最終更新日 2025-09-11

室町幕府滅亡(1573)

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元亀四年、将軍追放 ― 室町幕府、最後の百八十日

序章:終わりのはじまり ― 織田信長と足利義昭、蜜月から亀裂へ

元亀四年(1573年)に起こった室町幕府の事実上の滅亡は、単なる一武将による将軍の追放劇ではない。それは、織田信長と足利義昭という二人の人物が共有した協力関係の当初から内包されていた、構造的な矛盾が必然的にもたらした帰結であった。天下統一を志向する「実力」の体現者と、伝統的権威の再興を夢見る「権威」の継承者。両者の邂逅と協調、そして避けられなかった破局への道程を辿ることは、戦国という時代が旧来の秩序を飲み込み、新たな時代へと移行するダイナミズムそのものを解明する鍵となる。

第一節:擁立と上洛 ― 相互利益の同盟

室町幕府第13代将軍・足利義輝が三好三人衆らによって暗殺される永禄の変(1565年)により、その弟である覚慶(後の足利義昭)の運命は大きく転換する 1 。奈良・興福寺一条院の門跡であった彼は、近臣の手引きで幽閉先を脱出し、幕府再興の悲願を胸に、実力ある支援者を求めて近江、若狭、越前と流浪の日々を送ることとなった 2 。当初は越前の朝倉義景を頼ったものの、上洛に積極的でない義景に痺れを切らした義昭は、永禄十一年(1568年)、尾張・美濃を平定し飛ぶ鳥を落とす勢いであった織田信長に白羽の矢を立てる 2

この連携は、双方の利害が完全に一致した戦略的同盟であった。信長にとって、足利将軍家の正統な後継者である義昭の擁立は、上洛を果たすための絶対的な「大義名分」を与えてくれるものであった 4 。一方、軍事力を持たない義昭にとって、信長の強大な軍団は、宿敵三好氏を打倒し、将軍の座に就くために不可欠な「実力」であった 1 。こうして両者の思惑は一致し、同年九月、信長は義昭を奉じて破竹の勢いで上洛を果たす。そして十月、義昭は第15代征夷大将軍に就任し、ここに信長を後見人とする新たな幕府体制が発足したのである。

第二節:将軍権力の再定義 ― 「殿中御掟」という名の楔

蜜月とも思われた両者の関係は、しかし、義昭が将軍に就任してわずか三ヶ月後の永禄十二年(1569年)正月、信長が義昭に提示した「殿中御掟」によって早くもその変質を露呈する。当初の九ヶ条と追加の七ヶ条からなるこの掟は、一見すると応仁の乱以降形骸化していた幕府の機能を再興し、公正な統治を目指すかのような体裁を整えていた 6 。例えば、訴訟において将軍への直訴を禁じ、奉行衆の意見を尊重することや、裁判の日を予め定めることなどが規定されていた 6

しかし、その真の狙いは、義昭の権力基盤を制限し、政治の主導権を信長が掌握することにあった。特に、将軍側近による政治介入を排除し、正規の訴訟手続きを重視する条文は、義昭が自身の側近を用いて親政を行おうとする動きを巧みに牽制するものであった 3 。信長は、将軍を伝統的権威の象徴として尊重しつつも、その政治的実権は自らが握るという、いわば「権威と権力の分離」を意図していたのである。

この路線は、翌永禄十三年(1570年)正月に追加された五ヶ条の条書によって、さらに露骨なものとなる。「諸大名への御内書(将軍の命令書)には、必ず信長の副状を添えること」「天下のことは、信長に任せられたのであるから、いちいち義昭の許可を得るようなことはしない」といった内容は、義昭の将軍としての権能を著しく制限し、事実上の傀儡化を進めるものであった 3

この時点で、両者の「幕府観」における根本的な齟齬は決定的となっていた。信長にとって幕府とは、自らの天下布武事業を円滑に進めるための「装置」であり、将軍はその権威を保証する「象徴」に過ぎなかった。対して義昭は、兄・義輝が目指したような、将軍が親政を行い、諸大名を統率する旧来の幕府秩序の再興こそが自らの使命であると信じていた。この埋めがたい溝が、後の破局を運命づけていたのである。

