伴い、居城の日野城へ退去。安土城は無主状態となる 19 。 |
6月3日 |
- |
備中高松 |
羽柴秀吉 |
本能寺の変の報が届く(異説あり) 15 。 |
6月4日 |
- |
近江 |
明智光秀 |
修復された瀬田の唐橋を渡る 25 。 |
6月5日 |
- |
安土城 |
明智光秀 |
光秀、安土城に入城。城内の財宝を接収し、将兵に分配 23 。 |
6月7日 |
- |
安土城 |
明智光秀, 吉田兼見 |
朝廷からの勅使・吉田兼見が安土城に到着。光秀の権威が公認される 23 。 |
6月8日 |
- |
安土城 |
明智光秀, 明智秀満 |
光秀、秀満に安土城の守備を任せ、秀吉迎撃のため坂本城へ移動 25 。 |
6月13日 |
午後〜夜 |
山城・山崎 |
明智光秀, 羽柴秀吉 |
山崎の合戦。明智軍が大敗し、光秀は敗走中に討死 25 。 |
6月14日 |
- |
安土城 |
明智秀満 |
光秀の死と敗戦の報が届く。秀満、安土城を放棄し坂本城への退却を決意 17 。 |
6月14日夜〜15日未明 |
夜〜未明 |
安土城 |
(不明) |
安土城から出火。天主・本丸御殿を中心に炎上、焼失する 28 。 |
6月15日 |
- |
坂本城 |
明智秀満 |
秀満、坂本城にて自刃 29 。 |
6月14日:孤立した秀満の決断
山崎での敗戦と主君・光秀の死という絶望的な報は、安土城を守る明智秀満のもとにもたらされた。秀吉の大軍が間もなく近江に迫るであろうことは火を見るより明らかであり、秀満は完全に孤立無援となった。彼の選択肢は限られていた。秀満は、もはや維持不可能となった安土城を放棄し、一族の拠点である坂本城へ退却することを決意する 17 。その脱出には、安土城の搦手から通じる琵琶湖の水運が利用されたと考えられている 9 。
6月14日夜〜15日未明:運命の出火
秀満が城を退去した直後、あるいはその混乱の最中、安土城から火の手が上がった。京都の神官であった吉田兼見が自身の日記『兼見卿記』に「十五日、安土の天主が焼失した」と記していることから、炎上が最高潮に達したのは15日の未明にかけてであったと推測される 3 。
炎は、信長の権威の象徴であった天主と、彼の生活空間であった本丸御殿を中心に、夜空を焦がす勢いで燃え盛った 17 。天下にその威容を誇った壮麗な建築物は、築城からわずか3年、完成から数えれば僅かな期間で、音を立てて崩れ落ちていったのである。
焼失の範囲と考古学的証拠
この焼失は、しばしば安土城全体が灰燼に帰したかのように語られるが、近年の発掘調査によって、その実態がより正確に明らかになってきた。焼失したのは、天主や本丸といった城の中枢部、いわゆる主郭部に限定されていたことが判明している 28 。
その有力な状況証拠として、城内に建立された信長の菩提寺・摠見寺の存在が挙げられる。摠見寺は天主と城下町の中間に位置していたにもかかわらず、この時の火災を免れ、江戸時代末期までその伽藍を維持していた 6 。もし城下からの延焼であったとすれば、摠見寺が無事であったことは説明が難しい。
考古学的にも、天主台や本丸跡からは、高熱によって赤く変色した焼土や、熱でひび割れた礎石、溶融した瓦などが集中的に出土している 29 。特に黒金門付近からは、菊紋や桐紋の入った金箔瓦が焼けた状態で発見されており、この一帯が激しい火災に見舞われたことを物理的に証明している 33 。
これらの事実は、火災が偶発的な失火や延焼ではなく、城の中枢、すなわち「織田信長の権威の象徴」そのものを標的とした、意図的な行為であった可能性を強く示唆している。焼失範囲が限定的であったという考古学的知見は、事件の性質そのものを問い直す「物言わぬ証拠」となっているのである。
第四章:誰が火を放ったのか ― 焼失原因を巡る諸説の徹底検証
安土城焼失の最大の謎、それは「誰が火を放ったのか」という点にある。事件直後から様々な説が語られ、その真相は今なお歴史の闇に包まれている。ここでは、主要な説を史料に基づいて比較検討し、その蓋然性に迫る。
説1:明智秀満 放火説
山崎の合戦で敗れた明智光秀軍の残党、特に安土城の留守居役であった明智秀満が、敗走の際に証拠隠滅や腹いせのために火を放ったとする説である。