第三節:信長包囲網の形成 ― 将軍の外交戦略

自らの権力が信長によって蚕食されていく状況に強い危機感を抱いた義昭は、反撃の手段として、将軍だけが持ちうる「権威」を最大限に活用した外交戦略に活路を見出す。元亀二年(1571年)頃から、義昭は浅井長政、朝倉義景、武田信玄、毛利輝元、さらには石山本願寺といった、信長と敵対、あるいは潜在的に対立する可能性のある諸大名に対し、信長討伐を促す「御内書」を密かに送り始めた 1

これは、各地に点在する反信長勢力を、将軍の権威の下に結集させ、一大包囲網を形成しようとする壮大な構想であった 3 。義昭の呼びかけは、信長の急進的な勢力拡大に脅威を感じていた諸大名にとって、反旗を翻す格好の大義名分となった。こうして形成された「信長包囲網」は、信長を生涯最大の窮地へと追い込んでいく 4

この義昭の外交は、単なる信長への反発だけが動機ではなかった。信長と敵対勢力との間に立ち、和睦の仲介を行うなど、諸大名間の関係を調整することで、相対的に将軍の存在感を高め、失われた政治的影響力を回復しようとする、彼なりの幕府再興戦略の一環でもあった 12 。しかし、この戦略は、自らが軍事力を持たない以上、武田信玄のような強力な大名の軍事行動に完全に依存するという構造的弱点を抱えていた。義昭は反信長連合の「触媒」にはなれても、その「駆動力」にはなれなかったのである。

第四節:決裂の号砲 ― 「異見十七ヶ条」

元亀三年(1572年)九月、信長と義昭の関係は、もはや修復不可能な段階へと至る。信長は、義昭のこれまでの行動を弾劾する「異見十七ヶ条」を突きつけた。この文書は、単なる諫言の域を遥かに超えていた。「将軍は欲深い」「道理もわきまえない」といった辛辣な言葉で義昭の行動を非難し、果ては「百姓さえもが『悪しき御所』と呼んでいる」という巷の噂まで持ち出し、義昭の将軍としての資質、さらには人格そのものを公然と否定するものであった 14

信長がこの痛烈な文書を義昭本人に渡すだけでなく、広く世間に流布させた狙いは明らかであった。それは、来るべき両者の武力衝突に備え、義昭を「天下の静謐を乱す愚かな将軍」、自らを「それを正す者」として位置づけることで、自らの行動を正当化する「大義名分」を世論の中に構築することにあった 15 。この「異見十七ヶ条」は、両者の対立がもはや政治的駆け引きの段階を終え、武力による決着以外に道はないことを天下に宣言する号砲となったのである。


【表1】元亀四年(1573年)主要関連年表

年月

織田信長

足利義昭

武田信玄・勝頼

朝倉・浅井氏

その他

1月

-

信長討伐の準備を進める

西上作戦を継続中、三河で野田城を攻略

-

-

2月

柴田勝家らに命じ、石山・今堅田の砦を攻撃

近江志賀郡で挙兵

-

義昭に呼応し、近江に出兵

-

3月

岐阜を出陣し、京へ電撃的に進軍。二条御所を包囲

二条御所に籠城

-

-

正親町天皇、事態を憂慮

4月

正親町天皇の勅命を受け入れ、義昭と和睦。岐阜へ帰還

勅命を受け入れ、信長と和睦

4月12日、信濃駒場で病死

-

-

5月

佐和山で巨大軍船の建造を開始

-

武田軍、甲斐へ撤退

-

-

6月

-

毛利輝元に兵糧料を要求

-

-

-

7月

巨大軍船で琵琶湖を渡り上洛。槇島城を攻撃し、義昭を降伏させる

講和を破棄し、槇島城で再挙兵。降伏後、京都から追放される

-

-

7月28日、「天正」へ改元

8月

越前に出陣し、朝倉義景を討伐(一乗谷城の戦い)

河内若江城へ移る

-

朝倉義景、自刃

-

9月

北近江へ転進し、浅井長政を討伐(小谷城の戦い)

-

-

浅井長政、自刃

-

11月

-

若江城を脱出し、堺へ移る

-

-

三好義継、若江城で討死

12月

-

-

-

-

松永久秀、多聞山城を開城し降伏


第一章:元亀四年の激動 ― 春の陣・二条御所の攻防

1573年の年明け、京の情勢は一触即発の緊張に包まれていた。信長と義昭の対立はもはや誰の目にも明らかであり、問題はいつ、どのような形で火蓋が切られるかであった。その引き金を引いたのは、東から迫る巨大な軍事的圧力、甲斐の虎・武田信玄の存在であった。

第一節:引き金 ― 武田信玄、西へ

元亀三年(1572年)末、武田信玄が率いる大軍が徳川家康の軍勢を一方的に蹂躙した三方ヶ原の戦いの報は、京の足利義昭を狂喜させた 16 。信長包囲網の最強の構成要素である武田軍が、信長の同盟者である徳川領を突破し、いよいよ西へ向かっている。この事実は、義昭に「今こそ信長を討つ絶好の機会である」と確信させるに十分であった 18 。信玄の西上作戦という、外部からの強大な軍事的後ろ盾を得た義昭は、ついに信長との直接対決を決意し、元亀四年(1573年)の年明けと共に、公然たる挙兵へと踏み切ったのである。

第二節:京の緊張 ― 義昭の挙兵と信長の電撃的対応(2月~3月)

  • 2月 :義昭は反信長の立場を明確にし、幕府軍を組織して近江の志賀郡に派遣。石山・今堅田の両砦に兵を入れ、信長の交通路を脅かす構えを見せた 17 。これに呼応し、浅井長政軍も近江に出兵し、織田方に与する地域に放火するなど、軍事行動を開始した 19 。しかし、信長の反応は迅速かつ的確であった。即座に柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀といった重臣を派遣し、両砦への攻撃を命令。幕府軍は長く持ちこたえることができず、26日に石山、29日には今堅田が相次いで陥落した 17
  • 3月7日 :信長は和睦の使者を送るが、その条件として人質を要求。これを義昭は毅然として拒否し、両者の関係は完全に断絶した 20 。義昭は畿内近国の諸将に上洛を命じ、摂津や丹波の兵がこれに応じて京に入り、二条御所の守りを固めた 20
  • 3月25日 :信長は、義昭を討つべく自ら大軍を率いて岐阜を出陣した。この時、京の巷では「東からは武田信玄が、北からは朝倉義景が迫っており、信長が京にたどり着けるはずがない」という風説がまことしやかに囁かれており、多くの人々は信長の進軍を楽観視、あるいは不可能とさえ考えていた 20
  • 3月29日 :しかし、信長はそのような憶測を嘲笑うかのように、わずか4日で京の郊外に姿を現した。信長に忠誠を誓っていた細川藤孝や、この機に信長方についた荒木村重らの軍勢も合流し、織田軍の総勢は1万5千から1万6千にまで膨れ上がった 20 。信長は東山の知恩院に本陣を構え、配下の諸隊を京の要所に配置し、二条御所を完全に包囲する態勢を整えた。対する義昭は、摂津・丹波衆を含む約6,700から8,000の兵と共に、信長がかつて自身のために造営した堅固な二条御所に籠城。城の周囲には新たに堀が巡らされ、一戦交える覚悟を示していた 20

第三節:洛中炎上 ― 信長の心理戦

二条御所を包囲した信長であったが、すぐには攻撃を開始しなかった。名目上とはいえ、征夷大将軍の居城に攻めかかることは「朝敵」と見なされかねない危険な行為であり、世評を気にする信長はそれを避けたかったのである 20 。そこで彼が取ったのは、直接的な軍事攻撃ではなく、極めて巧妙な心理戦であった。

4月2日から4日にかけて、信長は配下に命じ、洛外の寺社を除く地域、そして特に義昭の支持者が多く居住していた**上京(かみぎょう)**に徹底的な焼き討ちを敢行させた 19 。もうもうと立ち上る黒煙と、燃え盛る炎、そして市民の悲鳴は、二条御所の城壁を越えて籠城する兵たちの心を震撼させた。この焼き討ちの目的は、義昭に物理的な損害を与えること以上に、彼がもはや都の平和を守る存在ではなく、むしろ戦乱を招き入れる元凶であると京の民衆や諸勢力に印象づけることにあった。宣教師ルイス・フロイスの記録によれば、上京で聞こえる恐怖と絶え間ない喚声に、籠城側の驚愕は非常なものであったとされている 20 。廃墟の中で孤立した御所の兵たちの士気は、戦闘を交える前に著しく低下していった。

第四節:帝の仲裁と武田信玄の死 ― 束の間の和睦(4月)