- 根拠史料: この説の主な典拠は、『秀吉事記』や『太閤記』といった、羽柴秀吉の天下統一後に編纂された軍記物である 3 。
- 検証と反論: この説にはいくつかの重大な矛盾点が存在する。第一に、時間的な矛盾である。出火があったとされる6月15日、秀満はすでに安土城を離れ、琵琶湖対岸の坂本城で堀秀政の軍に包囲されていた 3 。彼が安土城に火を放つことは物理的に困難であった可能性が高い。第二に、秀満の人物像との矛盾である。彼は坂本城で自刃する際、光秀が収集した名物茶器や刀剣、書画といった文化財を、敵将である堀直政に目録を添えて引き渡してから城に火を放っている 29 。文化財の価値を深く理解し、その散逸を惜しんだ人物が、文化と芸術の粋を集めた安土城を無差別に破壊するとは考えにくい。
- 結論: これらの点から、明智秀満放火説は、勝利者である秀吉政権が、敗者である明智一族にすべての罪を着せるために創作したプロパガンダであった可能性が極めて高いと見られている。
説2:織田信雄 放火説
信長の次男である織田信雄が、何らかの理由で放火したとする説。これは現在、最も有力な説の一つとされている。
- 根拠史料: この説の最も重要な根拠は、当時日本に滞在していたイエズス会宣教師ルイス・フロイスの報告書(『日本史』および「イエズス会日本年報」)である 3 。フロイスは、「理由は不明だが、普段から知恵が劣っていた信長の息子(信雄)が、邸と城を焼き払うよう命じた」と、かなり断定的に記している 34 。
- 動機の考察: なぜ信雄が父の城を焼いたのか、その動機については複数の解釈がある。
- 残党狩りの失火: 明智光秀が敗れた後、伊勢から軍を率いて安土に入った信雄が、城内に潜む明智軍の残党を炙り出すために火をつけたところ、折からの強風で天主や本丸に燃え広がってしまった、というもの 3 。これは最も現実的な動機として挙げられる。
- 政治的焦燥: 父・信長と兄・信忠の死後、織田家の後継者争いが勃発することは必至であった。信雄は、父の権威の象徴である安土城が、ライバルであった弟の織田信孝の手に渡ることを恐れ、誰にも利用されないよう先んじて破壊した、という見方である 21 。
- 暗愚ゆえの愚行: フロイスが記すように、深い考えもなく、衝動的に破壊行為に及んだという可能性も否定できない 34 。
- 信憑性: フロイスは比較的利害関係の薄い第三者であり、その同時代的な記録は高い信憑性を持つと考えられる。また、この安土城焼失という「失態」が、その後の織田家後継者を決める清洲会議において信雄の発言力を著しく低下させる一因になった、とする説も存在する 29 。
説3:野盗・土民 放火説
信長の死による統治機構の麻痺と社会の混乱に乗じて、略奪目的で城内に侵入した野盗や土民が放火したとする説。
- 根拠史料: 京都の神官・吉田兼見の日記『兼見卿記』の記述が根拠とされることがある 29 。
- 背景: 主を失い、守備兵もいなくなった城は、無法者たちにとって格好の標的であった。実際に、信長の死後、各地で治安が急速に悪化した記録は多い 36 。混乱の中で略奪が行われ、その際に失火したというシナリオは十分に現実的である 37 。
- 検証: この説の弱点は、前述の通り、焼失範囲が天主や本丸といった中枢部に限定されている点を合理的に説明するのが難しいことである。無秩序な略奪に伴う失火であれば、より広範囲に燃え広がったと考えるのが自然であろう。
説4:その他の説
落雷説 も存在する 3 。実際に安土城は天正7年(1579年)にも落雷によって本丸が焼失したという記録がフロイスによって残されており 3 、全くあり得ない話ではない。しかし、明智秀満が退去し、織田信雄が入城するという、あまりにも絶妙な政治的タイミングでの落雷は、偶然としては出来すぎているとの見方が強い。
これらの諸説を比較検討すると、安土城焼失の真相を巡る言説そのものが、本能寺の変後の激しい政治闘争を反映した「情報戦」の産物であったことが浮かび上がってくる。秀吉側の史料は明智の非道を強調し、フロイスの記録は結果的に信雄の権威を失墜させた。それぞれの記録は、客観的な事実を伝えようとすると同時に、特定の政治的立場から事件を「解釈」し、自らにとって都合の良い物語を構築しようとしていたのである。「誰が火を放ったか」という犯人探しの問いは、そのまま「誰が次の天下を握るにふさわしいか」という後継者争いの代理戦争であったと言えよう。