  • 4月7日 :信長の焼き討ちによって焦土と化す京都の惨状を憂慮した正親町天皇は、ついに事態の収拾に乗り出す。関白・二条晴良らを仲介役として、両者に講和を命じる 勅命 を下した 17
  • 食糧の補給路を断たれ、心理的に追い詰められていた義昭と、「将軍攻撃」の汚名を着ることなく事態を収拾したい信長、双方にとってこの勅命は渡りに船であった。両者はこれを受諾し、一時的な和睦が成立した 20
  • 4月8日 :信長は、和睦が成立するや、義昭に謁見することさえなく、すぐさま軍を引き払い岐阜への帰路についた。しかし、ただ帰るだけではなかった。その道中、義昭に味方した南近江の六角義賢が籠る鯰江城を包囲し、これを支援していた百済寺の全伽藍を焼き討ちにするなど、敵対者への徹底した報復措置を忘れなかった 19 。これは、自らに弓を引く者には容赦しないという信長の断固たる意志を、改めて天下に示す示威行動であった。
  • 4月12日 :そして、この束の間の和睦が成立したわずか5日後、戦局を根底から揺るがす一報がもたらされる。義昭が最大の頼みとしていた 武田信玄が、西上作戦の途上、信濃駒場で病死 したのである 3 。この事実は武田家によって秘匿されたが、主君を失った武田軍が本国である甲斐へ撤退を開始したことで、信長包囲網はその最大の軍事的支柱を失った。義昭は、自らの運命を左右するこの重大な事実を知らないまま、偽りの和平の中にいた。

この春の陣における信長の戦い方は、単なる軍事行動の枠を超えていた。敵の意表を突く電撃的な進軍という「軍事」、上京焼き討ちによる「心理戦」、そして天皇の権威を利用した「政治的解決」という三つの要素を巧みに組み合わせ、自らの手を汚すことなく、実質的に義昭を屈服させたのである。これは、信長が単なる勇猛な武将ではなく、目的達成のためにはあらゆる手段を駆使する、冷徹で近代的な戦略家であったことを雄弁に物語っている。


【表2-1】二条御所の戦いにおける両軍の兵力比較

項目

織田軍

室町幕府軍(足利義昭方)

総大将

織田信長

足利義昭

推定総兵力

15,000 - 16,000

6,700 - 8,000

主要構成武将

細川藤孝、荒木村重、明智光秀、柴田勝家、佐久間信盛、丹羽長秀など

奉公衆、内藤如安、宇津頼重、摂津衆、丹波衆など

出典: 20


第二章:最後の抗戦 ― 夏の陣・槇島城の戦い

春の和睦は、燃え盛る対立の炎に一時的にかけられた水に過ぎなかった。特に、最大の頼みであった武田信玄の死という致命的な情報を知らぬまま、義昭は信長への反撃の機会を窺っていた。そして夏、両者の対立は再び燃え上がり、今度こそ室町幕府の息の根を止める最後の戦いの火蓋が切られることになる。

第一節:再挙兵 ― 最後の拠点、槇島城へ(7月初旬)

  • 7月3日 :義昭は、正親町天皇の勅命によって成立した講和を一方的に破棄し、信長に対して再び兵を挙げた 17 。これは、信玄の死を知らず、依然として反信長勢力の蜂起に期待を寄せていた義昭の、あまりにも楽観的な、そして致命的な判断であった。彼は、防御に不安が残る二条御所を拠点とすることを避け、側近の三淵藤英らに少数の兵を与えて守らせる一方、自らは幕府奉公衆であった真木島昭光の居城、
    槇島城 へと移り、そこに立て籠もった 22
  • 槇島城は、当時の宇治川と、広大な遊水池であった巨椋池の水系に浮かぶ中州に築かれた城であった 22 。四方を水に囲まれたその立地は、小規模な軍勢による攻撃を防ぐには最適な天然の要害であり、義昭はこの城を難攻不落の拠点と信じて疑わなかった 19 。しかし、この時の義昭の兵力はわずか3,700余り。彼が対峙しようとしている相手が動員する軍勢の規模を、完全に見誤っていたのである 22

第二節:信長の神速 ― 巨大船による琵琶湖渡航

義昭再挙兵の報は、ただちに岐阜の信長のもとへ届けられた。信長の対応は、春の陣をさらに上回る神速ぶりであった。

  • 7月6日 :信長は、春の陣の教訓から予め近江・佐和山で建造させていた巨大な軍船を動かした。当時の記録によれば、その船は全長三十間(約54メートル)、幅七間(約12メートル)、百挺もの艪を備えていたとされ、まさに湖上の要塞とも言うべきものであった 22 。信長はこの大船に先陣を乗せて琵琶湖を渡らせ、自らも同日に乗船して一気に対岸の坂本へと上陸した 22 。陸路を行けば数日を要する道のりを、わずか一日足らずで踏破したのである。
  • 7月7日 :京の妙覚寺に本陣を置いた信長は、まず手始めに義昭が空にした二条御所を包囲した。主君を失い、信長の大軍の威容を目の当たりにした御所の守備兵たちは、戦意を喪失。抵抗を続けていた三淵藤英を除き、武将や公家衆は翌8日には次々と降伏した 22
  • 7月12日 :最後まで抵抗していた三淵藤英も、織田方の重臣・柴田勝家の説得に応じ、ついに二条御所を開城。信長は、まず義昭の京都における拠点を完全に無力化し、後顧の憂いを断ったのである 22

第三節:宇治川渡河と総攻撃(7月16日~18日)

  • 7月16日 :二条御所を制圧した信長は、満を持して槇島城への進軍を開始する。この時、彼が動員した軍勢は、織田軍団の主だった武将が総動員されており、その数は 総勢7万 とも伝えられる、まさに圧倒的な大軍であった 1
  • 7月18日 :織田軍は槇島城の目前を流れる宇治川に到達した。『信長公記』によれば、当日の宇治川は水かさが増しており、兵たちが渡河をためらうほどであったという 26 。しかし信長は、「ぐずぐずするなら自分が先陣を切る」と一喝し、かつて源平合戦で繰り広げられた先陣争いの故事にならい、軍を二手に分けて強引に渡河を敢行させた 27
  • 午前10時頃、平等院方面と五ヶ庄方面の二箇所から宇治川を押し渡った7万の軍勢は、しばしの休息の後、中州に浮かぶ槇島城へと殺到した 22 。城から打って出てきた義昭方の足軽隊は、佐久間信盛や蜂屋頼隆らの部隊によって瞬く間に蹴散らされ、織田軍は城を完全に包囲 22 。鬨の声を上げながら城の外構を次々と乗り破り、槇島一帯に火を放ちながら、怒涛の総攻撃を開始した 22

第四節:あまりにも早い終幕 ― 義昭の降伏

義昭が最後の希望を託した槇島城の堅固さは、旧時代の価値観における「難攻不落」に過ぎなかった。7万という、それまでの常識を覆す規模の軍勢による波状攻撃の前には、全くの無力であった。

  • 7月18日中 :総攻撃が開始されてから、わずか半日。城の各所から火の手が上がり、本城にまで織田軍が迫るに及んで、義昭は完全に戦意を喪失。恐怖に駆られた彼は、織田軍の攻勢に耐えきれず、信長に降伏を申し入れた 22
  • 戦いはあまりにも一方的に、そしてあっけなく終わった。義昭は敗軍の将として信長の眼前に引き据えられた。信長は義昭の命までは奪わなかったが、降伏の条件として、当時まだ2歳であった嫡男・義尋を人質として差し出させた 17 。ここに、足利義昭の将軍としての抵抗は完全に終わりを告げた。

この槇島城の戦いは、単なる兵力差による勝利ではない。義昭の動きを即座に察知する「情報収集能力」、巨大船を用いて大軍を迅速に輸送する「兵站・輸送能力」、そして7万もの兵を動員する「組織力」。これら全てにおいて、信長は義昭を圧倒していた 22 。旧来の権威と小規模な城の防御力に依存した義昭の戦略は、信長が提示した近代的で合理的な戦争のあり方の前に、脆くも崩れ去ったのである。義昭が槇島城に籠城した時点で、既に勝敗は決していたと言っても過言ではない。


【表2-2】槇島城の戦いにおける両軍の兵力比較

項目

織田軍

室町幕府軍(足利義昭方)

総大将

織田信長

足利義昭

推定総兵力

約70,000

約3,700

主要構成武将

柴田勝家、丹羽長秀、佐久間信盛、羽柴秀吉、明智光秀、稲葉一鉄、細川藤孝、荒木村重など織田軍の主だった武将が総動員

真木島昭光、幕府奉公衆など

出典: 1


第三章:追放と幕府の終焉

槇島城の降伏は、単に一つの戦いが終わったことを意味するのではなかった。それは、足利尊氏以来、約240年にわたって日本の中心に存在し続けた室町幕府という統治機構が、その実質的な機能を完全に停止した瞬間であった。義昭の追放と、それに続く信長による新たな秩序構築は、時代の大きな転換を象徴する出来事であった。