説 |
概要 |
根拠となる主要史料 |
蓋然性を高める論拠 |
蓋然性を低める論拠(反証) |
|
明智秀満説 |
敗走の際に秀満が放火した |
『秀吉事記』、『太閤記』 3 |
秀吉政権の公式見解として流布された。 |
・出火とされる15日、秀満は坂本城で包囲されており、時間的に矛盾 29 。 |
・文化財の価値を理解し、散逸を惜しんだ人物像と矛盾 29。 |
織田信雄説 |
信雄が残党狩りや政治的意図で放火、あるいは失火させた |
ルイス・フロイス『日本史』、「イエズス会日本年報」 28 |
・利害関係の薄い第三者による同時代的な記録であり、信憑性が高い。 ・残党狩りという動機は現実的。 ・清洲会議での信雄の権威失墜の一因となった可能性 29。 |
・実父の城を焼く動機が弱い(特に政治的意図の場合) 35 。 |
・フロイスの「暗愚だったから」という記述は主観的評価を含む。 |
野盗・土民説 |
支配者不在の城に侵入した野盗らが略奪の際に失火させた |
『兼見卿記』(間接的根拠) 29 |
・信長の死による社会混乱と治安悪化という時代背景と合致する 36 。 |
・無主の城への侵入は十分に考えられる。 |
・焼失範囲が天主・本丸など中枢部に限定されている点を説明しにくい 31 。 |
落雷説 |
自然現象による火災 |
- |
・実際に1579年にも落雷による焼失記録がある 3 。 |
・出火のタイミングが政治的にあまりにも絶妙であり、偶然とは考えにくい。 |
終章:焼失後の安土城と、その遺産
天主と本丸を失った安土城であったが、その歴史はすぐには終わらなかった。しかし、かつての輝きを取り戻すことはなく、やがて信長の夢の跡として、静かにその役割を終えることとなる。
第一節:限定的な存続と、その終焉
焼失したのはあくまで主郭部であり、二の丸や家臣団の屋敷などは健在であったため、城としての機能は部分的に維持されていた 17 。本能寺の変後の織田家の後継者を定めた清洲会議の結果、信長の嫡孫である三法師(後の織田秀信)が形式上の家督を継ぎ、後見役の織田信雄らと共に、焼け残った安土城に入城した 3 。天下人の居城としての権威は失墜したものの、安土城はしばらくの間、織田家の本城として存続したのである 38 。
しかし、その命脈は長くはなかった。織田家の実権を掌握した羽柴秀吉は、天正13年(1585年)、自らの甥である羽柴秀次(豊臣秀次)に命じ、安土の対岸に近江八幡山城を築かせた 28 。これに伴い、安土城は正式に廃城とされる。安土城に残されていた建造物や石垣の一部は、八幡山城の資材として転用され、信長が心血を注いで育てた城下町の商工業者たちも、そっくり八幡山へと移転させられた 8 。これは単なる都市計画の変更ではない。秀吉が、世の人々の記憶から「信長の首都」を消し去り、自らが創造する新たな時代を宣言するための、周到な政治的演出であった。安土城の廃城は、信長時代の完全な終焉を告げる象徴的な出来事だったのである。
第二節:焼失を免れた遺構と、その行方
安土城の主要な建造物の多くは失われたが、奇跡的に災禍を免れ、現在にその姿を伝える遺構も存在する。
城内に建立された摠見寺は、本能寺の変後の炎上では類焼を免れた 6 。現在、安土城跡に残る
三重塔 と 二王門 は、いずれも国の重要文化財に指定されており、安土城築城の際に信長が他所から移築させたものである 5 。これらは、信長在りし日の安土山の景観を今に伝える、極めて貴重な歴史的建造物である 40 。
また、摠見寺の**裏門(四脚門)**は、後に城外へ移築され、現在は東近江市にある超光寺の表門として利用されている 40 。これもまた、安土城ゆかりの建物として、県の有形文化財に指定されている。
第三節:信長の夢の跡 ― 巨大な墓標から特別史跡へ
廃城後、安土山は信長の菩提寺である摠見寺によって管理され、二の丸跡には信長の遺品を納めたと伝わる廟所が築かれた 5 。かつての天下布武の拠点は、織田信長という稀代の英雄を祀る、巨大な墓標のような場所へとその性格を変えていったのである。