第一節:将軍の流浪 ― 権威失墜の旅路

  • 7月19日 :降伏の翌日、足利義昭は槇島城を退去させられた。信長は、後の豊臣秀吉である木下藤吉郎らに警護を命じ、義昭を河内国の若江城へと送らせた 22 。若江城の城主は三好義継であり、彼は義昭の妹婿にあたる人物であった 28
  • しかし、この追放の旅路は、義昭の権威が完全に地に堕ちたことを天下に示す、屈辱的なものとなった。槇島城を出て枇杷庄(現在の京都府城陽市)に向かう途中、一行は 一揆の襲撃 を受けたのである。落ち武者狩りの対象と見なされた前将軍は、身の回りの品々である「御物」をことごとく略奪されるという、前代未聞の恥辱を味わった 22 。もはや彼を「公方様」として敬う者はなく、ただの敗軍の将に過ぎないという事実が、この事件によって白日の下に晒された。
  • その後も義昭の流浪は続く。三好義継もやがて信長に討たれると(同年11月)、義昭は若江城を脱出し、和泉の堺、紀伊の興国寺へと、庇護者を求めて各地を転々とする日々を送ることになる 12 。京都という権威の源泉から切り離された将軍は、もはや実質的な力を失った存在であった。

第二節:信長の戦後処理 ― 新時代の宣言

義昭を京から追放した信長は、間髪入れずに矢継ぎ早の戦後処理に着手する。その一連の動きは、旧時代の終焉と、自らが主導する新時代の到来を内外に強く印象づけるものであった。

  • 7月28日 :信長は朝廷に強く働きかけ、元号を「元亀」から**「天正」**へと改元させた 22 。信長包囲網に苦しめられ、義昭との対立が続いた「元亀」という時代を過去のものとし、自らが天下を平定する新たな時代の幕開けを宣言する、極めて象徴的かつ政治的な意味合いの強い行為であった。
  • 8月~9月 :信長は、義昭追放の勢いを駆って、信長包囲網の残党狩りを開始する。返す刀で越前に侵攻し、8月には長年敵対してきた 朝倉義景 を一乗谷に攻め滅ぼした。さらにその直後、軍を北近江に向け、9月には浅井長政の居城・小谷城を陥落させ、長政を自刃に追い込んだ 22 。これにより、信長包囲網は完全に崩壊し、畿内における信長の覇権は揺るぎないものとなった。

信長は、義昭を殺害するという選択をしなかった 19 。これは単なる温情ではなく、計算され尽くした政治的判断であった。「将軍殺し」という汚名は、旧来の権威を重んじる地方の有力大名からの反発を招きかねず、天下統一事業の障害となりうる。一方で、義昭を「追放」するという形を取ることで、彼の権威を無力化しつつも、自らは「天下の秩序を乱した将軍を追放し、都に平和を取り戻した」という大義名分を保つことができた。世間の評判を常に意識していた信長ならではの、冷徹な政治的判断であった 22

第三節:京都統治体制の確立 ― 村井貞勝の登場

将軍という伝統的な統治機構を京都から排除した信長は、自らの権力に根差した新たな統治体制を確立する必要に迫られた。そこで白羽の矢が立ったのが、腹心の文官(吏僚)であった 村井貞勝 である。

信長は貞勝を 京都所司代 に任命し、京都の統治を全面的に委任した 34 。京都所司代は元々室町幕府の役職であったが、信長が復活させたこの役職は、その意味合いが大きく異なっていた。貞勝の任務は、朝廷や公家との交渉窓口、寺社勢力の統制、市中の治安維持、そして庶政全般に及び、彼はまさに信長の代理人として京都を統治する「都の総督」となった 37

貞勝は、内裏の修復を町衆を巻き込んだ祭りのような形式で行い人心を掴む一方で、御所内での無礼な振る舞いを厳しく取り締まるなど、硬軟両様の政策で京都の秩序を回復させていった 38 。これにより、京都は足利将軍家の支配から、織田政権の直接的な支配下へと完全に移行し、信長の天下統一事業における最重要拠点として機能していくことになる。