近代に入ると、その歴史的価値が再評価される。特に、歴史家・思想家であった徳富蘇峰は、安土城跡の調査と顕彰に情熱を注ぎ、その保存に大きく貢献した 38 。こうした動きを経て、安土城跡は国の特別史跡に指定され、国民的な歴史遺産として保護されることとなった 41 。
昭和期には、西武グループ創設者の堤康次郎がコンクリートでの天主復元と観光開発を計画し、土地の買収に乗り出すという騒動も起きたが、これは実現しなかった 11 。平成元年(1989年)からは滋賀県による本格的な発掘調査と環境整備が開始され、大手道の復元など、往時の姿を偲ばせる多くの成果を上げている 42 。
そして1992年、スペイン・セビリア万国博覧会の日本館のメイン展示として、安土城天主の最上部(5階・6階)が原寸大で復元された 44 。内部の障壁画に至るまで忠実に再現されたこの復元天主は、万博終了後に安土町へ譲渡され、現在は「安土城天主 信長の館」にて、その絢爛豪華な姿を間近に見ることができる 5 。
焼失から400年以上の時を経て、安土城は物理的な要塞としての役割を終え、織田信長の革新的な思想と壮大な夢を後世に語り継ぐ、不滅の文化遺産として生き続けているのである。
引用文献
- 信長の夢と共に散る!安土城は何故「幻の城」なのか? - Made In Local https://madeinlocal.jp/area/shiga/knowledge/033
- 【織田信長の築城史】最高傑作・安土城、裏の利用目的は何だったのか? - 今日のおすすめ https://news.kodansha.co.jp/books/20170326_b01
- 安土城 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%89%E5%9C%9F%E5%9F%8E
- 安土城(滋賀県)/ホームメイト - 旅探 https://www.homemate-research-tour.com/useful/13371_tour_063/
- 安土城はどんな城だった? 織田信長の夢が詰まった幻の城の特徴を解説 - HugKum https://hugkum.sho.jp/395107
- 【日本100名城・安土城(滋賀県)】 築城からわずか6年で消えた織田信長の名城 - 城びと https://shirobito.jp/article/640
- 第3章.“「幻の安土城」見える化”の基本理念 - 滋賀県 https://www.pref.shiga.lg.jp/file/attachment/5310843.pdf
- 安土城の歴史と現在・特徴/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16956_tour_037/
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- 外出自粛でも楽しめる?安土城 3つの謎 https://maruyomi.hatenablog.com/entry/2020/05/01/134151
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- 信長以後の安土城 - 近江の城めぐり - 出張!お城EXPO in 滋賀・びわ湖 https://shiroexpo-shiga.jp/column/no37/
- 織田信長の安土城址と摠見寺 https://www.azuchi-nobunaga.com/
- 安土城ゆかりの建物 - 近江の城めぐり | 出張!お城EXPO in 滋賀 ... https://shiroexpo-shiga.jp/column/no39/
- 安土城跡 | 滋賀県観光情報[公式観光サイト]滋賀・びわ湖のすべてがわかる! https://www.biwako-visitors.jp/spot/detail/831/
- よみがえる幻の安土城 2019年11月2日放送 第1回 大手口周辺の複数の虎口 城郭らしくない大手口の構造 - YouTube https://www.youtube.com/watch?v=GiujMw1x1FQ
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