終章:歴史的意義と「滅亡」の再定義

元亀四年(1573年)7月18日の足利義昭の追放は、一般に「室町幕府の滅亡」として知られている。しかし、この「滅亡」という言葉が何を意味するのかを歴史的に考察すると、その定義は一様ではない。義昭の追放後の動向と、彼が将軍職を保持し続けたという事実が、この歴史的評価に複雑さをもたらしている。

第一節:「鞆幕府」という亡命政権 ― 抵抗の継続

京都を追われた義昭であったが、朝廷から征夷大将軍の職を解任されたわけではなかった 39 。彼は依然として名目上の将軍であり、その権威は、信長の支配が及ばない地域においては未だ有効であった。

天正四年(1576年)、各地を流浪した義昭は、西国の雄・毛利輝元を頼り、その勢力下にあった備後国 (現在の広島県福山市鞆の浦)に拠点を移す 11 。毛利氏の強力な庇護のもと、義昭はここから反信長活動を執拗に継続した。この鞆における義昭の政権は、幕臣や反信長派の大名の子弟ら100名以上を擁し、将軍の命令書である奉行人奉書を独自に発給するなど、一定の政治的実体を持っていたことから、一部の研究者によって「

鞆幕府 」と呼ばれている 41

毛利氏にとって、将軍・義昭を擁立することは、信長との全面対決に臨む上で、自らの戦いを正当化する絶対的な「大義名分」を得るという大きな戦略的価値があった 43 。一方の義昭にとっても、毛利氏の軍事力は、幕府再興という夢を繋ぐ最後の希望であった。こうして両者は利害を共有し、義昭は本能寺の変で信長が倒れるまで、反信長勢力の精神的支柱として存在し続けたのである。

第二節:室町幕府はいつ滅亡したのか? ― 1573年説と1588年説

「室町幕府の滅亡」の時期については、歴史学的に複数の見解が存在する。

  • 1573年(天正元年)説 :これが最も一般的かつ広く受け入れられている見解である。足利義昭が京都から追放されたことにより、室町幕府は中央政権としての統治能力と政治的実体を完全に喪失した。したがって、この時点をもって「 事実上の滅亡 」と見なすのが妥当であるとする説である 22
  • 1588年(天正16年)説 :一方、義昭が将軍職を保持し続けたという事実を重視する見解もある。『公卿補任』などの記録によれば、義昭は天正十六年(1588年)1月13日、豊臣秀吉の天下統一が確定的となった後、聚楽第で秀吉と共に参内し、正式に将軍職を朝廷に返上したとされている 39 。この時点をもって、室町幕府は名実ともに完全に終焉したとし、これを「
    名目上の滅亡 」とする説である。

結論として、1573年は「中央政権としての室町幕府の機能停止」という画期であり、1588年は「足利将軍という職位そのものの公式な終焉」を意味すると言える。戦国時代という動乱期においては、実権を失った時点で事実上滅亡したと捉える1573年説が、歴史の実態をより的確に表していると考えられる。

第三節:歴史的結論 ― 権威から実力へ

足利義昭の追放と室町幕府の事実上の滅亡は、応仁の乱(1467年)以降、百年以上にわたって進行してきた幕府権威の形骸化が、最終的な結末を迎えたことを示す出来事であった 45 。かつては諸大名を統率し、日本全土に影響力を持っていた足利将軍の権威も、戦国乱世の中で次第にその輝きを失い、有力大名の後ろ盾がなければ存続すらおぼつかない存在となっていた。

そして、織田信長や豊臣秀吉といった新たな時代の覇者が登場するに及んで、その存在価値は決定的に失われた。彼らは、将軍の権威に頼ることなく、自らの強大な軍事力と経済力を背景に、服属した大名に所領を安堵し、領国間の紛争を調停するなど、将軍以上に具体的な「利益」を与える存在となったのである 45 。もはや大名たちにとって、足利将軍は頼るべき主君ではなく、利用すべき権威、あるいは克服すべき旧弊でしかなかった。

1573年の事変は、日本の統治原理が、血統や家格といった伝統に根差す旧来の「権威」から、軍事力と経済力に裏打ちされた純然たる「実力」へと、不可逆的に移行したことを天下に示した、戦国時代における最大の転換点の一つであった。それは、一個人の追放劇に留まらず、一つの時代が終わり、全く新しい時代が幕を開けたことを告げる、歴史的な分水嶺だったのである。

引用文献

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